木曽町開田高原の昔話


 木曽町開田高原
 


 地蔵峠の夫婦木  
   小作のせがれ太蔵と川向うの地主の娘おたきは好き合っておった。
二人は人目を避け、時々会っていたが、たちまち近所中の噂に上るようになってしまった。
噂が耳に入ると、太蔵のおっとうは真っ赤になって怒った。
「よりによって地主様の娘を好きになるちゅうは何たることだ。だいたい家柄が違いすぎる。、そんなことがわからんか、このあほんだらめ。」
おとなしい太蔵は、おっとうにこう言われると、何とも言い返すことができなかった。
一方おたきのおっとうも、
「まあず、恥ずかしいこった。こんねに噂になっちまって、おたきもよう考えてみるといい。いったい小作の所へなぞ嫁に行ったって一生苦労せんならん。若気の至りだ。頭を冷やしてよう考えよ。」
と言い聞かせた。
おたきは下を向き、唇をかみしめ何も返事をしなかった。
 
    ところで太蔵の友達仁平も川向うのおきよを好きに思っておった。
おきよの家は小作だったが村でも評判の美しい娘だったので、方々から嫁に欲しいといわれていた。早くなんとかしないと、ほかの家にもらわれてしまうかもしれない。
仁平は隣の甚助じいを頼んで、おきよを盗むことにした。こんな時は家同士の話をつけておいて、早く盗むに限る。
 
 
早速次の晩、村中が寝静まるのを待って、二人はおきよの家に出かけた。おきよの方でもかいがいしく身の回りの物をこうりに詰めまっとった。
そっと戸口まで見送りに出た両親は、おきよの肩に手をかけ
「良かったな。なかよく、達者で暮らせよ。」
と、短いが心のこもった祝いの言葉を送った。
星までがキラキラと美しく輝いていた。
両親はおきよを送り出すと、ほっと胸をなでおろし、
「まずこれで一安心。仁平は働きもんだ。それにああ方々から嫁にくれって頼まれりゃどこを断って、どこへやるっちゅうわけにもいかんでなあ。」
「ほんとになあし、これで一人かたづいた。盗まれりゃあ、嫁入り支度も何にもいらん。貧乏人にゃあありがたいことだなあし、おきよは孝行もんだ。」
と喜んで話した。
おきよが盗まれた話は、たちまち村中の評判になり、若いしゅうは
「ちえっ、もたもたしているうちに仁平にやられたわい。」
と口々にくやしがった。
太蔵はこの話を聞くと、ますますおたきのことが思われてならんかった。仁平のように勇気のない自分が情けなかった。太蔵は、ぼんやり考え込むことが多くなった。
(おたきを盗むか……。かと言って、家同士が反対・・・・。盗むなら、おっとうや、おっかあを捨てて村を出んならん・・・・・。)
いくら考えても、良い考えは浮かばぬし、迷うばかりだ。
(諦めよう、思いっきりよく、さっぱりと諦めよう。)
太蔵は自分自身に言い聞かせてみた。すると急に胸が締め付けられるようにせつなくなって、おたきの姿が目の前にちらついて仕方がない。やっぱりおたきを思い切ることはできなかった。
おたきの方も、
「まだ太蔵のことを考えているんか、家のもんはな、おたきのことを心配していっとるんだぞ」
と、なだめられていたが、いろいろ言われれば言われるほどいよいよ太蔵のことが忘れられなくなっていった。
そうこうしているうちに、いつか春が過ぎ夏が過ぎ、やがて秋も終わりに近づいた。真っ赤に紅葉した木々の葉が散り、御嶽の頂に雪が白く光るようになった。
 
    そんなある日、家の者のすきをやっとやっと見つけ出して誘いあった二人は、家を抜け出し、地蔵峠で落ち合った。
半年余りもあわなかった二人であったが、手をしっかり握りあって、黙ったまま顔を見合わせていれば、言いたいことはお互いにわかりすぎるほどわかった。
今のまんまではとても二人は一緒になれないこと、そして、もう会えなくなるかもしれないこと、などなどが。
夕方になり、冷たい木枯らしが吹きすさんでも、二人は峠を下りようとしなかった。
手を取り合って黙ったまま、一緒にいることが、今の二人にとって何よりの幸せであった。
夜になり、珍しく初雪が降り始めたが、それでも二人は動こうとしなかった。
夜中に雪はずんずん降り積もり、とうとう二人をすっぽり包んでしまった。
 
    降り積もった雪はそのままずっと春まで解けなかった。
二人が姿を消した日、村では大騒ぎになったが、いくら手を尽くしても、見つからなかったのは当然のことだ。
やがて長い冬も過ぎ、草木が芽を出す春になった。春はじめて峠に上った村人はそこに見慣れぬ不思議な形をしたカエデの木を発見した。
カエデの木は二本がたがいに寄り添い、一本の木のようになっており、幹と幹、枝と枝とを固く結んで、仲よげに立っていたのだ。しかもその根元には、太蔵とおたきの着物が横たわっていた。
村人はカエデこそ愛し合った二人の変わった姿であることを知り、哀れな二人をねんごろに弔った。そして仲よげな二本のかえでを夫婦木と呼ぶようになった。
その後、一緒になれることを願う若い男女が、下着の片袖を破いて、夫婦木の枝に結び付けておくと必ず一緒になれるといわれるようになった。
此の噂は、若い男女の間に広まっていき、やがて一緒になれることを願う男女の下着の袖が、幾枚も幾枚も、夫婦木の枝に結び付けられ、ひらひらと風になびくようになったという。(木曽町開田高原末川)
 
     
2 悲恋物語 縁結びの木   
  小作のせがれ太蔵は末川村で評判の正直者だった。また、地主の娘おたきは内気だが気だてのやさしい女子だった。二人はいつの頃からかお互いに思いをよせ合うようになり、ときどき人目をしのんであうようになった。二人のことが世間に知れると、両方の親たちは、「何という恥ずかしいことだ」と二人をいましめた。
この村には、仲の良くなった若い男女の間に、嫁ぬすみという婚姻の風習があったが、地主の娘と小作のせがれではぬすみあうことなどかなわない。 「身分の違うものはどうしても一緒になれない」ということが二人を悩まし苦しめた。
 
  秋も深まり御嶽山が新雪でおおわれるようになったある日、ついに二人はしめし合わせて、家の者のすきをみて家を抜け出ると、地蔵峠の中程でおちあい、手をとり合って峠の頂上に向かった。そのとき急にはげしく降り出した雪にさえぎられ、二人は頂上の一歩手前で倒れてしまった。二人は無言で抱き合い、静かにその場に座りこんだ。降りしきる雪は二人をおおい、深いねむりにおちたまま、遂におき上がらなかった。   
  村人は必死に探したが、何ら手がかりのないまま春を迎えた。峠の雪がとけたとき、村人はそこに、幹と幹、枝と枝が固く結び合った不思議な二本のかえでの木を見つけた。そしてその根元には太蔵とおたきの着物があったそうだ。
それ以来、このかえでの木を縁結びの木と名づけ、相愛の若い男女が、しめ縄を結びつけたりして、一緒になれるよう祈るようになった。 
 
     
3  サル引き馬の絵馬  
   開田村は昔、木曽一番の木曽馬の産地であった。どの家でも三,四頭は飼っており、村全体で二千頭の馬がおった。
この馬は、背が小さく、大変おとなしく、女子供にもよくなつき、そのうえ粗食にも耐えてよく働くので、農家の人達に大変かわいがられておった。
あるとき木曽馬に、悪い病が流行り、動けない馬や、死んだ馬がどんどん増えたことがあり、馬小作の衆は困り果ててしまったそうだ。
馬小作とは、自分の馬を持てない貧しい百姓のことだ。馬地主から馬を借りて飼い、子馬が産れれば春秋の馬市でせり売りをして、売ったお金の半分を地主に納め、残った半分で生計を立てておった。
このままでは、一家食い倒れとなり、ほおっておけば村が滅びてしまう・・・と、村人は必死にこの病と闘ったが、馬の病はますます広がるばかりで、死んでしまう馬が増えていった。
そんなとき、長老が、「これは何かのたたりかもしれん。馬頭観世音さまをおまつりし、お祓いをして清め神主さまに拝んでもらったらどうだろう。」というので、さっそくおまつりをすることにした。
丸山観音に、西野村、末川村の衆全員が集まって、神主にお祓いをしてもらうこととなった。
観音さまの前には、身動きが出来ないほどの人が集まり、神主がお祓いをし、皆も馬の病が治るように熱心に祈願した。
 
