木曽義仲の年表 カウンター

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西暦   干支 和 暦  月 日  年齢  内    容  
250年ごろ          景行天皇の御代に日本武尊が東征された帰途伊那の園原から神坂村湯舟沢の神坂峠を越えてきたと伝えられている。 
           この国は山高く谷幽し。翠(あおき嶽万)(とほく)重なれり。人杖倚(つか)ひて升(のぼ)り難し。巌憸(さか)しく磴(かけはし)紆(めぐ)りて、長(たか)き峯(たけ)数千(ちぢあまり)馬頓轡(なづ)みて進(ゆ)かず。(日本書紀)
645年 乙巳 大化     大化の改新
645年~
654年
乙巳~
甲寅 
大化元年~
白雉5年
6月14日    第36代孝徳天皇
650年 庚戌  白雉      
655年 乙卯  斉明元年      
655年~
661年
乙卯~
辛酉 
斉明元年~
斉明7年
1月3日   第37代斉明天皇
661年~
671年
辛酉~
辛未 
斉明7年~
天智10年
7月24日   第38代天智天皇
662年 壬戌 天智      
663年 癸亥        天智天皇が送った日本軍は新羅・唐の連合軍と百済の白村江で戦ったが敗れた。敗因は騎馬軍団と水軍の劣勢にあった。そこで馬政が整備され、政府は直接馬産、馬の育成と調教に乗り出した。天皇は軍事を扱う兵部省に馬政を担当させた。
671年~
672年
辛未~
壬申 
天智10年~
弘文元年
12月5日    第39代弘文天皇
672年 壬申  弘文天武      壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子の軍隊に勝ったのは科野国伊那郡と美濃国の騎馬軍団の支援があったからだといわれている。
673年~
686年
癸酉~
丙戌 
弘文2年~
朱鳥元年
2月27日   第40代天武天皇
 685年          天武天皇の詔勅により二十年目ごとに建て替えられることになっていた伊勢の神宮材は伊勢の神路山や紀州の大杉山等から伐り出していた。
686年~
697年
丙戌~
丁酉
朱鳥元年~
持統11年
9月9日    第41代持統天皇
687年 丁亥  持統      
697年~
701年
        御嶽山剣が峰山頂に御嶽神社奥社がおかれた。御嶽山は古来駿河の富士、加賀の白山と並ぶ霊山として知られている。
697年~
707年
丁酉~
丁未 
文武元年~
慶雲4年
8月1日    第42代文武(もんむ)天皇
701年 辛丑  大宝     大宝律令制定
大宝令指定の「近都牧」は摂津国など十三ヵ国に十七牧が置かれた。
           大宝の律令により定められた官位表
正一位 太政大臣
従一位
正二位 左・右大臣
従二位
正三位 大納言 征夷大将軍
従三位 中納言
正四位
従四位
正五位
従五位
正六位
従六位  以下略
          大学寮が制度として確立した。奈良時代には文章、明法の二道だったが、平安時代には明経、明法、文章、算道の四道となった。
                国ー郡ー里
702年 壬寅  大宝2年 12月10日    美濃の国木曽は『吉蘇』といい北の境峠を越え小木曽、吉田、柏原、大原、伊谷の官道を南に下り神坂の峠に至る木曽山中に山道が開ける。今の道路のように木曽川に沿った位置とは異なり山の中腹を縫うように造られていた。
[始めて美濃国に岐蘇の山道を開く](続日本紀)
  なかなかにいひもはなたで信濃なる
   木曽路のはしのかけたるやなそ 源頼光(拾遺和歌集)

「当時の官道は、美濃の坂本・中津川より二千二百四十メートルの恵那山を踰ゆ。所謂御坂のけんとて古歌に出づるものこれなり。これより園原・伏屋の里を経て下伊那郡飯田の南、阿智川の下流阿智原村に出で、北して伊賀良に至り、飯田を経、上伊那の南境片桐の駅を過ぎ、天竜川の西岸宮田に出で、諏訪郡三沢に至り塩尻峠をこえて、東筑摩郡堅石を過ぎ、保福寺峠を横切り、小県郡浦野に出で更に東して北佐久郡長倉村より碓氷峠を越えて、上野に出でしなるべし。日本武尊の通ぜられしといふもこの道なるべく、その後、国司往来一にこれによる。恵那山の嶮頗る甚しかりけるにや文武天皇大宝二年既に「始開美濃国木曽山道」とあり。」と「信濃大地誌」にある。
           馬籠ー妻籠ー御殿―与川―長野―池尻―掛橋―東野―吉野―徳原―川上―大原―宮の越―菅―小木曽―境峠―奈川ここで飛騨から野麦峠を越えて松本に通じた官道に結び付いたもののようであると森田孝太郎氏は木曽史話に書いてある。
           大宝開道以前においても木曽西街道といわれる
坂下―田立―柿其ー殿ー小川―才児―二子持ー和田―田中―本洞沢をさかのぼり二本木ー橋詰―小野―中幸沢―菅―小木曽の道があった
                続日本紀」:始めて「岐蘇山道」を開く・・・・「キソ」=岐蘇=吉蘇=木曽の初見
      12月    続日本紀、文武天皇大宝二年十二月に、始て美濃国岐蘇山道を開くよし記せり。昔は美濃に属せしなるべし。昔信濃美濃二国の間、嶮岨にして通路なかりしかば、此時始てかけはしをかけて通路出来る事、又続日本紀元明天皇記にも見えたり。(貝原益軒の木曽路之記)
704年 甲辰  慶雲
大宝4年
     全国の国印が一斉に鋳造されたさい国名に用いる文字が改定されたのを契機にそれまで「科野」と書いたものを「信濃」に変えたと考えられている。
707年 丁未  慶雲4年     「続日本紀」によると二十三ヵ国に三十五の「国牧」が設置されている。
707年~
715年
丁未~
乙卯 
慶雲4年~
和銅8年
7月17日   第43代元明天皇
708年 戊申  和銅      
710年~
784年
庚戌~
甲子 
和銅3年~
延暦3年
    奈良時代になると「馬寮」という馬政担当の部局が設けられた。
711年 辛亥  和銅4年     吉井町には新たに多胡郡を設けたことを記した石碑(多胡碑)がある。
713年 癸丑  和銅6年 7月7日    「美濃信濃二国の堺径道嶮岨往還艱難仍吉蘇路を通ず」(続日本紀)
『続日本記』に木曽谷に道を開くのに大宝2年から和銅6年までの11年間を要したとある。この道は木曽谷山中を東より縦貫する道であって『木曽古道記』は『古道』と呼んでいる。木曽路は東山道のバイパスとしてあけられ馬屋はない。
702年の岐蘇山道と713年の吉蘇路は同じ道とする説と別の道とする説の2通りの解釈があるようだが714年に『続日本記』は美濃守従四位下笠朝臣麻呂等が吉蘇路を通ずるを以って賞を賜ったことを記述しているため同一の道で工事の開始と完成の記事であるとする説のほうが声が高いとのことである。
                「続日本紀」:「吉蘇路」を通ず
      5月   諸国諸郷に好字をつける。「科野」が「信濃」となる。
714年 甲寅  和銅7年 2月   『続日本記』は美濃守従四位下笠朝臣麻呂等が吉蘇路を通ずるを以って賞を賜ったことを記述している。美濃守笠朝臣麻呂は功封七十戸、功田六町6を与えられている。木曽は美濃国の所管だったことがわかる。
715年 乙卯 霊亀元年      国ー郡ー郷ー里
 715年~806年    奈良時代     木曽は美濃国恵那郡のうち
715年~
724年
乙卯~
甲子 
霊亀元年~
養老8年
9月2日    第44代元正天皇
717年 丁巳  養老元年      
718年 戊午  養老2年     護国八幡宮(埴生八幡宮)は九州の宇佐八幡宮の分霊を勧請したといわれる
721年 辛酉  養老5年     信濃国を割いて諏訪の国を置く。このころ、集落に掘立柱建物が普及する「。飯田部卿の諏訪国境考に、諏訪国の範囲は、今の佐久・小県・筑摩・伊那・諏訪に亘れるなるべしと論じ、云々」と「信濃大地誌」にある。
724年 甲子 神亀      
724年~
749年
甲子~
己丑 
神亀元年~
天平21年
2月4日    第45代聖武天皇
729年 己巳  天平元年      
731年 辛未  天平3年      信濃国と諏訪国再び合併。
741年 辛巳  天平13年     国分寺建立の詔に基づき、後に上田盆地に信濃国分寺・国分尼寺が建立される。
749年 己丑  天平感宝      
749年 己丑  天平勝宝      
749年~
758年
己丑~ 
戊戌
天平勝宝元年

天平宝字2年
7月2日     第46代孝謙天皇
750年 壬辰 天平勝宝2年     筑摩郡山家郷の人小長谷部尼麻呂、調庸布を献上。
754年   天平勝宝6年  2月   わが国最古の歌集である萬葉集に信濃の防人が北九州に徴用されていく際よんだと思われる一首がある。
   千早ふる神のみ坂にぬさまつり
       いはふ命はおもちちかため

            埴科郡主張神人部子忍男
755年 乙未  天平勝宝7年     信濃の国の防人、筑紫に向かう。防人の歌を残す。
757年 丁酉  天平宝字      
758年~
764年
戊戌~
甲辰 
天平宝字2年

天平宝字8年
8月1日   第47代淳仁(じゅんにん)天皇
764年~
770年
甲辰~
庚戌 
天平宝字8年~
神護景雲4年
10月9日    第48代称徳天皇
765年 乙巳 天平神護      
767年 丁未  神護景雲      
768年 戊申       このころ、信濃国府を小県郡から筑摩郡に移す。
770年~
781年
庚戌~
辛酉 
宝亀元年~
宝亀12年
8月4日    第49代光仁(こうにん)天皇
775年 乙卯  宝亀6年     御嶽山の東麓一合目の黒沢にある里社本社創建
       6月13日   信濃守石川朝臣望足が御嶽に大巳貴命、小彦名命の二神を祭って疫病よけはらいを祈ったと御岳縁起(天正廿年1592年にかかれたもの)にある。
781年~
806年
辛酉~
丙戌 
天応元年~
延暦25 
4月3日   第50代桓武天皇
782年 壬戌  延暦元年      
794年 甲戌 延暦13年      桓武天皇が平安京に都を移す。平安時代
794年

1192年
甲戌~
壬子 
延暦13年~
建久3年 
     平安時代に入ると馬寮(めりょう)は左馬寮(さめりょう)と右馬寮(うめりょう)に改組された。「御牧」が甲斐に三牧、信濃に十六牧、上野に九牧、武蔵に四牧、計三十二牧が開かれている。国牧はその一部が東関東にもあったが主として西日本・九州に置かれていた。牧場は広大な農地を必要とするが、開発の進んだ西日本では、牧場の敵地が少ないため近都牧や国牧の面積は小さかった。信濃の国の十六の御牧は左馬寮に属することになった。馬寮の主要な任務は諸国における御牧など国営牧場の管理と宮中で用いる馬の飼育と調教であった。
平安時代、木曽には大吉祖庄のほか大吉祖庄の南に小木曽庄と現馬籠付近の遠山庄などの荘園が知られている。
797年         木曽の文字は「続日本紀」によると「岐蘇」「危村」「吉蘇」とある。
 806年~1190年    平安時代     奈良時代以降9世紀にかけて「県坂山岑」以南への信濃側からの進出・・・・・考古学的所見 
806年~
809年
丙戌~
己丑 
大同元年~
大同4年
3月17日    第51代平城(へいぜい)天皇
806年~
810年
丙戌~
庚寅
大同年間     信濃大地誌に[平城天皇大同中、伝教大師、衆生化道の為め、東国に下り、信濃の険を過ぎ、山中旅店稀なるを歎き」とある。
809年~
823年
己丑~
癸卯 
大同4年~
弘仁14年
4月1日    第52代嵯峨天皇
810年 庚寅     弘仁元年     藤原冬嗣が藤原氏子弟の教育機関『勧学院』を創設する。
          蔵人は律令制の令で定められた以外の官職でこの年創設された。天皇直属の機関で、詔勅の発布や訴訟など、政治に深く関わりをもった。
815年 乙未  弘仁6年     最澄、神坂峠越えの旅人の苦難を知り神坂峠の麓に広済院(美濃側)・広拯院(信濃側)という旅人救済の施設を設ける。神坂峠は下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市との境、伊那谷と木曽谷とを南北に隔てる木曽山脈の中間鞍部に位置する。神坂峠越えは一日がかりのそれも命がけの行程で東山道随一の難所であった。
820年   弘仁11年     文章博士は文章道の教官だが、文章道の地位は次第に高まり、この年明経博士を抜いて従五以下相当官となり学者の登竜門となった。
821年 辛丑  弘仁12年     藤原冬嗣が藤原氏のための観学院を京都に立てる。
823年~
833年
  弘仁14年~
天長10年
4月16日    第53代淳和(じゅんな)天皇
833年~
850年
  天長10年~
嘉祥3年
2月28日    第54代仁明(にんみょう)天皇
848年   嘉祥      
850年~
858年
  嘉祥3年~
天安2年
3月21日    第55代文徳(もんとく)天皇
851年   仁寿      
854年    斉衡    
857年   天安      
858年~
876年
  天安2年~
貞観18年
8月27日   第56代清和天皇
859年

876年
   貞観1年~
貞観18年
    木曾地方には岐蘇山道が開発され、当時は美濃の国に属していた。隣国である信濃では、松本の国府にも近いこの地を信濃の国に帰するものであると主張し、両国で境界紛争を生じ、中央政府は貞観年中国境検察使を現地に派遣して調査した。
 860年頃    貞観年間      吉蘇、小吉蘇は恵那郡と確認されている。
865年   貞観7年     「望月御牧 中仙道望月駅近傍原野の名なり。昔は、例年勅を奉じて名馬を紫宸殿に奉り、天覧に供するを例とせり。貞観七年の制に拠れば、信濃の牧馬は、八月十五日を以って之を貢ぐと、これ牧に望月の名を負はせし起こりなるべし。」と、「信濃大地誌」にある。
          「信濃大地誌」に「望月の駒の名高く京師に貢し古歌にも屢(しばしば)見えたりしが、その後衰へて亦昔日の盛りを見ず。然れども木曽の駒は、健脚を以ってその名高く、千曲川上流地方の川上の馬と共に近年改良を圖り、良馬の産出漸く増加す。」とある。
872年   貞観14年     菅原是善が六十一歳で参議に任ぜられた。
876年   貞観18年     信濃の国の御牧における飼育馬数は二二七四で一牧あたり一四二頭である。この数値には育成中の当歳馬から四歳馬まで含まれていなかったと思われる。すべてを加えると信濃の御牧における飼育頭数は六千頭近くなる。古代信濃の国では全国的にみても馬産の先進地であった。御牧で生産された信濃馬は、日本第一の駿馬として有名な望月駒だけでなく朝貢馬として高い評価を得ていた。このほか東山道の駅馬(はやま)・伝馬(つたわりうま)などの交通機関に用いられた。軍事上の騎馬は、馬がわが国に導入された古墳時代から戦争に使われてきた。また農耕・運搬などに馬が使用され、馬の厩肥は牛よりも肥効が高いので珍重されてきた。古代から明治前期まで、わが国で飼われていた馬は、主として蒙古馬系といわれる中型馬である。
876年~
884年
  貞観18年~
元慶8年
11月29日   第57代陽成天皇
877年    元慶元年      
879年    元慶3年 9月4日   鉢盛山の分水嶺を国境として、それ以南一帯の木曾郡の大半を美濃の国と確認する判決を下したことが『日本三代実録』に載っている。(「美濃・信濃領国の国境を懸坂上岑を以って境界と定む』とある。)
                「日本三代実録」:「・・・・吉蘇小吉蘇両村、是恵奈郡絵上郷之地也」
           信濃・美濃の国境=県坂山岑(鳥居峠か)
884年~
887年
  元慶8年~
仁和3年
2月4日   第58代光考天皇
885年   仁和元年      
887年~
897年
  仁和3年~
寛平9年
8月26日    第59代宇多天皇
889年   寛平元年      
897年~
930年
  寛平9年~
延長8年
7月3日    第60代醍醐天皇
898年   昌泰       
901年   延喜元年     三代実録には「吉蘇」とある。
905年   延喜5年     「延喜式」は弘仁式・貞観式以降の律令の施行細則を取捨・集大成したもので醍醐天皇の勅により藤原時平・タダ平らが編集した。
923年   延長元年      
927年   延長5年  12月26日   『延喜式』成立。『延喜式』によると信濃国の御牧は諏訪郡に三牧(岡谷、塩原、山鹿)伊那郡に三牧(平出、笠原、宮所)、筑摩郡に二牧(埴原、大野)安曇郡に一牧(猪鹿)高井郡に三牧(笠原、高位、大室)、小県郡に二牧(新治、塩原)佐久郡三牧(望月、長倉、塩野)が置かれていた。塩原牧は諏訪小県両群に笠原牧は高井伊那両群にあり諸説がわかれている。朝廷の料馬を飼育する牧場である勅使牧は甲斐・信濃・武蔵・上野の四カ国に集中していた。
信濃にあった十六の御牧(勅使牧)のうち最も規模が大きく、「望月の駒」といわれるほどの優れた良馬を生産していたのが佐久郡の望月牧であり日本でも有数の官牧であった。平安中期以降望月牧の牧官であった滋野氏が武士化し、その一族の中から、望月・海野・根津等の武士団が分枝している。中世末から馬産地となった木曽地方に御牧が設けられていないのは古代木曽地方は美濃の国恵那郡に属していたからである。美濃国には御牧が置かれることはなかった。
930年~
946年
  延長8年~
天慶9年
9月22日   第61代朱雀天皇
931年   承平      
 931年~
938年
   承平年間      承平年間に編纂された「倭名類聚抄」によると信濃の国の項には「信濃の国国府は筑摩郡にあり」の注記がある。
その国府の位置は現在松本市里山辺の総社付近とする説が有力だという。山本博文著「あなたの知らない長野県の歴史」より。
938年   承平8年 2月29日      平将門と平貞盛の戦により信濃国分寺が焼失する。
小県郡国分寺付近(上田市)で平将門軍と合戦した平貞盛は、朝廷によって常陸の国押領使に任命され東国に派遣された貴族である。将門を滅ぼした貞盛はその功績で立身出世をとげこの子孫が平忠盛や清盛の系譜へとつながっていく。後に義仲と戦う越後国の城助職は貞盛の子維茂(これもち)の子孫という。維茂は、戸隠に残る鬼女紅葉の伝説に鬼女を退治した武士として登場する。
938年   天慶元年      
939年   天慶2年 11月21日   平将門の乱
940年   天慶3年     古くから木曽路が軍事上重要視されていた一つの証左として、平将門の乱に際し、木曽路を抑えて固めるために朝廷より岐曽道使なるものが派遣されて警固をしていた記録がある。
          2月25日     平将門の乱の終息
941年   天慶4年 11月10日   国ごとにお馬五十匹の追加があり佐々貴晴樹なる人が望月牧の二十匹、新治牧の十匹を率いて牽進
944年   天慶7年 5月6日   新治牧の駒が望月の駒とともに宮中の競馬の儀に加わる。
946年~
967年
  天慶9年~
康保4年
4月20日    第62代村上天皇
947年   天暦      
950年頃   天暦年間     木曽は美濃の国府より遠いため、吉蘇の内、大吉祖すなわち木曽川の東側および新開村以奥を信濃の国筑摩郡崇賀郷に編入された。(郷はもと里と移し、五〇戸を単位として編成された行政上の最低単位であった。)
957年   天徳      
961年   応和      
964年   康保元年      
967年~
969年
  康保4年~
安和2年
5月25日    第63代冷泉天皇
968年   安和元年      
969年~
984年
  安和2年~
永観2年
8月13日    第64代円融天皇
970年   天禄      
971年   天禄2年     安寧天皇の第三皇子磯城津彦命の流れを汲む中原兼遠は円融天皇から中原姓を賜りさらに朝臣を許されたといわれる。
973年   天延      
976年   貞元      
978年   天元      
983年   永観元年      
984年~
986年
  永観2年~
寛和2年
8月27日   第65代花山(かざん)天皇
985年   寛和元年      
986年~
1011年
  寛和2年~
寛弘8年
6月23日    第66代一条天皇
987年   永延      
989年   永詐      
990年   正暦      
995年   長徳      
999年   長保      
1000年頃          御坂峠越え官道が木曽山道へ移る
1004年   寛弘元年      
1008年   寛弘5年     今昔物語に平の正家の説話などが記される
1011年~
1016年
  寛弘8年~
長和5年
6月13日    第67代三条天皇
1012年   長和元年      
1016年

1036年
  長和5年~
長元9年
1月29日    第68代後一条天皇
1017年   寛仁      
1021年   治安      
1024年   万寿      
1028年   長元元年      
1036年~
1045年
  長元9年~
寛徳2年
4月17日   69代後朱雀天皇
1037年   長暦      
1040年   長久      
1044年   寛徳元年      
1045年~
1068年
  寛徳2年~
治暦4年
1月16日   第70代後冷泉天皇
1046年   永承      
1051年         前9年の役始まる。源頼義・義家親子がその武功により源氏の礎をつくる。
1053年   天喜      
1058年   康平      
1062年         前9年の役終わる
1065年   治暦元年      
1068年~
1072年
  治暦4年~
延久4年
4月19日    第71代後三条天皇
1069年   延久元年      
1072年~
1086年
  延久4年~
応徳3年
12月8日    第72代白河天皇
1074年   承保      
1077年   承暦      
1081年   永保      
1084年   応徳元年      
1086年   応徳3年     後3年の役始まる。源義家は諏訪をはじめ各地の諸豪族の信望を得て『天下第一武勇之士』として昇殿を許される。
          藤原氏の摂関政治終わる。院政の時代に移る
1086年~
1107年
  応徳3年~
嘉承2年
11月26日    第73代堀河天皇
1087年   寛治       
1088年         後3年の役終わる
1094年   嘉保      
1096年   永長      
1097年   承徳      
1099年   康和      
1104年   長治     源頼政生まれる 
1106年   嘉承元年      
1107年~
1123年
  嘉承2年~
保安4年
7月19日    第74代鳥羽天皇
鳥羽天皇には、顕仁親王(のちの崇徳天皇)、雅仁親王(のちの後白河天皇)、躰仁親王(のちの近衛天皇)がいた。
1108年   天仁      
1110年   天永      
1113年   永久      
1118年   元永元年      平清盛 平忠盛の長男として生まれる
1119年         崇徳天皇誕生
1120年   保安元年      
1123年   保安4年     源義朝生まれる
1123年~
1141年
  保安4年~
永治元年
1月28日    第75代崇徳天皇
鳥羽天皇の父白河院が顕仁親王を寵愛し、鳥羽天皇を退位させて顕仁親王即ち崇徳天皇を即位させてしまった。
1124年   天治      
1126年   大治      
1127年         後白河法皇生まれる
1131年   天承      
1132年   長承      
1135年   保延      
1139年   保延5年 5月18日   白河院が亡くなると鳥羽院は院政をひいた。鳥羽院の中宮(藤原得子(なりこ)のちの美福門院徳子)が躰仁親王(近衛天皇)を生むとこれを寵愛し、皇太子とした。
      8月ころ   義仲の父、六條判官源為義の次男源義賢(源義朝の異母弟)帯刀先生(たてわきせんじょう)(躰仁親王を警護する東宮御所警護の舎人(武官)の長官)となる。
       8月17日   躰仁親王立太子(生後3ヶ月)
1141年         源義平生まれる
    永治元年 12月7日   第76代近衛天皇即位(3歳)(近衛天皇の父君鳥羽上皇は同じ御子の崇徳天皇を譲位させて近衛天皇を即位させた。)
          義賢帯刀職解任(約2年半)
1142年   康治      
1143年   康治2年 6月   義賢の父六條判官源為義は大納言藤原頼長に仕える
          二条天皇生まれる
          中原兼遠この年より約7年間朝廷に仕え大隈守従五位下に任じられ文書生として朝廷の文書を司る仕事をする。
1144年   天養元年       康楽寺の開基・西仏坊(別名、幸長・道弘・浄寛・最乗坊信救・木曽大夫房覚明)は、清和天皇の後裔、海野小太郎幸ちかの子として信州小県郡海野庄現上田市大屋に生まれた。 
1145年   天養2年 7月9日   僧増証が鳥羽院庁により小河荘の支配権を認められる。
          源行家この年生まれたらしい
  久安元年     義仲の父義賢は秩父次郎大夫重隆の養子となり上野国多胡庄に館を構えた。多胡庄は現在の群馬県の南西部多野郡吉井町藤岡市付近にあった。
1146年   久安2年 2月    平清盛安芸守となる
1147年         源頼朝生まれる
1149年   久安5年     『玉葉』の著者九條兼実は九條家の始祖藤原兼実で藤原忠通の三男に生まれた。母は太皇太后宮大進藤原仲光の娘加賀局といわれる。
      7月    藤原頼長左大臣となる
          中原兼遠右小史に昇進(本朝世記)
1150年   久安6年 9月   藤原頼長、忠道と氏長者を争い頼長(弟)がなる
          源範頼この年生まれたらしい
1151年   仁平(にんぺい)元年      この年から治承2年(1178年)まで約28年間国司信濃守藤原清道が任地に赴かずこのため遙任の制に習い中原兼遠を信濃権守として国司に次ぐ地位を与えられ信濃の国府(現松本市)に住む。
          以仁王生まれる
1151年~
1153年
  仁平年中     大夫房覚明京都に上る
1153年     仁平3年      源義賢京都より上野国多胡郡多胡(現群馬県多胡郡吉井町)へ移住して館を構えた。源義賢の館跡と称する処が残っているが民家の宅地になってしまっているという。
                平忠盛が死に平清盛が後を継ぐ
1154年     仁平4年      河越重隆(秩父二郎重隆)は武蔵野国を統括するには源氏をいただき名分をはっきりしなければならないと考え源義賢に自分の娘を与え娘婿として住まわせその威光の力借りて武蔵野国の支配をしようと考え源義賢を大蔵宿(現埼玉県比企郡嵐山町大蔵)近くの大蔵館に入れた。(吾妻鏡ではこの年駒王丸生まれたとある。)秩父氏は武蔵留守所総検校職であり武蔵の国最大の武士団をひきいていた。 一族は武蔵の国からひろく関東へ勢力を伸ばし、一族が土地を拓き、開発領主となっていった。畠山氏や河越氏、渋谷氏など、名だたる一族が輩出した豪族である。義賢と秩父次郎大夫重隆の娘との間に生れたのが義仲の妹宮菊である。 
1154年    久寿(きゅうじゅ)元年  10月   改元
        1歳 駒王丸武蔵野国比企郡鎌形郷(現埼玉県比企郡嵐山町)で誕生(父は六条判官源為義の次男源義賢、母小枝御前は三位中将某の女で淪落して遊女となっていた。六條太夫重俊の女とも言われる。)(平家物語)鎌形には七個所の清水がありその一つ八幡神社の清水は義仲産湯の清水と伝えられている。義仲の長子義高をこの清水にちなんで『清水冠者』と呼んだといわれている。又義仲の妻山吹姫の創建したと伝えられる班渓寺があり、近くには木曽殿館と称する処もある。母は上野の国の多胡氏の娘ともいわれる
1155年   久寿2年 7月  2歳 近衛天皇崩御(17歳)
      7月24日    父鳥羽上皇母藤原璋子のちの待賢門院の第四皇子で29歳の雅仁親王が後白河天皇として即位
      8月16日~
8月19日
   大蔵の戦い源義朝と源義賢の兄弟は義賢が手に入れた比企郡の土地のことで反目しあっていた。源義朝(源義賢の兄)の長男悪源太義平(15歳)は畠山重能(重忠の父)や新田氏らを従え岡の屋敷(武蔵野国比企郡正代、現東松山市)を出て不意に武蔵野国比企郡大蔵館の源義賢を襲った。義賢と河越重隆討たれる。義平は後に鎌倉幕府を開く頼朝の異母兄である。源義朝は鎌倉にいたが義賢の勢いが盛んになるのを恐れて長子義平に襲わせ殺させたのである。父義賢横死のとき駒王丸は2歳であった。大蔵館の近く、覆い屋鉄格子の中に義賢の墓である凝灰岩で造られた五輪塔がある。
          源義平は義賢を討って合戦の事情を朝廷に報告するため京に上ったが後患を絶たんが為に駒王丸を探し出して害すべきと武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山庄(埼玉県大里郡川本町)を根拠としていた家人の畠山荘司重能(頼朝の臣、畠山重忠の父)に命じた。
          畠山重能(しげよし)は命を受けて駒王丸を探し出しはしたが元来重能は秩父重綱の孫であって義仲からは従兄弟伯父に当たる人であった。重能はわずか二歳の駒王丸を殺すに忍びなかった。
          ちょうどそこへ、京で義朝に仕えていた斉藤実盛(源為義、、源義朝に仕え、後平宗盛に仕える)が自分の所領である武蔵野国長井(現埼玉県大里郡妻沼町)に下りきたことを聞いて駒王丸の母に説いて実盛に養育のことを頼ませた。
          実盛はこれを承諾して手元に7日間置いたが東国の源氏の勢力圏内に置くことは危険に思い熟慮のうえ駒王丸の乳母(児玉貞近の娘であるという)の夫である信濃国木曾の中三権守中原兼遠に依頼することにした。中原兼遠は吉祖庄司兼経の三男である。(西筑摩郡誌)(『木曾参考』には但馬城崎の人とある。)中原氏は京都大江氏ともつながる朝廷の下級文官で、信濃権守(今で言う副知事)の役職にあったことから、当時信濃の国府があった筑摩郡周辺に拠点をおいていたと考えられる。(筑摩郡洗馬小曽部をこれに当てる説もある。)中原兼遠の妻は義仲の乳母でもあった。
          木曽には兼遠の異母兄木曽忠太兼氏、弥忠太兼貞が住んでいて信頼できるし駒王丸をかくまい育てるには最も都合のよいところだと兼遠は考えた。
          『諏訪の歴史』によると斉藤別当実盛から駒王丸を託された兼遠は駒王丸を信濃につれて帰り諏訪の下社に置いたが平氏全盛の世になったので危険を感じて木曽に隠したとある。
      12月13日 2歳 駒王丸畠山重能(畠山重忠の父)と斉藤別当実盛に助けられ実盛の妻(児玉氏の娘)の妹の夫と親しい信濃国権守中原兼遠のもと木曽の山下(現長野県木曽町新開栗本此の尻)に送られかくまわれ中原兼遠に養育される。
「このお子はまさしく源氏の正統、八幡太郎義家殿の四代の後胤にあたるお方。いまは親を討たれて孤児の境遇にあるが、いつの世か総大将におなりかわからない。兼遠がなんとでも養育申しましょう」兼遠はそう言って引き受けたと源平盛衰記の中に物語られている。
兼遠は義仲のたぐい稀なる天性を見抜きその才能を伸ばすべく文武両道を教え理想の武将の姿を描き実現させた。
現在の木曽町新開上田(古くは山下といった)には兼遠が勧請したと伝えられる手習天神社(古くは山下天神と呼ばれていたが義仲が幼少のころここで手習いをしたのにちなみ手習天神と呼ばれている。(『吉蘇志略』には山下天神というと書かれている。)と兼遠の屋敷跡といわれる場所がある。
中原兼遠の屋敷跡は天神川、木曽川、正沢川に囲まれた南北160メートル、東西600メートルの半島形の河岸段丘上にあって、自然の要害地で古城(ふるじょう)と呼ばれている。義仲は13歳で元服するまでこの屋敷で生活したといわれ『木曽中三権守殿』と刻んだ自然石の碑がたっている『兼遠塚』と呼ばれる。近くの田圃の中には何代目かの「義中元服の松』と呼ばれている松の木が一本ある。
            
    義仲養育の中原兼遠屋敷の碑(木曽町新開上田)
           
        義仲元服の松(木曽町新開上田)
          山村九代の代官蘇門はたびたび義仲にかかわりのあった場所を訪れている。上田にある駒王丸を育てた中原兼遠の屋敷跡を訪ねたときの詩が残っている。
兼遠宅址     兼遠の屋敷跡
原頭問樵者      原頭樵者に問う
言是舊館緃      言う是舊館の緃と
堂宇知何處      堂宇知らんぬ何れの処なるか
秋風動老松      秋風老松を動かす
野原で木こりに聞くと
ここが兼遠屋敷の跡だと言う
屋敷はどの辺にあったのだろうか
今は、秋風が年老いた松を揺するだけ
           義仲の兄(母は周防の守藤原宗季の娘といわれる)仲家は源三位頼政が養子とした源頼政は摂津の国(兵庫県)多田に土着した源頼光(義家、義朝などの祖の頼信の兄)の系統で多田源氏といわれ居所が京都の近くでもあるので武士の家にしては公家とのつながりが比較的多い宮廷武士の家であった。仲家は頼政の慈愛のもとに成人し平家全盛のときも養父のおかげで八条院蔵人になった。しかし六条蔵人仲家と称されるのは父義賢の母つまり仲家の祖母が六条太夫重俊の娘であったからなのかもしれない。仲家には仲光、仲賢の二人の子供がおり長子の仲光は九条判官代となり蔵人太郎仲光と呼ばれた。
1156年     7月2日   鳥羽法皇が没する。
1156年    保元元年 7月11日 3歳 保元の乱始まる。京の都で起きた皇室内部の対立による内乱。鳥羽法皇が崩御されると、その長子崇徳上皇と四子にあたる後白河天皇との兄弟対立が藤原頼長と忠道の貴族間の抗争の形で表面化した。
後白河天皇側には藤原忠通、藤原通憲(信西)、源義朝(源義賢の兄で源為義の長男)、源頼政、源義平、平清盛、平盛兼、平信兼らがつき、
崇徳上皇側には藤原頼長、源為義その子頼賢、源為朝、為仲、頼仲、平忠正(清盛の叔父)、時盛、長盛、家弘らがついた。海野家は滋野一族の根津氏望月氏の本宗にあたり後白河天皇方の源義朝軍に従い海野幸親は根津神平、望月重俊、根井大弥太行親とともに崇徳上皇方の鎮西八郎為朝が護る白河北殿の攻撃軍に加わった。後白河天皇側が勝利した。このとき崇徳上皇側の左大臣藤原頼長は、源為朝の夜討ちの戦法を退け翌朝正々堂々と戦うべしと主張しこれに反し後白河天皇側は源義朝戦法を採用し夜討ちを掛け一夜にして勝敗を決したのである。崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は敗死し、源為義、平の忠正は斬首され、源為朝は伊豆大島に流された。この結果、源氏、平家の武士団の台頭を著しくし、藤原氏の権勢を一挙に衰退させた。
1157年   保元2年     巴出生
      9月2日   僧定西、経筒を埋める(埴科郡坂城郷)
           駒王丸は兼遠の愛情に支えられてすくすくと成長した。兼遠子の次郎兼光や四郎兼平、駒王丸より三つ年下の巴たちを相手に、弓馬の道にいそしむ姿は、将来きっと立派な大将になるに違いない、と思わせるようになった。駒王丸とこれらの子達の関係を乳母子という。
1158年   保元3年 正月29日   九條兼実10歳にして元服昇殿。
           平維盛生まれる
       8月11日   第78代二條天皇に譲位して後白河上皇になって院政を開く。
1159年         源義経誕生
   平治元年 12月9日 6歳 平治の乱始まる源義朝は保元以来の院の内部対立を利用し藤原信頼と結んで平清盛の近親信西(藤原通憲)を血祭にあげ後白河上皇と二条天皇を幽閉した。平清盛は熊野詣のため留守であったが事件を知って熊野詣からとってかえしまたたくまに源義朝を破った。12月25日清盛は上皇・天皇を脱出させることに成功した。義仲の父義賢を討った源義朝の長子悪源太義平は敗北し北陸へ逃れたが京に舞い戻って捕らえられ四条河原で20歳で斬首され次男朝長は義朝と逃亡中深手を負って追いつけず父の介錯で16歳で命を絶ちほかの源氏一族もほとんど討たれひとり驕れる平家の世となる。木曽中太、弥中太も信濃勢の将として義朝軍として奮戦したが白河殿の戦いで負傷し弥中太と共に逃げ帰る。『保元物語』に木曽中太、弥中太の出陣が記録されている。源頼政は源氏でありながら平清盛方に味方し源義朝と戦い源氏側を滅亡させた。この功により平清盛は頼政を優遇してやがて三位まで昇進させた。
          源義朝は平治の乱に敗れて平清盛の軍勢に追われ鎌倉をさして逃げる途中、蟹江の漁民の助けで船に乗り移り知多半島突端の野間の庄へ渡る。
      12月26日   平清盛軍が源義朝軍を攻め勝利する。
義朝に味方した信濃武士ら敗れる。
          大夫房覚明朝廷に仕え勧学院の進士より文章博士となり蔵人に補せられる。
1160年    永暦元年 1月3日   源義朝(頼朝の父)は逃れ行く途中尾張の国野間庄でで長田庄司平忠致の裏切りにより討たれる。
      1月   悪源太義平は京に舞い戻って捕らえられ四条河原で20歳で斬首された。
      3月11日 7歳 源義朝の三男源頼朝は父にはぐれたため難を逃れたが、平宗清に捕われ斬られるはずのところ清盛の継母池禅尼の命乞いによって助けられ伊豆の蛭が小島に流され北条氏の監視下に置かれる。源頼朝14歳の時であった。
           源義朝の側室常盤御前は、今若、乙若の手をひき牛若を懐に抱いて大和の伯父を頼って落ちのびていった。助命されて鞍馬寺に預けられた牛若が後の源義経である。
                平清盛参議正三位(しょうさんみ)となる。武家出身として初めて公卿に列した。
1161年   応保元年     これより前海野通広が藤原氏の学荘である京都勧学院に学び文章博士になったという(平家物語)。比叡山黒谷で出家して最乗坊信救と名乗る。北陸をめぐり修行する。
出羽の国最上郡隴山寺で「倭漢朗詠集鈔」執筆。
1163年   長寛元年      
1164年   長寛2年     讃岐に流された崇徳院亡くなる
1164年

1166年
  長寛2年

仁安元年
    二條天皇(九條兼実内大臣)
1165年     6月25日   第79代六条天皇
          二条天皇死亡
1164年

1200年
  長寛2年

正治
    九条兼実が30数年の間書きとめた日記が「玉葉」である。九条兼実は摂政関白に進み博学をもって当代に重んじられた。『玉葉』はその資料的価値は藤原定価の『明月記』と並んで当代最高のものといわれる。
1165年   永萬元年     『日義村誌明治9年』によると徳音寺は村の亥の方に在り木曽義仲開基創建とある
          北陸宮誕生
1166年   仁安元年   13歳 中原兼遠が心をこめて育てた甲斐があって駒王丸は智・仁・勇の三徳備えた若武者に育った。京都の岩清水八幡宮にて元服(13歳)し木曽次郎義仲と称した。(平家物語)義仲の名は父に恥じずと父義賢と中原仲三の恩を忘れずと選んだのである。義仲の「義」は源氏の通字から、「仲」は兄・仲家にちなんで付けられたという説もある。(兄仲家は宇治の戦いで戦死)
           義仲が元服してからは宮の越の柏原の地に移ったらしい。
           義仲、柏原寺(真言宗)建つ
1166年

1186年
  仁安元年

文治2年
    高倉天皇、六條天皇(九條兼実右大臣)後白河院政
1167年   仁安2年    14歳 朝日が峯城築く
            元服後は兼遠の計らいで館を今の宮ノ越抱原(柏原・木曽町日義宮の越、旗挙げ八幡宮付近という)に築いて移り住んだ。この場所は大宝2年の古道が木曾谷につくられるとき官舎の建てられていたところに義仲は館を建てたことを『吉蘇古今沿革志』は伝えている。現在旗挙八幡と樹齢八百年以上の大欅がある。そして兼遠の子今井兼平、樋口次郎を臣事せしめ娘を側近に侍らせた。礼節に厚い兼遠は実兄の海野入道兼保の次女山吹姫を正室に迎えた。山吹は上野国藤原家国の娘ともいわれる。兼遠は義仲の将来の為に素地を作らんとして次郎兼光を伊那郡樋口に四郎兼平を筑摩郡今井に五郎兼行を恵那郡落合にいらしめ己は府中にあって国中の豪族と手を握り地盤を固めるのに腐心した。
          「木曽古道記」には[宮原。南宮の宮あり、名とす。木曽開道の時、官舎を建てられたる所なり。御殿・東野・徳原・宮原四箇所なりと。義仲主、太古の官舎の古趾に舘を建住居し給ひ、此館より北国へ発向し給へり」とある。ここには美濃の国の一の宮南宮神社が勧請されており、「古宿」の地字が残り、また宮の越の地名の起こりとなっているなど古くから開けたところであることを物語っている。
          宮の越の義仲の居館趾と伝承される丸畑と、木祖村地籍吉田の寺趾、荻曽の田の上からは平安末期の青銅製八稜鏡が出土しており、また田の上観音堂には鎌倉時代の聖観音像が祀られているなど、荘園文化の名残をとどめている。
          宮の越の前、徳恩寺村の川むかへ、左に八幡の宮有。是木曽義仲の社と云。其上の山を宮の尾と云。上に少平なる所みゆる。城のごとく也。少なるほり有と云。社の下に木曽義仲の屋敷の跡有。平地なり。横二町ばかり、長六町程有。其川むかへに右に徳恩寺有。巴が屋敷のあと爰に有。山吹が平も右に有。(貝原益軒の木曽路之記)
          宮の腰より三町程行ば、道より左に樋口次郎が屋敷の跡有。平地也。樋口が谷といふ。宮の腰より一里下に上田と云所あり。兼平が父木曽の仲三兼遠が屋敷の跡あり。木曽義仲の父帯刀き先生義賢、悪源太義平にころされし時、義仲二歳なりしを、母抱て信濃にくだり、木曽の仲三兼遠を頼しかば、兼遠養育してひととなりぬ東鑑に、木曽乳母仲三権守l兼遠とあり。(貝原益軒の木曽路之記)
          兼遠には手塚太郎光盛と根井大弥太幸親という二人の影武者がいた。諏訪下社の大祝金刺盛澄の舎弟である手塚光盛は奈良興福寺の学僧最乗坊信救(後の大夫坊覚明)を説き伏せて朝日が峰の地に諏訪大明神の奥社を作りかくれ城として義仲の武技、兵法など修練の場をしつらえた。
           大祝金刺盛澄は木曽義仲を婿にとって女の子をもうけ親子の縁は浅くない。(諏訪大明神絵詞)
          京都では平氏は隆盛し平清盛は内大臣に進んだ。正三位に叙せられた清盛は武士としてはじめて公卿の列に加えられた。
1167年   仁安2年 2月11日 14歳 平清盛太政大臣従一位という貴族の最高位を授けられた。
      「平家にあらずんば人にあらず」
このような清盛の栄進は部門の抬頭であって摂関貴族からみれば快いものではなかった。平清盛は51歳の時病気にかかり出家して浄海と改めた。『平家物語』は法名を浄海と改めた故に病たちどころに癒えたと書いている。
1168年     2月19日   第80代高倉天皇
1168年   仁安3年 10月19日 15歳 義仲の母小枝御前なくなる。柏原寺(はくげんじ)(徳音寺の前身)に葬る。柏原寺は山吹山の麓にあったが大夫房覚明(西仏上人)が日照山徳音寺と改め義仲の菩提寺として今に至る。義仲の墓碑を中心に右側に小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓石が並んで建てられている。
1169年   嘉応元年     高倉天皇即位の翌年入道して後白河法皇となりそれ以後も院政を行い通産天皇五代三十四年にわたって院政を行う
1171年   承安      
1173年   承安3年   20歳 義仲と巴御前との間に長男清水冠者義高が生まれる。幼名高寿丸。母は山吹姫ともいわれ定かではない。
           義高は松本市清水で誕生し槻井泉神社のこんこんとわき出る泉を産湯の水としたので清水義高と名付けられたという。
           
槻井泉神社
          太夫坊覚明伊賀国師見寺で「新楽府略意」執筆。興福寺学侶となる。
      4月1日 親鸞誕生
1175年   安元元年      義仲の嫡子清水冠者義高は武蔵の国鎌形(現埼玉県嵐山町)に生まれたという。(班渓寺伝)武蔵野を流れる都幾川にそった丘のうえにある鎌形八幡社前の石垣から滾々と湧き出ている清水がある。この清水は『木曽義仲産湯の清水』と言い伝えられ義仲の長子義高をこの清水に因んで『清水冠者』と呼んだといわれている。
          平清盛は妻時子の妹滋子を後白河上皇の后に入れた。さらに娘盛子を忠道の嫡子基実に嫁がせ、もう一人の娘寛子を関白基通に嫁がせた。清盛の妻時子の妹滋子が生んだ義理のお祈り人親王が即位して高倉天皇になると、清盛は自分の娘徳子を天皇の後宮に入れて皇室の外戚(母方の親類)となって、権勢をほしいままにしようとした。このような専横に対して不安となってきたのが後白河法皇とその側近一派であった。
1177年   安元3年 6月1日 24歳 京都鹿が谷の陰謀発覚。京都東山の鹿ケ谷に法勝寺の僧都俊寛の山荘があった。ここに後白河法皇、俊寛僧都、後白河院の近臣藤原成親、僧西光、平康朝らが会合して平家を滅ぼそうと図った。その場に居合わせた多田蔵人行綱が福原にいた清盛に密告したため一味はすべて捕われて斬られ或いは流された。『玉葉』によると師光法師(法名西光)を召し取った清盛は訊問によって一味の名をすべて吐かせた。
      6月2日   一味の名をすべて吐かせた後清盛は師光法師の首を刎ねた。続いて藤原成親、俊寛僧都、康頼そのほか一味はすべて捕獲され藤原成親は備前へその子成経・俊寛僧都・平康頼は九州のはるか南方鬼界ヶ島に流された。(玉葉)
          この事件以来一層法皇と清盛の間が悪化していた時、関白基実の未亡人盛子がなくなると、法皇は盛子の所領を全部取り上げてしまった。
1177年   治承元年 8月   改元
                平清盛の娘の徳子が高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)天皇の妻になる。
1177年~
1181年
  治承年間     法泉山林昌寺中原兼遠が創建。初め真言宗で奉仕された。堂宇は本堂・庫裏・観音堂などを備え寺宝として兼遠が使ったという内耳鍋2枚(鎌倉初期)、木曽義仲伝記5冊・茶室掛(沢庵筆)・達磨画(白隠筆)、国指定の重要美術品守屋貞治の石仏像などが伝えられている。中原兼遠の墓も残っている
1178年   治承2年     中原兼遠権守を退く
          平清盛は源頼政の忠勤に報いて、頼政を従三位に推挙した。
      11月   平清盛の娘中宮徳子は高倉天皇の皇子(安徳天皇)を出産。
1179年   治承3年 7月 26歳 平清盛の嫡男平重盛42歳で死す。後白河院は重盛が知行してきた越前国を清盛に伝えることなく召し上げてしまった。兼実は『玉葉」でこのことに触れ『法皇の過怠と云々』と書き留めている。
      8月17日   都人は鹿ケ谷事件で惨殺された西光の怨霊の祟りだと落書きもあらわれたことを兼実は『玉葉』に書き留めている。
      9月   信濃の国の善光寺炎上して消失
      11月14日   法皇の公然たる挑戦に激昂した清盛は福原から数千騎の大軍を率いて入洛したことを『玉葉』は『今日入道相国(清盛)入洛す(中略)武士数千騎人何事かを知らず云々』と記述している。院の処遇に対して清盛が反撃したクーデター
      11月15日   院と気脈の通じている関白藤原基房の罷免。院の側近の者を39人停職処分。後白河院は鳥羽殿に幽閉。藤原基房は備前に配流など院側の屈服という結果で終わる。
      11月20日   平清盛後白河法皇を鳥羽離宮に閉じ込め院政廃止
1180年   治承4年 2月21日    高倉天皇を上皇として平清盛の娘徳子が産んだ言仁親王を皇位につけた。安徳天皇(3歳)である。かくして清盛は武力によってあらゆる権力を一身に集め全国に多くの知行国をもち独裁専横の体制が出来上がった。
      4月9日 27歳 熊野の新宮にこもっていた陸奥十郎義盛(後に源行家と改名)(木曽義仲の叔父)は折りよく京都に来ていたので八條院蔵人(機密文書などの役)に任じられて後白河法皇の子の以仁王から源頼政の献策(計画を申し述べること)とされる平家追討の令旨(王の命令を伝える文書)を得て諸国の源氏に伝える。平清盛に厚く遇されていた源頼政であったが次第に暴虐無人な振る舞いに反発して以仁王に訴えたのである。以仁王は後白河法皇第二王子で屋敷が三條高倉にあったので高倉宮といわれた。高倉の宮は治承4年には30歳になられていたが故建春門院(後白河法皇の后)のそねみを受けて皇位から外されていた。しかも、後白河法皇の第一子(二条天皇)と第三子(高倉天皇)は皇位につかれたのに以仁王だけが疎外されていたのである。このため後白河法皇の第二子でありながら法皇とは距離があった。以仁王は学問、詩歌、音楽にすぐれ、人望も厚く、いずれは天皇にもと嘱望されるほどの人物であったが、母が藤原氏であったため、平家に疎まれていた。しかも清盛のクーデターにより、経済基盤であった荘園まで没収されてしまったのである。追い込まれた以仁王は八条院御所の武士たちを束ねていた源頼政と協力したのである。
          平清盛は自分の孫に当たる二歳の安徳天皇を即位させ国政の実権を握ったため平家に敗れた源氏は十九歳と年齢的にも妥当な以人親王につきその即位を図ろうとした。ここに諸国の源氏に以人親王の令旨が伝えられ平家妥当の蜂起を促した。
           以仁王の令旨とかなり深い関係があると考えられている八條女院は鳥羽天皇の皇女であるが、母は美福門院得子で、名を暲子という。父母の遺領を伝領してその所領は数百か所にも及び、大きな勢力を持ち、以仁王とは猶子の関係にあって、なお以仁王の御子の養育もされていた。源頼政も八条院に仕えていたこともあった。八條女院は母は違っても後白河天皇の妹の関係にあった。このように八條女院は以仁王の背後にあって支援したと考えられる。
          覚明は浄土真宗の僧で奈良興福寺の僧となり西乗坊信救と称していた時師の勧学院博士藤原道憲入道信西の記文草稿を預かり以仁王の令旨を奉じて信救文章を草稿し三井寺へ平家追討の返牒を遣わした。興福寺返牒(返事)に「清盛は平氏のかす、武家のごみ」という語句があったことから清盛が怒って信救を捕らえて殺そうとした。信救は姿を変えて逃れ木曽義仲の軍に加わり覚明と名を変え祐筆(文章を書くこと)をつかさどった。
      4月10日   行家夜陰にまぎれて京都をたつ(吾妻鏡)
      4月17日   兼実は『玉葉』に『或人伝へて云はく、醍醐の辺、調伏の法を行う人ある由、世間に風聞す云々』と伝えている。調伏とは呪詛(のろい)であり、何者かが清盛に呪いの祈願をしているというのである。
      4月27日     行家伊豆の北條館の頼朝に以仁王の令旨を伝える。そこから甲斐・信濃へ向かったと記されている。(吾妻鏡)
『平家物語』は4月28日、行家が都を発ち、伊豆ほう上官で頼朝に伝えたのが5月10日で伊豆から常陸国信太の浮島へ、それから木曾義仲へ伝えるため山道へおもむいたとなっている。
『源平盛衰記』では4月9日令旨を賜って、10日夜半に山伏装束で海道に下りまず近江から美濃・尾張を越え信濃・甲斐へ最後に伊豆の北條となっている。
         5月上旬    源行家は近江から尾張・美濃・伊豆をめぐって木曽へやってきて木曽義仲の館に以仁王の令旨を伝える(吾妻鏡)義仲はこの叔父を後に興禅寺に移された勅使門前に迎えたと伝えられている。興禅寺の勅使門は昭和2年の福島大火で消失したが昭和29年に復元建立された。
当時の信濃の大勢は平氏に通ずるものは高井の笠原氏くらいであった。
源氏方には佐久の根井小弥太幸親、楯六郎親忠、矢島四郎行忠(浅科村矢島)、小室太郎田忠兼、望月次郎、同三郎、
小県には依田二郎、志賀七郎、丸子小中太、根津次郎貞行兄弟、海野彌平四郎幸廣、
諏訪には諏訪次郎同三郎、千野太郎光弘、手塚別当、同太郎金刺光盛、
高井には井上九郎光基、高梨次郎高信村山七郎義直
水内に栗田寺の別當範覚、
安曇に仁科太郎守弘、同次郎盛宗
筑摩の岡田親義父子、佐々毛二郎安義、犬甘二郎敦義があって何れも望みを義仲に託していた。
          以仁王の御謀反が熊野別当湛増に知られ彼は平宗盛に注進し宗盛は福原の平清盛に知らせた。
      5月10日   『玉葉』の著者兼実の耳に上記のことが達した。
      5月12日   「平家物語」に鳥羽殿に大鼬が出て走りさわいだとある。
      5月15日   宮の侍に長谷部信連というものが会って王に女房装束をさせて、髪を乱し、市女笠姿に唐笠をもった供をつけて高倉を北へ落ちさせたと『平家物語』は伝えている。15日夜の子の刻(午後12時)王を捕らえるための総勢三百余騎が押し寄せた。信連はさんざんに戦いついに生け捕られてしまった。
      5月15日夜   頼政の養子兼綱が頼政からの『御謀反は露見した故急ぎ三井寺までお出ましくださるように』との知らせを以仁王に伝えた。
      5月15日夜   平清盛は三条高倉の以仁王の御所に兵を遣わす。以仁王の邸に向かった検非違使の中に頼政の養子兼綱があった。
          事前に謀が洩れたため以仁王は近江の園城寺(三井寺)に逃れた。以仁王熊野の修験者により平家方に密告され源姓『以光』と名を改められ遠流と決定(玉葉)
       5月16日   以仁王を抱え込んだ園城寺衆徒はすべて王支持に固まった。源頼政は子の仲綱・養子の兼綱・木曽義仲の兄に当たる頼政の猶子仲家・仲光等を引き連れて、近衛河原の自邸に火を放って焼き、園城寺の以仁王の待つ所に駆けつけた。
      5月18日   園城寺(三井寺)では以仁王の保護を主張し、延暦寺と興福寺に呼びかけるための書状を送った。奈良興福寺の衆徒はこの書状を見てすぐに返書を送った。
      5月21日   清盛は三井寺を攻めるため平宗盛以下の諸大将10人に軍兵を率いさせて明後日発向と決定した。その中に頼政の名前があった。
      5月21日    以仁王は園城寺から叡山、奈良の大寺院にそれぞれ援助を求める書状を発せられた。そのとき興福寺は以仁王の旨を奉ずる返牒を差し出したのであるがその文中に『そもそも清盛入道は平氏の糟糠(かす)武家の塵芥なり。云々」という文句があった。
坐主経、実語経で平清盛に味方する延暦寺を批判する。
蔵人道広は勧学院(藤原氏の子弟の教育機関)にいたが出家して浄土真宗の僧となり奈良興福寺で西乗坊信救と称していたとき師の勧学院博士藤原道憲入道信西の記文草稿を預かり以仁王の令旨を奉じて信救文章を草稿し三井寺へ平家追討の返牒を遣わしたのである。のちにこれを知った清盛が怒って信救を捕らえて殺そうとした。信救は姿を変えて奈良から逃れ北国へ落ちくだり木曽義仲の軍に加わり大夫坊覚明と名を変え祐筆(文章を書くこと)をつかさどった。
義仲の兄源の仲家は仲光と共にその陣営に加わった。
      5月22日   延暦寺の大衆三百余人が与力、南都よりの知らせで奈良の大衆が蜂起しすでに上洛せんとしているなどと伝えられ以仁王に味方する気配を示す重大な事態となった。
      5月22日   以仁王を抱え込んだ園城寺(三井寺)では意見がふたつに分かれた。『平家物語』によると即時『六波羅夜討』断行にまとまりつつあった時平家のために祈願事をしたことのある僧真海が『小勢で攻めても勝ち目がないからよくよく計り事をめぐらしたのち、後日攻めては如何ん』と意見を述べた。
老僧慶秀が今夜唯今より六波羅に押し寄せて討ち死にせんと大声一喝叫んでとたんに衆議は決まった。
しかし永僉議により途中で夜が白々とあけたため攻撃を断念したという
      5月25日夜半   六波羅夜討ちを断念した園城寺(三井寺)では以仁王を南都(奈良)興福寺に託することとなり源頼政一類は主を護り夜陰に乗じて園城寺を脱出して奈良に向かった。南都への道は暗くけわしかった。『平家物語』は『王は六度まで御落馬ありけり』と伝える。
      5月26日早朝   以仁王一行は宇治川に架かる宇治橋を渡りきった時わずか五十騎だったという。
      5月26日    宇治平等院の戦い(平清盛が以仁王の令旨のことを知って以仁王を捕らえようとした戦い)以仁王を奉ずる頼政軍と平家の間に京の南宇治で戦端が開かれた。この戦いで平家の追討軍の先鋒となった吉田安藤馬允・笠原平三・千葉三郎等はいずれも信濃の住人であった。笠原平吾頼直は源頼政を攻め軍功をあげたので伊那の官牧笠原の庄を賜った。源頼政は宇治川をはさんでよく戦ったが多勢には敵することができず遂に宇治平等院の釣殿で自害。享年76歳。源頼政の養子となっていた義仲の兄仲家もその子仲光と共に大いに戦ったが養父の後を追って共に討ち死に。頼政の養子兼綱も討ち死に。頼政の子仲綱は自害。以仁王は南都の興福寺へ向かう途中討ち死に。享年30歳。「明月記」では奈良に落ち延びた。また「玉葉」では東国のほうに落ちていった。などという説がある。
          頼政の子のうち頼兼は生き残り、のちに義仲が入京した時には大内守護となり、義仲とともに京都を守護した。
          『玉葉』で九条兼実が伝える以仁王が生きて東国に居るという流言が伝説の形で木曽に残されている。
木曽郡上松町西小川の高倉集落の西に王屋敷と呼ばれている場所がある。昔以仁王が御子の若宮を伴って頼政と共に陰栖された所というのである。
           小川入の伝説
後白河院の皇子、高倉以仁王の御子に若宮(13歳)と姫宮(15歳)がいた。美濃の国恵那郡小川の里(現在の木曾郡上松町西小川)に宇治の戦いに敗れて逃げ落ちた父のいることを聞き、追っ手の難を逃れこの地にたどり着いた。京都から美濃を経て木曽路へと旅をしてきた両人ではあったが、このとき平家の党の諸原某が、両人の相貌が常人でないことを悟り、落人と察して捕らえようとした。幸いにも、若宮は人家に隠れて難を逃れることができた。木曽路は、新緑に包まれた田植えの頃であった。木曽川のほとりを杖にすがり、山をわたる風にも、ふと鳴き出す山鳩の声にも、追手ではあるまいかと、おびえながら姫は歩いていた。しかし、小川の里、島集落にたどり着いたところでとうとう姫は追手に発見されてしまった。あたり一面におい茂る麻畑に身をかくして追手を逃れようとしたが、村人たちは後難をおそれて姫をかくまってはくれなかった。姫はくちびるをかみしめ、精いっぱいのうらみをつぶやきながら、痛む足をひきずりひきずり最中集落まで逃げのびる。ここで親切な村人の厚意で、麻畑の中にかくまってもらい、追手をまいてしまった。追手が去ると、姫は、村人に厚くお礼を述べて、小川ぞいの山道を西へと急いだ。高倉の峠をこえるころには、赤く輝いた夕陽は御嶽の山かげに沈み、行く道はしだいに細くなり、その下り道のとだえたころは、谷川の深い渕のかたわらであった。その時、峠の方から追手の者どもの声や、馬のひづめの音が聞こえてきた。姫にまかれた追手がふたたびやってきたのだ。姫は逃げてくる途中で見た、京都ではあまり見かけなかった珍しい田園風景を思い出し、付近に生えている菅を取って、岩の上で田植え歌をうたいながら田植えのまねを始めた。
   幅はこまかく うねまはひろく
   笹のひもをも 結ぶ間を
   忘れ草なら 一本ほしや
   植えて育てて 見て忘る
   忘れ草をも 植えてはみたが
   あとに思いの 根がのこる

