松尾芭蕉の年表

西暦 月日 年齢 内容   
753年
天平勝宝
5年
    鑑真和尚、入唐僧栄叡らの招請によって、暴風・失明などの苦難をおかして来日。唐招提寺建立。大和上の号を賜う。  
865年
貞観7年
    望月御牧 中仙道望月駅近傍原野の名なり。昔は例年勅を奉じて名馬を紫宸殿に奉り、天覧に供するを例とせり。貞観七年の制に拠れば、信濃の御牧は、八月十五日を以って之を貢ぐと、これ牧に望月の名を負はせし起こりなるべし。
                         (信濃大地誌)
    あふ坂の関の清水に影見えて
           いまやひくらむ望月の駒  紀貫之
 
903年
延喜3年
2月25日   菅原道真亡くなる。  
1556年
弘治2年
    伊勢津藩の初代藩主藤堂高虎生れる。
   「小事は大事、大事は小事と考えろ」
高虎は[大事のときは、皆が集まって議論する。だから大事は大事にいたらない。ところが小事になると皆がタカを括って知恵を出し合わない。そのため小事が大事になることがある。小事も大事だと思って議論を尽くせば、後悔することはなかろう。」と、この言葉を言った。
 
1579年
天正7年
    織田信長の次男北畠信雄が伊賀侵攻を開始すると伊賀衆は一致団結して撃退した。  
  9月   これに起こった信長が大軍を催し軍事拠点となる神社仏閣をことごとく焼き払う徹底的な焦土侵攻作戦を展開し伊賀の地侍たちを殲滅掃討した。(天正伊賀の乱)信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏がいた。(伊乱記)  
1581年
天正9年
    伊賀の国の守護職織田信勝の家臣滝川雄利が平清盛が建てたという上野山平楽寺跡に館塞を築いた。これが上野城の濫觴という。  
1582年
天正10年
6月2日   本能寺の変による信長の死を知って伊賀侍たちは逃亡潜伏先から徐々に在地に復帰しはじめた。  
1584年
天正12年
    秀吉の命を受けた脇坂安治が入城した。  
1585年
天正13年
    脇坂安治が摂津国に転封となり上野城に大和国山郡山城主筒井定次が入部した。秀吉の命を受けて伊賀の国主となった筒井順慶の養子定次は厳しい残党狩りを行った。  
1590年
天承18年
    徳川家康が江戸に入府すると、大久保主水に上水の設置を命じた。主水は井の頭池を水源として、目白台下(水神社前)を流し、すぐ下流の現在の大滝橋付近に堰(大洗堰)を築き、水位を上げて水道通りの水路に通水した。  
1592年~
1596年
文禄年間
    城主筒井定次は、城の改築にかかり天守閣や二の丸・三の丸を配した近世的な城郭が完成。  
1596年~
1615年
慶長年間
    松尾家は一族から分かれた分家で父与左衛門のときに本拠地の柘植を捨てて上野城下に移った。  
1600年     関が原の合戦  
1603年
慶長8年
    徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開く。
幕府は諸大名に命じて城東の海浜を埋め立てて市街地を造成した。日本橋は江戸名所の随一として知られ、江戸城下で初めて架けられた木橋で、誰いうともなく「日本橋」と称し、それが後に橋名になったという。
 
1604年
慶長9年
    五街道が整備された。一里塚を築くにあたって日本橋が国内里程の原標と定められ、全国街道の一里塚の起点となった。  
1608年
慶長13年
    徳川家康は来るべき大阪方との決戦に備え、彦根城とともに伊賀を軍略上の要地とし、定次の失敗を理由に改易し、信任厚い伊予今治城主藤堂高虎を伊賀伊勢の城主にした。  
      藤堂藩の初代藩主藤堂高虎は徳川家康から伊勢国・伊賀国の二カ国を与えられて、伊勢国の津に本城を築き、伊賀国の上野に支城を築いた。上野には城代家老を置いて伊賀一国を治めさせた。藤堂高虎は融和懐柔策をとり、中世伊賀の豪族名家の後裔を無足人(苗字・帯刀を許される無給の武士)の制度に組み入れた。  
      近世後期の『伊賀の国無足人名前ひかえ帳』に上柘植に5家、鵜山に3家以下、計11家の松尾姓が見える。  
1611年
慶長16年
1月   築城の名手といわれた高虎は自ら縄張りをして、上野城と津城の大修築に着手した。  
1612年
慶長17年
9月   完成間近い五層の天守閣が大暴風にあって倒壊し、以後再建されなかった。  
1615年 5月   大阪夏の陣
蝉吟の祖父良勝は高虎とともに連歌俳諧を嗜んだが、大阪夏の陣の時戦死し、15歳の良精が家督を継いだ。蝉吟は生来病弱であったために文芸に興味を持ち、京都在住の国学者で俳人の北村季吟について、当時もっとも権威あるとされていた松永貞徳の貞門俳諧を学んだ。
 
1615年
元和元年
7月13日   改元  
1624年
寛永元年
2月30日   改元  
1626年
寛永3年
    臨済宗京都妙心寺の末寺の芭蕉山桃青寺創建。初めは定林院と号す。  
1630年
寛永7年
      越後の国岩船郡村上の耕雲寺の末寺である蟠竜山長慶寺(曹洞宗)が創建される。開山は一空全鎖、開基は本所奉行徳山五兵衛重政である。芭蕉が参禅した寺とも、仏頂禅師と面識を得た寺ともいわれている。芭蕉真筆の
    世にふるもさらに宗祇のやどり哉
の短冊をこの境内に埋めて塚築いたのが芭蕉時雨塚である。
 
      藤堂高虎死す。  
1634年
寛永11年
11月7日   大和街道と伊勢街道とが交わる上野市街の西端で、柳生流剣士として知られた荒木又右衛門が義弟渡辺数馬を援けて、仇敵河合又五郎を討たせた。(鍵屋ノ辻の仇討ち)曽我兄弟・赤穂義士と並んで日本三代仇討ちの一つに数えられる。
芭蕉と並んで伊賀上野を有名にしたのが、この鍵屋ノ辻の仇討ちである。
 
1642年
寛永19年
    素堂生れる。  
1644年
寛永21年

(甲申)
  1歳 伊賀国阿排郡小田郷上野赤坂(当時、農人町。今の三重県上野市赤坂町300番地)の郷士、手習い師匠の松尾与左衛門の次男として生まれる。出生月日不詳。幼名金作。長じて宗房。通称を甚七郎藤七郎または忠右衛門といったと伝える。今高野山報恩院の過去帳に従って忠座衛門となす。俳家奇人談巻の中)元服の後、宗房と名乗り31歳の頃までこれを俳号としても使用(そうぼうと音読)別号、釣月軒・座興庵・くく斎・泊船堂・風羅坊・芭蕉・桃青等。季吟門。
上に兄半左衛門命清(のりきよ)および姉が一人、下に妹が3人あった。姉は早世、一の妹は片野氏に、二の妹は堀内氏に嫁したと伝える。末の妹はおよしと言う。通説ではおよしは長兄の実子又右衛門の没後、長兄の養女となる。
先祖は平氏で、伊賀の士豪柘植七党のうちの松尾氏の流れをくむが主流の松尾に比べて家格の劣る支流の松尾の一族と見られ、頼朝のころの人弥兵衛宗清であるという。芭蕉の父は松尾与左衛門といい伊賀の国阿排郡柘植の出身で、父の代に伊賀の国柘植の郷から上野に移住したと伝える。父の社会的地位は名字帯刀を許されている『無足人』と称する地侍級の農民であったと推測される。母は伊予宇和島の生まれで藤堂家の移封に従って伊予から伊賀名張に移住した者の娘といわれる。桃地氏であるとも言われるが不詳。
12月16日改元。後光明天皇即位後1年
徳川家光三代将軍宣下後22年鎖国令後5年目に当たる
文芸界では貞門俳諧が興隆し前年貞徳の『新増犬筑波集』が刊行された。
      芭蕉が生れたころ、城代家老は藤堂采女家(禄高七千石)、その下に侍大将の藤堂新七郎家(五千石)、さらにその下に伊賀付藩士の藤堂宮内家や藤堂玄蕃家があった。  
1644年
正保元年
12月16日   改元   
1647年
正保4年
3月     杉風生れる。  
1648年
正保5年
    苛兮生れる。  
1648年~
1652年
慶安年間
    要津寺(ようしんじ)はに僧東鉄が本郷に創建して東光山乾徳寺と称し、開基は常陸国笠間藩主牧野越中の守茂徳、開山は西江和尚である。  
1648年
慶安元年
2月15日   改元  
1649年
慶安2年
    曾良が高島藩城下の下桑原村(諏訪市諏訪2丁目)に生まれた。幼名は高野与左衛門。母の実家は「銭屋」という商家だったらしい。  
       その御両親の死により福島村(諏訪市中洲福島)にある親戚の岩波家の養子となり岩波庄右衛門正字と名乗っている。  
       岩波庄右衛門正字は12歳の頃養父母が相次いで死亡したことから伊勢長島(三重県)にいる親戚で大智院(真言宗三重県桑名市)の住職であった深泉良成のもとに身を寄せたという。  
       深泉良成が長島藩主・松平氏と交流を持っていたことから曽良は若くして長島藩に仕えるようになった。河合惣五郎と名乗ったのはこの頃からである。奥の細道においても「曽良は河合氏にして惣五郎と云えり」と紹介されている。  
 1649年
慶安2年
     路通生れる。  
1650年
慶安3
    尚白生れる。  
1651年
慶安4年
    去来生れる。
千那生れる。
  
1652年
承応元年
9月18日   改元  
1653年
承応2年
    清洲橋通りに面して建つ臨川寺は根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まる。  
1654年
承応3年
    嵐雪生れる。  
1655年
明暦元年
4月13日   改元  
1656年
明暦2年
(丙申)
2月18日 13歳 父松尾与左衛門が死去する。享年不詳。法名松白浄恵信士。上野の農人町の愛染院願成寺に葬る。
越人生れる。
許六生れる。
御西天皇即位後2年。
徳川家綱4代将軍宣下後5年。松永貞徳(江戸初期の文人、貞門俳諧の中心人物)没後3年。北村季吟、宗匠として独立。独立するに際し、祇園奉納俳諧連歌合を催す。
      兄半左衛門が家督を告ぐ。半左衛門は藤堂宮内家の分家藤堂九兵衛家に仕える軽輩で、父が家業としていた手習い師匠を副業としていた。  
1657年
明暦3年
    土芳生れる。
正秀生れる。
  
      明暦の大火をきっかけに、江戸の再開発が行われ、深川にも開発の手が入った。  
1658年
万治元年
7月23日   改元  
1660年
万治3年
    曲水生れる。
其角生れる。
 
1661年
寛文元年
4月25日   改元  
1662年
寛文2年
(壬寅)
   19歳 藤堂新七郎家(藤堂藩侍大将上野城伊賀付五千石藤堂新七郎良精(よしきよ)の嫡子主計(かずえ)良忠宗正(俳号蝉吟。北村季吟(京都を代表する俳人で「源氏物語湖月抄」「枕草子春曙抄」「徒然草文段抄」など数多くの古典文学の注釈書を書き残した業績が認められて後年将軍綱吉の歌学の師となって、江戸に移住する。)門。当時21歳))に出仕したのはこの年のことと推測される。その身分は近習役と伝えるがなお不詳。台所用人、料理人とも言う。二歳年上の主君良忠の格別の愛顧をうけその誘掖で俳諧を嗜むようになる。中右衛門宗房と名乗る。
       二十九日立春なれば
    春や来し年や行けん小晦日     (千宜理記)
現在知られる芭蕉最初期の作。『千宜理記』旧暦では十二月三十日を大晦日というのに対して、二十九日を小晦日という。当時は一月一日を春とした。
    柚の花や昔しのばん料理の間
      『嵯峨日記』1691年元禄4年
伊藤仁斎(江戸前期の儒学者)、古義堂開塾。
2,3年前より、和泉、河内、大和等に前句付が起こる。
      丈草生れる。  
      沾徳江戸に生れる。  
1663年
寛文3年
  20歳    月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿  (佐夜中山集) 霊元天皇即位
      祗空大坂に生れる。  
1664年
寛文4年
(甲辰)
12月29日 21歳 松江重頼撰『佐夜中山集』に蝉吟とともに初めて松尾宗房の名で2句入集。(句集所見)
   姥桜咲くや老後の思ひ出       (佐夜中山集)
 
1664年     園女生れる。  
1665年
寛文5年
(乙巳)
11月13日 22歳 主君藤堂良忠(蝉吟)の主催する「貞徳翁13回忌追善五吟俳諧」の百韻に伊賀の貞門流、窪田正好、保川一笑、松本一以ら先輩俳人に伍して若輩の芭蕉も一座する。これは良忠の格別の愛顧によるものであるが、芭蕉は他の故老に遜色のない句を詠出する。この百韻が、芭蕉一座の連句作品中、伝存する最古のもの。この百韻では発句を蝉吟が詠み、その次の脇句を北村季吟が詠んでいる。季吟はこの句会には出席していないがわざわざ蝉吟の発句を京都の北村季吟のもとに届けて彼に脇句を詠んで貰いこのことから蝉吟が季吟の門人であったことがわかる。またこの百韻に一座して名声を博した芭蕉は、初めて幼い俳諧の弟子二人を迎えた。その一人は後の服部半左衛門保英こと伊賀蕉門の重鎮土芳(『三冊子』の著者。当年9歳)であり、もう一人は後の医師中村柳軒こと佐脇柳照(柳喜とも。土芳よりやや年長)であった。 西山宗因(江戸前期の連歌師、俳人)、点者として大坂俳壇に進出する。
      支考生れる  
1666年
寛文6年
(丙午)
4月15日 23歳 主君藤堂良忠(蝉吟)が死去する。享年25。上野城下の山渓寺に葬る。18歳の弟良重家嫡となり蝉吟の未亡人小鍋を室とする。
「幻住庵記」の中で芭蕉は自分の人生を振り返って「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」と書いている。仕官懸命の地とは侍の身分を言う。
 
  6月14日   芭蕉は良忠の遺骨(遺髪、位牌とも)を高野山の報恩院に納めに行ったと伝えられるがなお不詳。上野城下の山渓寺の墓地に蝉吟の墓があり「貞真院殿実叟宗正居士」の法号が刻まれている。主君良忠と死別して後芭蕉は致仕したようであるが、寛文12年(29歳)春に至るまでの約6年間は兄半左衛門方に身を寄せ俳諧の制作を続けながらも、一時は京都の禅寺に入って修行し、また漢詩文の勉学にも勤めたようである。将来の立身の方針が定まらず、迷っていた時期である。この年、良忠の遺子良長(後の探丸)が誕生する。この年、内藤風虎撰「夜の錦」に伊賀上野松尾宗房として4句以上入集。
   年は人にとらせていつも若夷      (千宜理記)
   年や人にとられていつも若夷
      (夜の錦)
   京は九万九千くんじゅの花見哉     (夜の錦)
   花は賤の目にも見えけり鬼薊      (夜の錦)    
『遠近集』に西鶴の発句初出。
         月の鏡小春に見るや目正月       (続山井)
小春は旧暦十月の異称。
 
1667年
寛文7年
(丁未)
10月 24歳 北村季吟監修、湖春撰『続山井』に伊賀上野宗房として発句28付句3が入集
   盛りなる梅にす手引く風もがな      (続山井)
   餅雪を白糸となす柳哉
           (続山井)
 
      今西正盛撰、『耳無草』(『詞林金玉集』)に発句1入集
   夕顔の花に心やうがりひよん
 
         うかれける人や初瀬の山桜        (続山井)
「うかりける人を初瀬のやま颪はげしかれとは祈らぬものを」(千載集)の上三句をもじった。       
 
1668年
寛文8年
  25歳    波の花と雪もや水の返り花       (如意宝珠)  
1669年
寛文9年
己酉 
秋  26歳 荻野安静撰『如意宝珠』(寛文9成、延宝2刊)に発句6入集。句引伊賀の部に松尾宗房と見える。
   花にあかぬ嘆きやこちの歌袋
執政保科正之致仕
野々口立圃没75。(江戸前期の俳人)
1670年
寛文10年
(庚戌)
  27歳 正辰撰『大和順礼』に伊賀上野住宗房として発句2入集。
   うちやまや外様しらすの花盛り     (大和巡礼)
大坂十人両替制成立
1671年
寛文11年
(辛亥)
6月 28歳 吉田友次撰『俳諧薮香物(やぶにこうのもの)』に伊賀上野宗房として発句1入集。
   春立つとわらはも知るや飾り縄  (俳諧薮香物)
三都間全飛脚制度成立
1672年
寛文12年
(壬子)
正月25日 29歳 伊賀の俳人の句30番の発句合せに自判の判詞(歌合せ・句合わせなどで、判者が優劣・可否を判定して述べる言葉)を加えて『貝おほい』と題し郷土上野の鎮守菅原天神社に奉納する。この年は菅原道真の七百七十年忌にあたるので、芭蕉は学問の神として尊崇していた道真の神威に、文運を祈願したのである。発句2入集。その判詞は才気煥発であり、その誹風は数年後に俳壇を席巻する談林調を先取りしていて芭蕉の異常な才能と鋭敏な時代感覚とが察知せられる。  藤堂新七郎家の嫡子良重没。享年24歳。蝉吟の男良長(俳号探丸)後継となる。 河村瑞賢(江戸前期の商人)による日本一周航路完成。
石川丈山(江戸前期の漢詩人)没
    このような作品を菅原天神社に奉納したのは、専門の職業俳諧師として立身する決意を神に誓ったもので、この春に彼は新天地を求めて江戸に下る。芭蕉の江戸での最初の落ち着き先は菊岡沾涼撰の「綾錦」に[芭蕉翁東都において始めて履をとかれしは古卜尺(卜尺の俳号は父子二代にわたっていたので、古卜尺は父を示す)の宿り也」とあるように以前北村季吟の同門として知り合いであった日本橋船町(後の本船町)の名主小沢太郎兵衛宅であった。(江戸へ出たのは3年後という説もある。)江戸に出た頃芭蕉は卜尺や杉風の薦めによって初心者の俳諧指導にあたりながら、一時伊勢出身の俳諧師高野幽山(当時江戸本町川岸に住する。素堂らとの俳交あり)の執筆(書記役=助手)役をつとめた(白亥編「真澄鏡」)とも言われる。白亥編「真澄鏡」に紹介された高山麋塒の子息が記録した記事によると「江戸へ出、幽山の執筆たりしころ撫でつけに成る時
    「我黒髪なでつけにして頭巾かな」」
とあり芭蕉は高野幽山の紹介で内藤家の文芸サロンに参加できたとされている。江戸下向後は、これまでの貞門の俳諧から談林風に転向する。
  
      その後、卜尺の紹介で、幕府御用達の鯉屋と称する魚問屋を営む杉山杉風通称市兵衛という日本橋小田原町(現在の中央区日本橋室町1の12付近)の商人と知り合った。杉風は父賢永(俳号仙風)の影響を受け、俳諧にも心得があったので、自然に芭蕉と相通じるところがあり、やがて卜尺とともに芭蕉の生計上のパトロンとなった。  
      一説に芭蕉が江戸に下った時、初め桃青寺(墨田区東駒形3-15)に草鞋を脱いだという伝えがある。其日庵二世長谷川馬光の記録に、当山第二世黙宗(もくそう)和尚と芭蕉とが東海道を一緒に下り、江戸に着くとしばらく定林院(桃青寺の前名)に寄宿したと記している。  
      松浦静山著の「甲子夜話」に予陰荘の北隣は東盛寺なり。その寺に小篁あり。その処嘗て俳人芭蕉の棲みし跡と云ふ。芭蕉盤珪禅師に参禅して専ら禅理を問ひしといふ。これによりてよおもふに、このごろ正眼国師は天祥公の為に天祥庵に往来ありしかば、芭蕉も隣を卜して棲みしなるべし。天祥庵は即今不動堂の処にしてかの小篁と相されこと欃に二十余歩。又今東盛寺の中に芭蕉の像をおく小堂あり。是篁中の旧庵を移せし処といふ。又桃青の号を後に東盛に改めしとも云へり。と書かれている。  
         雲とへだつ友かや雁の生き別れ  (冬扇一路)
郷里伊賀を捨てて江戸に赴く時の作。[蕉翁全伝]に「寛文十二、子の春、二十九歳、士官を辞して甚七と改め東武に赴く時、友達の許へ留別」とある。
 
   3月    江戸で『貝おほひ』を出版する。
   きてもみよ甚兵が羽織花衣      (貝おほひ)    
 
  5月   蘭秀撰「後撰犬筑波集」に「宗房」として1句入集  
   12月   松江維舟撰『俳諧時勢粧(いまようすがた)』に『伊賀上野宗房』として1句入集。
高瀬梅盛(ばいせい江戸前期の俳人)撰『山下水』に伊賀生宗房』として1句以上入集。
   美しきその姫瓜や后ざね        (山下水)
 
1673年
寛文13年
  30 三信・素閑撰「音頭集」に宗房号で発句1入集  
1673年
延宝元年
9月21日    改元  西鶴の『生玉万句」に談林新風の第一声があげられる。
      芭蕉は延宝元年から二年あたりに、幽山の執筆役として、内藤家へ出入りしはじめた。
    我黒髪なでつけにして頭巾かな
 
1674年
延宝2年
(甲寅)
31歳 帰郷して旧主藤堂良忠(蝉吟)の俳諧の師匠北村季吟の来遊するに会う。季吟は芭蕉の旧主人蝉吟の俳諧の師匠であったことから旧知の関係にあったであろう。季吟は「万葉集」「大和物語」「源氏物語」そして「枕草子」等の古典注釈や俳人として、京都で活躍していた当代きっての文人である。 宗因の『蚊柱百韻』を巡り貞門との抗争が表面化した。
      仏頂、常陸の国鹿島(現在の茨城県鹿島市)の根本寺の二十一世住職に就任する。その直後鹿島神宮との間に領地争いが起こり根本寺側は幕府に訴え出た。寺院や神社の争いの裁定は幕府の寺社奉行所の管轄であり裁定が出た天和二年までの九年間の大半を、仏頂は根本寺の江戸宿泊所である深川の臨川庵で過ごした。芭蕉の門人の支考は「播磨に盤珪禅師といひ江戸に仏頂和尚といふ。天下に竜虎の名知識なり」(十論為弁抄)と書いている。「知識
とは仏教語で徳の高い僧をいう言葉。
 
  3月17日   宗房は京都に上って、季吟から『宗房生(芭蕉)、俳諧熱心浅からざるによって、書写を免じて、且つ奥書を加ふるものなり云々』と奥書した俳諧の作法書『埋木』を授けられた。『埋木』は季吟の著した貞門流の俳諧論書であるが、それを奥書して授けられたことは、両者の間に師弟関係の確立したことを示す。  
      藤堂新七郎良精没。享年74。良長(俳号探丸)9歳にして家督をつぐ。 冬信章(素堂)上洛、季吟と会吟する。
  5月   江戸に来遊した談林派の総帥西山宗因歓迎の百韻に一座し初めて『桃青』の俳号を使用。(尊敬していた李白にちなんで白い李に対する青い桃という意味があるといわれる。)江戸本所大徳院縱画亭で催された。(連衆)宗因、蹤画、幽山、桃青、信章(山口素堂)、木也、吟市、小才、似春、又吟。
立句
   いと涼しき大徳也けり法の水  宗因
千利休の孫千宗旦四天王の一人山田宗偏による『茶道要録』刊
      この年あたりから著名な文学大名内藤風虎(奥羽磐城の平七万国の城主)およびその次男露沾の江戸溜池葵橋の藩邸で催される風雅の会合に参加し既に知名の俳諧師であったことが知られる。このころすでに宝井其角・杉山杉風・蘭蘭らの門人があった。  
  9月   広岡宗信撰「千宜理記(ちぎりき)」に伊賀上野住宗房として発句6入集
   目の星や花を願ひの糸桜
内藤露沾判「五十番句合せ」(「芭蕉翁句解参考)所引)に発句2以上入集。俳号を宗房より桃青と改める。
   町医師や屋敷方より駒迎へ  (五十番句合せ)
この当時、幽山の執筆を勤めたという。「駒迎へ」は中古中世期、諸国から朝廷に名馬を献上する駒牽の儀式に当り、左馬寮の官人が逢坂の関まで出迎えた旧暦八月の行事。これを当世風にもじったおかしみ。
 