    すると神主は集まった村の衆にこう話した。
「村の衆よ。馬の守り神はサルだ。サルに馬の手綱を引かせれば、馬の病はすぐ治る」と。
これを聞いた村の衆は困ってしまった。サルをそれぞれの家だ飼うなんてことはできない相談だ。いったいどうしたらいいのか誰にも分からんかった。
そこでまた神主は神様に聞いてみた。
 
    すると神様のお告げがあり、
「なるほどお前達が困るのも無理は無い。ではサルの絵を板に彫れ。サルが馬を引いている絵馬を。それを紙二枚に写し取り、一枚を神社に奉納し、一枚を馬屋にまつるのだ。そして、毎年春秋に山の神を祀る「山の講」に絵馬を刷って進ぜ、馬頭観世音を祀るのだ。
村人は喜びにわき立ち、さっそく家に帰ると、熱心にサル引き馬を板に彫りだした。赤いちゃんちゃんこを着たサルや烏帽子をかむったサルが、馬の手綱を持ち、馬を引っ張っている思い思いの絵馬を。
そしてお告げのとおり、馬頭観世音のおまつりも盛大に行った。すると、馬の病気はみんな治ったそうだ。
それからというもの、このサル引き馬の絵馬は木曽中に広まった。
しかし、「木曽っ子」と呼ばれ、、愛されてきた木曽馬が少なくなるにつれ、この絵馬もだんだん作られなくなり、今では見かけることもなくなってしまった。
 
     
4-1  平次郎地蔵1  
   西野の平次郎は「木一本首一つ」で首をはねられて死んだ。
平次郎は、さいづち頭で背が低い上に、無口だったので、村の衆から、とかくうすのろ扱いにされておった。
ある年の春先、雪が解け土がぽくぽくと乾く頃、村の衆が集まって山焼きをやったことがあった。
西野では、たいていの家で三,四頭の木曽馬を飼っていたので、たくさんの良い草が必要だった。山焼きとは、良い草が生えるように草山を焼き払うことだ。
平次郎はむっつりと黙ってはいたが、着物にはいっぱいの焼け穴を作り、頭の毛まで焼きながら働きまわった。
こうして山焼きも無事終わった三日目の夜、草山から火が出て、留山に燃え移り、大火事になってしまった。
留山とは殿様の山のこと、村人が近づくのさえ許されなかった所だ。
早速上松材木役所の役人、福島代官所の役人たちが駆けつけて来た。そして庄屋をはじめ、村の主だった者が呼び集められ、調べがはじまった。
そのうち大変なことが発見された。留山の焼け跡に新しい切り株がいくつかあったのだ。
「これは山焼きの火がただ燃え移ったのとは、訳が違うようだ」
「留め山の木を盗み、その証拠をなくすため、山焼きの火が燃え移ったように見せかけたに違いない。」
「村の者たちが、示し合わせてやったのではないか」
役人たちの取り調べはにわかに厳しくなった。
庄屋や、主だった者は、牢屋にぶち込まれ、村のしゅうは恐ろしさに震え上がった。
 
    残った村の衆は、よりより集まって、どうすればよいか相談することになった。
しかし、
「えらいこだなあし」
「よわったなあし」
と出るのは、ただ溜息ばかりでさっぱりらちがあかなかった。
その時、ずっしり重く響く声があった。
「そんなら、おれ一人でやったことにすればええ」
平次郎だ。
一座は水を打ったように静まり返った。誰一人止める者はなく、みな目をふせたり、たがいに目配せをしていた。
平次郎は一座をながめまわすと、ゆっくり立ち上がり、外へ出た。
 
    その足で平次郎は役所へ行った。
そして、その日のうちに首をはねられて死んだ。
そんなことがあってから、越部落の森の中、馬頭観世音が立ち並ぶそばに、さいづち頭の平次郎そっくりの地蔵様が立てられた。
村の衆は、この地蔵様を、平次郎地蔵と呼んで大切にしたという。
   (木曽町開田高原西野)
 
     
 4-2  平次郎地蔵さま2  
   西野の下の原の覚明さまの森に、平次郎地蔵とよぶ地蔵さまがある。
昔、西野に平次郎という男がおった。平次郎は働き者だったが、まるで木づちのようにおでこと頭の後ろがつき出し、背が低く無口だったから村の衆からとかく、うすのろあつかいされておった。
昔はどの家でも馬を飼っていたので、春になると、よい草が育つように草山に火をつけて、山焼きをした。
きびしい寒さの長い冬が過ぎて、四月の声をきくと、西野の里の人たちも山焼きをはじめた。
ところが突然、風向きが変わって大きな山火事になり近くにあった尾張の殿様の鷹を育てる大切な山まで焼いてしまった。この山は村人が入ってはならず、勝手に木を伐ったものは「檜一本首一つ」と、打ち首になるほどだった。さっそく福島から代官がやってきて山火事のあとを調べたら、真新しい檜の切り株がみつかった。役人たちは、
「村中で黙って木を倒し、切り株をかくすために火をつけたに相違ない。」として、犯人を一人残らずつきだしてよこせと迫り
「さもなくば庄屋も組頭も打ち首にする」とえらいけんまくで帰って行った。
村の中は大騒ぎとなり、村中の者が集まって、ひたいをよせて相談したがどうにもならんかった。そのとき日頃無口な平次郎が、
「わしが申し開きをしてやりましょう」
と言った。村の衆は不安に思いながらも平次郎の言うとおりにした。次の日、平次郎は、檜とさわらの木を持って代官所へ行き、この二本の木をこすって火をおこし、
「このように風に吹かれた枝がこすりあって火が出た」
と申し開きをした。だがこのことを怪しく思った役人は平次郎を牢屋にぶち込み、打ち首にしてしまった。庄屋や組頭はゆるされ、犠牲は平次郎一人ですんだ
平次郎の死後、数年あとの八十八夜の日に西野の庄屋や村人は平次郎そっくりの姿をしたお地蔵さまをまつって供養し、いつも花や線香のたえることがなかったそうだ。
 
     
4-3  平次郎地蔵3  
   開田では、春、馬に新鮮な草を食べさせるために、「火いれ」といって山を焼くが、その火が延焼し、三岳の倉本の留出(官林)が焼け、大騒ぎとなりました。なにしろ『木一本首一つ』の時代のことで、村人が代官のきびしい取り調べをうけたことは言うまでもないことでした。
 その時、平次郎という男が代官所に進み出て、「山は手入れをせずに放っておくと、自然に発火することがあるのです。」と、檜をこすり合わせて火を出して見せ、代官に説明しました。大寒は少しとまどったのですが、村人たちの手前、この火事の犯人は平次郎ということにしてしまいました。「バテレンの法を使うけしからん奴め」と平次郎は打ち首にされてしまいました。平次郎のおかげで助かった村人達は、平次郎の供養のために地蔵を建て「平次郎地蔵」と呼んで信仰したということです。
 
     
4-4  平次郎地蔵4  
   木曽は『木の国』といわれている。特にヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキは木曽五木として、江戸時代には「檜一本首一つ」「枝一本腕一つ」と言われたほど、きびしい伐採禁止令が出されていた。
 そればかりではない。山は「留山」「巣山」「明山」に大別され、「明山」以外村人の立ち入りさえ許されなかった。そのうえ、「巣山」のまわりを「鞘山」として立ち入り禁止地帯を広げられては、ますます村人の暮らしは苦しくなるばかりだった。
 せめてヒノキ一本でも切ることが出来たら・・・・・・・という村人の願望は、切ない伝説を残している。
 西野では、木曽馬をたくさん飼っていて、春になると馬の飼葉がよく生えるようにと草山に火をつけ枯草を焼く。
 ところが、ある年の山焼きのこと、風向きが変わり、尾張の殿様の鷹を育てる「巣山」を焼いてしまった。
 庄屋は、その責任を問われ牢につながれた。
 この時、村ではうすのろあつかいされていた平次郎が、ヒノキとサワラの木を持って、代官所に出向き、二本の木をこすり合わせて火をおこし、自然発火だと申しひらき、庄屋の命を救った。
 また伝えるに、「巣山」の焼けあとからヒノキの伐り株がみつかり、盗伐をかくすためわざと山焼きにことよせ「巣山」を焼いたのではないか。この嫌疑に平次郎が名のり出て罪をかぶり打ち首になったともいわれている。
 失火と盗伐、共に平次郎にことよせているが、いずれにせよ平次郎が村人の身代わりとして犠牲になったことは、なにより「平次郎地蔵」が物語っているところといえよう。
 
