ばせを肖像 i今まで私が本で見ていた芭蕉はいつも頭巾をかぶっていた絵だったので頭巾のない祖先の写した本には少なからず驚いた。 ばせをけいず |
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松尾笠衛尉平宗清之裔之 松尾藤七郎後忠左衛門改薙髪して 桃青と云号芭蕉庵 草圓伊州登岩山 大福寺ニ有り 要藤堂の庶流探丸子ニ仕へ而之のとし病ひをもて 骸骨を與わつといへどもゆるされざりつればとしのむつましかり ける孫太夫と云者の門にみを残し釈ニまぎれてたち去り 先祖は松尾弥兵衛宗清とされている。 1679年(延宝7年)3月千春撰「仮舞台」に松尾宗房入道、始伊賀住」と見え既に剃髪していた。 芭蕉は探丸の親の蝉吟に仕えていたから間違いと思う。 伊州(いしゅう)伊賀の国の異称 庶流(しょりゅう)本家から分かれた家柄。分家。別家。 |
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申されつる 雲とへだつ友かや雁の生わかれ 翁 後年其つみをゆるされて古郷へ帰り一日はいかいの歌仙を 催される さまざまの事思い出す桜かな 翁 春の日長う筆にくれ行 探丸子 芭蕉行脚怪談袋抜書 ばせを出生の事 抑ばせを翁と申ハ生国伊賀国上野の産也今ニかの地に蓑 虫庵□翁の庵跡今ニなす 芭蕉が寛文12年29歳の時伊賀を捨て江戸にいくにあたり友達の許へ留別として詠んだ歌 1688年(貞享5年)3月芭蕉45歳の時父の三十三回忌の法要のため伊賀に帰った折に探丸の別邸の花見に招かれ探丸と唱和した時の歌。 |
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蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 ばせを といふ句は此庵にての句なり依てさちうあんと号す高弟土 芳爰ニ住し土芳壽して今比郡庵主として相続有ハし ゆせうの事也 東都にての庵室ハ当時深川六間堀(ほり)鯉藤と云魚屋の籞(いけす) やしきの所也 古池や蛙飛び込む水の音 ばせお 是は此庵室ニての句也池洲(いけす)に魚もたくハへす藻(も)ぐさうづミて 古池と成りし此之頃ばせを庵桃青ハ中奥の誂仙にして名 誉の人也諸州を行脚し西行宗紙の跡をしたへりと云々 伊賀上野の服部土芳の新庵に芭蕉が訪れ面壁の図に蓑虫の句を書き与えたことから蓑虫庵と呼ばれるようになったという。 土芳は家督を辞して蓑虫庵に隠棲し独身のまま風流三昧の生涯を送ったという。 芭蕉が江戸に出てはじめての宿は日本橋船町の古卜尺(小沢太郎兵衛)の宅であった。その後、卜尺の紹介で幕府ご用達の鯉屋と称する杉山杉風の日本橋小田原町の借家に住んだ。 素堂が1679年上野不忍池畔に隠棲したことが誘い水となり1680年(延宝8年)芭蕉が深川の草庵に隠棲した。はじめ泊船堂と号し1681年に門人李下から芭蕉の株をおくられて芭蕉庵と呼ばれるようになった。 古池やの句は1686年春詠んだのであるから鯉屋でなく芭蕉庵のことである。 庵室(古くは「あんじつ」とも)僧尼や世捨て人の住む粗末な家。いおり。 西行(さいぎょう)[1118~1190]平安後期の歌人・僧。俗名佐藤義清(さとうのりきよ)法名、円位。鳥羽院に北面の武士として仕えたが23歳で出家。草庵にすみ、又諸国を行脚して歌を詠んだ。家集「山家集」 宗祇(そうぎ)[1421~1502]室町後期の連歌師。姓は飯尾と伝えられる。別号、自然斎・種玉庵「新筑波集」の撰者。連歌においては海内無双と称せられ朝廷から初めて花の本の称号を賜った。文亀二年八十二歳で没した。 |