      嵐雪この年芭蕉入門か。「桃青門弟独吟二十歌仙」に嵐亭治助の号で入集。  
1675年
延宝3年
  32歳    武蔵野や一寸ほどな鹿の声   (俳諧当世男)  
       芭蕉江戸に出る。俳号を芭蕉とする。  
  5月   大名俳人の陸奥国(福島県)磐城平藩主内藤右京太夫義泰(俳号風虎)の招きに応じた大坂の談林派の総帥西山宗因が東下し、本所の大徳院で百韻連句が興行され、芭蕉lも桃青の号で出席したが是が記録に残る桃青号の初出である。この年あたりから、内藤風虎(奥羽磐城の平、七万石の城主)およびその次男露沾の江戸屋敷で催される風雅の会合に参加し、既に知名の俳諧師であったことが知られる。白亥編「真澄鏡」(安政六年)に紹介された高山麋塒の子息が記録した記事によると高野幽山という俳人の紹介で内藤家の文芸サロンに参加できたとされている。  
      露沾主催の「五十番句合」に芭蕉の二句が確認できる。(何丸著「芭蕉翁句解大成」)  
      山口信章(俳号、素堂)と親交を結ぶ。
    (都留市博物館)
この頃から宝井其角・服部嵐雪・松倉嵐蘭らが相次いで入門
 
1676年
延宝4年
(丙辰)
2月 33歳 親友山口信章(俳号、素堂)と両吟の百韻二巻を巻き天満宮に奉納。  
  3月   「江戸両吟集」と題して刊行。宗因新風に心酔のさまが著しい。
立句
   この梅に牛も初音と鳴きつべし 桃青(江戸両吟集)
   梅の風俳諧国にさかむなり    信章
 
    俳諧師として自立する目算ができたためか郷里へ旅立つ。桃同伴では、出国後五年目に一度帰国することが、他国で働く領民に義務付けられており芭蕉は寛文十二年に江戸に出ているから延宝四年はちょうど出国後五年目に当っている。  
  6月20日ごろ

7月2日
  四年ぶりに故郷伊賀上野に帰省  
      京都にも出向いている。  
  7月2日   甥桃印を伴って江戸に帰る。以後義父として面倒を見ることになる。  
  7月   蝶々子撰「俳諧当世男(いまようおとこ)」に発句3付け句3
   天秤や京江戸かけて千代の春 (俳諧当世男)
 
  7月ころ   5,6歳で父を亡くした甥の桃印(16歳)を伴なって江戸に戻る。  
  11月   季吟撰「続連珠」に伊賀上野松尾宗房・江戸松尾桃青(句引に「松尾氏本住伊賀号宗房・桃青」という両様の肩書き俳号で発句6・竹句4入集。
   けふの今宵寝る時もなき月見哉  (続連珠 )
俳家奇人談巻の中によると「初めの名を宗房といへり。後桃青と改む、又杖錢子、是佛坊等の諸号あり。」とある。
 
      「俳諧類船集」が付合連想語として「飛ー蛙」を登録  
      巴人、下野鳥山に生れる。  
1677年
延宝5年
(丁巳)
  34歳 この年には、万句(百韻百巻)を興行して宗匠立机(俳諧師が一派を統率する宗匠として独立すること)していたと推定される。宗匠立机を1678年としているものもある。
このころから小田原町の小沢太郎兵衛(大船町の名主、俳号卜尺)の貸家に住居を定める。
西鶴、独吟千六百句興行。
      小沢卜尺の斡旋により、生活のたすきに延宝8年までの4年間江戸神田上水の大洗堰(おおあらいのせき)の改修工事の現場監督のごとき副業に従事する。専門の職業俳諧師でありながら、営利的な点取り俳諧を拒否し経済的に苦しかったためと考えられる。芭蕉は神田上水の改修工事に従事し、深川に移るまでの4年間を現場小屋か水番屋に住んで過ごしたといわれ、のち芭蕉を慕う人たちによって建てられた庵を「龍隠庵」(りゅうげあん)と呼んだ。これが関口芭蕉庵である。関口芭蕉庵は深川芭蕉庵跡が正確な位置は定かでないのに対し、江戸における芭蕉の唯一の明確な遺跡として注目されている。  
    杉風との両吟百韻もこの秋の作であろう。
   色付くや豆腐に落ちて薄紅葉    (真蹟短冊)
 
  11月~
閏12月
  内藤風虎主催、任口、維舟、季吟等判の「六百番俳諧発句合」に20句入集。成績は勝九、負五、持六。句合とは、参加した人々を二チームにわけて、チームで句を戦わせ、判者が勝敗をわけるという和歌の「歌合」に倣って発生した遊戯性のつよい文芸形式である。
   門松やおもへば一夜三十年(六百番俳諧発句合
 
    信章・京都の伊藤信徳と三吟百韻一巻を巻く。(江戸三吟)
   あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁(俳諧江戸三吟)
 
1678年
延宝6年
(戊午)
正月 35歳 歳旦帳(一派の宗匠が門下の歳旦吟を集成した印刷物)を上梓(書物を出版すること)。(採荼庵梅人(平山梅人)「桃青伝」による) 卜養没、72歳
    信章・伊藤信徳と三吟百韻二巻を巻き、前年冬の一巻と合せ、「俳諧江戸三吟」と題して刊行。  
  3月中旬   「俳諧江戸三吟」刊。信徳・信章との三吟三百韻を巻き前年冬の一巻と合わせ3間を「俳諧江戸三吟」と題して出版する。  
      相前後して「桃青三百韻附・両吟二百韻」刊(「俳諧江戸三吟」・江戸両吟集」の合刻本)  
  7月   二葉子亭で紀子・卜尺と「実にや月」の四吟歌仙を巻く。  
  7月   岡村不卜撰「俳諧江戸広小路」に発句十七・付句二十入集
   大比叡やしの字を引て一霞  (江戸廣小路集)
   大日枝やしを引捨てし一かすみ  (彼これ集)
   内裏雛人形天皇の御宇とかや(俳諧江戸広小路)
 
  7月下旬   二葉子撰「俳諧江戸通り町」に発句五・付句五・一座の歌仙一入集。
   実にや月間口千金の通り町 (俳諧江戸通り町」)
 
  8月上旬   言水撰「江戸新道」に三句入集。  
    京の春澄を迎え、似春と三吟で「塩にしても」の歌仙等、歌仙三巻興行  
  10月   もとめに応じて岸本調和系の俳人某氏作「十八番発句合」に判詞を加える。跋に「坐興庵桃青」と署名、「素宣」の印を押す。  
      「江戸通町」、「江戸新道」、「江戸広小路」「、江戸十歌仙」などに入集  
      岩付城下の志候ら六吟百韻に加点、「坐興庵桃青」と署し「素宣」の印を使用  
    信徳が千春同道でふたたび東下、「忘れ草」の三吟歌仙を巻く。このところ京俳人との東西交歓しきりなるものがある。千春・信徳と三吟歌仙を巻く。  
      この年または次年、正式の俳諧宗匠立机披露のための俳諧万句興行。万句というのは百句で完了する連句(百韻という)を百巻作ることで連歌や俳諧におけるもっとも大きなイベントである。万句を興行する基本的な目的は、大願成就を願って神に捧げるためであった。日本橋小田原町の借家に俳諧宗匠の看板を掲げた。  
  11月中旬   春澄撰「俳諧江戸十歌仙」に歌仙三入集。
   塩にしてもいざ言伝てん都鳥 (俳諧江戸十歌仙)
 
1679年
延宝7年
(己未)
正月 36歳 万句興行に成功して芭蕉は得意の絶頂にあって次の発句を詠む
   発句なり松尾桃青宿の春
日本橋北側の室一仲通商店街の一角に、佃煮の老舗鮒佐がありその店頭にこの句碑が立っている。碑面の文字は下里知足の筆である。
 
      未達撰「俳諧関相撲」(天和2年刊)に、三都十八人宗匠の中の一人に挙げられる。  
  3月   千春撰「仮舞台」に「松尾宗房入道、始伊賀住」と見え、すでに剃髪していた。「忘れ草」歌仙入集。
「俳家奇人談巻の中」によると「寛文の末つ方東武に下り、礫川水道修成傭夫となって、功を終わるの比、薙髪して風羅坊といふ」とある。
高政の「俳諧中庸姿」を巡り上方俳壇に新旧入り乱れての論戦が起こり、翌年に続く。
      伊賀士豪の後裔で上野の民間学者として知られる菊岡如幻の『伊乱記』に信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏の名も見える。  
  春    盟友素堂が官を辞して江戸上野不忍池畔に隠栖。素堂の漢学の素養は、天和・貞享期の芭蕉に多大な影響を与えた。  
  4月   調和撰「富士石」所収等躬の春季の句の前書に「桃青万句に」と見え、すでに万句を興行して宗匠となっていたことが確認される。また、桃青の批点を収める「俳諧関相撲」(天和2刊)に三年前に諸家の批点を得た由が見え、このころ点者としての名が三吟都に知られていた。    
  5月上旬   池西言水撰「俳諧江戸蛇之鮓」に発句三句入集
   忘れ草菜飯に摘まん年の暮れ(俳諧江戸蛇之鮓)
 
  8月25日   桑折宗臣撰「詞林金玉集」に寛文年中の桃青の発句11句再録される。  
  9月   神田蝶々子撰「俳諧玉手箱」に発句1句入集
   待つ花や籐三郎が吉野山   (俳諧玉手箱 )
 
    似春、四友両名の上方旅行に際し、四友亭で送留別三吟百韻二巻興行。  
  11月   伊勢山田の杉村西治撰「二葉集」に付句四入集  
  12月下旬   松葉軒才麿撰「俳諧坂東太郎」に発句四句入集
   盃や山路の菊と是を干す    (俳諧坂東太郎)
 
      大坂の情報本[難波雀]に芭蕉と同時代に俳諧師として活躍した惟中は俳諧点者として掲載されている。「俳諧猿黐(とりもち)」によれば惟中は「大学」や「古文真宝」などの漢籍の講義もしていたようである。  
    随流著「俳諧破邪顕正」  
1680年
延宝8年
(庚申)
4月 37歳 桃青一派の存在を誇示した「桃青門弟独吟廿歌仙」が榑正町の本屋太兵衛から刊行される。刊。歌仙は三十六句で完了する連句。杉風巻頭を飾る。杉風は元禄7年の「別座敷」まで師の変風によく追随した。「桃青の園には一流ふかし」と見え、杉風・卜尺(ぼくしゃく)・巌泉・一山・緑系子・仙松・卜宅・白豚・杉化・木鶏・嵐蘭・揚水之・治助(嵐雪)・螺舎(其角)・巌翁・嵐窓・嵐竹、岡松・吟桃・館子・北餛ら21名のの門人の独吟を揃え、新興蕉門の存在と一門団結の意気を世に問い、俳壇的地歩確立のさまが窺われる。上巻は杉風・卜尺・卜宅を含めて10人下巻は其角・嵐雪追加1名を含め11人。 5月、家綱没、40歳
5月7日西鶴独吟四千句興行
6月維舟(松江重頼)没79歳(江戸前期の俳人)
千利休の孫千宗旦の四天王の一人山田宗偏による『茶道便蒙抄』刊
  6月11日   町町への触れ状に、明後13日神田上水道水上総払い之あり候間、相対致し候町町は、桃青方へ急度申し渡すべく候云々」(喜多村信節「筠庭雑録」所収「役所日記」)とある。  
  6月   其角・杉風編「俳諧合」  
  7月   知足催「大柿鳴海桑名名古屋四ッ替り」百韻巻に加点。「栩栩斉主桃青」と署し「松尾桃青」「素宣」の印を使用。 7月、綱吉五代将軍宣下
8月後水尾法皇崩、85歳
東海道諸国凶作。
  8月   其角の二十五番自句合せ「田舎句合」(田舎・常盤屋)の判詞を書く。跋に「栩栩斉主桃青」と署名。序文は嵐雪。「荘子」への傾倒が著しい。桃青の判詞について、嵐雪は盛んに称揚している。「判詞、荘周が腹中を呑んで、希逸が弁も口にふたす。」これは談林俳諧(軽妙な口語使用と滑稽な着想による低俗な誹風)からの脱却を意識したものである。  
  9月   杉風の二十五番自句合「常磐屋句合」に判詞を与え跋に「華桃園」と署す。跋文に「常盤屋といふは、時を祝し代をほめての名なるべし」(常盤(常に変わらない松にちなんで)松平(徳川)氏の治世をたたえる意味からの命名)と述べている。「俳諧合」と題して刊行。
   青わさび蟹がつま木の斧の音 杉風
   橙を密柑と金柑の笑って曰く  杉風
   油の花は香故に花と社いへれ花 杉風
この二冊を姉妹編として刊行。蕉門の意気あがる。
第七
    独活の千年能なし山の杣木哉
の句に対して、桃青の判詞は
「うどの大木又愛すべし」とあり、荘子の思想を是認している。
 
  10月22日   甥没す。戒名「冬室宗幻」桃印の弟の可能性あり  
    前年春盟友素堂が官を辞して江戸上野不忍池畔に隠棲したことが誘い水となり、江戸市中小田原町の木尺の借家より郊外隅田川のほとりの江東深川村の草庵(後の芭蕉庵)に隠栖し、俳壇の俗流と絶縁する。深川の芭蕉庵も杉風の所有する生州の傍らにあったその別荘を提供したもので杉風は終生芭蕉の援助に努めた蕉門最古参の人である。当初杜甫の詩より庵号を「泊船堂」と号す。当時の深川は未開発で大変不便な場所であった。
(柴の戸)
    柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな  (続深川集)    
    消炭に薪割る音か小野の奥
    (続深川集)   
 
      芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて消失してしまった。  
      不卜撰「俳諧向之岡」(下、散逸)に発句九句入集。
   五月の雨岩檜葉の緑いつまでぞ (俳諧向之岡)
 
      「東日記」
  いづく霽傘を手にさげて歸る儈(俳諧東日記)(真蹟短冊)
 
      高野幽山が「誹枕」を出版。風虎・露沾・梅翁・任口・維舟・玖也・言水・春澄が集まる。芭蕉・其角の名前はない。  
1681年
延宝9年
(辛酉)
年頭吟 38歳    餅を夢に折結ふ歯朶の草枕  
    深川の草庵に門人李下から芭蕉の株を送られて愛好し、草庵の庭に植える。やがてこの株がよく繁茂して草庵の名物となり、人々から「芭蕉庵」と呼び習わされる。
   ばせを植えてまづ憎む荻の二葉哉  (続深川集)  
 
  3月   菅野谷高政撰「ほのぼの立」の内田順也の序に当風三句を挙げた中に
   枯枝に鳥のとまりたりや秋の暮れ (曠野)(東日記)
の句が当風の代表句として引かれる。俳壇全般に漢詩文調による談林超克の気運が高まり、ことに芭蕉において「わび」への志向が著しい。
 
  5月15日   高山伝右衛門宛書簡は芭蕉の最も古い書簡とされる。秋元藩(当時甲州谷村を支配)の家老・麋塒を指導した書簡である。  
  6月中旬   池西言水撰「俳諧東日記」に15句入集
   五月雨に鶴の足短くなれり    (俳諧東日記)
 
  7月下旬   其角、揚水、才丸との四吟の百韻二巻、五十韻一巻を「次韻」と題して出版する。  
  7月   京の信徳一派の「七百五十韻」(正月刊)に呼応して「俳諧次韻」二百五十句を刊行。談林脱皮の意欲を示す。  
  7月   美濃大垣の谷木因を迎え素堂とともにしばしば俳交を重ねる。  
  7月25日   木因宛書簡  
      「次韻」は、談林調の残滓を残しながら、漢詩的境地へと鈍化前進しようとする姿勢が見られる。  
    (月侘斎)
   侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌
 
延宝年間     浅井正村撰「堺絹」に1句入集  
1681年
天和元年
9月29日   改元  
    「寒夜の辞」「乞食の翁」の句文を草す。
 (茅舎の感)
   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉   芭蕉   (武蔵曲)
「芭蕉」の署名の見える最も早い句
( 寒夜の辞)          
   櫓の声波を打って腸氷る夜や涙     (武蔵曲)
           
 
      このころ深川臨川庵留錫(りゅうしゃく)中の仏頂禅師につき禅を修める。 堀田正俊大老となる。
      清風撰「おくれ双六」に発句1入集
   郭公招くか麦のむら尾花    (俳諧おくれ双六)
凶作により米価騰貴
      似春撰「芝肴」に百韻二巻入集  
      歳暮吟
   くれくれて餅を木魂のわびね哉 (天和二年歳旦発句牒)
(真蹟懐紙・句切)
 
1682年
天和2年
(壬戌)
1月 39歳 板木屋又兵衛版「歳旦発句牒」の巻頭に「暮れ暮れて」が掲げられ江戸俳壇における芭蕉の地位を窺わせる。 凶作前年に続く
山崎闇斎没、65歳
  1月上旬     茅屋子撰「俳諧関相撲」に芭蕉批点の歌仙を収録。同書に三都(京・江戸・大坂)トップクラスの点者十八名中の一人として載る。この本は京都の未達が自分の作品を三都の俳諧師に採点を依頼しその結果をまとめたもの。未達が採点を依頼した俳諧師はすべて俳諧史に名を残した錚々たる人々であり、「俳諧関相撲」が企画されたのは延宝末年頃のようだからこの頃芭蕉は江戸を代表する俳諧師の一人と目されていたことがわかる。   
  2月上旬   谷木因宛書簡に初めて「はせを」と署名す。  
    京の千春再び東下して蕉門一派と交流。  
  3月上旬   千春その成果を「武蔵曲」と題し、北村季吟の序文を得て京版で出版。ほとんど蕉門の書の観あり。千春撰「武蔵曲(むさしぶり)」に初めて「芭蕉」の俳号を使用。発句六・百韻一入集
   梅柳さぞ若衆かな女かな (武蔵曲)(木因宛真蹟書簡)
3月西山宗因没、78歳
  3月20日
付書簡
  谷木因宛書簡で西上の約束をしている。
   あさつきに祓やすらん桃の酒 其角
   梅咲り松は時雨に茶を立る比 杉風
 
  4月   大坂の如扶撰「俳諧三ヶ津」に発句1入集  
  4月   大坂の風黒撰「高名集」に発句1入集  
  5月   仙台の三千風撰「松島眺望集」に発句1入集  
  5月15日   高山伝右衛門(麋塒)宛書簡
   芋茎の戸蕗壺の間は霜をのみ
 
  8月14日   素堂、京の信徳とともに高山麋塒亭の月見の会に一座
   月十四日今宵三十九の童部 (真蹟短冊)(三津和久美)
9月西鶴「好色一代男」刊
  9月   延宝八年六月と同じ町触が発行されている。文言はほとんど同じであるが名前の箇所が桃青から六左衛門に変わっている。芭蕉は延宝八年の冬に日本橋から深川へ移住しているから芭蕉の仕事を六左衛門が受け継いだのである。  
   秋       朝顔にわれは食(めし)くふおとこ哉 (筒朝顔画賛)
其角の「草の戸に我は蓼くふ蛍かな」の句に調和した句である。
朝湖圓の署名は画の作者英一蝶の初号
         (都留市博物館)
 
  12月28日    本郷駒込大円寺から出火した江戸大火(八百屋お七の振袖火事)のため深川の芭蕉庵が類焼。芭蕉はやがて旅の詩人として旅に身を置く転機ともなった。   
      要津寺も俗に八百屋お七の火事で焼失して一時は廃寺になっていた。  
      住所を失った芭蕉はひとまず日本橋堀江町の其角宅に身を寄せさらに其角の菩提寺であった二本榎の上行寺に仮寓した。  
          世にふるもさらに宗祇のやどり哉
飯尾宗祇の「世にふるも更に時雨のやどり哉」の句をもじったものである。芭蕉真筆のこの短冊を長慶寺の境内に埋めて塚を築いたのが、芭蕉時雨塚である。時雨塚の正面は「芭蕉翁桃青居士」と刻まれ、芭蕉の墓になぞらえて、俳人らがこの寺に来て、香花を捧げた。のちに隣に其角の「宝晋斎其角墓」、嵐雪の「玄峰嵐雪居士」の碑が立っていたが関東大震災や戦災のためにすべて失われた。
 
1683年
天和3年
(癸亥)
1月初め   甲斐の国谷村(山梨県都留市)藩主秋元但馬守高朝の国家老で芭蕉門弟の高山麋塒(本名は繁文(高山伝右衛門)、千二百石の武士)の招きを受けて芳賀一晶同伴で谷村の桃林軒で半年間ほど流寓生活を送ることになった。天和3年5月江戸に戻るまで世話になる。
          (都留市博物館)
近松が最初期の作『世継ぎ曽我』を宇治加賀掾のために書きおろす。
  40歳 麋塒・芳賀一晶との三吟歌仙成る。
立句
   夏馬の遅行我を絵に見る心かな (俳諧一葉集)
       変手ぬるく滝凋ム滝    麋塒
(夏野の画讃)
   馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野哉   (水の友)
           
 
  5月   其角や門弟らの勧めによって甲斐の国から江戸に帰る。一時日本橋船町の小沢卜尺や杉山杉風の家に仮寓した。其角撰「みなしぐり」跋に新風『侘び』の特色を宣示。発句13・漢句1・歌仙3入集。
   朝顔にわれは食(めし)くふおとこ哉(みなしぐり)
 
  6月20日   郷里の母没。享年不詳。法名「梅月妙松信如」愛染院に葬られる。  
  6月中旬   23歳の其角の編んだ漢詩文の句調の「虚栗」(芭蕉跋)に発句13、漢句1、一座の歌仙3入集。天和新風の特色を示す。跋文で芭蕉は、「虚栗」が、杜甫・寒山・楽天などの心を直接学ぼうとしたものであることを説く。これは「次韻」の老荘趣味からさらに深い境地に到達したことを示している。
   時鳥正月は梅の花咲けり   (あつめ句)(虚栗)
   鶯を魂に眠るか嬌柳             (虚栗)
 
  9月   其角・一晶が音頭をとり、素堂が「芭蕉庵再建勧進簿」を作り、門人知友52名からの寄金で芭蕉庵の再建に乗り出す。  
    知友門人の喜捨によって、深川に新築された第二次芭蕉庵(住所は旧庵の跡で深川元番所森田惣左衛門屋敷内)に入庵。
   霰きくやこの身はもとの古柏    (続深川集)
新庵での生活は極めてわびしいものであり、庵には文台・、大瓢・小瓢・檜笠・画菊・茶羽織のわずか六つであったという。この庵を中心とした生活は元禄7年(1694)5月8日芭蕉が最後の旅に出るまで続く。
 
       曾良、芭蕉に邂逅し、以後深川の芭蕉庵近くに住んで親交を結ぶ。  
1684年
天和4年
(甲子)
  41歳 歳旦吟
   はる立つや新年古城米五升(真蹟短冊)(蕉翁句集)
 
1684年
貞享元年
2月21日   改元  
  8月中旬~
貞享2年
4月末
  門人苗村千里を伴い野ざらし紀行」(別名「甲子吟行」「甲子紀行」)の旅へと江戸を出立。翌貞享2年4月末に及ぶ約9ヶ月間の旅、目的1前年6月20日になくなった郷里の母の墓参。2大垣の谷木因に会うため
   野ざらしを心に風のしむ身哉 (野ざらし紀行)(真蹟草稿)
   秋十年かへって江戸をさす故郷    (野ざらし紀行) (真蹟草稿)
   唐崎の松は花より朧にて  (野ざらし紀行)(真蹟短冊) 

2月義太夫、竹本座の櫓をあげる
      箱根の関所
   霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き   (野ざらし紀行)  
 
      尚白(医師。蕉門十哲の一人)撰孤松集
   唐崎の松は花より朧かな
 
      富士川
   猿を聞く人捨て子に秋の風いかに (野ざらし紀行)
   霜を着て風を敷寝の捨子哉(延宝5年)
芭蕉は運命とか天命とかについては現代人以上にわりきっていたようだ。
 
      馬上吟
   道のべの木槿は馬に食はれけり    (野ざらし紀行) (真蹟自画賛・短冊)
 
  8月20日過ぎ   小夜の中山を通過。
   馬に寝て残夢月遠し茶の煙       (野ざらし紀行) (真蹟懐紙・自画賛)
6月西鶴弐萬参千五百句独吟
  8月末   伊勢山田到着。松葉屋風瀑(伊勢国渡会の産。江戸住。一晶の門人。俳人。藤堂家藩士。元禄13年没)を訪ねて約10日間滞在。雷枝・勝延・廬牧らとも風交あり。    8月大老堀田正俊刺殺さる。
  8月晦日   外宮参拝
   晦日月なし千歳の杉を抱く嵐       (野ざらし紀行) (真蹟懐紙)
 
      西行谷
   芋洗ふ女西行ならば歌詠まん  (野ざらし紀行)(真蹟草稿)
 