     
4-5   さいずち頭の地蔵さん  
   木曽馬の産地、開田村の西野というところに、妙に頭の大きい石の地蔵がある。里人は平次郎地蔵と呼んでいるが、平次郎は、日ごろから無口でいっこうに風さいのあがらない、里人からうとんじられるような男だった。
 ある年の春、馬の飼いばにする草を刈ったあと、村ではいっせいに山焼きをやった。ところが運わるく火勢がつよまり、あれよあれよというまに大山火事になった。それもふつうの山ではない。木曽五木のしげる、村人は一歩も入れない掟の「お留山」である。
 そのうえ、なお悪いことに、焼けあとからは、まだ伐り口もなまなましいヒノキの切株が発見された。調査にきていた役人ならずとも、誰かが盗伐し、証拠をかくすための放火とみるのが当然だった。役人は、村の庄屋をはじめ、長老たちをひっ捕らえて牢にぶちこんでしまった。
 村は上下をあげての大騒ぎになった。だが、長老たちを救うてだては考えつかない。そこへひょいと口をはさんだのが平次郎である。
 「俺が一人でやったことにすりゃええ」
 ほかに思案もないまま、村人たちは平次郎の言うなりになった。平次郎は長老たちに代って牢へ、そしてあわれにも打首。
 そのあと何年かたった八十八夜の観音さまの祭りの日に、道しるべをかねた地蔵さまがまつられた。ところが、その地蔵の頭が平次郎そっくり。まもなく誰いうとなく、この地蔵を平次郎地蔵と呼ぶようになった。
 
     
 5-1  汗かき地蔵さま1  
   昔、西野の集落に霜害と冷害のために何一つ穀物を取ることができないという大変な凶作があり、餓死する者が出るほど苦しい年があった。
もちろん、木曽の村々からは救援の手がさしのべられたが、なにしろ不便な山奥なので充分なこともできなかった。
そんなある日のこと、となりの日和田村・留の原の人たちがお粥を炊き、はるばる長峰の峠を越して、西野まで運んで村人たちの生命(いのち)を救ってくれたそうだ。
その後いく年か過ぎたあと、村人たちは感謝の心をこめて、その記念にお地蔵さまを作り凶作をまぬがれるようにと拝んだ。
このお地蔵さまは、それからというもの、霜がやってくる時や日照りが続くようなときには、全身が湿ったように汗をかいて、村人に注意を呼びかけた。
不思議とこの地蔵さまの汗はよく当たるということで、村人はそれを見て備えたそうだ。
また、お地蔵さまが凶作に備えて日頃から汗を流して働くように、と教えているのだともいう。
 
     
5-2  汗かき地蔵2  
   開田村西野が冷害のために凶作であった年の話です。その年はひどい霜害で、餓死者こそ出なかったものの、穀物は何も取れず、郡下の各村々から援助の手がさしのべられましたが、何故不便な山の中の村ゆえ、なかなか平易に充分なことはできませんでした。
 そんな時、となりの日和田の、留の原の人々が粥を作っては、峠を越して西野まで運び、村の人々の生命をつないで救ってくれたそうです。たすけられた西野の人々は、感謝の意をこめて地蔵さまを作り毎日手を合わせていたそうです。
 ところが不思議なことには、この地蔵さまは霜が降りるとか、日照りが続くときなどは、その前触れであるかのように、全身に汗をかいたように湿り気をおび、村人に知らせてくれるということです。そして村人は凶作に備えて、地蔵さまのように汗して働いてそれを乗り切ることに努めたということです。

*この地蔵さまの台座に、それを裏付ける碑文があり、嘉永6年に建てられたと記録されて、天保の凶作の時の救いに対して建てられたものであるらしい。尚、この地蔵さまは開田村西野、源流寺の六地蔵のうちの真ん中の地蔵のことである。
 
     
5-3 汗かき地蔵 3  
   西野の源流寺にある汗かき地蔵には、こんな言い伝えがある。
 昔、西野では霜害と冷害で、食物が何も取れないことがあった。
 餓死寸前のとき、隣の日和田村留の原の人たちが、はるばる長峰の峠を越え、 お粥を運んできてくれた。
 村人は、その感謝の気持ちを忘れまいと、地蔵さまを建て拝んだ。
 ところが、この地蔵さま、霜がくるとか日照りが続くときなど全身に汗をかき村人に教えた。 
 村人は、地蔵さまを見て備えるようになったというが、また凶作に備えて日頃から汗を流して働けとの教えだともいわれている。
 
     
 6  釜飛(かまとび)集落のいわれ  
   昔、把ノ沢近くの集落に一人の武士がおった。
この武士は鎌倉の戦いに十三年間も参加して、寝食を忘れて戦場をかけめぐり主人につかえ、たいへんな手柄を立てた褒美として、自分の家の前に立って見えるところの山や草原をもらったそうだ。
家に帰って来て、十三年ぶりで足に巻いていた「はばき」とよばれる脚絆(すねに当てる布)を取ったら、驚いたことに足のすね毛が一尺(約三十センチ)ものびていたそうだ。
武士は、戦いに使った鎖鎌と鳶口を、家宝として残した。その家の鎌と鳶は有名になり、その「むら」の名前を誰いうともなく「鎌鳶」と呼ぶようになり、いつの間にか「釜飛」と変わってしまったそうだ。
また、この時、この武士が土産として持ってきて柳又に植えた桜の木は紅の色がとても美しく鎌倉桜と呼ばれ、今も柳又集落へ下りて行く坂道の中腹にある馬頭観音の碑を集めたお堂のそばにある。
 
     
7  女の池と男の池の竜  
   末川小野原の奥の「竜の沢」という原に、女の池と男の池があって、今は女の池に水はないが、男の池は沼地になっていて水がある。
昔この池には男竜・女竜がそれぞれの池に棲んでおった。
この二匹の竜は、たいへん乱暴な竜で、山を荒らしたり、村に出てきて田畑を荒らしたりするため、村の衆から恐れられておった。
村の衆は、相手が恐ろしい竜ではどうすることも出来ず、毎日困っておったそうだ。
ある日のこと、小野原の集落を通りかかった大変力があり強そうな武士が、この話を聞くと、
「村の衆がそれほど困っているならば、私がその竜を退治してやろう。」
と、勇んで池に向かって行った。
池のほとりで武士と二匹の竜が戦ったところ、竜は武士の強さに驚いて雲に乗って乗鞍岳へ、舞い上がって逃げて行ったそうだ。
それからは、村の百姓たちは安心して山や畑の仕事が出来るようになった。
それで今でも乗鞍岳にはここから逃げていった二匹の竜の池があるそうだ。
 
     
8  蒲はばきの祠  
   今から八百年も昔のこと、西野の山の奥へ一人の武士があたりを警戒しながらやって来た。
どうも、源平の戦いに負けて逃げのびてきた平家の落人らしい。ちょうどその時山で木を伐っていた高坪集落と把の沢集落の村人が、この落人を見つけたそうだ。
どちらかといえば、木曽は木曽義仲の育った源氏の土地。平家の落人については厳しいお達しがあるため村人たちは大勢でとりかこんで殺してしまったそうだ。
すると、武士の足につけていた蒲はばきの間から、白米がさらさらと一升も二升も出てきた。
殺してはみたものの、もともとは気の小さい百姓衆のこと、足元にこぼれている白米を見ているうちに、たたりがあると困ったことになると心配になってきた。そこで両方の村人が相談して高坪と把の沢の奥の山へ小さな祠を建てて、武士のはいていた蒲はばきを片方ずつ神体としてまつり武士の冥福を祈った。
 
     
9  木曽馬  
   昔、開田には千七、八百頭の馬がいて、人々は馬のおかげで生活していました。それで馬は非常に大切にされました。それは開田村のあちらこちらに見られる馬頭観音からもうかがわれます。その年に生まれた子馬を「とうねんこ」と呼びその誕生祝もしました。
 馬頭観音は、馬の頭の骨を馬屋の上にくくりつけたのが、そのいわれであると言われていますが、現在、道端に見られる石で作った馬頭観音は、その多くは頭部に馬の形が彫られています。
 人々は馬子作(馬小作)といって、地主から馬を借りて飼い、生まれた子馬を売って収入にしましたが、そのほとんどを地主に払わねばならず、馬を飼う苦労とは比べものになりませんでした。
 しかし、生きていくためには、馬を飼うことをやめるわけにはいきませんでした。たいていの家には、親馬が三頭、子馬は二頭ほどいて、田畑には放し飼いの馬が入らないように柵がしてありました。
 「嫁に来た時は毎朝、夏ならば三時に起きてむすびを持っては一里向こうの山へ、馬に食べさせる柴を刈りに行くのが仕事でした。」と、おばあさんたちは苦労話をなつかしそうに話します。
 一日一回、馬が六束、人間が一束背負って柴を運びました。刈ってきた柴やワラは、ゆでて馬に与えたと言います。
*馬は二歳馬で、一頭三十五円から四十円になれば最高で、それだけで一年中の生活に必要な現金がまかなえたということです。
 