逃れるすべもなく、せめてもの今生の想い出に、田植えのまねをし、田植え歌をうたった。その美しい声のこだまがまだ消えないうちに、姫は清らかな深淵に自ら若い生命を絶ってしまった。その後山々が茜に染まる夕ぐれどき、この渕のあたりを通ると、清らかな水の中に姫のすがたをしばしば見かけることがあったので、村人はこの渕のほとりに小社を建て、ねんごろに姫の霊を祀ったという。これが姫宮神社のいわれである。
          高倉の消えずのともしび
明治の中ごろまで、春夏秋冬を問わず、雨の日も風の日も、夕暮れどきになると、遠く高倉の付近に、一点のともしびが煌々と輝くのが見えた。この灯は、狐火のように移動することもなく、電灯やローソクの灯のようにキラキラ輝くわけでもなく、大きくボーッと終夜光り、夜明けとともに消えていった。不思議なことに、上松のちから望む場合は、実にありありと見えるが、高倉に近づくにしたがって、妖として光を見ることができなくなってしまう。村の人々は、不思議に思い、灯の正体をとらえようとしたが、誰一人とらまえることができなかった。ところが知恵のあるひとりの村人が、灯のよく見える町の高台から、夜中、鉄砲で照準し夜明けとともに消えずのともしびが、どの地点で光っているのかつきとめて、ある夜その場所を荒らしてしまった。そこは方形の塚であった。それから、もうこの消えずのともしびは、高倉の地から永久に消えてしまった。元来、この高倉という地名は、高倉の以仁王が京都から落ち逃れてきて住まわれたので高倉と呼ぶのだという口碑が残っている。しかも消えずのともしびは、その方形の塚から光っていたというのだから、このともしびを、現に今まで見ていた村人の話題にならないわけはなかった。盗掘されたこの塚からは、金の玉が出たとか、この金の玉は姫渕で身投げした姫の埋めたものであろうとか、数多くの後日談が残っている。集落の上手、畑の中に今もこの塚は残っており、小社が祀られている。かたわらに、さもなぞを秘めるかのように、こけむした亡霊供養塔が一基建っている。
ちなみに上松小学校旧校歌の一節に
   夕べおそく高倉の
   宮の灯消ゆるまで
   つとめならわん教へ草

とも歌い残されている。
           『以仁王は奈良に赴く途中光明山の鳥居の前で流れ矢に当たって落馬、命を落とされた』という『平家物語』の伝える場所は、現、京都府相楽郡肌綺田であってその東南の位置に光明山寺跡があり、すぐそばに鳥居と呼ぶ集落がある。この地には以仁王をお祭りした高倉神社が建てられている。神社の境内には以仁王の墓がある。悲劇の王を痛んだ里人がお祭りしたと山城町史は伝えている。
           義仲は以仁王の遺児である木曽宮(のち北陸宮)を福島の御室に迎え二か年間潜居させたと伝えられる。御父以仁王の御影堂を建てて供養したといわれる「おえどう」の地名が残っている。
      5月26日   平等院執行の良俊の使者が平等院の廊内に3人の自殺者があったがその中に首のないものがひとりあった。もしや之が以仁王ではないかと知らせてきた。ということを兼実が書いている。平等院の戦いは以仁王の行方がわからないまま幕を下ろした。
      6月2日   清盛都を福原へ移す。卯の刻に安徳天皇、上皇以下の一行は数千騎の武士に守衛されて京を発った。
      7月27日   源頼朝以仁王の令旨を受け、北条時政の支援により伊豆で平家追討の旗を揚げる
      8月6日   源頼朝北条時政の支援により挙兵山本判官を討つ
      8月17日   伊豆にあった源頼朝が平氏打倒の兵を挙げた
          全国各地で平氏打倒の勢力が蜂起した。源平争乱(治承・寿永の内乱)の始まりである。
      8月23日   石橋山(現小田原市)の戦い(源頼朝対大庭氏、伊藤氏(平家方))で頼朝敗れ箱根山中に籠っていた。その後真名鶴から舟で房総半島安房の国(千葉県)に逃れ再挙を図る
          以仁王の遺児の一人で後に木曽の宮(のち北陸宮)と呼ばれた宮が義仲を頼って落ち延びてきた。潜居したと伝えられる木曽町福島御室には以仁王の御影を祀ったと伝えられる御影堂(おえど)の地名がある。義仲が入京の後この宮をよんで嵯峨に住まわせた。安徳天皇の後の皇位を誰が継ぐかの問題が起きたとき義仲は熱心にこの宮を推したが後白河法皇に一蹴されてしまった。
          『平家物語』は(義仲は頼朝の挙兵のことを聞き養父の中原兼遠に、『今一日も先に平家をせめおとし、日本国に二人の将軍といわれたい』とほのめかした。兼ねとおはめぐらし文を信濃の根井の小弥太・海野行親等に出した。)と伝えている。
      9月7日     以仁王の遺児が木曽福島の御室にかくまわれていたこともあってその宮(木曽の宮)を奉じる大義名分も整い木曽義仲は今の長野県木曽町日義宮の原八幡宮で旗挙げ。兵千騎(源平盛衰記)
義仲幼少のころ養父中原兼遠と共に京に上った際曽祖父八幡太郎義家の崇敬厚かった岩清水八幡宮の霊を勧請(神仏の霊を分け迎え祭ること)し日義の宮の原に移して祀ったのが始まりとされている。この境内で戦勝祈願したことから旗挙八幡宮と呼ばれている。旗挙げ八幡宮の境内には周囲十メートルを超える大欅があり樹齢800年を越え今尚生き続けている。日本の古木の一つに数えられている。



また館の北東には美濃の国一ノ宮の金山彦命を祭った南宮大社を勧請した南宮神社が鎮座している。木曽家をはじめ村の産土神として祭られている神社である。また養蚕の神安産の神としても崇められている。宮ノ越という地名は南宮神社の宮の腰(中腹)という意味からつけられたものという。宮ノ越駅から北方直線距離にして2キロメートルのところにJRのトンネルがありその上の山が山吹姫にちなんでつけられた山吹山である。この山吹山直下のS字状をしたした深淵を巴が淵と呼ぶ。
  山吹も巴も出でて田植えかな    許六
中原兼遠の次男、義仲の乳母子樋口二郎兼光(四天王の一人)、中原兼遠の四男義仲の乳母子今井四郎兼平(四天王の一人)の兄弟、佐久の豪族根井行親(四天王の一人)根井行親の次男楯親忠(四天王の一人)、海野幸広、下野の国の矢田判官義清(足利氏)など凡そ千人を越えた。
これは心光寺に信濃豪族の子弟が学問、兵学などを学んでいたこともあってここに集まっていた豪族がみんな義仲の挙兵に参加したのである。中原兼遠は木曽の領土は広かったが山間の地であり人家も稀であるので多くの人士が集まらなくてはこの地の発展はありえないと義仲に伝え樋口二郎兼光、今井四郎兼平に命じて、心光寺を建立した。義仲の館を中心に心光寺の付近に屋敷を立て信濃豪族の多くの子弟を預かり兼光が教師となりまた兼平は助教となって兄を助け学問、兵学、戦術等を教えたのだった。
山吹姫は木曽義仲が平氏追討の挙兵をした時これに従って上洛した。巴御前は義仲が挙兵するまでに3人の子供、長男義高次男義重三男義基を産んでいるが、義仲は長男義高を一緒に上洛のため伴っている。(挙兵時8歳)次男義重(挙兵時二歳)は信濃に残して上洛したことが『岐蘇古今沿革志』に見える。三男義基は生没年共に不詳。他の説に義高は山吹姫の子供としているものもある。
          木曽義仲は金刺盛澄の婿と言われ姻戚関係が深く幼児下社にかくまわれたともいわれる。 金刺盛澄と下社一統は義仲を被護し旗揚げには盛澄の弟手塚太郎光盛、上社側から諏訪二郎、千野太郎等の名が見られる。(諏訪大明神絵詞)
          木曽町福島の権現滝は木曽義仲が平家追討の兵を挙げた際にこの滝で御嶽大権現の出現を願い沐浴祈願したことからこの名が付けられたと言われている。

権現滝 
               吾妻鏡」:同年9月7日条「信濃国木曽」 
     
      9月9日   平家物語の延慶本によると、信濃の国安曇郡の木曽というところにすむ木曽患者義仲というものが信濃の国中のつわもの千人あまりと旗挙げをしたとある。
          また筑摩郡の岡田親義、佐久郡の平賀義信などが兵を挙げた。子のうち信濃武士の統括に成功したのは保元・平治の乱で源氏の棟梁として活躍した源為義・義朝に血縁的に近い義仲であった。
          旗挙げをした義仲は北陸道を京へ上ることになるがその際に、木曾谷の南の押さえとなる妻籠に砦を築き、砦の鬼門に当たる神戸に祠を建て義仲の兜の八幡座の観音像を、行基が沼田の岩戸の窟で刻んだと伝えられる仏像の胎内に祀ったのが兜観音のおこりと伝えられる。
          兜観音の近くに袖振りの松がある。袖振りの松は木曽義仲が弓を引く再に邪魔になり、巴が袖を振って横倒しにしたが、そこから再び芽が出て何代目かになると伝えられている。
          切り倒された松は、長さ7メートルの木製の水場「水舟」にされ、近くにある義仲ゆかりの町史跡兜観音境内に置かれた。
          義仲の四天王といわれる根井行親は根井にその子楯親忠は野上に樋口兼光は宮の越の宿のすぐ南方にそれぞれ日義村の中に義仲の館を取り巻く形で館を構えていた。
          最初の本格的な戦は国府から善光寺へ向かう道筋の、会田御厨(東筑摩郡四賀村)・麻績御厨(東筑摩郡麻績村)で行われた。義仲は両戦いで勝利した。当時会田・麻績は平家領であった。この後義仲は東信地方に進出した。東信で義仲が根拠としたのが上田市御嶽堂の金鳳山上にある依田城であった。
      9月7日    市原の戦い。高井郡の笠原の庄に住む平家方武士笠原平吾頼直は村山義直、栗田寺別当大法師村上範覚の軍と市原(長野市)で戦う。義直、範覚軍が劣勢になったのを知って加勢に駆けつけた義仲軍が意外な大軍だったので笠原平吾頼直は戦わずして笠原の庄に逃げ帰った。帰ってみて周囲がほとんど義仲の見方であるのに再度驚き笠原の庄を捨てて越後の国の大豪族桓武平氏の流れをくむ城資長の許に走った。範覚は義仲の救援を悦び、娘葵を義仲の妾とさせた。(葵御前)(吾妻鏡)
           挙兵後の義仲は麻績・会田・市原等で平家方と戦う一方で、信濃国の武士を支配下に置くための方法として、所領安堵状を発行した。
      9月11日   伊豆の流人源頼朝の挙兵兼実の耳に達する。
      9月21日   『愚管抄』は『東国に源氏起こりて、国の大事になりにければ、小松内府の嫡子三位中将維盛を大将にして、追討の宣旨下して頼朝討たんとて、治承4年9月21日下りしかば云々』と記している。
      9月23日   九条兼実が『玉葉』に『高倉の実や(以仁王)及び頼政等が駿河の国を経てさらに奥のほうに向かったということを聞いて書く。
      9月末   平家は官軍として頼朝追討軍を関東へ向けたが頼朝に対抗できる兵力が集まらずさらに敵方に降参する者が続出して敗退した。
      10月3日   頼朝、富士川の対陣で平維盛を敗走させた。
      10月6日   頼朝関東地方の武士団をまとめ鎌倉に入る。
       10月13日    木曽義仲上野国多胡庄へ入る。(吾妻鏡)義仲は平家追討の義兵を上げようとしたが兵力が少ないので父義賢の旧領地上野国多胡(現群馬県多胡郡吉井町字多胡)を中心に募兵を思い立った。多胡地方は生前の義賢の評判が非常によかったのに加え募兵に際して根井行親が先導役を勤め多胡に入ると多胡太郎家国弟次郎家包は義賢の旧臣であったので娘若菜を妾に入れて義仲との盟約を結んだ。
      10月18日   平維盛敗走富士川の対陣(平家の敗北)平維盛水鳥の羽音による敗走(源頼朝・武田信義対平維盛(平氏方))
      10月20日   武田信義が平維盛を退ける。
      11月   頼朝軍は東山東海の諸国の余力を以って都を発した平維盛の軍を近江国の手前で追い落とした。(玉葉)
      11月初旬   市原の合戦における木曽次郎義仲の名が京の都の平家に伝わり平家は危惧を感じ出した。
       11月13日   義仲は北信濃の藤原助弘の中野郷(中野氏)の所領を安堵する。『市河文書』に見える義仲下文は義仲がその領主の所領を安堵することにより配下に従えっていったことが知られる。志久見(下水内郡栄村)についても同様である。所領を保証する代わりに、義仲への軍事力の提供を義務づけたのである。
    義仲の所領安堵(木曽義仲下文)
    下す、資弘(すけひろ)の所の輩。
    早く旧の如く安堵せしむべきの事。
    右、件の所、元の如く沙汰致すべきの状件の如し。
    治承四年十一月十三日
    源  (花押)(書判のこと)
  
  (市河文書)
      11月終わりごろ   還都。平氏一門の中の宗盛や延暦寺の僧兵たちが反対し都を京都に還すべきだと主張したこともあって再び京へもどる
          清盛の都うつりを、鴨長明は『方丈記』に都のありさまを『軒をあらそいし人のすまい。日を経つつ荒れゆき。家はこぼたれて淀川に浮かび。地は目の前に畠となる。』などと記し、都を移したあとの荒廃をなげいている。
      12月   奈良で平家の専横ぶりに反発して大衆が蜂起した。これを鎮めるため平家は四万余騎の大軍を奈良に進めたが騒乱は治まらなかった。
      12月3日   「越後の城太郎資永甲斐、信濃の領国に於いては他人を交えず一身にて義仲を攻撃すべくの由申請せしむ。」「北陸道へ出てくる義仲は城資永が討伐する」と(玉葉)にあるように城資永は義仲討伐を自力でなす旨を京へ伝える。
      12月24日   義仲上野の国より信濃へ引き上げる(吾妻鏡)父義賢の縁で瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡氏など高山党と呼ばれる武士団が義仲軍に加わった。信州へ引き返した義仲は依田城へ入った。
        上田市御嶽堂の金鳳山上にある依田城では木曽谷で平家追討の旗あげをした源氏の大将木曽次郎義仲を迎えて旅のねぎらいや接待でごったがえした。城主の依田二郎は義仲のために城をあけ、自らは山の下の館に移った。
           義仲が依田城に来ると樋口兼光や今井兼平と並んで四天王といわれた根井行親、海野幸広らが早くから木曽の中原兼遠に連絡を受けていて軍勢をつれてきた。豪勇の矢田義清も現れた。
      12月28日    平重衡南都を焼き討ちす東大寺興福寺を焼く。大仏殿に非難した千七百余人を焼死させ盧遮那佛の御首までも焼け落とすという狼藉の限りを尽くす。この悪行に覚明は怒り『大政入道浄海は平家の糟糠、武家の塵芥、極楽往生はできぬ」と書いたことから清盛の怒りに触れ寺から抜け出した。
          義仲頼朝が兵を挙げた治承4年(1180)以来数年は凶作が続いた。
           京都の民家や公卿の家は点検調査され食料の徴収や官軍平氏の兵舎として徴用された。京都市内から徴収した食糧などは軍用米(兵糧米)としてのみでなく飢饉のため貧者に分け与えると説明された。
          朝日村西洗馬の真言密教の光輪寺は義仲が中興開基し、お堂を再建したとされる。この寺に木曾義仲直筆の祈願書が寺宝として保存されている。
          きそは東鑑には「吉祖」とある。
          須原定勝寺の前身である観心坊の僧が富田の山に観音堂を建てた。これが現在福島の興禅寺の観音堂であるといわれている。義仲は平家追討の以仁王の令旨を興禅寺で受けたことから勅使門といわれ、その勅使は義仲の叔父の新宮十郎行家であったといわれている。昭和二年の大火災で勅使門が焼失するまで、鎌倉時代の建築として国宝に指定されていた。戦後設計図があったため昔通りに復元された。
        
               興禅寺勅使門
           福島町の中畑区に続いた西方に西光寺という地名がある。この寺は義仲が京都にあったときその部将手塚光盛をして公家衆を住持させたとあり今も五輪一基があり名残をとどめている。
          
         西光寺五輪塔(木曽町福島)
1181年   治承5年 正月14日 28歳  高倉上皇21歳で崩御
          太夫坊覚明追手を逃れ奈良を脱出して三河国府で源行家に従う。源の行き家とともに木曽義仲のもとに参じ、手書きとして木曽太夫坊覚明と名乗る。
           親鸞、慈円のもとで出家し範宴と名乗る
           大赦により都に復帰した藤原基房は『入道関白』と呼ばれて再び後白河法皇の側近の一人だったことが『玉葉』に見える。
      正月23日    義仲募兵に参加した上野下野信濃の兵は合わせて1千有余騎となった。このことが都の平清盛の耳に入ると中原兼遠を都へ呼び出し内大臣平宗盛に命じ義仲を捕縛してくることを約束させるため平家の命に従うとの起請文(神に誓う文)を書くよう命じられ兼遠は不本意ながら書く(源平盛衰記)
      2月1日   義仲追討のため越後の国の城太郎資長越後守に任じられる
      2月4日   清盛平家の行く末を案じながら64歳で死す(平家物語)
          清盛の死後後継者の宗盛は政権を法皇に返還した。しかし兵糧米が不足なので反乱の征伐は困難であり荘園からの運上物を徴収したいと提案した。
さらに各地で発生する反乱に対し、官軍として派遣するごとに兵糧米が不足し官軍兵糧なしの記述がある。
       2月中旬     もとより平家の命に従う気のない中原兼遠は後事を根井行親に頼み仏門に入って「円光」と名乗った。滋野左衛門尉望月国親の子である根井行親は根井大弥太行親とも称しこれを承諾し義仲を佐久の依田城に迎えた。林昌寺の記録では中原兼遠の兄兼保が養子となっている。(西筑摩郡誌)根井行親の住む佐久の望月の地は平安時代に朝廷に貢馬をおこなう信濃16牧の中でではもっとも大きな御牧(官設牧場)で毎年三十匹の良馬を京へ貢進した。この儀式を駒牽きといい、和歌の好題目となった。また早くから大陸の技術を導入して馬の繁殖から管理において当時日本の最先端を行き騎射の技にたけた人が大勢いた。望月の牧は今の望月町を中心とする広大な牧場であり、信濃の名族滋野氏は、この牧場を根拠地とする豪族だった。現在佐久市根々井にある正法寺附近に行親の居館があったとされている。真言宗正法寺境内に行親の供養塔がある。
            逢坂の関の清水にかげ見えて
     いまや引くらむ望月のこま
  (拾遺集・紀貫之)
           『西筑摩郡誌』に根井行親は中原兼遠から義仲を託されたのち佐久の依田城に移ったとある。根井行親も義仲を天下取りの源氏の大将になる人物として大事に扱った。それで、信濃の国中の武士は、皆義仲を大将と仰ぐようになった。さらに、父義賢に従っていた上野の国の武士は、足利一族をはじめ皆木曽義仲を大将と仰ぐようになった。
     
2月1日
  『玉葉』に『官軍の兵糧米が尽きた。』とある。
          諸国の荘園に兵糧米徴収の院宣(法皇の命令)を下した。
     
2月6日頃
  東国追討使(平宗盛)出発
     
2月6日
  『玉葉』に『兵糧すでに月、運上物を点検し徴収し兵糧米にすべきか』との記述がある。
      閏2月    志田(信太)三郎先生義広(頼朝、義仲の叔父)ははじめ平家を討とうとしたが頼朝の勢力が強大なのを見て数万余騎の兵を率いて鎌倉を攻めようとしたが発覚した。野木宮の戦いで志田義広敗れ義仲のもとに走る。
      2月12日   平知盛病気にて帰洛(玉葉)
      2月19日   木曽義仲追討の宣旨が城資長に下る。越後守城資長は東国平家の元祖維茂(これもち)将軍の子孫で、越後をはじめ出羽会津地方に支族が多かったが春を待って軍備を集めると六万騎にもなったと伝えられる。城氏は鎌倉の頼朝を討って重恩ある平氏に報いようと意気盛んであった。
          また奥州(東北地方)に平泉の中尊寺を建てた藤原秀衡がいて、陸奥一帯に並ぶ者がないほどの勢力を誇っていた。平家から頼まれて、後白河法皇は、この城資長・藤原秀衡の二人に、頼朝・義仲を討伐せよとの命令を下された。
      2月24日    城資長は、法皇のご厚意に応えようと、早速五千余騎を率いて義仲を討ち取ろうと、信濃へ出陣した。その時、大空の雲の彼方から、実に薄気味悪い大声で、「日本第一の大寺院、聖武天皇がお作りになられた東大寺の大仏様を焼いた、あの平清盛に味方する者は、今直ちに地獄へ召し連れるぞ」と、地響き立ててどなるのが聞こえてきた。そのとたん、大将の城助長は脳溢血になり、半身が不髄となった。助長には男三人女一人の子どもがいたが、一言も遺言ができず、その日の夜十時頃息を引きとった。弟の資盛を、長茂(ながもち)と改名し、急遽あとを継がせたが、長茂は、春の間は兄助長の供養に明け暮れて、決して兵を動かそうとしなかった。一方の藤原秀衡は、頼朝の弟、九郎義経を十年ほど前からかくまって育て去年の冬、頼朝を助けようと、義経を送り出していた。それで、長年の源氏との友好関係を裏切って院の命令に従う事はないと考え、何の返事もしなかった。(平家物語延慶本)
          城資永は途中馬より落ちて死んだ。(源平盛衰記)
春追討軍の大将越後守城資長は出陣の門出を行って軍を進めたところ二十有余町ほど行ったところで急病になりそれから三時ほどで急死してしまった。(平家物語では6月15日に三万の兵で出発し6月16日落馬で死亡となっており吾妻鏡では9月4日死亡となっている。)
兄資長に変わり追討軍の大将には弟の城四郎助職(助茂)がなった。
      3月6日   『玉葉』に『官兵の兵糧尽きた』とある。
      3月16日    源行家尾張墨俣川で平家軍に大敗
源頼朝源行家を総大将ににして尾張川まで六千騎で攻め上がったが平家の三万余騎に敗れ三河の国矢矧川に敗走し再び対戦したが行家は又敗れ鎌倉に逃げもどっていた。
      3月28日   『玉葉』に官兵兵糧なし』とある。
      5月   中原兼遠病気にかかる
      5月24日   城資長の弟長茂が越後の守に任ぜられた。
      6月13日    かくして城長茂は、越後の二十四郡と出羽(山形・秋田県)の武士を集め、雑兵まで合わせて六万余騎で、信濃へと攻めかかってきた。その出陣の時、「先の資長は、信濃出陣の時命を落としたぞ。お前も明日があるなどと思うのではないぞ。」という声が再びして、声は雲の中へと消えていった。人々は大勢いたのだが、長茂以外に聞いた者はいなかった。長茂は六万余騎を三手に分けた。 資職は館を出ると越後の国府直江津に赴き六万の大軍を三軍に分け千曲川越えには浜の小平太を大将として一万余騎を向かわせた。上田越え(現中魚沼郡津南町上田)には津幡宗親(つばたのむねちか)を大将として、これまた一万余騎を向かわせた。本隊は、城長茂を大将として四万騎を率いて越後の国府(上越市直江津)を出て信濃の国境関山を越え信濃に攻め入ろうとした。その先陣は、笠原平五、尾津平四郎、富部三郎、閑妻六郎、風間橘五とその家来の立河次郎、渋川三郎、久志太郎、冠者将軍と家来の相津乗湛房、その子の平新大夫、奥山権守の子藤新大夫、坂東別当、黒別当などが、我も我もと先を争った。そこで平家方の城太郎資永(初め資職(すけもち)と号した城長茂)は、味方同士で争うのはまずいと思い、誰にも先駆けを許さず、義仲追討軍としてみずから)越後、出羽、会津の4万余騎の大兵力で越後より熊坂(上水内郡信濃町)を越え信濃の国の千曲川のほとり横田河原(長野市篠ノ井)に陣をとった。
            これを迎撃しようと宮ノ原で挙兵した義仲は木曽から佐久の依田城に入った。依田城は長野県小県郡丸子町御嶽堂の西南の山上にある山城である。依田二郎忠朝の出城であったと伝えられている。根井行親は激を伝えると上野の武士をはじめとして信濃各地に散在する武士団が依田城周辺に集結しその数はおよそ三千騎といわれた。
      6月14日     義仲は越後の城氏と戦うため小県の依田城から出撃、海野氏の氏神がある白鳥神社近くの白鳥河原(現東御市(東部町海野))に兵を終結して横田河原で戦史に残る戦いをした。(玉葉)
越後の国の城氏の四万騎といわれる大軍を横田河原(現長野市篠ノ井横田)に迎撃した義仲軍はわずか三千余騎であったが兵を佐久党(根井大弥太行親、海野幸親、海野弥平四郎行弘、楯次郎親忠、楯三郎頼忠、根井小弥太行忠、根津次郎貞行、根津三郎信貞、望月次郎、望月三郎、志賀七郎、志賀八郎、小室太郎、桜井太郎、桜井次郎、石突次郎、落合三郎兼行、平原次郎景能、八島四郎行忠、井上光盛、高梨忠直、塩田高光)
木曽党(樋口次郎兼光、今井四郎兼平、木曽中太、弥中太、与次、与三、覚明、巴、山吹、葵、検非違所八郎、東十郎、進士禅師、金剛禅師)
甲斐の武田党の三つにわけ合戦史上に残る高井郡井上光盛の奇襲作戦により義仲軍は城氏を打ち破ることに成功した。
『源平盛衰記』に出てくる武将は上のほか
西上州(上野の国)那和太郎・物井五郎・小角六郎・西七郎諏訪(諏訪次郎・千野太郎・手塚別当・手塚太郎)がある。(玉葉)
信濃源氏の井上光盛は平家の旗の赤旗をたて、越後平氏軍に近づき、突然源氏の旗の白旗を上げて敵を攪乱させた。井上氏は頼季(よりすえ)流源氏の祖で、須田氏・高梨氏・村上氏・米持氏などはそのわかれである。井上光盛は井上氏の庶子家で、この戦ののち義仲とたもとをわかつ。京で独自の活動をしていたが、元暦元年(1184)謀反の罪で駿河の国で頼朝によって殺されてしまう。
義仲は大勝利を得て北陸路より京都を指して攻め上り越後の国府(直江津)にはいった。(源平盛衰記)(権田河原合戦について『平家物語』では9月2日となっている。)(『吾妻鏡』では寿永元年(1182)10月9日に横田河原の戦いがあったとしている。)
以後越後の国の武士たちをはじめ北陸道七カ国の武士は皆義仲の部下になったので義仲軍は五万余騎の大軍になった。横田河原の戦いに兵二千、平家の城氏六万(源平盛衰記)
平家物語では兵三千城氏四万となっている。
          この頃から全国的な飢饉となり大規模な戦闘は休止状態となる。
          巴御前は『心も剛にて力も強く、弓矢取っても打物取ってもすくやかなり」とあり権田河原の合戦では七人の敵を討ち取り倶利伽羅峠では一手の将をつとめている。義仲の最後の戦では強力をもって聞こえた敵の将畠山重忠と馬上で戦いつかまれた鎧の袖をふりちぎって奮戦している。
           城長茂は横田河原の戦いに敗れると三百余騎にて越後の国府に退いたが悪政で苦しめられていた土地の住民をはじめ豪族たちも悉く義仲についたので城氏は出羽の金沢(鶴岡市の北海岸か)かまたは陸奥の藍津(会津)へ落ちたという。僅かに300人が越後に逃げ帰ったことを越後の国の知行人光隆卿が院において語ったと九条兼実は書きとめている。
            『素描木曽義仲』に木曽義仲は騎馬武者による集団戦術を採用した最初の人であると書かれているという。義仲を取り巻く諏訪氏、根井等の本拠は当時産馬の日本の中心的な存在であった。また狩猟も盛んであったため騎射に通じた人々が多かった。信濃の16牧は大部分八ヶ岳と蓼科山の裏面の広い裾野と浅間山のふもとの広原とに作られていた。牧の長官は牧監といって中央から派遣された官吏で一国に一人ずつ置かれたが信濃だけは二人のことがありそれは望月(北佐久郡)と埴原牧(松本市中山)とに駐在していたらしい。牧監は毎年9月に国司立会いで二歳駒を検し良いものを選んでよく調教し翌年京都に引いていって朝廷に納めることになっていた。8月15日はその都入りの日で天皇が南殿にお出でになって御覧になられる式があった。これが有名な駒牽きでこの日都の人は見物を許され京都の重要な行事の一つになっていた。信濃から献上する駒は年々六十疋であった。根井幸親は望月牧の本拠にいたのである。これらの牧の馬は軍馬としてつかられたのである。望月から京都へ行くには少なくとも15日はかかる。8月1日に望月を出発し茂理(茂田井)から蓼科の雨境峠を越え東山道を諏訪に出て木曽路にかかるのは3日目である。現在、望月の御牧原の裾、鹿曲川のほとりに芭蕉の句碑がある。
  駒曳の木曽や過ぐらん三日の月   芭蕉
      6月15日     中原兼遠横田河原の勝報を知ることなく亡くなる。中原兼遠は木曽町日義の林昌寺の開基といわれ墓地もその妻千鶴御前と共に林昌寺にある。
        