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右之編ハ ばせを廻国の砌員誌踏ニて 悔敷ものに寒し事 此人日本ニ名を得た俳人にて寛文より天和年中迄の人也 翁の一句に 物いへば唇寒し秋乃風 是は延宝年中我俳道諸国に弘めん為之一と也行脚のごと くさまを替い六十余州を廻国せり右の内美濃路ニ懸り同国 倉元の林廉を通りつるに頃ハ秋の半ばにて山中いともかれがれ 敷木の葉を黄に染め草ハ生い茂れども愁傷しくに沢吹 芭蕉は1644年(寛永21年)に生まれ1694年(元禄7年)10月12日になくなっている。寛文年間は1661年から1673年まででありまた天和年間は1681年から1684年までであって事実とされていることとは異なっている。 物いへば唇寒し秋乃風 の句は貞享から元禄年間の作とされている。 |
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風も身にしみじみと木枯ニにたり翁此淋敷山道をあ
なた |
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只ひとり寂暮たる山道をたどりたどりて行ほどに日も西山ニしづミ 有りし草木もほのくらく思ふ所にふしぎやはるかの谷ぞこにてかん馬 の音かまひすしく太刀打つなどする體耳もとに聞へければ 翁思ふ様此所ハ倉元の山中にして人の住べき所と覚へず殊 更なる太平の御代に此谷底にてかん馬のをとなす事もし 山駴のやから成ると山駴とても海道にこそ居るべきにはるか の谷底にて太刀打ちする利なし是まさしく狐狸の変化 の類ならん何にてもあやしき之世の人の物がたりにもならん いかにも見届けんと山伝いに半町ほどかの谷ぞこへ下り見るに 下ハ松柏しげり底のとまりしらず其上伝い下る道もなけれ ばばせをもせん方なくと有岩角ニ腰打かけしバし下を かん馬(かんば)一日に千里を走るような名馬。駿馬。 |
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伺ひ居たるにかん馬のおと悲くにして類類ひと敷何方より か来りけん其躰こつぜんと武者一騎緋おどしの鎧を着し鹿 のつのにて鍬形打ちたる甲をかむりこがね作りの太刀をはき手 に一筋の矢をたづさへ忽然と現れ出でばせをが二三間向へ立居 るばせをふしぎの事に思ひ右の武者に向ていわく今世有 太平の此所ハ山中の谷にて人の有るべき所にハ不有然るに 其元ハ甲冑を射し此辺ニ有事ハ不思議なれ抑如何成 人ぞといふ武者ハ是を聞いとあはれ成躰にて涙をはら はらとながして申けるハ我翁を見るに一和の道ニ心を寄せ はるは花を賞し秋ハ月に心をよする句案にのミ儙て忿悪 邪横を心とせず窺に仏法法力の手綱たりしニ我翁の見 |
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是へ来り給ひるをあこがれて願われ出たりわらわ何をか包申 さん素事ハ其むかし寿永元暦年中ニ此山つづきの木曽路 より朝日将軍義仲ニかしづき粟津の原ニて討死にせし今井 の四郎兼平が亡異にて候我忠勤ニめでて命を捨しといへども 存生の時軍場ニて多くの人を討ち死し報いニより修羅の苦患 をまぬがれず生生世世生を替る事不能何卒翁の教訓をも 得又ハ仏果をも此後とげたく二ツにハ此矢の根なり右是ハ 木曾家ニおいて沢上の矢の根とて十本の矢の根有り是 沢上と号する事は人皇三十九代、天智天皇いまだ御 即位不有うち木の丸殿と申所に御座有るせつ諸国の朝て き追とうの為沢上速といふ者ニと申付此矢の根十本打たせ 木曽義仲は寿永3年1月21日に粟津で討死している。今井四郎は義仲が討たれたことを知って自害を遂げた。 生生世世(しょうじょうせぜ)生まれ変わり死に変わって経る多くの世。未来永劫。 仏果(ぶっか)仏語。仏道修行の結果として得られる、成仏という結果。成仏の証果。 |