     
10  義仲の馬のお墓  
  開田に髭沢集落というところがあります。
 髭沢の集落の奥の山の裾を通る道の脇に、何体かの馬頭観音を祀ったお堂がある。
この中に、高さ二メートル程の大きな自然石でできた石碑がある。これは、今から約八百年程昔に木曽義仲が京都へ攻め上る前にここを通りかかった時、運悪く義仲の愛馬の具合が悪くなり、ここで死んでしまった。義仲は村の人に頼んで、愛馬をここへ埋めて、近くにあった大きな石をその上に立てて墓として帰って行ったそうです。それから数年後、義仲は粟津が原で戦死したのですが、その後もこの愛馬の墓は、この集落の人々によって守られてきたそうです。
 
     
11-1  お清くずれとお清地蔵  
   把の沢と西野の間、西野峠の南方に城山という山がある。
城山の西側は急峻な斜面で、ところどころ絶壁である。
義仲が京に攻めのぼるため、ここに陣をはって戦略を練っていたときに、お清という女が献身的に義仲につくしたそうだ。
ある時、義仲はひどく水を欲しがったが、城山には水が無く、お清はわざわざ西野川まで水を汲みに急な斜面を降りようとして、運悪く足を滑らせて落ち、死んでしまった。それから、お清がくずれ落ちたところを「お清くずれ」と呼ぶようになった。
義仲は、自分のために命を落としたお清の霊を慰めるため、西野峠の城山の入り口に、お地蔵さまを作ったそうだ。
このお清地蔵は、西野峠から把の沢の方へ約百メートルほど降りたところ、城山入り口にある。
 
     
11-2  お清くずれ(お清地蔵)  
    木曽義仲が京へ攻め上がる時、松本からではなく、末川~日和田を通って京へ出たという説がありますが、そのときの話です。
 義仲が開田村末川で戦略をねっている時、お清という女が献身的に義仲につくしていました。
 ある時、義仲がひどく水を飲みたがりましたが城山には水が無く、お清はわざわざ西野川まで水を汲みに行きました。ところがこの時、運悪く足をすべらせて谷川へ落ち、死んでしまいました。
義仲は自分のために亡くなったお清を気の毒に思い、地蔵を作ったということです。
しかしこの地蔵の台座には「七大父母之霊のために云々」と書かれていることから、先祖の供養のためではないかと伝えられています。
 
     
12 義仲の駒かけ岩   
   西野から岐阜県日和田へ通ずる旧飛騨街道、長峰峠の頂上つづきの少し南方に、「義仲の駒かけ岩」という岩石がある。
この岩には、馬のヒヅメのような形をした窪みが二つと、平らな岩の上には一見ヨロイのあとのような紋様がある。
これは、義仲が駒を休めて、自分も腰を下ろして休んだところといわれ、駒のヒズメのあとと義仲のヨロイのあとが残ったものと伝えられている。
 
     
13  末川あし山の駒のツメ跡  
   末川小野原の奥に「あし山」と呼ばれる山がある。
ここにも、木曽義仲の駒のツメ跡が残る石があり、この馬が葦毛(白に黒や茶色の混じった毛並)の馬だったから村の人はその山を「あし山」と呼ぶようになったそうだ。この岩は大きな岩で、岩の上には、いかにもこの岩の上を馬が上っていったかの如く、ヒズメの跡のようなものが三つと膝の跡のようなものが一つ残っている。
 
     
14  吹き出ものによくきく安又川の水  
   昔、木曽義仲が京へ攻め上る際、西野の二本木を通った時のこと。義仲は口のまわりに吹き出ものができ、大変困った。たまたま義仲は、安又から流れてくる小川のほとりに腰を下ろし一休みしたそうだ。
そして、「この水はきれいだなあ」と言って水を飲んで、口のまわりの吹き出ものを洗った。
洗ったあとの感じが大変すがすがしく、義仲はこの水はきっと吹き出ものにもよく効く水にちがいないと言って、家来に命じて、水を水入れに入れて持ち去った。
その時、村の人達をはじめ、遠くは飛騨の野麦あたりの人達までも、吹き出ものによく効く水だと、わざわざ汲みに来たそうだ。
 
     
 15  吉兵衛渕の主  
   昔、末川の小野原集落に吉兵衛という男がおった。吉兵衛は川へ行って岩魚やタナビラを捕ることが上手でいつも魚を捕りに出かけた。皆沢という川の渕には、渕の主といわれる四尺も五尺もある岩魚がおった。吉兵衛はある日、その渕に魚捕りに出かけ、この渕の主を釣り上げたそうだ。
吉兵衛は大喜びで岩魚をミノに包み、背中にしょって帰って行った。
帰る途中、後ろの方で突然声がして、、
「俺の命はずさない。(心配ない)が、そっちの命が危ないぞ。」
と言ったそうだ。
吉兵衛は不思議に思い、首をかしげながら家に帰り、ミノの包みをあけてみたら、不思議なことに、包んだはずの大きな岩魚はなかったそうだ。
それからしばらくして、吉兵衛は原因不明の病気にかかり死んでしまった。その後村の人はこの渕を吉兵衛渕と呼ぶようになった。
 
     
15-2   みな沢・吉兵衛淵  
    昔、小野原に吉兵衛という男がいました。
ある日、吉兵衛がみな沢の淵で岩魚をとっていると、大きな大きな岩魚がかかりました。喜んだ吉兵衛が岩魚をみのに包み、家へ帰る途中のことです。吉兵衛のうしろの方で、突然声がしました。
 「俺の命にじょさはないぞ」それは背中のみのからの声でした。どうやらそれは、「俺の命にはさしつかえがない」ということらしい。
 首をかしげながら家へ帰った吉兵衛が、みのの包みをあけると、あの大きな魚はいませんでした。それからしばらくして、吉兵衛は原因不明の病にかかり死んでしまいました。それ以来、吉兵衛が大岩魚を釣った淵を吉兵衛淵と呼ぶようになったということです。
 
     
16  雨ごいの樽渕  
   樽渕は吉兵衛渕のさらに上流にある。
昔から、樽渕から奥には魚は一匹もいない、と言われ、岩魚も樽渕まででその上流にはいないそうだ。
不思議なことに、この樽渕で岩魚を捕ると必ず雨が降るといわれている。
村の人達は日照りが続いて困ったとき、この樽渕へ来て岩魚を捕ったそうだ。雨乞いの祈祷をしなくても、ここで岩魚を捕れば必ず雨が降ったそうだ。
 
     
17-1  又一山の話1  
   昔々、ずっと昔のこと。
小野原の集落にどこかよその土地から、又一という一人の男がやって来た。この又一は気の短い男で、ささいなことから村人にくってかかり、乱暴していざこざを起こした。
怒った村の人は、又一を山に連れて行き、焼け火箸を又一の耳に刺し、殺してしまった。
ところが、そんなことがあってから、村人はどうしたことか耳を病むようになったそうだ。
村の人達は、これはきっと又一の「タタリ」に違いないといって、相談して又一の墓を村の中へ作り供養した。それからは、耳を病む人はいなくなったそうだ。
その後、又一の死んだ山を「又一山」と呼ぶようになった。
 
     
17-2  又一山の話2  
   この話は、開田村の小野原集落にまつわる昔々の話です。
 この小野原集落に、ある日どこからか、又一という男がやってきました。又一がやってきて数日後、何が原因かわかりませんが、又一は村の男衆といざこざを起こしてしまいました。そのうちに怒った一人の男が又一を山へ連れて行き、皆が見ている前で真っ赤に焼いた火箸を又一の耳に刺し、又一を殺してしまいました。
 その日から不思議なことに、村人たちは耳を病むようになりました。村人達は又一のたたりに違いないと思うようになりました。そこで、又一の墓を作ってやるのでした。すると村人の耳を病むことはぴたりとなくなったということです。
 その後、又一が死んだ山を又一山と呼ぶようになり、村人の作った墓は今も公会堂の前にあります。そして、村の人々は耳を病むと、決まってそこを訪れ、又一を供養するということです。
 