      閑人の茅舎を訪ひて 廬牧をさす
   蔦植ゑて竹4,5本の嵐哉
      (野ざらし紀行)
 
  9月8日   旅の途次伊賀上野に帰郷。4,5日逗留。去夏死去した母の霊を弔う。前年の天和三年六月二十日に亡くなった母の墓前で芭蕉は、[母の白髪をおがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやや老いたりと、しばらくなきて」と前書きし、
   手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜 (野ざらし紀行)
 
  9月中旬   大和竹内村の千里の実家に至り数日逗留その後当麻寺に詣で、次いで秋の吉野山に遊ぶ。、
    僧朝顔幾死に返る法の松    (野ざらし紀行)
    きぬたうちて我にきかせよ坊がつま   (曠野)   (野ざらし紀行)
    碪打て我にきかせよや坊が妻     (甲子吟行)
 
      西行の旧庵を訪ね
    露とくとく試みに浮世すすがばや (野ざらし紀行) 
 
      後醍醐帝の御廟を拝む。
    御廟年経て偲ぶは何をしのぶ草 (野ざらし紀行) 
 
  9月下旬   大和から山城、近江とたどり、美濃に入って今須、中山を経、常盤御前の塚を見る。
    義朝の心に似たり秋の風     (野ざらし紀行)    
 
  9月下旬   不破の関跡を見る。
    秋風や藪も畑も不破の関     (野ざらし紀行)
 
  9月末   大垣に谷木因を訪ねる。滞在中、如行嗒山らとも風交あり。
    死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮  (野ざらし紀行)
 
  10月   木因同道して、大垣から舟路揖斐川を下り、桑名に至る。本統寺琢恵上人をも訪う。
    冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   (野ざらし紀行)
 
  11月上旬   桑名より海上熱田に渡り、林桐葉を訪ねて12月下旬ころまで逗留。「熱田三歌仙」。
    海くれて鴨の声ほのかに白し  (野ざらし紀行)
 
  初冬のころ   亭主以下東藤、叩端、工山、閑水らの俳人と風交を重ね熱田神宮にも参詣。
    忍ぶさへ枯れて餅買ふ宿り哉  (野ざらし紀行)
 
  11月ころ   熱田にて唱和後、名古屋に入る。名古屋に山本苛兮、岡田野水、坪井杜国・重五・正平・羽笠のグループを訪う。名古屋において苛兮らと「狂句木枯らしの」を巻頭とする「冬の日」(俳諧七部集中の第一集)の尾張五歌仙を巻き蕉風の確立を示す。
    狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉 (野ざらし紀行) (冬の日) 
    草枕犬もしぐるるか夜の聲     (曠野)(甲子吟行)
この頃越人芭蕉に対面入門したか。杜国芭蕉に入門。
 
  12月   杜国亭に遊ぶ。
    白芥子に羽もぐ蝶の形見かな   (野ざらし紀行) 
 
  12月19日   熱田に戻る
    海暮れて鴨の声ほのかに白し   (野ざらし紀行)
  12月25日   、旅の途次再び伊賀上野に帰り越年。
    年暮れぬ笠着て草鞋はきながら (野ざらし紀行)
この年、去来(34)、其角(24)を介し芭蕉に入門。
 
1685年
貞享2年
(乙丑)
1月 42歳 郷里で越年。2月下旬まで滞在。
    誰が聟ぞ歯朶に餅負ふうしの年  (野ざらし紀行)  (あつめ句・真蹟短冊)
正月貞享暦施行
山鹿素行没64歳
風虎没67歳
      路通、近江国膳所で芭蕉に入門  
  正月28日   山岸半残(重左衛門)宛書簡
    禰宜独人は桜のまばら哉
 
    藤堂探丸(旧主人藤堂良忠の嫡男)より肴を贈らる。 近松が竹本義太夫のために『出世景清』を書き与える。
      伊賀を出て奈良に出づる道の程
   春なれや名も無き山の朝霞     (野ざらし紀行)
 
  2月中旬   奈良興福寺の薪能、2月堂のお水取りを見物。その前後再び大和竹内村にも遊ぶ。
   水取や氷の僧の沓の音       (野ざらし紀行) 
 
  2月下旬~
3月上旬頃
  京都に遊び鳴滝の三井秋風の別荘に約半月逗留。伏見の西岸寺に任口上人を訪う。
   わが衣に伏見の桃の雫せよ       (野ざらし紀行)  (真蹟懐紙)
   梅白しきのふや鶴を盗まれし  (野ざらし紀行)
   橿の木の花に構はぬ姿かな      (野ざらし紀行) (曠野)
 
  3月上中旬頃   大津に入る。江左尚白(36)、三上千那(35)、青亜ら相携えて入門。
   山路来て何やらゆかし菫草 (野ざらし紀行)(真蹟懐紙)
初めは3月下旬に熱田連衆中と白鳥山に詣でた時に
   何とはなしに何やらゆかし菫艸  と詠んだ。後逢坂山を越える旅人の気持ちに詠みかえて
   山路来て何やらゆかし菫草
  とした。
   から崎の松は花より朧にて (野ざらし紀行)(真蹟短冊) (曠野)千那宛書簡および「鎌倉海道」(享保10年版)によるとこの句は千那亭に於いてよまれたものである。「鎌倉海道」に
    辛崎の松は花より朧にて   翁 
    山はさくらをしほる春雨     千那
  
  3月中旬   大津から東海道筋を下り東海道水口の宿で芭蕉を慕って追って来た土芳と当地の医師柳軒とに寛文5年以来20年ぶりの感激の対面をする。(往時、幼少の土芳は13歳年長の芭蕉に師事したが境遇かわって藩士の服部家を継ぐ身となり、藤堂藩士の土芳は公務で長く播磨の国に出張滞在していた)4,5日逗留する。この再開を転機に、土芳は俳諧に専念する決意を固める。
   命二つの中に生きたる桜哉    (野ざらし紀行)    
 
  3月下旬   桑名本統寺琢恵方に3日逗留。
   冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   (野ざらし紀行)    
 
  3月25,6日ごろ   熱田再訪。4月8日まで滞在。
   しのぶさへ枯れて餅買ふやどりかな
 
  3月27日   熱田白鳥山法持寺で桐葉、叩端と歌仙二を巻く。前年の一巻と合わせ「熱田三謌僊」という。
   何とはなしに何やらゆかし菫艸
   思ひ立つ木曾や四月の桜狩り    (幽蘭集)
『熱田皺筥物語』に『翁これより木曽に赴き深川に帰り給ふとて』と前書がある。
兼好「思ひ立つ木曾の麻衣浅くのみ染めてやむべき袖の色かな」(名所方角抄)をふまえた句作り
 
  4月4日    鳴海の知足亭で桐葉、業言、自笑、如風らと九吟二十四句興行。  
      此の頃越智越人(29)が入門  
  4月9日   鳴海、如風亭で歌仙興行  
  4月10日   鳴海の知足邸を発し、名古屋から木曽路に入り甲斐を経て帰東の途に就く
   行く駒の麦に慰む宿り哉     (野ざらし紀行)  
 
  4月末   木曽路甲州路経由で月末に江戸帰着。①「野ざらし紀行」(別名「甲子紀行」「甲子吟行」)の旅を終る。このころまでに河合曽良(37)が入門。
   夏衣いまだ虱を取りつくさず    (野ざらし紀行)  
 
  5月12日   千那宛書簡
   山路来てなにやらゆかしすみれ草  (野ざらし紀行) (真蹟懐紙)
 
  6月2日   江戸小石川において出羽尾花沢の鈴木清風を迎え、古式百韻(七吟百韻俳諧)興行。(連衆)清風、芭蕉、嵐雪、其角、才丸、コ斎、素堂。  
  7月18日   千那・尚白・青鴉連名宛書簡を執筆  
    風瀑撰「一桜賦」に発句1入集。  
    其角撰「新山家」に発句1入集。  
      杜国空米売買の罪で領内追放となり三河の国保美村に隠棲。  
      素堂が芭蕉庵近くの葛飾に居を移す。以降二人の親友は度を増す。  
  9月15日   其角、深川八幡参詣の途次芭蕉庵を訪れ、夢中に一句を得たことを語る。  
  12月   (自得の箴)
   めでたき人の数にも入らむ老の暮     (あつめ句) (真蹟懐紙)           
 
  冬ころ   曾良入門して芭蕉庵の近くに住んだ。  
1686年
貞享3年
(丙寅)
1月 43歳 其角歳旦帖(井筒屋版)に歳旦ならびに歳暮吟入る。
歳旦吟
   幾霜に心ばせをの松かざり         (あつめ句)  (其角歳旦帖)
其角、俳諧宗匠立机はこの年か。
下河辺長流没。61歳
任口没81歳
       5歳年少の曽良に対する芭蕉の信頼は厚く俳文「雪丸げ」では「交金をたつ(断金の交わり=友情が固いこと)」と表現されている。  
      歳旦三物集に発句2  
  正月   其角らと「初懐紙」百韻を巻く  
  1月   江戸蕉門十七人の「鶴の歩み」百韻に一座。その前半五十韻に評注(「初懐紙評注」という)を加えて貞享風の在り方を示す。  
  3月20日   出羽の鈴木清風の江戸の仮寓で其角・嵐雪・曽良その他と七吟歌仙を巻く。
   花咲きて7日鶴見る麓哉    (俳諧一橋) (あつめ句・真蹟懐紙)
 
  3月下旬   大坂の西吟撰「庵桜」に1句入集  
     (垣穂の梅)
   留守に来て梅さへよその垣穂かな   (あつめ句)       
 
    寂照(知足)宛書簡
   かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ (寂照宛真蹟書簡)(俳諧千鳥掛)
 
    芭蕉庵で「古池やかわず飛び込む水の音を巻頭に衆議判による蛙の句の二十番句合「蛙合」を興行。」参加者40名という。志太野坡の奉公した越後屋には「蛙合」の句会に参加している小泉弧屋という同僚がいた。のち野坡と一緒に「炭俵」を編むことになる池田利牛は野坡の奉公していた越後屋三井家の支配人であった。「古今集」序「みづにすむかはずのこゑをきけば」以来の伝統季題(鳴く蛙)にいどんでどれだけ俳諧独自の新しみが出せるかを試みたものである。「古池」は芭蕉庵の傍らの池。
   古池や蛙飛びこむ水の音      (春の日)(蛙合)(あつめ句・真蹟懐紙・短冊・自画賛・旬切)
    いたいけに蝦つくばふ浮葉哉  仙化
 
  閏3月   仙化撰「蛙合」として出版される。  
  6月中旬   風瀑著「丙寅紀行」に発句1端物連句1入集。  
  8月15日   芭蕉庵で月見の会を催し、其角、仙化、吼雲らと隅田川に舟を浮べる。
   名月や池をめぐりて夜もすがら       (あつめ句) (孤松)
 
  8月下旬   尾張蕉門の山本苛兮編「春の日」(「俳諧七部集」中の第二集)が出版される。発句三句入集
   雲折々人をやすむる月見哉    (春の日)(あつめ句) (真蹟懐紙・孤松)
   馬をさへながむる雪のあした哉(春の日)
 
  8月下旬   去来稿「伊勢紀行」に跋の句文を与える。
   東西のあわれさひとつ秋の風     (真蹟懐紙)
 
  9月   清風撰「俳諧一橋」に歌仙1入集。  
    句文「四山の瓢」成る。芭蕉が山口素堂に乞うて芭蕉庵の米入れの瓢に銘を求める。素堂応えて、句毎に山を詠み入れた五言絶句瓢名を作る。芭蕉はこれによって瓢を四山と命名した。大きな瓢は芭蕉庵再建の時、北鯤(石川氏。「桃青門弟吟20歌仙」の一人)から贈られた。
   ものひとつ瓢は軽き我が世かな
 
     (笠の記)
   世にふるも更に宗祇のやどりかな          
 
不明 不明    信濃路を過るに
   雪ちるや穂屋の薄の刈残し  (猿蓑)
陰暦7月27日、諏訪の神が御射山狩に出でます時、薄の穂でお假屋を作り、小鳥を狩つて神贄にそなへる習慣がある。そのお假屋のことを穂屋といふ。これは祭神建御名方命が出獵された時薄の穂で葺いた小屋に泊られたといふ故事に基いている。この神事の行われる場所、諏訪神社の東南三里の地を穂屋野と呼ばれるが此處では地名をいふのではない。これから深い冬に閉ざされようとしている信濃路の山ふところの薄原が、まだらに刈残されてあって、ほうけた穂にちらちらと粉雪の降りかかっている様である。このときの文献が発見されていないがこの国は冬ざれの信濃路の気分がよく出て居り、殊に刈残しと断定していることも大膽なので空想の作ではないといふことに大方の説が一致している。
 
  12月18日   「初雪や幸ひ庵」成る  
    訪庵の曽良に「雪まるげ」の句を与える。
   きみ火をたけよき物見せん雪まろげ       (花膾)(真蹟色紙)
曽良は芭蕉の「鹿島紀行」「奥の細道」に随行することになる。
句文「閑居の箴」成るか
 
    (深川の雪の夜)
   酒のめばいとど寝られぬ夜の雪 (俳諧勧進牒)          
 
      嵐雪この年三十年に及ぶ武士奉公を辞す。  
      土芳、藩を致任して蓑虫庵に入り、半残とも連携して伊賀蕉門の形勢に与る。  
1687年
貞享4年
(丁卯)
1月 44歳 嵐雪の妻から正月小袖を贈られて歳旦吟を成す。
   誰やらがかたちに似たり今朝の春    (続虚栗集) (真蹟短冊)
   誰やらが姿に似たり今朝の春      (泊船集)
 
      藤堂藩では他国に働く領民に、帰国して再度出国の許可を得るように命じる。  
  正月20日   知足宛書簡
   気晴ては虹立空かよもの春 其角
 
    東下中の去来を囲み其角、嵐雪とで四吟歌仙あり。  
    鳴海の知足に頼まれ、笠寺奉納の発句を送り且つ夏中に西上の予定を告ぐ。
   笠寺や漏らぬ岩屋も春の雨    (寂照宛真蹟書簡)(俳諧千鳥掛)
 
  3月25日   京都の去来を迎えて四吟歌仙興行。(連衆)去来・芭蕉・其角・嵐雪
尚白撰『孤松』に十七句入集。
尚白、近江蕉門の中心としての地位を確立するが、「猿蓑」記の新風に追随できず。
 
  3月25日   門人孤屋の訪問を受ける。
   永き日も囀り足らぬひばり哉  (あつめ句)(真蹟懐紙・続虚栗)
   原中や物にもつかず鳴く雲雀  (あつめ句)(真蹟短冊・続虚栗)
 
  4月22日   工山宛書簡
   目に青葉山ほととぎす初鰹
 
  5月12日   其角の母妙務尼の57日追善俳諧に列席。其角・嵐雪と三物(俳諧三物の略称。発句・脇句・第三の三句の称。)
   卯の花も母なき宿ぞ冷まじき  芭蕉  (続虚栗)
   
香消え残るみじか夜の夢    其角
   色々の雲を見にけり月澄みて  嵐雪
   ほととぎす鳴く鳴く飛ぶぞ忙はし
 
  8月14日   曽良(芭蕉庵近隣に住んでいた)、宗波(本所の定林寺現在桃青寺の住職)を同伴し常陸の国(茨城県)鹿島の月見と鹿島神宮参詣をかね旅立つ鹿島に隠棲する仏頂禅師に再会するのが目的であった。深川より舟便で行徳へ、行徳より北総台地を横断し釜谷を経て、利根川畔布佐に至り布佐より夜舟で鹿島に着く。
   雪は申さず先づ紫の筑波かな
 
  8月15日   鹿島神宮に詣で
   この松の実生えせし代や神の秋    (鹿島詣)
 
  8月15日   鹿島根本寺の前住職、参禅の師仏頂和尚を訪ねて1泊。名月雨に逢う。
   月はやし梢は雨を持ちながら         (鹿島詣)(真蹟色紙)       
 
  8月中旬   鹿島の帰路、利根川・江戸川経由、行徳で神職を勤める旧友小西自準(旧号似春)を訪ねて俳交あり。  
  8月25日   紀行『鹿島詣」成る。(「貞享丁卯仲秋末5日』と奥書)同じ頃「貞享丁卯仲秋」と奥書した別の清書本を杉風に贈る。
   寺に寝てまこと顔なる月見哉       (鹿島詣)
 
    両三年来の発句34章を精撰して壱となす。(「あつめ句」または「貞享丁卯秋詠草」と呼ぶ。)
   里の子よ梅折り残せ牛の鞭
 
    素堂に『蓑虫の』句を贈る。素堂これに応えて「蓑虫説」を送る。芭蕉またこれに応えて『蓑虫説跋』を草す
   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵  (続虚栗)(あつめ句・真蹟自画賛・画賛・懐紙)
「蓑虫」は実際には鳴かないが、「枕草子」に「八月ばかりになれば、ちちよ、ちちよと果かなげに鳴く」とあり、以来、秋風が吹くと悲しげに鳴くものとして文学に扱われた。
 
  9月   内藤露沾邸で芭蕉帰郷に餞する連句会あり。七吟歌仙
   旅人と我が名呼ばれん初時雨   (笈の小文)
 
  10月11日   其角邸で芭蕉の帰郷を送る送別句会あり。由之、其角、嵐雪、ほか十一吟世吉成る。
   朝霜や師の脛おもふゆきのくれ 野坡
 
  10月   上記に巻のほか身辺の門友から送られた餞別の詩、歌、発句、連句を芭蕉自ら編して『伊賀餞別』1冊をなす。  
  10月   不卜撰『続の原』発句合冬の部判詞および跋を草す。
   花に遊ぶ虻な喰らひそ友雀
 
  10月25日   江戸を出立。東海道を帰郷の途に就く(いわゆる『笈の小文』の旅)翌貞享5年4月20日に及ぶ6箇月間の旅。鳴海、熱田、保美、名古屋、等で吟席を重ね、12月末帰郷。
   旅人と我が名呼ばれん初時雨    (笈の小文)
   いざゆかむ雪見にころぶ所まで      (曠野)
 
  11月4日   尾張国(愛知県)鳴海の下里知足亭に到着。7日まで菐言、如風、安信、自笑、重信ら鳴海常連と連日俳諧興あり。
   星崎の闇を見よとや啼く千鳥      (曠野)
   いざゆかむ雪見にころぶ所まで     (曠野)
 
  11月8日   熱田御修覆。(熱田神宮の修理造営)芭蕉が貞享元年の野ざらし紀行の旅の途次に参詣した時には、熱田神宮は荒廃衰微の極にあった。熱田桐葉亭に1泊。
   磨ぎなほす鏡も清し雪の花
 
  11月9日   越人と一緒に再び知足亭に戻る。  
  11月10日   越人を伴い、二十五里引き返して三河伊良湖崎畑村に蟄居中の坪井杜国慰問の旅に出立。杜国は家業の米庄にからんで空米売買の罪に問われ、追放の身となり、このとき畑村から保美の地に移り蟄居生活を送っていた。空米の事は、恐らく彼自らは関知しなかったのではなかったかと推察される。杜国は芭蕉から人柄と才能を愛されていた。
   さればこそあれたきままの霜の宿    (曠野)
「笈日記」には
   さればこそ逢ひたきままの霜の宿  
とあるが恐らく誤りであろうとしている。
    さればこそあれたきままの霜の庵  (泊船集)    
  
      伊ら湖崎に蟄居中の杜国を訪ねる途中、天津縄(今豊橋市内)手で詠んだ句。
    冬の日や馬上に氷る影法師     (笈の小文)
 
      「笈の小文」に「鳴海より跡ざまに二十五里尋帰りて、その夜吉田に泊る」とあって、
    寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき   (笈の小文)
    寒けれど二人旅ねぞたのもしき     (曠野)
 
  11月12,13日   両日面談。芭蕉・杜国・越人の三人で伊良湖崎にも遊ぶ。
   鷹ひとつ見付けてうれしいらご崎    (真蹟懐紙)   (笈の小文)
 
  11月13日   其角編「続虚栗」刊発句24句入集。
   花の雲鐘は上野か浅草か       (続虚栗)
 
  11月16日   杜国見舞いの往復五十里の旅を終えて再び知足亭に戻る。  
  11月21日   桐葉に請われて熱田に移る。4日間滞在。熱田神宮の修理造営。芭蕉が貞享元年の野ざらし紀行の旅の途次に参詣した時には、熱田神宮は荒廃衰微の極みにあった。
   磨ぎなほす鏡も清し雪の花      (笈の小文) 
 
  11月25日   名古屋に移り苛兮亭に入った。  
  12月13日   杉風宛書簡
    旅寝してみてみしやうきよのすす払   (曠野)
(笈の小文)
 
  12月   名古屋の書林風月孫助を訪ねた折の作。
   いざさらば雪見にころぶ所まで       (花摘)
 
  12月中旬   名古屋を出て郷里伊賀上野に向う。経路、佐屋回り、桑名まで渡船。以後東海道を上り、杖突坂で落馬。
   歩行ならば杖つき坂を落馬哉      (笈の小文)  (真蹟懐紙)
 
  12月末   旅の途次の帰郷。郷里伊賀で越年し、翌貞享5年3月19日まで約3箇月間滞在。
   旧里や臍の緒に泣く年の暮 (曠野)(笈の小文) 
生家前の大和街道に面して、芭蕉翁誕生の地碑とこの句碑が立っている。
 
      嵐雪この年宗匠となる。  
      「野ざらし紀行」初稿本作成される。  
      地誌「江戸鹿子」に「俳諧師」として雪柴・桃青・一晶・不卜・亀鶴(其角のこと)・西丸(才丸のこと)・調和・林中子・幸入・幽山・露言を登録している。  
1688年
貞享5年
(戊辰)
  45歳 正月を郷里で迎える。大晦日の夜旧友と酒を飲み夜更かしをしたせいで元旦は寝すごした。
   二日にもぬかりはせじな花の春 (曠野)(笈の小文) (真蹟懐紙)
 
      藤堂藩では他国に働く領民に、帰国して再度出国の許可を得るように命じる法令を再び出す。  
  1月9日   小川風麦亭の会
   春立ちてまだ九日の野山哉     (笈の小文)
 
      落梧の瓜畠集に
   山里は萬歳おそし梅の花
 
  2月初め   旧友宗七・宗無を同伴し、伊賀の国阿波の匠(三重県阿山郡大山田村)の新大仏寺に詣でる。
   丈六にかげろふ高し石の上     (笈の小文)
   枯れ柴やややかげろふの一二寸 (笈の小文)
   かれ柴やまだかげろふの一二寸   (曠野)
正月生類憐令発布
  2月4日   伊勢神宮参拝。五度目の参宮。尾張の杜国と落ち合い、益光と会吟する。以後、伊勢山田俳人と風交を重ねる
   何の木の花とは知らず匂い哉 (笈の小文)(真蹟懐紙)
   御子良子の一もとゆかし梅の花(笈の小文)(猿蓑)
網代民部の息に逢って
   梅の木になほやとり木や梅の花 (笈の小文) (曠野)(真蹟懐紙) 網代民部、一時伊勢俳壇に重きをなした談林系の俳人足代弘氏のことで當時既に故人となっていた。笈の小文には「足代民部雪堂に會」とあり、笈日記には「胡来亭」と前書して「是は父弘氏のぬし此道の風流に名あるゆゑなるべし」と記してある。その息は雪堂又胡来亭と号した。
   神垣や思ひも掛けず涅槃像      (笈の小文)(曠野)(真蹟懐紙)
地元の医師で俳人の斯波一有(俳号渭川)の妻である園女、伊勢参宮の芭蕉に入門。
 
  2月17日   山田を去る。  
  2月18日   伊賀の実家に戻り、亡父与左衛門のの33回忌追善法要に連なる。  
  2月19日   三河の杜国、江戸の宗波来訪。
   吉野にて桜見せうぞ檜笠     (笈の小文)(真蹟短冊)
   吉野にてわれも見せうぞ檜笠 万菊丸
 
  2月末頃~
約2旬
  岡本他意蘇の瓢竹庵で杜国とともに閑を養う  
  3月   芭蕉を厚遇した故主計(かずえ)良忠(俳号蝉吟)の嗣子、良長(俳号探丸)の別邸の花見に招かれ、往時を追懐して探丸と唱和する。
   さまざまの事思ひ出す桜かな(真蹟懐紙)(笈の小文)
上野城天守閣の傍らにこの句碑がある。玄蕃町の様々園にも同じ句碑がある。
4月東山天皇即位
      芭蕉判『十二番句合せ』入集。  
  3月中旬   服部土芳の新庵を訪れ、面壁の図に蓑虫』の句を書き与える。これにより蓑虫庵の称が生れる。土芳は家督を辞して蓑虫庵に隠棲、俳諧に専念する。伊賀蕉門の重鎮として、独身のまま風流三昧の生涯を送った。
   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
近鉄伊賀線上野市駅前から碁盤目状の町並みの中を通る仲立町通りを南下すると芭蕉翁五庵の一つ蓑虫庵がある。上野市駅前には東の空を仰いで立つ旅姿の芭蕉像がある。
 
