上松町の昔話


信濃の浦島太郎
 
 昔あったと。
木曽川にも浦島太郎があったと。
太郎は上松の寝覚ノ床に住んで、毎日岩に腰かけては、釣り糸をたれていたんだと。
あるときのこと、太郎がいつものように釣りをしていたら、上流の沢にいきなり鉄砲水が出てな、あっという間もなく
太郎は水に飲まれてしまったとさ。
それからどのぐれえたったもんだか、ふと気がついてみたら、太郎は今までに見たこともねえようなきれいな座敷に
寝かされているんだと。
そうしてそばでは、これまたきれいな女の人が、心配そうに太郎をじっとのぞきこんでいるでねえか。
太郎はたまげてとび起きると、「ここはどこずら」ってたずねたと。
そうしたらその女の人は、にっこり笑って「ここは竜宮でございます。私は乙姫です。」って、こう言うんだと。
はあ、するってえとこれが話に聞く竜宮かと、太郎はまたまたたまげてしまったとさ。
それから何日かたつうちに、太郎はすっかりここの暮らしが気に入ってきたと。
乙姫さまはきれいだし、毎日うまいもんは食えるしで、太郎はそれこそ夢のような毎日を過ごしておったんだとさ。
けれどもな、その気持ちもだんだん変わってきてな、いつまでもここにこうしているわけにはいかねえと
そう思うようになったんだ。
それであるとき乙姫さまにわけを話したところが、「残念ですが仕方ありません。ではどうぞこれをお持ちください。
でも決してふたを開けてはなりませんよ。開けずにいれば、いつかまた、このままの姿でお会いできるでしょう。」
と、乙姫さまは、さもなごり惜しそうに玉手箱を太郎に渡しながらこう言ったそうだ。
こうして太郎は、久しぶりに寝覚ノ床にもどって来た。
ところがどうしたわけか、あたりの山や川はちいとも様子は変わらないのに、誰ひとり知った人がいねえんだ。
一人ぼっちの太郎は、それでもまた、前のように岩に腰かけて釣り糸をたれて暮らし始めたと。
けれどもしばらくするうちに、太郎は乙姫さまが恋しくてたまらなくなってなあ、
別れぎわにもらった玉手箱のことを思い出すと、開けるなって言われたことも忘れて、
つい、ふたを開けてしまったんだとさ。
と、そのとたん、中から白い煙が立ちのぼって不思議や不思議、太郎はみるみるうちに
白髪あたまのじいさまになってしまったというわけだ。
開けてはいけないと言われていたのにそれを守らなかったもんだから、とうとう太郎はそれっきり、乙姫さまとは
合えずじまいになってしまった。だから約束は守るもんだと。
 
   
浦島太郎の伝説がある
2−1寝覚の床 
 
 寝覚の床は木曽八景のうちで最も景勝の地と言われている。 
 木曽川が、両岸の巨岩で狭められた淵で、岩と樹木、それに水の調和が美しい。中央線の列車の窓から望むことができ、通貨の際車掌が案内している。
 寝覚の床へ行くには上松駅からバスで十分程、寝覚の床入口で降りて少し下ると臨川寺という寺がある。この境内から見下ろす寝覚の床の風景がいい。ここは昔明治天皇がお越しになった。現皇太子殿下もお成りになったことがあるところ、この臨川寺のすぐ下を国鉄中央線が通っており、線路を越えて寝覚の床に降りる。
 大きな岩と岩との間に紺と緑と合わせたような水が淀んでいる。岩にはビョウブ岩、タタミ岩、コシカケ岩、シシ岩、マナイタ岩等々と名がつけられていて、なかなか見事である。
 この寝覚の床は、昔々、浦島太郎が龍宮から帰って余生を送ったところという伝説があり、ここの浦島堂には浦島の釣り竿がある。
 寝覚の床から五〇〇メートル程の下流を裏寝覚という。古い樹木で覆われて昼なお暗いところである。寝覚の床から裏寝覚までの一帯は天然植物園で、木曾特有の珍しい樹木が茂っている。
 上松からのバスを降りた寝覚の床入口には昔からの茶店がある。ここの寿命そばはなかなかうまいと評判である。
 また上松付近の名勝地として木曽の桟がある。バスで十五分位だが、ここも木曽八景のひとつ。
      かけはしや命をからむつたかづら
と芭蕉がよんだところ。木曽川の深い淵、聳えたった両岸の岸壁、木曽路の難所だった面影がしのばれる。
 
   
2−2寝覚の床の浦島太郎   
 龍宮城で時の経つのも忘れ遊んでいた浦島太郎は、ある日鶏の鳴き声を聞き、急に家に帰りたくなった。 
 そこで、龍王にいとまごいを申し出ると、竜王は贈り物として、弁財天の尊像と万宝神書一巻、それに玉手箱をくれた。
 太郎が家へ帰ってみると、故郷は一変していて、顔の知らない人ばかり。
 太郎はすっかり驚いて、故郷をあとに諸国漫遊の旅に出た。
 そして、木曽路の「寝覚の床」に来て、太郎はそこがすっかり気に入った。
 毎日、好きな釣りを楽しむ太郎であったが、ある日、村人に昔話をしたついでに玉手箱を開けてみせた。
 すると、中から紫の煙がわき出て、太郎はみるまに三百歳の翁になった。太郎は「姿見の池」に自分をうつし、初めて本当の自分に気付き夢から覚めた。
 太郎は龍宮から持ち帰った弁財天をその場におくと、またどこへともなく立ち去って行った。
 それから、太郎が夢を覚ましたこの渕を「寝覚の床」といい、弁財天を祠に祀って寺としたのが寝覚山臨川寺といわれている。

*弘治年間埼玉の医者河越三喜がこの寝覚の床に住みついた。三喜は寝覚の床で釣り糸をたれ、薬草をとって人々に与え、百歳以上の長命を保ったため、人々はこの三喜を浦島太郎とあだ名したといわれている。
 
   
 3寝覚(謡曲 歌枕を中心としたもの)  
 信濃の国木曽の郡に、寝覚の床という名所がある。ここは、役の行者が、しばらく修業をされた場所であるが、その後どこからとも知れず、一人の老人がやって来て住みついた。得体の知れぬ老人で寝覚の床の木の根をまくらにして、くらしていたが、若返りの薬を持っていて、三度若返ったので、三返りの翁と呼ばれていた。
 時の帝、醍醐天皇は、この由をお聞きになり、その延命の薬を求めるために、勅使を下される。勅使が寝覚の床に着くと、一人の男がいて、寝覚の床の由来を語り、その名を問われると、われこそ見返りの翁と名乗って消え去った。やがて、夜に入ると、三返りの翁は歌舞を演じ、神通自在の術をつくして、勅使をおどろかせ、かの御薬を勅使に与えて消えた。
 