     
18  男池と女池の話  
   昔、小野原のあし山に男池と女池があり、そこには大きな蛇がいて、村人は山へ行ったり草刈に行ったりするのに恐ろしくて困っておった。
ある日、集落を通りかかった侍がそのことを聞き、男池、女池へ行き、お祈りをしながら腰の銘刀を抜くと、はっしとばかりに池の中へ投げ込んだ。
すると大きな音がして、池の中から大蛇が真っ赤な火の玉となって奥山へ逃げて行ったそうだ。
 
     
 19-1  血の池の話1  
   小野原の奥の水源地(水道)の手前に「血の池」と呼ばれる池がある。
昔、この池は山の奥で戦いがあったとき武士たちが血の付いた刀を洗ったため、池の水が血の色で赤くなってしまったそうだ。
それからというもの、いつまでもいつまでも、掘っても掘ってもこの池の水は赤い血の色をしているので、村人はこの池を「血の池」と名付けた。
今では水はないが、雨が降って水が溜まったとき、よく見ると赤く見えるそうだ。
 
     
19-2  血の池の話2  
   小野原の水源地(水道)の手前に、血の池という池があります。
 昔、この池は、この奥で戦いがあったときに、武士たちが血の付いた刀を洗い、池の水は血の色で赤くなったそうです。今でもその池は、、真っ赤な色をしていて、掘っても掘っても赤い血の色をした水が出るということです。
 
     
20  神田畑  
   村の人々に神田畑と呼ばれる畑があります。ここは、小野原の御宮の神事の時に使う米や野菜を作った所だといわれています。
 昔は、この御宮は奥にあったのですが、後になって現在地に移ったものだともいわれています。
 
     
21  白菊姫と白馬物語  
   室町時代も終わりに近い頃、木曽の殿様は時々西野村へ鷹狩りに来ていた。
同じところで休息をしているうちにそこの娘野菊を好きになり結婚した。野菊が凛々しく馬にまたがり殿様と一緒に鷹狩りをする様は、さながら巴御前のようだと、村人からもてはやされていた。やがて、二人の間に中秋の名月の夜に一人の美しい女の子が生まれた。それはそれは肌の白い女の子であったので白菊と名付けられたそうだ。同じ夜に末川村のある農家で一頭の子馬が生まれた。その馬は今までに木曽では見たことのない美しい白馬であった。
 
    白菊姫と白馬はすくすくと成長した。そして月夜の晩は必ずといってよいくらい、白馬はうまやを抜け出して白菊姫のところへ行った。白菊姫は白馬に跨り御嶽の裾野を駆け巡った。
そのうち、白菊姫と白馬は月夜の夜だけでなく昼間もどうどうと御嶽の裾野を駆け巡るようになった。春は花を摘み、夏は川遊びをして秋は栗を拾い紅葉を楽しんだ。長い黒髪をきりっと束ねて、白い鉢巻を凛々しく締めて白馬に跨り駆け巡る姿は、まさに母親ゆずりの巴御前の再現を思わせるようであった。
 
    姫の美しさは信濃の国はもちろんのこと尾張から京都まで知れ渡った。ある日、京より使いの者が来て「殿様がぜひ白菊姫を嫁にしたい」ということだった。逆らうわけにもいかず、姫も仕方なく京へのぼることを承諾した。
月日がたち明日は京から姫のお迎えの一行がが来る日となった。
その夜、こっそり自宅を抜け出して最後の乗馬を楽しもうと、白馬のところに急いで行った。
いつもなら、白菊の足音を聞いて、うれしそうにとび出してくるのに今日は横になったまま返事もしなんだ。近づいて顔を撫でてやったら白馬は涙を流していた。
 
    「白馬ごめんね。京へ行ったら必ずお前を呼ぶから、・・・・さあ元気出して村を一周しようよ!」
その声にやっと白馬は起き上がって外に出た。白菊はひらりと白馬に跨り駆け出した。しかし、いつもの元気はなく、白菊がいくら励ましても駄目だった。
 
  次の日、京からお迎えの一行が西野村へ到着した。白馬と白菊姫の涙が西野川の水を増水させ、下流の村では一時大騒ぎとなった。
悲しい別れをした嫁入り行列は西野村を出発し、末川を通り福島の宿場へと進んで行った。 
 
  馬籠峠から中津川へ下りかけた一行に急な使いが追いついた。
「白馬が駆け出して、御嶽山を三周して頂上へ登ってしまった。」
との手紙を持って。
そのことを聞いた白菊姫はぐったりとなり病気になってしまった。
京に着いた後も病気は治る気配がなく、周りからは「白菊姫がかわいそうだ」と皆が心配しておった。結局姫は西野村に帰ってきた
 
    しかし、村へ帰って、白馬の家に行ってみたが家人も白馬もおらんかった。
白馬と楽しんだ末川の川辺に出ても何の感激も湧いてこない。楽しかった小鳥のさえずりも、今日は寂しい涙をさそうのみ。
「「白馬よ!白馬よ!」
いくら呼んでもやまびこさえも返ってこない。白菊は寂しくさまよい歩いたが、とうとう白馬にめぐりあうことは出来んかった。
 
  白馬のいない世の中に生きる望みを失った白菊姫は、遂に冷川に身を投げてしまったそうだ。
あわれな白菊姫と白馬は二度とこの美しい高原に現れることはなかった。 
 
     
22-1  半太夫屋敷の話1  
   小野原の奥にある平らな草原で、今はカラマツ林になっているが、ここは縄文時代の矢尻なども出てくるところだ。
昔、ここに半太夫という落人が隠れ住んでいたから、村人達はそこを半太夫屋敷と呼ぶようになったそうだ。落人というのはいくさに負けて戦場から落ちのびた侍のこと。半太夫は、飛騨の国から来たとも、もっと遠い国から来たとも言われているが、さだかではない。
 
     
22-2  半太夫屋敷話2  
   小野原のキャンプ場へ行く手前に、半太夫屋敷と呼ばれる場所があります。
 ここは縄文時代に使われた矢尻というものが出る場所でもあります。
昔、ここに「半太夫」と呼ばれる武士が住んでいました。そこでその名をとって半太夫屋敷と呼ぶようになりました。
 
     
23-1  十人塚の話  
   半太夫屋敷の近くの道端に、ただ石を積んだだけの塚がある。
昔、よそから来た人夫たちが小野原の奥で山仕事をしていたそうだ。ある日、三日三晩も大雨が降り続き、月夜沢に蛇ぬけがあって、ここにあった山小屋を押しつぶし、流してしまった。
逃げ遅れて亡くなった十人の人夫を気の毒に思った村人たちが、石を積んで塚を作り、霊を祀ったのがこの十人塚だそうだ。
 
     
23-2  十人塚   
   半太夫屋敷の近くに、ただ石を積んだ塚があります。昔、よその土地から来た杣達が小野原の奥で仕事をしていました。ある時三日三晩も大雨が降り続いて、月夜沢に蛇ぬけがあって、杣達の山小屋を押しつぶし流してしまいました。
 そこで、村の人達は気の毒に思って、ここに石を積んで、十人の人の霊をなぐさめたということです。
 
     
24-1  末川の水無し八丁  
   末川の上流の小野原という集落のその奥に「水無し八丁」と呼ばれている場所がある。
ここは昔、末川の流れを中にして、その両側に木曽馬の放牧場があった。
昔はどの家でも、木曽馬を三、四頭は飼っていたので、集落の馬だけでも百頭はゆうにおり、春から秋にかけて馬を放牧しておった。
ある日のこと、少年は家人から、むらはずれの放牧場へ馬を迎えに行くように言われて、いつものように背中に赤ん坊を背負って馬を迎えに行ったそうだ。
木曽馬はたいへん人なつっこくて、家の人が迎えに行って「ホーイ」「ホーイ」と呼ぶと、声をききつけてすぐに走ってくるが、その日はどうしたことか、少年がいくら呼んでもそばへ近寄ってこなかった。
それどころか馬たちは、末川の流れを渡り、向こう岸へ行って草を食べはじめた。
少年が大声で馬を呼んでも、声は川の流れにかき消されて馬の耳に届かない。
向こう岸へ行きたくとも橋は無く、しかも深いので渡ることも出来ない。
そうこうしているうちに日は暮れて、あたりはだんだん暗くなってきた。背中の赤ん坊はおなかがすいてむずかりだし、少年は途方にくれて、しくしくと泣き出してしまった。
 