         中原兼遠の墓(木曽町日義林昌寺)
           日義村にはヨセ町に義仲の部将となった手塚光盛、ウワ村に樋口兼光、野上に楯六郎、根井に根井幸親のそれぞれ屋敷跡という地がある。
      7月1日   この日初めて横田河原決戦によって越後の城太郎弟助職等が義仲に敗れわずか参百余人が生き残って越後の国に逃げ帰ったことが兼実の耳に達した。
1181年   養和元年 7月14日   改元
      7月21日   『玉葉』では『伝え聞く、播磨国(現兵庫県)又国司にそむく者ありと云々。凡そ外畿諸国皆以ってかくの如しと云々』と記述している。
      7月24日    九条兼実は『玉葉』に人伝えに聞いたことを『能登、加賀等皆東国に与力し了んぬ。能登の目代逃げ上る。」と記述している。平家に反乱をおこす武士の圧力に耐えかねた目代(さかんだい)(国司にかわって国衛に赴任する者)が逃げ帰った。このように平家の知行国(国務執行権を与えられた者がその国の収益を得る)に背く者が増えたことがわかる。
      7月30日   玉葉に『頼朝・義仲・行家への勧賞(けんじょう)いかに行うべきか」の記述がある。頼朝の密書にだまされた公家は第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家となった。
      8月   城氏の敗戦は北陸道の反平氏勢力蜂起の引き金になった。加賀(石川県)の武士たちが越前(福井県)に乱入して大野郷・坂北郷を焼き払った。これに対して朝廷は平通盛を派遣したが鎮圧することができず、平通盛は若狭の敦賀に退いた。
      8月1日   「玉葉』に『源頼朝が密かに法皇に申し上げることあり」の記述がある。源頼朝は「源平両氏を共に用いるべき。主君にそむくつもりは無いこと。ひとえに法皇の御敵を征伐するためであること。関東は源氏の支配とし西国は平氏の任とし源氏と平氏のいずれが法皇や朝廷を守るか両氏の行動を御覧下さるべき』との密書を法皇へ出している。
      8月13日   院宣藤原秀衡を陸奥守として頼朝を城資永を越後守として義仲を追討させるべく命じる(吾妻鏡)源平盛衰記では8月25日となっている。
      8月15日   義仲追討のため平経正、道盛軍北陸道へ進発する。(吾妻鏡)
      8月26日   平通盛、能登守平教経を義仲追討に北国へ下す(源平盛衰記)
      9月2日   『玉葉』に『北陸道、加賀以北、越前国猶命に従はざる族あり云々通盛朝臣征伐する能はず』とあって平家に従わない者が反乱を起こしたことが知られる。義仲の横田河原の合戦で大勝したことの波紋が諸国に与えた結果と想われる。
      9月3日   平教経北陸道へ進発する
      9月4日   義仲北陸道へ回る(吾妻鏡)
          長野市鬼無里では鬼無里を通り早川谷を経て梶屋敷(糸魚川市)に出たという。鬼無里は木曽義仲に関する伝承、旧跡の多い面白い地方である。
      9月4日   義仲の先陣根井行親は、平通盛と越前水津で戦う(吾妻鏡)根井小弥太、通盛らを破る。
      9月6日   朝廷はふたたび鎮圧軍を派遣し、加賀と越前の境で衝突したが、平家軍はふたたび敗れた。平家軍敗退して京都へ退く
      9月9日   道盛、教経木曽軍と戦い大敗(源平盛衰記)
          新田義重と源姓足利氏は足利庄の領主職を争い、新田氏は平家に訴えて支配地の回復をさせてもらったこともあったので平家に恩義を感じ源氏と戦う姿勢でいた。
      9月13日   新田義重は頼朝の配下下和田義茂(三浦氏、和田義盛の弟)に攻められ自分の従者桐生六郎に殺された。(吾妻鏡)
      9月14日   義仲北陸へ発向。(吾妻鏡)
      10月20日   平通盛寒気にて京へ引き上げる。平経正は若狭に留まる
      11月24日   『得田文書』能登半島の『得田』という武士に義仲が所領を安堵した『下文』である。石川県立図書館所蔵の『雑録追加』巻七に収められていた資料の中から発見された。
       12月14日~
12月17日
   墨股川(尾張川))の戦い新宮十郎蔵人は源頼朝の弟源義円を大将に五百騎の援軍を合わせて三千騎を率いて京に向かった。途中平重衡、維盛、知盛の平家の大軍と美濃・尾張の国境墨又川に遭遇し、戦ったが敗れる。このとき義円は深入りしすぎて戦死した。(吉記)
          行家は再起を期して三河の国府豊川に陣を張っていたところへ信救が見るも無残な姿で現れた。行家は信救に湯治などの便宜を図ってやり信救も皮膚が治り元の姿にもどった。
          前年から続いた旱魃でことに養和元年は(1181)大凶作で翌寿永元年にかけていたるところで西国を中心に大飢饉となり餓死する者が出るほどであった。
義仲、頼朝、平氏の三勢力対峙する。
1182年   養和2年   29歳 引き続く凶作の中、内乱はこう着状態となる。
義仲、頼朝、平氏の三勢力対峙する。
              この年源行家、覚明ら義仲の軍に加わったであろう。源行家は八回も戦い6回も敗れ多くの自分の家来や家の子郎党を失ってしまったので困って頼朝にいずれかの国をと所領を乞うたが許されず頼朝と行家は不和となり恨みに思ってやむなく行家は信救に従って残兵を減らし八百騎を率いて信濃に赴き木曽義仲の配下に入った。義仲は情誼に富んだ武士なので来る者は拒まずで信太三郎先生義広と源行家の二人の叔父を義仲軍に入れた。猜疑心の強い頼朝が義仲を疑い憤りを感じることとなった。
一方信救は海野幸親の次男で長兄の幸広は父の跡を継ぎ海野家を守り次男の道広は観学院の蔵人となった。やがて出家して最乗坊信救と名乗り奈良興福寺に入り仏門を学んでいた。奈良で平家の専横ぶりに大衆が蜂起したとき平家の大軍が鎮圧を図ったが治まらず東大寺まで炎上させるようなことが起こったとき「平家の糟糖、武家の塵芥」と書いたのを平清盛が怒って信救は興福寺から逃げ源の行家に助けられた。そして義仲をたずねたのである。信救は山吹御前の兄ということで義仲は大変喜び信救を優遇した。また名を木曽大夫坊覚明とし文武の師として皆から仰がれた。
      2月   平敦盛、義仲追討のため北陸に向かう
      3月17日   『吉記』に『兵糧米徴収を検非違使庁の遣いに託した。」とある。
      3月19日   『吉記』に『道路に死骸充満』との記述がある。
1182年   寿永元年 5月27日   改元
          この年大凶作(養和の飢餓)
義仲、頼朝、平家の三勢力互いに兵を動かさず対峙する。
          徳音寺は宮の越の北方山麓に在りその晩鐘は木曽八景の一にして寿永年間の創建とある。(西筑摩郡誌)
      7月29日   藤原兼実はある人に聞いた話として、「玉葉」に前讃岐守の藤原重季が北陸道に向かったと記した。
      8月11日   藤原重季は以仁王の子である北陸宮とともに越前に入ったとの情報も入ってきた。藤原重季は北陸宮の乳母の夫である。
        藤原重季、以仁王の遺児・北陸宮を連れて越中の国宮崎へ入る。
          木曽義仲が母の小枝御前の菩提を弔って一宇を建立、柏原寺と号した。初めは真言宗で奉仕されていた。義仲の死後木曾へ逃れた郡市の大夫房覚明が義仲の霊を弔って小枝御前の墓のかたわらに墓碑をたて、その法名をとって日照山徳音寺に改称したという。
1183年   寿永2年 2月23日 30歳 常陸国信太郡を中心に勢力を伸ばした頼朝の叔父の源(志田)義広は頼朝に一矢報いるべくは領地を接する藤姓足利氏と小山朝政に挙兵を呼びかけた。小山氏は義広に「味方するから館に来てほしい。一緒に作戦を立てよう」と返事をした。義広は喜んで三万の軍勢を率いて小山の館に向かった。しかしそれは罠で小山氏は頼朝に懐柔されており館に向かって無防備に進んでくる義広の軍勢を一斉に襲ったのである。義広の怒りの矢が小山朝政に放たれ、小山は馬から転げ落ちた。走り去った馬を見た別働隊は小山が討たれたと勘違いし義広に総攻撃をかけた。義広の乳兄弟・多和山七太が身を挺して義広を守り命を落とした。この戦を野木宮合戦という。義広の軍勢、小山の軍勢共に多くの犠牲者を出し合戦は終わった。敗れた義広は義仲の軍に加わった。このように頼朝は、同じ源氏でも敵対する者は謀略を用いて容赦なく潰し、味方する源氏は家臣として配下に加えていった。
      3月上旬   このころ源頼朝は兵十万余騎を率いて義仲を討つため鎌倉を出て碓氷峠から信濃の国へ入った。これは甲斐源氏武田太郎信義の子の武田信光が「義仲は頼朝を攻めるかもしれない」と言ったためだった。(源平盛衰記)この頃、新宮十郎行家は頼朝を離れて義仲のもとに参じたことも頼朝にしてみれば謀反の疑いありと考えた大きな原因と思われる。
          義仲は依田城(上田市南方丸子町依田)にいたが、城を出て熊坂山(現信濃町熊坂、妙高高原駅南)に陣を取った。熊坂山は依田より約六十キロ北方のところであるが義仲は頼朝の十万騎と衝突することを恐れて退去したと考えられる。
          頼朝は信濃の国善光寺に着いた。義仲は今井四郎兼平を使者として頼朝に義仲の謀反の心のない事の証として清水冠者を質に遣したことが記されている。(平家物語)
      3月26日     義仲が横田河原の戦いで平氏を破った後いつしか頼朝との間が不和となったが義仲は源氏同士の争いを避けるため義仲の長子義高(母は巴11歳)を人質として鎌倉へ送り頼朝の娘・大姫の許婚(いいなずけ)になるという条件で和睦を図った。実質的に義高は人質である。義高は松本市清水で誕生し同地の槻井泉(つきいずみ)神社のこんこんとわき出る泉を産湯の水としたので清水義高と名付けられたという。旅立つ前、義高は義仲や多くの家臣の前で見事な笠懸の腕前を披露し信州を後にした。義高が鎌倉へ下向したとき海野望月諏訪藤沢などの兵達を伴わせたが其の中に幼少のときより木曽殿に仕えていた海野幸広の子海野小太郎幸氏(11歳)も同道していた。頼朝と義仲の仲が険悪になってきた理由の一つは甲斐の国源氏の武田信義の子武田五郎信光が義仲の子である清水冠者義高に自分の娘を嫁にと申し込んだが無愛想に断られたのを遺恨に思い頼朝に義仲は平家追悼と称して上洛をしようとしているが実は小松内大臣(平重盛)の娘と義高を結ばせ平家と一緒になって頼朝を滅ぼさんという企てがあるのだと告げ口をしたことである。
          頼朝は義高を長女大姫の許婚者にしたといわれている。大姫はこのとき6,7歳であるが、大姫が義高を大いに気に入って兄のように慕ったという。幼心に義高を未来の夫と思い込んだ。
      3月26日   平家義仲を討つため大軍を北陸へ差し向け、先発京を立つ。兵粮米(将兵の食料など)の片道分は進軍途中で現地調達(強制取立て)を許可された。(路地追捕)
      4月     『玉葉』によると平家軍は北陸道へ出発の時京都で『人や馬やいろんな物を路上で目に付くものは横取りした。』となっている。このような平家軍の乱暴を義仲軍の仕業に置き換えたようだ。
『平家物語』に『平家軍は進軍途中で片道分を路地追捕(現地調達)』との記述がある。
      4月13日    『玉葉』に『武士(平家軍)の従者などが近郊の畠の(麦)刈り取りという乱暴をしているようです。」という記述がある。この狼藉は義仲が入京する3ヶ月も前のことである。『平家物語』ではこのような狼藉のすべてを義仲の狼藉としてしまっているため『平家物語』の義仲像は錯誤が多いことがわかる。
      4月14日   『玉葉』に「武士等の乱暴」「平の宗盛に訴えるも止まず」の記録がある。
      4月17日   義仲追討のため小松三位中将平維盛、平経正、通盛、知度等6人を大将に任命し将兵十万の大軍を率いて北陸に向かって都を立つ。
      4月27日      平氏軍、北陸道随一の要害燧山城(北陸武士団(義仲)対平氏)(福井県南条郡今庄町)(南越前町)に派遣し陥れ、勝ちに乗じて河上城等諸城を落とす。燧山城は倶利伽羅合戦の前義仲軍の最前線とした城で源氏六千余騎が籠っていたが、平泉寺の長吏斉明威儀師の裏切りによって義仲軍の先鋒が敗れた。林六郎光明・富樫入道仏誓は加賀の国に退いた。平家の大軍は北国に向かう途中、上納物や租税まで奪い取るという狼藉をほしいままにしたと『平家物語』は伝える。
 義仲の寝覚めの山か月悲し     芭蕉
          源平盛衰記では北陸諸将は河上城へたてこもったが兵糧が尽きたので、さらに引いて三条野に入ったという。三条野の合戦で林六郎光明の息子、今城寺光平が自慢の馬にどうしても乗りたいと父の制止を振り切って参戦したが、馬がときの声に驚いて走り出してしまい、斉藤実盛に討ち取られたという。北陸諸将は引き、加賀の国篠原に陣をとった。平家は越前の国長畝城で休息した。
      5月2日   越中長畝城にいた平家が篠原に押し寄せた。篠原の戦い(初回)で義仲軍後退す
          義仲が越中六動寺(現・新湊し六渡寺)の国府(現・高岡市伏木)に布陣中白山社に願文を奉納し戦勝を祈願したが大夫坊覚明の書である。
      5月8日    北国処々の戦いで義仲敗れる。都を立った平家の大群は途中越前平泉寺の長吏斎明威儀師を見方につけた。維盛軍は加賀の篠原で勢ぞろいして十万を二手に分け、大手の七万余騎は加賀と越中の境砺浪山へ、搦め手の三万余騎は能登と越中の堺志保の山(石川県羽咋郡志雄町)へ向かった。義仲は五万余騎で越後の国府(直江津市)を出て、軍勢を7手に分けて砥浪山に向かった。義仲は一万余騎を率いて砥浪山の北羽丹生に陣を取った。(羽丹生は現小矢部市埴生町)
          義仲が越中六動寺(現・新湊し六渡寺)の国府(現・高岡市伏木)に布陣中白山社に願文を奉納し戦勝を祈願した。大夫坊覚明の書である。
      5月8日    。平維盛は越中前司平盛俊を先遣隊の大将として五千騎を引きつれ般若野(富山県庄川両岸の野、国府高岡市の北)に陣を敷かせた。このとき義仲は越後の国にいたがこれを迎え撃つため今井四郎兼平に出陣を命じた
          今井四郎兼平は海岸線に沿って親不知などの難所を通り、黒部川を渡り、御服山(呉羽山)に陣をとった。
          平盛俊は倶利伽羅から小矢部川を渡って般若野に出て陣を敷いた。そのとき御服山には既に源氏の白旗がなびいていた。
      5月9日    越中般若野の戦い義仲軍の先遣隊今井四郎兼平は将兵六千騎をを率い越後の国府直江津を出て驚くべき速さで越中(富山県)般若野へ打ってで、平家軍の先遣隊平盛俊の軍を破る。平盛俊軍は二千騎を失い倶利伽羅峠を越えて加賀国まで敗走した。
      5月10日   国府から般若野に向かい、兼平の軍と合流した義仲は雄神川の御河端に着き作戦会議を開いた。加賀での戦で深手を負った宮崎太郎も石黒も集まった。
      5月11日     般若野戦いに大勝した義仲は五万の兵を七つの軍に分けた。①十郎蔵人行家の一万騎は永見から志雄峠(志保の山)(現石川県羽咋郡志雄町付近)に向かった。
②仁科・高梨・山田次郎の七千余騎は、北黒坂(北の安楽寺から倶利伽羅峠へ登る道)の搦手に向かった。
③樋口次郎兼光・落合五郎兼行(恵那市落合に住む)の七千騎は加賀の林、富樫を連れて南黒坂(南の松尾から倶利伽羅峠に登る道)へ向かった。
④一万余騎は砥浪(砥波)山の口、黒坂の裾、松長(倶利伽羅峠の南東小矢部市松永)の柳原ぐみの木林(矢立山を下る山路の南)に隠した。
⑤石黒太郎光弘らを案内者とする今井四郎兼平の六千余騎は鷲の瀬を渡って日宮林(小矢部市蓮沼にある神社の林)に陣をとった。
⑥義仲の本体は1万余騎で小矢部の渡り(小矢部川を渡る)をしてと浪(砺波)山の北はずれ羽丹生(小矢部市埴生町)に陣をとった。て砺波山の東に陣をとった。義仲は平家の大軍を倶利伽羅の谷へ追い落とす作戦をたてた。このため平家軍を油断させるために急がず日の暮れるのを待った。
⑦これより先義仲は樋口次郎兼光・林・富樫の三千騎をひそかに北方の道、坪野・大畠・富田などを迂回して、平家軍の背後搦手に向かわせた。礪波山の戦い義仲平家平維盛(これもり)の兵十万の大軍に大勝する。海野幸広は海野小太郎幸親の子で平氏の将越中権の守の範高を討ち取った。源平盛衰記に『木曽殿には葵、巴とて二人の女将軍あり。葵は去年の春、礪波山の合戦に打たれぬ」とある。
      5月11日   松林の中に神社を見つけ池田次郎忠康から八幡大菩薩をお祭りする埴生八幡宮(富山県小矢部市埴生、現護国八幡宮)と知らされると倶利伽羅合戦にのぞんで戦勝祝願のため小県郡海野幸親の子大夫房覚明に願文を書かせる。「木曽願文」とよばれる。現在富山県小矢部市埴生の埴生八幡(現護国八幡)宮の宝物殿には義仲の願書と伝えられる巻物とともに鏑矢なども社宝として保管されている。義仲館には複製した木曾願書が展示されている。
           願文が完成する頃、雨が降り出した。義仲は雨にぬれないよう蓑を着た者に十三本の矢と願文を持たせ奉納させた。すると、白鳩がどこからか飛来して源氏の白旗の上を旋回した。「これは霊鳩だ」義仲は馬から飛び降り兜を脱ぎ、地面に頭を付けて拝んだ。そこにいた武士たちは皆義仲と同じように祈りをささげた。
      5月11日      倶利伽羅峠の戦い
平家軍十余万騎対義仲軍五万余騎で勝利
(木曽義仲対平維盛・行盛・忠
度(平氏)義仲は平家の十万(七万の記述もある)の大軍を破るため牛四、五百頭を集め角に松明を結びつけて暗くなるのを待った。⑦これより先義仲は樋口次郎兼光・林・富樫の三千騎をひそかに北方の道、坪野・大畠・富田などを迂回して、平家軍の背後搦手に向かわせた。樋口大河から馬手に廻ったあいずとともに全軍一斉に太鼓を討ち、法螺を吹き木のもとや萱のもとを打ちはためき、ひきめ・鏑を射上げてどよめきかけた。夜になり松明に火をつけた牛を一斉に平家の大軍の中に追い込んだ。驚いた平家の軍勢は刀や弓を捨てて倶利伽羅谷の中へ落ちて馬も人も死んでしまった。流れる血が川をなしたと伝えられている。これが「単田火牛の計」として戦史に名を残した倶利伽羅峠(富山県小矢部市)の戦いという。(源平盛衰記)このとき義仲軍は信濃武士以外の源氏の人々が義仲軍に合流していて五万にふくれあがっていた。
火牛の計は中国の戦国時代に斉の田単が用いた。燕の楽毅が斉に攻め込みたちまち七十余城を攻略した。斉に残ったのは菖と即墨の二城のみである。ここで田単は火牛をもって奪われた城へ逆襲、ことごとく奪還して安平君に封ぜられたという。義仲はこの兵法を学んでいた。
倶利伽羅峠の合戦では中原兼遠の次男で義仲の乳母子である四天王の一人といわれた樋口次郎兼光は一軍を率いて敵のはるか後方へ回り夜襲を成功させ大勝利のもとをつくった。その後は常に義仲のそばにいて義仲を支え各地で戦って手柄を立てた。巴御前は壱千騎の大将として鷲獄のもとへ差し向けられたことが源平盛衰記に見える。
栗田寺別当範覚(はんがく)の娘といわれる葵御前は倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしたといわれる。他の説に加賀の国安宅河原の戦いで平家の摂津判官盛澄を討ち取ったが尾張判官貞康に討ち取られたとも言われている。倶利伽羅の古戦場に向かう途中に葵塚が建てられている。
倶利伽羅峠の合戦で手柄のあった加賀燧城主の林氏の一族林某を妻籠の兜観音堂の別当職に任じこの地方の武士の頭梁として砦を守らせたと伝えられている。
平家の大将平の維盛は加賀国(石川県)篠原まで逃げ帰った。今倶利伽羅山中にはあちらこちらに戦跡を伝える石碑が建ち平家の大軍がなだれ落ちた谷底は地獄谷と呼ばれて当時の惨状がしのばれる。(木曽町日義では8月14日の夜に子供たちが松明を灯して山吹山の峰から詩を歌いながら義仲公の墓詣りをするする「らっぽしょ」という伝統行事を今でも行っている。これは倶利伽羅谷の「田単火牛の策」の名残で義仲公を弔い松明祭として行っているのである。)
 花のつぼみも数あれば、みごとなものよ。
 少年も仲良くそろって旗たてて
 おおしく並ぶ勇ましさ
 やがて花咲き実を結び国のためになるものを
 木曽の木の字に点うって日義の日の字を上に書き
 日本一の旗立てて、遊ぶ少年団体は
 朝日に勇む駒王も、桃太郎団子丸めこめ
 朝日将軍義仲とおらが在所は一つでござる。
 巴御前も、山吹姫も、おらがとなりの姉さじゃないか
 今井兼平、樋口の次郎鬼の血すじに生まれはしまい。
 同じ木曽路の育ちじゃものを
 彼等ばかりにいばらすものか
          木曽太夫坊覚明白山神社への戦勝祈願文執筆
      5月12日   奥州藤原秀衡より逸馬2頭を祝いとして受ける
      5月12日   能登志尾山の戦い平知盛討死。義仲、志尾山で行家を救援。
      5月21日   石川・篠原の合戦
斉藤実盛の首洗い
平家の生き残りが加賀の国篠原に陣を構えた。義仲は勝ちに乗って加賀篠原へ押し寄せ維盛軍を攻め立てた。
      6月1日      安宅が原の戦い
石川・安宅湊合戦で平家軍を破る
葵御前は加賀安宅が原の戦に巴と共に戦いここで戦死を遂げた。篠原の戦い(義仲対維盛)(石川県加賀市)で平氏軍を破る。平家は倶利伽羅の生き残りを加賀の国篠原に引き退かせて一息入れているところに義仲は五万余騎で襲いかかった。義仲は平家軍を破り三河守平知度を討ち取った。このとき逃げる平家の中にただ一騎踏みとどまって手塚太郎光盛と戦って討ち死にした武将がいた。光盛が名を尋ねると「この首を義仲にみせればわかる」と言って首を討たれたと義仲に話した。不思議に思った義仲がその首をあらわせると髪を染めた墨が落ちて白髪の老将の顔になった。この人こそ二歳の駒王丸を助け木曽へ逃がしてくれた命の恩人斉藤別当実盛だったのだ。義仲は涙を流して悲しんだという。(平家物語)「源平盛衰記』では実盛の首を洗わせて白髪が現れたとき義仲は、『父が殺された時、2歳で何も知らなかった頃、実盛の情で7日の間かくまわれ養育され、木曾へ逃がしてくれた志、ひとえに実盛が恩人である。一樹の陰、一河の流れというが、実盛も義仲にとり7日の養父である。危険な敵の中を護りとおしてくれた志、何で忘れられようか。この首よく孝養せよ』と言ってさめざめと泣いたと記されている。(義仲の二つの悲しい戦いの内の一つといわれる)
光盛は小県郡手塚の里(西塩田村)に領地を持っていたので手塚太郎と称した。下社秋宮東の霞城を一名手塚城とも言うのはその居城であったからである。加賀市の篠原古戦場には実盛の首を洗ったという池と実盛を葬った塚がある。
小松市の多太神社には斉藤実盛の兜と鎧が納められている。
 「むざんやな甲の下のきりぎりす」     芭蕉
        諏訪盛澄は義仲に従って越中の阿努(富山県氷見市)というところまで行ったが下社御射山祭神事をつとめるため弟の手塚太郎光盛をのこして帰国したとある。
      6月4日    京に平家軍の大敗が伝えられる
去る5月1日都に迫りつつある義仲を討つため平家の大軍が北陸に向かって発信していったその多くが義仲勢によって死傷した。兼実は平家の大敗を『誠に天の攻めを蒙るか』と書き留めていることから都人にとっておごる平家の敗退に対して義仲の圧勝は義仲への期待を物語っていることを知る。
          北国日野川合戦に義仲軍勝利
      6月10日    義仲京都へ入る前に越前の国府に入り比叡山延暦寺へ「木曽山門牒状」を送り僧徒を誘うる。「木曽願文」「山門牒状」ともに大夫房覚明が書き名文として有名である。(源平盛衰記)
延暦寺、義仲の求めに応ずる。
      6月17日   義仲軍、近江の蒲生野へ進軍
      6月29日   義仲の先陣は近江の国三上山の麓、野洲の河原に陣をとった。義仲は蒲生に陣をとって山門の返牒を待つあいだ日数が経て兵粮米がなくなってきた。義仲は百済寺へ使者を出して兵粮米を乞うた。百済寺から兵米五百石を送られた。義仲はその志を感じて当時の御油料として押立五郷(愛知県押立等五か所。押立は百済寺の西北隣)を寄進したことが『源平盛衰記』に記されている。
      7月2日   比叡山延暦寺山門より三千の衆徒が協力する旨義仲のもとに牒状きたる(「平家物語」の返牒の日付が7月2日となっており届いたのはそれから数日後と想われる。)
      7月2日    『玉葉』に『義仲が都に近づくとその進路にあたる平家に属していた、多田蔵人大夫行き綱が平家を離れて義仲に参じたのを始め摂津・河内両国まで平家を離れて義仲に参じてきた。丹波に居た平の忠度は義仲勢に恐れをなし大江山に逃げ込んだ。そして民衆まで皆悉く義仲に余力云々。」と記されている。
      7月5日   平家は山門に一門の公卿十人連署して味方につくよう願書を送ったが同意されなかった。書かれたのが7月5日で比叡山の衆徒が知ったのが3日後の8日だった。義仲に味方することが決まった6日後のことだった。
      7月10日   義仲延暦寺に山門牒状を送り協力を求める
義仲軍の先鋒瀬多につく
           白河法皇[思い通りにならないもの 加茂川の水 双六の賽の目 山法師]
山法師といわれる延暦寺の僧兵を味方に入れようとして協力の返事をもらった。
      7月12日   義仲軍近江の瀬田に至る。
       7月14日    行家伊賀の国に入る。続いて大和に入る。
      7月17日   『玉葉』に『今に於いては義仲、行家等が早く入京し、士卒のろうぜきを停止しなければ京中の濫吹敢て止むべからず』とあり義仲の入京に期待していたことがわかる。
      7月21日   平の資盛ら近江に向かう。
      7月22日   琵琶湖を渡り三千の衆徒を味方にした義仲が比叡山に登ったことが『吉記』『玉葉』に書かれている。義仲延暦寺東塔惣持院に城郭を構え平氏との決戦にそなえ據る。平知盛、重衡ら戦わずして京に帰る。
          義仲は比叡山から都をめざしている。十郎行家は大和国から、多田行綱は平家に寝返って、摂津・河内の衆氏は皆、源氏に与力している。平家は知盛・重衡・頼盛等が軍勢を率いて勢多方面に向かう。忠度は丹波から逃げ帰る。このような源氏の四方からの圧迫に平氏はもはや万策尽きんとしている有様を九条兼実は下記のように書いている。
      7月23日   『玉葉』に「六波羅のあたりがことのほか物騒がしくなったことが記され都は義仲に追われた敗残兵などが入り込み、今夜夜討ちがあるなど風聞があるようになるなど不安を予知した法皇は何れかに姿をかくしてしまった。」と記されている。
      7月24日   後白河法皇ひそかに京都の鞍馬路から横川(よかわ)(比叡山延暦寺の三塔の一)に入る。(九條兼実の日記、玉葉)
      7月25日     義仲は五万余騎の大軍を率いて京都に向かいこれを聞いた平の宗盛以下平家一族は上皇をはじめ安徳天皇、三種の神器を奉じて六波羅の平家屋敷(一門の家224カ所輩の宿所など五万の在家に火をつけて七千余騎都落ち  福原から西国に さらに九州大宰府に)などに火をつけ鳥羽の方面(京都南部)へ都落ちしていった。京都市内は平家軍の退却により生じた警備の空白のため放火や略奪などの大混乱となる。『愚管抄』によると平家軍の退却の時平家屋敷には火事場泥棒が発生した。
      7月25日   兼実は『寅の刻人告げて云う。法皇御逐電云々」と記し、『このことは日ごろ萬人の願う所也』とある。『この日巳の刻定能卿が来、武士等が主上を具し奉って都落ちした平氏の事を告げ、六波羅や西八條等は一所も残らず平氏都落ちに発した火のために廃人と化し云々』とある。
後白河法皇一時延暦寺へ動座し難を逃れる。(『玉葉』ほか)
      7月26日   『愚管抄』(九条兼実の弟で僧侶の慈円による歴史書)によると比叡山延暦寺の僧兵も加わり一般市民による放火や追捕(略奪)が横行した。『吉記』に『所所に乱暴放火追捕あり』『眼前に天下の滅亡を見る」の記述がある。
      7月26日   『玉葉』に九条兼実が以仁王の存否の事について法皇に尋ねていることが書かれている。
      7月27日   『玉葉』に『義仲や行家を乱暴の停止のため早く入京すべきである』と義仲軍に乱暴の停止を期待している。『玉葉』は京都の公家で右大臣の九条兼実の日記である。
       7月27日    後白河法 皇京に帰る。
          兼実は『法皇は前日27日に都に還御され,その夜は法住寺に宿す。』と『玉葉』に書きとめている。
      7月28日      義仲は入京に先立ち比叡山から後白河法皇をお迎えし五万の軍勢で御護りしながら京都へ入った。(平家物語)源平盛衰記では六万となっている。
しかしこのとき法皇は比叡山を下ってしまっていたことが『玉葉』に見える。このとき義仲は以仁王の若宮(木曽宮)を伴って入京している。
義仲は京の北から行家は南から入京し義仲と新宮十郎行家は蓮華王院(三十三間堂)御所で後白河法皇に謁見し、平家追討の院宣を受ける。九条兼実はこのときの有様を『彼の両人相並び敢えて前後せず権を争うの意趣これを以って知るべし』と書き留めている。行家が義仲の期待に沿わなかったことがわかる。そして両人退出の時、頭辧兼光から義仲に京中の治安について依頼したと記されている。京都は1年前から飢饉と悪疫が深刻となり、嬰児を道路に棄て、餓死者街に満ち夜は強盗放火が相次ぎ、童は死人を食うという有様だった。こうした時に義仲は入京したのであるから義仲入京前からの狼藉悪行のすべてを義仲の配下の者としている『平家物語』の為に濡れ衣を着せられたままの義仲に同情し汚名を返上しようと義仲復権運動が起こっているのである。
           地方からの武士が京に攻め入った最初 しかも京が戦場にならずに 兵火も無く無血の入洛 源氏の白旗が平治の乱以来34年ぶりに都に翻る
          義仲が京にいた時軍の警備が行き届かないために軍の兵士のみならず源氏と称して近国、近在の者、野盗集団、寺院の悪僧などが乱暴、狼藉を働いた。義仲はこれを見かねて警備区域を定め各部将に警備をおこなわせた。兼行は兼光の警備屯所に配属され乱暴、狼藉を働く者を厳しく取り締まっていた。ある時兼行は権大納言平頼盛卿が家人家族とともに七十余名が仁和寺の奥に隠れ食料に窮乏しているのを見つけ兄兼光に伝えたところ兼光は義仲に進言して食料を平頼盛卿に分け与え一族を救った。このような義仲軍の美談は一般にはなかなか伝えられていない。
      7月29日   蓮華王院の御所で30日にかけて頼朝・義仲・行家の行賞が議され、第一頼朝第二義仲第三行家の順となったとある。
      7月30日    後白河法皇から義仲に京中守護の支配を命ずる院宣が出され、京中を支配することになった。(吉記)京中守護の任に当たった武士たちは次のとおりである。
源頼兼(源頼政子息)、高田四郎重家・泉次郎重忠(尾張源氏)、出羽判官光長(美濃源氏土岐一族)、安田三郎義定(甲斐源氏)、村上太郎信国(信濃源氏か)、葦敷太郎重隆(尾張源氏)、源行家(義仲の叔父)、山本兵衛尉義経(近江源氏)、甲斐入道成覚(甲斐の武士か)、仁科次郎盛家(信濃平氏か)、源義仲
挙兵当初から義仲に従っていた今井・樋口・根井氏などの名前はなく義仲の支配にもとづき京の守護についた武士たちは、義仲が直接掌握できない武士団の棟梁たちであった。叔父の源行家は「義仲に従った源氏は義仲の郎従ではない。ただ戦場で従っただけなので義仲が恩賞の分与まではできないはずである」と述べている。
      7月30日   「愚管抄」によると追捕、物取りが発生したとある。義仲が京中守護に任命された。さらに法皇から『軍勢が多すぎるから減らせ。京都市内の治安を回復せよ。平氏を追討せよ。食料の支給はしない。」と無理難題が要求された。
『吉記』に『京中所所に追捕あり』との記述ある。
      7月30日   『玉葉』に『頼朝、義仲、行家への勧賞いかにおこなうべきか」の記述がある。
          寿永2年は春から天候が順調でやや希望が持てたが焼け石に水であった。しかも西のほうがひどかったのである。信濃から北陸を経て京都に達するという長途の遠征の末木曽の軍平がようやくたどり着いた京都はこうした災害のまっただ中にあった。都は治承4年以来の兵乱で荒れに荒れていて餓死者は数万を超えていた。こうした食糧不足に悩んでいた京都へ多くの軍平が入ってきたのだからたまらない。略奪、暴行、田や畑の青刈りをして馬の飼料に強奪した。
      8月6日   乱暴の記述がある 
      8月11日   『玉葉』に義仲従五位下左馬頭兼越後守に行家は従五位下備後守に任ぜられたが、行き家は厚賞にあらずと辞退云々とある。行家は備前を義仲は伊予国をあらためて賜ったと『平家物語』は伝えている。この日乱暴の記述ある。
      8月11日    義仲朝日将軍の称号を与えられる
      8月14日    皇位継承問題起こる。8月中旬頃いくたりかの候補の中から先帝高倉天皇第三皇子(惟明(これあきら)親王)と第四皇子(尊成(たかひら)親王)の二方にだいたいしぼられた。ところがここに義仲が北陸の宮を強力に推してきた北陸の宮は以仁王の皇子で以仁王は高倉天皇の兄で共に後白河法皇の皇子である。だから北陸の宮は惟明親王、尊成親王と同じく法皇の孫であって、血筋からいって皇位継承の資格においては全く同等であった。法皇は義仲と親しい俊堯僧正を遣わして『以仁王は皇位につかれなかった。だから皇位についた高倉天皇の皇子をさしおいて北陸の宮を即位させることは皇祖の霊に対してもいかがかと思う』と説得した。義仲は『高倉天皇は平家の威勢に恐れてその無法に対して何もなされなかった。しかし以仁王は、孝心が厚かったから平家を討とうとして亡くなられた。法皇はどうしてこの以仁王の身を亡ぼしてまで朝廷の権威を守ろうとされた孝心を考えられないのですか』と反論した。
      8月14日   義仲が『平氏追討の義兵の勲功は彼の宮(以仁王)の御力にあるから立王の事においては王の御子の若宮を立つべきである』と『俊堯僧正』を通して申したということが『玉葉』に見える。
      8月15日   義仲越後守から伊予守に変更される。
      8月16日   源行家備前守に遷る
      8月20日    しかし法皇が寵愛した女房丹波の局が夢想に従って第四皇子尊成親王を奉るべきと法皇に奏された。しかし義仲の推す北陸の宮のこともあるので入道関白藤原基房・摂政藤原基道・左大臣藤原経宗、右大臣九条兼実の4名が召されたが、兼実は病によって不参し、3名が各々意見を述べた。義仲を支持した藤原基房以外は四の宮を支持したので四の宮に決定し即位させた。4歳の幼帝八十二代後鳥羽天皇である。
           玉葉(九条兼実)「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」(皇位継承問題というような大事は人臣の関わることでない)
      8月28日   取締りの伝聞がある。「愚管抄」によると義仲入京後は略奪や追捕の記載はないという。義仲入京後1ヶ月が過ぎたこの日兼実は「玉葉」に義仲が狼藉の武士たち十余人を七條河原で処刑して都の治安維持につとめたことを書いている。
      9月3日   『玉葉』に『人々の災難は法皇の乱政と源氏の悪行より生じた』との記述がある。
      9月5日   一切存命できない。殺されそうだ。餓死しそうだとの記述がある。(玉葉)
『愚管抄』に義仲軍等の入京後は『かくてひしめきてありける程に』との記述がある。
      9月6日   この日以後乱暴の記述が無い。善意に解釈すると義仲軍は京都に入ってほぼ一ヶ月で混乱を制圧したようだ。
      9月10日    義仲平氏追討のため播磨へ向かう
平家物語に「木曽は信濃から巴、山吹という二人の美女を連れてきた。山吹は体が弱かったため都に留まった」と書かれている。山吹姫は中原兼遠の兄の海野兼保(海野幸親の養子)の娘である。林昌寺には山吹は義仲の妻だったという話が伝えられている。京都市立有済小学校の校庭に山吹姫の供養塔があるという。
      9月19日   九条兼実は『玉葉』で『北陸の宮明日入洛あるべし。今日寺(三井寺)に就くと云う』と記している。
       9月19日    後白河法皇は義仲を都から追い払おうと平家追討を命ずる
      9月20日    義仲、後白河法皇より御劍を賜り平家追討のため山陽道に発向し播磨へ向かう。しかしこのことは、右大臣の藤原兼実には知らされていなかった。藤原兼実は「玉葉」に次のように記す。(夜になってから人づたえに聞いたところによれば、義仲は今日、突然逃げ去り行方不明になったという。義仲の郎従たちがおおさわぎしたという。)
    寿永2年    下社の手塚太郎光盛の娘に唐糸という琵琶の名手があった。18歳の時鎌倉に召しだされ管弦の座敷を預けられていた。寿永2年の秋源頼朝が義仲征伐の為に兵を出すことを知った唐糸は義仲と一緒に京にいる父手塚太郎の身の上を心配して急いで知らせてやった。義仲からはおりかえし源頼朝の命を狙うようにと木曽の家に伝わる「ちゃくい」という銘刀をおくってきた。唐糸はこの刀を肌身はなさず日夜頼朝のすきをうかがっていたがふと湯屋でこの刀を見つけられてしまった。唐糸は捕らえられて石牢に入れられてしまった。母の安否を気遣う一人娘の万寿姫は下社に育って12歳となり鎌倉へ出かけてゆき名前を隠して乳母と一緒に頼朝の館に仕えた。働きながら久しくかかって石牢に入れられている母にめぐり合い助命のできる日を待った。
      9月21日    義仲平家追討のため西国下向の折樋口二郎兼光を京都守護職の一人として京都に留め置く。源の行き家が法皇に取り入って義仲のことをさまざまに悪くいい謀反の企てをしているようであったからである。この謀反の計画を察知した兼光は早馬を使わせて京に帰ってくるよう義仲に知らせた。このとき義仲は備中の国万寿の将(現倉敷市)で屋島の平家の陣を攻めようと準備中であったが知らせを聞いて備中播磨摂津と山陽道を駆け上り京に引き上げてきた。行家はこれを聞いて義仲と仲たがいしては不利と兵五百有余騎を率いて平氏追討の院宣と称し途中義仲と出会うことを避けて京の西にある老いの坂を越え丹波路を通って播磨に入った。
      10月1日    「玉葉』に『伝え聞く、先に頼朝の許に派遣してあった院の庁官が、たくさんの引出物を持ってこの両三日前帰参した。頼朝は引出物と共に3か條のことを申してきた。』とある。
       10月1日    頼朝の三箇条の奉文
武士に横領された寺社領をもとに戻す。
公領・荘園を本主に戻す。
平家の家人が帰願を求めた時厳罰に処さない。
      10月4日    『玉葉』に夜太夫史隆職が密かに、頼朝から持参した合戦の目録と折り紙を持参した。先日聞いたことと違わなかった。後代のため書き置く。
頼朝の三カ条の折紙(頼朝が天下をとった時の要求)の内容要旨
一、、神社仏寺に勧賞を行う
二、所領の返付
三、平氏に同心した者を罪としない
右三か条について院の宣旨を求めたものである。
      10月5日頃    頼朝は鎌倉を出たが途中で上洛を中止した。理由は大軍を都に入れることは兵糧が不足すること。いまひとつは奥州藤原秀衡が数万の兵を率いてすでに白河関を出たとの風聞によるものだった。頼朝は範頼・義経に上洛させ鎌倉に引き返さざるを得なくなった。
      10月9日   『玉葉』に『頼朝が数万の勢を率い入京したら京中は堪えられない。』との記述がある。
       10月9日    法皇が頼朝を謀反人から本位(右兵衛佐従五位上13歳)に戻す。
      10月12日   義仲備中の妹尾兼康を討つ
      10月14日   後白河法皇は頼朝に東山道・東海道の支配を許可する「十月宣旨」を出した。
      10月23日   法皇頼朝に義仲と和平することを求む
     
10月1日
日食
    義仲軍は播磨(兵庫県)備前(岡山県)と進み、備中(岡山県倉敷市)の水島で、四国の屋島に根拠を置きふたたび上洛を図る平氏と衝突した。
義仲、備中水島(現・岡山県倉敷市水島)の戦い(義仲対知盛・敦盛、平重衡、道盛)で平家軍に敗れる。陸戦に勇猛な信州武士も海戦には利なく足利義清、仁科盛家(宗)、高梨高直(信)、義仲の侍大将海野弥平四郎幸廣、矢田の判官代義清主従7人らの主将をはじめとして一千数百の兵を失った。「源平盛衰記」「平家物語」でみると、大手の大将は矢田義清、搦手の大将は海野幸広であった。
          義仲と同時代を生きた歌人の西行は
   木曽人は海の怒りをしずめかねて
        死出での山にも入りにけるかな

と水島合戦で敗れた義仲を批判的に詠んでいる。
          義仲は水島合戦に遣わした討手の敗北を知り、みずから応援にかけつける。ところが備中国の武士、妹尾兼康に裏切られた。妹尾兼康は平氏軍として北陸の戦に参加し生け捕られたが義仲に命を助けられた。
      
10月13日
  「玉葉』に頼朝は院に対して『東海・東山・北陸三道の荘園、国領本の如く領知すべき由、宣下せらるべき旨』を申請してきたので宣旨を下されることになったところ『北陸道許りは義仲を恐るるにより、その宣旨をなされず』とある。この閏10月の宣旨に『もしこの宣旨に従わざる輩においては、頼朝の命に従い追討すべし』とあることに対して、『この状義仲生涯の遺恨たるなりと云々』と記されている。
     
10月14日
  『玉葉』によると義仲の上洛を制止する院のお使いが義仲のもとに遣わされた。
     
10月15日
  義仲平家追討を中止し播磨より京へ帰る。義仲上洛する。
     
10月17日
  義仲は院に参り上洛の理由を申し上げる。
          この頃の義仲は東から上洛する鎌倉勢と西から勢力を盛り返して都に迫る平家と両面の敵を迎え撃たねばならない苦境に追い込まれた。義仲はここで平家との和睦を画策し一方では興福寺の衆徒に頼朝を討つべく協力を申し入れるとともに院に対して頼朝追討の院宣を申請している。(玉葉)
      10月20日    この頃より院と義仲、義仲と行家の不和はなはだしくなる。弁舌にたけていた行家は寿永2年頼朝のもとを去り義仲を頼ってきたことを考えれば入京後も義仲の力になるのが当然と思われるのに次第に義仲に対し競争心を出してきた。甥の義仲の振る舞いが都人の嘲笑を買っていることを幸いに如才なく公家衆に取り入りだした。
自ら武力を持たないので武士たちを互いに対立させ彼らを思いのままに操るというのが後白河法皇らの伝統的政策であったので法皇はことごとに義仲と行家を対立させた。そのことに気付かず行家は義仲に甥は叔父に対して悪感情を募らせた。
     
10月23日
  義仲に信濃・上野の2国が新たに与えられている。(玉葉)
      11月8日   義仲は行家と鎌倉勢を迎え撃たんとしたが行家は辞退し平氏を討たんためと言って河内の自分の所領に向かった。兼実は『義仲と行家已に以って不和、果たして以って不快出で来るか、返す返す不便』と『玉葉』に書き留めている。
           壱岐判官知康が後白河法皇のお使いで義仲に逢った時義仲が「あなたは鼓のように人から打たれでもしたか」といったことに腹を立て法皇に『義中嗚呼の者にて候早く追討させ給へ唯今朝敵となり候いなんず』といったことが原因で法皇は兵を集めて法住寺合戦となった。
      11月中旬   兼実は法皇が法住寺を城のようにして兵を集めつつ義仲に戦いを挑もうとしていることを記述している。
      11月17日   法皇義仲を詰問し京都退去を命ずる(義仲法皇を生涯恨み申し上げるとのこと)
      11月17日    九条兼実は『義仲は国家を危うき奉る可の理無し。只君が兵を集め城を構えて衆の心を驚かせられるは専ら愚の至りの政也。是小人の計か。果たしてこの乱あるは以って王事の軽。是非を論ずるに足らず。悲しむ可し云々」と法皇批判の記述をしている。
           北陸の宮は法住寺合戦の前日に、女房たちに付き添われて夜にまぎれていずれかに立ち去ったことを伝えているがその後の消息を知る資料がなく以後のことは明白でない。北陸の宮は基の越中の国宮崎に帰られたか定かではない。宮崎は現富山県下新川群朝日町で、ここに北陸の宮の墓があると伝えられる。
      11月19日     義仲法住寺殿を襲い法皇の近臣らを解官する。。義仲が京都へ入って4ヶ月目の11月になると後白河法皇は法住寺に軍勢を集めて立てこもったことから義仲が法住寺殿を攻めるらしいといううわさが広まった。義仲は後白河法皇に「法住寺殿を攻めるような悪い気持ちはありません」と起請文(神に誓う文)を書いて差し上げた。しかし後白河法皇は義仲の気持ちをわかってくれなかった。それは壱岐の判官知康が法皇に「義仲は悪いことをするかもしれないから早く打ち滅ぼしたほうが良い」と義仲の悪口を言ったためであった。そのうちにとうとう「法皇は義仲を討ち滅ぼす」といううわさが広まったため義仲が「知康が一番悪いから知康を捕まえてしまえ」と法住寺殿を攻めることにした。後白河法皇の御所法住寺殿を攻めるときはじめ樋口次郎兼光と弟の今井四郎兼平は十善の帝王に向かって弓を引くことはよくないと諌めたが義仲は「これまで九度の戦いに一度も敵に後ろを見せずいまさら兜を脱ぎ弓弦をはずし降参することはできない。」と主張した。義仲の決意の固いのを知った兼光、兼平は兵を率いて御所へ向かった。一手は今井兼平三百騎で、御所の東瓦坂を攻撃した。一手は楯親忠が八條西表門へ向かった。義仲は四百余騎にて七條北門の内、大和大路西門へ兵を差し向けた。義仲軍全体では都合千騎あまりだったという。
比叡山延暦寺天台座住明雲大僧正は、平清盛の信任が厚く、また後白河法皇とも結びついていた。明雲は義仲のクーデターで逃げ遅れ、馬に乗ろうとしたところを楯親忠の放った矢に腰を射抜かれた。立ち上がれないでいるところを親忠の郎等が折り重なり首をとった。興福寺長吏八条宮(後白河法皇皇子)も、根井小弥太が放った矢があたり絶命した。院の近臣たちは着の身着のままで逃れていった。京中は喜びの声であふれたという。法皇はみずからの屋敷に火をかけるが取り押さえられた。五条内裏に遷座され、矢嶋(八島)行綱が御所を警護し、軟禁した。
木曽全軍の将兵への院側のなされように対する不満と怒りさらに恨みをこめた報復の戦いがこの法住寺殿攻撃であり近年多くの人たちが当然の成り行きであったと考えている。都に近い国の武士はさんざん義仲軍の名を借りて悪行を重ねひとたび義仲軍の威名が落ちれば院側につき法住寺に篭り義仲を滅ぼそうとしたが義仲軍に敗れた。法住寺合戦は後年の承久の乱と同じで武士の力を無視した皇室側の惨敗であったといえる。
「後白河法皇のいる法住寺殿を攻めた」というのが木曽義仲は悪者だったという最大の根拠になっているが本当はその反対で「義仲が戦いをしなければならないように追い詰めていったのは法皇だった」と時の右大臣九条兼実は日記「玉葉」に書いている。「義仲はこれ天の不徳の君(法皇のこと)を戒める使いなり」とまで言っている。
「平家物語」の義仲は悪者として書かれてこれが正しいとされてきたが本当はそうではなかったことが近年はっきりしてきたのである
          法住寺合戦の直後に木曽太夫坊覚明木曽義仲をいさめる。
比叡山の離反をくい止めるため木曽義仲の怠状を執筆。
           法皇を五条東洞院にあった藤原基通の邸宅に、後鳥羽天皇を閑院内裏に遷した。
      11月21日ごろ     義仲、藤原忠通の子前関白松殿藤原基房の娘「藤原伊子」と結婚。藤原忠通の子松殿藤原基房は、平清盛との不和によって失脚した。そのため木曽義仲に近づき、法住寺合戦でも義仲に味方している。有職故実に通じ、後白河上皇が「年中行事絵巻」を描かせて、摂政関白だった基房にその校正を依頼した。基房は何か所かの間違いを指摘し上皇を感心させた。
義仲の正室伊子との間に鞠子がいる。
鞠子は長じて鎌倉二代将軍頼家の妾となり一女竹の御方をもうけた。三代将軍実朝が鎌倉八幡宮で別当公暁に殺されてから執権北条時政は関白九条道家の子頼経を迎えて四代将軍とし竹御方をその正室とした。
      11月21日   法住寺合戦後の義仲は藤原基房(前の関白)と提携して戦後処理にあたっていたことが『玉葉』に見える。
      11月28日   義仲法皇の近臣篠原朝方をはじめ43人を解官しその所領を没収す。義仲は八十余カ所の家領を賜ったと『玉葉』に見える。
      11月29日      室山合戦平家は水島の戦いに勝って大いに勢いが上がり義仲を討とうと大将に平家随一の歴戦の勇将薪中納言左近中将平知盛を選んだ。知盛は平清盛の四男で智謀に優れ情もあり平家の人々の信頼も厚かった。知盛は二万有余騎といわれる大軍を率いて播磨の国室山に陣を敷いた。(室山は現在の兵庫県揖保郡御津町室津の背後の地)さてこれを聞いた源行家は平家と戦って戦功を上げ義仲の感心を得て仲直りをしようと功をあせりわずか五百騎の勢力で無謀にも平家の室山の陣地を襲撃した。結果源行家は室山合戦で敗れた。五百騎の勢力も三十騎ほどに打ち倒されて一目散に逃走する。そして播磨の国高砂(現高砂市)より船に乗って和泉の国吹飯浦へ渡った。行き家は大敗を喫し面目を失い京にも帰れず河内の国長野石川城に立てこもった。
      12月   義仲は平家との和平に一段と力を入れると共に、法皇を具し奉り北陸に向かうことになったとか、又兵士との和平が決定したこと浮説にあらずなど、兼実はこれら有無のこと変々七,八度と切羽詰った義仲の苦しい立場を書いている。
      12月2日   義仲平家没管領を総領す
      12月3日   義仲さらに一所を賜り、八十六箇所を領する云々とある。
      12月10日   義仲ようやく頼朝追討の院宣を得る。左馬頭を辞す
      12月15日   法皇鎮守府将軍藤原秀衡に頼朝追討の院宣を下す(「吉記」公家の左大弁の吉田(藤原)経房日記)
      12月21日   頼朝延暦寺に義仲追討の同心を求む。
      この冬   源範頼・義経らの頼朝軍が義仲追討のため京都に向かう。
1184年   寿永3年     下野の国の小山朝政の従兄弟の関次郎政平や藤姓足利忠綱は志田先生義広の陣に加わって各所で戦ったが野木宮の戦いで敗れ信濃の国に遁走して義仲を頼った
      1月6日 31歳 義仲従四位下に叙せられた
           義仲が京で評判がよろしくない頃海野幸親は源頼朝に鎌倉へ呼び寄せられ義仲に諫言するよう命じられるが時すでに遅く義仲は征夷大将軍となり運命の道を走っていた。
           『平家物語』によると木曽義仲軍は京都での乱暴などの悪評により鎌倉の頼朝、義経軍に討たれたことになっているが九條兼実の弟で僧侶の慈円による歴史書『愚管抄』の記述には平家軍が京都から退却する時平家屋敷に火事場泥棒が発生したこと、法皇貴族が比叡山に退避した時一般市民が互いに略奪した。義仲軍が京に入った後は乱暴や略奪の記述は無い。公家の日記『吉記』にも僧兵や一般市民が放火や略奪をした記載がある。
      正月9日   『玉葉』に『さまざまの異説があったが義仲と平氏の和平が決定した。このことは去年義仲は一尺の鏡面を鋳て八幡の御正体をあらわし奉り、裏に起請文を鋳つけたものを平氏に遣わしたことによって和親云々』とある。
      正月10日   『玉葉』に『夜に入り人告げて云う。義仲は明日法皇を具し奉って北陸に向かうことが決定、公卿も多く同行するという。このことは浮説にあらず云々』とある。
      1月10日       後白河法皇より義仲征夷大将軍に任じられる。従四位下(吾妻鏡)義仲の征夷大将軍は武将としてはじめて任ぜられたので頼朝は義仲を非常にうらやましく思ったことを「吾妻鏡」に次のように記されている。「征夷大将軍は坂上田村麻呂と藤原忠文の二人しかいなかった。今三人目が任ぜられたのは二百四十五年ぶりであってまことに珍しく天皇の恩といわなくてはならぬ」征夷大将軍に任ぜられることは部門の最高の名誉だったのである。長野県歌「信濃の国」の4番に「朝日将軍義仲も仁科の五郎信盛も春台太宰先生も象山佐久間先生も皆この国の人にして文武の誉れたぐいなく」と歌われているように義仲は奢る平家を追討し治承、寿永の乱世から新時代への基礎を築いた立派な武将です。
          義仲は征夷大将軍になると、木曾を預る老臣の海棠邦好と次男義重に上洛を命じてきた。
      正月11日   「玉葉」に「今晩義仲の下向忽停止、これは物告げあるに依ってである。来る13日に平氏入京し院が平氏を預る故義仲は近江の国に下向云々。」とある。
      1月12日   義仲平氏と和そうとしてならず。
      1月13日   義仲北陸へ下向しようとして中止。義仲のもとへ勢多から飛脚が到来し義仲勢が義経の数千余騎と戦って敗れたことが知らされた。
      1月15日   義仲は法皇を具し奉り近江に向かおうとしたが法皇は突然赤痢病と称して義仲を避けた。
          そこで義仲は致し方なく院の守護にあたる一方、兵力を勢多と田原、それに義仲から離脱していった行家を討つ三手に分けたことが『玉葉』に見える。
      1月16日   義仲が近江に遣わした郎等が範頼・義経軍の数に圧倒され、戦をせずに都に戻る。
      1月17日   行家が河内石川城に立てこもり義経に呼応して叛旗を翻したと聞いた義仲は急ぎ行家討伐に樋口次郎兼光に兵五百を授けて向かわせた。出立して5百の兵を二手に分け激しく石川城を責めたので行家は傷を負い高野山に辛くも逃げ延びた。この戦いで行家の子蔵人判官家光が兼光に討ち取られた。このとき連合した義経も後にこの叔父行家のために滅亡の途を早めることとなるのである。
          後白河法皇の院宣によって源頼朝は義仲追討のため義経、範頼に六万余騎の大軍を率いさせて鎌倉を出発させた。
      1月18日   宇治川の戦い(義仲対範頼・義経)義仲軍義経らに敗れる
      1月20日   源範頼・義経の軍、京の宇治、近江の勢多で義仲軍を破り京都へ入る。鎌倉勢が美濃、伊勢の国につくと聞いた義仲は義仲都の入り口で鎌倉勢を食い止めるため今井四郎兼平に八百騎を与えて勢多方面を護らせ宇治橋方面を仁科、高梨、山田次郎の五百余騎で守らせた。
樋口兼光は寝返った新宮十郎行家を打つため五百余騎で河内の国にあった。都の防備は手薄となり義仲は苦戦に追い込まれていった。
六万余騎の大軍を食い止めることはできず勢多を守る今井四郎兼平軍は義経軍に討ち取られた。義経は都に入ると法皇の御所を取り囲んでしまった。
義仲は宇治川に向かい橋を落として河の中に入り防いだが佐々木高綱、梶原景季らの関東勢に破られ京都に逃げ帰った。
宇治川の戦いの時多くの兵は義仲を見捨てて四散してしまったが多胡家包は最後まで義仲のもとにいて討ち死にした。
志田先生義広は義仲が宇治川の戦いで義仲軍が不利と見るや義仲らを捨てて逃げ去り後に伊勢で兵を挙げたが討ち死にした。一説には義広はここまで生きてこれたのは義仲とその乳兄弟あってこそだと思い戦って死んだとなっている。
           義仲最後の戦いの時兼行は義仲の手兵わずか百余騎の中にいた。根井行親、楯親忠が宇治川の守りを破られて残兵を率いて合流した時義仲軍三百余騎となった。鎌倉軍がいたるところにいるのを見た義仲が『わが命は今日限りなり。汝ら逃れんと欲する者は去るべし。」と言ったが誰も去るものはいず義仲と死をともにしようとする者ばかりであった。義仲は大いに喜び最後の決戦に臨んだ。畠山重忠らの軍に当たり激戦の後遂に根井行親、楯親忠ら百騎ことごとく戦死し残った者はわずか七,八十騎となった。
           さらに戦い続け三条河原にいたった時はとうとう十三騎だけとなった。巴御前、二河左衛門頼度、新庄次郎左門則高、井上次郎師方、那和太郎廣澄、多胡次郎家包、落合五郎兼行、手塚太郎光盛、根井小次郎行直、望月太郎重頼、熊坂太郎以水、倉光小次郎成資、三草八郎であった。兼行も粟津が原に源範頼率いる三万騎の大軍と戦っているうちに義仲を見失ってしまい敵中を切り抜けて木曽に落ちていった
               源範頼、義経の軍義仲軍を破り京都へ入る義仲が戦いながら山科の四宮河原に出たときは義仲に従うものは七騎になっていた。兼光、兼平の妹で義仲の乳母子として育った巴も打たれずにいたが「わが最後が女連れであったといわれては口惜しい。故郷へ帰って義仲の最後を伝え菩提を弔ってくれと義仲に諭され仕方なく戦場を落ちていった。このとき巴は二十八歳。
      1月21日 31歳 義仲は京都の六条河原でまた破れ近江に去り勢多の軍と合して北国に逃げようとしたがこれも範頼のために破られた。中原兼遠より後事を依頼された義仲の参謀役根井行親(佐久市根井)は六条河原で戦死した。長野県佐久市には根井行親一族の館跡と菩提寺正法寺がある。根井氏の豪族としての力は望月の牧として知られる牧場経営をうしろだてに絶大なものがあった。
近江の粟津(滋賀県大津市)にて討ち死にす(義仲の哀しい戦いの二つ目)義仲は幼いころから兼平と「死ぬときは一緒に討ち死にしよう」と話し合っていたことを思い出し兼平を勢多へやったことを悔やんでいた。
「今一度兼平を探そうと」と今井四郎兼平の安否を気遣って勢多の方面へ引き返していった。一方兼平は勢多で義経に敗れてから義経の安否を訪ねて都のほうへ上がる途中大津の打出の浜まで来たとき義仲に行き会うことができた。兼平も「殿の行方が心配で探してきました」と涙を流して喜んだ。そのとき五十騎ばかりの敵が現れ「この敵の中で戦って一緒に討ち死にしよう」と義仲が言ったが兼平が義仲の乗った馬を引きとめ「立派な御大将の殿が最後のときに不覚を取れば長い傷になって残ります。粟津の松原の松の中で心しづかに御自害ください」と義仲にすすめた。義仲に大将にふさわしい立派な最期を遂げさせるため最後の力を振り縛って最善の努力を払おうとしている兼平に心うたれた義仲は意を決して「さらば」と一声のこし粟津の松原へ馬を走らせた。そのとき薄氷の張った深田へ乗り入れてしまい出ようともがいても馬が出られなくなってしまった。義仲は兼平はどうしているかと後ろを振り返った瞬間相模の国の住人石田次郎為久の矢が義仲の兜の真ん中を射抜いた。義仲三十一歳。無念の最後であった。粟津の義仲戦死の場所に義仲寺(大津市馬場1-5-12)が建てられ境内に義仲の墓がある。
首塚は京都市東山区小松谷永田町の永田氏邸内にあるという。
戒名「徳音寺殿義山宣公大居士」。芭蕉が生涯で一番好きだったという義仲の墓と並んで俳聖松尾芭蕉の墓が建てられている。
 木曾の情雪や生えぬく春の草    芭蕉
 木曽殿と背中合わせの寒さかな   又玄
 道ほそし相撲とり草の花の露     芭蕉
 義仲寺にいそぎ候初しぐれ      小林一茶
          もはやこれまでと悟った今井兼平は義仲に自害を進め自分は身代わりとなって敵を防いでいたが義仲が討たれたことを知って「今はこれまで」と刀の先を口にくわえ馬からまっさかさまに飛び降り壮烈な自害を遂げた。兼平時に三十三歳。長瀬重綱、高梨忠直、諏訪一族の手塚・茅野、上野の多胡家包など信濃の横田河原の戦から義仲に付き従った多くの武士たちが討死した。根井行親とその一族は京都へ入った後鎌倉勢と宇治、瀬田で戦ったが破れ幸親と楯親忠、落合兼行、矢島行忠ら多くの一族は討ち死にを遂げた。根井氏の強大な兵力は望月の牧以来の牧場経営によって培われたものといわれている。最後まで義仲と行動をともにした兼平の墓も義仲寺から程近いところに建てられている。
          鎌倉の義経軍に義仲の軍は敗れた。入京した義経軍は右大臣の兼実の庵を徴用した。義経軍の武士が兼実の部下の隆職を平家の関係者と間違え家宅を追捕し乱暴した。
          海棠邦好は木曾義仲の次男義重(6歳)と共に仁科盛宗の子盛遠、樋口兼光の子、熊丸、手塚光盛の子、牛王丸らも連れ近江の国武佐に着いた。そこで義仲戦死の悲報を聞いたので泣く泣く帰り義重を諏訪に隠した。
          義仲の死後大夫房覚明は信救得業と名を改め箱根山にいたが京にもどり法然上人の弟子となった。親鸞上人が越後に流されたときに従い後信濃に入り更級郡長谷(長野市篠ノ井)に白鳥山康楽寺を建てて仏の道を説いた。覚明は生涯に六回名前を変えている。藤原道広ー西乗房信救ー大夫房覚明ー信救得業ー園通院浄寛ー西仏
      1月21日   大夫房覚明が山吹山のふもとにあった柏原寺を現在の場所に移し日照山徳音寺と改称した。山号を日照としたのは「朝日」の名を後世に伝えようとした覚明の深慮であるといわれている。本堂横の廟堂には義仲公の坐像が安置されている。
          境内の宣公郷土館には義仲画像をはじめ、今井四郎兼平・樋口次郎兼光・巴御前の画像、義仲公の守本尊の兜観世音など義仲ゆかりの品々が展示されている。
          巴が信濃に落ちる時現愛知県蟹江町を通ったことが伝承として残されている。蟹江町は今は陸地であるが当時は港だったという。この蟹江に巴御前が立ち寄った時そこに建てられていた常楽寺は吉仲が建てた寺であることを聞いた。巴は髪をおろして尼となり、名を『東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔い生涯を終えたということである。
      1月25日    樋口二郎兼光は義仲討ち死にのときは京都を離れていて急を聞いて引き返したが間に合わなかった。鳥羽の南門を過ぎたあたりには兼光の勢力はわずか二十余騎ほどになってしまっていた。最後の敵は親族の武蔵野国の児玉党であった。兼光の母は児玉党の児玉貞親の娘千鶴御前であった。児玉党の武士も兼光のような立派な武士を死なすのを惜しんで兼光を救おうと降伏を勧め兼光は遂に降伏した。
しかし法住寺殿の戦いで木曽勢が火を放ったという責任を問われ死罪に処せられた。兼光の家族は児玉の人々によって保護されたという。長野県上伊那郡辰野町の樋口地籍は中原兼遠の領地であり兼遠の二男樋口二郎兼光の墓がある。
          落合五郎兼行は粟津より逃れて長野県更級郡中津村今井(現長野市)にかくれた。その子兼寿は親鸞の徒弟となり兼ね行き兼平の塔を建てた。今では単に今井兼平の墓と呼んでいる。と『西筑摩郡誌』にある。
           「「伊子」は義仲が討ち死にしてからまもなく権力者久我道親の側室にさせられるなど摂関家の名門に生まれながら悲哀に満ちた生涯を送った。「伊子」は側室になってから一人の男児を産んだが其の子は後の曹洞宗総本山永平寺(福井県)を開いた「道元」である。久我道親はその養女が後鳥羽天皇の子を産み、後の土御門天皇となったことで権勢を得た人物でもある。
          若菜御前は義仲戦死の後京にかくれ義基を産んだ後潜行して上野の国沼田庄に帰りその後残党狩りで捕らえられ小坪で斬られたという。また楯氏の族人に伴われ南木曽町三留野の沼田で養われ後の木曽氏の祖となるとの記事もあり定かではない。松平秀雲の[吉蘇志略説による三留野の沼田がよいらしい。義基の子の義茂ここにいたらしい。木曽家村等が改めて木曽の領主となった頃先祖のために建てたと推定される二基の五輪塔が沼田にある。
           竹御方は義仲の孫である。義の子基家は義仲のひこ孫である。基家の頃は長い隠栖生活から解放されていたであろう
新開黒川に「よろい塚」といい基家の塚と称するところがある。      
         基家の鎧塚(木曽町新開黒川)
      1月26日   検非違使等により七条河原の獄門の樹に義仲、今井兼平、根井行親、高梨忠直等の首がさらされた。
      1月27日   『玉葉』に『私の別宅を借り上げの指示』との記述がある。義経軍は兼実の庵を徴用した。
      1月28日   『玉葉』に『大夫史小槻隆職(おつきのたかもと)が追捕された」の記述がある。頼朝軍の乱暴の記述がある。
      2月2日   樋口二郎兼光は法住寺殿の戦いで木曽勢が火を放ったという責任を問われ死罪に処せられた。このとき縁故のあった秩父児玉党の面々が、兼光の助命を願ったがかなわなかった。
      2月    一の日の戦い
      2月4日   「平家物語、延慶本」に平家軍の梶原景時以下の軍勢が一の谷へ向かう途中攝津の国勝尾寺で追捕、乱暴、放火の記述がある。
      2月   平家軍や義仲軍残党の追討の宣旨(天皇の命令)が下される。
          「武士押妨の停止』『公田荘園への兵粮米を徴収停止』の宣旨下される。義仲は路地追捕は取り締まったが兵粮米の徴収は続けたようだ。鎌倉軍も兵粮米不足に悩み追捕を続けた。
       2月7日   一の谷の合戦(範頼・義経対知盛・忠盛(平氏))で頼朝源氏軍平家軍に勝利
       2月19日    屋島の戦い(義経対宗盛(平氏))頼朝源氏軍平家軍に勝利
      2月23日   「武士押妨停止」「公田荘園への兵糧米を徴収停止』の宣旨(天皇の命令書)
    寿永3年   源頼朝は鶴岡八幡宮に舞を奉納することになって12人の舞姫を集めた。万寿姫はその舞姫に選ばれその当日のできばえは目立って立派であった。万寿姫を呼んで褒美を取らせることになった。万寿は『ほかに望みは無い。ただ唐糸の身代わりになりたい』と願った。許されて母子、乳母とも信濃に帰ることができた。(御伽草子)
       3月24日    壇ノ浦の戦い(範頼・義経対宗盛・知盛)(平氏))平家滅ぶ
1184年   元暦元年 4月16日   改元
      4月21日   義仲が討ち死にすると頼朝は家来の堀藤次親家に命じて義高を殺そうとしたがこれを知った大姫が義高を女の姿に変え逃がしてやった。海野小太郎幸氏は義高が落ち延びて言った間夜は義高の寝所に入り髪を出していかにも義高が寝ているように見せかけ昼は義高の部屋で義高が幸氏を相手に好んで打っていた双六を一人で声たからかに双六をしていたので義高の失踪に気づかずにいたのである。
      4月24日   賀茂社領への武家の乱暴を停めた。(吾妻鏡)
      4月26日   鎌倉を脱出した清水冠者義高は遂に入間川畔(埼玉県)にて頼朝の追っ手藤内光澄に斬られ其の首が鎌倉へ届けられた。鎌倉市大船「木曽免」に義高の首塚があったという。「木曽免」とは地名で今では田圃になっている。この首塚はいろいろな祟りがあったので江戸時代延宝年中に首塚の移転が行われ現在は大船の『常楽寺』の裏山に義高は眠っている。この首塚はかなり大きな土盛がしてあり、その下側に『木曽清水冠者義高公之墓』ときざまれた小さな墓石が建てられている。首塚のそばに大正15年に建てられた移転に関する『木曽冠者義高之塚』と書かれた碑がある。常楽寺は鎌倉幕府三代執権北條泰時の開基といわれ初め粟船御堂と呼ばれた。
    ひぐらしや木曽塚ここに杉木立  正岡子規
           