   
4−1寝覚の床の主1  
 いつの話かはわからねえが、もうずいぶん昔のことには違いねえ。
木曽川のほとり寝覚めの里には、年に一度おそろしいしきたりがあったってはなしだ。
毎年秋ともなると決まって、若い娘のある家に白羽の矢がとんできてな、それがささったら最後、
娘を寝覚の床の主にささげにゃならんかった。
さもなければ、はあ、そのたたりってえのがまたおっそろしいんだ。
悪い病が流行ったり、そば一粒実らなかったり、里の者たちゃみんな、びくびく暮らしていたそうな。
そんなある年のことだと。
また秋がめぐってくると、一軒の家の屋根に白羽の矢がたった。
その家にはじじとばば、それに一人の若い娘がいたんだがな、三人とも矢がっ立ったとなると、
それこそ狂わんばかりに嘆き悲しんだそうな。
ちょうどその頃、小川の里に一人の行者さまが住んでおった。
なんでも諸国をめぐって修行に修行をつんだとかで、その念力は大変なもんだったっていうさ。
じじとばばはさっそくこの行者さまを訪ね、[何分娘をお助け下され]ってけんめいに頼んだと。
そうすっと行者さまは、しばらく祭壇に向かってお祈りしてたんだが、お告げが下ったのか、
こんなことを言ったんだと。
[七日の間に、はらみ猪を一頭捕ってくるのじゃ。そうすれば主めを滅ぼせるかもしれぬ]とな。
じじとばばは急いで家にもどり、身支度をととのえると山へと向かった。
そうしてあっちの山こっちの山と辛抱強く歩き回ってな、そのあげくとうとう七日目の昼に
一頭のはらみ猪を見つけたんだとさ。
さっそく行者さまのところへもっていくと、行者さまは猪の腹子を取り出した。
そうして太くて長い藤づるの綱と、これまた太い釣針をじじに用意させてな、これを結んで腹子をつけ、
寝覚の床へと出かけていったそうな。
一方淵には、主退治の噂を聞きつけて村人たちが次から次へと集まって来た。
行者さまは頃合いを見て藤づるに結んだ腹子を淵へと投げこんだんだと。
するってえとどうずら、少したって淵の水がゴォーって音たて始めてな、
急に綱がものすごい勢いでどんどん淵ん中へ引き込まれ始めたっつうさ。
[それ、かかったぞ、綱を引け]行者さまの声に、村人たちは夢中で綱にしがみついた。
淵の底からは、一体何がいるんだか相変わらずすげえ力で綱を引っぱってくる。
そのうち風も出てくるわ、あたりは嵐みてえにまっくらになるわでみんなそれこそ生きた心地もしねえ。
んでも夢中で綱にしがみつき、足をふんばったとさ。
さて、それからどのぐれえたったもんか、心なしかすこーし綱を引きこむ力が弱まったかと思うと、
嵐もだんだんおさまってきたんだと。
[それ今じゃ、引き上げい]行者さまの合図で、村人たちはかけ声もろとも一せいに綱をたぐりよせた。
こうしてやっとのことでひき上げたもん見て見たらば、なんてえことだ。
おっそろしいほどでっけえでっけえ大山椒魚でねえか。
みんなそれこそ、目ん玉とび出るほどたまげてしまった。
[こいつが床の主だったのかあ]ってな、口々にそう言ってため息ついたとさ。
それからってえもんは、白羽の矢が立つこともなくなった。
そうして寝覚めの里には、ずーっと平和な明け暮れが続いたって言うことだ。(信濃の昔話より)
 
   
4−2ねざめの床の主2   
 「寝覚の床」に住む主は、お盆が過ぎる頃になると、毎年村の娘一人を人身御供にさし出せと、その娘の家に白羽の矢を立てた。
 白羽の矢が立った家こそ災難で、泣く泣く可愛い娘をさし出していた。
 もし、寝覚の床の主に背いて娘をさし上げないと、田畑は実らず、村人は飢えて死ななければならない。
 今年は、どこの家に矢が立つか、村中がびくびくしていた朝、老夫婦の家の屋根に白羽の矢が突きささっていた。
 老夫婦には、おそく生まれた娘がいて、三人仲良く暮らしていた。
 けれど、白羽の矢が立てば、これまでの幸せも、これからの幸せもなくなってしまう。娘には、この秋にも婿に来るという若者がいたのだ。
 老夫婦は、悲しみにくれ仕事も手につかなかったが、最後の頼みを日頃から信じていた御嶽の行者にかけてみた。
 行者は、老夫婦の頼みを聞いて、すぐさまお祈りに入り、やがて神からのことばを告げた。それによると、「七日間のうちに猪の腹の子を持ってくるように」ということだった。
 猪は春に子を産むだけで、この夏の時期、腹に子を持つ猪など、どこにもいない。それでも、老夫婦は狂ったようになって山を這いずり猪を探した。
 そして、願いは天に通じたか、まったく思いがけない岩穴で、寝ていた猪を撃ち取ることができた。老夫婦は、その猪を行者の所に持っていくと、行者は猪から油を取り、その油で腹の子を丸揚げにした。
 行者は、村人をあつめ藤つるの先に腹の子を縛り付け床の渕深く投げ入れた。そのうち、強い手ごたえがあって、かまわずぐいぐい引き上げると、藤づるの先には、なんと六尺(約二メートル)もある山椒魚が、青い目を光らせかかってきた。
 今まで、さんざん村人を苦しめた寝覚の床の主とは、この大山椒魚だったのだ。
 それから、お盆が過ぎても白羽の矢が立ったこともなく、村に不安はなくなったという。
 
   
 4-3寝覚の床の主3  
 寝覚の村には毎年、白い矢が一軒の家に立つ。
 その日には、その家にいる娘をいけにえとして寝覚の床の主にさし出さなければならなかった。
 そして今年は老夫婦の美しい孫娘の家に矢が立ったのです。老夫婦は泣く泣く娘を生けにえとして出すことにした。しかしその時、勇気ある一人の男が寝覚の床を通りかかった。そしてその話を聞き、寝覚の床の主を退治することにした。娘の代わりに男が箱に入り、主の所へ行った。すると寝覚の床の主というのは、「大きないわな」だった。男はもう生贄をとらないようにと約束させた。
 
   
 5−1浦島伝説1  
 弁財天の尊像、、龍宮城に再び戻って来られる万宝神書一巻、そして玉手箱を携えて故郷に帰ってきた浦島太郎。しかしそこは誰一人として知る者の無い未知の世間。驚いた太郎は飛行の術、長寿の薬法などが記された万法神書を読み、足にまかせて諸国の旅に出ます。
そしてたまたま気に入って住み着いたのが寝覚の床。ここで太郎は忘れていた玉手箱を取り出し、三百歳の翁に老いたのでした。その後翁は人々に霊薬などを授けていましたが、天慶年間にどこかへ立ち去り、床岩には一体の弁財天像が残されているだけでした。
 
   
5−2浦島太郎の伝説   
 こんな山の中に、浦島太郎の伝説があるなんて、ちょっとおかしいことであるが、浦島太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天橋立である。この海岸で亀を助けてやり、その亀につれられて、龍宮へ行ったのであるが龍宮での話や、龍宮から帰って来るまでは、おとぎ話にある通りである。ところが帰ってみると、親、兄弟はもちろん、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家も無いので、そこに住むことが出来ず、昔のことで何処をどう通ったともなく、この山の中にさまよいこんで来た。
この木曽路の風景に淋しい独りをなぐさめられながら、好きな釣りをしたり、或は村人に珍しい龍宮の話をしたりして暮らして居ったところ、或る日のこと、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱を開けて見たらば、一ぺんに三百歳のおじいさんになってしまい、ビックリして眼がさめた。
眼をさましたというのでここを寝覚という。
ところで、ただでさえ変わったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むことも出来なくなり、その行方を消してしまったのである。
その跡を見ると龍宮から授かってきた弁財天の尊像や遺品があったので、これを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったという。約千二百年前のことである。今の寝覚山臨川寺がその始まりである。
 
弁財堂(正徳二年再建)
   
 寝覚ノ床の弁天さま  
 むかし丹後の国竹野郡浦島というところに、水江なにがしという領主が住んでいました。この人に太郎とよぶ子供がいました。浦島の領主の子供ですのでみな浦島太郎と呼びました。ある日、海上で釣りをしていた太郎は、一匹の大きな亀を釣りあげました。お供のものが亀を殺そうとしましたが、太郎がよくよくみると、普通の亀とちがって五色の糸をあやどり、甲羅に八卦の文が見られます。殺すのをやめさせて、亀を海へ放してやりました。
 浜へもどった太郎が家に帰ろうとすると、松林のかげから一人の美しい少女が現れてついてきなさいという。太郎は夢をみているような気持ちでついてゆくと、やがて四五町ばかりのところに、一かまえの立派な御殿がありました。太郎が驚いてここはどこで、どのような方のお住まいですかと尋ねますと少女は、「これこそ常世の国の龍宮城です」と答えて、城の中へ案内しました。
 龍宮には、龍王が、大勢の家来たちと、太郎の来るのを待っていました。「わたしはここの大王である。お前が姫を助けてくれたお礼がしたいから、ゆっくり遊んでいくように」と念のこもった挨拶をし、山海の珍味をもてなしてくれました
 月日のたつのも忘れて遊んでいた太郎は、ある日鶏の声がほのかに聞こえてくるのを聞き、忘れていた故郷を思い出すと
 
   
 新田墓地の六地蔵  
 六地蔵は上松で一番古い地蔵さまで延宝6年7月(1678年)に建立されました。建立者の氏名が裏面に彫られています。
右側より
  
護讃地蔵   森八朗兵衛
 弁尼地蔵 小松 庄兵衛
 破勝地蔵 三尾 重兵衛
 延命地蔵 千村三郎兵衛 
 不休息地蔵  藤田九郎右衛門
 讃竜地蔵 原庄左衛門 
 同七三良母  
 