    ちょうどその時、一人の旅のお坊さんが通りかかり、泣いている少年を見ると、そばへやってきて、
「なんで泣いているの」
と、やさしく尋ねた。
少年は泣きながら馬の群れを指さして、わけを話した。
そのわけを聞いたお坊さんは、
「それは気の毒に」
と、大きくうなずくと、
少年に、
「「それじゃ、私がこの川の水を無くしてあげよう」
と、言って、川に向かってお経を唱えながら、持っていた杖で、川の地面をトンと突いた。
 
    すると、不思議なことに、それまで満々と流れていた川の水が、次第に川底へしみこんで、ついに川原になってしまった。少年は大喜びで、旅のお坊さんにお礼を言うと、向こう岸へ行き、無事にたくさんの馬を連れ戻すことができた。
しばらくの間、馬を追って集落へ帰る少年の姿を見守っていた旅のお坊さんは、まもなく夕闇の道を、月夜沢峠の方へ歩いていったそうだ。
この事があってから、この末川の川原部分八丁(約九百メートル)は、水が地底を流れるようになり、川の表面は流れなくなったので、村の人たちは、ここを「水無し八丁」と呼ぶようになった。
また、この時のお坊さんは、当時日本各地を歩いて百姓たちを救った、弘法大師であったと伝えられている。
「水無し八丁」は、今でも小野原の奥にあり、ここを流れる川の水は少ない。
 
     
24-2  水無し八丁  
   末川の上流、小野原に「水無し八丁」と呼ばれている所がある。
 昔、末川を挟んで両側に木曽馬の放牧場があった。
 ある日のこと、小野原の子供が家人に言われ、放牧場へ馬を迎えに行ったところ、「ホーイ、ホーイ」いくら呼んでも馬が寄ってこない。
 そればかりか、馬は子供の声などおかまいなしに、川を渡って向こう岸へ行ってしまった。
 川に橋もなく、流れも急で、子どもは岸に取り残され困ってしまった。
 馬を家に入れなければ、夜どんなことが起きるかもしれない。山犬だっているし、馬盗人だっているかもしれない。
 大事な馬をどうしたらいいのか。子どもはしくしく泣き出した。
 そこへ、旅の坊さんがやってきた。
 坊さんは、子どもからわけを聞くと静かにうなずき、川に向かってお経を唱えた。そして、持っていた杖で川原をたたくと、川の水は川底にしみこみ、川はすっかり干上がってしまった。
 子供は喜び川底を渡ると、馬をみんな連れ戻すことができた。
 それから、この川原の八丁(約九百メートル)を「水無し八丁」と呼ぶようになり、旅の坊さんは弘法大師ではなかったかと噂し合った。
 
     
 24-3 「末川の水無し八丁」の伝説   
    末川の上流、小野原集落の奥に「水無し八丁」と呼ばれる場所があります。そこは昔、末川の流れを中にした木曽馬の放牧場でした。
 昔、小野原にひとりの子供がいました。ある日、子供は家の人に馬を迎えに行くように言われ、いつものように背中に赤ん坊を背負って出かけました。
 木曽馬は人なつこくて、迎えの人が遠くで、「ホーイ、ホーイ」と呼ぶと、すぐに近くまでやって来るのですが、その日はどうしたことか、子供がいくら呼んでも近寄ってきません。馬たちはそろって末川の流れを渡り、向こう岸で草を食べていたのです。川を渡りたくても橋はなく、大声で呼んでみても、川の音にかき消されて声が届きません。そうこうしているうちに陽が暮れて、あたりはだんだん暗くなっていきます。背中の赤ん坊はおなかが空いたのか泣き出し、子供も心細くなって、しくしくと泣き出してしまいました。
 ちょうどその時、そこへひとりの旅の僧が通りかかりました。僧は泣いている子供を見て、「なぜ泣いているの」とやさしく尋ねました。子どもは泣きながら、向こう側にいる馬の群れを指して理由を話しました。それを聞くと僧は、「それは気の毒に」と大きくうなずき「それでは私が何とかしてあげましょう」と言って、川に向かってお経をよみ始めました。それから持っていた杖でトンと地面をひとつきしました。すると不思議なことに、満々と流れていた川の水が次第に川底へしみ込んでいき、ついに川原となってしまいました。子どもは大喜びで向こう岸から馬を連れてくると、僧にお礼を言って集落に帰りました。
 子供と馬の群れが集落へ向かうのをじっと見送っていた旅の僧は、間もなく夕闇の道を月夜沢峠へと歩いて行きました。
 このことがあってから、この地は「水無し八丁」と呼ばれるようになり、九百メートル位の間は今でも水が全然ないそうです。
 また、このたびの僧は、当時日本の各地を歩いて百姓たちを救っていた弘法大師であったと言われています。
 場所は、小野原の奥、本谷川と畑福川の渡合から小野原の上までで、渡合の大きな岩の上に弁財天の祠があり、今も四月十日には区の代表が御神酒をもって、お参りをしているそうです。
 
     
 25  平家柳  
    西野、把の沢には、平家の落人が住みついたという言い伝えがあります。
 ここでは、正月の飾りに松ではなく、柳の枝を使っています。ここにその言い伝えの一端がうかがわれます。
 
     
 26-1  弁財天の大岩と大砂利の大岩1  
   「水無し八丁」の川原に弁財天の岩といわれる大岩があって、その岩の上に弁財天の祠がある。ここから、わずか川下にくだった山手に大砂利の大岩がある。
村の人はこの大砂利の大岩を「去る石」とよんでいる。不思議なことに、この「大岩」は、一年間に米一粒の距離だけずつ、弁財天の「川の岩」に近づいていくそうだ・
『「山の大岩」がこれから何万年もの先に、川上の弁財天の大岩に接触した時は、天変地変が起こるとともに、この世が終わりになる』。といい伝えられている。
「去る石」という呼び名は、去るー移動するーという意味だそうだ。
 
     
26-2  べんざい天の大岩と大砂利の大岩2  
   水無し八丁の川原にべんざい天をまつってある大岩があり、それは川の岩でありました。その下の山手に寄った所に大砂利の大岩があり、これは山の岩でした。
 この二つの岩は不思議なことに、山の岩から川の岩へ、米一粒の距離だけ動いて行くと言われ、山の岩がこれから何万年も先に、川上のべんざい天の大岩に接触した時は、天地異変が起こるとともに、この世が終わりになる時だと、昔から言い伝えられているそうです。
 
     
27 蛇娘の話  
  昔、末川の向筋という集落に一人のたいへん美しい娘がおった。 
ある夜のこと、この娘が夜遊びに出かけたところ、一匹の蛇に見初められてしまい、それからというもの蛇は毎晩若い男に化けて、娘のところへ通うようになり、いつの間にか、娘は身ごもってしまった。
男が通ってくることや、娘が身ごもってしまったことに気づいた両親は、相手の男がどこの誰かわからないので、ある夜、男の草履に糸巻の糸を縛っておいた。
翌朝、両親がその糸をたどって行くと、驚いたことにその糸は近くの池の中に入っていった。
なんと、若い男はその池の主の大蛇であった。
両親はそっと耳をすませて聞いていると、池の中から話し声が聞こえてきた。蛇たちは、
「女が身ごもったら、菖蒲酒を飲ませると流産するぞ」
と、話しておった。
両親は早速帰ってきて、娘に菖蒲酒を飲ませたところ、流産して蛇の子を産まずに助かったそうだ。
 
     
 27-2  蛇娘の話2  
    昔、開田の末川集落に、たいへん美しい娘がいました。
 ある晩のことです。この娘が遊びにふらふらと出かけた時、一匹の蛇にみそめられてしまいました。その晩から、この蛇は男に化けては、毎晩のようにこの娘の家に通うようになり、そのうちに娘は身ごもってしまいました。
 男が通ってくることを知った娘の両親は、男が誰だかわからないので、ある夜、訪れた男に糸をつけておき、翌日あとをたどってみると、糸はある池まで続いていました。池の中をのぞいてみると、蛇たちが酒盛りをしていました。
 男が蛇だということを知った両親は大変驚き、しょうぶ酒を飲ませると流産するということを聞いてきて、早速娘にしょうぶ酒を飲ませました。すると、本当に娘は流産したということです。
 