鎌倉常楽寺の木曽義高公之墓
           
木曽義高最期の地(狭山市入間川)
          入間川から北へ30キロほどの木曽義仲の生まれ故郷の埼玉県嵐山町の古刹班渓寺は義高の母といわれる山吹姫が義高の菩提をともらうために建立したと伝えられている。 
班渓寺には山吹姫のお墓もある。
      4月28日     このことがあってから大姫は幾日も幾日も嘆き悲しみ遂に廃人のようになって恨みを残して死んでいった。大姫の嘆き悲しむのをみた母君政子の嘆きは深く「藤内光澄の無情の振る舞いのせいだ。なぜ義高を鎌倉に連行して助命しなかったか。光澄を早く抹殺するように」と頼朝に迫った。頼朝はやむなく光澄を討つよう堀藤親家に命じたため光澄は主命に従って罪のない義高を殺害しいくばくもなく自らも首をはねられた。
          母が義仲の妻伊子(藤原基房の女)である鞠子は二代将軍頼家の側室となり竹御方を生んだ。
           仁科盛遠の叔父仁科盛弘は頼朝に降り北安曇一帯の旧領の統治を許された。盛弘は子がないので盛遠を諏訪から連れ出し幼い義重を奉じ仁科城に入城した。盛弘は鎌倉の目を恐れ義重と侍臣を鬼無里村安吹屋に隠した。
          朝日次郎義重(母巴幼名力寿丸)は義仲亡き後鬼無里の安吹屋に隠れたという。里人は木曽殿と称していたが後に北安の仁科盛遠氏の庇護を受け大野田(美麻村)に移り原信濃守義重という。執権北條義時のとき筑摩、安曇両郡を管す。仁科氏の祖。一説に早世したともいう。生年不明。西筑摩郡誌は二代目につけている。他の一説によれば義仲討ち死にの後祐筆の大夫房覚明は妹の山吹御前とその子義重と家臣とともに山陽道を下り安芸の国(広島県)向島に至った。義重は手塚、仁科氏により成長し将軍頼経の時に木曽、仁科の地の領有を許されている。義重の成長を見届けた後覚明だけはこの地を去った。覚明の住まいの跡には覚明神社が設けられた。三十六苗荒神などがあり木曽のつく地名が何箇所かあり木曽姓が多いという。
          その後覚明(義仲の右筆)は木曽に来て柏原寺に義仲をはじめ一族郎党の戦死者並びになき人々の慰霊を行い柏原寺を義仲の戒名「徳音寺殿義山宣公大居士」にちなみ「日照山徳音寺」と改名した。そして覚明本人は信救得業と称して箱根権現金剛院別当行実を頼り寺に居住した。頼朝の父義朝の法要には導師を務め願文を作成し頼朝が出席する大きな仏事の際に導師として出席するなどしていた。
                 義仲の三男義基(母巴)は朝日三郎と称し木曽氏三代。義仲敗北の時京都にあった義基は楯氏の族人にともなわれひそかに木曽に入り南木曽町三留野の沼田で養われたらしい一説に義仲没後上州沼田に隠れ外祖父沼田伊予守藤原家国を頼ったというが上州に家国という人はいない。又相模の国沼田太郎家信の説もあるが鎌倉の近くに行くはずがない。松平秀雲の(吉蘇志略)説による三留野の沼田がよいと思うと森田幸太郎氏の『木曽史話』には書かれている。義基の子の義茂もここにいた。今も木曽家村等が改めて木曽の領主となった頃先祖の為に建てたと推定される二基の五輪の塔が沼田にある。一説に甲州に隠れたといい又小坪で斬られたとも言う。一説に母は上野国沼田藤原廣澄の女若菜御前とも言う。
          朝日四郎義宗(母山吹)は義仲戦死の頃山吹が京三条辺に隠れて分娩し後木曾の沼田に隠れ義重が賜わった木曾を管し沼田を名乗る。一説に義基の子の義茂と同一人物ともいう。山吹は多胡太郎家国の女という。生没年不明。西筑摩郡誌は三代目につけている。
          頼朝は海野小太郎幸氏の忠臣ぶりを認め射術が優れていることをもって罪を許して信濃に返し父祖の旧領地を与えた。
          巴御前と落合五郎兼行は義仲と兼平が粟津が原に討死した後義仲の命令に従って木曽に落ち延びてきた。義仲と兼平の最後の模様を語り伝えた後に鎌倉軍の残党狩りを避け巴御前以下中原一族は木曽の奥地萱が平に隠れた。
           鎌倉勢の探索隊に知られ萱が平での戦いとなる。鎌倉勢を迎え撃つ中原一族は巴御前、中原三郎兼好、落合五郎兼行など少数であったが、義仲の恨みをこめて必死に戦ったので鎌倉勢もなかなか近寄ることができない。頼朝から「巴御前は美にして武勇に優れし稀代の婦なり。必ず連行して来るべし。」と厳命されていたので巴御前さえ鎌倉に下れば皆を助命するから速やかに何処へなりとも立ち去れと言い伝える。このとき既に巴御前は萱が平において義仲の双子を出産していたので自分が鎌倉へ下れば義仲の御子および母(中原兼遠の妻)千鶴御前はじめ兄弟一族のものが助かると意を決して恥をしのんで鎌倉に下ったのである。巴が生んだ一人は後日和田義盛の三男として育てられた朝比奈三郎であり、もう一人は中原三郎兼義と千鶴御前と共に飯田の大平に逃れ隠棲して小木曾氏を名乗った。
           信濃に帰って義仲はじめ諸将の菩提をとむらっていた巴は鎌倉に召しだされた。鎌倉で和田義盛の懇望によってその妻となり朝比奈三郎義秀を産んだ。和田氏は三浦半島を領していたため三浦姓を名乗っていた。
      5月1日   頼朝義高の残党討伐のため信濃、甲斐に武士を派遣
      7月27日   頼朝もとうとう政子の強情に遁れがたく堀藤次親家の郎従藤内光澄が梟首になった。(吾妻鏡)
      12月   義経が検非違使でも放火強盗事件が多発の記述がある。
      12月7日   『玉葉』に法王院御所に放火、近辺に強盗はいるも沙汰なしの記述がある。
            平維盛死す
1185年   元暦2年 1月6日   『吾妻鏡』に『船無く粮絶え』『乗馬を所望、馬は送らぬ』との記述ある。
      2月5日   散在の武士が事を兵糧に寄せ乱暴を致した。(吾妻鏡)
      3月3日   義仲の妹宮菊(母は秩父重隆の娘)美濃より上洛。その間に宮菊の威光をかりて公領や権門の荘園を押領する輩賀多く出た。そのため幕府は『物狂女房」と号し彼女とそれらの輩を捕らえるように御家人に命じた。しかし一族のことでもあるので頼朝は宮菊を鎌倉に呼び寄せることにした。
      3月4日   在洛の武士が乱暴した。(吾妻鏡)
      4月26日   頼朝・実平・景時に武士の乱行禁止を命じた。(吾妻鏡)
      4月28日   「平重遠が在京の関東武士の不法を訴えた。」との鎌倉軍の乱暴の記述がある。
      5月1日    宮菊鎌倉に下る。頼朝夫妻保護をする。義仲の死後義仲の異母妹宮菊(菊女ともよばれる)は源頼朝から美濃の国遠山荘内の一村(もと山口村馬籠)をあてがい信濃の御家人小諸太郎らに扶持させる。
宮菊は法明寺を建てそこで生涯を終えるが義仲の菩提を弔って大般若経百巻を書写したという。馬籠の法明寺跡には宮菊の墓といわれる五輪の塔がある。
故伊予の守義仲朝臣妹公字宮菊、自京都参上、(中略)仍所賜美濃国遠山庄内一村也」(吾妻鏡)
      5月3日    かつては信濃の国は義仲の分国のようなところであり、その恩顧を信濃の武士たちは忘れていなかったときされている。(吾妻鏡)そのため信濃を支配するには、頼朝は彼らをうまく扱わねばならなかった。頼朝は宮菊の扶持を小諸太郎光兼等の信濃の御家人らに命ずる。(吾妻鏡)義仲に味方した小室氏など信濃武士たちも罪を許されたという。
           義仲の敗死後源頼朝は金刺盛澄(諏訪盛澄)を殺そうと鎌倉に呼びつけた。
           諏訪下社大祝金刺盛澄は京都城南寺の流鏑馬の行事があり終了後1カ月も遅れて鎌倉に着いた。
           源頼朝は金刺盛澄を死刑と定めて梶原景時に預けておいた。
           梶原景時は金刺盛澄が俵藤太秀郷の流れをくみ百歩離れた柳葉を狙って百発百中の弓の名手でその流鏑馬は日本一ということを聞いていた。そこでなんとかして命を助け芸を残したいと苦心した。
          捕らえられた武士に諏訪下社大祝金刺盛澄がいる。金刺盛澄は流鏑馬神事において頼朝の御前で妙技を披露しその見事な技によって罪を許された。その後も盛澄はしばしば流鏑馬や笠懸などの名手として幕府で活躍した。また望月重隆、海野幸氏など、主力として義仲を支えた滋野一族も、赦されて頼朝の側近となった。彼らもまた弓馬の達人として活躍した。
1185年   文治元年 8月   改元
      8月16日   信濃国は頼朝の知行国(関東御分国)になった。甲斐源氏の加賀美遠光が信濃守に任じられた。比企能員は守護と国主の代官である目代とを兼ね、軍事指揮権と信濃の国府政庁の支配権を持った。関東出身の御家人が地頭として信濃国に入ってきた。
      11月28日   再び全国一律の兵粮米(反別五升)の徴収を始めた。(吾妻鏡)
                壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる。
1186年   文治2年     兵粮米の徴収停止
      正月8日   惟宗忠久が塩田庄の地頭に補任された。惟宗忠久は日向・大隅・薩摩に勢力を張った島津氏の祖で当時頼朝の腹心であった。塩田庄は義仲の部下であった塩田高光の所領であったらしいが、頼朝の部下の国外御家人に与えられた。
義仲の支配下にあった信濃武士も多くが頼朝の御家人となった。
      1月11日    高瀬庄の武家の乱暴を停めた。(吾妻鏡)
          九条兼実が摂政となる。
           保元の乱で勝った藤原忠通の長子基実、その子の基通は平清盛の娘を妻としたため源氏の政権になると源頼朝から疎んじられるようになった。そこで基実の弟の兼実を摂政、氏の長者(藤原氏一族の代表者)に推すことによって、頼朝と融和を図ろうとした。
                「吾妻鏡」:同年条「信濃国大吉祖庄」
1186年

1196年
  文治2年

建久7年
    後鳥羽天皇(九条兼実摂政関白)
             『吾妻鏡』には義仲や平家滅亡後京都に駐留する鎌倉軍や義経追討の名目で各地に配置した『守護』『地頭』の横暴の記録が多数ある。『勝てば官軍負ければ賊軍』の言葉があるようにこれらの乱暴狼藉がすべて義仲軍の仕業とされたようである。平家物語の捏造である。
      3月1日    静御前が頼朝の召しに依って鎌倉に参着。静御前は義経の子を懐妊していたため出産まで鎌倉にとどまることになった。
      3月12日   『吾妻鏡』に『大吉祖庄』が木曾の北部にあったという記録がある。年貢未済の庄として「宗像少輔領大吉祖庄」とある。宗像少輔は、藤原氏の一門宗形宮内入道師綱の子親綱で大吉祖庄が宗像氏の所領となったのは師綱の代であろうといわれているが、はっきりしたことはわからない。大吉祖庄は木曾谷南部を占めていた小木曽庄に対して、鳥居峠を境に現在の木祖村・日義村・木曽福島町にかけての地域におかれていた荘園でその中心は日義村宮の越付近ではないかと推定されている。年貢がとどいていない信濃の荘園六十一のうちの一つに海野庄の名前があるという。
      3月21日   諸国の兵糧米の徴収を停止した。(吾妻鏡)
      4月8日   静御前鶴が丘で義経恋しの舞曲をやる。
      5月12日   頼朝は義仲没後、行家を追捕した。和泉の国小木の赤井河原でついに行家は討たれた
      5月13日   洛中集団盗賊多発の院宣が到来した。(吾妻鏡)
1187年   文治3年 3月23日   山吹御前枹原(宮ノ越)に三十二歳で死去と郷土史にある。
          大姫が政子のすすめで邪気払いのため南御堂(勝長寿院)に参籠27日目の満願の日静御前は大姫の前で舞を披露する。
          あるときは従兄弟の一条高能との縁談を考え、又あるときは後鳥羽天皇のもとへ入内の話もあるなど頼朝夫妻が17歳になっている大姫のため心を痛めていた。
      4月23日   「重源が周防(山口県東部)御家人の材木切り出しの妨害を訴えた。さらに周防の国の国府役所の役人が地頭の非法をを訴えた。」と地頭や御家人の横暴が書かれている。権力者となった鎌倉軍を直接非難できないためすべて義仲軍に罪をきせたと思える。
      7月27日   頼朝が善光寺の再建に協力するように信濃国の御家人等に指示をだす。協力しない者については所領を没収するよう命令した。
          鎌倉時代前半、善光寺付近には後庁(国衙に所属した役所の一つ))があり眼代(目代)がいた。
          善光寺とならんで信濃国の有力な神社である諏訪社は諏訪氏が支配していた。諏訪氏は義仲に従ったが他の信濃国の武士と同様、義仲の滅亡後幕府御家人となった。御射山祭に代表される諏訪社の祭祀は信濃国の武士の物心両面の負担により行われた。
      8月12日   京より集団盗賊鎮圧の要請あり。(吾妻鏡)
       8月15日    鎌倉鶴が丘八幡宮で放生会が行われ流鏑馬があった。
           梶原景時が源頼朝に言上した。「どうせ殺してしまうなら召し出して技能をご覧になってからお切りになってはと侍一同も言っております。」と申上げると許しはすぐに出た。
           諏訪太夫盛澄は一期の思い出に鎌倉の侍どもに目に物見せようと承知した。
           まずは八的を射よと命ぜられ非常にのりずらい悪馬をあてがわれた。梶原景時の命を受けた家来がこの馬の癖を告げて渡した。盛澄は心得てこの馬を操って的をハタハタと射落とした。
           将軍は今一度射よと命じた。盛澄は的の用意が無いことを告げると今の的の破れたのを使えとのこと。命に従いこれを射ると一つも外さなかった。
           次に的の串を射よとの仰せで今度はとても無理であると思い盛澄は強く辞退した。梶原景時が強く勧めたので承知して盛澄は心に一心に諏訪明神にお祈りしたところ不思議なお告げがあり雁又の矢を横にねじまわしてから串をブツブツと射きった。串を検分すると上五寸ばかり切れて残りの寸法は全部同じであった。「これは人力の及ぶところではない。神のなせる故であろう」と将軍は信仰心が生じ盛澄を助命した。(諏訪大明神絵詞)
       
           義仲に仕えていた六十余人の家来たちも鎌倉に召し出されていた。梶原景時が「重罪の盛澄ですら特赦されたのであるからその家来たちも赦されれば後の世の励みにもなりましょう」と申し上げると「道理なり」と全員赦免されたので盛澄と同道して帰国していった。梶原景時の行跡についてこれほど人徳のあるやり方はないだろうと当時の人一同悦びあった。
           しかしながらこれは諏訪神社の霊験のかたじけなさであるといっている。そこで諏訪下社の馬場の一隅にある上座の堂という所に宝剣を埋納して塚を築き梶原景時を祀り梶原塚と命名して弔っているという。祀りの絶えぬよう田地を寄進し報恩の志を現した。塚は下諏訪町菅野町にあるという。(諏訪大明神絵詞)
       
           
        鎌倉鶴が丘八幡宮の流鏑馬の射手を命ぜられた者の中に囚人として捕らわれていた諏訪太夫盛澄がいた。盛澄が木曽義仲と深い関係にあったためである。盛澄は厩第一の荒馬を与えられたが三つの的を難なく落とし次に的の変わりに土器を棒にはさんで射させたがこれもできた。最後にその的を支えていた棒の先端を射よといわれたが、これも見事に射当てたので頼朝は深く感じ入り盛澄を許して御家人に取り立てたという。
      9月19日   集団盗賊の事(玉葉)
 1188年      正月    頼朝に赦された金刺盛澄は以来側近として信頼された。毎年正月の御弓始めの儀式には招かれ得意の技を披露し金刺一門の名を高めた。(諏訪大明神絵詞)
1189年     
4月30日
  源義経、頼朝より謀反の追及を受け、奥州で死す。
        義経死亡最後の手柄は頼朝のものになった。
1189年

1190年
  文治5年

建久元年
    後鳥羽天皇(九条兼実太政大臣)後白河院政
1190年 文治6年 4月     鶴岡八幡宮の流鏑馬には、海野幸氏、金刺盛澄、藤沢清親など信濃武士の名前のみが記されている。海野幸氏は、義仲の息子清水冠者義高が頼朝のもとへ人質に出された時、望月氏とともに義高の守役として鎌倉に出仕した人物である。、
1190年   建久元年     木曽太夫坊覚明が信救得業と名乗って箱根山三所権現の住侶となる。足利義兼に乞われ鶴岡八幡宮願文を執筆。
信救得業、鎌倉の鎌倉南御堂で一条能保室(源義朝娘)の追善供養導師
1191年   建久2年      仁科盛弘が死ぬと盛遠が仁科六十六郷を支配大野田(現在の美麻村大塩)に舘を築き義重と従臣らを迎え自分の妹を義重に娶らせた。木曾に蟄居していた旧臣ら三千余名は大野田の舘に集まり農民となって義重を守った。
鎌倉の将軍頼経の正室鞠子は義重の異母妹であった。よって義重は従三位に叙され旧領木曾のほか安曇、筑摩の4箇所を賜り左衛門佐信濃守に任ぜられた。広津村村誌によると子の義元に家督を譲り広津村平出(現在は池田町)に隠居。
          信救得業、箱根三所権現別当行実の命により「筥根山縁起」を執筆
      10月22日   善光寺が新造され供養が行われる。
1192年   建久3年     城助茂は後に頼朝に捕らえられ囚人になったのを梶原景時に助けられやがて源氏に仕えたがあまり重用されなかった
          平安時代十六牧であった信濃の国の御牧は、鎌倉時代になると二十八牧にふえている。「延喜式」の御牧のうち埴原牧・山鹿牧が無くなり、「吾妻鏡」に平野・小野・大塩・南内・北内・常盤・吉田・笠原南条・笠原北条・塩河・菱野・桂井・田多利・金倉井などの牧が新たに記されている。しかし鎌倉時代になると御牧は名のみで、貢馬を行ったのは望月牧のみになってしまった。
      3月   後白河法皇没。享年66歳
      6月13日   (吾妻鏡)城助茂は畠山重忠等と永福寺造営工事の時棟梁を引いた。(吾妻鏡)
      7月12日   頼朝征夷大将軍となる。鎌倉幕府成立
1193年   建久4年 3月21日   頼朝が三原荘群馬県吾妻郡周辺他で狩をするため鎌倉を発つ。
           源頼朝は上野下野那須の狩倉には多くの武将の中より隔心なき者二十二人を選び供として弓箭を持つことを許した。(諏訪大明神絵詞)
          源範頼死亡
1194年   建久5年     信救得業、鎌倉の鎌倉南御堂での源義朝・鎌田政清主従如法経供養願文「得長寿院願文」執筆する。
           小山朝光の邸に弓馬の達人を集めて流鏑馬を行った。その時諏訪盛澄と一緒の信濃武士は小笠原長清・海野幸氏・藤沢清親・望月重純等であった。(諏訪大明神絵詞)
      10月9日    頼朝の上洛に際し、住吉社で流鏑馬が行われたが東国の代表者として望月重隆、海野幸氏が参加している。この二人は頼朝の死後、第二代将軍頼家の側近となった。
1195年   建久6年 10月   信救得業が義仲の重臣である木曽大夫坊覚明であることを知った頼朝は箱根の別当行実に信救を箱根山に禁足するよう命じた。
          信救は箱根山を逃げ出し京に入った。そこで名を円通院浄寛と改め比叡山の座主慈円大僧正(慈円は摂政・関白藤原忠通の子、歌人、史論家「愚管抄」などの著者として有名。建仁3年大僧正となる。)に従学した。
          さらに浄覚は京都東山にある大谷の浄土宗開祖源空法然上人のもとに遊学しそこで後の親鸞上人となる若き日の範宴と出逢う。親鸞上人の母は木曽義仲の異母兄源仲家の息女吉光女で少納言藤原の有範に嫁し男子をもうけたがその子が後の親鸞幼名範宴である。両親を早く亡くした範宴は比叡山の学僧として修学、法然上人の門に入って幼名を綽空と称した。
1197年   建久8年 3月23日   頼朝が善光寺を参拝する。
      7月14日    大姫は義高が殺されてから愁嘆のあまり病気となり舞を見せたり多くの社寺に平癒祈願をしたりいろいろ手を尽くしたがわずか19歳の若さで闘病の力も尽きて淋しくこの世を去った。
           義高と大姫の悲話は後に御伽草子「しみず物語」となって広まり多くの人々の涙を誘った。
1197年   建久8年      頼朝は消失した善光寺を再建しこの年善光寺に参詣したという。
1198年   建久9年  1月11日   第83代土御門天皇
1199年   建久10年 1月    源頼朝没。享年53歳
     正治元年          
1200年   正治2年     九條兼実が30数年の間書きとめた日記が『玉葉』である
          義仲の妻伊子は久我道親の側室にされ男の子を出産する。後の宗洞宗永平寺を開いた道元である。
 13世紀前後              「源平盛衰記」:「信濃国安曇郡に木曽といふ山里あり」
「保元物語」巻2:「信濃国の住人・・・木曽ノ中太・弥中太」
「平家物語」剣の巻:「信濃国の住人、木曽冠者義仲・・・・」
「平家物語」巻6:「木曽といふ所は、信濃にとっても南の端、美濃堺なれば、郡も無下にほど近し、云々」
          「信濃にあんなる木曽路川」「信濃にありし木曽路川」
長門本平家物語」:「信濃安曇郡に越えて木曽中三兼遠・・・・」
1201年   正治3年 1月   頼家の御前で御的始めがおこなわれ、選ばれたのは海野幸氏や中野能成などの信濃武士ら十名であった。頼家の乳母父が信濃国守護だった比企能員だった関係もあり弓馬に秀でた信濃武士が頼家に近く勤仕していたのである。三代将軍実朝の御前で、放鷹の妙技を披露した桜井五郎(祢津一族)も信濃武士である。
    建仁元年 4月~6月   『源平盛衰記』に記されている巴御前と和田義盛との出会いと全く類似した事柄が『吾妻鏡』に記載されている。巴と同じ立場の女性を『板額の御前』と呼ぶ。和田義盛と同じ立場の武士を阿佐利与一義遠と呼ぶ。
              さらに木曽太夫坊覚明改め浄寛は京都東山にある大谷の浄土宗開祖源空法然上人のもとに遊学しそこで後の親鸞上人となる若き日の範宴と出会う。親鸞上人の母は木曽義仲の異母兄源仲家の息女吉光女で少納言藤原有範に嫁し男子をもうけたがそのこが後の親鸞幼名範宴である。両親を早く亡くした範宴は比叡山の学僧として修学、法然上人の門に入って初名を綽空と称した。浄寛は西仏と名乗る。範宴は二十九歳西仏は五十七歳であった。
1202年   建仁2年     九條兼実54歳にして出家法名圓證と号した。
1203年   建仁3年 9月2日   信濃守護比企能員、北条氏により謀殺される。
1204年   元久元年      
1205年   元久2年     木曽氏三代義茂生まれる。義基の子供三代刑部少輔義茂(母は板垣氏)は義宗の改名とする説と義基の子とする二説がある。
          木曽太夫坊覚明改め西仏は信貴山参籠中の醍醐寺僧深賢を訪ね「白氏新楽府略意」を貸与
1206年   建永      
1207年   承元元年       法然上人の念仏教団弾圧の時綽空(親鸞聖人)は法然上人に連座し藤井善信の俗名を与えられて越後に配流された。このとき覚明は綽空に従って越後に赴いた。途中東山道を木曽路に入った。木曽では覚明の親族中原兼遠の五男落合五郎兼行嫡男兼興が綽空に従い越後の国小丸山(現・直江津)に在留し門弟となった。
      4月5日   九條兼実59歳で寂す
1210年     11月25日   第84代順徳天皇
1211年   建暦元年 11月   覚明は親鸞と共に北越に4年おり赦免になって帰国の途に着いた。
1212年   建暦2年  3月25日   親鸞赦免後ともに善光寺に参詣
帰国する途中信濃の国更級郡長谷を過ぎる時法然上人の入寂を聞き親鸞聖人一行は近くの海野庄(西仏坊の生地)に一庵を建て報恩の経を読誦した。親鸞聖人はこれを「報恩院」と命名された。この報恩院が現在の長野市篠ノ井塩崎にある白鳥山報恩院真言康楽寺のはじまりである。この頃覚明は改名して西仏と称していた。木曽大夫房覚明円通院浄寛西仏坊である。
      5月   帰国した兼興は楢川村萱が平に草庵を結び幾度かの変遷の後楢川村奈良井の現在の地に玄興山浄龍寺となった。
1213年   建保元年     和田合戦(吾妻鏡)三浦一家は鎌倉執権職の北条氏と争って和田義盛は敗死し朝比奈三郎義秀は飛騨路より鞍掛峠を越えて王滝村の三浦(木曽郡王滝村)に亡命したといわれる。今貯水ダムとなった湖底となった三浦平には三浦太夫の墓と刻んだ墓碑があった。昭和12年春ダム工事によって現在は滝越に移されている。巴御前は和田一族が北条氏に亡ぼされた後尼となり越後に移ったと伝えられる。義仲の三男義元が越後の親鸞常人の下にいたのでこれを訪ねて出家したと伝えられる。後に義仲と共に戦った倶利伽羅谷の麓に庵を立て義仲やその一党の霊を慰める念仏三昧の生活に入り九十一歳で入寂したとされる。
『源平盛衰記』では和田合戦で義秀は打たれ巴は倶利伽羅峠などで共に戦った石黒氏を頼って越中(富山県福光町)に移り尼になって91歳まで生きたことが記されている。朝比奈三郎は巴の子としてある。義秀の年齢がこのとき38歳だったと記されている。逆算すると和田義盛の子ではなくなる。もし和田義盛の子なら母は巴ではなくなる。
『吾妻鏡』では義秀は和田義盛の子であるが巴の子としてではない。義秀はじめ何人かのものが由比ガ浜から舟で鎌倉を脱出し行方がわからなくなったことを記し、このことを各地へ飛脚をもって知らせたと書いてある。
          粟津が原の敗戦時二八歳であった巴御前はその後数奇な運命をたどり晩年尼となって義仲や子供の菩提を弔い越後(富山県福光町)で九一歳で没した。富山県福光には巴が暮らした草庵跡地に市天然記念物で樹齢700年ほどのクロマツがあり「巴塚の松」として親しまれている。
          三浦太夫即ち御家人三浦家村の父三浦義村は源頼朝に従い、平氏打倒に大きな役割を果たし、鎌倉幕府では重要な地位を占め三浦半島を領地としていた。家村はこの義村の四男として誕生、弓術にすぐれた武人でした。この時の執権北条時頼の陥れ宝治合戦によって三浦一族は自刃、滅亡したとされたが家村の遺体は見つからなかった。行方知れずの家村には津々浦々追手が遣わされた。
              三浦太夫の昔話
王滝村の奥の方に滝越しという集落があり、そこに住む人たちは[俺たちは三浦太夫という皇子様の子孫だ]と言って全戸三浦という名字を名乗っています。そして次のようなお話を伝えています。
昔三浦之介という者がいました。その子は禁裏(みだりにその中に入るのを禁ずる意。宮中。皇居。御所。)滝口の侍でしたが、ある上臈(じょうろう)(身分や地位の高いこと。またその人。貴婦人。上臈女房の略。)を伴なって王滝川の上流三浦平の地に落ち延び、そして弓の替わりに鍬をとり楯の替わりに鉈を振るい、この地を開いて土着し全く世の騒擾(そうじょう)から逃れた生活を送ることになりました。この山中に落ち延びたとき既に上臈は懐妊の身でしたが、やがて玉のような男の子をあげました。二人は子宝を愛し、この子に慰めを求めて幾年経つうち子孫は繁栄していきました。
三浦太夫と名乗って一族の長老として崇められた彼は大変な力持ちでした。ある年、山を越え子供を連れて隣国へ出掛けました。
ある村を通り過ぎようとすると、村人が大勢出て堤を造る仕事をしていました。大の男たち六十人が大きな水門を組んで堤の上に据えようと大騒ぎをしていますが重くて動きません。それを見て気の毒に思い子供と一緒になって、ぐいぐい運んでやりました。これを見た村人はお礼を言うどころか山賊の類だといって、村中の者を集めて打ち殺そうとしました。驚いた太夫は大木を根こそぎ倒して振り回し、村人を追い払って抜け出したといいます。
また山奥で道がけわしく馬を連れてくることができない。畑を耕すのに不便だといって馬を買いに里へ出掛け、背中に背負って来たという話も伝わっています。
このようにして子孫が繁栄していく代価立ったが、開墾に開墾を以ってしても何しろ標高千四百メートルの深山の中の三浦では、気候が寒くて作物がよく育ちません。そこで二里下流の滝越の地を見出して、一族挙げて滝越の地へ移り新しい開墾を始めました。幾十年心血を注いだ三浦平が笹原になると伴に、滝越の盆地は美しい田畑が切開かれ、平和な部落ができ上がって行きました。今滝越部落を一望できる山の山腹に先祖三浦太夫のお墓があります。もとは現在三浦ダムの湖底となった三浦平にあったものを、昭和十二年春ダム工事によってこの地へ移転したものだと言います。(生駒勘七著木曽のでんせつ)
      5月3日   『吾妻鏡』は和田義盛一族は食料が断たれたため、戦力が落ち、小雨の降る夕方由比ガ浜において一族すべて討ち死にしたことを伝えている。現在由比ガ浜のそばには和田義盛一族の墓が建てられている。
1214年   建保2年     木曽太夫坊覚明改め西仏、親鸞の東国移住に同行
西仏親鸞伝記を執筆。これを元に覚如と覚明の孫浄賀が親鸞伝絵を制作した。
1215年   建保3年     [紙本墨書大般若波羅密多経]全100巻のほとんど全部に「美濃州遠山庄馬籠村法明寺常住」と書かれている。
           義仲戦死の後異母妹(母は秩父氏)の菊女は頼朝の夫人政子のはからいで助命され神坂の馬籠の地をもらい法明寺という寺を建てて住持した。建保三年の年号を記した法明寺の大般若経百巻が伝わっている。
        
     法明寺跡(旧神坂村馬籠)中央に五輪塔七基あり
1219年   承久元年      
1220年頃         九条兼実の弟で僧侶の慈円が歴史上の大きな政変や事件について考察し記述した歴史書『愚管抄』を書く。
1221年   承久3年  4月20日   第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇
      5月15日   承久の乱が起こる
承久の乱に多くの信濃武士が参加する。
筑摩郡赤城郷を根拠とする赤城忠長が承久の乱の褒賞として与えられた備中国川上郡穴田郷(岡山県高梁市)に移住する。また小笠原長経ら多くの武士が西遷する。
1221年     7月9日   第86代後堀河天皇
1222年   貞応      
1224年   元仁      
1225年   嘉禄元年      
1227年   嘉禄3年 閏3月20日   藤原定家の子、為家が信濃国主職を拝領する。
1227年   安貞     道元が宋から帰国して曹洞宗を開く。
1229年   寛喜元年      
1230年         北陸宮死亡
1231年   寛喜3年     義茂の子木曽氏四代源三郎基家生まれる。将軍頼経の時上野国千村庄、相模の国中山庄を賜わる。
      7月   異常気象により信濃・武蔵・美濃が飢饉となる。(寛喜の大飢饉)
1232年   貞永 10月4日    第87代四条天皇
1233年   天福元年     西仏は常に親鸞に陪従しており親鸞が一派を開創した時より前後20年近くにわたり親鸞の補佐役を勤めその力は大きなものがあったという。
1234年   文暦元年     覚明法使となって信濃に入った時行状を記してその子浄賀に授けた。それによれば信救、覚明、浄覚の名は西仏の前名であったことがわかったという。
1235年   嘉禎元年    
1236年   嘉禎2年 8月6日   朝日三郎義基卒す。法名生堂院殿常覚玄勇
1238年   暦仁      
1239年   延応      
1240年    仁治      
1240年頃         平家物語に「木曽」とある。
1242年   仁治3年 正月28日   覚明85歳で没す。
      2月26日   第88代後嵯峨天皇
      6月15日   北條泰時逝去。法名常楽寺殿観阿大禅定門により以来義高の首塚のある粟船御堂は『常楽寺』と称し現在に至る。
1243年   寛元元年      
1246年   寛元4年 1月29日   第89代後深草天皇
      11月7日   藤原頼嗣が筑摩郡白河郷の地頭職を藤原(白河)惟家に安堵する。
1247年   宝治元年     巴は和田義盛敗死後、越後にのがれ、石黒氏に依って尼となり、九十一歳で病死したと伝えられる。  
1249年   建長元年      
1250年   建長2年 正月6日   基家の子木曽氏五代沼田右馬助家仲生まれる。
          源平盛衰記に「木曽」とある。
1253年 建長5年   遠山庄は近衛家の所領で、この年の近衛家所領目録には「高陽院領内、美濃国遠山庄」とある。現在の岐阜県恵那・中津川両市及び木曽郡の山口村・南木曽町田立にかけての地域を占めていた。
1256年   康元      
1257年   正嘉      
1259年   正元元年 3月17日    木曽氏四代源三郎基家死亡。29歳。法名大中院殿利山源貞。木曾黒川の野中に基家の墓と伝える五輪塔がある。
      11月26日   第90代亀山天皇
1260年   文応元年 3月15日   義重卒(郡誌)80歳。西筑摩郡誌は二代目につけている。
1261年   弘長 2月15日   義仲の次男義重82歳で日野村(現池田町)で没した。日野には義重父子の墓とその子孫とされる原姓があるという。異説には義仲の死後大夫坊覚明は義重と36人の家臣を連れ向島(広島県向島町)に逃れ土着したという。今も向島東には義重や木曾一族の墓が遺跡になっている。義重も頼朝に殺されたという説もある。
1264年   文永元年     木曾義仲五代の孫沼田右馬介家仲が妻籠城を築く
1271年   文永8年 春    一遍が善光寺を訪れ、ニ河白道図を写す。
1272年   文永9年 12月8日   家仲の子木曽氏六代兵庫助讃岐守家教生まれる。
1274年     1月26日   第91代後宇多天皇
    文永11年 10月20日   元軍が襲来する。(文永の役)
1275年   建治      
1278年~
1288年
  弘安年間     木曽家仲が水無神社の社殿を再興 
1279年   弘安2年 5月   基家の子、木曽氏五代沼田右馬の助家仲は水無神社を奉安する。
      この年   一遍が伴野荘(佐久市)で踊り念仏を行う。
1281年   弘安4年 6月6日   元軍が来襲する。(弘安の役)
有坂吉長が志賀島(福岡県)で元軍と戦う。
      6月16日   木曽氏三代義持死亡。77歳。法名仁寛院殿儀道元英。
          最初の学僧養成の学問所、高野山勧学院が造営される。以後、園城寺、東寺、興福寺、東大寺と設置された。
1285年   弘安8年 11月17日   霜月騒動が起こる
霜月騒動により安達泰盛のほか伴野氏、有坂氏らが戦死する。
1287年     10月21日   第92代伏見天皇
1288年   正応      
1290年頃   正応の頃     親鸞上人の孫である覚如上人が上松の東野にきてしばらく滞在されたと伝えられその遺跡に阿弥陀寺がある。覚如上人自筆と伝えられる仏画三軸がある。
この阿弥陀寺ははじめ藤原行重という公家衆の建立したものであるという。今の建物は江戸時代の建立。
         
            阿弥陀寺(上松町東野) 
1291年   正応4年 3月13日   木曽氏五代家仲42歳で死亡。法名正元院殿即翁鉄心
      8月18日   家教の子又太郎讃岐守木曽氏七代家村生まれる。元弘、建武の際、足利尊氏に属して功あり、暦応元年9月7日尊氏の印書を以って本領の木曾を安堵せられる。この頃木曾北部に大吉祖庄、南部に小木曾庄の二庄あり南部の地頭真壁小太郎政幹の存在は建武4年より貞和元年まで現存することから家村は北部を領したものといわれる。
1293年   永仁       
1294年   永仁2年 3月5日   家村の弟木曽氏八代七郎伊予守家道生まれる。何故に弟の家道に嗣がしたか疑問であるが『沿革志』は家村の子いずれも幼少のため家道が嗣ぐとしてある。『木曾考』は家村の長子につけている。
1298年   永仁6年  7月22日   第93代後伏見天皇
      8月2日   現在の木曽郡の地域には、大吉祖庄、小木曽庄、遠山庄の3つの荘園があった。大吉祖庄の成立年代は明らかではないが、仁和寺宮性仁法親王の令旨で、「無量寿院領小岐曽庄」とあるのに初めて大吉祖庄の名前が出てくる。
                「 北院領四宮勅旨、無量寺院領小技曽庄」(高山寺文書)・・・・・仁和寺領         小木曽庄の初見
          いままで無量寿院領であった小吉祖庄が、京都の高山寺領となった記録がある。しかし、小吉祖庄は平安時代の荘園時代から高山寺領であったとも言われている。
1299年   正安      
1301年     1月21日   第94代後二条天皇
1302年   乾元      
1303年   嘉元元年      
1305年   嘉元3年 6月7日   鎌倉幕府が信濃国吉田郷・小池郷(塩尻市・松本市)の所領を赤木忠澄に認める。
1306年   徳治元年      
1307年 徳治2年     諏訪下社の神官武居重家の子重晴が三岳村黒沢御嶽神社の禰宜となってきた。
1308年 徳治3年     大桑村殿に池口寺が建立される(復興か)
1308年    延慶元年 8月26日    第95代花園天皇 
1309年~
1310年
  延慶2年     平家物語の延慶本(読み本)を書写した。
1310年   延慶3年 6月16日   仁和寺にあてた伏見上皇の院宣に、「美濃の国小木曽庄」とあって、小木曽庄が仁和寺無量寿院領であったことがわかる。
                「美濃国小木曽庄信濃国四宮・・・・・」(高山寺文書)・・・・・高山寺領(地頭真壁氏)
木曽には”信濃の木曽”(木曽の北部)と”美濃の木曽”(木曽の南部)がある。
北部に拠点を持った木曽氏(当初は藤原氏)が南部の領主(真壁氏など)を追い出す。
1311年   応長      
1312年   正和元年      
1314年   正和3年 12月5日   松殿冬房が松殿忠冬に小河荘領家職を譲る。
1316年   正和5年 4月3日   家道の子木曽氏九代七郎伊予守家頼生まれる。
1317年   文保      
1318年     2月26日   第96代後醍醐天皇
1319年   元応元年 7月12日   鎌倉幕府が竹淵郷(松本市)地頭泰経に諏訪社頭役を努めるよう命じる
      10月6日   木曽氏七代家村28歳で死亡。法名剛縁院殿智仁禅翁。
1320年   元応2年 9月8日   花園上皇が松殿忠冬の小河荘領家職を保証する。
1321年   元亨元年      
1323年   元亨3年 1月14日   善光寺門前に住む妙海らが十一面観音をつくる。
1324年   正中      
1326年   嘉暦元年 7月24日   北朝1代光厳(こうごん)天皇 
1327年   嘉暦2年 7月18日   木曽氏六代家教56歳で死亡。法名仙寿院殿一洞性安
1329年   元徳元年     小木曽庄検注雑物目安注文によれば、この庄は、吉野保・永野保・水野保の三保から成立していたことがわかる。保は後の村に当る。吉野保は現在の上松町吉野、永野保は大桑村長野にあたり、水野保は南木曽町三留野と推定される。
1330年   元徳2年 2月11日   仁和寺事務禅助が没す
      4月20日   追善料所として禅助と法縁が深い高山寺方便智院の仁弁に小木曽庄は譲度されて、方便智院領となった。高山寺は「鳥獣戯画」を所蔵することで知られている。
1331年   元弘元年 9月20日    
1332年   正慶元年      
1333年   正慶2年     七代家村が尊氏に属し湊川の合戦に楠正成を破る
      5月22日   鎌倉幕府が滅亡し建武新政が始まる。
      11月5日   志久見郷市河助房が所領の安堵申請して、信濃国司清原真人が安堵した。
      12月16日   新田義貞が上野御家人寺尾光業の所領を安堵した。
1334年   建武元年 正月15日   小木曽庄の地頭には、常陸国真壁郡真壁郷の豪族真壁氏が任命されているが領主高山寺方便智院と地頭との間に下地中分(中世、年貢や土地にかかわる荘園領主と地頭との紛争解決の一方法で、下地を折半してお互いに領有を認め合うもの)の起こっていたことが見える。 
     元弘4年     大桑村殿の白山神社(重要文化財)には元弘四年と書いた棟札がある、
        
            大桑村殿の白山神社   
1335年頃     元弘
建武
    家教の子家村は、元弘・建武の事変に当って、朝敵であった足利尊氏に属して軍功があり、尊氏より木曾(東筑摩郡の洗馬、宗賀村および南安曇郡奈川村を含む)近江の安食野、伊那の高遠、上野の千村の荘を賜り、讃岐の守となり、木曾氏を称することになった。義基よりこれまでは沼田姓を称していたのである。
家村は妻籠に山城を築き、馬籠、田立、西野、奈川、王滝にとりでを設け贄川に関所(この頃の関所は軍事的な目的の外関銭といって通過する人馬荷物から通行税をとった。)を置いた。
家村は南木曽町城山の麓に観音堂を建て兜観音像を安置して武運長久を祈念したと伝えられる。
長子―義親=高遠を管せしむ、高遠太郎といった。高遠城は木曽家の創立したものである。
二子ー家昌=安食野を管せしむ、安食野次郎といった。
三子ー家景=当時木曽の要衝であった新開黒川に居らしめ古畑、馬場の祖である。黒川三郎といった。
四子ー家光=贄川の関を守らしむ。贄川四郎といい、奈良井、三尾、桑原氏の祖である。
五氏ー家重=千村を管せしむ。千村五郎といい千村氏の祖である。
1336年   延元元年  2月10日   池口寺は元小吉祖庄地頭であった真壁氏のあとといわれる池口入道が長野に建てたともある。
池口寺の一部には鎌倉時代の建築様式があるという薬師堂がある。
        
              大桑村殿の薬師堂
      8月15日   北朝2代光明天皇
1336年~
1573年
  建武3年~
天正元年
    室町時代
室町時代の終わりごろ木曽踊りということばが記録にあらわれる。「閑吟集」に「七月がおじゃれば木曽おどり始めて振りようおどろうよ、とかくおどらにゃ気が浮かぬ」とでてくるのがはじめてである。
1338年   建武5年 8月11日   足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ幕府を開く
          義仲の子孫と称する木曽家村が足利尊氏に属し小笠原氏と行動をともにした。
    暦応元年      足利尊氏が木曽氏七代家村に軍功と称して信濃の国に9箇所近江の国に4箇所を与えた。義仲の死後子供たちは各地に隠れ住んでいたが家村は再び木曽へ帰って須原に館を構えた。したがってその間は不明の点も多い。『古今沿革志』に(尊氏の印書を持って木曾を賜り、木曾中谷(木曽郡大桑村殿)を城となし妻籠に城を築く)とある。
1339年     8月15日   第97代後村上天皇
1340年   暦応3年      郷土池口入道が瑠璃山池口寺を再建する。
            
1341年   暦応4年 正月9日   家頼の子木曽氏十代弾正忠家親生まれる。家親が藤原家信とも考えられる。
      3月24日   足利直義が中澤氏に佐々木高貞の追悼を命ずる
1342年   康永元年 9月16日   木曽氏八代七郎伊予守家道は49歳で死亡。法名真高院殿実山宗機
1345年   貞和元年      
1346年 貞和2年     地頭であった真壁小太郎政幹が徴収した上納物を横領し、幕府からきつく叱責された記録がある。真壁氏は常陸の出身であり小吉祖庄の地頭として大桑村の長野附近にいたものらしくいま須原の氏神様である鹿島神社は真壁氏が郷里の常陸より氏神を迎え祀ったものではないかといわれている。
          「高山寺方便智院領小木曽庄雑掌・・・・・」(前田家所蔵文書)・・・・・高山寺領 地頭真壁氏
                茨城県の鹿島神社のそばに真壁がある。真壁の代官が木曽にきて鹿島神社をお祭りした。
1346年   正平      
1348年     10月27日   北朝3代崇光天皇
1348年頃   正平年間     家村の弟、家道が家系をついで伊予守といった。
          吉野拾遺によると、徒然草を書いた兼好法師が、木曽の御坂の湯舟沢に入り、いほりを構えて、閑居していたと伝えられる。湯舟沢の奥に兼好屋敷といい直径二米余り「のいちい」の根株が残っている。
    思いたつ木曾の麻きぬあさくのみ
          染めてやむべき袖のいろかわ

           
          兼好屋敷跡(旧神坂村湯舟沢)
          木曾家道か家頼がこの付近でまき狩りを行い、尊大に振舞ったことから兼好法師は
    ここもまた浮世なりけりよそながら
         思ひしままの山里もがな

と詠じ、ひょう然と立ち去ったとある。
1350年   観応      
1352年   文和 8月17日    北朝4代後光厳天皇
1356年   延文      
1357年   延文2年     木曽家有水無神社を再興
1361年   康安      
1362年   貞治元年      
1364年   貞治3年     家親の子木曽氏十一代親豊生まれる。
家頼の子家親は禅正忠といった。
1367年   貞治6年 11月19日   木曽氏九代七郎伊予守家頼52歳で死す。法名芳国院殿柏堂常盛
1368年   応安 3月    第98代長慶天皇 
1370年   建徳      
1371年   応安4年   覚一という琵琶法師が平家物語の語り本を書写した。
      3月23日   北朝五代後円融天皇
1372年   文中      
1375年   永和      
1375年   天授      
1379年   康暦      
1381年   弘和      
1381年   永徳      
1382年     4月11日   北朝6第100代後小松天皇
1383年     10月   南朝第4代第99代後亀山天皇
1384年 元中
1384年   至徳元年      
1385年   至徳2年     木曽家信水無神社の御宝殿の再興
1385年   至徳2年     水無神社棟札裏書に『大願主越後の守藤原の家有』とあり同年黒沢御岳神社棟札に『大檀那木曾伊予の守藤原の家信』とありいずれも系図になく藤原製を唱えるのはおかしい。この年は10代家親十一代親豊の年代にあたるので或いは実名の藤原姓を用いたものとも考えられる。
1385年   至徳2年     御嶽神社若宮の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)でこの年再建された棟札と鰐口が現存するという。木曾の古記録に安気大菩薩として木曾氏の崇敬を受けたと伝承されている。
1387年   嘉慶      
1387年~
1389年
  嘉慶年間     木曽郡大桑村の浄戒山定勝寺創立。木曽義仲の末裔を称した木曾氏11代右京大夫木曾親豊が義仲の一族をとむらう氏寺を建立したのが始まりという。
1389年   康応元年     親豊の子木曽氏十二代式部大輔信道生まれる。興禅時建立、大燃松(ラッポショ)始まる。
1390年   明徳       
1392年   明徳3年      室町時代になると望月牧の駒牽でさえこの年を最後に記録が無い。
 1392年~1573年    室町・戦国期      信濃十二郡・木曽二郡
1394年   応永元年 正月    この頃福島の駅附近に龍源寺という寺があったようである。
富田町の漆師加藤喜左エ門が龍源寺に漆器を献納した記録がある。
1394年~
1428年
  応永年間     木曽町福島と上松町境近くにある懸崖に岨橋を渡してわずかに通路が開かれた。木曾の棧は危きものの代表として世に知られてきた。棧は掛橋の意である。
1397年   応永4年     「大般若波羅密多経」(大桑村定勝寺所蔵)の巻第百の奥書には、「濃州恵那郡遠山庄苗木郷室住村」とある。
           家親の子木曽氏十一代親豊は右京太夫といった。大桑村長野の中山に山城を築き今の須原に居館を構えた。この年須原と原野間の木曽川に沿った道を開いた。難所であった波計(はばかり)桟道(今の桟)もこのときに架せられたものである。これより駒ケ岳山麓を通じた大宝開通の山道は廃せられた
1400年   応永7年     また福島に小丸山城を築き子の信道をして居らしむ。大桑村長野の大屋城に居館を定む。
大桑村長野の観心坊を須原に移して定勝寺を建てた。その位置は今の場所ではなく須原宿の木曽川べりであった。寺領として新屋、大洞、小河、阿弥陀堂、馬場、小林において五貫八百文の所を寄進した。
観心坊の跡には如意庵をおいた。
親豊は没後須原の定勝寺に葬られた。
定勝寺の墓地にある四基の五輪は鉄道開設のとき現在の地に移されたものである。
この五輪は親豊とのちに出てくる家方、家豊、義在のものでないかといわれている。
        