   
 八幡神社  
  本殿は江戸中期の代表的な社殿建築で上松町では一番古い神社です。
米年九月上旬には幕末の頃三河の神田徳七という人物から伝えられた芸ざらいと呼ばれる獅子狂言が若連によって上演されます。
狂言の女方はすべて獅子が演じ台本には十八の演目があります。
 
   
 9木曽森林鉄道と鬼淵鉄橋  
 鬼淵鉄橋は大正二年に当時の中央線上松駅から木材を貨車輸送するために架けられました。全長九十三,八メートルトラス構造で八幡製鉄所の鋼材を使用し大阪の横河橋梁製作所が手がけたものです。設計は三根寄能夫。原料・技師も含め初の純国産鉄橋といわれます。
鉄橋の西側で小川線・王滝線の軌道が分岐し特に王滝線は昭和五十年五月の木曽森林鉄道廃線(国内最後の森林鉄道)まで活躍しました。
最盛期の木曽森林鉄道は木材だけでなく人や物資の流通も担う木曽の大動脈でした。その後の鬼淵鉄橋は車道橋として活用され長年にわたって地域の交通を支え続けました。
 
   
10安倍晴明  
 安倍晴明は実在の陰陽師で中国の陰陽道五行説による天体観測暦の作成や時の測定や筮竹などで吉凶を占っていました。
父は安倍保名母は霊力を持つ動物として知られる白狐。
一子晴明を授けた後に正体を知られた母は
「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
の歌を詠みこれに因む「信太妻」の物語は有名で毎年春小川若宮神社で奉納の舞が演じられます。
清明終焉の地がここである確たる証拠はありませんが天文に関わる独特な生活の営み正月の独特の松飾りなど暮らしの随所に見受けられます。
 
   
11大宮神社  
 天照大神・伊弊丹尊(いざなぎのみこと)・底筒男命(そこつつおうのみこと)を祭神に祀る大宮神社では毎年七月の中旬の土曜日・日曜日に例祭が開かれます。
町内のおよそ三〇〇戸を氏子に持ち若連によって各戸の悪魔払いが行われ、しき・拾ニ当・お七などの獅子神楽が奉納されます。
また大宮神社は縄文人の遺構が発見されたことでも名を馳せます。
昭和五十九年(1984)大雪で崩壊した拝殿を再建築の際拝殿前後で縄文時代早期の押型分土器片と石器が発見されました。深い山中で遺構が発掘されることは非常に稀なことです。
 
   
 12五社神社  
 五社様と親しまれる五社神社は天明年間(1781〜1788)時の材木奉行・日々野源八が木曽山川の安全とここに働く杣や日雇にケガや事故が無い事を願って建立されたと伝えられます。
五社とは
御嶽大権現(地元木曽地方の守護神)
熱田大神宮(当時木曽を治めていた尾張藩主の居住地名古屋にある神社)
天照大神(伊勢神宮御神木を木曽より献上)
三嶋大神(東海道三嶋宿を本社とする山の神)
水天宮(筏師・船頭の安全を守る水の神)
を指します。
なお上松材木役所に祀られていた五社神社でしたが明治四年(1871)材木役所の廃止を期に上松町の鎮守諏訪神社の境内に移転されました。 
 
   
13−1かくれ滝のお姫様の伝説  
 荻原村の人の前に追っ手から逃げるお姫様が現れかくまってくれるよう懇願しましたが村人は後難を恐れてこれを断りました。
するとお姫様は小判を出してお礼をすると言いましたが村人は小判だけを取り上げて願いは聞きませんでした。
途方にくれたお姫様は山路を逃げ名も無き滝のほとりに身を隠すも追っ手に発見されついには滝に身を投じたのでした。
以来この滝は「隠れ滝」と呼ばれ滝上の祠は姫を祀ったものとされます。
 
   
13−2 かくれ滝  
 昔、戦いに敗れた平氏の落人のあるお姫様が追手から逃げて木曽までやってきました。そして上松にある滝の水影に身を隠していました。ところが逃げて来る途中に匂い袋を落として来てしまいました。それを追手が見つけて、その滝にお姫様がいることがわかってしまい、見つかりそうになったお姫様は、自ら滝壺へ身を投げました。それからこの滝は「かくれ滝」と呼ばれるようになりました。

「かくれ滝」といういわれはもう一つあります。中山道からは、この滝が小さな山に隠れていて、滝の美しい姿は見られない。滝が隠れているので、「かくれ滝」といわれている。
 
   
 14−1おばろ1  
 木曽路はすべて山ん中、細い道が山と谷を縫うように走っている。
その峠道におぼろがすんどった。
夜中に人が歩きよると、おぼろはそっと後ろからついて来て
「おばろう、おばろう。」
と悲しげに声をかけ、毛むくじゃらな手をのばし、おぶさろうとするのだ。
たいていの人は声をかけられただけで腰をぬかすか、持ち物まで投げ捨てて逃げてしまうのだった。
特に村の衆が困ったのは、食べ物を運んでくる岡舟(牛)が来なくなったことだ。
そんなある日、太い鉄棒を持ち、見るからに強そうな侍が通りかかった。そしておぼろの話を聞くと
「なんじゃ、おぶさろうとするお化けだと。まるで子供だましじゃな。拙者が退治してやろう。」
と言った。
村の衆は大喜びで、御馳走を作り、大切にもてなした。
夜になると、侍はいばって出かけて行った。
さわりさわりと吹く風は寂しく、やがて風の音にまざってかすかに
「おばろう、おばろう。」
と悲しげに呼ぶ声が聞こえた。
侍はぶるぶっと身震いをして、なおも行きよると、今度はすぐ後ろで
「おばろう、おばろう。」
と毛むくじゃらな手をのばしておばれかかった。
「ええいっ。」
侍は目をつむって、化け物に切りつけた。すると確かな手ごたえ、
「ぎえー。」
と鳴き声ものすごく、大きなハリネズミの化け物が、ばさばさっと落ちて来た。
村へ帰った侍は、心配顔をして集まった村の衆に、
「わはっはっはっ、まるでたわいもない化け物よ。一刀のもとに切り捨てて来たわい。明日の朝峠に行ってみるがよい。それにしても、今までにあんなものを退治する者がいなかったとは。」
と、大威張りで話した。
次の朝、村人と侍が行ってみると、切られているのはなんと、大きな松の木の枝であった。
侍はこそこそと逃げ去り、村人はがっかり。
次に来たのは猟師だ。大きな南蛮渡りの鉄砲を持ち、何でも、飛騨の山の主、「大うわばみ」を退治して来たという。クマの毛皮に、株根っこのような足。
「これなら、山の主もかなうまいに」
と、村のしゅうはたのもしかった。
夜になると、猟師は勇んで出かけて行った。
峠近く、さわりさわりの風の音にまざって
「おばろう、おばろう。」
と、悲しげに呼ぶ声
もう怖くて我慢できない。猟師は振り向きざま、怪しげな気配に向かって
「ダボーン」
と、一発。その時はやく、怪しげな影が目の前にとびかい、毛むくじゃらな手がしっかと鉄砲をおさえた。
猟師は仕方なく、山刀をぬき、めったやたらと切りつけた。
なにせ、相手は化け物、切っても切っても襲いかかってくる。格闘は夜明け近くまで続き、猟師は疲れ切った。
明け方近くになって、よくよく見れば、まわりの茂みが、めちゃくちゃに切り倒されているだけだった。
次に来たのは山伏だ。おばろの話を聞くと
「わしは国中をまわって、キツネツキだの、はやり病だのをなおしとる。わしの念力できっとおばろとやらを退治してしんぜよう。」
と、出かけて行った。
村の衆は、今度こそ三度目の正直と思った。
山伏が峠道を上がって行きよると、
「「はおう、はおう、ほ、ほ、ほ、」
と、ふくろうがないた。
「かさり、さり、さり、さ、さ、さ」
と、木の葉が落ちた。
もう気味が悪くて仕方がない。山伏は持っていたホラ貝をけいきづけに、
「ばあぉー、ばあぉー、ぶぁ、ぶぁ、ぶぁっ。」
と鳴らした。
どでかいホラ貝の音に、山の獣がびっくりした。山の小鳥も何事かと飛び立った。獣たちは、かう、かうと、山をかけ登り、小鳥たちは、しゅっ、しゅっと茂みに突っ込んだ。
しかし、肝心のおばろは、姿を見せなかった。声さえ聞こえなかった。
山伏は、後ろも見ず、峠をかけ下り、村へ戻ると、深呼吸を何回もした。そして村人たちに、
「もう大丈夫だ。わしの念力で、おばろは完全に封じ込められた。わしの前に姿も見せなかった。」
と、言って、お礼の金をたくさんもらうとそのまま立ち去ってしまった。
しかし、次の晩から、もうおばろは出た。
大丈夫と思って、食べ物を運びに行った牛方がやられ、岡舟は足を折り、荷物は谷へ落ちてしまった。
ところで、この街道をずっと離れた山ん中に、おかね婆さんがすんどった。
太っちょで、あわてん坊の婆さまにも初孫ができた。里へ嫁にやった娘から「初孫が生まれた。」と知らせが届いたのだ。
ばあさまは、体をゆすって大喜び、いても立ってもいられなくなり、すぐに娘の里へと出かけて行った。
ところが、峠道にさしかかる頃、日がとっぷりと暮れてしまった。
「子供ん頃より歩き慣れた道、ぞうさない。」
ばあさまは初孫を見たさにおばろのこともすっかり忘れ、どんどん歩いて行った。
しばらく行くと、
「おばろう、おばろう。」
と悲しげに呼ぶ声が、か細く聞こえて来た。
孫のことで頭がいっぱいの婆さまには、その声が、親に甘えつく、赤子の声に聞こえた。孫の泣き声にも思われた。
 