  3月19日   伊賀上野の武士で俳人の岡本苔蘇の別荘瓢竹庵を出、万菊丸(杜国の戯号)を伴って吉野行脚に赴く。めいめいの笠の裏に「乾坤無住同行二人」と偽書した。
   よし野にて桜見せふぞ檜の木笠(笈の小文)(真蹟短冊)
   よし野にて我も見せふぞ檜の木笠(杜国)
 
      初瀬
    春の夜や籠り人ゆかし堂の隅   (笈の小文)
奈良県桜井市初瀬町にある長谷寺は、古来女性の信仰が厚く、[枕草子][源氏物語]更級日記]等王朝古典の舞台となっている。堂は本尊十一面観音を安置する本堂。
 
  3月下旬   南下して兼好塚を見物し大和に入る。
   淋しさや花のあたりの翌檜      (笈の小文)
   雲雀より上にやすろふ峠かな      (曠野))
笈の小文には「臍峠(多武峰より龍門へ越道也)」と前書きがあって
    雲雀より空にやすろふ峠かな (笈の小文)(真蹟短冊)
となっている。  
 
      大和草尾村にて
   花の陰謡に似たる旅ねかな  (曠野)(真蹟懐紙)
 
  3月   吉野見物、
西河
   ほろほろと山吹散るか滝の音  (曠野)(笈の小文)(真蹟自画賛・画賛・懐紙))
奈良県吉野にある西河の滝を訪れた折の作。
 
         日は花に暮れてさびしやあすならう   (笈の小文)
「あすならう」は「翌檜」とも。ヒノキ科の常緑高木で樹姿も檜に似る。檜をねたみ、明日は檜になろうなろうと言い続けて、ついに何にもなれずに老いたあわれな木といわれ、上をねたみ下をあなどる者の蔑称ともなる。
 
      吉野から高野へ向かう折、葛城山の麓を過る
   なほ見たし花に明け行く神の顔  (笈の小文)(猿蓑)
 
  3月   高野山参詣
    
    ちちははのしきりにこひし雉子の声 (曠野)(笈の小文)
(笈の小文)
    ほととぎす宿かる此や藤の花
    春雨の木下にかかるしづく哉    (笈の小文)
去来の「一昨日ハあの山越ツ花盛り」の句を称賛している。
  
  3月末   和歌浦に至る。奈良、大坂、須磨、明石を巡る。
   行く春に和歌の浦にて追ひ付きたり   
 
      紀伊路から奈良に向かう途中の吟
   ひとつ脱いで後におひぬ衣がへ (曠野)(笈の小文)(真蹟懐紙)
笈の小文に杜國の
   芳野出て布子賣たし衣がへ   と併記されている。
 
    嵐雪撰『若水』に2句入集。  
  4月8日   奈良で唐招提寺など見物。伊賀から来り合した猿睢、卓袋らの饗応を受ける。
   若葉して御めの雫ぬぐはばや      (笈の小文)
御目は御影堂に安置される鑑真和上の乾漆像の目。唐僧鑑真が天平勝宝六年(754)唐の揚州から来朝、四年後、唐招提寺を創建。来朝の際、渡海の難に遭って幾度も引き返し、十一年目に目的を達したが困苦のため失明。国宝。
   灌仏の日に生れあふ鹿の子哉 (曠野)(笈の小文)
 
  4月11日   芭蕉と杜国は伊賀連衆に別れて南下し在原寺や業平ゆかりの「井筒の井」などを見て八木に泊った。  
  4月11日      草臥れて宿借るころや藤の花     (笈の小文)
初案は大和八木(橿原市内)に泊るころの作
   ほととぎす宿借るころの藤の花   (猿雖宛書簡)
 
      その後二人は、河内に入って、太子・藤井寺などをめぐり、今市、当麻寺、南河内を経て、
   鹿の角まづ一節の別れかな       (笈の小文)
 
  4月13日   大坂に入る。大坂では八軒屋の久左衛門方に入り6泊。郷里の旧友保川一笑を訪問。杜国と三吟二十四句興行。
   杜若語るも旅のひとつ哉         (笈の小文)
 
  4月19日   大坂を発足、尼崎より海路、兵庫(神戸市)に至る。
   月見ても物たらはずや須磨の夏    (笈の小文)
 
      明石夜泊
    蛸壺やはかなき夢を夏の月 (猿蓑) (笈の小文)(真蹟懐紙)
 
      「笈日記」の中の「瓜畑集」
    埋火もきゆやなみだの烹る音      (曠野)
 
  4月20日   兵庫より須磨・明石と名所旧跡(須磨寺・忠度塚等)を巡覧。鉄拐が峰に登って源平合戦の地を俯瞰し、平家滅亡の往時を遠く偲んで涙をそそいだ。笈の小文はこの滅びゆくものへの悲愁で幕が閉じられる。須磨にて1泊『笈の小文』の記事はここまで。但し、寄稿作品としての『笈の小文』は芭蕉の草稿の断篇を芭蕉没後に門人が編成したもの。杜国(万菊丸)との旅『笈の小文』の旅の後、芭蕉は京都、近江、美濃を経て尾張に出た。
   月はあれど留守のやうなり須磨の夏
 
  4月21日   兵庫布引の滝に上る。次いで山崎街道を京へ向い途中、乙女塚・箕面の滝・能因塚・か・山崎宗鑑屋敷など名所旧跡を見物。
   有難き姿拝まんかきつばた   (猿雖宛書簡)
 
  4月23日   京に入りしばらく逗留去来を訪れる。杜国は京から伊賀に立ち寄ったのち伊良湖から畑村の隠宅に帰った。
   花あやめ一夜に枯れし求馬哉     (蕉翁句集)
 
  4月23日~
6月6日
  京都・湖南の間に滞在
   五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 (曠野)(真蹟短冊)
 
  4月25日   惣七(猿雖)宛書簡
   ほととぎす宿かる頃の藤の花
 
  5月   己白に誘われ岐阜を訪問  
  5月下旬   大津に至る
   海は晴れて比叡降り残す五月哉  (真蹟懐紙写)
木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、まづ瀬田の螢を見に出でて
   草の葉を落つるより飛ぶ蛍哉     (いつを昔)
   この螢田毎の月にくらべみん    (三つの顔)
   ほたる見や船頭酔ておぼつかな(猿蓑)
 
  6月   岐阜を経て尾張に入る  
      笈日記尾張の部に「大曽根成就院の歸るさに」と前書きがあって「有とあるたとへにも似ず」となっている。
   何事の見たてにも似ず三かの月(曠野)
 
  6月5日   大津、奇香亭で『鼓子花の』十吟歌仙興行。尚白、千那ら一座。
   鼓子花の短夜眠る昼間哉
 
  6月6日   大津出立。  
  6月7日   大堀を通過。
   昼顔に昼寝せうもの床の山        (韻塞)
 
  6月8日~
6月末
  岐阜に滞在。岐阜に名古屋の苛兮・越人らが来り、ともに滞在。長良川の鵜飼を見物する。その間に、落梧、己百、鴎歩、関の素牛(後号惟然)らの入門あり。岐阜蕉門が成立。
   又やたぐひ長良の川の鮎膾
 
  6月   (十八桜の記)
 このあたり目に見ゆるものは皆涼し          
 
  6月   (鵜舟)
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな (曠野)(真蹟懐紙)          
  
      去来の妹千子が亡くなったのは元禄元年五月15日であった。芭蕉は旅にあって美濃路でその事を知り次の句を洛の去来のもとに贈った。
   無き人の小袖も今や土用干       (猿蓑)     
 
      山路にて(稲葉山のこと)
  なつ来てもただひとつ葉の一つ哉    (曠野)
  なつ来てもただひとつ葉の一葉かな(附記)(笈日記)(泊船集)(真蹟懐紙)
 
  7月3日   名古屋城西、円頓寺に滞在。
   何事の見立てにも似ず三日の月   (阿羅野)
 
  7月上旬~
8月上旬
  名古屋・鳴海の間に滞在  
  7月7日~
7月13日
  名古屋より鳴海の知足亭に移り滞在。諸所に唱和を重ねた。
  よき家や雀よろこぶ背戸の粟    (俳諧千鳥掛)(真蹟懐紙・草稿)
  夕がほや秋はいろいろの瓢かな     (曠野)
 
  7月11日   知足るの案内で鳴海東宮社見物  
  7月14日~
8月上旬
  鳴海より馬で再び名古屋に移り更科の月見に備えて逗留
   隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子      (猫の耳)
 
      名古屋滞在中、上方に赴く野水に与えた送別句
   見送りのうしろや寂し秋の風
越人を伴なって更科に向かう途中の吟
   送られつ送りつ果ては木曽の秋(阿羅野)(笈日記)
   送られつ別れつ果ては木曽の秋 (更科紀行)
 
  8月上旬   越人同伴岐阜に移る。
   朝皃は酒盛りしらぬさかりかな(曠野)
 
  8月11日~
8月末
  越人と更科の月を称し、善光寺に参詣して江戸に帰るべく岐阜を出立。美濃の国から信濃路の旅に出立するときの留別吟
   送られつ送りつ果ては木曽の秋
月末江戸に帰着。その約20日間の旅の記を『更科紀行』という。②紀行の地の分は千字ほどの短さで十三句(うち越人は二句)が詠まれた。越人は俳人野水(名古屋呉服商で芭蕉を自宅へ泊めた俳人の紹介で芭蕉に入門し『春の日』以降『猿蓑』にいたるまで芭蕉に親炙した。この年芭蕉は45歳越人は34歳である。越人のほか苛兮(名古屋の医者)が[木曽路は山深く、道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、苛兮子が奴僕をして送らす。]と世話役の従者を一人つけてくれて三人旅であった。芭蕉が木曽路を歩くのは二度目であった。貞享2年の『野ざらし紀行』(42歳)の帰路は名古屋から馬籠、寝覚ノ床を通って洗馬経由で江戸へ向かったと推測される。
 
  8月中旬   木曽路に入る。寝覚の床、木曽の桟立峠、猿が馬場峠を経る。
紀行の一節に
高山奇峰頭の上におほひ重なりて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず、只あやうき煩のみやむ時なし。桟はし・寝覚めなど過ぎ、猿が馬場たち峠などなどは四十八曲りとかや。九折重りて雲路にたどる心地せらる
とある。昔の木曽路の旅は容易ならぬものであったろう。それ故にこそ苛兮は案内知る僕を従えさせたのであった。
   ひょろひょろとなほ露けしや女郎花
                   (曠野)(更科紀行)(真蹟画賛)
   あの中に蒔絵書きたし宿の月   (更科紀行)
   桟や命をからむ蔦葛        (更科紀行)
   桟やまづ思ひ出づ駒迎へ     (更科紀行)
   霧晴れて桟橋は目もふさがれず
   身にしみて大根からし秋の風   (更科紀行)
   木曽の橡浮世の人の土産哉
   (更科紀行)
   送られつ別れつ果ては木曽の秋 
 
  8月15日   更科到着。姨捨から名月を鑑賞する。
   俤や姥ひとり泣く月の友         (更科紀行)
「姨捨山」は信濃の歌枕中もっとも著名なもので、「古今集」「大和物語」の
    わが心なぐさめかねつさらしなや
             姨捨山にてる月を見て
の古歌以来「姨捨山」や「更科の月」を詠んだ詩歌は数えきれない。いまは姨捨駅に近い長楽寺(更埴市八幡)境内の大岩を姨を捨てたところと言い伝え、芭蕉も「姨捨山は、八幡といふ里より1里ばかり南に、西南に横をれて、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、ただあはれ深き山のすがたなり」と説明している。
 
      しなぬの國、更科といふ處に男住みけり。若き時に、親は死にければ、姨なん親の如くに相添へてあるに、其妻の心さがなくて、姑の老かがまり居たるを、悪みつつかき抱きて、深き山に捨てたまへてよ、とのみ責めければ、男、月のあかき夜、かき負ひて高き山にはるばる登り、そこに捨て置きて逃れ來ぬ。さて家に來て思ふに、年頃、親の如くに、養ひつつ相添ひてありければ、いと悲しく覺えけり。此山の上より、月いとあかく出でたるを眺めつつ、夜ひとよいも寐られず、かなしく覺えければ、
   我が心なぐさめかねつ更科や
             姨捨山に照る月を見て。
と詠みてなん又ゆきて迎へ返して來にけり云云。(大和物語)
   あひにあひぬ姨捨山に秋の月      宗祇
  
  8月16日   坂城に宿る。
   いざよひもまだ更科の郡哉   (曠野)(真蹟短冊)(更科紀行)
 
  8月中旬   長野の善光寺に参詣後、浅間山麓を通過
   月影や四門四宗もただ一つ      (更科紀行) 
 
  8月下旬ころ      吹き飛ばす石は浅間の野分哉  
  8月下旬   越人同道で江戸の芭蕉庵に帰る。(8月尾張から更科の月を賞する旅の紀行として「更科紀行」が成る。)  
      素堂『芭蕉翁、庵に帰るを喜びて寄する詞』を綴って無事帰庵を賀す。  
  9月10日   素堂亭で残菊の宴。  
  9月13日   芭蕉庵に後の月見の会を催す     
   木曽の痩せもまだなほらぬに後の月 (笈日記)
(木曽の谷集)(芭蕉庵十三夜)
仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて、詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。これ、才士・文人の風雅を加ふるなるや。閑人のもてあそぶべき者といひ、
且つは山野の旅寝も忘れがたうて(木曽路の山野の旅寝で見た月も忘れがたくて)、人々を招き、瓢をたたき、峰の笹栗を白鴉と誇る(木曽路の山から持ち帰った小粒の栗を白あの栗と仮称し興じて客にすすめる)。
 
         五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏哉  (茶の草子)
「茶の草子」に、「木曽の秋に痩せ細り、芭蕉庵に籠り居給ひし冬」と路通の文がある。
 
      集続の原
   花に遊ぶ虻な食ひそ友雀
 
1688年
元禄元年
9月30日   改元
  何事の見たてにも似ず三かの月   (曠野)
  あの雲は稲妻を待つたより哉     (曠野)
  
   12月3日   益光宛書簡 
   冬籠り又よりそはん此はしら     (曠野)(尚白宛真蹟書簡)
   襟巻に首引入て冬の月    杉風
 
  12月5日   其角宛書簡の中で芭蕉は俳諧の楽しさを述べた後
俳諧のほかは心頭にかけず、句のほかは口にとなへず、儒仏神道の弁口、ともにいたづら事と閉口閉口。
と書いている。
 
   12月17日   以水らと深川八貧の句を詠む。8誌のヒントは、芭蕉・依水・苔翠・泥芹・友菊・友五・曽良・路通である。
   米買に雪の袋や投頭巾       (路通真蹟懐紙)  (雪まるげ)
   二人見し雪は今年も降りけるか    (庭竃集)
11月柳沢吉保、側用人となる
  12月   支考の「笈日記」
   埋火もきゆや泪の煎る音       (阿羅野)
 
      嵐雪撰『若水』に発句2  
      不卜撰『続の原』に発句4入集  
      丈草病気を理由に遁世  
元禄元年     桃隣この年芭蕉に入門か。
凡兆このころ入門か
 
      路通、江戸に出て芭蕉庵近くに住む。  
1689年
元禄2年
(己巳)
元日 46歳    元日は田毎の日こそ恋しけれ (木曽の谷集)(真蹟懐紙)(橋守)  
      この年洒堂、芭蕉に入門  
  閏正月ころ   伊賀の猿雖宛書簡にも木曽旅行の強烈な印象を記してこの句を示す
   元日は田毎の日こそ恋しけれ
 
  正月早々   『去来文』所収の『夜伽の詞』(元禄3年春稿)によると去来にこの句を送って奥の細道の旅に出ることを婉曲に知らせたらしい。
   おもしろや今年の春も旅の空      (去来文)
 
  1月17日   兄半左衛門宛書簡に北国行脚の予定を告げる。  
  閏1月末頃   伊賀の猿雖宛書簡に三月節供過ぎ奥羽行脚発足の予定を告げる。  
  閏1月末頃   「更科紀行」の草稿成る。  
  2月   言水撰『俳諧前後園』に4句入集  
  2月15日   桐葉宛書簡
   かげろふの我が肩に立帋子哉  (真蹟歌仙巻一)(雪まるげ)
   陽炎の我肩にある紙子哉
 
  3月初め   奥の細道』の旅出立準備として、深川の芭蕉庵を平右衛門という人物に譲り、杉山杉風の別墅採荼庵(さいとあん)に移る。芭蕉が今度の旅で志したものは「耳にふれていまだめに見ぬさかひ」。同行の曽良は、それに備えて、奥羽・北陸の名所旧跡・歌枕・神社仏閣などのメモを作っている。
   草の戸も住み替る代ぞ雛の家  (おくのほそ道)
季吟、幕府に召される。
京俳壇を中心に景気の句を標榜する新気運が興隆する。
      採荼庵(さいとあん)の正確な地点は明らかではないが仙台堀川にかかる海辺橋付近という。海辺橋の南詰めに採荼庵跡碑と平成三年に造られた「芭蕉旅たち」のブロンズ像がある。芭蕉像の後から仙台堀川の南岸に沿った小径には「おくのほそ道」で詠んだ十八句の板の碑がある。  
       島崎藤村の長男島崎楠雄さんの緑屋の二階には二枚折りの枕屏風がありそれには藤村の筆になる四枚の色紙が貼られてあった。
    山はしづかにして性をやしなひ水は動いて情をなくさむ(洒ゃ落堂之記)
    古人のあとを求めず古人の求めたるところを求めよと南山大師のふてのあとにも見えたり(芝門之辞)
    行きかふ年もまた旅人なり(奥の細道)
    あさをおもひ又ゆふをおもふへし   藤村
    右はせを之ことをしるして楠雄のもとにおくる  印
「藤村が如何に芭蕉を敬慕したかも判るしそれがそのまま父より子に贈る人生へのはなむけであることも判った」と野田宇太郎は「馬籠手帳」の中で書いている。
 
  3月中旬   山本苛兮撰『阿羅野』(『俳諧七部集』中の第三集)に序文を書き与える。
    枯れ柴やまだかげろふの一二寸      (曠野)
    花の陰謡に似たる旅寝かな         (曠野)
    月花もなくて酒のむひとり哉        (曠野)
    橿の木のはなにかまはぬすがた哉    (曠野)
 
  3月20日   曽良を伴い奥羽行脚の途に就く。この日、深川より隅田川を舟で千住に至る。
   鮎の子の白魚送る別れ哉
 
  3月23日   落梧宛書簡
   草の戸も住みかはる世や雛の家    この初案を「奥のほそ道」へ収めるに際し、中七を「住み替はる代ぞ」に改めた。
 
  旧暦
3月27日~
9月6日
  曽良を伴い『奥の細道』の旅へと江戸を出立。白河・松島・平泉・羽黒・象潟・山中・と風吟を重ねる約6ヶ月間の旅。この旅中において『不易流行』の思索が始まり、最晩年の『軽み』の芸境へと深化発展することになる。
   草の戸も住替る代ぞひなの家
   行く春や鳥啼き魚の目は涙    (おくのほそ道)千住での見送りの人々に対する留別吟。
  
  3月27日   千住を発足。粕壁泊り。  
  仲春      疑ふな湖のはなも浦の春  (眞蹟集)  
  4月1日   正午頃日光着。東照宮参拝。芭蕉は「空海開基」とあるが実際は延暦年間勝道上人開基といわれる。
   あらたふと青葉若葉の日の光   (おくのほそ道)
 
  4月2日   裏見の滝・含満ヶ淵など見物。昼、那須黒羽を目指して日光を発つ。
   暫時は滝に籠るや夏の初め    (おくのほそ道)
 
  4月3日   那須野・黒羽に翠桃を訪ねる。13泊。  
  4月4から~
4月16日
  那須余瀬・黒羽逗留。して、付近の名所を巡遊す。
   秣負ふ人を枝折の夏野哉     (曽良書簡)
 
      下野国(栃木県)の雲巌寺の奥にある芭蕉禅の師である仏頂和尚の山居の跡を訪ねた
   木啄も庵は破らず夏木立 (真蹟懐紙)(おくのほそ道)
 
      湯本で湯泉神社参詣。
   湯をむすぶ誓ひも同じ石清水  (曽良旅日記)
殺生石を見物。黒羽の城代家老が馬をつけてくれた。途中「短冊をください」と頼む馬子に
   野を横に馬牽きむけよほととぎす(猿蓑)(おくのほそ道) (真蹟短冊)(句切)
 
  4月16日   那須高久の庄屋角左衛門方に泊まる。  
  4月20日   芦野で遊行の柳を見物。遊行柳はかつて西行が
「道のべに清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ」と詠んだと伝えられる柳。
   田一枚植て立去る柳かな      (おくのほそ道)
   西か東かまづ早苗にも風の音(何云宛真蹟書簡)(俳諧葱摺)
細道の旅立ちは、尊敬する西行没後五百年目に当たる。西行や能因ゆかりの地を探索することが一つの目的であった。
         (都留市博物館)
平成8年に奥の細道の芭蕉の自筆本が発見された。
  
  4月22日   白河の関を越えて奥羽に入る。
   風流のはじめや奥の田植うた      (猿蓑)
 
  4月下旬   何云宛書簡                      
   関守の宿を水鶏にとはふもの(何云宛真蹟書簡)(俳諧伊達衣) 
 
  4月22日~
4月28日
  影沼を見物し、須賀川に等躬(須賀川の駅長芭蕉と旧知の間柄)を訪ねて7泊
   風流の初めや奥の田植歌         (猿蓑)白河の関越えの感慨を須賀川の等躬亭で披露した。
 
  4月29日   須賀川を発つ。  
  5月1日   浅香山・浅香沼などを見物して、福島に泊まる。
   早苗とる手もとや昔しのぶ摺   (おくのほそ道)
 
  5月2日   佐藤庄司(藤原秀衡の臣)の旧跡を経て、飯坂温泉に一浴。
   笈も太刀も五月に飾れ紙幟    (おくのほそ道)
 
  5月3日   白石泊
   笠島はいづこ五月のぬかり道   (おくのほそ道)
 
  5月4日~
5月7日
  武隈の松を見て仙台に到着。仙台泊。「壺の碑」に「羇旅の労をわすれ」るほど感涙を催す。
   あやめ草足に結ばん草鞋の緒   (おくのほそ道)
 
  5月8日   末の松山を見て、塩竈に1泊。塩釜神社に参詣。  
  5月9日   「松島の月先心にかかり」と旅立つ前から待望の松島にわたる。島まわりをして、松島に着いたのは正午ごろ。渡月橋を渡り雄島・雲居禅師の座禅堂を見たり、草庵に暮らす道心と話をしたりして、その夜は松島に宿る。
   島々や千々に砕きて夏の海   (蕉翁全伝附録)
 
  5月10日   石巻  
  5月11日   登米。瑞巌寺(元、松島円福寺を政宗が瑞巌寺に改める)に詣ず。  
  5月12日   平泉へと急ぐ。一ノ関泊。  
  5月13日   一ノ関から平泉見物に出かける。。高館(義経の居館だった所)に上り、衣川・衣が関・中尊寺・光堂・秀衡屋敷等を巡覧した。藤原氏三代(藤原清衡・基衡・秀衡)の栄華を偲ぶ。一ノ関泊り
   夏草や兵どもが夢の跡  (猿蓑)(おくのほそ道)
 
      中尊寺金色堂を訪れての吟。元禄二年から五百六十五年前の天治元年、藤原秀衡の建立。
   五月雨の降り残してや光堂    (おくのほそ道)
初案
   五月雨や年年降るも五百たび  (曽良本おくのほそ道)
 
  5月14日   一ノ関を発った。岩手の里・小黒崎・美豆の小島などの歌枕を見物。  
  5月15日   鳴子を経てしと前の関越えに出羽新庄領に入り、堺田の庄屋新右衛門の兄宅に泊まる。  
  5月16日   大雨のため同所滞留
   蚤虱馬の尿する枕もと      (おくのほそ道) シトはふつう、子供の小便。動物の小便はバリというが、ここでは尿前(しとまえ)の関にひっ掛けてシトと読ませ、人と同居するに等しい馬を人並みに扱ってユーモア化した。
 