           親豊外三氏の墓(定勝寺)
           福島に山城(小丸山城)を築いて固めをしたことは
地理的に福島は木曽の中心であり王滝川、黒川をひかえて飛騨に対する要衝であることと
この頃全国的に永く農奴的な地位におかれた農民が自治的な団結をかためて土一揆と云い守護や地領に反抗する傾向が強まったっことに対抗するためのものでなかったかと思われると木曽史話で森田孝太郎氏は述べている。
 1400年~    応永7年~
応永14年
     木曽川沿いに新道をかけたのが桟道構造の始まり
桟は丸太の柱に横板を並べたのが原形だった。
        
 1400年頃          須原・原野間の道路改修を進め山道を廃道とする。
1402年   応永9年     信濃国の十九牧のうち辰野・岡屋の二牧が諏訪大社下社に寄進されたという記録がある。
1406年   応永13年     林昌寺の過去帳によると寺の宗旨ははじめ真言宗高野山地蔵院末に属していたが中古において禅宗に改宗されるまでは寺号は『洗林寺」と記されている。駒ヶ嶽の谷々が抜け出し字『元原野』にあった林昌寺は流損廃寺となった。
1407年   応永14年 6月29日   木曽氏十代家親67歳で死亡。法名浄政院殿一源心公
1411年   応永18年 12月5日   信道の子木曽氏十三代源太郎豊方生まれる。
1412年     8月29日   第101代称光天皇
1414年   文明16年     家盛が兄家豊の一周忌に当たって十三仏木像を定勝寺に寄進した。
1428年   正長元年     野尻白山神社棟札に『当地頭藤原家矣』とあり信道ともいわれる。
      7月28日   第102代後花園天皇
1429年   永享元年      
1430年   永享2年     木曽氏十一代親豊は須原に長野観心坊を移して定勝寺建立する。
      3月9日   豊方の子木曽氏十四代左京大夫家賢生まれる。
1431年   永享3年     木曽家十二代信道は式部少輔といい今の鳥居峠を改修し、さらに塩尻に行く道路の大改修工事をおこなった。
1434年   永享6年     親豊の子、信道は式部少輔といい福島に居た。
木曽家十二代信道が先祖義仲の追善供養のため新開村の寺郷にあった寺を移して荒廃していた旧寺を建立しなおしたものが興禅寺である。義仲の菩提寺とした。
大華和尚の開山と伝える臨済宗寺院
木曽家と木曽代官山村家の菩提寺。木曽義仲を祖として木曽谷に君臨した木曾氏の墓はこの興禅寺に並んでいる。その中でも別格に扱われているのが境内の観音堂の裏にある柵と生け垣に囲まれた三基の墓である。中央の厳かな宝篋印塔が朝日将軍と称された義仲の墓である。右隣は木曽家十二代信道の石塔。左隣は戦国時代に信濃四大将の一人に数えられるほど勢力を伸ばした十八代義康とその息子で十九代義昌の石塔である。
信道は義仲の霊を弔うため毎年7月14日15日の両夜甲冑を着した百八人の将兵に各々松明を持たせ、関山に『大』の字の火文字を描き、鉦鼓を叩き、ほら貝を吹き、喚声をあげて山を下り義仲の墓に詣でた後興禅寺の庭で『風流陣の踊り」を踊ったとのことである。
寛永18年、明治39年、昭和2年と3度の火災にあう。
           信道はまた元の木曽東校校庭である上の段山に義仲およびその四天王の霊を祭る五霊神社を建てた。福島の人々はこの五霊神社を氏神としたものである。
水無神社はもとは岩郷村の氏神様であり今のように福島の氏神様ではなかった。
1435年   永享7年 6月朔日   木曽氏十一代親豊72歳で亡くなる。『木曾考』では79歳となっている。法名定勝寺殿唯峰曽公
1439年   永享11年 4月3日   木曽氏十二代信道51歳で亡くなる。法名興禅寺殿安翁持公大禅定門
信道は興禅寺にある義仲の墓の隣に葬られている。
1440年   永享12年 3月   信道の子木曽氏十三代豊方は源太郎といった。豊方は小丸山城におり長福寺建立して寺領を寄進し木曽家の菩提寺としたた。のち小丸山麓にあった富田山龍源寺を合併し龍源山長福寺とした。豊方の墓は長福寺にある。(木曽史話)
        
              豊方の墓(長福寺)
1441年   嘉吉      
1444年   文安元年      
1446年 文安3年     定勝寺が洪水にあって流失した。
1448年   文安5年     七堂伽藍をそなえていたといわれる定勝寺の最初の建物が木曾川の洪水のために流失する。
1449年   宝徳      
 1451年    宝徳3年  3月20日    家方の子木曽氏十五代兵部少輔家豊生まれる。
  4月   家方が定勝寺を再建した。このとき家盛の名によって関所の関銭を徴しその費用にあてている。
豊方の子家方は左京大夫といった。この頃福島から須原に移った。その居館の跡に現在の長福寺を移したようだと森田孝太郎氏は木曽史話に書いてある。室町幕府は足利義政の時代となり幕府の統制力はゆるみ地方分権の台頭が進行することとなった。木曽家においてもこの風潮に対処して土地住民の領有を強化するため木曽家の一族を領内に分散して支配したらしい。
           家方の弟家信を上松に構えしめた。これが上松氏の祖である。
           その弟家定を野尻(のちの龍泉庵の地)におきこれが野尻氏の祖である。
           また家方の子家範を三留野におき妻籠城と田立のとりでを守らしめた。これが三留野氏の祖であり左京亮といった。
           その弟家益は野尻右馬助といって叔父家定の後を継いだ。
           家益の弟家盛は越後守といった。よく父家方や甥の家豊を助けて治世を行った。十三仏を定勝寺に寄進しており今もそれが保存されている。家盛の子重義が王滝村松原彦右エ門の祖であるといわれている。
1452年   享徳      
1454年   享徳3年     木曽氏十四代家賢流失の定勝寺を再建した。
1455年   康正元年     木曽氏十四代家賢福島から須原の舘に移る。家賢、香林を定勝寺の住職に任じた。
1456年   康正2年 3月晦日   木曽氏十三代豊方の子家定書判の定勝寺文書(関所文書)
1457年   長禄      
1460年   寛正      
1464年 寛正5年 7月19日   第103代後土御門天皇
1466年 丙戌 文正元年     木曽氏十五代家豊興禅寺に梵鐘寄進
           家方の子家豊は兵部少輔といった。この年跡目相続をした。
1467年 丁亥 応仁元年      細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)は、将軍職の相続争いから対立し、応仁の乱が起こった。諸国の武将はそれぞれ東西に分かれてこれを助けた。京都に出兵したのは美濃から西の大名であり伊那郡松尾の小笠原氏と木曽の木曾氏は東軍に属していた。木曾家豊は美濃の土岐成頼を攻めた。木曾家はこの戦後裏木曾方面をも所領としたらしい。
           応仁の乱によって室町幕府は崩壊し木曽家も独立分国の領主となり自分の実力をもって地位を守らねばならぬことになった。これより約百年にわたりよく毅然とした戦力を保つことのできたのは木曽は要害の地であり木曽山の優良木材を資源とした経済力があったからだと思う。
           のち江戸地代になって木曽の代官となった山村家の始祖である山村良道は応仁の乱によって近江国山村の地を失い木曽家の食客となって須原の館に留守居役をしていたが山賊に打たれて死んだ。その子良し利は二歳であり木曽家で養われ成人ののち木曽義昌の娘を妻にもらった。
1469年 己丑 文明      
1469年~
1487年
  文明年間     妻籠城の築造年代は明らかでないが木曾家豊の弟三留野左京亮家教が砦を構えたのが始という。
1472年 壬辰 文明4年 3月   家豊の子木曽氏十六代伊予守義元生まれる。義元ははじめ木曾左京大夫義清といわれていたが後に木曾伊予守義元と呼ばれた。
          山村氏は、遠祖良道が初め室町幕府に仕え、幕府が衰えるに及んで、木曽へ来て木曽義元の客将となったという。次祖良利は義康・義昌二代に仕えて木曽家の重臣となり、しばしば戦功をたてた。良候(たかとき)は良利の子で、山村氏はこの良候(たかとき)をもって初代としている。
1473年 癸巳 文明5年     美濃国守護土岐茂頼は山名方(西軍)に属し京都で戦っていたが、守護代として留守を守っていた斉藤妙椿が兵を率いて上京するといううわさがあった。
      2月   将軍足利義政を奉じていた細川方(東軍)は伊那郡松尾の小笠原家長に命じて、同族の小笠原政秀とともに、東濃地方へ攻め込ませようとした。
      3月   将軍足利義政から木曽家豊にも出陣するように促し伊那郡松尾の小笠原氏にも木曾氏と協力するようにさせた。
          木曽氏十五代家豊松尾小笠原氏と共に美濃国、土岐成頼を討つ。
          木曽氏十四代家賢の子長福寺信叔長福寺中興開山
      5月21日   木曽氏十三代豊方63歳で死亡。法名長福寺殿春兜英公大禅定門
1483年 癸卯 文明15年     木曽氏十四代家賢の子越後守家盛は定勝寺造営のための資金調達のため通行税を徴したことが定勝寺文書にある。
1487年 丁未 長享      
1489年 己酉 延徳元年      
1491年   延徳3年     定勝寺文書(関所文書)
1492年 壬子 明応元年      
1493年 癸丑 明応2年 2月2日   義元の子木曽氏17代左京大夫弾正少弼義在生まれる。
1495年頃   明応中     鳥居峠はもとは薮原峠などと呼ばれていたのを家豊の子木曾氏十六代義元が小笠原氏と戦った時、御嶽神社の神霊を夢みて戦勝を得たお礼にと御嶽遥拝の鳥居を建てたことから鳥居峠の名がついたという伝説がある。義元は伊予守といった。
1496年 丙辰 明応5年     義元が定勝寺に大太鼓を寄進した。
1498年 戊午 明応7年 7月22日   木曽氏十四代家賢69歳で亡くなる。法名秀岩院殿心翁受公大禅定門。
1500年 庚申 明応9年 10月25日   第104代後柏原天皇
1501年 辛酉 文亀      
1504年 甲子 永正元年     木曽氏十四代家賢の子野路里右馬助家益は飛騨の国三木修理亮重頼が、美濃の加子母村より白巣峠を越えて王滝に來攻のとき甥義元と共に戦い戦死。大妻新左エ門、間壁美濃等も三沢で戦死。家益等の墓は牧尾ダムで水没したという。
      7月11日    飛騨の国司・姉小路済継(あねこうじなりつぐ)の家臣である三木修理亮重頼の兵数百名が突然御嶽の西南にあたる標高1425メートルの白巣峠をこえて王滝口から進入、上島(わじま)城を包囲した。
上島城にいた上野肥後より来援を求められた義元は、直ちに早馬で檄を飛ばして集まった兵230名をとりあえず引き連れその夜大雨の中を王滝口へ出発した。しかしその時すでに上島城は敵に放火され、城将上野肥後は戦死し落城していた。
この報を途中で聞いた義元はひとまず王滝城(崩越)に入って休息し兵に兵糧をつかわせていた。

ところがそこへ敵兵が進入してきたので義元以下木曾勢は直ちに応戦し敵数百名あまりを殺傷し城を出てさらにこの敵を追撃した。
しかしその敵は一部分で別動隊が背後から手薄になった王滝城を攻撃して遂に王滝城も陥ちてしまった。
滝越の三浦八郎も義元の率いる木曽勢とともに防戦したl
木曽の黒川三郎、三尾国重等奮戦したが野尻家益をはじめ大妻新左門 畑三左エ門、間壁美濃等三沢で戦死し木曽勢は総くずれにくずれて敗走した。
王滝城跡は王滝村田野尻の宅地続きの「しろ」といわれる地にある。
      7月12日    義元は城を捨てて三尾に退く途中、新手の敵の攻撃に会い、山中で負傷してしまったので、あんだ(担架)に乗り部下とともに福島へ引き上げる途中川合で卒してしまった。この日谷中の援兵300名は王滝口から再び進撃し、裏木曾の兵も別口より来援し、飛騨勢を挟撃して打ち破った。
村井忠左エ門、中関大隅等は裏木曽に廻って滝越しに入り飛騨勢を挟撃してこれを敗走せしめた。
このとき義元に子が二人あり長子豊若9歳(一説12歳)次弟千代若という。千代若は木曾家七代家村の三男家景から7代の孫(古畑織衛)之を引き取り養育成長後古畑を嗣がせた。豊若は馬場家に引き取られ成長後木曾家を嗣ぐ、すなわち十七代義在である。(古畑家古文書)木曽氏十六代義元の舎弟義勝が豊若を17歳まで後見した。
      7月13日   谷中の諸士が集まって義元を川合に程近い木曽町福島中組沼田野の木曽川に近い田の中に葬った。
西光寺や龍源寺の長老等ねんごろに弔ったとある。
土地の人は御墓島と呼んでいる。
木曽氏十六代伊予守左京大夫義元33歳であった。法名龍源院殿昭山暾公。
木曽家においては御墓島一帯の田地を義元の永代供養料として長福寺に寄進した。
現在木曽町福島中組沼田野地籍の御墓島には松の大樹の下に「朝日将軍苗裔木曾弾正正弼伊豫守義元公墓」と刻まれた義元の墓標が建立されている。御墓島が義元の墓であり木曾累代の墓地であるといわれている。
           
         義元の墓(木曽町福島沼田野)
           義元は在世中廃寺となっていた龍源寺を再建したようである。木曽家方の三男であった信叔和尚が龍源寺の開山であり義元が開基ということになっている。
しかしのち再び廃寺となり長福寺と合併してしまった。
           義元戦死のときその子義在は十二歳であった。
叔父良勝が後見となり新開村黒川に居た一門の黒川三郎が保育した。義在元服して左京大夫といった。
      8月3日   木曽氏十五代家豊54歳で亡くなる。法名源徳院殿椿山永公
1509年   永正6年     義在は17歳になって福島の五領に山城を築く
小丸山城築城後およそ百年後に木曽義在が上の段城に
館を移した。義在、義康、義昌三代の居城であった。
居館を上の段の大通寺付近に構えた。上の段用水もこの頃引いた。
義在は木曽谷の道路を改修し、馬籠から洗馬に至る沿道に宿駅を定めるなどしている。
木曽山の良材を盛んに伐木流送して売り払い財政を整えた。
           この頃木曽家の分家である野尻家と三留野家の間に不和を生じ小競り合いがあった。
義在はひそかに野尻の池口七郎兵士、古根彦五郎、寺町弥左エ門をして仲裁せしめたが容れられず三留野氏はついに野尻氏をうった。
義在りは池口氏に命じて三ど野氏を制しようとしたが三ど野氏が病死したので三ど野氏の所領の内与川の地を三ど野氏の次男である古典庵の僧と小川氏に分け与えて三留野氏を抑制した。
1513年 癸酉 永正10年     木曾氏17代義在安曇の仁科明盛と共に醒井に出陣し六角高頼を討つ(南安曇郡誌)
          妻籠馬籠両島崎氏の先祖島崎監物重綱が木曾義在に仕える。
1514年 甲戌 永正11年       木曾氏18代中務大輔源太郎義康生まれる。勇猛で知略に優れた義康は松本の小笠原氏と結んで高遠城を攻め落とし千村内匠を城代として守らせた。これにより武田晴信が木曾へ反攻してくることを予想し、今の城山に福島城を築いた。福島城を本拠として次第に筑摩郡や安曇郡にまで勢力を伸ばしていたところへ甲斐の武田信玄が信濃攻略を進め諏訪の諏訪頼重を滅ぼし、松本の小笠原長時、北信の村上義清を追い矛先を木曾谷へ向けてきた。木曽谷は尾張・美濃への交通の要衝であり、信濃統一の先に信玄が目指す天下統一に向けて、重要な位置にあった。
1521年 辛巳 大永元年     武田信玄、信虎の嫡子として生まれた。母は大井次郎信達の女で幼名を勝千代と呼んだ
1526年     4月29日   第105代後奈良天皇
1528年 戊子 享禄      
1532年 壬辰 天文元年     奈良井の専念寺建立
          長老が義元を弔ったとある西光寺は、その後廃寺となり、本尊であった阿弥陀如来は上ノ段の善性寺に移され、善性寺が廃寺になった後、奈良井の専念寺に移された。
          明治の初めに北海道函館に本願寺別院が建立されることになった際、その檀徒衆の夢枕に「信州奈良井の専念寺に居る我を移せ」ということで阿弥陀如来が函館に迎えられたという。
1532年

1554年
  天文年間     木曽義康信濃の国四大将の一人にあげられるまでにその勢力を伸張した。
1533年 癸巳 天文2年     木曾氏17代義在、馬籠ー洗馬間に宿駅を定む
1536年 丙申 天文5年     家村の子高遠太郎義親は高遠城主以後九代義久まで百九十年維持したが天文5年木曽義康が義久を攻め没落する。
          家村の子兵部丞家昌は上野の祖、近江の国、安食野二郎
          家村の子黒川三郎家景は常陸助と称す。黒川に住し馬場、古畑の祖(子孫現在黒川に住す)
          家村の子贄川四郎家光は贄川に住し贄川又兵衛、桑原、三尾、奈良井の祖(子孫現存)
          家村の子千村五郎家重は上野の国千村庄に居る千村平右エ門良重の祖(子孫現存)
          家村の弟安芸の守家定は葛山の城主原家の祖
          臨済宗定勝寺(木曽郡大桑村)で木曽義元の三十三回忌が行われる。
木曽義元の三十三回忌にあわせて描かれた木曾氏十六代の義元の画像が定勝寺に残されている。この画には高僧として知られた京都東福寺の茂彦善叢和尚が寄せた賛と呼ばれる漢文の評伝が載せられている。定勝寺には中世の武将図として義元の子である義在のものも伝来している。
             香林和尚の頂相には建仁寺祥雲院以信義海和尚が讃を加え、貴山・玉林・天心和尚の頂相にもそれぞれ著名禅僧の讃が加えられるなど、当時木曽と京都との文化的連携のあったことを物語るものとして貴重である。
1540年 庚子 天文9年     木曾氏19代宗太郎義昌生まれる。父義康。幼名宗太郎。義昌は戦国末期に木曽家の存亡をかけて戦に明け暮れ交通の要衝・木曽谷を守って波瀾万丈、ついには安曇・筑摩両郡を含む十万石の戦国大名となったものの、わずか三ヶ月で夢敗れ、最後は下総網戸一万石に移封され五年後に五十六歳の生涯を閉じた。
    天文9年頃     隣国甲斐では武田信虎が甲斐の領国統一をとげ隣国信濃に侵略の鉾先を向けた。その頃信濃は小勢力が割拠し信虎に抵抗する強力な勢力が存在しなかった。信虎はまず諏訪頼重に娘を嫁がせて同盟関係を結んだ
      5月   武田信虎は信州佐久に侵略の手を伸ばす
1541年 辛丑 天文10年 5月   武田信虎と嫡子晴信(後入道して信玄と号した)は諏訪氏や村上義清と連合して小県の海野氏滋野氏一族を攻めた。
      6月   武田晴信は父信虎を隠居させた。信虎は駿河の娘婿にあたる今川義元のもとに身を寄せた。
1542年 壬寅 天文11年     武田晴信は武田家19代の家督を相続
      6月   武田晴信諏訪氏を桑原城に攻めたのを手始めに高遠城を奪い信濃制覇に侵略の鉾先を休めなかった。
          木曾氏17代義在長子義康を立てて隠居す。
跡目を継いだ義康は中部大輔といった。
義康の母は伊那松尾の小笠原定基の娘である。
義康は遠山主水、千村内匠、贄川監物等をして分家が領有していた高遠城を攻めてこれをとり千村内匠(藪浦千村すなわち福島の千村の祖)を城代とした。
          木曾氏18代義康、松本の小笠原長時、北信の村上義清、諏訪の諏訪頼重と共に甲州境の背沢に出陣し武田春信と戦ったが敗北した。
1545年 乙巳 天文14年 5月   武田信玄侵略の時塩尻峠で木曾義康が戦ったが義高は小笠原長時と号し先鋒を承り大いに武田勢を悩ました。
1546年 丙午 天文15年     信玄の四男四郎勝頼が生まれた。母は諏訪御寮人である。
       8月19日    「信州十二郡入手候者」「高白斎記」(武田信玄)
1548年 戊申 天文17年 5月   武田春信、高遠城を攻める。城代千村内匠善戦するも部下保科正俊、甲州に内通し苦戦となる。この保科氏がのち白虎隊で有名な会津藩主松平家の祖である。
      7月16日夜   千村内匠、木曾義康ひそかに城を脱出木曾に帰った。(高遠記成集)
1549年 己酉 天文18年 4月   武田晴信はその将甘利藤蔵・内藤修理・原美濃・曽根七郎兵衛等をして兵を率いさせ、木曾に来攻した。木曽義康は奈良井にいた武将奈良井治部の急報によって出陣しこれを鳥居峠に迎えうって、一度はこれを撃退した。(第一次鳥居峠合戦)
           鳥居峠
塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原をへだてる峠。現在は国道19号が新鳥居トンネルで峠下を通過しており、鳥居峠を越える旧中山道は信濃路自然歩道となって整備されている。
1551年 辛亥 天文20年     信玄31歳のとき落髪、任大僧正。法性院徳栄軒機山信玄と号した。それ以前は春信と呼ぶ。(寛政重修諸家譜)
1553年 癸丑 天文22年      義仲塚のそばに一宇が建立され『義仲寺』と号し石山寺の末寺とされる以前は、三井寺光浄院の支配だったと『義仲寺のしるべ』は記している。義仲寺本堂は朝日堂と呼び義仲と義仲の長子義高の木像が安置されている。
          12月      「信国十二郡之内」「編年文書」(武田信玄)
1554年 甲寅 天文23年     木曾氏17代義在と18代義康が御嶽山の東麓一合目にある御嶽神社里社本社の社殿を再興。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)
1554年 甲寅 天文23年 12月8日   木曾氏17代義在62歳で亡くなる。『木曾考』では天文6年9月18日45歳没になっている。法名智源院殿英山雄公
義在17歳の時五霊の山に山城を築き(上の段)伊那六郎定基の女を娶る。(松尾小笠原定基)木曾左京大夫、藤原義在と称するとある。
黒澤里宮鰐口に『大檀那木曾義在同嫡子義康」の銘がある。義在の弟千代若は父義元死後古畑家に引き取られ古畑家八代を嗣ぐ(古畑古文書)
1555年 乙卯 天文24年 春3月   武田信玄は栗原佐兵衛、多田淡路に兵数百をさずけて再び来攻、鳥居峠を越えて薮原に陣をしいた。『木曽古今遠隔氏』は『天文24年春信玄木曽に入り数百の兵寄せ来たり薮原に屯し陣屋を作る』と記している
      3月4日     「於信州十二郡之内」「守矢文書」(武田信玄)
       3月18日    再び武田勢は藪原に侵入した。
      4月5日    武田信玄は義昌の居城・福島城を攻略にかかったが、途中で上杉謙信が善光寺方面に出ると聞いて栗原信盛に砦を守らせ福島攻めを中止し川中島へ急いだ。薮原に残った栗原左エ門・多田淡路の両将は鳥居峠に付城を築いて福島からの逆襲に備えた。
           また武将の辺見十郎をして小木曽の大久保にとりでを設けて守らしめた。辺見屋敷の地名が残っている。
      8月
   4ヵ月後信玄は薮原の陣屋を出て突如福島に向かって侵攻し福島境の小澤川(現七笑川)に陣をとった。
これに対し義昌は福島から急遽小澤川に出陣したがこのとき父義康は飛州兵の来攻に備え王滝に在ったため福島の義昌は手勢少なく苦戦となって福島へ退いた。この頃甲州兵の別動隊が荻曽から末川への間道を通って黒沢へ抜け、山中を義康の居た王滝城に向かっていた。(木曽考)この一族は元木曽の出である原隼人という甲州軍の将の案内で小木曽から開田の末川に道をあけて侵入し黒川に出てさらに三尾から三岳の和田や王滝の上島に押し寄せてきた。
原隼人はもと木曽家の家臣であり義元戦死ののち武田家に仕えていた。
木曽郡は甲州軍の本体を福島の手前の小澤川に撃退したが敗れた。小沢川附近では相当な激戦があり木曽の武将であった村井、広野の諸氏が戦死した。
武田勢の本体は進んで福島に入り向い城に砦をつくって木曽家の上の段城に対峙した。
小丸山・上之段の両城は敵に包囲されてしまった。

木曽勢の不利を悟った義康は見方の多く討たれない内に降参を決意し直ちに薮原の信玄の軍門に落ちた。
義昌の妹岩姫を人質として甲府に送った。。白木八郎左エ門が付添いとなって行った。この白木氏は武田家滅亡後木曽に帰り福島の本陣の白木氏のちの柏原の祖である。
(『北條記』では義昌の母とされている。)岩姫は勝頼が新府城を去るとき義昌の反逆を理由に殺害された。
    弘治元年 10月   木曽は本領を安堵し且義昌を聟とし信玄の三女真理姫(眞龍院)を通婚させ木曽氏を武田の一族と認めて尊重する姿勢をとった。このとき義昌は16歳、真理姫は6歳であった。
武田家は源義光の流れであるが木曽家は源氏の主流である八幡太郎義家の流れであるため系統を尊ぶ当時にあって信玄は進んで娘真理姫を義康の子義昌の妻にさせた。
真理姫には阿部加賀守宗貞やもと木曽家の家臣で義元戦死の際甲州に赴いて武田家に仕えていた上村宮内(のち作右エ門)が付添ってきた。
阿部は妻籠に住み妻籠城を修理してここにおり木曽家の監視役をしたらしい。
この上村氏が甲州に赴く前は三岳村の屋敷野におりこれがため屋敷野の地名が残っているという。
       11月   義康・義昌父子共に甲府に赴き初めて晴信に謁している。義康義昌父子は老兵数十騎だけで甲州に至って信玄と盟約を結んだ。信玄は義康父子に対して木曽は義仲以来の高家であり殊に義昌は年少なれど勇なりと賞賛し父子を恭うほどの礼を以って接したという。信濃攻略を進めていた信玄は木曽義仲を祖として木曾谷に君臨していた木曾氏を軍門に下らせた後義昌に三女の真理姫を嫁がせ親族衆として美濃や飛騨への押さえにしようとしたものである。
          木曽は豊富な森林資源を持ち、美濃や飛騨に隣接する重要な地域であった。木曽氏は十八代義康の時に勢力を伸ばし、「甲陽軍鑑」では村上義清・小笠原長時・諏訪頼重と並んで信濃四大将と称されていた。
          島崎監物重綱が妻籠に居住する
1556年頃         河越三喜という人でのち俗に浦島太郎と云われた人が上松の寝覚に来て住みついた。三喜はもと武蔵国川越の人で、範翁または支山人と号した医者であり寛政年間(1460年頃)、12年間、支那に留学して医術を学び帰朝して京都で開業した人である。
三喜は寝覚めの里に閑居し釣り糸を垂れて楽しみあるいは山に薬草を求めて人に与えた。
三喜は三度若返ったことから人々は三喜廻翁と呼びまた寝覚の附近を三帰の里(みかえりのさと)と称するようになった。
三喜翁は百余歳の長寿を保ち三度若返り寝覚に釣り糸を垂れたなどのことから人々は浦島太郎とあだ名した。
所和極集、新撰方、小児諸門、度印可集、啓廸菴日用灸法、治肺気通薬、下学生懇求、辨証配剤等の著書がある。
1556年   弘治2年 7月   伊那方面の兵二百余人が鍋掛山(今の権兵衛峠)から奈良井に攻め入った。奈良井治部左エ門、贄川の千村氏、古畑重右エ門、池島一貫等木曾の武将は二手に分れ、一手は奈良井川をさかのぼり、一手は砂ケ瀬より攻め掛け追い払った。
      8月20日夜   再び鍋掛山より攻め入ってきた。奈良井、古畑、吉田、池島等木曾家の武将は、郷民を数手に分けて夜襲をかけ追い払った。
          急報により義康は多勢を率いて神谷方面より出陣したが、敵はすでに退散したあとであった。
           木曽義康が上の段城の向い城として山城の福島城を造ったと言われている。
現在は本丸、二の丸、三の丸の跡とその間の空掘が残っていて中世城郭跡として県の史跡指定を受けている。
           本丸跡に城山三社神社が祀られている。

福島城跡
1557年     10月27日   第106代正親町(おおぎまち)天皇
1558年 戊午 永禄元年     下伊那の清内という人、下伊那より木曾に新道を開いた。今の清内路がこれである。
1559年 己未 永禄2年 8月   林昌寺を再建中興して復古の志のあった観相浄阿闍梨が没した。
 1560年  庚申  永禄3年  5月19日   今川義元桶狭間で織田信長に討たれる。
苗木城城主遠山勘太郎直廉は桶狭間の合戦で信長に属して戦った。妻は信長の妹であった。 
6月13日   21歳になった義昌は百日の精進成就後黒沢口より御嶽山に家臣10名を引きつれ登山。山頂で武運長久の祈願をこめはじめ宗太郎長政といっていたのをこの登山の後伊予守義昌と改めた。左馬頭と称した。その折十二歳になった真理姫を伴なっていたと伝えられ姫が着用した白地に刺繍入りの美しい浄衣が御嶽神社の里社本社に奉納されたという。登山後義昌は登山成就の木額を若宮に奉納した。(木曾旧記)(吉蘇志略)
          この頃は毎年王滝や黒沢の道者たちは、百日潔斎のあと、6月13日、神主に先導されて集団登山をし、6合目で宿泊、翌朝頂上に登って御来光を拝し、下山するといった恒例の信仰行事が行われていて、義昌はこの信者の集団と行をともにしたもので、従者として記せられているものは、この道者であったとおもわれ、またこの記録は百日潔斎を終えた証文であるといわれている。
      8月   飛騨の三木氏の檜田次郎左エ門が将となって急に木曽を襲って奈川口と西野口から侵入してきた。奈川口は古畑重家と斉藤丹後がこれを防いで敗走させ、西野口は山村良利・良候父子が信飛国境長峰峠に敵を迎撃した。敵将檜田次郎左衛門が良候についてかかり両将の一騎打ちとなり、ついに良候は檜田の首を打ち取り、敵を敗走させ、信玄から感状を貰った。さらに戦功として、美濃国千旦林・茄子川(現在の東濃中津川市附近)において三百貫の地を宛がわれた。
             黒川の古畑孫助重家は奈川口を守りさらに西野口の山村良利・良候の加勢に駆けつけ、力戦して敵を敗退させ、義康から感状を貰っている。古畑氏は戦功によって信玄より伯耆守の称号を与えられ五貫文山と呼ぶ山林を宛行われた。
1561年 辛酉 永禄4年 9月   再び武田信玄川中島で越後の上杉謙信と戦う。このときの信玄と謙信の一騎打ちはよく世に知られている。
大洪水によって定勝寺ふたたび流失する。
1565年 乙丑 永禄8年 11月   苗木城城主遠山勘太郎直廉(妻は信長の妹)の姫は信長の養女として武田勝頼に嫁している。
          奈良井の専念寺(再興)と浄龍寺が建立された。
1568年 戊辰 永禄11年     信長の養女として武田勝頼に嫁した苗木城城主遠山勘太郎直廉の姫は長子信勝を出産後まもなく他界した。
1570年 庚午 元亀元年      義昌は、義基以来 黒沢御嶽神社の祭礼に若宮境内において行われていた流鏑馬の神事が当時は中絶されていたものを再興した。さらに福島の興禅寺、長福寺、西光寺の三カ寺の住僧による大般若転読の行事も復活した。
1572年 壬申 元亀3年     武田信玄は大軍を率いて甲州を出発し伊那から遠江に入った。
      12月   信玄は信長家康の連合軍を三方原に破って大勝する。
1573年 癸酉 元亀4年 正月   信玄野田城を攻める。この戦いで信玄鉄砲疵をおった。
      4月12日   この鉄砲疵がもとで信州伊那の駒場で信玄は53歳の生涯を終えた。その後を勝頼がついだ。
      8月   恵那郡苗木の兵が田立に侵入した。田立のとりでを守っていた原平左エ門は夜に入ってこれを逆襲し、敵兵62人を討ち取った。
その功によって田立の野中の地五貫文(一貫は千坪=約3300平方メートル=石高で二石)の外、坂下の地で五貫文を加増された。
1573年 癸酉 天正元年      
1574年 甲戌 天正2年     義康長子義昌(34歳)に総てを譲って隠居
子の義昌は伊予守といった。のち左馬頭といった。
       4月    信玄の子武田勝頼は父の遺図を成さんとして兵を美濃に入れ義昌もその命によって美濃に向かった。
阿寺攻めは木曽がその主力で三尾五郎左エ門が奮戦し多数の敵を討ち捕ったが己もついに討たれその子三尾将監が勇敢にも父を負って逃れたといわれている。
       12月10日    木曽義昌は武田勝頼より美濃平定後関にて千貫文の地を宛行うことを約束されている。(国会図書館文書)
           定勝寺(大桑村)には天正2年に仏殿を修繕した記録が残っている。その資料によると仕事の合間に「蕎麦切り」が振舞われたとの記載がある。
1575年 乙亥 天正3年   武田勝頼側近諸将の意見を入れることなく豊川市の北、長篠・設楽が原に出陣した。この戦いで武田の騎馬戦は織田・徳川連合軍の鉄砲の前に見事に敗退した。武田の勢力圏の最前線で織田方と境を接していた木曽は、南から信長の脅威にさらされる。
       11月    竹田氏の最前線美濃岩村城が織田氏に奪い返されてから木曽は織田氏の分国と境を接する形となった。
 1576年  丙子        
1577年 丁丑 天正5年     木曾氏二十代仙三郎義利生まれる。母は武田信玄女真理姫
    天正6年     黒沢の大泉庵が建立された。
 1578年  戊寅        
1579年 己卯 天正7年 1月1日   木曾氏17代義在の弟玉林亡くなる(玉林院過去帳)玉林は定勝寺三世後、上松玉林院開山となる。
      正月7日   木曾氏18代義康62歳で亡くなる。法名自覚院殿陽山春公
          木曽義仲の菩提寺の徳音寺は建立後水難にあって諸堂宇を流失、寺運も衰退したが、この年大安和尚が再興し、臨済宗妙心寺派に改め、寺観も旧に復して今日に及んでいる。
1580年 庚辰 天正8年     義昌は織田信長と結ぶ
1581年 辛巳 天正9年 正月    長篠戦に大敗した武田勝頼は信長の北上に備えて真田昌幸を普請奉行に命じ新城の縄張りにあたらせ甲信その他の分国諸将に命じて新府城の築城を急いだ。木曽義昌も勝頼の新府城築城のため過酷な課役に耐えていた。勝頼は築城の用材に檜材の供出を命じ、人足を動員させてその粮米を負担させた。義昌は勝頼の課役に応じ切れなかった。一方伊那谷の入り口であり甲州への関門として戦略拠点の高遠城の守備に弟仁科五郎盛信を城将に任命した。
      3月   高天神城が落ちると武田の勢力圏の一翼を担う木曽義昌は直接木曽谷に接触する南方からの信長の威圧を受けることになった。
        信長は長篠以来勝頼との対立が激しくなると信濃の諸将に巧みに手を回して織田方へ引き込む内部錯乱によって勝頼陣営の崩壊を謀った。信長の勢力下にあった美濃苗木の城主遠山久兵衛は義昌に対し信長の計策を受け入れることを説いた。(岐蘇古今沿革志)
1582年 壬午 天正10年 正月   織田家より木曾は甲州と縁者の間故木曾が谷中の通行を塞がないよう苗木久兵衛(遠山友忠)を以って木曾家に説かした処木曾は遂にその計策を受けた。義昌は弟の上松蔵人を人質として織田方へ送り、木曽の所領安堵を条件に織田の傘下に入る決意を固めた。(上杉古文書、公記)
      正月6日   千村左京が甲州に走り阿部加賀守へひそかに告げ知らせた。勝頼は大いに驚いたけれども甲州諸臣はこれを信ぜず木曾へ使者原貞胤を立てて様子を捜る事になった。
      正月27日    『群書類従甲乱記』にはに木曾義昌が召し使っていた茅村左京進が新府城へ馳せ参じて土屋右衛門尉に内々申すには木曾義昌は去年の秋ごろから逆意を企て去る20日信長の朱印が義昌に届いている。信濃境の雪が消えると甲州に攻め入ること必定であると告げ知らせた。とある。
      正月28日    武田勝頼は義昌が逆意を企てるとは信じられなかったが油断があってはならないので三千騎、諏訪高遠の衆二千騎が木曾近辺に近寄ったが木曾の谷は雪が消えないと人馬共に通れないので在陣することになった。そこへ木曾から使いが来て逆意のないことを告げたという。(甲乱記)
            勝頼は木曾義昌の離反を知った時木曾から甲州に質として来ていた人を処刑した。山梨県韮崎市新ぷの近くに曹洞宗金龍山光明寺がある。この寺に木曾義昌の長子木曾千太郎(13歳)、義昌の娘(17歳)と祖母(70歳)の墓地がある。祖母とあるのは義昌の父義康の母でこの人は伊那の松尾小笠原定基の女といわれ義仲17代木曾義在の室であるが質となった記録がない。これらの人質について『木曾考』は『質として義康の女を甲府へ遣わす』とあり又『木曾古今沿革志』は『義昌の妹岩女を甲府に質とす』とある。
         2月2日    勝頼は諏訪まで出陣してとどまり、武田信豊を将とし、二千余の兵を率いさせ、検使として神保治部をつけて木曾へ向かわせた。甲州勢が、桜沢砦、贄川城、奈良井城とつぎつぎに攻め落し、懐深く進入してくるのを木曽勢は先陣を鳥居峠に、本陣を荻曽口に、後陣を薮原に構えて迎え討った。義昌は勝頼が鳥居峠まで迫ったときも逆意のない旨勝頼に申し送ったが勝頼は請合わないため義昌は此の上は力及ばずと信長に助けを求めた。(甲乱記)勝頼の先遣隊が鳥居峠に奈良井から登って来たとき2月の積雪のため武田の大軍は持っている総力を発揮することができなかった。
神保治部は逃げようとしたところを義昌の武将遠山主水に討ち取られ、主将信豊は命からがら逃げ去るといった大敗ぶりであった。地の利を生かして小兵力の戦力を十分有効に使った木曾勢は有利だったことが知られ義昌は幸運だったといえる。
      2月3日   信長の長男信忠は三万余騎で下伊那口へ、苗木の城主遠山豊前守友忠、根来衆など三三万騎は木曾口から勝頼攻めの兵を進めた為勝頼は木曾義昌に鳥居峠で敗退した。勝頼は鳥居峠から軍を撤去し諏訪の上原城へ入った。
      2月16日   勝頼は今福昌和筑前を将として兵八千をもって再び木曾に向かわせた。
「信長公記」には「二月十六日、御敵今福筑前守、武者大将として薮原より鳥居峠へ足軽を出し候。木曽の御人数も苗木久兵衛父子相加、なら井坂より懸上り、鳥居峠にて取合ひ、一戦を遂げ、討取る頸の注文、跡部治部丞・有賀備後守・笠井・笠原・己上、頸数四十余あり、究意の者討捕り候キ。」とあって、遠山友政父子の加勢をうけ、これまた甲州勢を散々に打ち破った。鳥居峠での合戦は、二度にわたって行われ、二度とも武田方の敗北に終わった。
      2月16日   勝頼深志城の馬場美濃の守子息を鳥居峠へ差し向けて木曾義昌と対陣する。
          鳥居峠は標高1300メートル、東に御嶽、南に駒ケ岳の雄峰を眺め、木曽川の流れを眼下におさめる。御嶽遥拝所から薮原側へやや下った小丘が丸山公園といわれ、地元の人たちが明治時代に建てた古戦場碑がある。その近くに多くの句碑が林立している。
    木曾の栃うき世の人の土産かな   芭蕉
この芭蕉の句を刻んだ碑は、木曽の代官山村風兆の筆である。台石に名を残す設立賛助者は薮原、奈良井の宿場が栄えたころの人だという。
      2月   勝頼が鳥居峠に大軍を進めたとき真理姫が三岳村黒沢に陰栖した。
      2月19日   勝頼夫人北條氏は武田家武運の長久を願って願文を武田八幡宮に奉納した。
      2月26日   大島城自落
          勝頼鳥居峠まで引き下がり木曾口から出てくる敵を防ぐ陣構えをとった。
          鳥居峠の大戦果が織田勢の甲州進撃に与えた影響は大きかった。織田信長は諸将に命じて、各所から甲府へ兵を進ませた。徳川家康は駿河口から、北条氏直は関東口、織田信忠は木曽口からとそれぞれ破竹の勢いで進撃した。
      2月27日   甲州からの飛脚が穴山梅雪が25日の夜突然寝返って徳川家康に走ったことを告げてきた。(甲乱記)穴山梅雪は信玄の娘(見性院)を妻に娶り勝頼とは兄弟の仲であった。
      2月28日   勝頼は諏訪の上原城を捨てて新府城に敗走した。この頃義昌は松本深志城を攻めている。
      3月2日   木曾義昌は織田長益等と連合して松本の深志城に籠る馬場美濃守信春を攻めて陥した。
      3月3日   勝頼新府城を捨てる(信長公記)
馬場美濃守の開け退いた深志城に入れ置かれる。(岩岡家記)
      3月11日    武田勝頼の長男太郎信勝は信長に攻められて甲州天目山で勝頼と運命を共にした。勝頼の後の夫人北條氏(北條氏政の妹)は勝頼と自害した時19歳だった。
      3月20日   木曾義昌は織田の本陣となっていた諏訪の法華寺においてはじめて織田信長に謁した。義昌は名馬二頭を進上した。信長は武田氏攻略の先導をした功を賞して梨地蒔の腰の物と黄金百枚、それに木曾のほか新知分として安曇、筑摩の二郡が与えられた。義昌在世中愛用した名器の一つ『鈴虫』という轡も織田信長が義昌の武功を賞して贈ったものである。信長は義昌を縁先まで送って出たと『信長公記』にある。この時点で木曾義昌は総高十余万石の深志城主となった。遠山主水、丸山久右エ門、馬場半左エ門、原平左エ門をしてこれを守らしめた。
            木曾氏19代義昌の弟上松蔵人義豊は織田方の質となり犬山城に入る。
          深志の旧城主小笠原貞慶は武田一門の滅亡に当たり信長に頼ったが、信長はこれを拒否したため三河家康のに走った。
      3月27日   木曽義昌は木曽二郡(小林計一郎「木曽郡のこと」によると大吉祖庄・小吉祖庄らしい)を安堵されたばかりでなく安曇・筑摩(つかま)二郡をも宛行われた。(公記、古今消息集)
義昌は遠山主水、丸山九右衛門、馬場半左衛門、原平右衛門の4名を深志に入れて治めしめた。しかし安曇、筑摩二郡の領民は小笠原貞慶の旧恩を想って木曾義昌に従う旧臣が少なく統治に苦しんだ。
      3月28日   織田信長は諏訪で行賞を終えると諏訪を立って駿河、遠江を廻り帰る。
         3月29日      織田信長「同(信濃の国)キソ谷二郡 木曽本知 同アツミ ツカマ二郡 木曽新知に被下」(「信長行記」)
      4月21日   織田信長居城の安土に帰陣した。
       5月14日    木曽義昌はその後信長へ音問し5月14日付で信長の返書を受け仕置きについて油断のないよう命じられている。(信濃資料)
      6月2日   織田信長京都本能寺において明智光秀の謀反によって49歳の生涯を終える。
          小笠原長時の弟貞種(小笠原貞慶の叔父)は上杉景勝の支援のもとに深志に來攻した。木曾義昌は木曾に退かざるを得なくなった。これを三河の家康のもとで見ていた小笠原貞慶(さだよし)は塩尻に出向いて旧臣を集めて深志の奪回を謀った。7月徳川家康に助けられた小笠原長時の三子貞慶は城主におさまり深志城を松本城と改称した。
      6月23日   佐久、小県は信長が諏訪における行賞の際滝川左近に与えた知行である。滝川左近は信長の死を信州コモロで知り小諸を立って尾州長島への道中木曾義昌領の木曽路を通るため佐久小県の人質を義昌に預けている。
      7月   義昌は信玄の没後、真理姫と共に木曽家代代の菩提所である長福寺(木曽町福島)に信玄追悼のための五輪塔を建立して廟所として毎年七月十二日(旧暦)に二百把の松明を献じて供養していたという。
       7月14日    徳川家康(信州十二郡) 徳川家康條目案
      8月      義昌の妻真理姫は御嶽山中の野口上村木曽町三岳に旧臣上村作左衛門を頼って引きこもった。この隠棲については[今度存念の儀これ有り奥をその方へ預け置く。これにより銭百貫文分つかわすものなり」と義昌が作左衛門に当てた書状が残っている。
      8月9日   義昌のもとに家康から書状が届く。家康は義昌に佐久、小県の人質返還を求めその上で誓詞を取り交わし信長から与えられた知行は安堵するといい『貴所へ逆意の者ども是非拙者出馬申し、御本意をとぐべき旨』と書き送ってきた。
       8月26日    木曽義昌は信孝より書状を受け東方作戦について語られている。(「木曽考」所蔵文書)
      8月末日   義昌は遠山主水元忠を使者として酒井左衛門尉忠次に家康と提携すべきことを申し送った。
          これを見た家康は『ことのほか喜悦斜めならず。即日使者に返書を送る』と『古今沿革志』にある。家康より本領安堵を受ける。
       9月10日    伊奈郡箕輪の地を加増された。(古今消息集)
1582年 天正10年     「吉蘇志略」にこの年に木曾義昌が妻籠城の城構えを改めたとある。
           木曽義元の二子玉林が上松町本町に聖岩山玉林院を建立。臨済宗妙心寺派に属する寺で須原定勝寺の末寺にあたる。
1582年頃   天正10年ころ      信長は木曾山よりひのき材を伐り出し、永く建て替えを行わなかった伊勢の大神宮を改築して御遷宮を行ったとある。
          天武天皇の詔勅により紀元685年より20年目ごとに建替えられることになっていた伊勢の神宮材は、伊勢の神路山や紀州の大杉山等から伐出していたが、大材がつきたのでいつのころからか、裏木曾や南木曽から出すようになったらしい。三殿向かいに伊勢小屋という地名があり、また旧神坂村の湯舟沢には御神木を清めたという湯舟と称する淵があるという。
1583年 癸未 天正11年 4月   賤カ嶽の戦い
      9月    大阪城が秀吉により築かれる。
       9月    小笠原貞慶に一時ではあったが本拠木曽福島を奪われた。
       10月5日    10月5日付の貞慶宛で家康は木曽攻めの功を褒している。
1584年 甲申 天正12年 初め頃      ところが秀吉が信長政権に変わる後継者として着々と頭角を現してきたため、義昌は秀吉と家康の二大勢力の対立関係の中で迷い動揺した後ついに天地神明に誓った家康との盟約を破棄し、次男を人質として大阪へ送って秀吉と手を結んだ。
          秀吉と家康が雌雄を決しようとした小牧長久手の戦を前に、木曾谷を領している義昌は、秀吉・家康双方にとって重要な存在だった。
          当時信濃は北信と筑摩北部を除いて大部分が家康の配下に属していた。そこで秀吉は義昌を味方に引き入れ、徳川勢が南下するのを木曽谷で阻止させ、更には勢力拡大を図ろうとした。
          豊臣秀吉は家康の攻め上がることを恐れ義昌に命じて木曽路をふさぎ、伊那口、美濃口の押さえとして妻籠に城を築き、山村良勝に義昌の勢三百騎をつかわした。
            
        家康は飯田の菅沼定利に命じ諏訪の諏訪頼忠・高遠の保科正直等信州の徳川勢七千余騎を率いて飯田から旧東山道を抜けて攻めさせた。木曽へ進入すると、馬籠の丸山城を襲って簡単にかたづけたから、守将の島崎重道らは妻籠城へ駆けこんだ。
妻籠城の守将は木曽義昌にこの男ならと見込まれた山村良勝である。寄手が閧を上げると城中でも声を合わせ、鉄砲を少々打ち出したので、寄手はこれを見て敵は小勢と思い攻め登る
処へ城中から大石大木を投げ出し、鉄砲を繁く撃ちかけたので攻めることができず退いて城を囲み数日を送る。
このような状態の時に渡島の農民が敵方に味方して、味方の通路をふさいだので城中は次第に兵糧玉薬が尽きて、難儀をしている。
そんな時にまた、山口村の郷民牧野弥右衛門が敵方に内通し田立・渡島の者どもに命じて水をふさがせ敵を城中に引き入れようとする。
援軍を命じられていた美濃の兼山城主森忠政はこれを聞いて驚き出陣しようとしたが良勝は城中は堅固であるからといってこの援軍をことわった。
良勝は長陣につかれて城より討って出ようとするが中関大隈がこれをとめて堅く守り郷民が逆心して水の手をふさいでも山間にたまる水でしのぐことができるし糧道をとめたら軽率を出して追い払えばよいと説いたので思いとどまった。
しかし玉薬が尽きてどうしようもなくなった。
その時に竹中小一左衛門が夜半に城を忍び出て、搦め手(敵の後方)の木曾川へ下る。小一左衛門は裸になって牛が渕と呼ばれる流れの強いところを泳ぎ向こう岸へ渡り、川伝いに味方の陣地の三留野へ行き城中の様子を話す。
そこで川達者の者30人ばかりに玉薬を鬢に結び付けさせ川を渡り城中へ帰り着いた。
良勝は喜んで夜明けより二,三百発の鉄砲を撃ち敵二,三十騎を一度に倒す。
敵は援軍が来たのかとあわてる。
この時三留野家範の孫である与川村古典庵の住僧小河野は同所の郷民に紙旗数十本を持たせ野頭の原久左衛門とともに柴山の峰に登り、所々にその旗を立てのろしを上げさらに夜に入るや山中に篝火を焼く。
その光が夜空に輝くのを見て、敵は福島からまた秀吉方から援軍が来たのだと思い、前後に囲まれてはと清内路峠への道を蘭川沿いに退いて行った。
良勝は城兵を先回りさせて蘭の山路へ伏せ置き
城中よりは島崎監物をはじめ島崎の一族、丸山・林・勝野・鮎沢・森等の諸士が打って出て敵を敗北させる。連合軍は三百余の死体を残して散々のていたらくで敗走した。
この時に菅沼定利の侍大将朝日重政はその乗馬を広瀬与一左衛門の鉄砲に撃たれ歩いて退いた。
秀吉は山村良勝の働きに感激し、その翌年、義昌に感状を与え、山村良候の子、山村良勝にも書を与えた。
蘭の合戦で活躍した島崎監物の一族がのち関ヶ原の合戦をへて馬籠に住みつき文豪藤村を生んだ島崎家である。
          義昌は一時舘を捨てて山中に逃れ、姫も王滝に逃れなければならない難に見舞われた。
          武田家滅亡の前後に世話になった上村作左衛門に小笠原氏内通の疑いが持ち上がり、義昌がこれをただすため使者を遣わし、作左衛門が使者に討たれてしまうという成敗事件がおきた。
      9月   木曽勢は秀吉の命で木曽谷の最南端の要害に築かれた妻籠城を堅く守って木曽路とともに伊那路をふさいだ。家康は飯田の菅沼小大膳、諏訪頼忠、高遠の保科正直の連合軍七千騎を以って清内路を越えて妻籠城に襲いかかった。妻籠城の戦いの際、木曾義昌は籠城を余儀なくされ食料弾薬ともに少なくなった。そのときに義昌は兜観音に『木曾興亡の時、南無八幡武運を我に与え賜え、勝利の暁は銭三百貫文を寄進せん』との願文を奉って祈願したところ、観音堂の屋根から白鳩が舞い立ち、妻籠城の天守にとまった。このようなことがかつて義仲の昔、倶利伽羅峠の合戦の時もあって大勝利を得たという古事を聞いた義昌方の将士の士気が大いに上がり敵を打ち破ることができた。戦後義昌は銭300貫を兜観音に寄進したという。
          義利の弟長次郎義春は大阪に質となり後夏の陣に討ち死に。仙十郎義通は生没不明。与惣次ともいう。木曾家改易後母と共に木曾黒澤に隠棲して終わる。母真理姫の墓所黒澤、上村作左衛門(義昌家臣)家屋敷内にあり。
          南木曽町の奥谷は天正12年木曾氏と徳川軍が戦った妻籠城の合戦に戦功があったという林六郎左衛門を中興の祖とし、近世を通じて代々脇本陣、問屋を勤めていた。
島崎藤村の詩「初恋」のモデル「おふゆ」が馬籠の大黒屋から嫁いできた家でもある。この奥谷の敷地の中に妻籠郷土館がある。
1585年 乙酉 天正13年 3月26日   秀吉から義昌に感状が出される。
山村良勝は妻籠城篭城戦の功により秀吉から書を賜った。
      6月   贄川又兵エ、同監物、千村丹波等北木曾の諸将は松本の小笠原貞慶の軍を木曾に誘い入れた。
木曾勢は不意を討たれ、山村良候が将となって宮の越まで出て迎撃したが撃退された。小笠原軍にあった贄川又兵エは福島の意慶坂で木曽軍の鉄砲に打たれて戦死した。小笠原勢は福島になだれ入り、上の段城および義昌の館を焼き払い、義昌は菅路(行人橋北側上の墓地附近)に逃れた。小笠原勢はさらに上松に入り火を放ったが、南部の有力な木曽勢がきて敗走せしめた。
           小笠原貞慶の命令で太閤秀吉に宝物を届ける役を受けた倉科七郎左衛門が盗賊に斬殺された。
そののち倉科七郎左衛門の妻がこの地を訪れ賊へのうらみをこめて粟粒をまいた。すると地崩れがこの地を埋めつくしてしまった。
祟りを恐れた村人が同じ地に祖霊社を建てて鎮魂を祈ったという。
       