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らる沢上其せつ申上るにハ此矢の根決して敵方へ放ちた もうな陣中の宝とし給ひかならずかならずてき亡ぶべしといへり 天皇敵を誅ばつし給ふハ此矢の根陣中の守護神と成りて ふしぎ也其後由へ有て木曾氏ニ伝われり然る所木曽没落の 砌り此矢の根壱本失たりふ吉と思ふ所はたして主君義仲 粟津の原ニて討死に有餘類さんざんとなりかいふ某もあわずの ミぎりにて自殺セり主君は粟津の一ヶ寺へ葬り義仲寺と 号す且つ又右の矢根九本ハよしなか寺へ納り且壱本不足な れば我黄泉の下迄深くなげきしが修羅の苦の内にてつい には此矢の根をたずね得たり何卒よし仲寺へ納め為間 御たのミ申也足下の御事も四五日の内にてよし仲寺の辺 |
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を御通り給ハん願わくは此品をかの寺へ納めたび給へと則右の 矢の根をばせをの前へさし置き其後ばせをに向て人道一和 の教訓を受て其上又申様足下もし義仲寺へ至り給はば なにとぞ我仏果をも吊ひくれらる様に住職へつたへ候へ給はるべし 是のミ頼入といふにばせを奇代の事と思ひ一々承知の旨答 へ夢にてや有なんうつつにや願われなん武者と見へしハ一向ニ 草木となり秋風しミる其中ニ矢の根はかり残り有りはせ をうつとりと立居たりしが苦し矢の根有りし上ハうたがふ べからずと武者の立居たる方を見やり自分知り得たる 仏経をどくじゅして追善し兼て覚へし道なれハ一句 つらね其発句ニ 仏経(ぶっきょう)仏教の経典。経文。経。 どくじゅ(読誦)《読は見てよむこと。誦はそらで唱えること》声を出して経文を読むこと。読経。 追善(ついぜん)死者の冥福を祈って、生存者が善根を修めること。特に仏事供養を営むこと。追福。 |
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物いへば唇寒し秋の風 翁 とどくじゅのくちびるへそよ吹く風のしミしを即座に吟ぜしとかやさて 芭蕉ハ其四五日の中江州へ入り義仲寺へ至り住寺へしかじかの 事を語り一本の矢の根を渡し十本の数揃ひける是等のくりき にやばせを遺言にて義仲殿と後ろ合せに葬りしと世に語り伝ふ ((行脚怪談袋上一の巻 芭蕉翁美濃路にこゆる事 付 怪しき者に逢ふ事)を書き写したものらしい) 芭蕉江戸深川にて病死門人追善の発句 つらつらおもんみるに人間の五十年ハ庭前に出せし焼火のごとくと いへり右の子細ハ庭前のともし火風なき時ハ一日をもたもつべし 萬風あらんニおいてハ良刻の間に消べし人間とても五臓能 揃ひ血精もめぐり通ふ時ハ百年の命をもたもつべしもし あやまち有り又ハ五臓血精ニ病ひ有る時ハ三ヶ年の内にハ命を 芭蕉は大坂の花屋仁右衛門の貸し座敷で亡くなっているとされている。 |
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おわるべし右の賜言へきん言成哉爰ニばせを翁ハ人和の道ニ 達し殉明たりといへ共病ひの道ニハ才發智も及がたく風と 心地ありかりしがしだいしだいニさし重り名醤にさじをふるいたくの 門弟ハ枕元ニ終釈付添い看病をせしめど其貝もあらずして 天和三亥十月十二日の早朝ニ今わのきわニ至り去来嵐雪晋 子其外の門人あつめ遺言ニ申つるハ各如成成縁にや我門 人と成りて宛する今迄かん病ニあふ事是かりそめならぬ前 生の約束たりもはや申置事外ニなしといへ共又壱つの願ひには 何とぞ我死骸をば江州粟津の義仲寺へ葬りくれたまひ 是のミ遺言成と申おいてねむらんとせしが又目をひらき 義仲寺とうしろ合の寒さ哉 死期を悟った芭蕉は元禄7年10月10日郷里の兄松尾半左衛門宛に遺書を認め、別に3通の遺書を支考に口述筆記させたとされている。 芭蕉は元禄7年10月12日申の刻午後4時ごろ大坂で亡くなったとされている。遺言により去来は其角・支考らと遺骸を義仲寺に収めるため当夜淀川の舟に乗せて運んだとされている。 芭蕉の弟子の又玄が義仲寺の芭蕉の墓所を参じて 木曾殿と背中合わせの寒さかな と、句を詠んでいる。芭蕉は10月9日午前2時ごろ看病中の呑舟に墨をすらせ、口授して病中吟として 旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる と一句を筆記させたとされている。 |