  5月17日~
5月26日
  尾花沢着。鈴木清風(かれは富めるものなれども、志いやしからず)亭などに10日間逗留。鈴木清風は、紅花を商う豪商で京・江戸では芭蕉との交渉も少なくなかった。
   涼しさを我が宿にしてねまるなり (おくのほそ道)
   這出でよかひやが下のひきの声 (猿蓑)(おくのほそ道)
   眉掃を面顔にして紅粉の花 (猿蓑)(真蹟懐紙)(おくのほそ道)
 
  5月27日   尾花沢を発ち清風の用意した馬で山形領の山寺(立石寺(りっしゃくじ))に参詣に赴く。宿坊に一泊
   閑かさや岩にしみ入る蝉の声   (おくのほそ道) 
 
  5月28日~
5月30日
  大石田(山形県)着。高野一栄宅に三泊。四吟歌仙興行。
   五月雨をあつめて早し最上川   (おくのほそ道)
 
5月29日 最上川の河港大石田の高野一栄亭で催された歌仙の発句
   五月雨を集めてすずし最上川(真蹟懐紙写し)(真蹟歌仙巻・曽良書留)     を改案したもの
  6月1日   大石田発。新庄着。渋谷風流亭に二泊。     
   水の奥氷室尋ぬる柳哉       (曽良書簡)
 
  6月3日   図司左吉(俳号呂丸。俳諧は蘇門。)宅に着く。呂丸羽、山伏の衣を染める染物業を営んでいる。    
  6月4日   羽黒手向村近藤呂丸の手引きで、一栄の紹介状を持って、羽黒山別当代会覚阿闍梨を南谷別院に訪ねて六泊。八吟の俳諧興行。
   有難や雪をかほらす南谷     (おくのほそ道)
 
  6月8日   月山に登り権現を拝す。
   涼しさやほの三日月の羽黒山  (おくのほそ道)
   雲の峰いくつ崩れて月の山 (おくのほそ道)(真蹟短冊)出羽三山巡礼の記念として詠んだ句
 
  6月9日   湯殿山に下る。
   語られぬ湯殿にぬらす袂かな (おくのほそ道)(真蹟短冊)
 
  6月10日   羽黒山を下山、呂丸の案内で、鶴岡城下に藩士長山重行を訪問、三泊。
   めづらしや山を出で羽の初茄子    (曽良書簡)
 
  6月13日   芭蕉と曽良は呂丸と別れ、最上川の支流を川舟で下り、酒田に至る。医師不玉(俳号玄順)宅を宿とする。二泊。  
   文月や六日も常の夜には似ず
(猿蓑)(おくのほそ道) (真蹟懐紙)
 
  6月14日   富商寺島安種の招きを受け、不玉ら土地の連衆も参加して歌仙が巻かれる。七吟連句一巡あり。
   暑き日を海に入れたり最上川
 
  6月15日    酒田発、象潟に向かって、十余里の道を北上した。吹浦一泊  
  6月16日、17日    象潟見物
   象潟や雨に西施が合歓の花  (おくのほそ道)  
 
  6月18日   酒田に戻り、不玉亭に六泊。
   温海山や吹浦かけて夕涼み   (おくのほそ道)   
 
  6月23日   玉志亭会
   初真桑四つにや絶たん輪に切らん (真蹟懐紙)
 
  6月25日   酒田発。  
      主従二人は加賀に向かい、羽前山形県の大部分街道を南下し、大山・温海・中村と泊りを重ねる。  
  7月2日   新潟一泊。  
  7月4日   新潟県三島郡出雲崎(佐渡を最も近く望む地)に泊まる。
   荒海や佐渡に横たふ天の河(真蹟短冊)(真蹟懐紙・おくのほそ道・色紙・草稿)
   文月や六日も常の夜には似ず (猿蓑)(おくのほそ道・真蹟懐紙)
佐渡には、万葉歌人穂積朝臣老が流されて以来中世までに、その数七十余人にのぼるといわれる。文覚上人・順徳天皇・日蓮上人・京極為兼・日野資朝・世阿弥等が有名である。
 
  7月7日   直江津で上の句を披露  
  7月12日   市振に一泊。
   小鯛插す柳涼しや海士が家 (真蹟懐紙)(雪まるげ)
   一家に遊女もねたり萩と月   (おくのほそ道 )   
 
  7月13日   黒部川を渡って越中に入る。  
  7月15日   倶利伽羅峠(義仲が平家の軍勢を追い落した古戦場)越えで加賀に入り、金沢城下に至る。九泊。京屋吉兵衛方に宿をとる。
   早稲の香や分け入る右は有磯海(おくのほそ道)(真蹟懐紙)
乙州、商用で加賀の国金沢にある時芭蕉と邂逅する。以後、上方滞在中の芭蕉を自宅に迎えたり、無名庵や幻住庵に訪れ、智月とともに、師の経済生活を支えた。また、加賀・江戸への家業の旅を通じて、蕉風伝播者の役割も果たす。大坂商人何処にも会う。
 
  7月17日       あかあかと日はつれなくも秋の風  (おくのほそ道)(真蹟自画賛・懐紙・画賛・竪幅 )金沢入りの途中吟。金沢源意庵における納涼句会で発表。
度の数年後に門人杉山杉風の所望により芭蕉が自ら書画共に筆を執り落日と萩の画を描いた「あかあかと」の発句画賛がある。
         (都留市博物館)
 
      一笑(36歳で没した。蕉門俳人)の墓に詣でて
   「塚も動け我泣く声は秋の風」 (おくのほそ道)(真蹟懐紙)
と慟哭の句を詠んだ。芭蕉は小杉一笑に会うことを楽しみにしていて小杉一笑の元に到着を告げた。ところが、二人の使いがやってきて、一笑は去年12月6日死去の由を告げたのだ。
 
  7月22日   追善句会
   塚も動け我泣く声は秋の風」
 
  7月24日~
7月26日
  金沢の北枝の案内で小松着近江屋に宿る。三泊。北枝芭蕉に入門。
   むざんやな甲の下のきりぎりす(猿蓑)(奥の細道)
小松の多田神社で平家の武将、斉藤別当実盛遺品の甲を拝観した折の作。「ほそ道」には、「実盛討死の後、木曽義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし樋口の二郎が使いせし事共、まのあたり縁起にみえたり」とある。実盛は、初め源義朝に仕えて、保元・平治の乱に従ったが、義朝滅亡後、母方の縁で平宗盛に仕えた。木曽義仲追討の戦に、かつて義朝より拝領した甲を着用し、白髪を染めて奮戦したが、義仲の臣手塚太郎光盛の手にかかって討死。義仲は二歳で父を討たれたとき、実盛に7日間養われ、木曽へ送られ中原兼遠に育てられた。その恩に報いようとした義仲は首があらわれ白髪の実盛とわかった時涙を流したという。当地の太田(多田)神社に実盛の句を奉納。木曽義仲の願状(寺社に奉納する祈願状)も拝観。
   
  7月27日~
8月4日
  山中温泉に至り、八泊。和泉屋久米之助宅を宿とす。北枝同伴。
   山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ  (おくのほそ道)
 
8月5日 今の石川県小松市にある那谷(なた)寺観音に北枝同道で詣でた折の作。境内は全山白っぽい石英粗面岩の奇岩怪石・洞窟から成り、奇勝清閑で知られる古い霊場。
   石山の石より白し秋の風  (おくのほそ道)(真蹟懐紙)
 
  8月5日   那谷寺を経て小松を再訪。北枝同伴。金沢以来腹の病気に悩まされていた曽良は、ここで芭蕉と別れ、伊勢長島大智院の叔父の許に急ぐことになる。
   今日よりや書付消さん笠の露   (おくのほそ道)
   行々てたふれ伏しとも萩の原(曾良)
 
  8月上旬   曽良は芭蕉と別れてから加賀大聖寺城下の全昌寺に一泊。この寺は曹洞宗で、山中温泉で宿った和泉屋の菩提寺である。現住職月印和尚は、和泉屋久米之助の叔父にあたる。
   終宵秋風聞やうらの山    曽良
芭蕉も曽良と同じ秋風を聞きながら、修道僧の寮舎にやすんだ
   庭掃いて出でばや寺に散る柳   (おくのほそ道)
  
      加賀と越前との国境にある吉崎(福井県金津町)の入江を舟で渡り、汐越の松を訪ねる。
   夜もすがら嵐に波を運ばせて
       月を垂れたる汐越の松  西行

この歌は、蓮華上人(室町時代、浄土真宗中興の祖。文明3年(1471)吉崎に赴き、地方を教化)の歌である。西行の歌と芭蕉の誤聞。芭蕉は西行を尊崇していた。
 
  8月上中旬   松岡で北枝と別れる。
   物書いて扇引き裂く余波哉    (おくのほそ道) 
  
      曹洞宗の総本山永平寺を訪ねる。  
  8月中旬   福井に等栽を訪ねて二泊。10年前等栽は江戸にやってきて芭蕉を訪ねた。
   名月の見所問はん旅寝せん(芭蕉翁月一夜十五句)
 
      燧が城(福井県今庄町)、木曽義仲の軍が平維盛勢に攻め落とされた古戦場。湯尾峠の向い側、燧山にあった。
   義仲の寝覚めの山か月悲し(芭蕉翁月一夜十五句)
 
   8月14日   洞哉同道で敦賀に着く。滞在中、『芭蕉翁月一夜十五句』等成る。
   月清し遊行の持てる砂の上 (猿蓑)(真蹟懐紙・芭蕉翁月一夜十五句・おくのほそ道)
 
  8月15日   雨降り
   名月や北国日和定なき(おくのほそ道・芭蕉翁月一夜十五句)
 
  8月16日   天屋五郎右衛門の案内で種の浜に遊ぶ。本隆寺に休息。
   寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋  (おくのほそ道)
   浪の間や小貝にまじる萩の塵   (おくのほそ道)
 
      敦賀逗留の間に、路通が迎えにやってきた。  
  9月   挙泊撰『四季千句』に五句入集  
  9月3日   曽良随行日記によるとこの日夕刻大垣に到着。
美濃の大垣に至って近藤如行の宅に滞在。曽良も伊勢より来て、越人も馬をとばせて如行(元大垣藩士、蘇門)の家に集まる。『奥の細道』の旅は当地大垣が終点となる。歩行距離は概略六百里。所要全日数百五十五日
翁行脚のふるき衾をあたへらる。記あり。之を略す。
    首出してはつ雪見ばや此の衾    竹戸(猿蓑)
如行亭に入った芭蕉は、如行の門人で貧しい鍜工の竹戸が身のまはりの世話をしてくれたので、記念として、行脚中携えた紙衾を与えたのであった。記ありとは芭蕉の記のことである。   
 
  9月6日   木因に送られ、曽良、路通を伴って伊勢大神宮の遷宮式奉拝のため大垣を出発。「奥のほそ道」の旅を終り又新しいたびに出るのである。見送りの大垣連衆に示した留別吟。
   蛤のふたみに別れ行く秋ぞ (おくのほそ道)(真蹟懐紙)
揖斐川下りで伊勢に向かう。越人、船乗場まで送る。
 
  9月7日    伊勢長島の大智院に三泊。後、津・久居に各一泊。
   憂きわれを寂しがらせよ秋の寺  (真蹟色紙)
 
  9月10日   貝増卓袋(市兵衛)宛書簡
  9月11日   伊勢山田に到着。  
  9月12日   同西河原の島崎又玄方を宿所とす。  
  9月13日   外宮遷宮式を奉排。
   尊さに皆おしあひぬ御遷宮 (真蹟懐紙)(泊船集)
   御子良子の一もと床し梅の花         (猿蓑)
 
  9月中旬   (明智が妻の話)
   月さびよ明智がつまの話せむ (俳諧勧進牒)(真蹟懐紙)
 
  9月中下旬頃   二見浦を見物
   硯かと拾ふやくぼき石の露 (杉風宛真蹟書簡)(芭蕉句選)
 
  9月下旬   李下を伴い、久居の知人を訪ねて2,3日泊る。芭蕉の姉の嫁ぎ先が久居であったとする説もある。李下は一宿後去る。  
  9月末~
11月末
  伊勢より伊賀上野に帰郷。山越えの途中『猿も小蓑』の吟あり。約2ヶ月郷里に逗留。
   初時雨猿も小蓑を欲しげなり (猿蓑)(真蹟懐紙・色紙)
「猿蓑」の巻頭に据える。
   こがらしや頬腫痛む人の顔          (猿蓑)
 
  10月   曽良江戸に戻る  
  10~11月   配力亭で『人々を』以下の表六句あり
西島百歳以下、式之・夢牛・村鼓・槐市・梅額らと七吟歌仙を巻く。
   人々をしぐれよ宿は寒くとも     (蕉翁全伝)
 
  11月1日   良品亭で六吟歌仙興行  
       雪の中に兎の皮の髭作れ    (いつを昔)(万菊丸宛書簡)(土芳本蕉翁全伝)  
  11月3日   半残亭で沢雉・卓袋・木白・松久・氷固・配力・一夢・梅額・尾頭・猿雖・式之・土芳・梅軒ら伊賀蕉門大寄せの十五吟五十韻俳諧あり。
   冬庭や月もいとなる虫の吟
 
  11月22日   土芳の蓑虫庵で九吟五十韻俳諧あり。園風・梅額・半残・良品・風麦・木博・配力らと一座。  
  11月末   郷里を出立。路通同道で奈良へ出、春日若宮の御祭りを見物。
   初雪やいつ大仏の柱立て (真蹟懐紙)(笈日記)
 
  12月24日   京都去来宅(落柿舎)で鉢叩きを聞く。去来に不易流行論を説く。(「去来抄」修業)
   長嘯の墓もめぐるか鉢叩き(真蹟自画賛)(いつを昔)
 
  12月末   大津に赴き膳所義仲寺の草庵で越年
   霰せば網代の氷魚を煮て出さん     (花摘)
曲翠、芭蕉が膳所を訪れて以来親交を結び、新風の伴侶として期待される。
 
      苛兮撰『あら野』に発句35・歌仙1、
   月花もなくて酒のむ独り哉   (曠野)
「芭蕉句選」には雑の部に入っている。
 
      等躬撰『葱摺』に発句5・歌仙1・三物2・端物1入集  
      名古屋横船撰『続阿波手集』に一句入集  
      歳暮吟
   何にこの師走の市に行く烏         (花摘)
 
      「江戸惣鹿子」なる。「江戸鹿子」に加えて蝶蝶子・山夕・嵐雪・沾徳らを付加している。  
1690年
元禄3年
(庚午)
  47歳 歳旦吟
   薦を着て誰人います花の春 (其袋集)(真蹟草稿)
   誰人か薦着ています花の春
 
  正月3日~
3月中旬
  膳所から伊賀上野に帰り約3ヶ月間滞在。「ほそ道」敦賀以来共にした路通は膳所に留する。諸門人と唱和。
支考近江国で芭蕉に入門。
契沖『万葉集代匠記』成る
3月20日杜国没
  1月4日夜   藤堂探丸方から招きを受ける。  
  正月17日   万菊丸(杜国)宛書簡
   初雪に兎の皮の髭つくれ
 
  3月2日   伊賀蕉門の小川風麦の宅で花見の宴その折の即吟発句は『軽み』を発揮したと自認。早速、連句においても『軽み』を試みるべく、同席の門人を相手に苦吟するが、不成功に終る。
   木のもとに汁も膾も桜かな (ひさご)(真蹟懐紙・短冊・扇面)「ひさご」の巻頭吟で「花見」と前書きする。
 
  3月上旬   実家に在って次の句を得る。
   種芋や花のさかりに売ありく
 
  3月   洒堂は芭蕉を自宅に招き「洒落堂記」を与えられる。
   四方より花吹き入れて鳰の波 (白馬集)(真蹟短冊)
 
  3月10日    杉風宛書簡
   種芋や花のさかりに売ありく (己が光)(真蹟草稿)
 
  3月下旬   伊賀より膳所へ出る。途中吟あり。
   蛇食ふと聞けばおそろし雉子の声    (花摘)
 
3月 膳所に出、
   木のもとに汁も膾も桜かな         (ひさご)
を立句とする翁・珍碩・曲水の三吟歌仙を巻く。この句に関して(花見の句のかかりを少し心得て、軽みをしたり)(「三冊子」赤)との芭蕉の言葉がある。
   3月下旬   膳所に赴き、近江蕉門の浜田珍碩、菅沼曲水を相手に「花見」の三吟歌仙を興行。『軽み』の発揮されたのを喜び「ひさご」(「俳諧七部集」中の第四集)の巻頭に飾る。
   行春を近江の人と惜しみける       (猿蓑)
越人、ひさごでは序文を請われるなどしたが、次第に師風の進展に従えず離反、消息を絶つ。
洒堂は「ひさご」の編者として急速に頭角を現す。
曲翠は幻住庵を提供するなど芭蕉の信頼厚く、芭蕉書簡では曲翠宛が最も多い。
 
      このころ各務支考(26)が近江で芭蕉に入門  
  4月6日~
7月23日
  近江石山の奥、国分山にある幻住庵に入る。幻住庵は芭蕉の門人菅沼曲水の伯父幻住老人が建てたもの。在庵中に『幻住庵の記』の稿の推敲を重ね、出庵の後に完成。前年の旅の疲労から、健康すぐれず。
   病雁の夜さむに落て旅ね哉
と詠む。
「・・・・やがて草庵の記念となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の檜笠、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。・・・・
   まづ頼む椎の木もあり夏木立 (猿蓑・短冊・懐紙))(真蹟短冊)」
 
  4月上旬   杜国の死(3月20日)を知る。  
  4月10日   怒誰宛書簡
   君やてふ我や荘子が夢心   (怒誰宛書簡)
 
  4月10日   此筋・千川宛書簡  
  4月16日   洒堂宛書簡
   夏草や我先達て蛇からむ    (洒堂宛書簡)
 
  5月6日   彦根藩士森川許六は江戸勤番の機に芭蕉に入門していたが帰国の途に就いた。以後、彦根蕉門の開拓者となる。
      許六が木曽路に赴く時
   旅人の心にも似よ椎の花
   椎の花の心にも似よ木曾の旅
   憂き人の旅にも習へ木曾の蠅
 
      凡兆、自宅にしばしば芭蕉を迎え、妻羽紅とともに親炙した。  
  6月初めより
18日まで
  一時上洛し凡兆、去来と歌仙「夏の月の巻き」を巻く。この間去来・凡兆と『猿蓑』の撰に着手。在京の間、凡兆宅を定宿とする。
   陽炎や柴胡の糸の薄曇り        (猿蓑)   
 
  6月上旬ころ   大坂より東湖(後、之道)、大坂本町の商家伏見屋久右衛門上京して入門。
   我に似な二ツにわれし真桑瓜
 
  6月上旬   京都に滞在していた間に「四条の河原涼み」を執筆
   川風や薄柿着たる夕涼み (己が光)(曲水宛真蹟書簡)
 
  6月20日   (小春宛書簡)
   京にても京なつかしやほととぎす (己が光)(小春宛真蹟書簡)
 
   6月下旬    膳所の珍碩方に逗留。
   四方より花吹き入れて鳰の波(白馬集)(真蹟短冊)
 
  7月   幻住庵に在住中の芭蕉が京都の北向雲竹(東寺観智院の僧。大師流の書家。芭蕉の書の師)の求めに応じて来送した雲竹の自画像に讃す。
   こちら向け我もさびしき秋の暮    (蕉翁句集)
 
      幻住庵滞在中の作。
   やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  (猿蓑)(真蹟句切)
 
  7月17日   立花牧童(彦三郎)宛書簡  
  7月下旬   「幻住庵記」再稿を改稿して第三稿を完成。  
  7月23日   幻住庵を引き払い大津・膳所に遊び、膳所義仲寺の無名庵を居所とする。   
      膳所(現在の滋賀県大津市膳所)の正秀たちが義仲寺にあった草庵を芭蕉のために改築することを計画した。  
  7月下旬   大津滞在中「幻住庵記」第三稿をさらに改稿、第四稿を得る。  
  7月下旬~
9月末
  湖南の地に滞在、おおむね膳所義仲寺境内の無名庵に居住。大津・膳所・京・堅田の間を転々する。
   京にても京なつかしやほととぎす (小春宛真蹟書簡) (己が光)
 
  8月4日   千那宛書簡
   猪もともに吹るる野分かな       (江鮭子)
 
  8月初め   義仲寺の草庵に入り以後約2箇月閑居。
木曽塚草庵、墓所近き心
   玉祭り今日も焼き場の煙哉      (蕉翁句集) 」
 
  8月13日   『ひさご』出版。芭蕉監修。珍碩撰『ひさご』に歌仙1入集。     
  8月15日   義仲寺草庵で門人らと月見の会を催す。この頃持病に苦しむ。
   月見する座に美しき顔もなし    (夕顔の歌)
 
  8月中旬   『幻住庵記』定稿成る。猿蓑に公表される。
   先たのむ椎の木も有り夏木立
 
  8月18日   加生(凡兆)宛書簡。義仲寺でかく。
   川風やうす柿着たる夕すずみ
 
  9月6日    曲水宛書簡
   甘塩の鰯かぞふる秋のきて
  
  9月12日   曽良宛書簡
   桐の木にうづら鳴くなる塀の内       (猿蓑)
 
  9月13日   堅田に赴き25日帰庵
   海士の屋は小海老にまじるいとど哉 (猿蓑)(真蹟句切)
 
  9月20日   「真蹟懐紙」の前書には「堅田にやみ伏して」とある。芭蕉自身も漁家で風邪を引いたらしい。
   病雁の夜寒に落て旅寝哉          (猿蓑)   
 
  9月26日   茶屋与次兵衛(昌房)宛書簡。堅田で風邪を引き病臥したことを述べてこの句を報じている木曽塚より芭蕉とある
   病雁の夜寒に落て旅寝哉
 
          ひごろ憎き烏も雪の朝哉     (俳諧薦獅子集)
袈裟東雲のころ、木曽寺の鐘の音枕に響き、起きいでて見れば、白妙の花の樹に咲きておもしろく
   つね憎き烏も雪のあした哉     (真蹟自画賛)」
 
  9月27日   京に出る。怒誰宛書簡
   雁聞に京の秋におもむかむ   (怒誰宛書簡)
 
  9月28日   帰庵。幻住庵を捨てて粟津の無名庵に移る。  
  9月下旬   伊賀上野に帰る。12月末まで約三ヶ月間滞在。その間に、京都・湖南に出向く。  
  10月10日   之道撰『江鮭子』に1句入集。  
  10月21日   嵐蘭宛書簡
   子や啼む其子の母も蚊の喰ワン
 
         木枯らしや頬腫れ痛む人の顔      (猿蓑)  
         干鮭も空也の痩せも寒の内   (猿蓑)(真蹟懐紙)(元禄四年俳諧物尽)  「空也」は「空也僧」すなわち「鉢叩き」のこと。十一月十三日の空也忌から四十八夜の間、洛中洛外の墓所を瓢をたたき高声念仏を唱え勧進して回る。  
  11月14日   曲水宛書簡
   初雪やひじり小僧が笈の色    (俳諧勧進牒)
 
      京都に仮寓していた折の作。  
    住つかぬ旅のこころや置火燵   
 
  12月末   京より大津に移り、一時乙州新宅に滞在
   人に家を買はせて我は年忘れ (猿蓑)(真蹟懐紙・短冊)
 
  大晦ごろ   木曽塚に移る  
      珍碩撰『ひさご』をはじめ蕉門の選集ようやく数を加え、諸俳書への入集句とみにふえる。  
      秋風撰『吐綬鶏』に4句入集。  
      杜国死す。  
      嵐雪、「其袋」を刊行し雪門の勢力を世に誇る。其角と並ぶ江戸蕉門の双璧として、他門からも重視された。のち、杉風らとの軋轢を生じ、点取俳諧にも手を染め、師の怒りを買う。
    文月や六日も常の夜には似ず
 
1690年頃     千那、乙州らの新進の台頭に押され、また「忘梅」の序をめぐり師と確執を生じ蕉門から離反した。  
       「俳諧物見車」に武江(江戸)の桃青、今は粟津の辺に住みて世の俳諧を批判せずとなんと記されている。芭蕉は俳諧師なら当然するはずの点をしない、きわめてユニークな人物であった。  
       「いつを昔」其角撰  
1691年
元禄4年
(辛未)
  48歳 木曽塚で新年を迎える。
   大津絵の筆のはじめは何仏    (俳諧勧進牒)
  
  正月5日   曲水宛書簡
   住つかぬ旅のこころや置火燵 (猿蓑)(元禄四年京蕉門歳旦帳)
書簡は湖南にあって認められたものであるが、この句は湖南に移る前に京都にあっての吟らしい。
  