     
28 狐と熊(狐が熊を化かしたが・・・・・)   
  昔、管沢に狐と熊が住んでいた。
ある日のこと、狐と熊が仲良く畑を作ることにしたそうだ。熊は、大きな手と、長い爪で畑を耕し狐は里まで種子を買いに行くことになった。 ところで今のうちに採れた物をどう分けるか決めておこうということになり、ジャンケンして勝った方が土より上で、負けた方が下を取ることに決めた。熊が勝ち、土より上をもらうことになり大喜びした。狐はじゃが芋の種子を買って来て仲良く植えた。二、三ヶ月もしたら青青したじゃが芋の葉がのび、熊は喜んで芋の葉をもらって帰って行った。しかし、帰って芋の葉を食べたら苦くてまずくて食べれたものではなかった。熊は狐のところに行くと、狐はじゃが芋をふかしておいしそうに食べていた。
次の年は熊が土から下をもらうことになった。狐が買ってきたものはとうもろこしの種子だった。今年も仲良く植えて育てた。三、四ヶ月もするとりっぱなとうもろこしができ、約束どおり、熊が下をもらって帰って行った。ところが、とうもろこしの根っ子は固くてかたくて食べられたもんじゃない。腹が減った熊は馬を獲って食べた。
馬の肉の匂いが狐の鼻をつき熊のところにやってきて獲り方を教わった。熊が言うには、あの土手の向こうに馬が昼寝しておるから馬の尻尾に狐の尻尾を結び付けて、馬の後足をかじれば馬が釣れるということだった。
早速狐は喜び勇んで馬のところに行き、熊に教わった通りにやった。馬は驚いて、ヒ、ヒ、ヒーンとばかりに跳ね起きて、一目散に駆け出したので狐はバラのトゲにひっかかれ体中血だらけになり、岩に頭をぶっつけて死んでしまった。
 
     
29   覚明様  
   御嶽を開山したことで知られる覚明様は、初めは一人の山林労務者でありました。
 覚明様はまず尾ノ島の滝で修業し、それから開田口から三ノ池、二ノ池を通り、御嶽山の頂上へと登りつめました。ところが、その帰りに道に迷ってしまいました。そしてついたところが三岳村の屋敷野というところです。けれども、そちらの道の方が開田の方の道より良かったので、三岳の方を御嶽山の登山道として、開道にしたといわれます。
 この時、覚明様に従った人で、西野の作次郎という人が記念にと覚明様のゲタをもらいましたが、これが歯痛の薬になるというので、少しずつ削っているうちに小さくなってしまったということです。又、助衛門という人が、覚明様の帯のきれはしをもらい、現在末川に保存されているという話もあります。
 それからこんな話もあります。
 覚明行者がすっかり疲れて、ぼろぼろの姿である村にたどりつきました。。泊まる宿を捜し歩いて、やっと一軒の宿を見つけましたが、覚明様のこじきのような姿を見て、ことわってしまいました。
 その後この宿の主人は、御嶽の縁日(十月二十三日)になるとひどく足が病み、それがもとで死んでしまいました。
 現在、覚明様の本家は黒沢だということですが、覚明様は西野にいたらしいということです。
 
     
30 覚明さまと尾ノ島の滝   
  覚明さまは木を切り出す杣として西野に来た。 ところが御嶽山の雄大荘厳な姿にうたれてぜひ登山道を開きたいと願い出た。一旦、尾張に帰って行者の修業を三年間して、再び西野へやってきた。尾ノ島の滝でさらに修業をつみ、そこから御嶽山へ登り、三ノ池から二ノ池を通り、頂上までたどり着いた。ところが帰りに道に迷って屋敷野へ出てしまった。
こちらのほうが登山道を開くのに適していることがわかり黒沢集落の人たちに手伝ってもらい無事登山道を作った。
 
     
31 覚明さまの祠   
  のちに覚明さまは長い旅の末すっかり疲れて、ぼろぼろの姿で、髭沢集落のある家で一夜の宿を頼んだ。
家の人が門口へ出てみると、旅の乞食坊主だったから泊りを断った。
それからというもの十月二十三日の御嶽山の縁日になると、家人の誰かの足が痛くなったそうだ。
それが、子供から孫の代まで続いた。そこで家人がお祈りをしてもらうと、宿を断った行者が覚明様とわかったので、家の庭に覚明行者の祠を建てて信心をして、罪ほろぼしをしたそうだ。すると足の痛い人はもう出なくなったということだ。 
 
     
32-1 覚明さまと赤松 1  
  西野のあたりは御嶽山の裾野のとても寒いところだ。米は作ってもとれぬものと村の人は思っておった。 ある日、覚明さまが来て、庄屋に「赤松の苗を植えてそれが育てば、必ず稲はできる」と教えてくれたそうだ。
早速、庄屋は赤松の苗を植えて見守っていると、赤松は見事に大きくなった。
そこで、庄屋は村人にはかり、村中で荒野を開墾し、水を引き田んぼを作った。
それからというもの西野でも米がとれるようになり、村人は夢にまで見た白米を、自分の家でときどき食べられるようになったそうだ。
 
     
32-2 覚明さまと赤松 2   
   西野はたいへんな高冷地で、米は作ってもとれないものだと言われていた。
  ところがある年、御嶽山の覚明行者が通りかかり「赤松の苗を植え、それが育てば稲も育つ」と教えてくれた。
 そこで、赤松の苗を植えてみると、みごとに育った。
 それから村人は、荒野を開墾し、田を作ると稲を植えた。
 稲はみごとに実り、村人は夢にまで見た白米を食べることができた。
 村人は西野に、「開田の碑」を建立して、覚明様の功績を今にたたえている。
 
     
 33  歯を病んで死んだ普寛様  
    覚明様は三岳黒沢から御嶽を開いた人ですが、王滝から道を開いた人が普寛様といいます。この普寛様を埋葬したのが、西野の駒背という所で、碑が建っています。
 この普寛様は、歯を病んでここで亡くなったそうですがその時持っていた経文を一緒に埋めたらしいということです。歯を病む人々は、ここに御堂をつくり普寛様をまつり、お参りに来るそうです。
 この人は普寛様ではなく、旅の武士であり、やはり歯を病んで亡くなった人である、という説もあります。
 
     
34-1 かじかの念仏 1  
  昔、西野で長雨が降り続き、西野川が増水して、神田の集落が水害を受けそうな危険にさらされた。 心配した村人たちは一軒の家に集まり一晩中万が一に備えておった。
夜明け少し前に、その家に突然、白装束をした子供のように小さい人が訪れて、
「みなさん、川も水が出て大変だが、それよりも向かいの山が崩れて、神田は埋めつぶされてしまう。早く山裾へ行って念仏を唱えて無事を祈りなさい。」
と、告げると、そのまま姿を消してしまった。
集まった村の人達は、不思議な事もあるもんだと話したところ、長老が、
「これは何かのお告げかも知れん。早速念仏をあげよう。」
と、言って、どしゃ降りの雨の中を、教えられた山裾へ登って一心に念仏を唱えて、無事を祈った。すると、山のくぼみから一匹の白いかじかが、稲光のように輝いて、山の上の方へかけ上がり、同時に地響きのような山鳴りがして、それまでのどしゃ降りの雨はやんで、山崩れからのがれることができたそうだ。
神田の人達は、稲光のように輝いて山を登った白かじかが、白装束の小人に身を変えて危険を知らせてくれたに違いないとして、「かじかの碑」を建てて、毎年田植上がりには、白かじかの供養をすることにしたそうだ。
 
     
34-2  かじかの念仏2   
    今から約二百年前のことです。ある日、村では大きな山崩れが起きました。しかし不思議なことには、死んだ者は一人もいませんでした。
 村人の話によると、山崩れがおこる少し前に、大きなかじかが鳴いていたそうです。そのかじかがあまり大きな声で鳴くので、村人はみな、家の外へ出てあたりを見まわしていました。すると、その時です。突然山崩れが起き、村はすべて土に埋まってしまったのです。あまりにも無残な事で村人はみな呆然としてしまいました。
 しばらくして、ふと近くを見ると、なんと、一匹の大きなかじかが死んでいました。かじかは村人の命を助けてくれたのでした。村人は、かじかのために地蔵を建て、毎年、田植え上りの時期になると念仏をとなえるのでした。
 
     
35 薬師さまのいわれ   
  この薬師さまのいわれは、西野のとある家の仏壇に祀られている、厨子に入った小さな薬師さまにまつわるお話。 
昔、旅の六部(法華経を書き写し、六十六か所の札所を巡礼し納めてあるく信者)が、背中にこの厨子を背負って、西野の集落にやってきた。旅の疲れがでたのか、六部は病気になってしまった。
そこで、親切なこの家の主人は、この六部を家に泊めて看病してやったが、よくならずに亡くなってしまった。そこで主人は、この薬師さまを家の仏壇に祀ったところ、この薬師さまはとても霊験あらたかで、ちょっとした病気など、お祈りをするとすぐよくなったそうだ。
それを聞いた村人たちは、病気になるとその家を訪れるようになった。
そこでこの家の主人は、家にあっては利用する人が不便だと考え、村はずれの丘の上に祠を建て、薬師さまを祀った。
それからしばらくすると、不思議なことに毎晩薬師さまがでてきて主人の名を呼び、「家に帰りたい、家に帰りたい」といったそうだ。そこで、主人は再び薬師さまを家の仏壇へもってきた。
そのかわり、石の薬師さまを村はずれの丘に新しく作って、村人のために祀ったそうだ。
今も病気になったときにこの薬師さまを拝むと、たいへん霊験があると伝えられている。
 