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の辞世の一句をのこして其後巳の刻行年六十一才にして病死な す遺言の事なれバ其訳ひそかに商人の荷物にこしらへ川船に かきのせて去来之烈友草敷き考稚然其角普子嵐雪等 其外十人江戸を舟にて江州へいそぎ義仲寺へ至りてしなしなと 語り則ばせをが遺骸を埋めて仏果ぼだい念すニこそ吊つる 義仲寺芭蕉翁墓 芭蕉翁墓 ばせを 寛永二乙丑生れ 天和三亥十月十二日死去行年六十一才 安永六酉まで九十五年ニ及 芭蕉は1644年(寛永21年)に生まれ1694年(元禄7年10月12日)51歳で亡くなったとされている。 |
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追善の句 よし仲寺へ送る日 ばせを門人 氷るらん足もぬらさで渡川 法眼 季吟 行人の徳や十夜の道廣き 左柳 其角 作者の名前が違っている 泣中に寒きくひとり耐へたり 嵐雪 泣中に寒きくひとり時得たり 句が違っている 鹿のねも入て悲しき野山哉 支考 鹿のとしも入て悲しき野山哉 句が違っている 忘れ得ぬ空も十夜の泪かな 京 去来 忘れ得ぬ空も十夜の涙かな 写しまちがいか句が違う 一たびの医師ものとはん帰花 彦根 許六 一たびの医師ものとはん返りはな 写しまちがいか句が違う 北村季吟(きたむらきぎん)江戸前期の歌人・俳人・古典学者。近江の人。通称久助。別号は芦庵(ろあん)医師北村宗円の長男。飛鳥井雅章に歌学を、松永貞徳に俳諧を学び、後に幕府に仕えた。 法眼(ほうげん)中世以後、僧に準じて医師・絵師・仏師・連歌師などに与えられた称号。 |
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啼うちの狂気をさませ浜ちどり 僧 李由 鳴きうちの狂気を覚へやはまちどり 写しまちがいか句が違っている 無き跡や鼠もさむき友ぢから 大津 木節 いふ事も泪に成や塚の霜 膳所 昌房 |
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取つかん便も悲し枯柳 さが 野明 取つかれ便りも悲しかれ柳 写しまちがいか句が違う 待うけて泪みあはす時雨哉 かや女 待受て涙見合すしくれ哉 京女 加や 写し間違いか句も名前も少し違う 聞て泣こえも届ぬ枯野かな 浅井風睡 聞て泣こえも届ぬ枯野かな 勢州津守 藤堂玄衆 名前が違う 耳の底に水鶴鳴なり冬の雨 尾州 露川 なきがらを笠にかくすや枯尾花 晋子 追善の句は「枯尾花」に載っていた。写しまちがいかもとの本が違っているのか少しまちがいが見られる。 |
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支考 右生国は江州の産住所は京都也 許六 右生国は同国の産住所は駿州府中也 嵐雪 右生国ハ上州山田郡依田村父ハ百姓にて河部喜門といふ 嵐雪稚名喜太郎といふ先生嵐丁門人後ニばせを門弟ニ成 其角 右生国ハ武紅下町神戸宗庸といふ名医の子なり 先生 其揚門人 |
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去来 右生国ハ京洛五條の生まれにて住所は洛外九條ニ住めり 木曽八幡神倖 朝日阿弥陀如来 芭蕉翁あんぎゃの像 右安永六酉八月十五日より江戸本所無縁寺ニ於て開帳 |
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右之本中平太十方有之候ヲ拝借仕 写取置者也 木曽岩郷村沼田野 松尾助蔵 正保(花押) 天保六年 未正月吉日 |