  毛むくじゃらな手がおばれかかると、まるで孫でもおぶうよう、しっかりとおばろをおぶってしまった。
驚いたのはおばろだ。いつもとあてが違う。慌てて逃げようともがいてみた。けれどしっかりとおぶわれたばあさまの広い背中は、ふんわりと柔らかだった。じいんと暖かみが伝わって来た。
{ばばさどこ行く
三じょうだるさげて
嫁の在所へ
孫抱きに
よいよいよいの よいよいよい}
いつか婆様の口から孫をあやす歌声がもれた。
柔かい毛に包まれたおばろが、初孫に思えて来たのだ。
おばろもすっかり安心してしまって、いつかうっつら、うっつら眠ってしまった。
夜明け近く、里も近い、朝もやの中に、石を置いた、屋根が点々と見えて来た。
「おらぁ、とんだ勘違いをしちまったぞ。背中に居るのはおばろだったなあし。『おばろっ』目を覚ませ。ほかの人にめっかったら、ひどい目に遭うぞ。もうたあんとおぶってやったからよからす。」
夜明けの光でよくよく見れば、子だぬきが一匹、ちょこんとおばれているんだ。
 
  子だぬきは、しばらくじっとばあさまの背中にうずくまっていたが、もっとおばれたいのを我慢して、ぴょこんと飛び降りた。
「あれ、まあ、おまえは、せん(この前)猟師に親をうたれた豆だぬきじゃないか。おお、おお、よっぽどおばれたかったんずらに……山ん中のことは、山ん中のもんでなきゃわからんでなあー。」
子だぬきは、じっとばあさまを見ていたがやがて、ちょん、ちょんと茂みに入って行った。
「おらぁも、とんだあわてん坊だが、おかげで、気持ちのいい朝を迎えることができた。これで孫も、いい子に育つじゃろう。あっはっ、はっ、はっ。」
夜明けの木曽の山々に、おかね婆さんの明るい笑い声がこだましていった。
それから木曽の峠に、おばろは出なくなったと。(上松町上松)
 
   
 14−2おばろ2  
  昔、寺坂にぬける山道に「おばろ」が出た。
 おばろは、夜になると道を通る人の後ろから、「おばろ、おばろ」と、もの悲しげに声をかけ、毛むくじゃらな手をのばし、人の背中におぶさろうとする。
 たいがいの人は、声をきいただけで逃げ出すか腰をぬかす。
 誰もがこわがって、そのうちこの山道を通る人はいなくなってしまった。
 ところが、ある晩、嫁にくれた娘の家から、子供が生まれたという知らせを聞いて、お婆さんいてもたってもいられなくなった。。
「初孫だに、おら見てえ」
 夜道もなにもあらすか、お婆さんてんてんと山道を歩き、寺坂の娘の在所に出かけて行った。
 すると、後から「おばろ、おばろ」の声がする。
 それは、これから会いにいく孫の泣き声に聞こえた。
 「おばりたけりゃ、おばれ」
 お婆さん腰をかがめると、おぶさってきたおばろの手を、肩ごしにぎゅっとつかむと、背中にぴったりくっつけた。
 びっくりしたのは、おばろだった。
 今まで「おばろ」とせがんではきたが、人の背中におぶわれるのは、これが初めてのことだったのだ。なんとか逃げ出そうと、後足でお婆さんの背中をつっぱってみたが、なにせ両手をしっかり握られている。そのうちに、なんともいえないお婆さんの背中に、なにやらうつらとしてきたのだ。
 やがて、夜も白じら明けだして娘の家も見えてきた。
 そこでお婆さん、背中のおばろをひょいとおろした。
 見れば小さいむじなだった。
「さあ、これでたんのうしたずらに、しっかりおばってやったになあ」
 むじなは眠い目をこすっていたが、やがて道の奥へ消えて行った。
 それから、おばろは出なくなったと。
 
   
 15−1朝日将軍と名馬  
 朝日将軍と言われた、木曽義仲は平家と戦う前、木曽谷のところどころに馬場を作り、良い馬を育てては、強い家来を訓練しておった。
義仲は特に山にでも野にでも、戦に強い馬の訓練に力を入れておった。
こんな義仲だったから、自分の乗る馬は、特に足の強い、良い馬を選んでいた。
中でも一番気に入りの馬は、人間の言葉がわかり、どんな険しい所でも、らくらく越えるという名馬であった。
義仲がこの馬にまたがり、大ぜいの家来や巴御前を従え、木曽谷せましと駆け回るさまは、まことに見事だったという。
ある日、この名馬にまたがり、馬の訓練に来た義仲は、桟に通りかかった。
昔の桟は、きりたった岩にさえぎられ、崖道の途切れた所に蔦や、藤づるで編んだ道を作り、それは危険な所だった。
崖の下には木曽川がとうとうと流れている。
義仲は馬の上で胸を張り、得意げに言った。
「皆の者どうじゃ、わしはひとつこの桟を、一気に飛んでみようと思う。
家来たちは「わっ」と驚きの声を上げた。しかし誰一人としてとめる者はいない。
それは、無鉄砲で、言い出したら後へ引かない義仲の性格を誰もがよく知っていたからだ。
義仲は驚いている家来たちを得意げに見渡すと、馬を少し下がらせた。弾みをつけるためだ。
義仲はこの断崖を七十三間と目で測った。
 
  「七十三間飛べっ」
カッカッカッカッ、馬は勢いよく走り出した。最後の岩を火花を散らしてひずめがけるや、ひらりと飛んだ。ところがどうしたことか、もう二間ほどの所で、木曽川にまっさかさまに落ちてしまった。
馬は川原の岩に体ごとぶつかり、血を吐いて死んだ。上に乗っていた義仲は運よくかすり傷だけで助かった。
実はこの桟、七十五間あったのを義仲が間違えて『七十三間とべ』と言ってしまったのだ。
 
  このことを知ると、義仲は大粒な涙をこぼし、
「わしが悪かった。・・・・・それにしてもわしの間違った命令でも忠実に守って死んでしまったおまえは、なんとかわゆいやつよのう。悪かった。悪かった。・・・・・』
と男泣きに泣いた。
泣いてあやまっても気の済まぬ義仲は、名馬をあわれに思い、金で立派な観音様を作らせ、近くの丘にお堂を建て、名馬をねんごろに弔った。
それから間もなく、兵を上げた義仲は、平家の大軍を次々と打ち破り、朝日の出るような勢いで京都に攻めのぼり天下を取ってしまった。
人々はこのやんかで、勢いのよい義仲のことを朝日将軍と呼んだ。
しかし義仲の得意な時期はそう長くは続かなかった。同じ源氏の義経の軍に敗れ、粟津が原という所で、泥田に馬がはまり、動けなくなった所をうちとられてしまった。
兵をあげてから四年、義仲三十一歳のことである。
「あの桟で亡くした、名馬に乗ってさえいたら、泥田になんか足をとられなっかったものを。あんな哀れな死に方はしなかったものを。」
「たとえ、戦に負けても、きっと木曽まで逃げかえってくれたものを」
と、残念がったという。
しかし義仲が残したこの沓掛の観音様は、木曽馬の守り神となり、お参りに来る人でにぎわったという。(上松町桟)
 