1586年 丙戌 天正14年     秀吉の天下統一ほぼ成就
      1月   秀吉と家康との間に和議が成立
4月2日   伝説によると、松本城主小笠原貞慶は、関白になった豊臣秀吉に、お祝いのため、金銀で造った財宝類を献上することになり、その使者として骨董品にくわしい安曇の豪族倉科七郎左衛門元時という人を遣わすことにした。倉科は財宝類を持参し松本をたって三留野に泊った。
          このことを知った野尻以南の宿駅人連中は謀議の上、用意の鶏の止まり木の竹に湯を注いで鶏の足を温めて早鳴きをさせ、一番鶏にたつという倉科をとらの刻、すなわち午前二時ころ出発させた。一同これを妻籠の男埵で待ち伏せて撃ち殺し財宝を奪った。このとき金銀の鶏が男埵の滝に舞い込んだとのことである。
          このことを知った倉科氏の妻はこの地を訪れ、恨みは粟の数ほど祟れと粟の種を播き散らして去った。
          のち山崩れのためこの部落は押し流された。村人は倉科様の祟りであると、倉科祖霊神社を祀り今でも毎年四月三日の命日には祭礼を行い霊を慰めている。近くに大崩壊地がある。
      11月   秀吉は関東一円の支配を家康に任せることにした。木曾義昌の独立支配権が薄弱となり身分的に家康に従属の余儀なきに至った。
1586年     11月7日   第107代後陽成天皇
 1587年  丁亥  天正15年      
 1588年  戊子  天正16年      
1589年 己丑 天正17年 3月25日   南木曽町神戸の兜観音堂を山村良候が大檀那となって改修した。庭に残っている石は改修前の礎石かと思われるが義仲の腰掛石といわれ大切にされている。
      11月24日   秀吉は北條左京太夫氏政に五か条からなる『條々』を突きつける。
1590年 庚寅 天正18年     秀吉が小田原の北條氏を攻めた時、秀吉は木曽氏を家康の旗下に入って参戦するよう下知した。義昌は病と称して義昌の長子仙三郎(後の木曾家二十代義利)がこのとき14歳で従軍している。
          秀吉が北条氏を亡ぼして天下を統一すると秀吉は家康に関東八州を与え義昌も家康配下の信濃の諸大名とともに関東へ行き、家康の指図に従うよう命じられた。
          義昌は行き先不明のままあわただしく木曽を発ち途中の諏訪で移封先が下総国(千葉県)海上郡旭町阿知戸(蘆戸網戸)とわかったという。(現在の千葉県旭市)一万石に封ぜられた義昌は網戸村近くに居城した。その際、義昌の連れた従者が山村良勝、千村平右衛門、川崎与左衛門、島崎与右衛門、馬場半左衛門等13人に過ぎなかった。(木曽殿伝記・木曽考)
          千葉県旭市は千葉県の北東部、九十九里浜の北部に面している。旭市(当初は旭町)の名称は旭将軍木曽義仲の末裔とされ、この地で没した木曽義昌を偲んで、京都の歌人・野々口隆正が詠んだ
    信濃より いずる旭をしたひ来て
             東のくにに 跡とどめけむ

からつけられたとされている。
          木曽義仲が近江の粟津で討死した時も従う者十三人といわれたことを思い合わせ、木曽の人々はひとしお悲しみに打たれたという。
           木曽氏二十代の義利は父義昌とともに木曽から移封となって下総の国海上郡網戸(現千葉県旭市)一万石の城主となった。義昌の舎弟上松蔵人は名を義豊と言い共に網戸に移った。
          秀吉は木曾義昌を関東に追放してその後へ配下の大名を据えることなく、木曾全域を自ら蔵入地として押さえこんだ。秀吉は配下の石河備前守光吉犬山城主を木曽代官として、木曾山林と木曽川と飛騨川の運材ルートの支配を委ね、木曾山から聚楽第・伏見城などの造営用材を採運させた。
      3月19日   秀吉は小田原へ向け発向の前日参内して節刀を賜わり出陣の祝いに百韵連歌ある。
      3月27日   秀吉の先陣は沼津三枚橋三嶋に着陣した。
      4月22日   八王子の城へ押し寄せる。
           豊臣秀吉 「同(志なの) 木そこ布り 御くら入(「当代記」)
       「信濃国 木曽郡 御蔵入」 (「天正事禄」)
1592年 天正20年     「御岳縁起」に信濃守石川朝臣望足が御嶽に大巳貴命、小彦名命の二神を祭って疫病よけはらいを祈ったとある。
1592年 壬辰 文禄元年      
1593年 癸巳 文禄2年     木曾から禅僧悦道和尚や婦女子も移ってきたことが記されている。悦道和尚は義昌の菩提寺東漸寺を城の東端三の丸の地に建立している。寺の名前は義昌公の戒名「東漸寺殿玉山徹公大居士」からきている。最初は禅宗のお寺であったが義昌公がなくなって悦堂和尚が引き揚げるときこの近辺に禅宗のお寺が一か寺もなかったので長禅寺という真言宗のお寺に一切を委ねた。そのため禅宗の悦道と真言宗の長盛の二人の開山上人がいるという。
1594年 甲午 文禄3年 12月   林昌寺の観相浄阿闍梨の弟子であった法相浄阿闍梨は師恩に報いるため師の志を遂げんとしたができずに没す。これによって法系を嗣ぐものなく無住となった。
1595年 乙未 文禄4年 3月13日    網戸城一万石の城主木曽義昌は56歳の生涯を終える。法名、東漸寺殿玉山徹公大居士。『網戸誌』によると義昌の遺骸は遺言によって網戸城の西北椿湖の水中に葬られたという。東禅寺の住職によると「義昌公の奥方の真理姫は武田信玄の娘であるが信玄は諏訪湖に水葬されたといわれている。信玄に関しては確かなことではないようだが義昌公の水葬は史実だ」という。元禄年間この椿湖が干潟になってからここに墓碑が建てられた。『木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれた墓碑は水田の中にある。菩提寺は悦道和尚開基の真言宗東漸寺であり義昌愛用の兜、弓、画像などのほか義昌を偲ぶ古文書などが残されている。義昌死後義利網戸城主となる。(木曽考・木曽殿伝記・士林泝洄)
          義昌はわずか五年を過ごしただけの網戸で偉大な足跡を残していた。義昌は弁天沼や浅間沼といった湿地帯を干拓して水田にし米の増収を図って年貢を軽減農民生活の安定を目指した。銚子街道が湿地のために通行が不便だったのを改修した。城下町の整備はもちろん領内の繁栄を図るために宿場町として整備したり市場を開いてにぎわいをつくりだした。義昌夫人の真理姫も婦人病に霊験があるとされる淡島神社や十一面観音を勧請して人心の安定を図った。など名城主として語り継がれ「木曾殿」とか「義昌公」と言って慕い続けられているという。今網戸は義昌の祖・旭将軍義仲からとって旭市になりお墓のある所も公園に整備され義昌を讃えて造った銅像は木曾を向いて建っているという。
          義昌に招かれて網戸へ行った悦道和尚が開基となり義昌が建立した東漸寺では義昌の命日の三月十七日に毎年供養を行っているという。
              木曾義昌は出生以来隣国甲斐の武田信虎が信濃の侵略を始めたころから信玄・勝頼と三代に渡る戦国動乱の世を生きぬき、武田家滅亡後は織田信長に従いまもなく信長が本能寺で明智光秀の謀反によって討たれると徳川家康と盟約しまもなく豊臣秀吉に従うなど義昌の歩んだ奇跡は木曾領民の安堵のために心身を攻め抜いた生涯だった。木曾家臣や領民が侵略者と対決の場面はあっても戦いによる木曾氏の滅亡を回避し領民が侵略者の屈辱に耐えなかった記録はないことは木曾義昌の業績といえる。
1596年 丙申 文禄5年     木曾川の洪水で定勝寺流失
慶長元年      父没後網戸城主一万石の家督を継いだ義利は叔父の義豊を殺した。ことから徳川家康は改易(所領や屋敷を没収すること)を命じた。名器『鈴虫』の轡世義昌の弟義豊が使用していた。義利は父義昌がかつて信長より賜った鈴虫のくつわを叔父義豊が掠め取ったとして義豊を害したのである。木曾義利の行状を耳にした家康は早速改易の処分をした。義仲から四百二十年余り続いた木曽氏は二十代義利の代に没落した。改易の年月は不明だが慶長の初年といわれている。
木曾義利は追放されその封地は家康の直轄地となった。山村氏は浪人となっていた。
          義利は出家して諸国を行脚し、木曾にも立ち寄り四国の讃岐で死亡したともいわれ、また京都に行って出家し、宗屋と号し伊予の松山で死んだとも伝えられている。
          義利の弟義春はのちに山村良勝のきも入りで大坂の豊臣秀頼に仕え、大坂夏の陣で戦死した。
1597年   慶長2年     定勝寺の末寺として大桑村長野に天長院が建てられた。
1598年 戊戌 慶長3年       豊臣秀吉の木曽代官として木曾を管理していた犬山城主石河備前守兵蔵光吉によって木曾義在の舘跡に定勝寺が再建された。これが現在の建物であるといわれている。(吉蘇志略)
         
定勝寺は木曽氏十一代木曽親豊の開基と伝えられるが須原を襲った洪水で二度も流失した。
江戸前期に作られた『木曾惣図』によると定勝寺は義元館跡とある。定勝寺には中世の古文書や絵画類を多数所蔵し、県宝に指定されている木曽義元の肖像画をはじめ歴代住職の頂相(ちんぞう)(禅宗の高僧の肖像)など貴重なものがある。
諸堂宇のうち慶長3年建立の本堂、承応3年造営の庫裏、万治4年建てられた山門は、いずれも国の重要文化財に指定された。
          原野八幡宮建立される
1599年 慶長4年 9月6日   山村良利(たかとし)は一時武田勝頼のところに木曾家の人質となっていたが逃げ帰り、出家して福島に居り、この年86歳で死去し、長福寺に葬られた。
1600年 庚子 慶長5年 3月   石川光吉は豊臣秀頼の命により伊那川橋及び波計桟道(今の桟)の改修工事を行った。
    石田三成の挙兵により関が原戦が起こる。家康は秀忠に中山道を進ませた折、秀忠は妻籠城に止宿している。
          徳川家康は会津の上杉景勝を討つため下野の国の小山にいて軍議の結果自らは本隊を率いて東海道を上った。
          のちの二代将軍秀忠に兵三万余を託して中山道を上らせ大坂方の軍勢を美濃の関が原で挟撃することにしたが大坂方の武将石川備前守光吉の守る天下の難所木曽を通過することを憂慮した。
          そこで家康は、浪々中の木曾氏の遺臣、山村甚兵衛良勝(たかかつ)と千村平右衛門良重の両氏を小山の陣営に召しだし、大坂方の武将真田昌幸、石川光吉らが守衛する信濃の国を奪い東山道を西に向かう秀忠の軍勢を先導するように命じた。
家康は本多正信らの献策を入れ木曽にゆかりの深い木曽義昌の旧臣で浪浪中の旧士族たちを利用し塩尻から木曽谷にかけて蟠踞する三成の腹臣石川光吉の勢力を掃蕩せしめようとしたのである。
          山村甚兵衛良勝(たかかつ)と千村平右衛門良重の両氏は旧地回復の好機とこれを引き受け、各地に離散した山村・千村・馬場・三尾らの一族、木曽衆をあつめ、木曽にむかい、塩尻まできたとき、「木曽を攻略した」と秀忠のもとへ飛脚を出した。
      8月12日   木曽へ攻め込み、木曽在住の旧臣と呼応してたちまちのうちに石川光吉の軍を木曽から追い払い、さらにすすんで、苗木の旧主遠山友政とともに、美濃の国苗木・岩村の二城をぬき、東濃の西軍を一掃する大功をたてた。
           関が原へ急がねばならぬ徳川秀忠が、途中で真田昌幸と一戦を交えたばかりに、合戦は終わったという知らせを聞いたところも妻籠城である。
      9月16日   秀忠の軍は東信の上田において真田昌幸、幸村父子の反抗になやまされたが、遅れて無事木曾に入り、この日、福島の旧木曾家の館今の福島小学校の地に止宿した。このとき山村良勝を召して功を賞し、金のしの太刀一ふりを賜った。
      9月18日    秀忠は関が原の勝敗の知らせを聞き急いで清内路から関が原に向かったが決戦に間に合わず父家康から大目玉をもらった話は有名である。
           木曾義昌の室『真理姫」は武田信玄の娘であるが木曽氏改易とともに末子『義通』を伴って木曾に帰り義昌の旧臣上村作左衛門家を頼って三岳村の黒沢に隠れ住んだ。(網戸誌)現在上村家屋敷の一隅に木曾義昌夫人の墓と伝えられる古い一基の五輪の塔が残されている。木曽町福島大通寺に真理姫の供養塔がある。
          王滝村の松原家には、義通名の手紙が残っているが、女文字で義昌夫人の代筆らしい。義昌の旧家臣松原氏にひたすら旧領の回復を懇願した哀れな手紙であるという。
          石川光吉は関が原合戦において破れ、ただちに僧となって玉林と号した。京都の龍安寺に葬られている。
      10月   山村氏は浪人となっていたが、家康は関が原の軍功(家康の命により秀忠の先鋒として豊臣領となっていた木曽を取り戻した功績)を高く評価し家康は旧領に替えて、木曽衆に美濃国のうちで一万六千二百石を与えべつに良勝の父木曾義昌旧臣の山村良勝(たかかつ)の父山村良候(たかとき)(号道祐)を幕府の直轄地に組み入れた木曽の代官に任命して石川光吉の山河支配を継承させた。
           山村・千村・馬場らは関ヶ原の合戦で功績を挙げ美濃の国に領地を頂く。
  木曾氏の代々につくした城将の山村良勝は、木曽義昌の失脚後、天下を二分した関が原の戦を前に徳川軍が勝った勝ったと宣伝して、家康にすっかり注目された。そして福島の関所を守る代官の地位についたともいわれている。
          山村氏は福島に居館したが、他の木曽衆は美濃国可児郡の久々利に屋敷を賜って住んだので久々利九人衆とよんだ
           山村氏は木曽代官として福島に居館を構え香川県一県の広さに相当するといわれる広大な木曽の民政と山林の管理を任され江戸時代を通じて世襲することになった。
1601年 辛丑 慶長6年     妻籠が中仙道の宿場として家康から指定される。
           義昌公の菩提寺東漸寺を真言宗の長盛に託す。[義昌公と旭将軍のみ影、四天王の像は年々正月、命日の三月十七日、七月のお盆の行事にまつること怠ることなし」と託した。
今でも正月と命日とお盆の年3回、義仲と義昌、そして義仲の家来で木曽の四天王といわれた今井兼平・根井行親・樋口兼光・楯親忠が描かれた寺宝の掛け軸をかけ、義昌と真理姫の位牌をまつって近在の人々に参拝してもらい親しまれているという。
            山村良勝(たかかつ)は下総の佐倉より柱山和尚を招いて福島に大通寺を建て開山とした。今は長福寺の末寺となっている。
           家康は良候(たかとき)を召して良勝等の功を賞し、山村千村氏等一族に下総国網戸一万石と木曾を賜ったが、良候は「木曽は良材に富み私有すべきでないよろしく天下の公領とすべきである」と受けなかった。家康はこれを容れ、あらためて美濃国(岐阜県の一部)で一万六千二百石を与えた。良候(たかとき)はこれを家臣に分け与え自分はその内の五千七百石を良候と良勝の父子で受けることにした。徳川家康はこれを聞いてさらに良候に木曾で毎年白木(皮をむいた材木)六千駄を賜ったが、木曽は耕地が少なく木材で生きねばならぬからこれを木曾の住民に与えて貰いたいと辞したので、家康はこれを容れ、別に良候に五千駄(だいたい馬一頭に背負わせるぐらいの重さが一駄)を与えた。山村氏にはその後も、五千七百石と白木五千駄が与えられた。
    慶長6,7年ころ      木曾街道に中山道六十九次の内、十一宿の宿場ができ、馬籠、妻籠、三留野、野尻、須原、上松、福島、宮の越、薮原、奈良井、贄川が宿駅となった。中仙道は、近江の草津追分より江戸まで百三十二里廿二丁(約五二〇粁)といわれ、東海道より十里(約三九粁)長いが、大井川の川止めがないため旅程は短かった。はじめは、各宿に人足五十人と伝馬五十匹を常置させた。
          木曾を通過する参勤交代の大名は卅四家であり、加賀の前田候のごとく東海道通行の大名で木曾を迂回したものもあった。勅使の下降、徳川家より皇室への上使、日光例幣使、老中、奉行の巡見等高貴の方の通行は頻繁であった。このような高貴な方々の福島本陣泊まりは一ヵ年平均五十件余に及んだという。またお茶壺道中といって、宇治より天下の名器に茶を入れ献上するという行列もあった。
          大名行列は、行軍の形式をとったものであり、各宿場には「枡形」と云って道を直角に曲げた所が一,二ヵ所作られた。敵の防禦に備えたものである。
1602年   慶長7年     福島に関所が設けられた。東海道の箱根、新井、中仙道の碓氷の関所とともに最も重要な四大関所のひとつであった。
           中仙道を整備し六十九次を定める。
  11月20日   山村良候(たかとき)が福島で卒去し、長福寺に葬られている。
          二代良勝がその後をつぎ、さらに幕府直轄の福島関所の守関を兼ねることになった。明治2年13代良醇(たかあつ)の代まで274年にわたって山村氏は木曽を支配した。
石高7500石他に知行同意に白木5000駄(石に直すと1800石の材木)を給付され福島関所の関守として幕府から旗本の一種交替寄合の待遇を許されまた尾張藩では大寄合という重臣の列に並び江戸と名古屋にも屋敷を賜っていた。
           山村氏の居館した福島は木曽川の清流に沿って長く開けた美しい谷あいの町で居館を中心とした屋敷町の向城と
中山道の宿場であった上町、下町
それにつづく漆器屋、木地屋、曲物屋などの櫛比する上之段町、八沢町の町屋からなり
人口四千を擁し
当時は松本、上田、飯田などに次ぐ信濃の国でもまた中山道筋でも指折りの名邑として知られていた所であった。
          洪水のため御嶽神社の古記録を失い創建年代・社歴とも明らかでない。
                 江戸幕府:一、高千六百八拾九石五斗九升五合  木曽谷中 木曽御勘定并方方ヨリ請取渡帳
1603年 癸卯 慶長8年 3月2日   木曾氏19代義昌の妹某女亡くなり長福時に葬られる。法名月光院殿桂菴妙昌大姉
          徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた。
徳川家康は全国にある山林や金銀の鉱山を統括して幕藩体制の強化を図った。
1604年 甲辰 慶長9年     幕府は江戸日本橋を起点に36町を1里と定め、一里(三,九粁)ごとに五間四方、高さ1丈の塚を築き、塚上にえのきを植えさせた。一里塚という。一里塚は旅人の旅程標であり、また無料休憩所でもあった。
1608年   慶長13年     長福寺は小丸山麓にあった富田山龍源寺を合併し龍源山長福寺とした。
           良勝は隠居し、長子良安(たかやす)が跡目を相続した。良安(たかやす)は大坂冬の陣には天王寺口の守りに当っている。
          奈良井放念寺が建立された。
1610年 庚戌 慶長15年     妻籠では山村良安によって月に3日、8日、13日、18日、23日、28日の六斉市を立てることを許可された。
          幕府は木曾のかけはしと大桑村の伊那川橋の改修工事を行った。
1611年     3月27日   第108代後水尾(ごみずのお)天皇
1612年         徳川幕府は、キリスト教義が当時の保守的な封建制を破壊することや外国の侵略主義をおそれ、幕府の直轄領内におけるキリスト教を禁止した。木曽は最初の信教禁止地となったようである。
1614年   慶長19年     大坂冬の陣。山村良勝は尾州徳川義直公側近四人衆の一人として出陣した。二男良豊を二条城において家康に質として差し出した。
          大坂落城後良勝は二条城で家康に謁見の時、家康は木曾の鷹か木曾の馬の何れか希望のものを賜る旨を仰せ出された。鷹は必ず後日献上を仰せ付けられ厄介であり、馬の方が経済上実用的であるから馬を希って貰うことにした。これから木曾の馬はすべて山村家のものとなった。
1615年 乙卯 元和元年     木曽は尾張藩に編入されることになった。良勝は幕府にとどまるべく職を退くか、尾張藩の家臣となって、任務を継続するか、態度を決しなければならなくなり良勝は前者を選んだ。が、尾張家は将軍のお子(家康の第9子徳川義直(初代尾張藩主))の家、直領同然と考えてよい、だから尾張藩に仕えるようにと、慰留され、尾張藩につかえることになった。
                ところで、従来、山村氏が扱った職掌の中で、福島関所の守備は、いぜんとして幕府の統轄下におかれていたので、山村氏は幕府と尾張藩に両属するきわめて複雑かつ微妙な地位にたつことになった。
山村師は幕府から福島関所版に任命され、旗本の一首、交替寄り合いの待遇を赦され、江戸の増上寺の南に、三千四百二十三坪の屋敷を拝領し、将軍の代がわりや自家の継目などの参府に利用している。
また尾張藩の家臣としては、官制上は大寄合、木曽代官として重用され、三の丸東門外に、三千四百七十七坪の名古屋邸をもらっている。
以来、明治二年十三代良醇まで二七四年にわたって木曽谷を支配するとともに福島関所を守った。
          尾張藩の木曽代官として木曽の山林と三十三ヵ村を支配し、また天下の四大関所としてその名を知られた福島関所の守関を兼ねていた山村氏の権力は大きなものがあった。
          山村氏の居館した福島は、木曾川の清流に沿って長く開けた美しい谷あいの町で、居館を中心とした屋敷町の向城と、中山道の宿場であった上町・下町、それにつづく漆器屋・木地屋・曲物屋などの櫛比する上野段町・八沢町の町家からなり、人口四〇〇〇を擁し、当時は松本・上田・飯田などにつぐ信濃国でも、また中山道筋でも、指折りの名邑として知られていた所であった。
          尾張藩主は、参勤交代の帰路中山道を通り、山村氏の屋敷に宿泊するのを恒例としていた。
          木曽代官の山村氏が山林や木材の管理を行い、藩用材としてあるいは販売による藩の重要な収入源として木曽の木材を伐りだした。木曽谷の住民にも木年貢と呼ばれるように米の代わりに屋根板材である槫や建具財の土居等の角材を年貢として出させ、それを都市で販売し収益をあげた。
             京都の豪商角倉了以を採材奉行に登用して良材の伐出を行った。角倉了以は阿治川の通水事業などに投入した新しい技術を木曾川を利用した木曽材の伐採搬出に取り入れた。尾張藩になってからさらに工夫改良が加えられ大成したのが「木曽式伐木運材法」である。この運材法は四国の香川県一県の面積に相当する広大な木曾谷の奥深くから木曾川の本流に流れ込んでくる大小無数の渓流と木曽川本流の豊富な水量を利用して木材を流送しようとするもので、当時としては最も進歩的合理的な方法であった。
           信濃国(現在の長野県)に属する木曽地方は元和元年(1615)に徳川家康が九男の徳川義直に譲り渡して以来一貫して尾張藩領であった。
           このうち木曽御嶽の南西側に連なる三浦山は飛騨国(現在の岐阜県)及び美濃国(同)と境を接する部分に位置していた。
           飛騨国は関ヶ原の戦いで家康側についた金森長近以来六代にわたって金守氏の所領であったが元禄五年(1692)に金森頼旹が出羽国上の山(現在の山形県)に移封されてからは一部の寺社領を除き明治維新に至るまで幕府の直轄領であった。
           美濃国の木曽山南麓地方は「裏木曽」と呼ばれそこに位置する加子母・付知・川上の三か村は尾張藩領に属していた。
           江戸時代には同じ尾張藩領ということで木曽地方と裏木曽三か村が一定の地域的な共通性を持ち幕領であった飛騨とは異なる枠組みを形成していた。
           しかし明治維新後の行政組織の改変はこうした旧来の地域的な共通性を分断し、一円的・均質的な行政区画を生み出していった。
1615年 乙卯 元和元年     義昌の次男義春は大坂夏の陣で討死。
          妻籠城は徳川が豊臣氏打倒の宿願を果たした大阪の陣後に、もう用がないとしてこわされた。
                大坂夏の陣後木曽の地が尾州付属(尾張藩領)となる。
           家康は木曾を尾州の徳川義直に与えたので、木曽代官としての山村家は尾州徳川家の家臣となった。しかし関守としては依然として徳川家康の旗本であった。名古屋に家敷地三千四百七十七坪(約一万五百平方米)を賜って屋敷を建てた。江戸では約八千平方メートルもの広い屋敷をいただいていた。こうして徳川幕府の仕事と尾張の殿様の仕事をする木曽の代官として二代良勝(たかかつ)のあと、良安(たかよし)、良豊(たかとよ)、良忠(たかただ)、良景(たかかげ)と続き、次に蘇門のおじいさんにあたる良及(たかちか)、お父さんの良啓(たかひら)と続いた。良啓(たかひら)のあと蘇門が九代目の代官として家を継ぐ
          このことから、尾州家では鷹の営巣する木曾山に、五,六十ヵ所を巣山といって一般の伐採禁止区域を作った。これが禁伐林のはじまりである。鷹の巣を見付けたものには賞金を出した。鷹は小鳥狩りに使用した。
          贄川の観音寺を千村右エ門尉が建立。
1616年   元和2年     野尻の龍泉庵を野尻太郎左エ門が建立した。
1618年   元和4年     江戸の金杉に屋敷地二千四百二十三坪(約七千三百平方米)を賜り上屋敷を建てた。江戸の上屋敷はのちに芝に移された。今附近に御嶽神社があるという。
          良安は江戸出仕中に死亡した。良勝が再任した。
          悪疫流行のため奈良井に鎮神社が建立された。
1619年   元和5年     奈良井の長泉寺が建立された。
1621年   元和7年     江戸城の建築用材が多量に木曾より伐り出され桑名より船で回漕され、また中仙道を駄馬で運搬された。
    元和中     原野村の庄屋征矢野孫左エ門は、村の人々とはかり、正沢川の水を灌漑用水として、長さ一里十六丁(約五キロ七)引き入れて水田卅余町歩(約三十ha)を開いた。
 1623年    元和9年      「心計記」によるとはじめ妻籠に口留番所を置いたが関ヶ原合戦の後交通整備のため妻籠口止番所を福島に移し本格的な関所を設けた。木曽福島の関所が設けられた年代については諸説があるがこの年元和9年(1623年)かあるいは寛永2年(1625年)には設けられたとがんがえるべきと名和弓雄氏は街道物語に書いている。
1624年 甲子 寛永元年     尾張藩主大納言義直が木曽代官山村伊勢守良勝に命じて一宇を建立。鉄船宗昆禅師の開山と伝える臨済宗臨川寺である。 近世を通じて尾張藩主の祈願所となっていた。
庭前には芭蕉・也有・正岡子規などの句碑が立てられている。
1627年    寛永4年     薮原に極楽寺が建立された。
1629年   寛永6年 11月8日   第109代明正(めいしょう)天皇
          良安の弟良豊(たかとよ)が跡目相続をした。良豊(たかとよ)は、二条城において家康に謁見のとき僅かに九歳であったが、阿栄の局が家康に岡田将監の子とまちがえて紹介したところ良豊(たかとよ)は「山村用斉のせがれ三郎九郎」と名乗り家康からおほめの言葉を賜ったとのことである。
1630年   寛永7年     福島の久昌院が興禅寺の別れとして建立された。
1633年   寛永10年     鎖国令
1634年   寛永11年     妻籠に大火があった。良豊は三留野氏没後、慶長年間に山村家で修理し官舎として番人をおいていた三留野家の建物一切を妻籠の本陣、問屋に与えて移築させた。
1635年   寛永12年     幕府の参勤交代制が強制的に確立されて木曾街道を往復する大名が多くなった。
1636年   寛永13年      田立村の禅東寺が建立された。
       5月6日    関所破り浪人のこと
紀州の浪人虎と岩半三郎という武士が急ぎ江戸に赴かんとして関所の開門を頼んだが、すぐ聞き入れられなかったことから立腹し、開門と同時に門番を斬り殺して逃亡し、福島の永田の薬師堂に隠れた。数日後、飢えにたえず、芹をつみに出てきたところを町人のさる屋某に見付けられた。虎岩はさる屋に脇差を与えて口止めをしたが、さる屋は後難をおそれて奉行所に密告した。虎岩はなかなかの検視であり、奉行末木九太夫(のち荻野と改む)と丸山旧右エ門は鉄砲を用いるなどして、ようやく斬り殺した。さる屋は密告の祟りで不幸がつづき零落してしまったという。また虎岩の従者であった下僕は上田村根曽の野田屋の馬屋に隠れていたところを発見され原野の磯尾六郎左エ門に槍で突き殺された。
1639年   寛永16年 12月22日   福島の上、下町八十五戸が消失した。
1640年 庚辰 寛永17年      義利は浪々の身となって諸国を遍歴し伊予国松山侯の庇護を受け63歳でその身を終えた。法名生涼院殿三宿宗屋
1640年
ころ
  寛永の末期
ころ
    興禅寺の東隅にある蛻庵稲荷社が祀られたと伝えられている。
伝説によると、はじめ蛻庵は飛騨国参議秀綱に仕えていたが秀綱の亡後、逃れて信州の諏訪侯の門に入った。諏訪家の重臣千野兵庫なるものが蛻庵の多才で記憶力もよく、非凡な才能を持っていることを知って、これを採用し、兵庫の没後嗣子も兵庫を名乗りこれを用いていた。ある日、蛻庵が昼寝をしているところを同僚が見たところ老狐の姿であるのに驚いて兵庫に告げた。蛻庵も悟られたことを知って暇を得ようとしたが兵庫はその卓越した才能を惜しんで許さなかった。しかし蛻庵はここを逃れて興禅寺の桂岳和尚のもとにきた。桂岳和尚はもと飛騨の人であり、蛻庵の勝れた才能を知って副司として厚くこれを遇した。ある日飛騨の安国寺に手紙を託して使いにやったところ、日和田で日が暮れ猟師の家に泊った。夜に入って猟師は鉄砲の手入れをしながら炉辺に座っている蛻庵をを銃口からのぞいてみると、僧衣をまとった老狐であり、銃をおいて直視するとまさしく僧である。また銃口からみると老狐であり銃は名工国友の作であって魔物を見わけるといわれていたので狐と信じて床に入ったところを一発のもとに殺してしまった。はたして老狐であったが、興禅寺の手紙を持っていたので村民が相談の上興禅寺に陳謝した。その後、日和田に悪病が流行し、死者が多数出た。老狐のたたりであるということから村民が恐れをなし懇ろに老狐の追福を行い、一村こぞって興禅寺の檀家となった。今でも日和田から毎年一人一椀のわらび粉と一戸一,八リットルのそば粉が興禅寺に納められているという。興禅寺には蛻庵の筆写したと伝えられる般若心教一巻があるという。この蛻庵を祀ったのが今の興禅寺稲荷であるという。
1641年 寛永18年 4月20日   興禅寺が焼失した。
1642年    寛永19年      山村家の「留帳抜萃」によると三歳以上の木曽全村の人口は一五八〇三人とあるから推算して約二万人とみてよい
          福島の城山に、山村屋敷鬼門よけのため願行寺が建立された。願行寺の打ち鳴らす梵鐘が福島の時報であり、関所の開門閉門もこれによった。この時報は昭和のはじめまでつづいた
1643年     10月3日   第110代後光明天皇
1644年 甲申 寛永21年     松尾芭蕉は伊賀国上野で生まれた。父は与左衛門。芭蕉の幼名は『金作』元服後は『宗房』と名乗る。
    正保元年      
 1644年~
1648年
   正保年間      三浦山に関して信濃国と飛騨国との間で所属をめぐる問題が起こった。
三浦山は信濃国に属するとの見解が示された。
1645年 乙酉 正保2年     林昌寺北伝和尚を迎えて中興開山とした。
      4月17日   山村邸が失火で全焼し、白木三万丁が尾州家より下附されている。このとき建てた山村屋敷はひのき造りの立派なものであったというがのち享保八年の火災で焼失してしまった。
          山口村の光西寺が建立された。
                国絵図作成に際しての調査で、木曽の属する郡名が決定できず、筑摩郡・安曇郡の堺に一線を画し墨引の外として「木曽」を上申。
1646年   正保3年     尾州家より山村怪我美禄を持って関所を守ることは容易でないことが認められ、毎年騎馬同心四人分と足軽四十人分の扶持として、百六十石と金子百九十両加増の沙汰があった。
1647年 丁亥 正保4年 7月10日   『真龍理院殿仁栄宗真大姉』真理姫98歳で上村家で亡くなる。黒沢の野口の上村家の屋敷内に真理姫の墓がある。
          
        義昌夫人の墓(木曽町三岳黒沢)
                江戸幕府:「定米千六百八拾弐石五斗五合 木曽(正保の国絵図)・郷帳)
           桟は木製だから破損するたびに修複してきたがこの年通行人の落した松明で桟は焼け落ちてしまった。
1648年 戊子 慶安元年     廃寺になっていた寝覚めの臨川寺と寛永年間に焼失した野尻の妙覚寺が建立された。
           福島に勝沢院(今の行人橋西上の墓地の地)を建てて高安和尚を迎え戻し慰留させた。
良豊は日ごろ、興禅寺の周谷和尚とは懇意であったが、長福時の高安和尚は久々利の馬場三左エ門の弟であることから、とかく山村家に礼を失し、これが為良豊と不和であった。たまたま父良勝が卒去し、その遺骸を今までの菩提寺であった長福寺に葬らず、興禅寺に葬ったことから高安和尚は憤慨して下諏訪の慈雲寺に去ったのである。山村氏はこと面倒と早速使いを派して迎え戻したのである。
    6月   桟の岨橋が尾張藩の工事により石垣積みに改められた。


国道の下に石垣状に見える桟道である。
1648年

1652年
  慶安年間     「信濃大地誌」に「木曽の桟道 上松の北十八町、木曽川岸の桟道なり。慶安年間尾州候によりて開かれ、寛保に至り修繕を加ふ。現今の桟道即ち是れなり。古の桟道は、之に異なり、駒ヶ根村字立町より国道に分れ、渓流に沿うて山を登ること半里、絶壁相對して自然の橋礎をなすもの、即ち其舊跡なりと云ふ。」とある。
1649年 己丑 慶安2年     明治9年の日義村誌によると林昌寺北伝和尚中興すとなっている。
1651年   慶安4年 4月   波計桟道(今のかけはし)の石崖が改築された。長さ六十二間(百十三米)その中間八間(十四,五米)は、はじめは軍事上桟橋であったが、あとになって石を詰めたものである。この工事は尾州家の直営であった。
1652年 壬辰 慶安5年     中原兼遠創建の林昌寺が臨済宗に改められた。
承応元年     改元 
1653年   承応2年     これまで筏で渡っていた福島関所下の今の関所橋が架せられた。今でも関所橋を別名筏橋と呼んでいる。
1654年   承応3年     定勝寺の庫裏造営される。国の重要文化財に指定される。
    11月28日   第111代後西(ごさい)天皇
1655年 乙未 明暦      
 1656年    明暦2年  3月    行基式日本図。所属の国が不明な領域の存在=木曽
1658年 戊戌 萬治元年     「徳川宗敬(とくがわむねよし)文庫」の資料によると万治元年から四年間のうちに約二百五十四万本もの大量の木材が木曽から伐りだされた。
          奈良井大宝寺を中興。
          濁川温泉は木曽代官山村氏3代の子九兵衛が湯治小屋を設けたと伝えられて開湯の歴史が古い。
1661年 萬治4年     木曾街道十一宿の各宿の人足は廿五人と伝馬廿五匹に減った。
          定勝寺の山門が建てられた。国の重要文化財に指定されている。
  辛丑 寛文元年 8月     京都に上る幕府の上使森川小左エ門の行列が関所通過の際、関所の下番が鉄砲を改めるために長持ち改めを行ったが、その態度が失礼であったことから、森川は幕府の老中堀田伊豆守と尾州藩家老の成瀬隼人正に申し入れの上、下番に切腹を申し付けるよう達しがあった。 
良豊は、鉄砲改めの探査は関法の定めであり、また家来の不調法は主人の不調法であるから、先ずこの良豊からとて承けなかったという。
          馬籠の永昌寺建立
湯舟沢の天徳寺建立
西野の源龍庵建立
福島の善性寺建立(天和二年廃寺となる)
1662年 壬寅 寛文2年     芭蕉19歳の時藤堂藩の藤堂良忠に士分として仕えた藤堂良忠は京の北村季吟に俳諧を学んでいたという。良忠は貞門俳諧で『蝉吟」と号した。
          贄川の鷲着寺建立
三留野の等覚寺(廃寺を中興)
王滝の鳳泉寺建立
1663年     1月26日   第112代霊元天皇
1663年 癸卯 寛文3年     木曾氏20代の子供玄番允義辰が亡くなる。法名永昌院殿一實家剣生年は不明
1664年   寛文4年     尾張藩主徳川義直は山村家を木曽代官に任命し福島の関所と木曽山林の警護にあたらせた。しかし開府当初の江戸での木材需要は相当なものでその供給地となった木曽の山林は乱伐に次ぐ乱伐でたちまちのうちに荒廃したという。
尾州藩は木曾山の濫伐を取り締まるため第1回の木曾山巡見を行った。良豊はこれをこころよしとせず、それ程代官を信用できぬものならば木曾山の管理は尾州藩直営にしてくれと申し出た。この巡見の結果、尾州藩は木曾山の内五ヶ所に新たに留め山制を布き、これを御用山とした。
          末川の隋松庵建立
三尾の普門院の建立
1665年   寛文5年    
木曽の山々は濫伐によってすっかり荒廃し「尽き山」状況は御嶽山麓等の奥山にまで及び、下流平野部の治水にも悪影響を与えていた。
                 尾張藩は木曽福島上之段にあった材木役所(陣屋)を上松(上松町)の今の小学校の地に移した。木曾山林を藩の直轄管理に切りかえた。佐藤藩太夫を山奉行として駐在せしめ、木曾山の伐採、年貢木のこと、および運材についての木曾川支配はすべて尾州直営となったのである。
また平沢と落合に白木改所が設けられ、白木の搬出はますます厳重に取締られることになった。
巣山はもともと鷹狩用の仔鷹を確保するために鷹の営巣しやすい山を指定して住民の立入りを禁止していたが新たに多少とも良材の残っている山を選んで留山に指定した。巣山、留山はともに住民の立入り伐採を禁じた。巣山、留山に入って木を盗む者を盗伐りといって厳罰に処せられた。巣山、留山以外の山林は明山(あきやま)と称する開放林で、住民は自由に立入ることが許され、日常生活に必要な家作木や薪炭材、芝草などを採取し利用することを公認されていた。しかし停止木と称して檜・さわら・明日檜・こうやまき・ねずこの五木は伐ることができなかった。停止木を伐る者は背伐りとして盗伐りと同様厳罰に処せられた。有名な「木一本首ひとつ」のたとえはこの制度によって生れたことばである。四国の香川県一県の広さに相当する木曽谷全面積の九割五分を占めていた山林を「木曽山」と称していた。
           尾張藩から伐木製材、運材方法を決めた「山元木材作定法」「川並御法度」「労働夫心得」が出された。
人夫たちの組織は上から日雇総統、代人、庄屋、小庄屋、日雇、かしき、茶坊主というように組織されていたがこれ以後は厳格を極め同じ危険作業の例えば火消人足などとはまた違った意味の「危険作業労働者」であった。
          良豊は家臣を奥州の南部につかわして牝馬三十頭を買い入れ、木曾馬の改良をはかった。
          永昌寺の開基は藤村の先祖島崎左吉衛門重通。
           扶桑国之図(神戸市立博物館蔵) 志なの十二ぐん
1666年 丙午 寛文6年     芭蕉23歳の時主君藤堂良忠が25歳で病死した。
      5月   名古屋の建中寺において徳川義直の法事が行われ、参列した山村良豊に対し、尾州家老成瀬主計より木曾馬を全部尾州に召しよせ、その内良馬は藩主のものとし、残りは尾州家臣に買わせたならば木曾の百姓も喜ぶであろうとの申し出があった。
          山村家としては重大事件につき、良豊は年寄り松井市正とはかり、百姓の収入には変りはないことを理由としておことわりしたという。
1667年   寛文7年 2月6日   福島の六軒町が焼失
 1668年    寛文8年  9月3日    関所開設と同時に建造されたと思われる福島関所の東門が大風のため潰れ九月中に再建された。(御関所日記より抜粋)
西門が東門再建と一緒に新設された。
 1669年     寛文9年        木曽代官山村氏、木曽を信濃国の内と認識していたことがわかる。
1670年 庚戌 寛文10年 3月   林昌寺は福島村大通寺隠居北伝和尚によって再々興し臨済宗に改め以後連綿と当世まで続いている。
          木曾街道の各宿の人足は再び五十人と伝馬五十匹に復活された。
1670年

1695年
  寛文10年~
元禄8年 
     椿の海が干拓され広大な新田に生まれ変わった。水葬の場所に義昌公のお墓を造った。
1672年 壬子 寛文12年     芭蕉29歳の春江戸へ下る。
      2月15日 福島で百五軒が焼失
1673年 癸丑 延宝元年 3月17日   福島の広小路以北が焼失
1674年   延宝2年      宗門改めが行われる。四か村が欠けているが二四七五六人となっている。四か村と山村家中の人数を加えると約二五〇〇〇人から二七〇〇〇人と見てよい(図説・木曽の歴史)
1675年   延宝3年 4月   樹皮剥ぎに苛酷な刑
神坂の湯舟沢山にこうやまきの樹皮を剥ぎ取ったあとがあると、庄屋からの注進があり、山村家の役人が出張して調査の結果、剥皮した立木千三百三十二本もあり、加害者を捜査のところ、同所の百姓徳左エ門というものであった。徳左エ門は罪となることを知らずに剥ぎ取り檜縄としたものであるが、召し捕られて入牢。
山村家では尾州家にその処置を伺った所、さらに細かな取調べがあり、徳左エ門は打ち首の上、さらし首の刑に処せられ、その妻子は遠く国外(信州より一定の距離以外)追放に処せられた。
1679年   延宝7年     宮の越本町で八十五戸が焼失
1680年   延宝8年     良豊は病没した。良豊の子良忠(たかただ)が相続した。
 1681年    延宝9年      福島関所の根の井山の丘陵のような小支脈は駒ケ岳につづくのであるが八沢川の上流にさかのぼり迂回して山越えすれば関所の東方上田村宮越宿へ抜けることが出来ぬでもない。実際にこの年甲州の尼僧が上田村からこの道を迂回して八澤に抜けた事件があった。
延宝年間     福島の了源寺建立
1681年 辛酉 天和元年 4月7日    木曾氏二十代義利の孫玄番義徳亡くなる。法名慈峯院殿夏雲宗奇。玄番は寺川戸に住す。山村・千村氏の扶助を受ける。
1682年 壬戌 天和2年     芭蕉39歳の頃から『芭蕉』の俳号を使う。
        女手形なしの通関人の処刑
三河国加茂郡籠沢村の忠助という人が、たつという十一歳になる自分の娘を男装させて福島関所を通過しようとして発覚し捕らえられた。忠助は前年の暮れに妻を失いその亡妻のの慰霊供養のため、また自分の亡父の十三回忌と亡母の七回忌のため、一人娘を連れて道々門付けをしながら善光寺へ参詣しようとしたものであった。
山村家ではこれを尾州藩に報告し、尾州藩は幕府に報告し、幕府は老中会議を開いた結果、忠助を斬罪に処し、娘は尾州家からきた家臣で滝沢村を知行所とする石川八郎左エ門に引き渡した。
1684年 甲子 貞享元年     芭蕉が漂泊のたびを始める。41歳の秋江戸を出発、東海道を西へたどり伊賀上野で越年、翌年京都から中山道を江戸へ帰る9ヶ月の旅であった。これが『野ざらし紀行」で知られる旅である。
1685年   貞享2年     福島の西方寺建立。位置は上八沢であった。
1686年   貞享3年     円空上人が美濃方面より巡錫して南木曾町三留野付近に二,三ヶ月滞留し、同地の等覚寺等に、木曾ひのきによる円空仏像を数体彫り残して立ち去った。
1687年   貞享4年  3月21日   第113代東山天皇
          尾州藩は第二回の木曾山巡見を行った。
その結果巣山留山の周囲に巾三丁(三百三十米)ないし五丁(五百四十五米)の鞘山と称する禁伐林を設け留山を拡大した。このとき木曾谷の人々は
   情ないぞえ市川様は
   巣山留山さやかけた

とその非情をうたったという。
1688年   貞享5年 8月11日~
8月末
  松尾芭蕉が越人と更科の月を賞し、善光寺に参詣して江戸に帰るべく岐阜を出立して木曾の南部から来遊したことが更科紀行にある。
   送られつ送りつ果ては木曾の秋    馬籠
   ひるがおに昼寝せるもの床の山    寝覚
   かけはしや命をからむつたかつら   桟
   思い出す木曾や四月の桜がり     新開荒町
   ひばりより上にやすろう峠かな     鳥居峠
戊辰 元禄元年      
 1688年~
1704年
  元禄年間       三浦山は古くから信濃国と飛騨国との間で国境争いが絶えず元禄年間にも所属をめぐる問題が起こっていた。
三浦山は信濃国に属するとの見解が示されていた。
1689年   元禄2年     こうやまき、栗、松、けやきを制止木と称し伐採するには認可を経なければならないことになった。
1689年