  1月中   藤堂修理長定次男屋敷で句会あり。
   山里は万歳おそし梅の花 (真蹟懐紙)(蕉翁全伝)  万歳は年頭京都から始めて町々を祝い歩く門付け芸人。
 
  1月7日   乙州江戸下向の餞別俳諧興行。「丸子」は府中と岡部の間に位置する東海道の宿駅で現在の静岡市丸子町。そのとろろ汁は街道屈指の名物。
   梅若菜丸子の宿のとろろ汁       (猿蓑)   
 
  1月上旬   同じ頃膳所義仲寺の草庵で「木曽塚」を題とする句会あり。
   木曽の情雪や生えぬく春の草 (芭蕉庵小文庫)
 
  正月19日   水田正秀(孫右衛門)宛書簡  
  正月29日   「月次(つきなみ)興行通題梅」に参加している面々は露沾・岩翁・岩泉・且水・キ翁・岩松・横几・探泉・沾荷・コ谷・沾徳そして其角であった。この集まりは露沾亭での[月次興行」なので芭蕉は江戸を留守にすることが多かった関係上露沾サロンの固定客ではなかった。  
    尚白、「忘梅」の編集をめぐり師と確執を生じて疎遠となる。  
  1月上旬~
3月末
(4月上旬とも)
  大津から伊賀上野に帰郷し約三ヶ月間逗留
   不精さや掻き起されし春の雨       (猿蓑)
   不精さや抱き起さるる春の雨   (珍碩宛書簡) 
林信篤、大学頭に叙せられる
      橋木亭句会。卓袋亭月待句会  
  1月末   大津へ出て乙州の江戸行き餞別句会を催し上野へ帰る。  
  2月9日   菅沼外記(曲水)宛書簡
   から鮭も空也の痩も寒の内 (猿蓑)(真蹟懐紙)(元禄四年俳諧物尽)
 
  2月上中旬頃   興福寺の薪能見物などで奈良に赴き、ふたたび伊賀に帰る。 熊沢蕃山没73歳
  2月22日   珍夕宛書簡
   梅が香や砂利敷流す谷の奥
 
  3月16日   順水撰「渡し舟」に3句入集  
  3月春   「元四未、尾張の人より淡酒一樽木曽のうど茶一種得られしをひろむると、門人集ての時也」
   呑明て花生にせん二升樽
 
  3月23日   伊賀万乎亭で半歌仙  
  3月末   奈良経由、京もしくは大津に出る。
   住つかぬ旅のこころや置火燵 (猿蓑)
西鶴石車を著し、可休撰「物見車」の批難を反駁する。
    松笛撰『帆懸船』に1句入集  
    江水撰『元禄百人一句』に一句入集  
  4月18日~
5月4日
  京都洛西嵯峨落柿舎(向井去来の別宅)に滞在この間の日記を「嵯峨日記」という。嵯峨日記は文芸としての推敲を重ねた作品ではないが、芭蕉の日々の動静、俳交、心情などが如実にうかがえる。このころまでに未定稿笈の小文の執筆と整理を行う。     
  4月19日   臨川寺に参詣。小督(高倉天皇の寵姫)屋敷を見る。
   憂き節や竹の子となる人の果て   (嵯峨日記) 
 
  4月20日   凡兆・羽紅夫婦、去来が訪れる。同宿。暁方まで語る。去来の兄元端夫人より菓子・副食物が届く。
   柚の花や昔しのばん料理の間    (嵯峨日記)
   ほととぎす大竹藪を漏る月夜     (嵯峨日記)
 
  4月21日   朝、凡兆・羽紅夫婦帰京。夕方去来も帰京。  
  4月22日      憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 (猿蓑) (嵯峨日記)  
  4月23日      竹の子や稚時の絵のすさみ         (嵯峨日記) 
   竹の子や稚時の絵のすさび           (猿蓑)
 
  4月25日   史邦・丈草の訪問が続く。  
  4月28日   去春3月死亡した杜国を夢に見る。  
  4月29日      高館は天に聳えて星甲に似たり  
  5月2日   曽良が来て、江戸の話に花が咲いた。去来・曽良とともに大井川の舟遊びを楽しむ。  
  5月4日   夕刻、曽良去る。明日落柿舎を出る名残りに舎内を見まわり、吟あり。
   五月雨や色紙へぎたる壁の跡       (嵯峨日記)
 
  5月5日   落柿舎を出て、洛中小川椹木町上るの凡兆宅に移る。  
  5月5日~
6月19日
  おおむね京都の野沢凡兆の宅(凡兆亭)に滞在。その間に「猿蓑」(「俳諧七部集」中の第五集)の編集に監修者として参加したものと推定される。
   鶯の笠落したる椿かな      (猿蓑)
   陽炎や柴胡の原の薄曇り    (猿蓑)
   一里はみな花守の子孫かや  (猿蓑)
 
  5月10日   半残宛書簡
   鑓持や猶ふり立る時雨かな
 
  5月17日   去来、凡兆夫婦、曽良、丈草、史邦らと芝居見物。  
  5月23日   再び芝居見物
正秀宛書簡
   月まつや海をしりめに夕涼
 
  5月26日    深更まで「猿蓑」編集会議  
      北枝撰北陸蕉門俳書の嚆矢「卯辰集」に19句入集  
      路通撰「俳諧勧進牒」に発句12歌仙1入集  
  5月29日   曽良、丈草、史邦、芦文らと八坂神社御輿洗いの神事を見物  
  6月1日   曽良、丈草、去来と洛北一乗寺村の石川丈山詩仙堂を見物
   風薫る羽織は襟もつくろはず  (芭蕉庵小文庫)
 
  6月8日   病気甚だしく吐瀉あり
   水無月は腹病やみの暑さかな    (葛の松原)
 
  6月16日   琴風撰「瓜作」に3句入集  
   6月25日    曽らと別れた芭蕉は、京より大津に出、のち新築なった膳所の義仲寺無名庵に移る。  
       轍士撰「我が庵」に1句入集  
  6月25日~
9月28日
  大津に移りおおむね膳所義仲寺境内の無名庵に居住。但しその間に一時京都に出向く。
   米くるる友を今宵の月の客       (笈日記)
 
  7月3日   人生象徴的な作風に蕉風の円熟境を示す。芭蕉の監修のもと去来、凡兆撰「猿蓑」刊其角の序、杉風の跋。発句40歌仙4『幻住庵記』『几右日記』等入集凡兆の客観的で印象鮮明な叙景句は、集中最多の入集句を誇り、一躍蕉門の代表作家となる。
丈草「猿蓑」の跋を書く。許六は「俳諧の古今集」と評した。
   粽結ふ片手にはさむ額髪         (猿蓑)
 
  7月中旬~
7月下旬
  一時出京  
      友琴撰「色杉原」に1句入集  
      和及撰『ひこばえ」に1句入集  
  8月14日   大津、楚江亭で松宵の句会。  
  8月15日   義仲寺木曽塚草庵(無名庵)で仲秋の観月句会を主催。
   三井寺の門敲かばや今日の月 (真蹟懐紙)(自画賛・西の雲)
 
  8月16日   人々と舟で堅田に遊び、成秀亭の既望の観月句会に臨む。
   十六夜や海老煮るほどの宵の闇    (笈日記)
 
  8月16日   (堅田十六夜の弁) 
   錠明けて月さし入れよ浮御堂   (芭蕉庵小文庫) 
 
  8月25日   好春撰『新花鳥』に1句入集  
  閏8月15日   江水撰『柏原集』に1句入集  
  閏8月18日   支考らと石山寺参詣
   名月はふたつ過ぎても勢田の月    (西の雲)
 
   閏8月20日    賀子撰『蓮の実』に4句入集  
  閏8月   只丸撰『こまつばら』に1句入集  
  9月9日   凡兆(推定)宛書簡
   見るからに粟津の名もやきくの月
 
  9月12日   羽紅(推定)宛書簡
   初しもやきくひえそむるこしのわた
 
  9月13日   之道らと石山寺参詣
   橋桁の忍は月の名残り哉
 
    曲水亭で『夜寒』の題句会
   煮麺の下焚きたつる夜寒哉    (葛の松原)
 
    句空宛書簡
   秋の色ぬか味噌つぼもなかりけり
 
  9月28日   義仲寺無名庵を発って天野桃隣を同伴、帰東の途につく。この夜、大津の智月・乙州母子方に一泊。『幻住庵記』と自画像を贈る。  
  10月初め   彦根平田の明照寺に李由を訪う。その後、美濃垂井の規外亭・大垣の千川亭を歴訪。大垣で連衆と旧交を温めたが木因の出座はなかった。
  百歳の気色を庭の落葉哉 
  
  10月20日頃   尾張熱田に三泊。熱田の梅人亭を歴訪。湘南を遅れて出発した支考とここで合流、以後支考・東隣を同道。  
  10月下旬   三河新城に大田白雪を訪い鳳来寺に参詣。
   その匂い桃より白し水仙花       (笈日記)
 
      駿河島田宿に塚本孫兵衛(大井川の川庄屋。蕉門俳人。俳号、如舟)を訪う。惟然、湘南滞在中の芭蕉に随従し、蕉門の人々と交流する。如舟宅に泊まった折に「島田の時雨」を執筆
   宿借りて名を名乗らする時雨哉    (続猿蓑)
 
      沼津に一宿。宿の亭主に望まれ、句文を与える。
   都出て神も旅寝の日数哉 (俳諧雨の日数)(曲水宛真蹟書簡) 
 
  10月29日   各務支考を同道し湘南出発後32日目で江戸に到着。日本橋橘町(現在の中央区日本橋浜町付近)、彦右衛門方の借家を当分の仮寓とする。
   ともかくもならでや雪の枯尾花
桃隣はそのまま江戸に定住。俳諧点者として身を立てたが、芭蕉はしばしば激励と戒めの言葉を寄せている。
   留すのまにあれたる神の落葉哉 (芭蕉庵小文庫)
 
  11月上旬   江戸着後、相次ぐ旧友門人らの様子見舞いに応えて句あり。「雪の枯れ尾花」を執筆。
   ともかくもならでや雪の枯尾花   (雪の尾花)
 
  11月5日   曲水宛書簡
   百年の気色を庭の落葉哉   (真蹟画賛)(韻塞)
 
  11月11日   べっ松撰『西の雲』に七句入集  
  11月13日   曲水宛書簡
   都出て神も旅寝の日数哉 (俳諧雨の日数)(曲水宛真蹟書簡)
 
  11月21日   文十撰『よるひる』に一句入集  
  歳末   素堂亭の忘年句会に嵐蘭・支考と列席
   魚鳥の心は知らず年忘れ        (流川集)
 
      路通、観音の霊夢を得て「俳諧勧進牒」を上梓。  
      常陸国笠間藩主牧野越中守茂儀(しげのり)の子成貞は父の志を継いで、下屋敷であった現在地を喜捨し、これを中興開基した。茂儀の法号「要津院殿壁立鈍鉄居士」から要津寺と号した。  
      其角著「雑談集」  
       一時芭蕉に背いた門人の嵐雪が師に謝罪しその許しとして芭蕉が「葛の葉の表見せりけり」と詠んだ。和歌の世界ではしばしば「恨み」を葛の葉の裏を見せると表現するため芭蕉はその手法を借りた。  
1692年
元禄5年
(壬申)
  49歳 橘町の借家で新年を迎える。
   人も見ぬ春や鏡の裏の梅 (己が光集)(続猿蓑集)
 
  1月   尚白撰『忘梅』に五句入集。書名は其角の
   「わすれ梅忘れぬ人の便り哉」による。
 
      幸賢撰『河内羽二重』に一句入集  
      遠舟撰「すがた哉」に一句入集。  
      春色撰『移徙抄』に一句入集。  
      鷺水撰『春の物』に一句入集。  
      「芭蕉を移す詞」  
  1月末頃   『鶯や』歌仙を支考と両吟で巻く  
  2月7日   杉風宛書簡
   鶯や餅に糞する縁の先 (葛の松原集)(杉風宛真蹟書簡)
手紙の中で芭蕉は「日頃工夫之処にて御座候ふ」と報じている。この「かるみ」の風を、江戸の重鎮其角・嵐雪は容易に受け入れようとしなかったため、芭蕉の期待は、杉風に注がれていったのである。
 
  2月10日   支考奥羽行脚餞別の句会
  この心推せよ花に五器一具     (葛の松原)
支考が奥の細道の旅の跡を慕って奥羽の松島・象潟に行脚して俳論書「葛の松原」を上梓。
雑俳集『咲くやこの花』刊前句付盛行。
  2月15日   季範撰『きさらぎ』に二句入集。  
  2月18日   曲水宛に長文の書簡(いわゆる『風雅三等之文』)を執筆。定家・西行・楽天・杜甫らの心に入る事を最上級と諭す。  
  2月18日   去来宛書簡
   鶯や餅に糞する縁の先
 
  2月18日   浜田珍碩宛書簡「此地点取俳諧、家々町々ニ満ち満ち」  
  2月   俳文『栖居之弁』を草す
ここかしこうかれ歩きて、橘町といふ所に冬籠して、睦月如月になりぬ。風雅もよしや是までにして口を閉ぢんとすれば、風情胸中をさそひて物のちらめくや風雅の魔心なるべし。猶放下して栖を去り、腰にただ百銭を貯へて、柱状一鉢に命を結ぶ。なし得たり風情終に菰をかぶらんとは。
 
      其角撰「雑談集」に十一句入集。  
      選者未詳『七瀬川』に二句入集。  
  3月23日   窪田意専(惣七郎)宛書簡  
   4月初め    杉風・枳風出資、曽良・岱水設計により、旧住深川に芭蕉庵再建工事始まる。  
  5月7日   向井去来(平次郎)宛書簡。芭蕉の留守の間に江戸俳壇は一変していた。芭蕉が志向する「新しみ」「軽み」の俳諧とは対照的な「点取俳諧」が大流行していた。  
  5月中旬   杉風ら門人たちの尽力で旧庵の近くに新築された芭蕉庵(第三次芭蕉庵)に橘町の借家から転居する。出資は杉風・枳風(きふう)、設計は曾良・岱水に負うところが多かった。
   芭蕉葉を柱に懸けん庵の月
 
  5月15日   句空撰『北の山』に二句入集。
   うらやまし浮世の北の山桜
 
  6月中下旬頃   支考奥羽行脚より戻り、芭蕉を訪う。『葛の松原』出版の相談にのる。  
  6月   轍士撰『俳諧白眼』に一句入集。  
  7月7日   素堂亭で、素堂の母77歳祝賀句会あり。杉風・嵐蘭・其角・曽良・沾徳と列席。
   七株の萩の手本や星の秋
 
  8月上旬   (芭蕉を移す詞』『芭蕉庵三日月日記』成る   
   名月や門に指し来る潮頭   
 
  8月9日   彦根藩士森川許六、参勤出府の折、桃隣の手引きにより入門。「かるみ」の伴侶として嘱望される。許六「俳諧問答」によると、許六の   十団子も小粒になりぬ秋の風
が、芭蕉を感嘆させたという。
 
  8月上旬    新庵訪問の人々の月の句を録して『芭蕉庵三日月日記』を編す。自句二・『芭蕉を移す詞』・素堂との両吟和漢俳諧を収める。  
  8月末頃   出羽の国司近藤呂丸が来訪。  
  8月   句空撰『柞原集』に3句入集。  
      助叟撰『釿始』に一句入集。  
  9月6日~
1693年
元禄6年
1月末
  膳所の珍碩(洒堂)俳道修行のため来庵して食客となり滞在。洒堂、諸家と風交を重ね「深川」を編む。      
  9月8日   去来宛に、上京する呂丸の紹介状を書く。  
  9月上旬   膳所の浜田珍碩江戸に下り、芭蕉庵に翌1月末まで滞在。(珍碩、酒堂と改号)  
  9月上中旬   『青くても』以下、珍碩・嵐蘭・岱水と四吟歌仙を巻く。
   青くてもあるべきものを唐辛子    (俳諧深川)
 
  9月29日   珍碩と小名木沢の桐渓を訪ね、『秋に添うて』の主客三物あり。小名木川の舟遊びの時に詠む。
   秋に添うて行かばや末は小松川
小名木川に架かる丸八橋北畔に大島稲荷神社がありその鳥居の傍らにこの句碑がある。初め愛宕神社境内に建てられていたが昭和20年3月10日の空襲で廃墟と化しこの句碑は路傍に転がっていたが亡失を配慮して近くの第2大島中学校校庭に移した。のち愛宕神社が大嶋稲荷神社に合併されたので同社にこの句碑が移されたのである。
  
  9月下旬   沾徳撰『誹林一字幽蘭集』に8句入集。
   数へ来ぬ屋敷屋敷の梅柳
 
  9月   車庸撰「己が光」に発句十七歌仙一入集。
   人も見ぬ春や鏡の裏の梅
 
  9月末   羽黒の呂丸が草庵を訪ねる。  
      友琴撰「鶴来酒」に一句入集  
    嵐蘭撰「罌粟合」に二句入集。  
  10月3日   赤坂御門外の彦根藩邸に許六を訪ね、珍碩・岱水・嵐蘭と「今日ばかり」の五吟歌仙を巻く。
   今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを(続猿蓑)(韻塞)
      野は仕付たる麦の新土  許六
 
  10月中   「口切に」の八吟歌仙を興行
   口切に堺の庭ぞなつかしき      (俳諧深川)
 
  11月   机の銘  
         塩鯛の歯茎も寒し魚の店(たな)  (薦獅子集)
「句兄弟」には其角の「声かれて猿の歯白し岑の月」を「兄」芭蕉のこの句を「弟」として提出する。
 
  冬中   曲水を江戸藩邸に訪ねる。
   埋火や壁には客の影法師        (続猿蓑)
 
  12月3日   伊賀の猿雖宛書簡に、猿雖の別荘に東麓庵・西麓庵の号を与える旨を記す。  
  12月8日   許六宛書簡に、許六から指導を受けつつあった絵の件について記す。  
  12月15日   許六宛書簡  
  12月16日か   任口宛書簡
   のたりのたりと田鶴のどか也
 
  12月20日    彫棠亭で六吟歌仙興行。
   打ち寄りて花入れ探れ梅椿       (句兄弟)
 
  12月   馬指堂主人(曲水)宛書簡
   中々に心おかしき臘月哉    (馬指堂宛書簡)  
 
  12月23日   許六宛書簡  
  12月末   素堂亭で忘年句会。
   節季候を雀の笑う出立ちかな     (俳諧深川)
 
  12月28日   許六宛書簡  
    許六は深川の草庵に芭蕉を訪ねての三つ物は
   寒菊の隣もありや生け大根   許六
      冬さし籠る北窓の煤     翁
   月もなき宵から馬を連れて来て 嵐蘭
 
      示右撰「俳諧八重桜集」に歌仙一入集  
      支考著「葛の松原」に一五句入集。  
      不玉撰「継尾集」に発句四・歌仙一・脇句一入集。  
      健康とみに衰えを加えた反面、仲秋以後諸門人との往来しげく、身辺多忙を極めた。  
1692年     園女、夫と大坂に移住し、西鶴・来山らと交わり、雑俳点者としても活躍した。  
      史邦致仕する。  
      「野ざらし紀行画巻」(甲子吟行画巻)作成される。  
      其角編「雑談集」  
      「罌粟合」嵐蘭撰
1693年
元禄6年
(癸酉)
  50歳 歳旦吟
   年年や猿にきせたる猿の面  (真蹟懐紙)(俳諧薦獅子集)
 
                (都留市博物館)
奥の細道行脚之図
芭蕉と門人河合曽良が描かれている。許六が描く。現存する芭蕉像はほとんどが芭蕉没後に描かれたものだが本画像は芭蕉生前の作品として残された。
 
  正月12日   許六宛書簡  
  正月20日   木因宛書簡
   春もややけしきととのふ月と梅
 
  1月中旬   許六亭を訪れて4,5日逗留。  
  1月下旬   洒堂芭蕉庵を辞し、上方へ帰る。酒堂、「俳諧深川」刊行洒堂は大坂に依拠し、俳諧師として門戸を構えたが、同地の之道と門葉獲得の確執を生じ、仲裁を図った師の臨終・葬儀にも姿を見せなかった。   
  正月27日   小川の尼(羽紅尼)宛書簡
   こんにゃくにけふはうりかつ若菜哉 (俳諧薦獅子集)
 
    不玉独吟歌仙に評を加える。  
    不玉宛芭蕉書簡「近年武府之風雅分々散々、適々邪路の輩も相見え」  
  2月8日   曲水に金子(1両2分)の借用申し入れの手紙を書く。  
  3月   桃印の病状小康中も、20日ころより重体。  
  3月中旬   芭蕉は許六に「俳諧新式極秘伝集」「俳諧新新式」「大秘伝白砂人集」の三伝書を与える。  
  3月20日
前後
  森川去六(五介)宛書簡  
    3月中旬末   芭蕉が格別の愛情を注いでいた甥の猶子桃印が芭蕉庵で病死する。享年33歳。物・心ともに芭蕉を労することがはなはだしかった。  
  3月29日~
4月3,4日
  許六亭に逗留。  
  4月29日   宮崎荊口(太左衛門)宛書簡
   ほととぎす声横たふや水の上 (藤の実)(荊口宛真蹟
書簡)
   ほととぎす声や横ふ水の上   (荊口宛真蹟書簡)
   一声の江に横たふやほととぎす (荊口宛真蹟書簡)
書簡には三つの句形を併記。いずれをよしとするかに迷い、沾徳・素堂の意見に従って成案を決めた次第を述べている。
 
  4月末   帰国を控えた許六のため『柴門の辞』を草す。
許六が木曽路に赴くとき
   旅人の心にも似よ椎の花       (続猿蓑)
木曽路を経て旧里に帰る人は、森川氏許六と云ふ。古より風雅に情ある人々は後に笈を懸け、草鞋に足をいため、破れ笠に霜露を厭うて、己が心を責めて物の実を知る事を喜べり。今、仕官公けのためには長剣を腰にはさみ、乗懸の後に鑓を持たせ、徒歩若党の黒き羽織の裳裾は風に翻へしたるありさま、この人の本意にはあるべからず。
   椎の花の心にも似よ木曾の旅     (韻塞)
   憂き人の旅にも習へ木曾の蠅     (韻塞)
 
  5月6日   許六江戸を発ち帰藩の途につく。
芭蕉は許六離別の詞」を贈る
 
    木曽路にて
  やまぶきも巴も出る田うへかな 許六
(炭俵)
江戸から彦根に帰る道すがらの吟である。木曽路に懸かった時、ちょうど田植え時で、女達が出揃うているのを見て、あの中には山吹も巴も交じっているであろうと興じたのである。山吹・巴、いずれも義仲寵愛の勇婦の名である。
 
  7月7日   雨の七夕の夜、杉風来訪。
   高水や星も旅寝や岩の上 (真蹟懐紙)(芭蕉庵小文庫)
 
  7月上・中旬   採荼庵閑居中の杉風を訪ねる。
   白露もこぼさぬ萩のうねり哉 (真蹟自画賛)(芭蕉庵小文庫)
 
  7月中旬~
8月中旬
  体力が衰え、持病に悩み、「閉関の説」を草し約1ヶ月間庵の門戸を閉ざし、病気保養のため人々との面会を絶つ。
   朝顔や昼は鎖おろす門の垣 (真蹟自画賛)(芭蕉庵小文庫)
 
  8月中旬   閉関を解き、以後江戸において俳事を重ねる。  
  8月20日   白雪宛書簡
   夏かけて名月暑き涼み哉       (萩の露)
 
  8月27日   門弟松倉嵐蘭没。 8月10日西鶴没52歳
  8月29日   其角の父竹下東順没す。
   入月の跡は机の四隅哉
竹下東順の死を弔って9月に「東順の伝」を草す。
 
   9月3日    嵐蘭の初七日に当たり墓参。嵐蘭の誄(しのびごと)を草した。
   秋風に折て悲しき桑の杖       (笈日記)
桑年とは48歳をいう。嵐蘭は47・8歳で没した。
呂丸・東順没
    史邦江戸に移住する。史邦は芭蕉から二見形文台や自画像を贈られた。  
  10月9日   許六宛書簡[当冬は相手になるべき者御座なく]
  菊の香や庭にきれたる沓の底      (続猿蓑)
 
  10月9日   許六宛書簡
   金屏の松の古さよ冬籠り (許六宛真蹟書簡)(炭俵)
 