   
15−2義仲と名馬   
 木曽義仲の愛馬は、脚の丈夫な強い馬で、その上人の言葉も分るという、たいへん賢い名馬だった。
  ある日のこと、この名馬にまたがり木曽川の絶壁にさしかかった義仲は、さっそく対岸との幅を目測し、「七十三間とべ」と命令した。
 名馬は高くいななき、百閧フ助走からがっきと脚に力をこめ、なんのためらいもなく谷間をとんだ。
 が、どうしたことか、対岸まで二間を残し木曽川に落ちてしまった。
 義仲は、運よく助かったが、実はこの谷間七十五間とあり、義仲が目測の誤り、名馬は命じられたまま七十三軒とび命を落としてしまったのだ。
 義仲は深く名馬を憐れみ、金の観音像をつくり社を建てて名馬の霊をなぐさめた。
 それから、まもなく義仲は兵を挙げ、京に攻め上がり旭将軍木曽義仲といわれるようになった。
 が、それも束の間、同じ源氏の義経の軍に敗れ、粟津ヶ原の沼田の中馬がはまり込み動けなくなったところへ流れ矢がとんできて無念の戦死。
 これを伝え聞いた木曽の人たちは、あの名馬に乗っていたら、こんなことにもならなかったろうにと、大いに残念がったという。
 木曽では、末川の丸山観音、小木曽の田の上観音、須原の岩出観音それにこの上松の沓掛観音を四大馬頭観音と呼んでいる。
 
   
 16名馬のはなし  
 木曽の名所「かけはし」は昔はふじのつるで橋をつないであったという。
 ある日、この「かけはし」を名馬が通った。この馬はとてもりこうな馬で主人が「一間飛べ」と言うと、一寸のくるいもなく一間飛び、それがどんなに長い距離でもぴったりと正確に飛んだ。
 「かけはし」にかかった時、主人か木曾川を□□飛べと言った。馬は主人の言った通りちゃんと飛んだのだが、主人が距離を誤って少なく言ったために、木曽川に落ちて死んでしまった。かわいそうに思った村人達は、その馬の為にお地蔵さまをつくって祀った。それからは「かけはし」を通る馬は木曽川に落ちても決して死ぬことはなくなった。
 このお地蔵さまのおかげで、どんな大きな荷物と一緒に落ちても馬だけは助かったといわれる。
 
   
 17馬方孫兵衛  
  江戸時代、木曽街道にたいへん風変わりな馬方がいた。
 普通、馬方と馬の関係は、馬方が主人で馬は従、馬が使われている間柄にある。
 もっといえば、馬を生かすも殺すも馬方しだい。だから馬は、馬方のいいなりに使われるしかなかった。
 ところが、孫兵衛と馬の場合、まったく違った。
 馬が主人で孫兵衛が従。
 つまり、孫ベエはいつも、馬の下に自分をおいていたのだ。
 だから、荷物を馬の背につけるときも、
「親方、すまねえが荷運びだ。しんぼうしておくんなさいよ。」
とあやまり、三頭の馬に二頭分の荷しか積まなかった。
 そして、危険な山道にさしかかると、馬の首をさすり、
「親方、気をつけてくださいよ。わしが谷に落ちたら、引き返しておくんなさい」
と、まるで主人を気づかうように話しかけた。
 馬が汗をかくと荷駄をわけて自分が背負い、のどがかわくと、まず馬に水を飲ませた。
 ある日、茶店で休んだ時、孫兵衛はあんころ餅を三つ買った。
 そして、三頭の馬に一つづつ食べさせながら、
「さあ親方、これで元気をつけてくださいよ」
と、自分は一つも食べなかった。
それを見て旅人が言った。
「いったい、お前さんがたどっちが親方なんだい」
 孫兵衛は笑って答えた。
「そりゃもう決まっております。わしら馬のおかげで暮らしている者、馬が親方でのうてどうします。
 これを聞いて旅人は、深く心を打たれたという。
 
   
 18姫淵のうた  
 むせかえるような新緑の木曽路を、人目を避け疲れている足を急がせている美しい姫君があった。
姫は、京都より敵の追っ手を逃れ、逃げて来たのだ。風の便りに聞けば、たった一人の弟、若君も木曽の山中に隠れているという。それをただひとつのたよりに、やっと寝覚ノ床辺りまでたどり着いたのだ。
追っ手の近いことを知った姫は、ここから木曽川にそそぐ小川をさかのぼった。そして島の部落についた時、畑一面に生い茂る麻を見た。
〈なんと気持ちよく伸びた麻だろう。この中なら姿をかくすことができよう。でなくともこの疲れた体を一時だけでも休めることができよう。〉
姫は畑で働く村人に頼んだ。
「もうし、この麻畑の隅を貸して下さい。ひと休みできればよいのですから。」
村人は、その美しい顔立ちと、おびえている様子に目を見張った。そして深いわけがあるのだろうと思い、かかわり合いになることを恐れ、頼みを断った。
「なぜ、私一人を隠してくださることができないのでございましょう。情けないお方たちだ。来年からはきっとこのあたりには麻は育たないでしょう。」
姫は悲しげにつぶやくと、疲れた足を引きずって、山道を逃れて行った。最中(もちゅう)の近くまで来た時、姫はふとのどかな歌声を耳にした。見れば山あいの田で田植えをしている歌だ。
{幅は細かく、うね間は広く
笠のひもを結ぶ間を}
如何にも和やかで、ひなびた歌声だ。姫は追ってのことも忘れ聞き入った。あの恐ろしい都の合戦のことも忘れ聞き入っていた。
しばらく我を忘れて聞き入っていた姫は、急にはらはらと涙をこぼし
「もはや、逃げ切ることはできぬであろう。この田植え歌を聞けたことが、一番の幸せであった。ああ、いつまでも、この歌のような心でいたい。」
と、つぶやき、また歩きはじめた。
しばらく山奥へ進むと、道は行き止まりになり、大きな淵に出た。姫は岩の上に休みほっと息をついた。
木立が深く、日が暮れかかっていた。小魚を泳がせ、泡を立てて流れる水音があたりにこだましていた。
姫はふと、岩かげに生えている、スゲに目をとめると、それを抜き取り、さっき見たばかりの田植えのまねをしてみた。
{忘れ草なら一本ほしや
植えて育てて見て忘る}
身も心も疲れ果てた姫には、もう何の望みもなかった。唯一心にうたい、まねることが最上の幸せだった。
一方追っ手は峠の上まで行ったが、姫を見つけることができず引き返して来た。やがて何十尺もあろうかと思われるヒノキの大木の茂る沢のほとりで、姫のものと思われるにおい袋、じゃ香を見つけた。姫の近いことを知った追手はあちこち探すうち、美しい田植歌を耳にした。不思議に思い近づいて見ると、姫が岩の上で田植えのまねをしているではないか。
「いたぞ」
「姫がいたぞ」
と口々に叫ぶとわっと駆け出した。
 
  ところが姫は、少しもあわてなかった。すっくと立ち上がると、木曽の山々にもしみとおるような美しい声で、最後の一節を歌った。
「忘れ草をも、植えてはみたが
あとに思いの 根が残る」
追っ手は思わず立ち止まり、その凛とした姿に見入った。
歌い終わった姫は、さっと淵へ身をおどらせた。
 
このことがあってから、この淵は姫淵と呼ばれるようになった。村人たちは、この姫君をあわれに思い、淵のほとりに姫宮を建て姫をねんごろにとむらった。
また、姫を隠してくれなかった島の平では麻が育たなくなり、姫のじゃ香のこぼれた沢は、じゃ香沢と呼ばれるようになった。そしてあの田植歌は、哀れな姫を思い、この時よりふっつりと歌われなくなってしまったと。(上松町 高倉) 
 