1691年
己巳

辛未
元禄2年

元禄4年
12月

9月
  松尾芭蕉は門弟正秀が義仲寺近くに建てた無名庵に住んだ。
1692年   元禄5年     福島宿の長さは三町五十六間、戸数は百三十六軒。
1693年   元禄6年 5月   王滝村三浦山で杣夫の失火によって大火災がおこり、七昼夜にわたり、四十八谷六十余町歩(約六十HA) を焼失した。良忠は上島まで出て消化を指揮し、松本藩主水野隼人正より見舞いがくる等大騒ぎであった。
王滝村庄屋松原彦右エ門は尾州藩に呼び出されて取調べを受けたが、ひのきの枝と枝が風により摩擦して発火したものであると実験して許された。
          数十万石に上る焼損木を福島宿の商人新井新兵衛が一手に払い受け、数年にわたり伐採流送して売り払った。当時江戸の豪商であり事業家であった紀伊国屋文左エ門(一説には河村端軒とも云われる)と結んで桑名より江戸に回漕し、復興用材に売り払って巨万の利益を得たといわれている。
 1694年  甲戌 元禄7年   5月    福島関所のくぐり戸がつけ加えられた。
10月12日   「更科紀行」、「奥の細道」などで有名な俳人松尾芭蕉は旅先の大坂で51歳の生涯を閉じた。「骸は木曽塚に送れ」という遺言により遺体は近江国粟津の義仲寺境内に埋葬された。晩年、しばしば義仲寺に滞在した芭蕉は、生前から義仲に限りない敬愛の情をいだいていた。そのことを知っていた弟子たちは芭蕉の亡骸を義仲塚の横に埋葬したのである。
  旅に病んで夢は枯野をかけ巡る   芭蕉
          助郷制の嘆願
大名行列等の際、その荷物運搬のため沿道の人々に食費代くらいの安い手当で賦役が課せられ、その徴用が非常にはげしくなったのでこの年幕府に嘆願し、沿道以外の地域からも援助方を許可された。しかし、この助郷制度はすぐ木曾には適用されず、特別な大行列の時は、尾州家に申し出て、美濃馬の援助を得たという。
1696年   元禄9年      神谷の古畑権兵エが主唱して木曾の山村家と、伊那高遠の内藤家に陳情し、両家は幕府の道中奉行の許可を経て、両家立会いの上で木曾より伊那に通ずる道路を開設した。今の権兵衛街道がこれである。これから伊那米がこの峠を越えて木曾に入るようになった。
          権兵衛峠開設に当って、木曾十一宿の役人より伊那の松本藩預かり領の地元である箕輪の各村の名主にあてて、「権兵衛のはからいでたとえ街道が開かれても伊那の人達を助郷に使わない」という証文が出されている。
          萱の平番所設けられる。その後正徳四年まで山村家の家臣が交代で勤番した。
      11月4日   福島の下町が焼失
 1698年    元禄11年      福島関所の西門を閉じ西門内に番小屋を新設し定門番をおき夜番もしたと記録されている。
 1701年    元禄14年      中山道の各宿の人足二十五人と伝馬二十五匹となり明治に及ぶ
1702年   元禄15年 10月7日   福島の向城、青木町等百三十六軒が焼失した。
                元禄国絵図、元禄郷帳によると「木曽」の地が信濃国筑摩郡の内と確定される。
                この年信濃国には1697村があった。
1703年 元禄16年     伊勢神宮材が湯舟沢より伐り出された記録がある。
           福島関所番人人数が規定された。
御関所番人  上番二十人  騎馬
         下番四十五人 足軽
ただし常の日は上番二人下番4人づつ交替で勤務した。
御用向きや公家衆や諸大名の御通過の節はその格式によって増番人を差し置いた。
この規定は幕末まで踏襲された。
1704年 甲申 宝永元年      
1705年   宝永2年     切畑を行うには尾州藩の許可を経ねばならぬことになった。切畑とは、雑木材を焼いてその灰を肥料としてそば、ひえ、大豆等の作物を播く場所をいい、耕地の少ない木曾では食物の補充上やむをえない一手段であった。
          3年くらいで肥料分がなくなるとこれを打ち捨てて数年たって再び雑木林になると、また切畑とした。このように再び切畑とするところを「切り返し畑」と称した。
1706年   宝永3年     良忠卒去につき良景(たかかげ)が相続した。
      8月    良景(たかかげ)が「木曾考」をあらわす。
          原野村庄屋征矢野勘左エ門は、同地の百姓田中治左エ門と正沢用水を三条に分けて引き、開田の便をはかった。
1708年   宝永5年 5月   尾州家では第三回木曾山巡見を行う。
           木曾山巡見の結果、良材の濫伐が甚だしいということで、尾張藩は停止(ちょうじ)木制をしいた。停止(ちょうじ)木制とはたとえ明山内であろうとも、また住民近くの立木であろうとも伐採を厳禁した制度である。この年に檜・椹・明檜・槙の四木が停止木とされた。
1709年   宝永6年     ねずこを伐採停止木に指定した。いよいよ「木一本首一つ」の制が布かれたばかりか、違背者の出た村の庄屋、年寄、組頭および五人組まで重科に処せられることになった。
          木曾谷住民にいままで伐採使用を許されていた御免木六千駄の内、三千駄は金子弐百両で下付されることに切り替えられた。
          このため福島の八沢町漆器業者は尾州藩に嘆訴し、ようやく檜物手形を交付され、毎年八十八駄(一駄三七〇kg)に限り無代伐採が許された。
      6月21日   第114代中御門天皇
1710年   宝永7年     良景(たかかげ)病没につき弟の良及(たかちか)が跡目相続をした。
1711年 辛卯 正徳元年     蘇門の父の良啓(たかひら)が江戸の分家に生れた。
1712年   正徳2年       いままで木曾谷には適用されなかった助郷制が山村家より徳川幕府の道中奉行に嘆願を重ねた結果、ようやく許されて適用されることになり、東筑摩郡廿三ヶ村を宮の越以北四宿の助郷に指定された。
1714年 正徳4年     この年まで山村家の家臣が交代で勤番していた萱の平番所はその後香山氏が定役となった。
1715年   正徳5年 正月9日   上松荻原村の年貢米倉庫より出火した。
          取調べの結果、荻原村庄屋の庄兵エが米卅俵を盗みとり、その跡をかくすための放火であったことがわかった。
          庄兵エは同村の山林で縊死していたが、尾藩の指揮によりその妻子は郡外に追放され、損失の蔵米は、荻原村民一同に代償せしめた。
      6月18日   暴風雨山崩れのため野尻の津島神社が流され、木曾川洪水のため須原の古町が流亡した。
          このため須原宿場を尾州藩の援助を受け、享保二年まで二年かかって現在の地(昔は字富岡という)に移転を完了した。従って街巾、防火、防禦等、木曾宿場中、最もよくできていた。
 1716年    正徳6年      「中山道」表記に改められる。
1716年 丙申 享保元年 6月1日   須山の内では野麦(笹の実の方言)の採集を禁止した。
1717年   享保2年 2月   巣山番人を置くことになった。人間の食糧よりも幕府狩猟の鷹の保護が大切であったのである。
          江戸に大名火消ができた。
1718年   享保3年     福島八沢町が焼失した。
1720年   享保5年 8月   伊那郡の卅ヶ村を福島以南須原まで三宿の助郷に指定されることになり、木曾谷の負担は軽くなった。
            木曾の助郷は公家、門跡、御三家および日光御門主等特別の大行列に限られた。この助郷によって東筑やまた峠を越えてくる伊那の人々は往復三日間を要し安い賃金ですくなからぬ迷惑を蒙ることになった
          江戸にいろは組が創設された。
1721年   享保6年     享保の巡見
尾張藩は普請奉行大村源兵衛、勘定奉行加藤仁左エ門、水奉行市川甚左エ門、畑奉行戸田八左エ門、五十人目付清水太郎左エ門等をして木曾谷巡見を行った。
宿泊所に村の庄屋を召し、山村代官の施政や民情を調査した。当時の調査によると木曾谷の人口は三二七〇〇人内男一六一六五人女一五七三五人であった。もちろん奈川村や湯舟沢も含んだものである。
1722年 享保7年     伊勢神宮材は木曾から伐り出された記録がある。
          尾州家はくりの伐採とあかまつを薪炭用に伐ることを停止した。
1723年 癸卯 享保8年      義仲の子孫二四代義陳(義近)の発願で、尾張藩犬山城主成瀬隼人正正幸氏の母(義陳の妹)が義仲の菩提寺である徳音寺にある鐘楼門を寄進した。その楼上の鐘の音は「徳音寺の晩鐘」とよばれ木曽八景の一つに数えられている。またここは木曽七福神毘沙門天霊場、中部四十九薬師二十二番札所(「身代わり薬師」の名で親しまれる。)として知られる。義仲公は観世音菩薩と共に不動明王と毘沙門天を深く信仰したという。
成瀬隼人正正幸氏の母の寄進で大工狩戸正勝が建てた総ケヤキ造りの山門のほか、義仲・大夫房覚明の両木造や木曾家代々の位牌を安置する霊屋などを備える。
          木曽は江戸時代になってからも検地が行われず、荘園時代からの古い貢租形態である木年貢、下用米、納物、椀飯などといった制度が残っていた。
      2月4日   山村邸の小使部屋より失火し、邸宅が全焼した。
1724年   享保9年     尾張藩より復興用材として白木三千挺が下附された。
      2月   尾張藩は西脇仙左エ門と高橋治部蔵を木曾漆方取扱に任じ、上松原畑に漆役所を併置し、地元漆方役人として上松の藤田九郎左エ門・岡村兵左エ門を命じ、木曾を巡視してうるしの木の栽培養成を奨励した。
  3月     享保の検地
尾張藩は古い制度を改革する必要を感じ木曽の現状を正確にとらえるために木曽谷総検地が施行される。
検地の結果と野村、長野村、夜側村を独立損とし、木曾全体で一ヵ年千八百余石(約三百二十四kl)に過ぎなかった年貢米を二千四百六十三石八斗一合(約四百四十四kl)に改められた。この当時は四官六民と称し、生産米の四割を年貢として上納することになっていた。
またこの検地の結果、山村家の施政よろしからずということで、山村家の重役四人にお役目遠慮を命じ、木曾の一般政務について、山村家は、尾州より主張の奉行大村源兵エと協議し、山林および年貢米、雑穀出納のことは上松材木奉行市川甚左エ門と協議のことに改められたばかりか、口米(くちまい)と称して年貢米一石(〇,一八kl)につき三升(五,四l)の割合で山村家がとっていた年貢米取り扱い手数料も廃止されてしまった。
この検地の結果、留山、巣山も増加した。
木年貢、納物、椀飯などの制度は廃止され米年貢一本に統一された。住民は雑穀を年貢として納めることとなった。
雑穀五十石を木曾十一宿に給与することになった。
      9月25日    尾張藩は奉行遠山彦左エ門を使いとして、木曾山の濫伐がはなはだしいため、山村家に毎年下付された御免木白木五千駄を五千挺に減少せしめた。
また木曾谷住民の山野開墾の上、食料自足のための切畑は禁止した。
              信濃の国筑摩郡の内であった木曽は尾張藩徳川氏の所領に属し、最初は二八か村であった。検地以後は
奈川・贄川・奈良井・薮原・薮原在郷・荻曽・菅・宮ノ越・原野・上田・黒川・岩郷・福島・末川・西野・王滝・黒沢・三尾・上松・荻原・須原・長野・殿・野尻・柿其・与川・三留野・妻籠・蘭・馬籠・湯舟沢・田立・山口の三十三か村から成り立ち、これらを一行政区画として、木曽代官山村氏が支配していた。
          黒沢村で養蚕により金十両ほどの収入があった旨の届出があり、この頃より木曾の養蚕業が普及しはじめた。
      10月15日   尾州では材木奉行の大村源兵エを福島勤務とし役所を福島上の段の善性寺址に建てて上松より引き移し山村屋敷を上方より監視する形をとった。これによって元文五年(1740年)この役所が上松に戻るまで十五ヵ年間、山村家は木曽代官としての木曾谷支配権を全く剥奪され、苦境に立たされた。
          平沢の漆器行は慶長以前からあって、福島の漆器とともに古くから発達していたらしい。この年の記録によると、生産千七百駄、二千六百七十一両余で、業者計百四十三人となっている。
1725年 乙巳 享保10年 6月14日   東漸寺を克明に書きしるした『総州網戸縁起』を当時の東漸寺住寺が木曾に持参したという控えが東漸寺に残されていて表記に現福島町大通寺住職今井宗俊という印が押されている。
1726年   享保11年     文楽、歌舞伎「加賀篠原合戦」成立
          すべて山村氏の所領であった木曾馬の総駒数は二百九十一匹との記録あり。
1727年   享保12年 12月8日   奈良井宿に大火があった。
1728年   享保13年 3月   ひのき等五木の皮を剥ぐことの禁止令が出た。ただし火縄用としてねずこの皮を剥ぐことだけは許された。
1729年   享保14年 5月   住民の陳情により、新規に家屋の建築をするとき屋根は茅葺とし、壁は土壁としなければならない制度が解かれた。
      12月17日 福島の本陣屋敷焼失
1730年   享保15年     薮原の鷹匠役所が置かれ、毎年春、尾州から鷹匠および数名の役人が出張し、巣鷹を探すことを奨励してほうびを与え、卸した鷹はまとめて適当の時期に尾州に送る等の事務をとらした。毎年二十巣乃至三十巣くらい送られたとのこと。尾州家ではこの一部を幕府にも献上した。
          元禄年間将軍綱吉が犬公方と称せられ、殺生の禁制を発したときは、一時この放鷹による狩猟も禁ぜられ巣鷹の献上も、巣山番人も廃されていた。
           三浦山は古くから信濃国と飛騨国との間で国境争いが絶えずこれらの時には三浦山は信濃国に属するとの見解が示されたがその後もたびたび飛騨の国の御廐野村・小坂村などの人々が無断で三うれ山へ入り込んで樹木を伐採し飛騨側への取り込みを行った。
       5月    信州木曽山を支配していた尾張藩は同じ尾張藩領であった美濃国裏木曽の加子母村に住む内木彦七に五人扶持を与え「三浦・三ケ村御山守」に任命して三浦山内の取り締まりにあたらせた。
           江戸時代の三浦山は信濃国筑摩郡王滝村(実際は枝郷の滝越村)の一部に属するものとされていた。
           尾張藩は王滝村(滝越村)に対して自村内の三浦山の取締りを任せずに裏木曽の加子母村の者に山守を任命した理由は王滝村側から入山するには非常に険阻で容易に近づける場所ではなかったからである。そこで比較的入りやすい加子母村側から入山して山内の取締りを行うこととなったのであり、王滝村・加子母村ともに尾張藩領であった江戸時代にはこうした方法が何の不都合もなく受け入れられてきた。
1735年   享保20年  3月21日   第115代桜町天皇
          福島八沢町が全焼した。
1736年 丙辰 元文      
1737年 元文2年 2月2日   贄川の鶯着寺が焼失。
           贄川の観音寺が焼失した。
1738年 元文3年 5月20日   暴風雨で原野村の濃が池が埋まり、木曾川が氾濫して福島の木曾川にかけた橋が全部流失した。
      12月   尾州藩は、かつら、かしの伐採使用を停止した。
1739年   元文4年     文楽、歌舞伎「ひらがな盛衰記」成立
1740年   元文5年     奈良井宿の大火
          今まで毎年山村家に下付されていた白木御免木が廃止となり、かわりに米を毎年千五百俵(約一〇八kl)ずつ支給することになった。
1741年 辛酉 元文6年     義仲の菩提寺徳音寺の宝蔵建立
寛保元年     桟の石垣積みの工事が行われる。国道わきの大岸壁に当時の工事の記録が刻み込まれている。近代的なコンクリートのアーチ橋を渡った対岸から眺めると、新国道に架けられたコンクリートの橋桁の間に苔むした石積みが見られる。
          石作駒石が山村の家臣の井沢喜兵衛の家に生れた。駒石は名前を貞、字を士幹といい貞一郎ともいった。駒石は号です。
1742年 寛保2年     伊勢神宮材が木曾から伐り出された記録がある。
      3月6日   山村蘇門が生まれる。小さい時は七之助とか式部といわれ、諱(いみな)(実際の名前)を良由(たかよし)、字(あざな)(実際の名のほかにつける呼び名)は君裕(きみひろ)であるが、先祖から伝えられた甚兵衛と呼ばれ、号(学者などが名前のほかにつける優雅な名)を蘇門といった。
1744年 甲子 延享元年 8月   福島の青木町に馬場を作って、家臣の乗馬練習場にした。 
1745年    延享2年 4月       尾張藩主の帰国に随行した俳人横井也有(也有は尾張藩の重臣)はそのときの紀行「岐岨路紀行」に「十二日。けふは福島にて山村氏が亭にいらせたまふ。家居つきづき敷、のしめ上下にもてさわぎて何くれともてなしたてまつる。鯛鰤などの膳にひろごりたるけふは山家めきたる心地せず」と書き
     俎板のなる日はきかずかんこ鳥    也有
の句を作っている。
      7月21日   福島の下町が残らず焼失
1745年ころ    延享のころ     末川の庄屋であった中村彦三郎が尾州藩より資金を借り末川村ではじめて水田を開いた。
1745年   延享2年 4月13日
4月14日
  尾張の殿様宗勝公が中山道を通って江戸から名古屋へ帰る途中、木曽の代官屋敷へ泊った。
          尾州藩の学者である横井也有が、尾州公のともをして江戸より帰る途中、木曾を通過し、木曾八景の歌を作り、「岐岨路紀行」をあらわした。
   まな板のなる日は聞かず閑古鳥   横井也有
この句は福島小学校下の石垣に刻まれ残っている。
1746年   延享3年     山村良及は隠居し、すじかい従弟の良啓(たかひら)が家督を相続した。正妻は山村良及の長女である。
      正月 良啓(たかひら)が代官となる
      3月   尾張の殿様宗勝公が再び代官屋敷に泊る。
          京都の烏丸大納言光栄が関東に行く途中木曾を通過し、「丙寅紀行」をあらわし木曾道中記を書いた。
          宮の越上町に火災があり八十戸余を焼失した。
1747年   延享4年 6月   伊東兵太夫(元町長伊東氏の祖)が奉行となり、山村屋敷前の大石垣を金子廿三両銭卅六乄二百四十三文を投じて大改修工事を行った。石は勝澤院あたりから切り出し、石工は美濃から集めた。今その石垣の一部が福島小学校下の石垣の一部に残してある。蘇門は6歳であった。
          尾州家で伊那川橋のかけ替え工事を行う。伊那川橋、滑川橋、桟の三大橋架替工事は尾州家の直営とし、その他の橋は山村家が工事をした。
1748年 戊辰 寛延元年     横井也有、山村蘇門の父八代山村良啓(たかひら)(俳名嵐布)のもとめに応じてその書斎に宣白亭と命名し「宣白亭記」(鶉衣)を書く
1749年   寛延2年 2月   「宮越宿絵図」によると「惣家数百拾七軒、内畳敷三拾六軒である。
1751年 辛未 宝暦元年     横井也有、山村蘇門の兄良恭(たかゆき)(俳名季旭)の追善の句会で脇句をつとめる。
    宝暦のころ     伊那三十一ヶ村の助郷の苦情により、大平峠を開き交通の便をよくした。
          三留野天王神社の神官であった園原大和旧富が、京都に上って神道の秘訣を学び、「神学則」をあらわし、木曾に帰って多くの子女を教導した。木曾古道記、木曾名物記、御坂越記、神心問答等の著書がある。
          山村家の家臣三村道益は江戸に出て大内熊耳に学びまた医学を幕府の医者安養院法印に学んで木曾に帰り、住民に薬草を教えて採集せしめ喜ばれた。三村道益の石碑が寝覚の臨川寺に建てられている。
          山村家の家臣伊東兵太夫匡継が岩郷村の伊谷で十二町歩(約一二ha)の耕地整理を行い、江戸に出て武術を修業し、山村屋敷前の大石垣の改修工事を担当して竣工し、八沢の漆器業を奨励して大坂方面に販路を拡張した。馬術に長じていたことから産馬改良に力を尽くした。また槍術に長じており山村家の師範となった。
          「山村家に過ぎたるもの二つあり伊東兵太夫の武術、三村道益の医術」といわれたという。
1752年   宝暦2年     蘇門の祖父、良及(たかちか)は六十七歳で亡くなる。蘇門が十一歳の時である。後に蘇問は「大父宗仁君墓下作」という詩を残した。
1753年   宝暦3年     材木奉行の市川甚左エ門が退任した。
          尾藩の学者、松平秀雲が木曾の各地を廻って史料を探り「吉蘇志略」をあらわした。この志略に南木曽蘭の檜笠が毎年十万個を産出されたとある。立木伐採停止で一時もみ材を代用したが、文政五年また檜の使用が許された。
1753年

1754年
癸酉

甲戌
宝暦3年~
宝暦4年
9月~
9月
   日義の林昌寺再建工事。明治24年14世瀧州和尚が記録したものが残っている。
1754年   宝暦4年     三村道益は尾張藩からお金を借りて薬草を集める道具を買って村人に与え薬草を採ることを勧めた。三村道益は「木曽薬譜」という本を書いた。「木曽産物」「唐詩櫂材」「明詩櫂材」などの本もある。
1757年 丁丑 宝暦7年     尾張藩の松平秀雲の著した『吉蘇志略』に『三浦太夫宅三浦山中に在り、里老相伝、和田合戦の時、其族逃れここに居る。開墾を業となす、其後地僻なるを以って滝越に移る。今に至り滝越百姓皆三浦氏を称す。(中略)和田義盛戦い敗れ首を授けた時、諸子弟之に死す。朝比奈三郎義秀亡命終わる所を知らず、義秀の母則巴女也。巴女則木曽兼遠の娘、而して義秀は其の外孫也ー。」と書いてある。古老からの伝承の聞き書きと思われる。
      4月   材木奉行の市川甚左エ門が八十三歳で死亡した。
1759年 宝暦9年     将軍家重が家治に代わる
1760年 宝暦10年     二十歳の山村蘇門は父の良啓(たかひら)に連れられて江戸城に行き将軍家治にお目見えした。
1760年ころから         自由販売を許された駒および牝馬は、宝暦のころから福島へ曳出す火を半夏の日と定め、同時に市を立て、以前は三才駒以上であったものを二歳駒も売ることになり、開市三日間に及んだ。
1761年   宝暦11年         かけはしや命をからむつたかつら  桟
芭蕉の句碑が建てられた。しかしその後、山崩れで河ばたに押し流されているのを、山村家庭園に移し、さらに家臣の三村氏が許可を得て自分の庭に移していたが、現在は木曽町福島中畑区の津島神社境内に移されている。
今桟に建てられているのは文政のころに建てられたものである。
1762年   宝暦12年 7月27日   第117代後桜町天皇
          伊勢神宮材が木曾から伐り出された記録がある。
1764年 甲申 明和元年       
1765年   明和2年     幕府は堕胎、間引禁止令を出す。
      9月   信州伊豆木(飯田市)の領主小笠原長暉の娘喜彌子(かやこ)が蘇門のところへ嫁いだ。蘇門は二十四歳、喜彌子(かやこ)は二十五歳であった。
1766年   明和3年     蘇門が京都へ行き江村北海先生の教えを受けるようになる。
 1767年    明和4年      城山は伊勢神宮の御用材等として1万本が伐採された。
       6月25日    諸事覚書によるとこの日川狩りを始めた。
       7月~8月    満水(大水)で4616本が錦織網場(現在の岐阜県八百津町)に着水している。
           この作業の安全を祈願するため山の神石祠が建立されている。

山の神石祠
1768年   明和5年 4月12日   六十六部の法入というものの関所の偽計通行があった。
六十六部同行三人が関所を通過した。改め方の粗略で一旦通過せしめたが、上番の注意により追いかけ、連れ戻して取り調べの結果、内一人が女であることがわかった。三人とも入牢した。
      5月5日   法入は牢死した。尾州家を通じ幕府に報告しいまだ指令に接しない罪人であるため死体保存の必要があり死体を塩漬けとして保存した。
1769年   明和6年 正月   死体取片付けの指令に接してようやく処分が完了した。
      1月   江戸幕府が農民が強訴した時は近くの領主は武士を使って農民をうち破れという命令を出す。
      2月2日   贄川で百姓騒動が起こる
      2月3日   奈良井、宮越、原野、上田のものも一緒になって、その人数、千二三百人が関所に押しよせた。同時に野尻より上松までのものも多数集まって福島に押しよせた。
      2月4日朝   山村家では役人をして説得につとめ漸く退散した。
      2月18日   尾藩からの取調もあり責任者の処罰もあった。
      11月末   百姓騒動の件が落ち付いた。蘇門は二十八歳であった。
      年の暮   幕府は百姓の強訴取締令を公布した。
1770年 明和7年 6月~
7月25日
  この年は閏六月があり八十五日間の大旱ばつ
      11月24日   第118代後桃園天皇
1772年 壬辰 明和9年     野尻以南四宿の助郷制度は大平峠が開通され、この年ようやく伊那郡卅一ヶ所が指定されている。
安永元年     石作駒石(いしづくりくせき)が蘇門の詩集「清音楼詩鈔」をまとめて作り上げた。蘇門の師であり駒石の師であった南宮大湫先生が序を寄せている。
1775年   安永4年 7月8日   福島の上町下町百九十一戸が焼失
          石作駒石(いしづくりくせき)が蘇門の詩集「清音楼詩鈔」を完成した。
1776年   安永5年 4月    蘇門の先生の大内熊耳(ゆうじ)が八十歳で亡くなる。蘇門が三十五歳の時であった。
          石作駒石(いしづくりくせき)名古屋屋敷留守居役を命ぜられ、十年間名古屋で勤めた。
1778年   安永7年     臨斉宗妙心寺派の大通寺の鐘楼門建て替える。戦国時代には上野段城の三の丸の郭内で大通寺の付近に木曽の領主の館があったという。武田氏が滅びた後大通寺の境内に義昌の奥方真理姫の供養塔が建てられている。
         
大通寺の鐘楼門
          宮越宿には百三十七軒、うち旅籠屋四十軒(紀州様御上国の節町絵図)と増加。
          南宮大湫先生が亡くなる
1779年     11月25日   第119代光格天皇
1781年 辛丑 天明元年 4月2日     
      5月1日   福島の向城が二百七戸焼失の大火があった。
      9月   福島にはじめて消防組が編成された。
          山村良啓隠居し、その子良由(たかよし)が四十歳で家督を相続した。良由(たかよし)は学を好み、若くして江戸に出て服部南郭や大内熊耳について学んだ。江戸で勉学の上木曾に帰った石作駒石を起用して勘定役とした。天命中は災害が多く、また凶作のため住民も山村家も困窮した時であったが、山村家の財政を担任して諸費をはぶき、節検につとめ、窮民を救い善政を布いた。石作駒石は伊勢の桑名で南宮大州について勉学して帰り、多くの子弟を教えた。
          三年にして財政も整い、住民の生活も安定したので庄屋等の物持ちも感激し、山村家に出頭して山村家の古い借金証書数十通、金額にして四千二百両を焼き捨てて、借金を棒引きとし、その善政に感謝した。石作駒石には翠山楼集、莫逆集、勤学言志編等の著書がある。蘇門は駒石の功績に対して太刀を贈って苦労をねぎらっている。
          尾張藩侯徳川宗睦(むねちか)は細井平洲の実力と有名なことに感激して自分の学問の先生になるように命じ江戸の市谷合羽坂に屋敷を与えた。
1781年~
1801年
  天明・寛政のころ     御嶽山は尾張藩がひのきその他の森林を保護する名目で登山を禁止していたが、このころ一般の人が登るようになった。
1782年   天明2年     尾張出身の覚明行者が御嶽の支配者である黒沢村の神官武居家を訪れて、簡単な軽精進による一般信者の御嶽登山の許可を願いでたが、武居家では、数百年間続けられている慣習を破るもので神威をけがすものとして却下した。
          覚明は黒沢村民と謀って登山道の大改修を行った。今まで登山には予め百日の潔斎を修めねばならなかったのを七十五日に短縮した。美濃、尾張に信徒をひろめ毎年登山した。
      10月2日   贄川に大火災があった。
1783年 天明3年     京都から中山道を通って江戸へ戻った白川藩主松平定信が木曾がよく治まっていることを将軍に伝えた。将軍家治(いえはる)はたいへん喜びお褒めの言葉を蘇門に伝えるようにと尾張藩の家老を通して、江戸へ出ていた良喬(たかてる)に命じた。
1785年   天明5年     覚明は無許可のまま多くの信者を連れて御岳登山を強行した。これに対し王滝・黒沢両村の役人や福島の山村代官所では、覚明の運動に弾圧を加えた。しかし覚明は屈せず初志をつらぬこうとして多くの信者を連れて登拝を続けるとともに登山道の改修に当った。最初は役人の目を恐れて非協力的であった黒沢村の村人たちの中にもその情熱にうたれて協力するものがあらわれた。
          蘇門「王滝紀行」を書く。細井平洲が蘇門の文を称えた序を書く。
1785年ころ   天明のころ     青木友綿が西野村にはじめて水田を開いた。
1786年   天明6年     覚明が御岳山頂の二の池のほとりで病死。里人はこれをあつく弔い、九合目に葬り、覚明大菩薩とあがめ子祠を建てた。遺志をついだ信者たちが登山道改修工事を完成させた。
      12月   蘇門が四十六歳の時父良啓(たかひら)が七十六歳で亡くなる。
1787年   天明7年 4月   細井平洲は江戸から故郷の知多郡平島村へ帰る途中福島の蘇門の屋敷へ立ち寄り心のこもった手厚いもてなしを受けた。尾張へ帰った平洲はお礼の手紙を届け今も福島の代官屋敷に展示してある。このとき九州久留米藩の重臣だった樺島石梁もいっしょに木曾に来た。
             蘇門は御用達役(必要な品物を整える役)川崎八郎右衛門、勘定役石作貞一郎(駒石)、医師馬嶋松淳(ましましょうじゅん)、お付の青年と少年、身の回りの世話役などといっしょに木曽谷を全部見まわった。
            村ごとに妻を亡くした男の人や夫を亡くした女の人、一人さびしく暮らす人をはじめ貧しい人たちを一人残らず調べながら、貧しさや暮らしのようすによってお金を与えた。、病人の手当てをしたり、山村だけでは間に合わないことは、救いや病気の手当てなどすぐに尾張藩にお願いするようにした。
          木曽の人たちは蘇門を「木曾の旦那さま」と呼んで神様のように敬った。蘇門は宿場で働く人たちにも気を配ったり、罪人の刑を軽くした。
           天明の飢饉のときの話
江戸幕府の老中となった松平定信が、上洛の帰途木曽路を通った。諸国が凶作で苦しんでいるとき、自国の領国白河藩の惨状を見ている松平定信は、田や畑の少ない山国の木曽が、たいへんよく治まり、一人の餓死者も出ていないことを目で確かめ驚いた。その上木曽の人たちが「木曽の旦那さま」といって蘇門を神様のように敬っていることを知った。
          こうしたすぐれた政治ができる蘇門を江戸幕府の老中にと考えた定信は尾張藩にそのことを伝えると、尾張藩ではそのように立派な人は、尾張藩のために働いてもらいたいといって申し出を断り、尾張藩の家老に迎えたと伝えられている。
      12月   尾張藩から呼び出しを受けた蘇門と良喬(たかてる)父子は名古屋へ出た。
          尾張の殿様から蘇門は隠居して良喬(たかてる)が家を継ぐこと、蘇門を尾張藩の家老とすることを申し渡された。
          蘇門は新しく三千石のの知行を与えられ尾張藩の家老として名古屋で勤めた。
          それから三年後蘇門は江戸にある尾張藩の屋敷で勤めることになり江戸の市谷に屋敷を与えられた。このとき別に八十五人扶持(八十五人分の給料)が与えられた。
1788年   天明8年     九代山村良由(たかよし)は尾張藩家老に抜擢され名古屋あるいは江戸に住み九年間勤め大いに治績を上げた。山村良由(たかよし)は蘇門と号し著書に「清音樓集」五巻、「清音樓遺稿」二巻、「忘形集」一巻などがある。
              清音楼というのは蘇門の書斎の名前である。清音楼は今の福島の教育会館の辺りにあったといわれている。蘇門が自分の書斎である清音楼を歌った詩がある。
清音楼歌
城山之南ト閑居
紫芝白雲塵自疎
日對不厭窓前竹
日難不厭窓下書
君不見風塵今古使人苦
千慮萬慮掃不除
此中兀座心自適
何可一日無此廬
城山の南にのどかな住まいを建てた
芝が生え白い雲が流れてきて塵も無い
毎日窓の前にあるいい竹を見るし
毎日窓際にある本を読んで飽きることもない
世の中の出来事が今も昔もどんなに人の心を悩ますことか
それは考え考えて払っても払っても払い除けない
こんな世の中だが此の楼に静かに座っていると満足する
此処こそ一日も無くてはならないわたしの住まいだ
          蘇門の先生の江村北海がなくなる。先生のお墓に彫りつける文を書いたのは蘇門であった。
1789年 己酉 寛政元年 1月25日    
        山村蘇門の母なをが六十八歳で亡くなる。蘇門が四十八歳であった、。
1790年   寛政2年     原野村下町35戸焼失
          蘇門は尾張藩の家老として江戸に屋敷をいただいた。この屋敷が細井平洲の屋敷と隣り合っていた。
1791年   寛政3年 6月   福島・岩号・三尾・黒沢・西野・末皮・黒川・上田・原の・翁滝の十ヶ村の村役人が連署して重潔斎登山軽精進(七十五日潔斎)に改め、登山の便をはかってもらいたいと御嶽神主武居家へ願い出た。
      11月17日   野尻に大火があり 七十戸焼失
1792年   寛政4年 正月   武居若狭は寺社奉行に懇請して登山する時は武居家を経由することを条件に、代官所の裁許を経て正式に軽精進登山を許可した。これより年々登山者が多くなった。しかし七合目以上の女性の登排は厳禁されていた。
          武蔵国秩父郡大竜村の好八という人、剣法をよくしたが、仏教に帰依し、近くの三峰山の日照師に台密二教を受けて奥義をきわめ名を普寛といった。各地を遍歴しよく人のために病厄を除祓し、この年王滝村に入り、率先して王滝口登山道の大改修を行った。
1793年 癸丑 寛政5年     九代良由(たかよし)は尾張藩家老に抜擢され従五位下伊勢の守に任ぜられた。『木曾孝』は未曾有の名誉と述べている。
          このころ木曽を出て江戸へ向かうときつくった詩がある
行行山路入雲長     行き行きて山路雲に入りて長し
更捲轎簾應接忙  更に轎簾(きょうれん)を捲き應接忙なり
垂柳隔崖鶯弄影     垂柳崖を隔て鶯影を弄し
落花浮水雪飛香     落花水に浮かび雪香を飛ばす
節遅夏景如春景     節遅くして夏景春景の如し
路熟他郷似故郷     路は熟して他郷故郷に似たり
到處主人争勧酒     到る處主人争って酒を勧む
思家何用涙沾裳 家を思い何ぞ用いん涙裳を沾(うるお)すを
山路は雲の中に入って長い
籠の簾を巻き上げると風景がめまぐるしく開けてくる。
崖を隔てて垂れ下がっている柳の向こうには鶯が動いているし、
落花が水に浮いて雪のような感じだ
季節が遅れていて夏の景色が春の景色のようだ
道はすっかり慣れていて他の村なのに故郷のような懐かしさ
行く先々の宿の主人は酒を勧めてもてなしてくれるから
家を思って涙ですそを濡らすようなことはない
          江戸時代中期の儒者であり歴史家、人類学者、地理学者、漢詩の第一人者であった新井白石は代表的論文「読史余論」の中で義仲は「平家物語」以来の無礼で田舎者で横暴な人物であったというのは誤りで頼朝の策略の犠牲者として葬られ悪者とされたとしている。義仲の義に厚くことの道理をわきまえた行動を史実から捉えその行動の根本は平家の横暴を諌めることにあってその目的に対し明らかなる功績を挙げたとしている。
一方頼朝のほうは自らが頂点に行き着くために自分よりぬきんでた義仲に策略を持って悪者というレッテルを貼った上で失脚させ葬ってしまった。義仲は頼朝の犠牲となってしまったために後世まで悪者扱いされている。と考察している。義仲が田舎者であることと礼儀知らずであることは義仲の功績を覆い隠すことであるはずが無い。単に言葉や習慣が違ったというに過ぎないとしている。法住寺殿の焼き討ちにしても義仲の意見を聞かずに「義仲を討つべし」と讒言した鼓判官を憎み法皇を信じようとするがゆえに佞臣を排斥しようとして、鼓判官を討つために彼が逃げ込んだ法住寺殿を攻めたのであるとしている。義仲は自らの政治的地位を望んだのではなく国政までも我が物とする平家を追い出し皇室の親政を実現して彼なりに良い日本にしようと奮闘したと一貫して白石は義仲を擁護したのである。
          永昌寺修築
1796年   寛政8年     木曾の人口は、三万二千九百四十五人であり、八十五年前の享保六年の調査より七十五人減少している。
      9月5日   細井平洲が三回目の米沢訪問をしたとき普門院で上杉鷹山が師の細井平洲を迎えた。このとき前の日から板谷峠まで師を迎えに出ていたのが神保蘭室であった。
1797年   寛政9年 正月14日   石作駒石五十七歳で亡くなる
このとき蘇門は江戸の屋敷で尾張藩の家老として活躍していたが学問や詩の友であり、山村の財政を立て直したり木曽の人たちを飢饉から守るなど蘇門と心を一つにして苦労をした駒石の死を悲しみ詩を詠んだ。
哭石作士幹     石作士幹を泣く
離居路遠久傷神
何謂忽為泉下人
天地縦能留麗藻
廟堂堪惜失名臣
烟霞色惨梅園夕
猿鶴聲悲水閣春
海内回頭知己少
暮年岑寂奈斯身
遠く離れていて長いこと心にかかっていたが
どういうことだこんなに早く死んでしまうなんて
この天地の中に君のすてきな詩は残すことができても
木曽の政治の場から名臣を失ったことは堪えられない
梅の咲く庭に夕もやがさびしくかかっている
猿や鶴の声が水辺の春の高楼に悲しく響く
国の中を見渡すが心の友は少なくなった
年老いて寂しさがつのるこの身はどうなるだろうか
1798年   寛政10年     山村良由(たかよし)は十年余り尾州の善政に寄与し、この年病のため再隠居を申し出て家老の仕事をやめた。藩では尾張藩主初め多くの家臣がそれを惜しんで引きとめたが、蘇門は「人が引きとめてくれる今こそ私が辞めるときだ」と言って五十七歳で申し出を断った。
          蘇門は墨田の別邸へ移った。
          尾張藩主は仕方なくこれを許し、蘇門に隠居のため五十人扶持をあたえた。また、蘇門が芝の江戸屋敷に住めるようにした。江戸に住むようになってからの蘇門は学者たちとの交流をいっそう深めたがその多くは細井平洲の嚶鳴(おうめい)館の門人たちであった。
          良由(たかよし)は福島の今の教育会館付近に清音楼仙鶴亭を造って学問所とし、沢田静菴、渡辺方壺、大脇士賢、秋元玉芝、武居教斉を師とし、子弟に講述の所とし、また兵学武芸を奨励した。良由は蘇門と号し、清音楼詩文集,忘形集その他を著した。良由はまた、江戸より、狩野派の画家池井祐川を招いて子弟に学ばせた。
          今福島関所に大きな福島関所と書いた石の碑が建っているが碑の裏側に蘇門の詩が彫られている。
   山良由(山村良由(たかよし)のこと)
美矣山河固        美しきかな山河の固め
関門傍水濱        関門は水濱(すいひん)に傍(そ)う
只今何用閉        只今何ぞ閉ざすを用いん
来往太平人        来往する太平の人
なんとりっぱで美しい山や川の備えだ
関所の門は川のそばに立っている
けれども今関所を守るために門を閉める必要もない。
関所を通って行き来する人はみんな平和な世の中の人だもの
1799年 寛政11年     御嶽登山者のことにつき黒沢、王滝両村の間に紛争があり、黒沢王滝の両神主を京都神祇官長上、吉田家に招いて調定したが整わなくていてこの年に至って妥結した。
王滝より登るものは黒沢に下山し、案内料は黒沢に交付すること、王滝では御嶽の号を用いぬこと、同守札を出さぬこと、初穂を配布しないこととなった。
1800年 庚申 寛政12年     江戸芝の山村邸宅が焼失
          宮越下町九十二戸が焼失
1801年 辛酉 享和元年      木曾の同好の士が、木曾に関する芭蕉の句をたどって建てた。
    送られつ送りつ果ては木曾の秋    馬籠
    ひるがおに昼寝せるもの床の山    寝覚
    思い出す木曾や四月の桜がり     新開荒町
    ひばりより上にやすろう峠かな     鳥居峠 
          蘇門は木曽へ連れ帰った四歳の娘お菊をなくす。その後妻の嘉彌子(かやこ)を亡くす。
      6月    細井平洲亡くなる。平州の門人たちが平州の故郷である尾張の国知多郡平島村に「細井平洲先生旧里碑」を建てたがその「細井平洲先生旧里碑」と書かれた題字は蘇門が筆をとったものである。
1804年 甲子 文化元年     有栖川宮王女楽宮(ささのみや)が徳川家慶将軍にお嫁入りのため木曾を通過し、多数の助郷や人馬が徴発された。
 1805年     文化2年        秋里蘺島「木曽路名所図会」
著者の秋里蘺島は1780年に「都名所図会」を出版して話題となりその後「○○名所図会」が各地で出版された。「木曽路名所図会」は信濃を舞台にした最初の名所図会で絵は京都の絵師・西村中和が担当している。
1808年   文化5年     蘇門の妻喜彌子(かやこ)が福島で亡くなる。六十八歳であった。
1809年   文化6年 3月3日    宮の越下町より出火。強風のため中町まで焼け毀した家数は七十八軒に及んだ。(木曾宮越宿消失家数之覚)
1811年   文化8年     上松の東野の阿弥陀寺改修の際、池井祐川がその格天井に花鳥百八枚を描いた。
       8月    福島関所に忍び返しが取りつけられた。
1813年   文化10年     義仲を敬った蘇門は義仲の一生と功績を長い漢文にして詠み蘇門が七十歳の時良煕(たかひろ)が碑を建てた。今日義の旗挙八幡宮の境内に建っている木曽宣公旧里の碑がそれである。
          筑前(福岡県の北西部)秋月藩の学者原古處が福島を訪れ今も代官屋敷に残っている「清音楼」の額の字を書いている。
1815年   文化12年     山村家は黒川の古畑惣右エ門をして福島の向城用水溝を造らせ、黒川の水を引いた。延長廿六丁(約二,八粁)におよんだ。
      3月3日   江戸赤羽の清音亭で蘇門が曲水の詩会を開く
多くの才能があった蘇門は笙竹で作った管楽器や書や絵などにも優れていて代官屋敷には蘇門の書いた絵も展示されている。
水無神社には蘇門が納めた立派な絵馬が今も掲げられている。
1816年   文化13年 2月28日   山村良喬は隠居し、常州矢田部城主細川玄蕃頭の四男良熙(たかひろ)を迎えて養子とし、良由の女を室として家督を相続させた。
      3月3日    山村蘇門、在府の著名な儒者・文人を江戸芝の屋敷に招いて詩会を催し、その時の作品を版におこした「暢情集」をあらわす。
題字と序文を昌平校の古賀精里
あと書きは水戸の立原翠軒が書いている。
古賀穀堂など十八人の在府の学者とこれに一族五人と家臣八人が加わっているが
筑後、合津、紀州、水戸等の藩儒たちが名を連ねており当代の一流の人たちの詩文集である。
また福島の屋敷にも多くの中央の学者文人を招いて詩会を催しており尾張の藩学明倫館の細井平州もたびたび福島を訪れている。
        6月   悪性天然痘が流行し、黒沢三尾に死亡者が出た。
          福島の今の教育会館附近に学問所を設け、山村家家中のものおよび有志の入学を許した。これがのちの菁莪館であり、文忠学校の前身となった。
1817年     3月22日   第120代仁孝(にんこう)天皇
1818年 戊寅 文政元年 4月22日    黒沢口登山で王滝へ下ることも認められた。
1820年   文化3年     蘇門が渡邊方壺(わたなべほうこ)らと學文所をつくる。學文所は後に整えられて菁莪館(せいがかん)となる。
           福島関所の東門南側は古来山麓まであった柵をこの年に九十六間延長して根の井山の絶頂までのばした。
根の井山の森林は最も注意して保護を加えられその伐採は厳禁されたのみならず枯枝すらも採取することを禁じられていた。
1822年   文政5年     南木曽蘭の檜笠に立ち木伐採停止で一時もみ材を代用していたがこの年檜の使用が許された。
          福島の代官屋敷で版に彫られた「唱和集」が完成した。
一度もあって話したこともない蘇門と蘭室、二人に親しい石梁が木曽福島、米沢、九州という遠い土地に住みながらお互いが尊敬し信頼し技を楽しみ競い合って珍しい詩集ができた。
      10月1日   80日被くとそ門は病気がちとなり木曽を離れて暖かな江戸で過ごすことが多くなったが病気がちの蘇門が突然木曽へ帰ると言い出した。家臣たちの止めるのもきかず蘇門は江戸の屋敷を出た。
      10月11日   蘇門福島の屋敷に着く
1823年    文政6年 正月   蘇門は仙人のようになって木曽の山に降り立ちここで正月を迎えようとは幸い神通力を持った仙人の持つような薬が手に入って八十二歳の正月を迎えようとしているという意味の詩を作った。
      正月2日    蘇門急に苦しみだした
          蘇門最後の詩を作る
  正月16日    山村良由(たかよし)(蘇門)は八十二歳で病没した。
甥の良喬が家督を継いだが良喬は風兆または白鶴桜隠人と号し俳諧を好んだ。
鳥居峠の頂に次の三句を刻んだ碑を建てた。
   雲ならば動きもせふに山桜      道元居
   染上し山を見よとか二度の月     以雪庵
   雪白し夜はほのぼのとあけの山   雪香園
          黒沢、三尾、宮越、原野等大飢饉で黒沢に餓死するものがあった。
1824年   文政7年 7月17日    野尻に火災があり四十戸焼失
1825年   文政8年     山村良恭の子十代山村良喬(俳名風兆または白鶴楼陰人)「水月集」を編す。山村蘇門も俳名を嵐樹と号して俳諧をたしなんだがその後をついだ十代良喬は特に俳諧を好みはじめ里有と号したが後に美濃以哉派八世の風爐坊に師事し、白鶴楼隠人と称し風兆と号を改めた。
          木曾谷中飢饉等災厄が続いた。
 1826年    文政9年      信濃国が「十二郡」と記された近世史料 神名帳(上町)飯田市上村(個人蔵)
           筑摩県権令永山盛輝が生れた。旧薩摩藩士。
1827年   文政10年     良熙没し、良喬の庶子良祺(たかのり)が相続した。室は良熙の女。
良祺は学を好み、江戸に学び学問所を拡張して菁莪館と改めて文武を講習し、木曾谷三十二ヶ村に寺子屋を作らせて学問を奨めた。家臣に名士が輩出した。
1829年   文政12年      十代山村良喬(たかてる)は也有などの影響を受け俳諧を好み俳名を理有と号した。後に美濃以哉派八世の風盧坊に師事し白鶴莪陰人と称し風兆と号を改めた。木曾谷の俳諧の興隆に力をいれ、「棧塚」の造立に力をかす。
          俳諧を好んだ山村良喬は鳥居峠の頂に次の三句を刻んだ碑を建てた。
   雲ならば動きもせふに山桜    道元居
   染上げし山を見よとか二度の月  以雪菴
   雪白し夜はほのぼのとあけの山  雪香園
1830年 庚寅 天保元年 12月10日    
1830年ころから         天保のころから、富裕町人が牝の親馬を購入して、自己資本で馬を買えない貧農に貸付、貸し付けられた農家を「厩元」貸し付けた町人を「馬持ち」と呼び、その馬が子馬を産むとそれを売り、代金を四分六(六分が馬持ち)に分けるいわゆる馬小作制度が盛んになってきた。
1830年