  10月20日   志太野坡らと深川に会し「炭俵」所収歌仙一を巻く。野坡は再び足繁く芭蕉庵を訪れ芭蕉の指導を受けるようになた。俳号も野馬から野坡に改めた。なお諸門人と会吟が少なくない。   12月江戸新大橋架橋
  11月8日   荊口宛書簡
   鞍つぼに小坊主乗るや大根ひき (炭俵)(荊口宛真蹟書簡)
 
  11月8日   曲水宛書簡
   振売の雁哀也夷講             (炭俵)
 
元禄6年     丈草、近江の無名庵に入る。  
      小名木川に舟を浮べて、五本松付近で詠む
   川上とこの川しもや月の友
芭蕉庵が復旧された際にこの句碑が建てられたものを昭和五十六年芭蕉記念館に移された。
 
貞享~
元禄年間
  41歳

51歳
座右の銘
人の短をいふ事なかれ
己が長をとく事なかれ
   物いへば唇寒し秋の風 (芭蕉庵小文庫)(真蹟懐紙)(大短冊)
 
  12月7日   隅田川に新しい橋が架けられた。新大橋である。この橋の東詰め付近にあった芭蕉庵に住んでいた芭蕉の句に
深川大橋半ばかかりける比
   初雪やかけかかりたる橋の上
新両国の橋かかりければ
   有がたやいただひて踏はしの霜
大正十二年の関東大震災後,、隅田川に架けられていた諸橋がみな架け替えられた中で、この橋だけは昔のまま残っていたが、昭和五十二年、現在の三径間連続斜張橋に改められた。橋の中央に立つ日本の橋柱には、安藤広重の「名所江戸百景大はしあたけの夕立」、明治45年架設の旧橋のブロンズ製レリーフ、新大橋の由来のプレート、芭蕉の前述の二句が刻まれている。
 
  12月28日   歳暮吟。当時餅搗きは多く十二月二十八日の夜に行われた。 
   有明も三十日に近し餅の音  (真蹟自画賛)(笈日記)
 
1694年
元禄7年
(甲戌)
  51歳 この年、しきりに『軽み」を唱導する。歳旦吟
   蓬莱に聞かばや伊勢の初便り (炭俵集)(真蹟自画賛)
   
  正月29日   去来宛書簡。山本苛兮「曠野後集」出版に対する去来の不満を、俳風建立の理想確立の時期だからと深く戒めている。
   腫物に柳のさはるしなへ哉      (宇陀法師)
 
  正月29日   曲翠(曲水)宛書簡
   蓬莱にきかばや伊勢の初便   
 
  正月29日   怒誰宛書簡
   梅桜みしも悔しや雪の花
 
  2月13日   梅丸宛書簡
   梅が香に昔の一字あはれ也      (笈日記)
 
  2月15日      涅槃会や皺手合する数珠の音     (続猿蓑)  
  2月25日   森川去六(五介)宛書簡  
       むめががにのつと日の出る山路かな   (炭俵)
炭俵巻頭、芭蕉・野坡両吟歌仙梅が香の巻の立句である。
 
         腫物に触る柳の撓哉           (宇陀法師)
   腫物に柳のさはるしなへ哉 (去来宛真蹟書簡)(芭蕉庵小文庫)
 
    沾圃・馬莧・里圃と四吟歌仙「八九間空で雨降る柳の巻」(「続猿蓑」所収)成る。  
  3月   伊賀藤堂玄虎(藤堂藩士千五百石芭蕉門)の江戸旅亭に招かれ俳諧あり。
   花見にとさす舟遅し柳原        (蕉翁全伝)
 
  4月    元禄2年以来推敲を続けていた紀行『おくのほそ道』が完成し、上代様の書に巧みな柏木左衛門(俳号素龍)に清書を依頼する。いわゆる素龍清書本で、芭蕉はこれに自筆の題簽を付し、みずからの所持本とした。
   木隠れて茶摘みも聞くや杜宇 (炭俵)(俳諧別座敷)
 
  4月   桃隣の新宅を祝って自画自賛の句を贈る。   
    寒からぬ露や牡丹の花の蜜   (俳諧別座敷)
 
  5月上旬   子珊亭の別座敷で芭蕉餞別句会催さる。五吟歌仙あり。(連衆)芭蕉・子珊・杉風・桃隣・八桑。席上の俳談に「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。その所に至りて意味あり」と語る。(「別座鋪」)
   紫陽花や藪を小庭の別座敷    (俳諧別座敷)
   卯の花やくらき柳の及びごし  (別座鋪)(炭俵)
 
  5月ころ    帰郷の旅立ち前に杉風に対して「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり」と「軽み」の理念を説く。杉風これを翌年6月麋塒宛書簡に書き伝える。  
  5月11日    寿貞尼の子次郎兵衛を伴い江戸を出立(最後の旅)、帰郷の途につく。曽良箱根まで随行。野馬は
   寒きほど案じぬ夏の別哉
の餞別に寄せ、川崎まで見送っている。川崎まで見送った人々に対する留別吟。
   麦の穂を力につかむ別れ哉 (真蹟懐紙)(陸奥鵆)
   麦の穂を頼りにつかむ別れ哉   (芭蕉翁行状記)
  
      島田如舟亭・鳴海知足亭・名古屋苛兮亭・佐屋・長島・久居を
経て、途上吟
   うぐいすや竹の子藪に老を鳴 (炭俵)(俳諧別座敷)
 
  5月13日   付き添って来た曽良と小田原で一宿。この日箱根で別れる。
   目にかかる時やことさら五月富士
  
  5月15日   駿河の国に入り、東海道の島田如舟亭に到着。夜大雨風で大井川は当年最大の出水となり川留めにあって3日間足止めされた。
   五月雨の空吹き落せ大井川 (真蹟懐紙)(有磯海)
   駿河路や花橘も茶の匂ひ  (炭俵)(真蹟懐紙・俳諧別座敷)
 
  5月中旬   芭蕉のすすめにより寿貞・まさ・おふう親子芭蕉庵に入る。  
  5月19日   島田発  
  5月21日   河合曽良(惣五郎)宛書簡  
  5月22日   名古屋苛兮亭に到着し3泊した。十吟歌仙
   世を旅に代掻く小田の行き戻り (真蹟懐紙)(笈日記)
 
  5月23日   隠居所新築準備中の野水への挨拶
   涼しさを飛騨の工が指図かな (杉風宛書簡)(陸奥鵆)
 
  5月25日   名古屋発  
  5月26日   伊勢長島に至り、曽良の叔父の住持する大智院に泊る。  
  5月27日   久居に至り一泊。  
  5月28日~
閏5月15日
  郷里の伊賀上野に帰着。約20日間滞在  
  5月   杉風・桃隣後援、子珊(しさん)撰、芭蕉餞別句集「別座舗」に発句五・歌仙一入集。  
      友琴撰「卯花山」に一句入集。  
      順水撰「童子教」に二句入集。  
  閏5月4日   半残の訪問を受ける。  
  閏5月11日   雪芝亭で「涼しさや」の歌仙を興行。  
  閏5月16日   二郎兵衛を伴い伊賀上野を発ち、湖南に向かう。同夜、江戸の肉親猪兵衛の実家、山城加茂の平兵衛宅に泊まる。  
  5月17日~
7月まで
  宇治・伏見経由で大津乙州亭着。大津、京などを廻る。  
  5月18日~
5月21日
   膳所の菅沼曲翠亭に移り滞在  
  閏5月21日   杉山杉風(市兵衛)宛書簡
   世を旅に代かく小田の行もどり
   涼しさを飛騨の工が指図かな
   涼しさの指図に見ゆる住まゐかな
 
  閏5月22日~
6月15日
  上洛、落柿舎に入り、滞在。この間、浪化入門す。去来ら門人五人と六吟歌仙
   柳行李片荷は涼し初真桑  (市の庵)(許六宛真蹟書簡)
   朝露によごれて涼し瓜の土       (続猿蓑)
 
  閏5月下旬   子珊編、杉風・桃隣協力による芭蕉帰郷餞別集「別座敷」刊。  
  5月28日   伊賀上野に着く  
  6月2日   江戸深川の芭蕉庵で寿貞が病死したと推定される。享年不詳  
  6月3日   杉風宛書簡
   柳行李片荷は涼し初真桑
 
  6月3日   松村猪兵衛宛書簡  
  6月8日   松村猪兵衛宛書簡  
  6月8日   江戸よりの寿貞の訃報に返信。江戸の松村猪兵衛宛に急送する。
   数ならぬ身とな思ひそ玉祭
故郷塚の右手前にこの句碑がある。
 
  6月15日~
7月5日
  京を発ち、膳所曲翠亭・大津木節亭・義仲寺無名庵に遊吟。おおむね膳所義仲寺境内の無名庵に居住
   道ほそし相撲取り草の花の露
 
  6月15日   許六宛書簡
   柳小折片荷は涼し初真桑
 
  6月16日   膳所曲翠亭で催された歌仙の立句   
   夏の夜や崩れて明し冷し物 (続猿蓑)(杉風宛真蹟書簡)
 
  6月21日   大津木節庵での吟。芭蕉・木節・惟然・支考の四吟歌仙の発句。
   秋近き心の寄るや四畳半         (鳥の道)
 
  6月24日   杉風宛書簡。膳所義仲寺の無名庵での執筆[門人不残驚」
   六月や峯に雲置クあらし山 (杉風宛真蹟書簡)(句兄弟)
 
         清滝や波に散り込む青松葉      (笈日記)  
   6月28日    野坡・弧屋・利牛・編『炭俵』(「俳諧七部集」中の第6集)出版
   春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り    (炭俵)
   傘に押し分け見たる柳哉         (炭俵)
   四つ五器の揃はぬ花見ごころ哉  (炭俵)(真蹟小色紙写)
「炭俵」の序文に、素龍は「此集を編める弧屋・野坡・利牛らは、常に芭蕉の軒に行きかよひ、瓦の窓をひらき心の泉をくみしりて、十あまりななの文字の野風をはげみあへる輩也」と記している。炭俵は
   梅が香にのつと日の出る山路かな  芭蕉
      処処に雉子の啼たつ         野馬
の発句と脇句ではじまる。
    
  6月下旬   「骸骨の絵讃」(義仲寺境内の無名庵に滞在中の芭蕉が大津の能太夫本間主馬の宅での俳席に、正客として参加した時、骸骨どもの能を演じている絵に讃したもの)
   稲妻や顔のところが薄の穂       (続猿蓑)
 
      大津の木節亭に遊んだ折の吟。
   ひやひやと壁をふまえて昼寝哉     (笈日記)
 
  7月5日~
7月中旬
  無名庵を去り、京去来亭に赴く
京都に滞在
 
  7月10日   河合曽良(惣五郎)宛書簡  
  7月10日 ~
9月7日
  兄の招きで帰郷し、愛染院で営まれた盆会に参列した時に詠む。約2ヶ月間滞在
   家はみな杖に白髪の墓参り
        (続猿蓑) 
芭蕉の菩提寺愛染院の本堂前にこの句碑がある。  
 
  7月15日   実家の盆会の折、なき寿貞を哀惜して吟ずる。
   数ならぬ身とな思ひそ霊祭        (有磯海)
 
  8月9日   向井去来(平次郎)宛書簡
   をりをりや雨戸にさはる荻の声
         放す所にをらぬ松虫
  
  8月15日   伊賀赤坂の実家の裏庭の無名庵新築成り、月見の宴を催す。新庵は伊賀門人らの出資による贈物であった。
   名月に麓の霧や田の曇り       (続猿蓑)
   名月の花かと見えて綿畠       (続猿蓑)
   今宵誰よし野の月も十六里      (笈日記)
 
  9月   「笈日記」伊賀の部
   まつ茸やしらぬ木の葉のへばりつく   (続猿蓑)
 
  9月3日   支考、斗従を伴って伊勢より来着。
   蕎麦はまだ花でもてなす山路かな  (続猿蓑)  
 
  9月初旬   『続猿蓑』の撰ほぼ成る。各務支考伊賀で「続猿蓑」の撰を助ける。(但し、出版は芭蕉没後の元禄11年5月となる。)
   朝露によごれて涼し瓜の土
   うぐいすや柳のうしろ藪の前       (続猿蓑)
   春もやや氣色ととのふ月と梅       (続猿蓑)
   八九間空で雨ふる柳かな         (続猿蓑)
  
  9月8日   病弱を押して支考・惟然(素牛)・二郎兵衛又右衛門らに付き添われ郷里伊賀を出て大坂に向かう。。奈良に1泊。奈良までは半残も同行。但し、体力の衰えはなはだしく、人々から気づかわれる。
   びいと啼く尻声悲し夜の鹿 (杉風宛真蹟書簡)(笈日記)
 
  9月9日   奈良で重陽を迎える。
   菊の香や奈良には古き仏達 (杉風宛真蹟書簡)(真蹟自画賛・笈日記)
   菊の香や奈良は幾代の男ぶり (杉風宛真蹟書簡)(泊船集)
 
  9月9日   朝奈良を出立。前年大坂に俳諧師としての門戸を開いた門人洒堂と在地の門人之道との不和を調停するため大坂に上り、夜洒堂亭に至る。
   猪の床にも入るやきりぎりす      (三冊子)
 
  9月10日   向井去来(平次郎)宛書簡   
  9月10日~
9月20日
  高津の宮の洒堂亭を宿とする。  
  9月10日   晩より悪寒、頭痛に悩む。この症状が20日ごろまで毎晩繰り返す。  
  9月10日   杉風宛書簡
   菊の香やならは幾代の男ぶり
 
  9月13日   大坂住吉神社の『宝の位置』を見物中病気不快の状態に悩む  
  9月14日   畦止亭  
  9月17日   千川宛芭蕉書簡に「続猿蓑板下清書に懸り候」と報じている。  
  9月19日   其柳亭  
  9月21日   車庸亭。21日以後小康を得る。9月9日から大坂に滞在中の芭蕉は車要亭の俳席に参加して同亭に一泊、翌朝「秋の朝寝」を亭主の車要に贈った。
   おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり  (まつのなみ)
 
  9月23日   窪田意専(猿誰)(惣七郎)・服部土芳(半左衛門)宛書簡
   菊に出てならと難波は宵月夜 (笈日記)(意専・土芳宛書簡)
 
  9月23日   松尾半左衛門宛書簡  
  9月25日   水田正秀(孫右衛門)宛書簡
   床に来て鼾に入るやきりぎりす
   菊に出てならと難波は宵月夜
 
  9月25日   菅沼曲翠(曲水)(定常)宛書簡
   此道を行人なしに秋の暮   (意専・土芳宛書簡)
 
  9月26日   大阪四天王寺新清水の茶店「浮瀬」で催された泥足主催の十吟歌仙興行。
   此道や行く人なしに秋の暮        (其便)
   この秋は何で年よる雲に鳥       (笈日記)
 
  9月27日   園女亭に招かれ九吟歌仙興行。(連衆)芭蕉・園女・之道・一有・支考・惟然・洒堂・舎羅・何中
   白菊の目に立てて見る塵もなし   (菊の塵)
 
  9月28日   畦止亭に遊吟
   秋深き隣は何をする人ぞ       (笈日記)
 
  9月29日   夜激しい下痢を催し、以後日を追って容態が悪化する。泄痢臥床  
  10月5日   朝、病床を、御堂前の花屋仁右衛門の貸し座敷に移し、芭蕉危篤の旨を、湖南、伊勢、尾張など各地の門人に急報する。当時看護の人々、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛。  
  10月6日   前夕よりやや小康を得、この日は起き上がって景色などを見る。  
  10月6日   去来、芭蕉が病臥していることを知り、伏見から夜舟で大坂に直行。  
  10月7日    芭蕉危篤の急報に接し、去来・正秀・乙州・木節・丈草・李由ら各地の門人が相次いで病床に馳せつける。  
  10月8日   槐本支道が住吉神社に芭蕉の延命を祈願する。  
  10月9日   病床の芭蕉は「大井川」の句を破棄するよう依頼した。
   清滝や波に散り込む青松葉
 
  10月9日午前2時頃   看病中の呑舟に墨をすらせ、口授して一句を筆記させる。『旅に病んで』の病中吟を認めさせる。
   旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる (笈日記)
 
  10月10日   死期を悟った芭蕉は郷里の兄松尾半左衛門宛に遺書を認め、別に3通の遺書を支考に口述筆記させる。  
      芭蕉は遺状その三で、
一、杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れがたく存じ候。云々
と述べている。杉風は、第一次芭蕉庵の提供、第三次芭蕉庵の竣工の出資等最大の経済的な協力者であった。
 
  10月11日    この朝から食を絶ち、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角到着。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州らに句あり。このうち丈草の句
   「うづくまる薬缶の下の寒さ哉」
のみを「丈草出来たり」と賞す。
 
  10月12日 51歳 申の刻午後4時ごろ大坂(現在の大阪市)で死去。
仏頂禅師は芭蕉の死をもっとも悲しんだ友であった。遺言により去来は其角・支考等と、遺骸を膳所の義仲寺に収めるため当夜、淀川の舟に乗せて運ぶ。
 
  10月13日   義仲寺に遺骸到着。遺骸に従ったもの、去来、其角、乙州、支考、丈草、素牛、正秀、木節、呑舟、二郎兵衛の10名。支考が髪を切り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高・昌房・探志3名の戻りを待って明日に延期。  
  10月14日   夜半零時子の刻遺骸を義仲寺境内に埋葬する。導師。同寺直禺上人。門人の焼香八十人。会葬者参百余人。  
  10月16日   伊賀の土芳・卓袋両人、13日に師危篤の報を得て大坂に急行、この日の朝義仲寺にいたる。  
      芭蕉臨終の枕許に馳せ参じた伊賀の門弟服部土芳・貝増卓袋らは遺髪を持ち帰って、松尾家の菩提寺愛染院に埋めて石碑を建て故郷塚と称した。服部嵐雪の揮毫で「芭蕉翁桃青法師」と刻まれている。   
  10月18日   門人による追善句会が行われ百韻が興行された。
  なきがらを笠に隠すや枯れ尾花 其角を発句として連衆は大津・膳所・京都・大坂・伊賀からはせ参じた四十三人が参加した。臨終に間にあわなかった曲翠・李由・智月・土芳・卓袋・許六が駆けつけた。伊賀の半残は出向けない事情があり飛脚便で追悼句を送り「枯尾花」に収録された。
 
  10月25日   義仲寺境内に無縫塔が建立される。「芭蕉塚」の三字を刻した。  
  10月26日   膳所水田正秀宅で芭蕉の遺言状を封し、次郎兵衛に持たせて江戸に下らせることとなる。次郎兵衛、惟然に伴われてまず伊賀の松尾家に赴く。  
  11月12日   京都で芭蕉追悼の百韻が興行され江戸の嵐雪・桃隣・岩翁ほか名古屋の苛兮・俳書板元井つつ屋主人の重勝ら二十一人が参加した。これらの追悼句会はすべて其角が取り仕切った。  11月柳沢吉保老中格となる。
      かくして芭蕉のあととりは其角に決まった。其角は江戸に戻って「句兄弟」を刊行した。  
       蕉門の俳人宝井其角が俳諧集「枯れ尾花」を編纂し、井筒屋庄兵衛が刊行した。
    (都留市博物館)
上巻は其角が書いた「芭蕉終焉記」や近江国、大津、膳所、京都、摂津国、伊賀国の連衆(連歌や連句を共同制作するために集まる会衆)による芭蕉への追悼発句が収められている。
下巻は嵐雪の追悼文、江戸の嵐雪、桃隣や杉風の発句などが収められている。
芭蕉を孤独貧弱で徳業に富む人としてとらえ最後の旅から旅宿の病状そして死の様子を写した。また義仲寺における葬送に多くの人が参したことを記している。
 
      有磯海集
   はれ物にさはる柳のしなへかな
   花に寝ぬ是もたぐひか鼠の巣
 
      芭蕉没後まもなく、芭蕉庵一帯は武家屋敷となった。江戸俳壇の人々は、俳諧の聖地である芭蕉庵がなくなることを残念に思い、芭蕉の門弟雪中庵一世服部嵐雪らが奔走して、庵跡の武家屋敷の近く(芭蕉庵があった松平遠江守屋敷の北側の民有地)に池や草庵を造り、芭蕉を祀った芭蕉堂を建てて、師を偲んだという。ここに芭蕉が生前、古池の畔にあって愛好した蛙が立ち上がった形をした青石を移し代々の雪中庵が管理していたといわれる。  
      この草庵や芭蕉堂は幕末までには消失してしまったが、武家屋敷内にあった芭蕉庵は大切に保存されていた。その後明治維新のドサクサの際に一帯が民有地になると芭蕉庵も消滅してしまい、その位置も定かではなくなり、現在でも正確な位置は確定されていない。  
1695年
元禄8年
2月8日   江戸に大火が発生。四谷伝馬町より出火、芝・札の辻・海辺まで焼亡した火災は内藤家の六本木屋敷を焼失させてしまった。幕府は露沾に対して、即刻磐城平へ移住するように指令を出した。その後、沾徳はもっぱら義孝公俳号露江)のもとに出入りした。  

9月12日   去来は、芭蕉の実兄半左衛門から借りていた素龍清書の「奥のほそ道」を写了し、その跋を草した。  金銀貨改鋳
1696年
元禄9年
2月14日   水間沾徳が松島訪問をかねて磐城平滞在中の義孝公を訪問する。  
  4月25日   沾徳は5人扶持で藩にかかえられる。  

 
      岩翁編「若葉合」なる。岩翁は「桃青門弟独吟廿歌仙」のメンバーであった。「若葉合」は若葉の題を発句とした其角一門の独吟十歌仙から成る。 荻生徂徠の登用
      長伯の「歌林雑木抄」  
1697年
元禄10年
    其角が「末若葉(うらわかば)」を編集。これも若葉を題として「若葉合」の続編ともいえる。其角の加点結果が付されている。  
      其角の活動は終わっていた。神田秀夫氏は「元禄10年以後の其角の生涯は、もはや衰微のそれである」と指摘している。([其角]井本農一編「芭蕉をめぐる人々」)  
元禄10年頃~     惟然、大胆に俗語を取り入れた独自な口語調の作風を得意とした。  
1698年
元禄11年
    続猿蓑」を服部沾圃・芭蕉が編集
俳諧七部集の第七集
 
      許六編「俳諧問答」なる。「末若葉」の下巻の末尾に去来と去録の論争のきっかけとなった「贈晋渉川先生書」が掲げられている。これは去来から其角に届けられた書簡であるが其角はそれに手を加えて公表してしまったのである。去来は疑念を持ち其角に詰問状を送りつけ、其角・去来の間でやり取りがあった。そこに蕉門俳人の許六が参加して俳諧本質論が議論・展開されるのだが、これが世に有名な許六編俳諧問答である。  
1699年
元禄12年
    芭蕉の長兄の実子又右衛門没。後、芭蕉の末の妹およしが長兄の養女となる。  
      支考の「梟日記」
    八九間空で雨降る柳かな       (続猿蓑)
 
1701年
元禄14年
    凡兆の句が「荒小田」に多数入集するが、往年の精彩を欠いた。
芭蕉の長兄半左衛門命清没。
 
      沾徳編「文蓬萊」をひもとくと「仰松軒」(内藤家上屋敷にあった建物)での句会が頻繁に開催されていたことがわかる。  
  10月25日   「万覚書」(内藤家の磐城平の記録)には、義孝公の地元滞在にあわせて、沾徳がご機嫌うかがいのために下向したことが記録されている。  
1702年
元禄15年
    「初便」
「ばせを庵にて」と前書きして野坡との両吟4句未満歌仙
     寒菊や粉糠のかかる臼の端      (炭俵)
 
      芭蕉と同時代を生きた轍士は「花見車」を著わす。  
1704年
元禄17年
    丈草死す。  
1704年
宝永元年
3月13日    改元
去来死す。
 
1705年
宝永2年
      夫没後、園女、其角を頼り江戸に出る。園女、眼科医をしながら俳諧を続け「菊のちり」を編む。
森川許六編「本朝文選」に芭蕉が延宝5年から延宝8年までの4年間水道工事関係の職に携わったことが書かれている。
 