   
 19−1姫渕  
  昔、平氏と源氏が相争っていた頃、京都から美濃を経て木曽路を旅して来た姫がいた。姫は、宇治川の戦いで敗れ逃げ落ちた父をたずね、ようやくここまで来たのだが、木曽路は新緑、田植えの頃だった。
 が、小川の里、島あたりに着いたところで、姫は追手に見つかってしまった。
 島は、一面に生い茂る麻畑で、姫は村人に頼み、身を麻畑に隠そうとした。
 しかし、村人は姫が落人であることを知ると、後難を恐れ、姫をかくしてはくれなかった。しかたなく姫は、痛む足を引きずり、山道を西へと急いだ。
 高倉の峠を越える頃には、夕陽は御嶽の山かげに沈み、下り道のとだえた所には、谷川の深い渕があった。
 その時、峠の方から追手の者どものの声が聞こえ、姫にもはや逃げ場はなかった。
 姫は、旅の途中で見かけた娘たちの田植え歌を思い出し、近くに生えていたスゲを取り、岩の上で歌いながら、田植えのまねをはじめた。
      幅はこまかく うねまは広く
      笠のひもをも 結ぶ間を
      忘れ草なら  一本ほしや
      植えて育てて 見て忘する
      忘れ草をも  植えてはみたが
      あとに思いの 根がのこる
 逃れるすべのまったくなくなった今、せめて今生の思い出に、田植え歌など歌ってみたのである。
 その、美しい声のこだまを聞くこともなく、姫は眼下の渕に自らの若い生命を絶ってしまった。その後、山々が茜に染まる夕暮れどき、この渕の清らかな水の中に姫がうつり、田植え歌など聞こえるので、村人はこの渕を「姫渕」と名づけ、渕のほとりに社を建て、ねんごろに姫の霊を祀ったという。
 が、それから島では、麻が育たなくなったともいう。
 
   
19−2姫淵 2  
 平家の落人で身なりの立派なお姫様が木曽川づたいに上松まで逃げてきた。「中山道を行けばきっとつかまってしまうだろう」と中山道をはずれて木曽川の支流づたいに山の奥へと逃げてきた。島という部落まで来て背の高い麻が畑いっぱいにはえているのを見て、野良仕事をしていたお百姓さんに、「私は追われています。私は背が低いのでこの麻の中に隠れたら、見つからずにすみます。あなた方には決して迷惑はかけません。私がこの麻の中に隠れることを許してください。」と頼みました。しかし島のお百姓さんは見つかることを恐れて、お姫様の頼みを聞きませんでした。お姫様は悲しみ、この人たちを憎んで、「ここはもう麻はできなくなるでしょう。」と言いおきました。毎年沢山の麻ができていたこの部落は、それっきり麻はできなくなってしまいました。
 お姫様は山の奥へと逃げ、今度は高倉へ来ました。高倉で年老いたお爺さんがお姫様を呼び止めました。お姫様はお爺さんに訳を話しました。「かわいそうに」とお爺さんはお姫様を自分の家に連れて行き、ご飯を食べさせたり、たいへん親切にしてくれました このお爺さんはつい最近たった一人の孫娘を病気だなくしてしまったばかりでした。さみしいお爺さんだけに姫にやさしくしてくれたのです。
 お爺さんと楽しいひと時を過ごしたのも束の間、追手が島でお姫様のことを聞いて、追いかけてきました。「さあこんなところにいては見つかってしまう。」とお姫様が逃げようとした時お爺さんが「ちょっと待ちなさい。そんななりでは山道は歩けんし、人の目にも付きやすい。」といって孫娘の着ていた野良着を出してくれました。お姫様はお爺さんに丁寧にお礼を言って家を出ました。だいぶ歩いてつり橋の所まで来ました。「ここまでは追っ手もこまい」と大きな石の上で休んで、歌を歌っていました。すると大勢の足音が聞こえ、あっという間にすぐそこまで追手が迫ってきました。「もうこれ以上は逃げられまい」と思い、高い橋の上からきれいに澄みきった川の中に身を投げて死んでしまいました。それからここは「姫渕」と呼ばれるようになりました。
 
   
20 小川入の伝説 姫淵の悲話  
 高倉以仁王の御子姫宮は宇治の戦いで逃げ落ちた父が木曽谷に居ることを聞きつけ、追手の難をかわしながら京から一人逃れてきました。ある時は村人にかくまわれまたある時は後難を恐れた村人に見放されながら必死に逃げるもついに小川の里で姫は見つけられてしまいます。姫の持つ香袋の麝香が追手に嗅ぎ付けられてしまったのです。いよいよ道も果て、深い淵を前に逃げるすべをなくした姫は、逃げ来る途中で見た京に似た田園風景を思い出し、懐かしい家族を思い、田植えの真似をしながら田植え歌を唄います。
そしてその清らかな声が消えるか消えないうちに自ら淵に身を投げ、若い生命を絶ったのでした。真紅の河原サツキが咲く春の夕暮れ時のことでした。
 
   
 21煮かえり渕の主  
  焼笹地区でいちばん深い「煮えかえり渕」で、若者たちが毒草をたたきつぶして、その汁を渕に投げ込み、一度に沢山の魚をとろうとしていた。
 そこへ、一人の年老いた旅の坊さんが通りかかり、
「釣りで魚をとるは、魚がだまされて釣られるから仕方ないとして、毒汁を渕に流し込めば、だまされない魚もみんな死んでしまう。どうか、そんなむごいことは、やめにしてくださらんか」
 と言った。
 が、せっかくの楽しみ、やめられるはずがない。若者たちは、坊さんの頼みごとなど相手にしなかった。
 坊さんは、悲しい顔をして立ち去った。
 それから坊さんは、一軒の農家に立ち寄り、まぜ御飯をごちそうになった。
 そして、次の農家によると、毒消しになるホウセンカを所望された。
 が、その家にはないと断られると、また悲しい顔をされ、どこへともなく立ち去って行った。
 一方、若者たちはといえば喜々として、用意した毒汁をどぶどぶと「煮えかえり渕」へと流し込んだ。すると、みるみるうちに魚たちが、白い腹をみせ、渕いっぱいに浮き上がってきた。
 そのうち、最後に浮かび上がった岩魚を見て、若者たちは肝をつぶした。
 それは、これまで見たこともない大岩魚で、ひとりでは抱きかかえられないほど大きかった。
 若者たちは、さっそくこの大岩魚を料理して、酒盛りをすることにした。
 そこで、さきほど坊さんが立ち寄った家に集まり料理してもらうことにした。
 お婆さんは、あまりに大きな岩魚を気味悪がってなかなか手を付けられないでいたが、若者たちにはやしたてられ、やっと腹を立ち割ってみると、中から出てきたものとは、先ほどお婆さんが坊さんにさし上げたまぜ御飯だった。
 お婆さんはびっくりして腰をぬかし、この岩魚は坊さんに姿をかえやって来た「煮えかえり渕」の主に違いないと言った。
 