     
36 ゆう山の黄金   
  ゆう山というのは、中沢集落の上手にそびえている高い山で、昔、木曽氏ののろし台があったとか、小さな山城があったと伝わっている。 
昔、この城山の城主が軍用金の黄金を非常に備えてどこかに埋めた、といわれている。
その場所は、「戌亥(北西)の方向の、朝日さし夕日さす、白藤の根方に、黄金千杯、朱千杯」という言葉で伝えられている。
村人たちは今でも、それはゆう山の中だとか、反対側の丘の上だなどと、語りあっているそうだ。
 
     
37 大屋のお太子さま   
  大屋集落の中ほどの太子堂に、四体のお太子さまが祀られている。 
昔、鎌倉で戦いがあったとき、はるばる鎌倉から、誰かが持ってきたそうだ。そのときは七太子あったそうだが、いつの頃からか三体は、月夜沢の峠を越した奈川村へ持っていったと言われている。
この太子さまは、並んでいる向かって左より、父・母・兄・妹の順だそうだ。子どもとたいへん仲良しで、いつも大屋の子供たちが抱いたり、おんぶしたりして遊んだため、今では目も鼻も口もはっきりせず、まるでコケシ人形のようになっている。
昔、子どもたちが、太子さまを持ち出して川原で遊んでいるうちに、忘れてきてしまった。
すると夜中に大雨が降って、太子さまは末川に流されてしまった。
ところが不思議なことに、太子さまは翌日には帰ってきて、お堂の中にちゃんと立っていたそうだ。
 
     
38 小三郎池の話   
  飛騨の日和田という集落に小三郎池がある。 
昔、日和田の親方の家に、「ちんま」という女中が使われておった。ちんまは、山仕事をしている杣の小三郎に恋いこがれておったが、気の小さい性分で打ち明けることができずにいた。
ちんまの気も知らず、小三郎は、暇があると近くの川へ行って、魚釣りばかりしていた。ちんまは思いあまって川に身を投げて、鱒となった。そうとも知らぬ小三郎は、ちんまの鱒を釣って食べてしまった。
ところがしばらくすると、のどが渇いて、のどが渇いて仕方ない。近くの川へとんで行って川の水に口をつけてがぶがぶと飲み始めた。飲みまくっているうちに、小三郎のいるところも全部水が溜まって、体が水の中に入ってしまった。
それでも水を飲み続けているうちに、小三郎の姿は突然鱒になってしまった。
すると、そこへ一匹の鱒が近づいてきた。ちんまの鱒だ。こうして二人は鱒になって結ばれたそうだ。
 
     
39 小日和田の雄池の主   
  小日和田のちんまい池という池は、雄池と雌池があり、大きい方の雄池には竜が住んでいました。
  この竜は人間に化けて村に行き、人間と同じようにふるまっていましたので、誰もこの人が竜であることを知りませんでした。それどころか、この竜が化けた人間の炊く飯はとてもおいしく、村中の評判になり、村人に親しまれていました。
 そんなある日、ひとりの村人は、この人間が村はずれをとぼとぼと歩いているのを見かけました。不思議に思った村人がそっとあとをつけてみると、その人はちんまい池の前まで来て立ち止まり、すうっと池の中へ消え、再び出ては来ませんでした。
隠れて見ていた村人は驚いて村へ飛んで帰り、村中にこのことを話しました。その噂がちんまい池の底まで届いたのか、二度と竜は現れませんでした。今でもこの池は残っているそうです。
 
     
40  お伊勢様と馬  
   ある時、村からお伊勢様へ馬を奉納することになりました。もちろん、村で一番立派な馬がそれに選ばれました。ところが、さてお伊勢様へ出かけようという日になって、馬が急に病み出し、とうとう死んでしまいました。仕方がないので、このお伊勢様行きを取りやめることにしました。
 しかしこの時から、村にあいついで病人やけが人などが出るようになったのです。これは一体どうしたことかと、山伏を頼んでお祓いをしてもらい、尋ねたところ「これは馬を差し出さなかったので、お伊勢様がこの村の人々を苦しめているのだ。」というのです。
 困ったことだと、村中の人が集まって相談していると、一人の男が「祠を建てよう」といいだし一同は同意して早速祠を建て、お供え物をしてお祈りしました。すると、病人はだんだん良くなり、けが人もなくなったということです。この祠は今でも残っており、お供え物などをしているそうです。
 
     
41  そばたての兵  
   開田村はそばの産地です。秋、刈取りが終わると、刈り取られた蕎麦は束ねられ、畑に立てられます。下の台として三束たて、その上に雨などをよけるために、帽子のように二束かぶせられます。これを「蕎麦たて」といい、秋の風物詩です。この蕎麦たてにまつわる話が伝わっています。
 天文十八年四月小木曽より開田村末川へ、甲州軍が攻めて来ました。敗走しているのは木曽氏の軍です。村を木曽軍が逃げ去ってしばらくすると、勢いに乗った甲州軍は、畑にたててある蕎麦たてを見ると、どうしたことか急に逃げ去ってしまいました。そばたての格好が兵士の姿に見えたらしく、あまりの数に驚いた甲州軍は、とてもかなわないと、はっきり確かめもせず、ほうほうのていで逃げ去ったのだといわれています。
 
     
42  淵の大魚  
   これは三十年位前に本当にあった話だそうです。冷川に大きな淵があり、ここを工事のためにダイナマイトで崩すことになりました。大きな淵に沢山のダイナマイトを仕掛けて爆破した後、この淵をのぞいた人々は驚きました。
 なんと、三尺もある大魚が浮いていました。
人々はこの大魚を引き上げようとしたのですが、重くてなかなか上がりません。そうこうしているうちに、死んだと思っていた大魚が、急に目を開いて暴れ出し、泣き出してしまいました。
 すると、急に淵の水が真っ黒ににごり、空は厚い雨雲に覆われはじめ、人々はあわてて家に帰り、雨がやむのを待ちました。しばらくして雨があがり、人々が淵へ大魚を見に行った時は、もうそこには大魚はいませんでした。
 大魚は泣き泣き住みついた場所を離れ、どこかへ去っていったということです。
 
     
43  きつねの話  
   昔、開田村、王滝村、長尾村の間を回り歩いていた行商人がいた。酒が好きで、たまたまある晩よっぱらってきたら、元原にまんじゅうが落ちていたので家に待っているばあさまにくれようと思って、こまものの箱の中に入れた。
 家へ帰ってその箱をあけてみると、それは馬ぐそだった。
 
     
 44  西野峠のきつね  
   開田村、西野峠にきつねがいて人を化かすという話があります。これは開田村源流寺の和尚さんの体験談です。
 ある時、和尚さんは用事で出かけた帰りに、西野峠を通りかかりました。その時、急に足もとが暗くなりました。不思議に思った和尚さんは、すぐにこれはきつねの仕業にちがいないと気づきました。そこで、たばこを吸いながらその場にすわりこむと、「俺は禅宗坊主だ。化かせるなら化かしてみろ。」とどなりました。
すると、スッと夜が明けたようにあたりが明るくなり、ホッとした和尚さんは、「なんだ、バカヤロー」とどなって、帰ってきたということです。
 
     
 45 嫁盗み  
   古い時代の開田村には、嫁盗みという風習がありました。
 ある男に嫁に来てほしい女の人ができた時、男は友人たちと相談し、夜中にこっそりと女の人を自分の家に連れ出します。そして次の日、女の人と一緒に、女の人の家へあらためて挨拶に行きます。これが嫁盗みです。
 当時、家柄等の問題によって、結婚がうまくいかなかったことが多かったので、このような習慣ができたそうです。
 

参考文献 
開田の昔話  開田村 平成17年第2版  かいだ印刷 
私たちが調べた木曽の伝説第三集(開田・三岳編)長野県木曽西高等学校地歴部  
私たちが調べた木曽の伝説第一集 木曾西高等学校地歴部民俗班