1844年
  天保年間     天保年間に書かれた江戸時代の権威ある地理風俗書として有名な「信濃奇勝録」に唯一の民謡記事として木曽踊りのことが取り上げられ説明されている。しかしここに書かれた木曽踊りというのは当時木曾谷一帯の村々で歌い踊られていた、各種とりどりの民謡を総称していたもので「おやま・君がた・えじま・八幡・はねそ・五尺手拭・三拍子・白すげ・髭・池田・やむろ・きそきそ・横手・あまくさ」の14種が出てくる。
1831年   天保2年     奈良井浄竜寺焼失
1832年   天保3年     天然痘が流行し山口、田立で五十三人死亡。
 1834年    天保5年         信濃国1615村
     天保5,6年ころ     江戸の保栄堂は、英泉に風景画「木曾海道」を依頼し、のち広重の参加を求めて交互執筆により数年を経て完結した。
1836年   天保7年     木曾谷中飢饉
1838年   天保9年     山口村に天然痘が流行し二十人が死亡した。
1841年   天保12年     宮田敏が「岨俗一隅」に藪原宿の年中行事を書き誌るす。
          尾州家で荻原黒沢二ヶ村に薬園を設けさせた。
1842年   天保13年 4月   尾州家で荻原黒沢二ヶ村に薬用人参を栽培させた。
1842年   天保13年     十代山村良喬は鳥居峠の「栃塚」の造立に力をかす。
      5月17日   木曾川洪水
          宮ノ越中町八十戸焼失
1843年    天保14年       火災で焼失した東漸寺の本堂を再建
          木曾谷中に天然痘が流行した。
          福島宿の長さは三町五十五間で、戸数は百五十八軒。人口は九百七十二人。
    天保14年ころ      「宮越宿職業別戸数表」によると百九戸の内旅籠・茶屋が三十三戸で最も多くこれについで大工・木挽が兼業を加えて二十九戸で全戸数の三割五分に近い。
1844年 甲辰 弘化元年 3月   木曽義昌の末裔木曽義長(芦原検校)が東漸寺を訪れ二百五十回忌の法要を営んだ。 このとき義長と親交のあった大名や公家が追悼の和歌を寄せた。
      5月17日   与川村の山崩れがあり尾州藩の山人夫三百余人が死亡した。
           山村家のお家騒動
山村家の家老磯野六左エ門、石作定五郎は名古屋留守居役白井五左エ門と謀って知多郡の海岸を開墾して失敗し、公金二万両を消費して免職となった。磯野等は山村家支配頭大脇正蔵の図らいによって免職になったものとしてこれをうらんだ。
天保の飢饉により宮越以北四宿のものが、出府途上の尾州家老成瀬隼人正に松井田の宿で直訴した
江戸に出て山村家の非政卅二ヶ条(この内に、味噌川奥の信の沢の水を、横取りの水路を作ってひそかに東筑に売ろうとしたこともあったらしい)を訴えたが大事には至らなかった。
          山村家の重役および上四宿の役員は尾州に召喚されて厳しい取調となった。
       12月   山村良祺は隠居、家老以下十二人は追放、(のちになって、姓を改め、また格下げで再採用された。)上四宿総代廿八名は役筋を取り上げられた。
          山村良祺は上記のように隠居を命ぜられ、白翁と号し、木曾名跡誌、木曾考読貂、樵唱集の書がある。遺文集を聴雨山房集という。
          良祺隠居につきその子良醇(たかあつ)が跡目相続をした。妻は久留島伊予の守通嘉の女であった。
          小木曽村の庄屋である永瀬仁左エ門は農民とはかり味噌川の水を引いて諸木原に水田を開いた。
1845年   弘化2年 8月13日   福島上ノ段に火災があり残らず焼失した。
1846年   弘化3年  2月13日   第121代孝明天皇
       4月8日   西野村小西で廿二戸が焼失した。
1847年   弘化4年     木曽義昌二百五十回忌の追悼和歌集「慕香和歌集」編まれる。
      3月24日   善光寺大地震
      12月5日   奈良井に大火があった。
1848年 戊申 嘉永元年 6月3日   木曾川の大洪水があった。 
1849年   嘉永2年 6月   御嶽登山客の獲得をめぐり古くから黒沢と王滝の間に紛議が多かったが、王滝で登山者に御嶽座主権現の守札を出し、また浄衣と金剛杖を与えたことがもとで、黒沢から講義が出て再びもめた。
          尾藩はひのき等五木の外、けやきの伐採を禁止し六木禁止となった。
1850年   嘉永3年 2月19日   福島長福寺焼失
          薮原仲町と下町百余戸が焼失
1851年   嘉永4年 12月10日   贄川に大火
1852年 壬子 嘉永5年     義利の子孫木曾秀太郎義寛亡くなる。法名皎月院殿秋山日秀
             京都の国学者野野口隆正東漸寺を訪れ義昌をしのんで詠む
 信濃よりいづる旭をしたひ来て東のくにに跡とどめけむ
旭将軍の旭を昇る朝日とかけて詠んだのが旭市の名の由来につながったという。
1853年   嘉永6年     木曾谷人口は三万四千六百五十七人となっており、寛政八年の調査より約五パーセントの増加となった。
1854年   嘉永7年     木曽馬の総駒数は七百九十一匹との記録がある。
1854年 甲寅 安政元年 6月20日   山抜けのため長野で二戸流失した。
      7月7日   木曾川洪水で福島大手橋が流失し、清水町の川手筋二戸流失、また八沢川筋の田畑流失の被害が多かった。
1855年   安政2年 11月    木曽町福島の西方寺上之段へ移転。この地は石作駒石の居宅跡であり、庫裏の座敷は駒石の書斎であった翠山楼を移したものである。
1857年 丁巳 安政4年 5月18日    福島の八沢川がはんらんし、八沢橋が落ち、川原町五戸が流失した。
      11月5日   義利の子孫芦原検校義長亡くなる。法名一心院殿。17歳にして盲目となる。(木曾旧記録は7歳)
1858年   安政5年 3月17日   三留野宿場で加賀藩の嗣子の行列の前駆に、紀州藩士が衝突したことが問題となり、三留野問屋仁科亮左エ門が江戸の道中奉行まで出掛けて指示を仰ぎ、加賀藩に謝罪してようやく許された。
1859年   安政6年     馬籠で卅五戸焼失
1860年 庚申 万延元年     木曽の人口は三五六一七人となる。当時の信濃の人口約七十万人からみると約五パーセントに当る。
          西野の庄屋青木友宜尾州藩より資金を借り水田廿余町歩を開墾した。
      3月   幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された。
          老中安藤信正が中心となり、困難な時局を乗り切るためには幕府は、反幕府勢力結合の中心である京都の朝廷と妥結し、挙国一致の体制を作るより道はないとし、将軍徳川家茂の室に孝明天皇の妹、和宮の降嫁に成功した。
      7月   王滝の上条で十三戸焼失
      10月19日   馬籠で十六戸焼失
          薮原の四ツ谷見山十余戸焼失し極楽寺も災にかかった。
1861年 辛酉 文久元年 4月8日   王滝の三沢で十八戸焼失
      8月   道路橋梁の修繕が始まり、尾州藩は美濃の人夫を木曾まで入れてあたらしめた。
      11月   和宮の降嫁の行列が、東海道に比べ警固に安全な木曾街道を通って江戸に下ることになった。中津川泊まりの上、三留野、上松、薮原、本山泊まりの順序であった。和宮降嫁の行列は、京都方一万人、江戸方一万五千人計二万五千人の大行列であり、徴発された人夫は助郷の分を合せ二万七千人、駄馬七百七十頭が使役されており、通行は前後四日間にわたり、群衆が雑踏して死傷者が出たといわれている。
1862年   文久2年     天然痘の流行。
赤痢が流行し奈川で卅一人と野尻で十二名死亡した。
          馬籠に火災があり十七戸焼失
      11月11日   福島の向城堅門前より出火し百五戸焼失
1864年 甲子 元治元年 2月22日    奈良井の平沢大火
      3月11日   宮越上町八十余戸焼失
      5月15日   上松の臨川寺焼失
       11月17日    水戸浪士の通行
筑波山に兵を挙げた水戸藩士武田耕雲斉の一行数百人が中山道を経て信州に入り京都に上ることになった。
      11月20日   水戸浪士和田峠で松本、高遠両藩の兵を破って下諏訪に進出した。
      11月21日   山村良貴はあらかじめ一行が木曾街道を通過するかも知れぬとの知らせにより、山村喜左エ門以下百余人を率いて贄川に出陣し、贄川の千村家に本陣、桜沢に先陣をおき桜沢のとりでを固めて待機した。
          山村良貴らは水戸浪士が伊那路に向かったとの情報に引き返した。
      11月23日   水戸浪士が伊那より妻籠に出るとの情報に再び家老白州新五左エ門を陣代として妻籠に出兵せしめたがことなきを得てほっとした。
      11月25日   水戸浪士福島の関への道を避けて飯田へと迂回し伊那を経て清内路道を通って木曾橋場に入った。
      11月26日   水戸浪士馬籠に泊って美濃路に出た。
1865年 乙丑 慶応元年
5月17日
  木曾川大洪水で福島上下町の裏通りが大破し三留野で四戸流失十数戸に浸水があった。 
1866年   慶応2年     「寅年の大凶作」がおこって米価が高騰した。木曽騒動おこる。
      8月17日   贄川、奈良川、薮原、奈川の人々、松本藩内の百姓一揆に呼応してこれと徒党を組み、松本領内に乱入して米倉庫に放火乱暴を働き、松本藩の兵に掃討されて逃げ帰った。
松本藩では主犯者十数名を斬罪に処している。
          この年に江戸と大坂に「打ちこわし運動」が起きる。
1867年   慶応3年  1月9日   第122代明治天皇
      2月   江戸にあった諸大名の奥方が帰国となり、その行列通過のため福島関所をはじめ各宿場の人馬継ぎ立てに繁忙を極めた。
      3月8日   福島上の段で百戸焼失した。
      7月   幕府より関所で女、鉄砲、首、屍体、乱心者、手負い等の検査を廃するよう通知があった。
      8月   御神札が中空から降るという奇蹟があり、不吉の前兆とするものあり、また幸福の前ぶれとして赤飯を炊いて祝うものあり、いろいろの風評が谷中におきた。
      10月14日   徳川慶喜は国論の動向を判断し、政権を朝廷に返還することを奏請した。
      10月15日   朝廷はこれを許可した。これによって慶長八年徳川家康が征夷大将軍に任ぜられてから二百六十五年で徳川幕府政権は滅び、源頼朝が鎌倉幕府を創立して以来六百七十余年にわたった武家の封建政治が崩壊するに至った。
1868年    慶応4年  正月   関東以奥の諸藩は徳川家に対する恩誼と、薩長藩に対する反感とによって幕府復興論が再燃した。
          京都の朝廷は有栖川宮熾仁親王を征東大総督に任じ、東海、東山、北陸の三軍を編成して江戸に向かって進発した。
           朝廷は途中宿駅の糧食宿泊、軍需品運搬および警衞を沿道の各藩に命じた。三留野以南は高遠藩、野尻以北は松本、上田両藩の分担であった。
          東山道軍は総督岩倉具実、副総督は岩倉具経、参謀板垣正形、副参謀伊地治正治であった。
薩州軍四百七十二人、大垣軍千八百二十七人が先鋒として進み、
第二軍は因州軍八百人、土州軍八百八十六人と長州軍参百余人と本陣二百人が中軍となり、
彦根軍七百五十余人と高須軍百人が後軍となった。
  戊辰 明治元年 正月25日   にせ勅使事件
甲州の小沢雅楽之助という人が公家高村実村を立てて、隊長となり、二百余名を引きつれ官軍と称して木曾に入り、清内路を越えて伊那に抜けた。小沢は甲府で捕らえられた。
      2月   相良総三という人が、京都の綾小路、滋の井の両公家を立てて「官軍赤報隊」なるものを組織して木曾に入り、妻籠より伊那に抜けた。相良は下諏訪で捕らえられ斬罪に処せられた。高村、綾小路、滋の井等の公家は欺かれたことを知り京都に逃げ帰った。
      2月23日   薩州軍四百七十二人、大垣軍千八百二十七人の先鋒はすでに木曾に入った。
      2月25日   因州軍八百人、土州軍八百八十六人と長州軍参百余人と本陣二百人の中軍が中津川に着いた。
山村良醇は総督を迎え、勤王に尽力すべき旨を申し上げて、軍馬を献上した。
      2月27日   総督の一行は三留野泊まり。一宿の継立て人夫は四千二百余人、馬六十匹余りであった。
      2月28日   上松泊まり。山村氏は再び上松宿でお迎えの上、四歳の青毛駒一頭を献上した。
        2月29日    薮原泊まり
      4月18日   東北方面の佐幕派反乱軍の一部が越後方面より信州に侵入する気配があった。名古屋藩より山村家に対し出兵の命令があり、向井五左エ門に農兵二百人を率いさせ山村家中五,六十人の武士とともに進発せしめた。
     慶応4年  閏4月21日    政体書発布
政体書に基づいて府藩県三治制が施行される。
           新政府は戊辰戦争の過程で幕府直轄領の接収を進め平定した旧幕領を治めるため大阪・兵庫・京都・大津・長崎・横浜・佐渡・笠松・三河など全国に12の市政裁判所を設け従来の遠国奉行所や代官所の機能を引き継いで当座の行政の空白を埋めていた。府藩県三治制が施行されるとこれらの市政裁判所は廃止され新たに設置された府や県(いわゆる直轄県)に行政機能が移された。
           旧旗本領や寺社領などは府・県に順次編入されていった。
大名領に関しては旧来の藩組織が温存され藩主(大名)は政府から統治を命ぜられた知藩事として位置づけられたものの主従制に基づく藩士たちへの影響力や領地・領民への支配力などは依然として残されていた。
      5月   名古屋藩の遠山彦四郎という藩士が奥州征伐に出陣することになり、木曾谷中、有志の従軍が許された。山口村牧野弥平太、田立村林茂雄、馬籠村宮口茂穂、妻籠村矢崎浪穂、三留野村園原隅穂、上松村徳原一学、塚本治郎右エ門、宮の越村千村重記、斉藤正好等が従軍した。
      5,6月   木曾谷に豪雨があり、黒沢、薮原に大きな被害があった。
       6月   、向井五左エ門が率いる兵は飯山まで行って警備に当ったが鎮定したので六月に帰った。
          この奥州征伐に参加した、長州、芸州、尾州等諸藩の兵隊三千六百十四人の帰りの輸送手伝いが木曾の負担であり、伊那や東筑の助郷も加わり人夫一万九千二百六十三人、馬二百七十三頭が狩り出されて使役された。
      9月   名古屋藩の遠山彦四郎という藩士とともに奥州征伐に出陣した有志は九月凱旋の後それぞれ恩賞をうけた。
      11月末   須原に大火があり、八十戸焼失
妻籠の下町卅戸も焼失
       12月   尾張藩主徳川義宣は朝命により槍士隊を派遣して、福島関所を山村家から引き渡させた。 山村家では、備え付けの武器、器具一切も槍士隊に引渡した。
          西筑摩郡全部が名古屋藩
 1869年     明治2年  正月    薩摩・長州など四藩が領地(版図)と領民(戸籍)を天皇へ返上する版籍奉還を建白。
その後は他の諸藩もこれにならい藩は天皇を頂点とする新政府の行政機関の一つとして位置づけられた。
     1月    新政府が福島関所の廃止を布告
  正月22日   名古屋藩は木曽総管所を福島に置いて、興禅寺を仮事務所とし、後側用人吉田猿松を長官とし山村良醇を立会いとして、山村家から木曾支配権を取り上げる。
       2月    この月まで福島関所がおかれていた。関所廃止後敷地には民家が建てられた。
      5月   名古屋藩は山村家の立会いを廃して吉田一人の専官とした。
      6月17日   名古屋藩主徳川義宣は版籍を奉還し、改めて名古屋藩知事に任ぜられ、木曽はその治下にあった。
           木曽人は木曽山が再び住民の山に戻ることを願い行動した。馬籠本陣家の国学者である島崎正樹の嘆願書提出がその端緒である。
           明治政府は官制を二官六省(太政官・神祇官・民部省・大蔵省・兵部省・宮内省・刑部省・外務省)に改めて設置した。
       7月    「御林」などと呼ばれた旧幕府・諸藩の直轄林は明治2年の版籍奉還を受けて政府が管轄する「官林」として再編された。
1870年   明治3年 閏7月    木曽総管所は名古屋藩福島出張所と改称し、土屋惣三重義がその所長となった。
           中世末期から広く庶民の間に法令を徹底させるために村の目立つところに立てられ江戸時代とくに盛んだった高札場はその存在価値を失い廃止された。
           永山盛輝は伊那県少参事となった。
1871年    明治4年 6月    廃藩置県の令により名古屋藩は名古屋県となり木曽はその所管となった。
高島・松本・飯田・高遠・名古屋・松代・飯山・小諸・上田・岩村田・須坂・椎谷の十二県となる
           永山盛輝は筑摩県大参事となった。
       7月    政府は廃藩置県を断行して旧大名であった知藩事を失職させて東京移住を命じ新たに置かれた県には中央政府の役人である県令を派遣して統治させる仕組みを整えた。
廃藩置県の当初は藩をそのまま県に置き換えたためその数は三府三〇二県に及び飛び地も非常に多かった。
           新政府の行政組織の改変により官林を所管する役所は当初の民部省から大蔵省勧農寮へ移った。
       8月    名古屋県は愛知県となった。木曽は一時伊那県の所属となった。
       10月~11月    政府は各府県を一円的な領域に改めるため三府七二県までに県の統廃合を進めた。
      11月   府県再編成により木曽は筑摩、安曇、諏訪、伊那および飛騨の国一円と共に筑摩県となりその県庁は松本に置かれた。福島にその出先機関として取締所が置かれ木曽一帯を統治した。
信濃国の松本・飯田・高遠・高島・伊那の五県及び名古屋県の信濃国部分(木曽地域)と飛騨の国の高山県を統合して筑摩県が設置された。
筑摩・長野の両県となる。
           明治維新後の行政組織の改変は旧来の地域的な共通性を分断し、一円的・均質的な行政区画を生み出していった。その典型的な例が廃藩置県後の明治4年11月に行われた筑摩県の設置であった。
筑摩県は信濃国内の旧幕僚・旧旗本領などからなる伊那県、旧大名領であった松本・飯田・高遠・高島の各県、それに旧尾張藩である名古屋県のうちの木曽地方、さらには旧飛騨幕領の高山県をも含めて構成された。
           一方美濃国でも直轄領であった笠松県と廃藩置県で出来た今尾・岩村・大垣・加納・郡上・高富・苗木・野村の各県が合併して岐阜県が誕生し旧尾張藩領であった裏木曽三か村も翌5年3月には岐阜県へと編入された。
           南信地方と飛騨国をあわせた筑摩県、美濃一国からなる岐阜県という県域編成は全国それぞれの県の石高をできるだけ均等にするという目的からとられた措置であったといわれる。「岐阜県史 通史編 近代上」の記述によると平均して一県あたり四十四万石程度の規模で県域を構成することを目指したとされる。
           この時の岐阜県(美濃国)の石高は七十三万石で平均の四四万石を大きく上回っていた。
           一方の信濃国では北信地方の長野県が四五万石であった。筑摩県は南信地方と飛騨の国を合わせて三十八万国であったから生活や生産の実態を無視すればこの二つを空間的に一つにまとめてしまうことは石高の均等化の上で好都合だった。
           このとき権令となった元薩摩藩士の永山盛輝は教育権令といわれたほど学校設立に意欲的であった。民間出資による「郷学校」の設立を推進した。
明治政府の官制で四等官の者が県の長官になった場合は「県令」と呼び五等官の者の場合は「権令」と呼んだ。
           1775村 ( 全国82778)
 1872年    明治5年  正月    高山出張所が設置された。筑摩県の支庁の一つで飛騨三郡が所属した。
           筑摩県の行政機関として木曽福島に高島・高遠とともに福島取締所が設置された。
   2月17日   島崎藤村、馬籠宿の旧本陣に父正樹母ぬいの四男三女のの四男として生れる。本名春樹。
       2月    権令となった元薩摩藩士の永山盛輝は「学校創立論告書」を交付した。具体的方策として「学校入費金差出方取計振」を示している。
       8月    新政府は学制を頒布し郷学校、寺子屋をすべて廃止して新たに小学校を設置することになった。
この学制は全国を大・中・小の学区に分け一小区ごとに小学校を創立するというもので筑摩県は初め石川県に本部を置く大三大学区に属した。
           新政府の手によって本陣・問屋が廃止された。
           明治政府は土地制度の改革として田ばた永代売買の禁止を解き土地所有者に対して土地の所在・面積・価格・持ち主などを記載した地券を交付して土地の私有制度の確立を図った。
       10月    須原郵便取扱所が問屋であった西尾家に開所した。木曽ではこのほか奈良井・藪原・福島・上松・妻籠の合わせて6カ所に取扱所が設けられた。
           大区小区制(戸籍編成の単位である大区とこれをいくつかに分けた小区からなる地方制度)が定められた。
           国民皆兵に向けて徴兵の詔書が出された。
1873年   明治6年     御嶽神社里宮の現在の社殿は関東巴講によって造営された。
       2月    筑摩県は愛知県に本部を置く第二大学区に編入された。
木曽は贄川村奈良井村が筑摩県内第二番中学区
奈川村藪原村以南は同第三番中学区であった。
           政府は地券制度をもとに地租改正条例を出して地租は地券を交付された土地所有者が納めることとし近代的租税制度が確立された。
           徴兵令が発布された。
徴兵令が発布されると東京・仙台・名古屋・大坂・広島・熊本に鎮台(軍団)が置かれ筑摩県に属する西筑摩は名古屋鎮台の管轄に入った。
           政府から小学校設立が布達されると県内百数十校の郷学校は小学校へと移行した。筑摩県の初等科教育体制は他県に比べ非常に充実したものとなった。
           永山盛輝は筑摩県権令となった。
           永山盛輝はのち新潟県令・元老院議官・貴族院議員などを歴任男爵に叙せられた。
       10月11日    美濃国恵那郡加子母村の戸長が飛騨国益田郡御厩野村から小坂村までの村々に対して廻章を差し出した。
その内容は 
ア 信州三浦山は官林となり厳重に取り締まりを行うようにとの通達を受けた。
イ 山内取締りは加子母村の正副戸長が担当し万事不都合のないように見回りを行う。
ウ 正副戸長以外は三浦山への入山を禁じもし違反する者がいた場合には容赦なく所管の役所へ上申する旨の請け書を差し出したのでその点を村内へ遺漏なく知らしめてほしいというものであった。
 1874年     明治7年      官林となった後も旧尾張藩時代と同じ方法で山内取締りを行おうとして飛騨側の人々の入山禁止を通達した加子母村の戸長に対し猛然と反発したのが飛騨国の御厩野村であった。
       2月12日   飛騨国の御厩野村の幅戸長の日下部利兵衛は筑摩県権令の永山盛輝へ宛てた願書を差し出した。
これによると三浦山には御厩野村から髭摺峠を通って滝越村へ通じる道筋があり木曽福島の産物を仕入れて自村へと運ぶ重要な通路となっていることや山内では谷筋などで漁撈や鳥猟が行われていて入山禁止となればこれらに差支えが生じることなどを指摘し従来通りの入山を認めてくれるよう願い出ている。
          御厩野村はもともと筑摩県管下である山の取締りを他県の者に委任するのかと疑問を投げかけ信濃の国王滝村の三浦山と飛騨の国の御厩野村が同じ「御本県管下」であることを強調し旧慣に基づいた加子母村からの申し出を不当なものとして退けようとしている。
           これを支持したのが旧高山陣屋の系譜を引く筑摩県高山出張所であった。
       2月13日   高山出張所では松本にある筑摩県本庁へ宛てて進達を行った。
御厩野村の出願内容が示されるとともに三浦山が王滝村に所属しているのは明白であること、加子母村からの解消にも信州三浦山と記されている事などを指摘した上どのようなわけで岐阜県が三浦山の取締りをする事になったのか筑摩県に対してそのような申し入れがあったのかといった点について当方では承知していないと述べ調査を行いたいが岐阜県への配慮もあるので高山出張所から申し出ることはせず信濃国側の福島取締所の方から詮議を申しかけてほしいと依頼した。
           高山出張所からの進達を受け筑摩県本庁が福島取締所に対して調査を命じた。
加子母村が田の山麓村々に対して三浦山への入山を禁じる廻章を出した事は不可解な事態であるとの認識を示した上岐阜県の管轄外である信州の山に対して取締りを行う謂われはないはずで「無根之誤伝」或は「行違」によるものではないかとの見解を示し山林取り調べのために出張している同県の本山盛徳らと協議のうえ詳細を調査するようにと指示した。
           この指示を受けて福島取締所では王滝村の戸長らに対して三浦山が同村の所属であるという根拠について尋問を行うとともに証拠書類の提出を求めた。
           戸町の松原彦右衛門は元禄13年の国境改めの際に作成された証文と絵図の控えを書き写して提出しそこには髭摺峠と呼ばれる場所の峰通りが国境であると記されていることから三浦山は王滝村内の滝越山に属するのは間違いないとした。又加子母村が三浦山の取締りを行う事になった経緯に関しては尾張藩時代に王滝村が三浦山から「手遠」だったため同藩が加子母村の内木彦七を山守として取締りにあたらせたためだと述べている。
       7月14日   福島取締所は王滝村の村役人に対して三浦山に関係する書類一切を提出するようにと通達した。 
       8月19日    福島取締所は王滝村字滝越から御厩野村へ通じる「物品輸送之道路」について詳細を取り調べて提出するように命じた。
       9月4日    松原彦右衛門が差し出した回答書によるとこの道は従来より川漁などで行き来するために用いられたもので笹木が生い茂った「悪道」でありとても物品の輸送などができる道ではないと記載されている。
           これら一連の調査により筑摩県は三浦山が事件に所属するとの主張を強め同県は内務省地理寮へその旨を報告し三浦山の帰属問題は筑摩県と岐阜県の県境確定問題へと発展した。
         官林を所管する役所は内務省地理局へ移った。
      御嶽山の女性の七合目以上の登排が解禁された。頂上の初登排は江戸吉原の遊女の団体であったといわれている。
           第二番中学区は第一八番に第三番中学区は第一九番になった。
           原野村と宮ノ越村が合併、朝日将軍木曽義仲の「日」と「義」をとり日義村となった。
          「 宮残し」    上州群馬県勢多郡北橘村下箱田へ落ち延びた残党が木曽を偲び宮(南宮神社)を残してきた」と語り合った。
「宮の腰」    宮の腰に展がった集落の意味で 
「宮ノ越」     宮の下段の木曽川端に集落が移った頃から宮ノ越に 
           南宮神社  義仲が産土神として中原兼遠と相談し岡田神社(松本)、沙田(いさごだ)神社(松本)、阿礼(あれい)神社(塩尻)のそれぞれ須佐之男命、豊玉姫命、彦火出見命の三神を分社した。
松本からは南だから南宮神社。
           義仲戦死後は、残党が三神を奉持して上州へ逃避。
南宮神社は御神体を持って逃げられて空っぽになってしまったので後に美濃一宮垂井の南宮神社から金山彦之命を分社した。お産の神様養蚕の神様として大桑の方からもお参りに来たという。南宮神社の石を一つ持って帰り願いがかなうとお礼に石を二つ持ってきたという。それで南宮神社には石がごろごろとしていたという。
       9月7日    筑摩郡末川村、西野村が合併し開田村となる。
           筑摩郡黒沢村、三尾村が合併し三岳村となる。
       11月7日    筑摩郡福島村、岩郷村が合併し福島村となる。
           筑摩郡上田村、黒川村が合併し新開村となる。
           筑摩郡宮越村と原野村が合併し朝日将軍木曽義仲が旗揚げを行った地にちなんで日義村となる。
           王滝村は江戸初期には「おのたき村」中期には「おんたけ村」と呼ばれ明治7年以降「おうたき村」と称した。
1875年   明治8年     濁川温泉は上条村の半場作兵衛が湯槽を設けて以来、近郷農民の湯治場となっていた。
       2月    就学率20パーセント
       4月    就学率が50パーセント近くに達した。全国平均35パーセントを上回っていた。
           取扱所は郵便局と改称された。当時は人力車を使い運送人が各駅間を運送した。
           長野県県令の楢崎寛直も永山盛り輝同様教育に力を入れ明治8年の時点で筑摩県には六百五十六校長野県には三百五十四校の小学校が設置されていた。
       8月    福島取締所が廃止された。
 1876年    明治9年      内務省は三浦山の帰属問題について地理寮の役人を現地へ派遣して実地調査を行うと通告した。
       4月    筑摩県は王滝村に対して明治7年に提出した書付と絵図の写しを再度提出するように命じた。
       4月    大規模な県の合併を行う。
       5月~8月    三浦山の帰属問題についての実地検査が行われ出張して来た地理寮の役人に加えて筑摩県・岐阜県の役人が立ち会い、見聞や尋問が実施された。
       8月17日    地理寮・筑摩県・岐阜県の役人に加えて王滝村・加子母村の幅戸長が同道し髭摺峠に二本の境杭が建てられた。
           県境をめぐる一件は王滝村の主張が認められる形で決着し三浦山も信濃国に帰属することになった。
       8月21日    3日後の8月21日に筑摩県は廃止され南信地方が長野県に飛騨地方が岐阜県へと編入されることになった。
       8月    再び大規模な県の合併を行いその数は三府三五県となった。今度は逆に県域が大きくなり過ぎたなどの理由で県の分割が実施された。
           筑摩県が南信地方を長野県に組み入れ飛騨国を岐阜県に編入して消滅したのはこうした動きの一環であった。
  8月    筑摩県の信濃国分が長野県に編入されたことにより長野県筑摩郡開田村、三岳村、福島村、新開村、日義村となる。。
           長野が筑摩を併合して新生長野県が誕生した際の就学率は六十三,二パーセントであった。これは東京の五八,八パーセントをしのぐ全国一の記録であった。
          奥谷の現在の建物はこの年改築された。
       古代~近世        伊那・諏訪・筑摩・安曇・更科・水内・高井・埴科・小県・佐久の10郡
 1877年    明治10年      徴兵による軍隊が最初に参戦したのは西南戦争であった。この戦争では駒ヶ根村で一名戦死、福島村で一名戦死、一名戦病死があり参戦者も何人かいたと思われる。
 1878年    明治11年      大区小区制は地域の実情を反映せず機械的な行政区分であったため不評でこの年郡区町村編制法にともない廃止された。
       3月2日    内務省は内務卿の大久保利通の名で三浦山が信濃国に所属することを宣言した。
       4月    今まで幕府・藩が担ってきた森林管理は名目上は政府が実態としては各府県が担当することになった体制は官林の内務省直轄化によって順次府県への委託が解かれていった。
 1879年    明治12年         郡区町村編制法により筑摩郡が東筑摩郡・西筑摩郡となる。 木曽は西筑摩郡となって福島に郡役所が置かれた。旧山村家地方役所跡に設けられていた建物が郡役所に当てられた。
           西筑摩郡制施行により西筑摩郡開田村、三岳村、福島村、新開村、日義村発足。
           我が国にはじめて電灯がついた。
                南佐久・北佐久・小県・諏訪・上伊那・下伊那・西筑摩・東筑摩・南安曇・北安曇・更科・埴科・上高井・下高井・上水内・下水内の16郡
700町村
           内務省内に山林局が設置された。
 1880年    明治13年  6月26日    明治天皇が福島宿泊
 1881年    明治14年      妻籠宿を出はずれて畑の中の一本道がもういちど舗装道路に合流、すぐに渡る蘭川の左手前橋場という所の人家の庭先に一本の道標が立っている。
「中山道 西京江五十四里半 東京江七十八里半。飯田道 元善光寺旧跡江八里半 長姫石橋中央江八里」
           開田村が末川村、西野村に分村
           駒ヶ根村が上松・小川・荻原の山村に分村
           山林局の管轄が農商務省へ移った。官林に関する管理実務は各府県に委託するものとされた。つまり今まで幕府・藩が担ってきた森林管理は名目上は政府が実態としては各府県が担当することになったわけである。
1882年   明治15年     名古屋の山林共進会において甚左エ門の偉大な林政振りを称せられ遺族に一等賞を賜った。
 1883年    明治16年      政府は東京と京都を結ぶ中山道鉄道の敷設を発令した。
 1886年    明治19年      教職員で組織する「信濃教育会」(公益社団法人信濃教育会)が設立された。
 1888年    明治21年  3月    最後に残った新潟・岩手・熊本の官林が国の直営となった。
 1889年     明治22年      県の分割が実施され三府四三県(北海道を除く)となって一応の収束を見た。
      網戸村が近隣の三つの村と一緒になって町が出来る。何回も会合がもたれ当然字でも会合がもたれ旧来の名前を用いず発展の象徴である旭日とともに東漸寺の掛け軸の旭をとって旭町が誕生したという。
           市制町村制の施行により須原村・長野村・殿村・野尻村の4村が合併して大桑村が誕生した。
           福島村、新開村、日義村、三岳村、は合併を伴わずに発足。
           開田村は末川村、西野村が再度合併して発足。
                町村制施行に伴い16町村が置かれる。福島村・駒ヶ根村新開村・日義村・開田村・三岳村・読書村・吾妻村・田立村・王滝村・大桑村・木祖村・奈川村・楢川村・神坂村・山口村
           この年の福島村の人口は戸数879戸人口4730人であった。
           全林野の9割以上を占め生活資材の供給先である明山からも閉め出された住民側は木曽山返還のため全郡一致した組織のもとに粘り強く長い運動をしたが木曽山は帝室御料林となった。
御料局木曽支庁が岐阜に設けられた。
           大日本帝国憲法が発布された。
     明治23年      改正小学校令
           木曽山は世伝御料林に編入され皇室財産となった。
裁判闘争の道を失った住民は盗伐等の不法行為を繰り返し抗争は続いた。
その後島崎正樹の次男広助の仲裁により木曽山が住民の山であることを放棄する見返りに御下賜金下賜という金銭和議が成立し運動は決着を見た。
           第一回帝国議会が開かれた。
     明治24年      新しい郡制施行により単なる行政区画にすぎなかった郡は自治体として発足し議決機関として郡会がスタート西筑摩郡会が成立した。
     明治25年     名称も中央線となりルートも八王子~名古屋間に改編された。 
           諏訪以南については伊那を通るか木曽を通るかで両地区の熾烈な誘致合戦があった。
1893年    明治26年       福島村村会は町への改称を決議し知事へ申請した。
      5月27日    福島村が町制施行により福島町となる。
           藤村は十歳のとき遊学のため上京しこの年長兄秀雄一家も家財すべてを売却して馬籠を引き払うなど故郷とは直接の縁はなくなったが藤村は常に馬籠や木曽のことを忘れることはなかった。
長姉そのが木曽福島の高瀬家に嫁いでいることから藤村はしばしば取材旅行に木曽を訪れており[家]「ふるさと」などの作品を生み出した。
1894年 甲午 明治27年 9月   明治時代の日本史学会会長重野安つぐは松本中学(現松本深志高校)『義仲の成長は松本であり挙兵は佐久である』と講演した。
           諏訪以南については伊那を通るか木曽を通るかで両地区の熾烈な誘致合戦ののち木曽谷を通ることに決定した。
           上松町の玉林院が放火によって焼失。焼け残ったのは鐘楼のある山門と本尊、過去帳だけだった。
     明治27年

明治28年
     日清戦争では西筑摩軍内で4名が戦病死している。
     明治30年      旧山村家地方役所跡に設けられていた建物の郡役所が火事で焼けて新築された。
     明治31年  7月~9月    藤村は木曽福島の高瀬家に滞在し「夏草」を執筆した。
 1899年    明治32年      長野県の県歌に制定されている「信濃の国」は小学校唱歌として「信濃教育会雑誌」に歌詞が発表された。作詞者は長野県師範学校の教諭・浅井洌である。
           当初信濃の国の詞には師範学校教諭・依田弁之助によって曲がつけられたが雅楽調で古めかしい曲であったため師範学校の生徒が口ずさむことはなかった。
 1900年    明治33年      再改正小学校令
           木曽福島に木曽銀行が創設された。
       10月    信濃の国を再生させたのは依田弁之助が青森師範学校から呼び寄せた北村季晴である。北村季晴は浅井洌の詞に新たな曲をつけ師範学校記念運動会で女子生徒の遊戯に新生「信濃の国」を使用した。
1901年
  明治34年 2月    東京府立第三中学校友会雑誌に文豪芥川龍之介が長文の「義仲論」を執筆した。芥川龍之介は義仲を「自由の愛児」、「情熱の愛児」、「革命の先導者」、「情の人」「情熱の人」という。「情の人」とは源頼朝の無法な言いがかりに対しても、子の義高を人質として送り、頼朝を骨肉として遇し挑戦に応じなかったこと源頼朝と不仲になって義仲軍に投じた源の行き家を一門の長老として厚遇したことなど臣下を深く愛する姿勢を買っている。また恩人・斉藤実盛の壮絶な死を知り、その首を抱いて泣いたことから恩を忘れない誠実な人柄がわかる。
          島崎藤村、小諸義塾の教師として信州小諸に赴任
       4月20日    木曽山林学校開校。全国唯一の山林学校であった。当初郡立だった。
           長野県の就学率は九四,七パーセントに達した。
 1902年    明治35年      永山盛輝没。
     明治36年      木曽支庁が福島に設置することが決定され庁舎が新築された。
     明治37年

明治38年
     日露戦争では西筑摩郡内で84名が戦病死している。
1905年    明治38年     信濃大地誌に[平城天皇大同中、伝教大師、衆生化道の為め、東国に下り、信濃の険を過ぎ、山中旅店稀なるを歎き」とある。広済・広極の二院を建て、旅人に便すとあれば、その寂寥見るべきなり。その後漸次廃頽し今は野ざさ繁りて通ずべくもあらず。中仙道は、上野より碓氷峠を踰え来り、追分にて北国街道を分岐し和田・塩尻・鳥居・馬籠の諸嶺を経て、美濃の落合に出づ。道路改修せられ、車馬の往来に不便なし。」とある。
           御料林事件が御下賜金の下賜ということで決着した。
1906年   明治39年     興禅寺二度目の火災にあう。
           郡立の木曽山林学校が県立に移管した。
       11月    福島町は町にふさわしい庁舎をと新築にかかり和洋混式土蔵造り二階建ての新役場庁舎が完成開庁式を挙げた。
     明治40年      再再改正小学校令
     明治41年      御料局は帝室林野管理局に改称された。
 1909年   明治42年   6月    黒川の杭の原に福島電機株式会社が木曽における最初の発電所を竣工した。(出力50キロワット)
       7月    三留野駅の開設
三殿宿の近くの羅天の桟道は難所で江戸時代に京都から江戸の将軍家に姫君が六人中山道を通って「降嫁」しているがこのうち二人は羅天を通ることができず月の名所の与川経由の「与川道」へ迂回したという。
1910年   明治43年     木曽の鳥居峠に中央西線のトンネルが開通
           芥川龍之介の「義仲論」がこの年になっている資料もある。
「・・・・彼(義仲)は猶、陰謀の挑発者にあらずして、陰謀の防御者なりき。しかも、彼をして、弓を法皇にひかしめたるは、実に、法皇の義仲に対してとり給える、攻撃的の態度の存したりき。・・・・・法皇は事実に於いて、義仲に戦いを挑み給えリ。……三たび云う、彼は真に情熱の人也。彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」
           福島発電所が完成し木曽ではじめて電灯がともった。
1911年   明治44年     改めて義昌公の墓碑が建てられた。現在は木曽義昌公史跡公園として整備され義昌の銅像が故郷の木曽を向いて建っている。公園の整備には旭ライオンズクラブが尽力し、折々の手入れはボランてィアが行っているという。これほどまでに慕われているのは義昌の良政に感謝し、無念を抱いた死に心を寄せてのことだけでなく、義昌の死後ほどなく木曽家が改易され、旭地方は少領分割支配となり年貢の搾取や支配の複雑化で農村が疲弊する中で義昌の良政を懐かしむ気持ちが受け継がれてきたからだという。
       5月1日   中央線が開通して鉄道による陸送にかわるまで「木曾式伐木運材法」が三百年の長い年月利用された。
鉄道の開設は日清日露の両戦役のために遅れ宮の越において東西からの線路が連結した。
           大桑尋常高等小学校校長の原近一は「中央線木曽鉄道唱歌」を作詞した。
1912年 壬子 明治45年     明治の文豪芥川龍之介は東京府立大3中学校の学友会誌に発表した『義仲論』という論文の中で『木曽義仲が悪者のように言われている最大の原因は寿永2年(1183年)11月19日に法住殿を焼き討ちしたとされていることであるが義仲が法皇を攻撃したのではなく法皇の側が義仲がそうせざるを得ないように仕向けていったのであるから悪いのは法皇だと断言している。
1912年 壬子 大正元年 7月30日   第123代大正天皇 
 1913年    大正2年      郡役所が現在の郡民会館の場所に移転開庁した。
 1914年    大正3年      慶応義塾の創始者福沢諭吉の女婿福沢桃介が名古屋電灯株式会社の社長に就任し積極的に木曽に進出した。
 1918年頃    大正7年頃      中乗りさんの姿が木曽川から消えた。
 1919年    大正8年  7月    福沢桃介は山口村賤母に最大出力16300キロワットの水路式発電所を完成させた。
大桑(大桑村)須原(大桑村)桃山(上松町)読書(南木曽町)と水路式発電所を次々に建設し大井(恵那市)にはダム水路式発電所を竣工させた。
 1920年  庚申  大正9年      
 1922年     大正11年        駒ヶ根村が上松町となる。
           藤村の木曽への思いは長男楠雄に土地を買い求めて帰農させることによって島崎家と馬籠との関係復活を果たした。
           読書発電所建設のために桃介橋が架橋された。桃介橋はわざわざ川幅の広い所にかけられ電力王・桃介の権勢を示すものでもあった。
           木曽にはじめて個人立の木曽幼稚園が福島町にできた。
1923年   大正12年 3月   寝覚の床が内務省により史跡名勝天然記念物に指定された。木曽川の激しい流れが花崗岩の岩盤を侵食して作り上げた。それぞれの石には獅子岩・屏風岩・象岩など形になぞらえた名称がつけられている。浦島太郎が訪れた竜宮城はこの下にあるという伝説がある。
           町村自治の監督系統の整理、経費の節減などを理由に郡制が廃止されこれに伴って郡会も廃止
           読書発電所が完成
       11月25日    桃山発電所が完成し発電を開始した。桃介の名から一字をとっている。
           木曽中学校、木曽高等女学校が開校した。
           三岳村に乗合自動車が入った。
     大正13年  9月    新教育の中心であった松本女子師範付属小学校での文部省視学官視察で修身の授業に物語の副教材を使ったことがとがめられ川井訓導がやめさせられるという川井訓導事件が起きた。
     大正15年      郡役所も廃止された。
       12月25日    大正天皇が崩御し摂政宮裕仁親王が即位して元号は昭和と改元された。
1926年 丙寅 昭和元年 12月25日   第124代昭和天皇 
1927年   昭和2年 5月12日   福島大火。約800棟が全焼。
これを契機に福島町に上水道が敷設された。
福島関所跡への南の石段道を下りて宿場への町つづきへと向かうすぐ左に門構えした高瀬家は宿場時代には関所版の役宅の一つで、史跡指定地の一部ともなっているが、大火で類焼して、今は土蔵と庭園だけが残っている。高瀬家は島崎藤村の姉の「その」の嫁ぎ先で、藤村の書いた「家」のモデルでもあった。興禅寺は三度目の大火に見舞われる
        
藤村の姉園の嫁ぎ先高瀬家では江戸時代から「奇応丸」を製造販売している。
                387町村
1928年    昭和3年 9月    巴笑、友人咄々坊委遁(とつとつぼういとん)の遺志を汲み木曽の棧に
      かけはしや命をからむつたかづら
の芭蕉句碑を建立
巴笑は木曽町福島八沢の人で名を加納屋茂兵衛といい名古屋の俳人武藤巴雀の門人である。
 1929年

1935年
   昭和4年

明治10年
 1月

11月
   木曽を舞台に幕末明治初期の動乱を描いた大作「夜明け前」を「中央公論」に発表した。
 1930年    昭和5年      駒ケ岳登山道改修
福島駅から約10キロ離れたキビオに木曽福島スキー場が開設された。
 1931年    昭和6年      藪原スキー場開設
御嶽交通バスの福島~王滝間開通
       6月26日    明治13年6月26日に明治天皇の福島宿泊を記念して福島町ではいろいろな行事をこの日に行ってきたがこの年初めて奉祝素人相撲大会を開催した。以来毎年相撲大会を開催し福島町に相撲熱を高めることになった。
       9月18日    奉天郊外の柳条溝で鉄道が爆破されこれをきっかけに満州事変が始まった。
1932年   昭和7年     奈良井の大宝寺では、十字架を蓮の花にかたどったマリア地蔵が藪の中から掘り出され、かくれキリシタンの遺跡として注目を集めた。
       3月    満州国建国宣言
 1934年    昭和9年  11月    満州移民が提唱され西筑摩郡では第三次瑞穂村開拓団から数戸ずつが参加した。
1935年   昭和10年 6月   黒沢部落の西、御嶽神社里宮と若宮社の境内附近の林地一帯でわが国で最初に仏法僧の繁殖状況が調査され、国の天然記念物に指定された。
           青年学校令
 1936年    昭和11年  10月    県単独の開拓団が編成され第五次黒台信濃村開拓団に九戸四十名が参加し以後第八次まで数戸ずつの参加があった。
 1937年    昭和12年  7月    北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突が起こりこれを契機に日本と中国の間で長期にわたる全面戦争が始まった。
 1938年    昭和13年      県では農村更生策として耕地面積の増加と自作農の確立を目指して分村移民を奨励しそれに積極的に応じたのが読書村(現南木曽町)であった。
           国家総動員法が成立
 1939年    昭和14年  2月    読み書き村では近隣町村からの参加も得て220戸850余名を第八次公心集読書村開拓団として送り出した。当時の読み書き村の戸数が660戸であったことを思えばまさに村を分けての移民であった。
          昭和恐慌と言われた不況は金融機関にもおよび木曽銀行も閉鎖に追い込まれた
 1941年    昭和16年  12月8日    大東亜戦争が始まった。
 1942年    昭和17年  6月    ミッドウエイ海戦
       8月    米軍ガダルカナル島上陸
 1943年    昭和18年      島崎藤村永眠。「若菜集」「破戒」「春」「家」
 1945年    昭和20年  5月    上松町で190戸を焼く大火があった。
     8月    広島、長崎に原子爆弾が投下された。
       8月15日    終戦
       9月   学校の授業再開 
       10月    アメリカ進駐軍が福島町に駐屯し帝室林野局庁舎を事務所とした。
この進駐軍を歓待するため王滝村でツグミを焼いて食べさせようとしたことがあだとなり全国のカスミ網捕鳥が禁止されることとなった。
 1946年    昭和21年      旧吾妻村(現南木曽町妻籠)に全国でも最初の公民館設置
戦争中妻籠に疎開していた文化人の指導を受けながら青年たちは対話の大切さを学ぶ演劇活動や封建的な因習を打ち破るための社会調査に積極的に取り組んだ。
           国歌の斉唱と国旗の掲揚が禁止された。国民としての存在意識の低下が懸念された。
 1947年    昭和22年      こうした活動が認められ文部大臣表彰を受けた。
      島崎藤村の生誕地旧馬籠本陣跡に馬籠の若者たちが中心になって全国の文学館のさきがけともいえる記念堂が建てられる。
これがきっかけとなって馬籠は一躍有名観光地となった。
           皇室財産の解体により木曽御料林は国有林に編入された。
木曽福島町に長野営林局が新設された。
           小学校6年中学校3年が義務教育となり六・三制教育が始まった。
 1948年      昭和23年        奈川村が南安曇郡奈川村となる。
           週五日制と夏の期間、時間を一時間早めるサマータイムが全国的に採用された。
 1949年    昭和24年       国歌の斉唱と国旗の掲揚が禁止され国民としての存在意識の低下をを察知した連合司令部はこれを許可した。
 1950年    昭和25年  5月    上松町の大火。火事で有名な上松町の中でただ一つ上町だけが街道の面影を残している。615戸を焼失
 1951年    昭和26年      上松町の復興式
           サマータイムは国情に合わないという理由から廃止された。
           桃介が設立した大同電力株式会社は日本発送電株式会社からこの年関西電力株式会社となって今日に至っている。
           国道19号線の改修工事が始まった。
       9月    敗戦国日本と連合国48カ国との間でサンフランシスコ講和条約が調印された。
 1952年    昭和27年  4月28日    サンフランシスコ講和条約が発効した。
           週五日制も国情に合わない理由から廃止された。
           定勝寺の本堂・庫裏・山門の三建築がが桃山風の豪壮な建築様式をとどめ近世初期の禅宗寺院の規模を示す貴重なものとして国の重要文化財に指定された。立木の少ない広い庭内には民謡須原ばねその里の碑が建てられている。「跳ねて踊る衆」という意味をもつこの踊りはお祝いごとには欠かせない須原名物のひとつ。ちなみに桜の花漬けを歌った文句の一節。
       「素晴しいぞえ須原の桜
            漬けて煮え湯の中で咲く」
        
           藤村記念館が開館した。
1953年    昭和28年         東京大学人類学教室で、鎌倉市の材木座遺跡を発掘した。ここから元弘三年の鎌倉幕府滅亡に当り、戦死もしくは自害した武士たち五五六人の遺骨とともに、一二八頭分の馬の骨が発掘された。この馬の遺骨から鎌倉時代の馬の体高(首の付け根までの高さ)は、109~140センチ、平均して128センチであった。現存する中型の日本在来馬は北海道和種馬・木曽馬・野間馬・御崎馬・対州馬とほぼ同じか、現在の在来場の方が若干高い。木曽義仲など信濃武士たちが乗った馬も130センチ内外の中型馬であった。
           蘇南高等学校が新設された。
           風水害・冷害などの災害が相次いだ
1954年   昭和29年     昭和二年の火災で焼けた万松山興禅寺の勅使門が旧国宝指定の平安末期の勅使門と同じ建築様式で復元された。
        
           長野営林局が長野市へ移転
1955年   昭和30年      木曽路最大の難所であった鳥居峠に国道のトンネルが完成
      8月   島崎藤村最初の詩集「若菜集」を刊行
明治34年までに「一葉舟」、「夏草」、「落梅集」などの詩集を次々に発表。
          愛知用水の水源確保の目的で王滝川にロックフィル型ダムの牧尾ダムが築堤された。
 1956年   昭和31年      184町村
                神坂村の一部が山口村となる。
           乗合バスが地蔵峠を越えて開田村の西野まで入るようになった。
 1957年    昭和32年  7月20日    岐阜県から信州入りした皇太子殿下が上松町の小川国有林を視察その後水無神社の例祭を見物された。
 1958年    昭和33年      牧尾ダムが完成
 1959年    昭和34年  9月25日    伊勢湾台風
 1961年    昭和36年      139町村
                読書村、吾妻村、田立村が合併して南木曽町となる。
       5月    牧尾ダム完成。
1963年   昭和38年     山村屋敷前の大石垣が県道拡幅工事のため取り壊された。
1964年   明治39年       島崎藤村「破戒」を発表
1966年   昭和41年     高瀬家の今の家は高瀬家藤村資料館となった。
          木曾の桟が県の史跡に指定された。
           木曽路の国道が全面舗装となった。
1967年   昭和42年     木曾仏教会が第二次大戦中、徴用され木曾谷で亡くなった中国人の慰霊碑を臨川寺に建てた。
          4月3日     福島町と新開村が合併して木曽福島町となる。
       9月    妻籠の演劇活動をしてきた者たちが町に働きかけて脇本陣奥谷の建物を町営郷土館として開館させた。継いで県の明治百年記念事業に妻籠宿保存事業を認めさせた。
1968年 戊申 昭和43年       日照山徳音寺・中興開山の大安和尚三百五十年忌を記念して義仲の眠る徳音寺の境内に宣公郷土館が建立される。鉄筋2階建て、土蔵造りの郷土館には寺宝として義仲の守本尊兜観音(鎌倉初期作)や義仲愛蔵の東波の竹軸・無準の達磨軸、義仲の陣羽織などが収められている。
木曽宣公は木曽代官山村貴良由が木曽義仲におくったおくり名である。
          5月1日     西筑摩郡が木曽郡となる。
           明治百年記念事業の一環として「信濃の国」が県歌に制定された。、
1969年 己酉 昭和44年        舟木慎吾、手塚八十八両氏等が楡沢山山頂に雄大な広場や空濠址のあることを確認。義仲のかくれ城『朝日が峰城址』といわれる。南木曽への入り口に当たる中津川市落合に落合五郎兼行を配し松本平の今井には今井兼平を天竜川の咽喉部に当たる伊那に備えて辰野町樋口には樋口次郎兼光を居住させ又前面の諏訪には諏訪神社の下社・上社の金刺氏千野氏手塚氏などの味方があり佐久には兼遠が晩年義仲の後見役に選んだ根井幸親がいる。朝日が峰城は高さ1780~1540メートルあり展望がよくきく大切な位置にあるのである。この城址は松本平から望んでも諏訪樋口からも今井からもよく見えるところで味方の連絡上からいっても格好なところといえるのである。
      8月   木曾谷一帯のひのきを主体とした天然林は古くから日本三大美林の一つとして知られているが、上松駅の西約15kmにある赤沢部落の周辺、赤沢谷一帯の自然林がその代表的なものとして自然保有林に指定された。
1970年 庚戌 昭和45年 4月14日   信濃毎日新聞紙上に『まぼろしの城は遂にあった』という見出しで報道される。
1971年 辛亥 昭和46年 11月21日~
11月23日
    鎌倉時代の史書(吾妻鏡)に登場する『法明寺』が本当に馬籠にあったのだろうかを調べる遺跡発掘調査がおこなわれる。調査区域は五輪塔のある南側の田圃百平方メートル。深さ0,2メートル~1,2メートルの地点から室町中期頃のものと推定される古瀬戸の深皿や平椀鎌倉時代と見られる天日茶碗(茶の湯に使う茶碗の一種)かめ、つぼ、江戸初期頃の瓦などの破片百余点のほか土台石なども見つかった。木曽の一般住宅は明治初期まですべて板葺の屋根であり寺や神社以外は瓦を使わなかった。天日茶碗は当時としても高級品で一般住民は使用しなかったなどのことからこの田圃にお寺があったことは間違いないとしている。
      11月24日   信濃毎日新聞に上記の記事が掲載される。
           妻籠の人々は「妻籠宿を守る住民憲章」を宣言して「売らない、貸さない、壊さない」を基本姿勢として外部資本から妻籠を守る保存優先の理念を確立していった。。
 1973年    昭和48年  7月10日   中央西線の電化工事が完成 
       8月26日    昭和40年代中央西線は複線化工事と電化工事が進んでいった。蒸気機関車D51775によって木曽福島~塩尻間でさよなら運転が行われた。
1975年   昭和50年     福島関所の発掘調査が行われた結果、西門の礎石、枡形、開所敷石西境側溝石列、塀の石列などが検出された。
       5月30日    最後に残った森林鉄道の王滝線も廃止された。さよなら列車が運転され森林鉄道は70年の歴史に幕を閉じた。
           文化財保護法が改正された。
 1976年    昭和51年      妻籠宿は重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 1977年    昭和52年      関所史跡隣の福島関所資料館が復元的に建造された。
 1978年    昭和53年  5月   奈良井宿が 重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
           新鳥居トンネルが開通
1979年   昭和54年     福島関所は寛文年中の関所古図により復元してこの年国の史跡指定を受けた。
      10月28日   御嶽山が2万年ぶりに爆発をおこした。
 1980年  庚申  昭和55年      
 1981年    昭和56年  7月    御嶽登山が解禁となった。
 1984年    昭和59年      木曽福島町から開田・三岳村方面を結ぶ福島大橋が完成。
 1987年    昭和62年      大正時代から木曽の暮らしを支えた森林鉄道が赤沢美林内に復活された。
1989年     1月7日   第125代今上天皇
 1992年    平成4年  5月    日義村に義仲館がオープンした。
1993年 癸酉 平成5年 10月17日    東京大学石井進教授が信濃史学会総会が日義村で開催された時『平家物語」の記述の変化について『平家物語』の作者は最初に比べ終りに近づくに従って義仲のおかれている苦しい立場がだんだんわかるようになってきたのではないかと話された。そして西行法師の歌を紹介し西行は海の錨と義仲の怒りを掛詞にしていること。義仲は怒りを静めることができなくて死んでいったんだなあ、と。そして義仲の怒りは多分後白河法皇ではないかと話された。
  ひとびとは海のいかりをしづめかねて
      死での山にもいりにけるかな   西行法師
          旭町が市に発展し市制四十年を記念して始まった「木曽義昌公武者行列」は平成の大合併に至る十年間にわたって鎧兜に身を固めた市民百五十人の行進が旭市の夏の風物詩として七夕祭を彩ったという。
 1994年    平成6年     読書発電 所が重要文化財に指定された。(近代化遺産)
 1995年   平成7年       120町村
       4月    南木曽町に木曽郡下で初めての本格的な登録博物館がオープンした。
           山口村に「東山魁夷心の旅路館」がオープンした。
 1997年    平成9年      
 1998年    平成10年      国道19号の上松バイパスが開通した。
           開田村に木曽馬の里がオープン
 2005年   平成17年      旭市と飯岡町・干潟町・海上町が一緒になって大きな旭市が誕生した。
       11月1日    町村合併により日義村は131年の歴史を閉じ木曽町日義となった。
       11月1日    木曽郡木曽福島町、日義村、三岳村、開田村が合併し木曽町が発足。長野県で最も面積の大きい町となる。
 2007年   平成19年 6月   東漸寺平成の大改修。義昌の墓のある史跡公園は寺から北西に約五百メートル。椿の海を干拓して「干潟八万石」といわれるようになった肥沃な田園地帯や周辺に開けた市街地を見渡すように義昌の墓と銅像が建ちその視線のはるか先に故郷の木曽がある。
2005年           山口村が岐阜県中津川市へ編入。楢川村が塩尻市に編入。
 2010年    平成22年      77市町村
 2013年    平成25年  5月18日    木曽義仲史学会創立15周年を記念して木曽町日義の徳音寺に於いて木曽義仲公追善供養が行われた。
筑前琵琶橘流日本橘会師範谷口旭佳氏による平家琵琶の演奏が行われた。
   庚申  平成52年      
 参考文献
朝日将軍木曽義仲 日義村義仲館編
朝日将軍木曽義仲 長島喜平著 国書刊行会
兼遠と義仲 小林清三郎著 銀河書房
木曽義仲 ライブラリー信州
木曽福島町史
朝日将軍木曽義仲洛中日記 高坪守男著 オフィス・アングル
木曽義仲の隠れ城 島田安太郎、舟木慎吾著 龍門堂
朝日将軍木曽義仲 鶴見憲明著 信毎書籍出版センター
旭のぼる 塩川治子著 河出書房新社
源氏命運抄  田屋久男 (有)アルファーゼネレーション
三岳村誌
日義村誌
松本の歴史ロマンを語る 松本の歴史ロマンを語る会
木曽  木曽教育会郷土館部編
信州あの人ゆかりの菩提寺・神社    北沢房子   信濃毎日新聞社 2007年7月23日初版
木曽・御嶽    田中博編著    風媒社
中世信濃武士以外伝     長野県立歴史館   郷土出版社
信州の城と古戦場      南原公平     しなのき書房
資料が語る長野の歴史60話     青木孝寿監修     三省堂
長野県の歴史シリーズ    図説・木曽の歴史    生駒勘七・神村透・小松芳郎
信濃大地誌    石川耕治    小平高明    光風館書店   明治38年5月5日
乱世を駆ける木曽義仲と巴御前    「木曽義仲と巴御前刊行委員会」編
木曽史話   森田孝太郎
山村蘇門   木曽福島町教育委員会  平成11年10月20日
市民タイムス
戦国武将列伝   信濃毎日新聞・信毎販売店会
信濃の風土と歴史18 ものが語る信濃の歴史   長野県立歴史館
木曽の100年   郷土出版社   1999年3月10日
タウン情報
あなたの知らない長野県の歴史    山本博文  洋泉社   2014年1月25日 初版
諏訪大明神絵詞    宮坂光明 解説   折井宏光 絵   2004年  第2刷
江戸時代の古文書を読む 徳川の明治維新  徳川林政史研究所  東京堂出版 2011年初版