   
22水ひき草   
昔、木曽一帯に日照りの続いたことがあった。 
木曾川は川底を見せ、みかげ石がいたいばかりに光っていた。田んぼに水をひく小川や溝は、かわききって、うんもがキラキラ輝くばかりだった。あたりに生えている草は、きりきりと葉を巻き、今にもかれそうだった。
田植えも近いというのに、しろかきどころではない。百姓しゅうは空を見上げため息をついた。だのに、空にはひとかけらの雲もなく、太陽が澄んだ瑠璃色に輝いているだけだ。
寝覚の里の庄屋、木べえも、雨のことばかり心配していた。
「このままでは、田植えができん。米がとれなければ、この冬、飢え死にするものも出る。手をこまねいているより有志を募って雨乞いをしてみよう。」
その夜、木べえは、村の有志を集めて、駒ケ岳神社の里宮へのぼった。たいまつの火をつらねて登って行った。
それから火を焚き、雨乞いをはじめた。
雨乞いはいく晩も続けられ、雨乞いの火は夜毎に大きくなっていった。火はお宮の松の枝をこがし、渦を巻き、天高くまい上がっていった。
これがもとになってか、夜になると、あっちの山、こっちの山に、点々とたいまつの火がのぼり、雨乞いの火は夜毎に多くなっていった。
夜ともなると木曽の山々は雨乞いの火に照らし出され恐ろしいばかりだった。
木曾中の人々の祈りは、ほのおとなってうずぎまきごうごう音を立てて、夜空にまい上がっていった。
犬は「うおーん、うおーん」と遠吠えをし、赤子はおびえて泣いた。山の獣は山を走り回り、寝ぼけた鳥は、藪に突っ込んだ。
それでも、雨は一粒も降らず、飲み水にも困るようになった。
満願の日、がっくりした木べえは、疲れた体をひきずるようにして山を下りた。
東里の大橋の所まで来た時、木べえは橋のたもとに白蛇がとぐろを巻いているのを見つけた。
木べえは藁にでもすがりたい気持ちで、
「なあ蛇よ、雨を降らせてくれんかのう。もし降らせてくれたら、一人娘のおたえをやってもいいがのう。」
とつぶやいた。
白蛇はその言葉がわかったのか、かま首を持ち上げうなずくと、しゅるしゅる草むらに入っていった。
しばらく経つうち、今まであんなに晴れていた空がにわかに曇り、大粒な雨がぽつりぽつりと降りだした。
雨はみるみる大雨になり、乾ききった地面に吸い込まれていった。かれそうであった草は生き生きと頭を持ち上げ、山の木々の緑も鮮やかになっていった。
木曾川は砂を巻き上げ、生き物のように流れはじめた。
木曽谷の百姓しゅうは、大喜びで田ごしらえをし、田植えをはじめた。
寝覚めの里でも一斉に田植えが始まり、あっちの田んぼ、こっちの田んぼで、はずんだ田植歌が聞こえた。
「苗を取る なえ田のよーい
いねこよ さてどこえやるぞなー
この田のよー いねこよーえ
さおとめは 田を植えてよーい
うちへ帰るよー
田の神はなー 田に出てよー
田を守らるる よーい」
喜びに満ちた歌声は、山の緑に吸い込まれていく。木べえは、このありさまを涙ぐんで見ていた。
もちろん遅れていた作物のまきつけ、植え付けもどんどんはかどっていった。
やがて夏が来た。
木べえ夫婦と娘のおたえ三人が、裏の田んぼで、田の草取りをしていた時だ。立派な身なりをした侍が木べえを訪ねてきた。
木べえは驚いて何事かと尋ねてみた。
さむらいは、
「私は駒ケ岳、古池に住む竜です。お約束した通り、雨を降らせてあげました。だから私の嫁に一人娘をいただきたいと参りました。」
と礼儀正しく言った。
木べえは、あの満願の日の約束を思い出し、あまりのことに、おかみさんやおたえの方を振り向くこともできなかった。
「なんちゅう約束をしておくれだい。いくらなんだって、おたえを竜の嫁にやるなんて、あんまりだ。」
おかみさんは泣きじゃくった。おたえはあまりのことに口もきけず、へなへなとその場へくずれこんでしまった。
しばらくして木べえは、
「お約束は確かに致しました。しかし、おたえは何も知りません。私が勝手にしたことでございます。どうかおたえのかわりに、私の命を差し上げます。八つ裂きにするなり、何なりと存分にしてくだされ。どうかおたえだけは勘弁してくだされ。」
と頼んだ。
侍は、悲しげに首を横にふると、たちまち竜に姿を変え、雲を呼び、はるか駒ケ岳へと飛び去ってしまった。
 
  いっときほどすると、今まで晴れ渡っていた空は、にわかにまっ黒く曇り、強い風が吹き、大粒な雨が降り出した。雨の勢いはものすごく、小川の水はたちまちあふれ、水は田の土手を乗り越え、今にも稲は流されそうに見えた。
あっちこっちで、はんしょうや、ばん木が打ち鳴らされ、木曾中はまた大騒ぎになっていった
 
  このありさまを、おたえはおびえた目で見ていた。
「今、私がお嫁に行かなんだら、せっかく植えた稲もだめになってしまう」
おたえの頭の中には、木曾中が、炎をふき上げた、雨乞いの火のことが、父親のやせた心配そうな顔が、そして喜びに満ちた田植えのありさまが浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。
やがて、きっと顔を上げたおたえは、
「父ちゃん、父ちゃんのやったことは良いことです。どうかおたえを竜のお嫁にやってください。今私が嫁に行かなんだら、また木曾中の人が難儀をせんならん。母ちゃん悲しまないで、おたえは古池へ行きます。」
といったかと思うと、木べえ夫婦がとめるひまもなく、あらしの中へと走り去った。
しばらくすると、今まであれほどに荒れていたあらしは嘘のようにおさまった。不思議と流された田もなく、木曽のしゅうはやれやれと胸をなでおろしたのだった。
こんなことがあってから、木べえ夫婦はおたえの住んでいる古池を時々たずねるようになった。
するといつも池の底かるおたえの歌う「田植歌」がかすかに聞こえてくるのだった。そして池のはたには、おたえの姿によく似た水ひき草が、ひとすじ咲くようになったという。(上松町 東里)
 
   
 23原畑用水  
 寛永年間、上松村の名主・塚本惣兵衛は、水路方面の地主・大戸市之丞とともに新田開墾に向けて滑川から原野へ疎水を計画します。しかし決潰等の恐れから反対に遭い、ついには御陣屋の防火用水という触れ出しで工事を進めました。困難を極めた水路延長約三キロの大工事はおよそ六カ年に及びました。用水は町部、見帰、寝覚各地区に上水道ができる昭和33年まで飲用水や防火用水に利用され現在もなお各方面に使われています。  
   
 24−1不思議な浮石  
 その昔、木曽の桟から寝覚の床まで行ったり来たりする不思議な石がありました。この石が流れると決まって不幸な事が起こりそれを聞いた旅の僧が一首歌を詠んでこれを鎮めました。
短冊には「波計や弥生の糸につながれて浮いたる石の流れこそせぬ
以来この石は動かず村に不幸な出来事も無くなりました。鬼淵の上流には今もその石が残っているそうです。
 
   
24−2浮石   
 昔、木曽福島と上松の中ほど、木曽川沿いに作られた棧を土地の人は波計(はばかり)の棧と呼んでいたが、子の棧と寝覚の床の間を、行ったり来たりしている石があった。
 「浮石」といわれたこの石は、上松の方に流れて行ったかと思うと、またいつの間にか棧に戻っている。
 そして、この石が流れると、必ずどこかで災害が起こり不幸なことになる。
 それで、村の人たちは、この石が流れるとなにか悪いことが起こらなければよいがと心配していた。
 ある日のこと、流れてきた浮石を見下ろす「弥生の茶屋」で、名物の蕨餅を食べながら、茶屋の主人からこの話を聞いた旅の僧は、
「私の法力で、あの浮石を止めてしんぜよう」
と、主人から紙をもらった。僧はその紙に歌を書いた。
      波計や弥生の糸につながれて
            浮いたる石の流れこそせぬ

 そして、その歌を川に面した茶店の壁にはり、長いことお経を唱えていた。
 すると、浮石はぴたりと止まり、それきり動かなくなった。
 それからというもの、村に不幸は起きなくなり、浮石の不安もいつか消えてなくなったという。
 
   
 24−3ふしぎな浮石  
 かけはしから寝覚の床までの間を行ったり来たりする石があった。この石は不思議なことに流れて行ったと思うと またいつの間にかかけはしへもどって来ていた。この石が流れると必ずというほど、不幸なことがおこった。
 ある日のこと、いつものようにこの石が流れるのを見つけた新茶屋の主人は、「また何か悪いことが起こらねばよいが」と店で話していた。ちょうどそこに休んでいた一人の旅の僧が、この話を聞きつけて言った。「私も長い間、旅から旅へと修業してきたので、私の修業の力で、あの石が止まるかもしれない。」と、一首の歌を詠んだ。
     波許(はばかり)や 弥生の糸につながれて
          浮いたる石の 流れこそせぬ

 それから この石は流れることを止めてしまったので、鬼淵の上に今も残っているということです。

         波許(はばかり   かけはしのこと
         弥生         茶屋のこと
 
   
25あとかくしの雪   
  昔、くれも差し迫った十二月の二十三日の夕方、旅の坊さまが、木曽路を通った時の話だがよ。
  旅の坊さまが、漆脇から木曽川を渡って、沓掛まで来たときは、日はとっぷりと暮れてしまったとよ。見ると、一けん、みすぼらしい百姓屋があったから、旅の坊さまは、そのうちの門口に立ってな、
「わしは、旅の者ですが、今夜はあいにくと月もなく、道も歩けない始末、どうか一晩の宿と、一わんの飯をめぐんでくださらんか。」
って頼んだそうな。
そうすると、家の中から、よぼよぼのおばあさんが出てきてな、
「それは御気の毒に、だけど、見てのとおりのあばら家だで、食べるものもありませんが、よかったらどうぞおあがりくだされ。」
って、すまなそうに言って、旅の坊さまを家の中へ案内してやったっていうことだ。
 