      水間沾徳の「余花千句」なる。花を題材とした百韻十巻を連ねており参加した面々は沾徳門弟八十名に及ぶ。  
1707年
宝永4年
    其角死す。
嵐雪死す。
 
1708年
宝永5年
    千那、親鸞の遺跡を巡排し、「白馬紀行」などを刊行  
1709年
宝永6年
    乙州、芭蕉の遺稿をもとに「笈の小文」を上梓した。  
       曾良は幕府の諸国巡国使の随員に任命された。  
1710年
宝永7年
    曾良、壱岐勝本(長崎県壱岐市)で病に倒れ死す。  
  春    芭蕉17回忌。京都東山の双林寺境内の西行庵庭前に門弟各務支考が鑑塔を建立。「我が師は伊賀の国に生れて承応(1652~1655)の頃より藤堂に仕ふ」と刻まれている。  
      「十二月箱(しわすばこ)」  
1711年
正徳元年
4月25日   改元  
1712年
正徳2年
12月10日   義孝公他界。「有章院殿御実紀」によると享年四十五という。  
      「千鳥掛」  
1713年
正徳3年
    臨川寺は芭蕉追善のために開いたと伝えられ通称芭蕉寺と呼ばれた。正式には瑞甕山臨川寺という臨済宗の寺院である。東京案内によれば、かつて堂内には芭蕉自作と称する木像及び芭蕉の碑ありと記されているが木像は大震災のため寺とともに焼失した。  
1714年
正徳4年
    凡兆死す。  
  10月   祗空、箱根草雲寺で剃髪  
1715年
正徳5年
    消息を絶っていた越人俳壇に復帰し「鵲尾琴」を編む。
許六死す。
 
1716年
享保元年
6月22日   改元  
      沾徳傘下の風葉、俳書「江戸筏」を出版し、沾徳一門の隆盛を世に示す。二十余名の門弟が独吟歌仙(一人で詠んだ三十六句形式の連句)を連ね、その歌仙に沾徳が加点するというスタイルをとっている。  
      苛兮死す。
素堂死す。
 
      蕪村、摂津の国東成郡毛馬村(大坂)に生れる。  
1717年
享保2年
    曲翠奸臣を討ち自刃して果てる。  
      名古屋の越人が編集した「鵲尾冠」に芭蕉の
   似合わしや新年古き米五升   という句が収録されている。
 
1718年
享保3年
    園女、剃髪し智鏡と号す。
北枝死す。
 
      祗空、京都紫野に移住して敬雨と改号  
  5月29日   内藤義稠他界。沾徳は義孝・義稠・政樹と推移する藩主交代にもかかわらずおかかえの立場にあった。  
  12月18日   露沾の息子・政樹が藩主となる。政樹に対する従五位下備後の守への叙任の報告が磐城平に届くやいなや祝賀の俳諧が興行された。
    冬咲の花は千年の大樹哉       由之
        穂だはらの声つれて養老    露沾
              (露沾俳諧集)
 
      内藤家江戸藩邸の火災  
1719年
享保4年
    桃隣死す。  
      内藤藩内の不穏な騒動(松賀伊織らを粛清した騒動)  
1720年
享保5年
7月   内藤領内洪水  
1721年
享保6年
    沾徳の手により「後余花千二百句」が刊行される。  
      「花鎮集」  
      「桂山舎月次句集」  
1722年
享保7年
    尚白死す。  
1723年
享保8年
    千那死す。
正秀死す。
  
      蕗夫軽人編「わすれ草」。仙鶴の支援になる俳書である。  
  8月   内藤家暴風雨被災  
1725年
享保10年
    「十論為弁抄」刊。支考は「故翁(芭蕉のこと)は伊賀の城主藤堂家に仕えて稚名は金作といいへるよし」と書いている。その後冬扇一路が刊行されて芭蕉が仕えていたのが藩主の藤堂家ではなく、その重臣の藤堂新七郎家であることが明らかになる。  
      巴人この頃江戸を去る。伊勢・大坂を経て京にいたる。  
1726年
享保11年
    園女死す。  
  5月15日   沾徳は死を意識して妻と幼い実子勢吉の将来を案じて内藤家に妻の父日名雲東のおかかえを願いでる。  
  5月26日   沾徳の願書却下される。  
  5月30日   沾徳他界。享年65。内藤家と沾徳との縁は切れる。  
      沾州・長水・風葉ら編、沾徳追善集「白字録」刊行  
      瓢箪池の対岸、高台の中腹にある芭蕉堂は戦火を免れた建物でその中に芭蕉の三十三回忌にあたり製作・安置された芭蕉像が祀られている。  
1727年
享保12年
    芭蕉三十三回忌追善集「伊賀産湯」刊行
神はまさに翁と現じ、翁は神と崇めたまふ
   月花の神や千鳥をつかはしめ   宰陀
享保年間にはすでに芭蕉を神と崇める人がいた。
 
      紹廉編「ちりの粉」  
  3月   内藤家苗代の腐る事件が起きる。  
1728年
享保13年
9月   内藤家風雨洪水による被災  
1729年
享保14年
    内藤家日光宮修復手伝い金を拠出  
1730年
享保15年
    土芳死す。  
      風葉ら編「続江戸筏」出版される。沾洲の加点状況を公表。沾洲一門の宣言。水間沾徳が他界して跡目をひきついだ沾洲の披露集と理解できる。  
1731年
享保16年
    支考死す。  
      長谷川馬光は芭蕉没後、江戸俳壇が宝井其角の洒落風が勢力を占めて俗化の傾向を示したことを憂い、中川宗瑞・松本珪林・大場寥和・佐久間柳居らと相はかって、いわゆる「五色墨」の運動を起こし、蕉風復権運動の端緒を開いた。沾洲を中心とする宗匠連に決定的に打撃を与える。  
      超波編「落葉合」刊。  
      祗空、箱根湯本に石霜庵を結ぶ。  
1732年
享保17年
    『伊乱記』の著者菊岡如幻の養子で江戸の俳諧師として活躍した沾涼編の俳諧系譜『綾錦』には芭蕉のことを如幻の導きで季吟門に入ったと記している。
杉風死す。
 
      この年刊行された沾涼の書いた「綾錦」に芭蕉が江戸に来て最初に落ち着いたのは「古卜尺(こぼくせき)」の家だったと記されている。沾涼は古卜尺の子供の二世卜尺からこの情報を得ている。このとき古卜尺はすでに亡かった。卜尺の父小沢太郎兵衛(俳号は得入)は日本橋大舟町(後に本船町と改称)に住み名主を勤めていた。  
       梅人編[杉風句集」に収録されている[杉風秘記抜書」より芭蕉が江戸に出て最初に落ち着いたのは杉風の家であったという説もあるが「杉風秘記抜書」は捏造であるとされている。杉風の家は日本橋小田原町の魚屋で、幕府や大名家に魚を収める大きな商家であった。杉風はこの家の主人で、後に芭蕉の門人となり芭蕉の生活を支えた人物として知られている。この事実を利用して梅人は「杉風秘記抜書」を捏造したとされる。    
      芭蕉庵の位置に関する資料としてこの年刊行された菊岡沾涼著「江戸砂子」には芭蕉庵の址、六間掘、鯉屋藤左衛門と云魚售の籞屋敷の所也
   古池や蛙飛込む水の音      ばせを
これは此庵室にての句也池洲に魚も貯へず藻草うづみて古池と成りし此也。今は猶他のやしきとなるよし也。
と記されている。
 
      「綾錦」  
      内藤家渡良瀬川普請  
1733年
享保18年
    「四時観」刊。祗空、序文をよせる。  
  4月   祗空没。  
      巴人、「一夜松」を刊。  
1734年
享保19年
    柳居、尾張の巴静と交流。以後、地方俳人と積極的に交流。  
  9月   宗瑞・咫尺編「柿むしろ」刊。本書は「五色墨」連中の宗瑞・咫尺の文台開き賀会集。  
1735年
享保20年
2月8日    二世市川団十郎の日記に「芭蕉翁は藤堂和泉守(正しくは大学頭。初代高虎の和泉守と混同)様御家来藤堂新七(正しくは藤堂新七郎)殿の料理人のよし。笠翁(りつおう)物語」と記されている。笠翁は破笠のことで彼は一時芭蕉の門人であり芭蕉門の最古参の其角の親友であった。   
       とくとくの句合
山口素堂筆江戸杉浦さぶろべえ刊行
 
      柳居、美濃派俳人と親交をかさねる。この頃、江戸の宗匠連中より、「五色墨」一派の評判の方が高い。  
      蕪村、この頃江戸へ下る。  
1736年
享保21年
    菊岡沾涼の俳論書「鳥山彦」なる。  
1736年
元文元年
4月28日   改元  
1737年
元文2年
    洒堂死す。  
      巴人、江戸に帰り、日本橋本石町に夜半亭を営む。  
      この頃、蕪村、巴人宋阿の内弟子となり、本石町に住む。  
1738年
元文3年
    路通死す。  
1739年
元文4年
    巴人、其角・嵐雪三十三回忌集「桃桜」を刊。「桃桜」より、「蕪村」号を使用。  
1740年
元文5年
2月~7月   柳居、伊勢・吉野・和歌の浦さらには京あたりを巡遊。この頃に「麦阿」号から「柳居」号へ改号。  
1741年
寛保元年
7月   柳居剃髪。伊勢の俳人との交流が表面化。  
      常仙・長鶴編「千々の秋」刊。十点以上の高点付句集の抜粋。  
12月17日   沾州他界。沾山が跡目をつぐ。  
1742年
寛保2年
    琴呂編「続の筏」刊。常仙点。  
  6月6日   巴人没。  
1743年
寛保3年
    芭蕉五十回忌
各地で芭蕉を追悼する句集が刊行される。
 
      桃青寺に芭蕉堂を建て蕉風復権運動の拠り所とした。
芭蕉堂には小川破笠作河と伝えられる芭蕉・素堂や西行像、等があったが関東大震災や戦災に遭って失われた。
 
      玉栄編「枝若葉」刊。青峨点。  
  11月   柳居、芭蕉五十回忌記念集「芭蕉翁同光忌」刊。  
1744年~
1748年
延享年間
    江戸小石川の神谷玄武坊白山老人が双林寺の「芭蕉墨直しの碑」をそのまま写して臨川寺に建立し、毎年3月俳人らが碑の文字に墨を入れて句会を催し芭蕉を偲んだ。  
1745年
延享2年
    定林院を桃青寺と改める。  
      湖十ら編「江戸二十歌仙」刊行される。江戸の宗匠連、分裂。ここから江戸の宗匠連は、分裂再編成をくりかえしていく。  
1745年~
延享2年
1757年
宝暦7年
     藤堂元甫(もととし)上野城の城代家老を勤める。藤堂元甫は芭蕉を敬慕し再形庵という芭蕉の記念館を作り芭蕉の資料を集めようとした。その一環として自分の家臣である川口竹人に命じて芭蕉の伝記「蕉翁全伝」を作らせた。「蕉翁全伝」は、すべて竹人の調査によるものではなく竹人の俳諧の師である服部土芳の「芭蕉翁全伝」を増補改定したものである。   
1746年
延享3年
5月   柳居、伊勢の麦浪亭に滞在。  
1748年
延享5年
5月晦日   柳居没。  
1749年
寛延2年
    安達屋善兵衛編の「宗匠点式并宿所」  
1750年
寛延3年
8月12日    芭蕉堂の下方に「芭蕉翁の墓 夕可庵馬光書」と刻んだ石碑(五月雨塚)が立っている。これは江戸川を越えて西南方面に広がる早稲田田圃を琵琶湖に見立てた芭蕉の句  
   五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
の真筆を遺骨代わりに埋めて塚としたものである。
 
      紀逸撰、初篇「武玉川」刊。本格的な江戸の高点付句集。以後、十五篇(安永五年)まで刊行。十一篇以降は、「燕都枝折」と改題。  
1751年~
1763年
宝暦年間
 
  宝暦年間に刊行された「千鳥墳」や「俳諧耳底記」に芭蕉のことを俳聖と記している。  
1752年
宝暦2年
    桃青寺を東盛寺と改称し以後白牛山東盛寺と称す。  
  春    三世湖十撰「眉斧日録」刊。  
1755年
宝暦5年
    竹居丹志編「硯のいかだ」  
1758年
宝暦8年
    鳥酔編「冬扇一路」刊。芭蕉が藤堂新七郎家に仕えていたことを記した最初の資料である。鳥酔は江戸の俳諧師であるが芭蕉を慕い上野まで出かけて芭蕉の遺蹟を探訪した時の見聞を「冬扇一路」に掲載した。  
       芭蕉翁発句評林(芭蕉の発句におけるもっとも古い注釈書)が刊行される。  
 1759年
宝暦9年
     芭蕉句解(芭蕉注釈書)が刊行される。  
1763年
宝暦13年
    要津寺の「芭蕉翁俤塚」は大島寥太が芭蕉の亡母の画像を納めて建立した。  
 1764年
明和元年
     師走袋(俳諧注釈書)が刊行される。  
1768年
明和5年
    「真向翁(まむきのおきな)」  
      雪成編「俳諧觽」、花屋久次郎より刊。江戸座の機関誌的性格をもつ組織的な高点付句集。本格的な江戸座宗匠の情報誌。幕末まで継続。  
1769年
明和6年
    呑吐の「芭蕉句解」  
1772年~
1780年
安永年間
    安屋冬李「蕉翁略伝」を書く。  
1773年
安永2年
10月12日       ふる池や蛙飛こむ水の音
要津寺の門前のこの句碑は江戸の能書家三井親和の揮毫により、普成・亀求・子交らが建立した。この句碑の文字を模写したものが芭蕉記念館内にある句碑である。
 
       溝口素丸が芭蕉翁発句解説叢大全をつくる。溝口素丸が記した俳諧法注釈書で全部で5冊ある。芭蕉の発句計105への解説を収録。
芭蕉翁発句評林(芭蕉の発句におけるもっとも古い注釈書1758年刊行)
芭蕉句解(芭蕉注釈書1759年刊行)
師走袋(俳諧注釈書1764年刊行)
の3説を揚げて論じそれに対する自説を述べている。
 
1776年
安永5年
    鷗沙の「過去種」成る。  
1778年
安永7年
    梨一著「奥細道菅菰抄」刊  
1781年
天明元年
    野坡の門人の風律没す。風律の書き留めた「小ばなし」に寿貞が一時期芭蕉の妾であったと載っている。  
1782年
天明2年
    可因編「かれ野」  
1781年~
1789年
天明年間
    松尾家商家となり、幕末には畳屋になる。  
      天命年間は俳諧の中興期で、雪中庵三世大島寥太が、要津寺の門前に芭蕉庵を再興し、復興運動と拠点となった。門を入った右手に、寥太が建立した「芭蕉翁俤塚」を初め、
     ふる池や蛙飛こむ水の音
の句碑、「芭蕉翁百回忌発句塚碑」「前籍中庵嵐雪居士 後雪中庵吏登居士墓碑」(供養塔)
     碑に花百とせの蔦植えむ
の寥太句碑、「大島寥太墓碑」「雪中庵円形墓碑」(供養塔)など雪中庵関係石碑群が整然と並んでいる。
 
1791年
寛政3年
    芭蕉が仕えていた藤堂新七郎家の家臣の安屋冬李が亡くなる。安屋冬李が蝶夢に送った報告書の中の文言に「父与左衛門は全く郷士なり。作りをして一生を送る」という一条がある。(曰人(わつじん)編「芭蕉伝」(「芭蕉翁系譜」ともいう。))安屋冬李は熱心に芭蕉のことを調べて判明したことを俳諧の師である京都の蝶夢に送っていたのである。蝶夢は芭蕉の顕彰に生涯をかけた人でライフワークの「芭蕉翁絵詞伝」を作成するために伊賀上野の門人である冬李に芭蕉に関する調査を依頼していたのである。「郷士」は伊賀では無足人といい公式の場で名字を名乗ったり刀を差すことを許可されるというような特別な資格を与えられた農民である。「作り」とは農業を営むことである。  
 1792年
寛政4年
     蝶夢が芭蕉の100回忌に義仲寺に奉納するために「芭蕉翁絵詞傳」という芭蕉伝の絵巻を著した。芭蕉の紀行や発句前書を綴り合わせる手法をとり終焉、葬送の部分は「枯尾花」、「笈日記」の内容を用いた。芭蕉を義と情に厚い人物にとらえ旅に過ごした生涯というイメージをつくり以後の芭蕉観に影響を与えた。  
1793年
寛政5年
    芭蕉100回忌に「桃青霊神」なる神号を授与され、芭蕉を神としてまつる人が出てきた。また多くの芭蕉追悼の句集が作られた。  
1794年
寛政6年
    蝶夢編「祖翁百回忌」が刊行される。この中に上野の武士堀伊織介(俳号は未塵)の句がありその前書に「祖翁(芭蕉)の家に伝えたる田あり。字は打尻とよぶ」と記されている。
蝶夢著「芭蕉翁絵詞伝」刊
 
1795年
寛政7年
    芭蕉堂に溝口素丸の碑建立。関東大震災や戦災に遭って失われた。  
1801年
享和元年
    梅人亡くなる。  
1806年
文化3年
    この年にも芭蕉を神としてまつる人が現れる。  
1808年
文化5年
    芭蕉、朝廷から「飛音明神」が与えられた。  
1815年     芭蕉堂に素堂の碑が建てられたが関東大震災や戦災で失われた。  
1820年
文政3年
    「おくのほそ道」の旅立ちから131年後に千住天王森の山王社といわれた素盞雄神社の境内に「奥のほそ道首途(かどで)」と呼ばれる碑建てられる。   
1826年
文政9年
    平一貞が書いた「埋木の花」に長慶寺にある芭蕉の時雨塚や其角や嵐雪の碑が描かれている。  
1843年
天保14年
    芭蕉の150回忌には、俳人田川鳳朗が二条家に請願し、二条家の斡旋で神祇管領吉田家から「花本大明神」の神号が贈られ神格化された。芭蕉の神格化は不動のものになる。
富岡八幡宮の右側、弁天池前に、祖霊社(合祀花本社)があり、毎年十月十二日の芭蕉命日に例祭が行われている。
 
1858年
安政5年
    切絵図に松平遠江守の屋敷内に「芭蕉庵ノ古跡庭中に有」との注記が付されている。  
1859年
安政6年
    白亥編「真澄鏡」に紹介された高山麋塒の子息が記録した記事によると高野幽山という俳人の紹介で芭蕉は内藤家の文芸サロンに参加できたとされている。  
1862年
文久二年
    鳳洲・梅年が陶工一瓶に嵐雪像を作らせ瓢箪池の対岸、高台の中腹にある芭蕉堂に祀ってある。去来像は沙羅庵・大黒庵・梧静庵らが施主となって一瓶に依頼して滋賀県大津市の義仲寺にある芭蕉墓所の土で一瓶に依頼して作った。丈草像は五竜峰・発雲社らが施主となって、同じく一瓶に依頼して作った   
明治11年     江東区清澄3-3の清澄庭園は元禄時代に豪商紀伊国屋文左衛門の別邸であったといわれ、その後下総国(千葉県)関宿藩主久世大和守の下屋敷となった。明治11年、三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の所有となった。  
明治18年     庭園が完成した。回遊式築山山水庭園で、近世庭園史上貴重なものである。岩崎が全国から集めたという奇岩名石が特徴である。園内南隅の芝生広場に芭蕉門弟の宝井其角の門流、其角堂九世晋永湖の筆になる
    古池やかはづ飛こむ水の音
の句碑がある。
 
1893年
明治26年
    白牛山東盛寺を再び芭蕉山桃青寺に復す。  
大正6年 9月30日    芭蕉庵跡(江東区常盤1-3)から大型台風による津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見される。故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀りこの石蛙も安置された。  
大正10年     東京府は常盤1丁目を史跡に指定した。  
大正15年     関口芭蕉庵は維新後、明治期の政治家田中光顕の邸内にあり、その尽力で保存されてこの年東京府の史跡に指定された。以後、俳壇の長老伊藤松宇が管理人となって、昭和18年に85歳で病没するまで、ここに住んでいた。  
1930年
昭和5年
    故郷塚の入口の芭蕉翁五庵(蓑虫庵・無名庵・東麓庵・西麓庵・瓢竹庵)の一つの瓢竹庵(門弟岡本苔蘇の庵)を再建。  
昭和7年 2月29日   芭蕉堂には其角像がなかったので、伊藤松宇らの結社五展会が九谷焼陶工石田久光に依頼して造られた。  
昭和9年 10月   芭蕉門弟の宝井其角の門流、其角堂九世晋永湖の筆になる
    古池やかはづ飛こむ水の音
の句碑は深川芭蕉庵跡の地が狭かったので、岩崎弥太郎の作った清澄庭園に建立したという。
  
1935年
昭和10年
    上野城跡に川崎克により上野文化産業城として三層の天守閣が復興された。  
1938年
昭和13年
3月31日   近所からの出火によって藁屋根の関口芭蕉庵は消失し、半年の後、俳壇の長老伊藤松宇の尽力で庵は旧態通り再建された。  
昭和18年     芭蕉二百五十年忌の際、芭蕉の門弟天野桃隣の門流、十世太白堂主人が石造りの叢祠を造った時に石蛙はその中に安置された。  
1945年
昭和20年
3月10日   東京大空襲直後、この石蛙は再び姿を消してしまった。  
  5月25日   再建した関口芭蕉庵は空襲で再度灰燼に帰し、現在の建物は三代目である。  
      戦災のため常盤1丁目の芭蕉庵跡は荒廃した。  
  3月10日   臨川寺の堂内にあった「芭蕉墨直しの碑」と「芭蕉由緒の碑」も東京大空襲の際失われてしまった。「芭蕉墨直しの碑」は鑑塔または鑑塚ともいい、もとは門弟各務支考が京都東山の双林寺境内の西行庵庭前に建立したものである。  
1955年
昭和30年
    常盤1丁目の芭蕉庵跡は地元の芭蕉遺跡保存会が復旧に尽力した。  
  6月   真鍋儀義十が要津寺にある江戸中期の書家三井親和の書を模写して、芭蕉稲荷神社に句碑を建立した
   古池や蛙とび込む水の音
 
1956年
昭和31年
    芭蕉庵が復旧された際に
   川上とこの川しもや月の友
の句碑が建てられる。
 
1973年
昭和48年
10月12日   芭蕉二百八十回忌に、史跡関口芭蕉庵保存会が中心となって、駒塚橋北詰めの瓢箪池畔に
   古池や蛙とび込む水の音
の自画賛の軸より模刻した句碑を建立する。
 
1975年
昭和50年
    別の石蛙が造られ叢祠に収められた。  
1980年
昭和55年
3月   芭蕉記念館の建設工事が始まる。近くに住む芭蕉遺跡保存会副会長飯田繁蔵氏が自宅の耐火金庫に石蛙があることを発見した。繁蔵氏の父が亡失することをおそれて金庫に収めていたのである。この石蛙は小松石で高さ16センチ、長さ26センチで石の台座に座っている。  
1981年
昭和56年
4月   芭蕉稲荷神社にあった句碑を芭蕉記念館に移築した。
   川上とこの川しもや月の友
の句碑移される。
 
1984年
昭和59年
陰暦10月12日    柴戸の門から館内に入ると、すぐ左手にある自然石の安山岩の
   草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
の句碑がある。芭蕉の祥月命日にこの句碑が建てられた。揮毫は当時の江東区長の小松崎軍次のものである。
 
1992年
平成4年
    今栄蔵氏「芭蕉伝記の諸問題」刊行  
2001年
平成13年
9月14日   大島稲荷神社が創建350年を迎えるにあたり、芭蕉の石造が境内に建立された。同時に
   五月雨をあつめて早し最上川
の句碑も立てられた。
   
 2009年
平成21年
     曽良の菩提寺・正願寺(諏訪市)の境内に曽良の銅像が建てられた。
写真は山形市山寺境内の河合曽良銅像
 

参考文献
芭蕉句集  新潮日本古典集    新潮社       昭和57年6月10日発行     平成5年5月25日4刷  
芭蕉ハンドブック    尾形仂    三省堂       2002年2月20日
松尾芭蕉この一句   柳川彰治  平凡社       2009年11月25日
松尾芭蕉        稲垣安伸   勉誠出版     2004年1月10日
芭蕉書簡大成     今栄蔵    角川学芸出版   平成17年10月31日 
芭蕉文集        新潮日本古典集    新潮社  昭和53年3月10日        平成14年5月10日12刷
芭蕉句選年考     博文館
芭蕉七部集俳句鑑賞 川島つゆ著   春秋社
芭蕉            幸田露伴閲   平凡社     昭和5年9月20日
芭蕉           田中善信     新典社新書   2008年8月11日
江戸の芭蕉を歩く   工藤寛正     ふくろうの本   2004年2月18日初版     
江戸の俳壇革命    楠元六男     角用学芸出版   平成22年5月25日
人生に役立つ戦国武将のことば
信濃大地誌      石川耕治  小平高明    光風館書店    明治38年5月5日
蕉門俳諧前集    神田豊穂    日本俳書大系刊行会      大正15年7月5日
俳人逸話紀行集   佐佐醒雪    博文館    大正四年八月三日
あなたの知らない長野県の歴史  山本博文   洋泉社  2014年