おばあさんは、今まで、鉢に持ってあったきりづけをしまって、わざわざ桶の中から、長漬けを出してきてな、
「食べるものは、こんな漬け物しかなくて、」
って、勧めたんだが、旅の坊さまはとっても喜んだということだ。
 昔の人は、漬け物を二通りつけたんだな。秋の終わりに取れた菜っ葉のうちで、いいのは長漬けと言ってそのまま漬け込んでよ。くず菜や短いのは、刻んでつけといたんだ。そいで、正月までは、きりづけを食って、年が明けると、長漬けを出すという風にしとったものさ。
 さて、漬け物でいっときしのんだ旅の坊さまも。しばらくたつと、どうも物足らんと思ってな、
「誠に申し訳ないが、おかゆがあったらいっぱい下さらぬか。」
って頼んだだ。
 おばあさんは困りきった顔をして、
「わしは、ごらんのとおり足が悪くて貧乏なもんで、一粒の米もなくて。」
って、断わったそうだ。
旅の坊さまは、家の前にあるはざ場にかかっている稲とあずきを指してな、
「あれを少しとってくるがいい。」
って、言いつけたそうだ。おばあさんは、
「とんでもございません。あれはとなりのはざ場で、それに、わしみたいに足の悪いものがとりに行けば、足跡ですぐわかってしまう。」
って、顔色を変えて答えたんだ。
「心配しなんでよい。わしが、お前さんの足跡が消えるように雪を降らしてしんぜる。」
って、旅の坊さまは、落ち着いていったそうだ。
おばあさんは、言われるとおりに、はざ場から稲とあずきをとってきて、小豆粥を作って食べさせたそうだ。
 次の朝になってみると、どうだ、雪がいっぺい降ってただ。
 旅の坊さまが言ったとおり、あとかくしの雪を降らしたんだな。
 旅の坊さまは、おばあさんに礼を言ってな、木曽路を北に向かって旅立ったということだ。
 このことがあってからというもの、十二月二十三日には、どこのうちでも小豆粥を食うようになったそうだ。それに、その日には、きっとあとかくしの雪が降るって伝えられとる。
 それからな、その沓掛では、今でも、その日まで切漬けを食って、二十三日になると、初めて長漬けを出すようにしとるんだってよ。
 この坊さまは、大師さまっていうとっても偉い坊様だったんだな。
 
   
26駒ケ岳神社の太々神楽   
 木曽駒ケ岳山頂にある駒ケ岳神社の奥の宮には、祭神として保食大神(うけもちのおおかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られている。
 その里宮である駒ケ岳神社は、徳原の産土神ともなっている。
 この、里宮で五月三日に行われる例祭には、古くから伝えられている「太々神楽」が奉納される。
 この神楽は、天文六年(1537)に始まり、天の岩戸前の神楽舞に能楽を加え現在の神楽になったといわれ、また戸隠神社の太々神楽が伝わったものともいわれている。
 いずれにしろ、出雲系統の神楽舞といわれるが、古い神楽の型が変形しないで、純粋な型を保ち昔のままに残されている。
 中でも男性的な「四神五返拝」の舞は、白い天狗の面をつけた四人が、ドシン、ドドドドッと、激しく床をとびはねるのだが、その足の踏み方に最も古い神楽の形態がよく残されているという。
 釜の湯による祭場清めのあと、本殿前の二間四方の舞台で、岩戸開舞、御神入舞、幸神舞、神代御弓舞と次々に演じられ、三剣の舞では互いに剣をにぎり合ったり、太刀の間をくぐりぬけるなど、山岳系の神楽のおもしろさも伝え、また狩衣をつけて舞う津賀井舞、武多井舞などは、優雅な女性的な舞。
 そのほか、呪術的な舞、神の威徳を示す舞と、極めて多彩な内容を持つすぐれた太々神楽は、二本の神代を今に伝えている。
 
   
 27赤い牛の顔  
  上松の寝覚の床のむこうに、「床」という部落がありました。この部落と町との交通が大変不便でわざわざ遠まわりをして町へ出なければなりません。そこで部落と町の間につり橋をかけることにしました。そしてつり橋の完成に渡りぞめをすることになり村の人が大勢集まり渡ってみました。ところがこのつり橋を渡ってだんだん来るうちに川の流れが荒だってきて、真中までくると荒れた水の中から赤い牛の顔が見えました。村人はそれがあまりにも恐ろしい顔なので全部渡りきることができませんでした。それからいろいろな人がこのつり橋を渡ろうと挑戦しましたが誰一人として渡りきることはできませんでした。  
   
 28蛇嫁様  
 昔、木曽路一帯に日照りが長く続いた時の事、上松村(今の上松町)の寝覚めの里も見渡すかぎり乾ききってしまって田植えもすることができなかった。部落では大勢の人々が集まって毎日のように雨乞いをしたが、一滴の雨も降らず、飲み水にさえ不自由するようになった。たまりかねた寝覚の庄屋は、駒ケ岳神社の里宮にこもって、一心に雨乞いの願をかけた。
 それから数日たった満願の日に庄屋は疲れた身をひきずるようにして山を下り、東里の大橋近くまで来た時、道端に一匹の大きな蛇がとぐろをまいているのが目についた。庄屋が近づいてよく見ると、蛇はまっ白で身の丈一丈(約3m)以上もあった。庄屋は逃げようともせず、じっとうずくまっている白蛇に、「おい、なんとかならんかよ。困ったことだに、雨さえ降ってくれればおれの一人娘でも何でも欲しいものをくれてやるがなあ」と言うと、白蛇は庄屋が言ったことがわかったように、急に鎌首を持ち上げた。すると不思議なことに今まで晴れていた空がにわかに曇ってきたかと思うと、ぽつぽつと雨が降って来た。その雨はみるみるうちに大雨となって大地をうるおし、あたりの草木もみんな生きかえった。庄屋も田植えがすみほっと一息つき、毎日の野良仕事に精出していた。
 夏近くになった頃には白蛇との約束もすっかり忘れてしまって、親子三人で裏の田んぼへ出て、田の草をとっていた。するとそこへ立派な身なりをした一人の武士がやって来た。庄屋はこのようなみすぼらしい百姓の所へ何の用事があって来たのだろうと思って「何か御用でしょうか。」と尋ねると「お忘れになりましたか。私は先日、貴方が願をおかけになった駒ケ岳神社の使い、古池に住む白蛇です。約束通り雨を降らしてあげましたから、私の嫁にあなたの一人娘をいただきに参上しました。」と言った。
 その言葉を聞くと庄屋は先日大橋の近くで白蛇と約束したことを思い出し、つまらぬ約束をしたものだと思ったがどうすることもできない。庄屋は妻と娘にむかって、「すまん、すまん、許してくれ」というばかりだった。その時泣きながらその話を聞いていた娘が顔をあげて、父の方を向き、「お父さん、私は白蛇の所へお嫁に行きます。お父さんのしたことはよいことなんです。私がお嫁に行けばすむことです。寝覚めの里の人ばかりか木曾中の人たちが救われたのですから」と言った。そして泣いている母親の方を向き、「お母さん泣かないで、私はこれから古池にまいります。古池はここからそんなに遠い所ではありません。ときどき会いに来て下さい。お父さん、お母さん、十八年間ありがとうございました。体に気をつけて、長生きをして下さい。」と言うと、じっと黙って待っていた白蛇の武士に伴われて、山道を古池に向かって登って行った。
 このことがあってから庄屋や母親は、一人娘の住んでいる古池を時々訪ねた。その時には池の底からいつも、ガチャン、ガチャン、と機織りをしている音が聞こえてきた。またこの古池には、それから美しい蓮の花が一輪咲くようになったという。
 
   
 29へびづか  
   

参考文献

 信州木曽あげまつ  上松町観光協会    
木曽路の民話  下井和夫  信教出版部  昭和52年 
長野のむかし話  長野県国語教育学会編   日本標準 昭和51年 
信州の民話伝説集成  はまみつを   一草舎  
信濃よもやま100話  降幡利治  郷土出版社  1984年改訂第6刷 
 私たちが調べた木曽の伝説第一集  木曾西高等学校地歴部民俗班      
 しなの夜話 小林計一郎  社団法人信濃路