木曽町三岳のむかし話

 



 1  水恋鳥  
   昔、三岳の馬持ちの息子に佐市というずくなしの子がおったそうな。
馬持ちはついつい、佐市を甘やかして育てたので、いくつになっても、ただぶらぶら遊んどった。
そこで馬持ちは、見るに見かねて、
「十二歳といやあもう一人前だ。少しは仕事も覚えにゃあ。今日から、馬に水をやる仕事をやれ」
と言いつけた。
「なんだそんな簡単なことか、わかったわかった。」
佐市は簡単に引き受けたが、三日目にはもう飽きてしまって、ろくろく水をやらなんだ。馬は恋しがって
「水をくれえ。水をくれえ。」
と鳴き騒ぐ。
馬持ちがこれを見て、
「佐市、水をやったか」
と聞くと
「うーん。たくさんやったで」
と平気でうそを言ってぶらぶらしとった。
馬には人間の気持ちがよくわかる。佐市の言葉を聞くと、業をわかしてません棒をかじったり、足で板をどんどんけって騒ぎだした。
「いんや。あの様子では、水はやっとらん。人はだませても、馬は利口だで、だませんぞ」
馬持ちにこう言われて、佐市はやっと少しばかりの水を汲んで来てやる始末だった。
やがて夏がやって来た。
山の草が大きくなると、馬を山の草場へ連れ出して遊ばせる。
佐市に、この馬を連れていく仕事があてられた。ところが佐市は馬を連れて行っては、一日中昼寝をしとった。
馬はようしたもので自由に食ったり、遊んだりして、夕方になると、大将馬のひと鳴きで、みんな、群れをなして家に帰って来る。佐市はこの仕事がひどく気に入ってしまった。
ある日のこと、佐市はいつものように馬を連れ、草場へ行った。ところが幾日も晴天が続いた後、いつも流れている小川の水がすっかりかれておった。
その日は特別暑く、馬は水を欲しがり佐市に催促した。
佐市は自分だけが涼しい木陰で、知らん顔して寝てばかりいた。たまらなくなった馬は佐市の着物をくわえて水の催促した。
「うるせえ、ちったあ静かにしたらどうだ。おめえたあが騒ぐんで、おっとうにもどなられどうしだったんだぞ」
佐市は傍にあった石ころをつかむと、馬に投げつけた。
馬たちは悲しげに鳴くと、四方へ逃げて行った。
真夏の太陽はぎらぎら輝き、容赦なく照りつける。そのうち、今年生まれたばかりの子馬が、かわきのために倒れ、せわしく息をしはじめた。続いていく頭かの親馬も倒れた。
それでも佐市は知らん顔して寝ていた。そのうち木陰にいても、さすがにのどの渇きをおぼえ、やっと腰を上げると、はるか下の谷川まで下りて行った。
 
    のどの渇いた佐市が、水を飲もうとしてふと谷川を見るとどうだ。水の中に、真っ赤な化け物がおり、大きな口を開け、今にも佐市にとびかかろうと、狙っているではないか。
佐市は驚いて飛びのいた。
佐市は別の水飲み場を捜した。しかしやっと捜した水飲み場にも、真っ赤な化け物がひそんでいて水を飲むことができなかった。
佐市は必死になって、化け物のいない水飲み場を捜し歩いた。しかし佐市のいくどの水飲み場にも、真っ赤な化け物がひそんでいて、口を開け佐市を狙っているのだ。
佐市は悲しさのあまり、天を仰いで
「ヒー、ヒー、」
と,泣いた。
 
   佐市はいつの間にか、胸から腹にかけ、真っ赤な羽に包まれた。鳥にかえられていたのだ。水をくれず馬を殺した怠け者を、神様がお怒りになって、そのような姿の水恋鳥に変えてしまわれたのだ。
水恋鳥になった佐市は、真っ赤に映る恐ろしげな自分の姿を見て水の中の化け物が自分を狙っていると思い、怖くて水が飲めなかった。
谷川や池で水の飲めないこの鳥は、、雨が降る時、天を仰いでくちばしを開け、雨水を飲んで、のどの渇きをいやすより仕方がなかった。
晴天がいく日も続くと、水恋鳥になった佐市は、のどが渇いてたまらぬので、天を仰いでは、
「ヒョロロヒョロロウ、ヒョロヒョロヒョロロウ」
と悲しげに鳴いたという。
    (木曽町三岳永井野) 
 
     
 2 髪の毛が蛇になる  
   昔、お梅という、赤いちぢれ毛の女の子がいたそうな。
かわいそうに生まれた時から赤毛でちぢれていたもんで、いつも近所の子供たちからかまわれたり、馬鹿にされたりしていたそうな。
 
  近所の子供たちにかまわれて泣いてくるお梅を見ると、おっかあもせつなくて、行者に拝んでもらったり、医者に見せたりできるだけのことをしてみたがなおらなんだと。
やがてお梅も年頃になると、一層髪の毛のことが悲しくなったと。だって昔はみんな自分の髪の毛で日本髪を結ったし、それに、真っ黒で、ちぢれていない髪の毛の人は美人といわれていたもの。
お梅は悲しくて悲しくて、人に会うのも嫌がるようになっていったと。
さて、隣のお松は、お梅とは反対に、真っ黒な髪の毛をしており、村の衆も、
「お松っちゃは、いい髪の毛をしとるなあ」
「いいなあ、うらやましいなあ」
と言われていたし、自分でも髪の毛の黒いのを自慢に思っていたと。
ある日お松は、からかい半分に、
「お梅ちゃ、髪の毛が赤くて悲しいずら、わしのように黒くなりたかったら、西野川の淵で髪の毛を洗うといいに、わしの髪の毛の黒いのは、小さい時から、母ちゃんがあの淵で頭を洗ってくれたもんでな」
とでたらめを教えたそうな。
「なるほどそうだったのか」
お梅は大喜びで、人の通らなくなる夜になると、淵へ行っては一生懸命に髪の毛を洗ったと。
髪の毛が黒くなりたい一心で、それこそ雨の日も風の日も毎晩毎晩、淵へ行ってはあらっとったと。
しかし、一月たてど、三月たてど髪の毛は一向に黒くならなんだ。黒くならないどころか、つやが無くなり、ますます、ちぢれがひどくなっただけだったと。
四月目のある晩、ようやくだまされたことに気付いたお梅は、
「お松にだまされて悔しい」
と叫びながら、ごうのわきまぎれに自分の髪の毛を、ぐちゃぐちゃにきりきざみ淵に投げ込んだそうな。
髪の毛は、まるで生き物のように、絡まり合い、ごよごよとうごめきながら淵深く沈んで行ったと。まるで生き物のようにな。
お梅はこの様子を見ると、はっと我に返り、
(自分の髪の毛とはいえ、ひどいことをしてしまったもんだ。ああ、私は悪い女だ。)
と胸のつぶれる思いだったと。 
 
  髪の毛はいったん底に沈んでしまうと、今度は一本一本が皆、小さなヘビになりぞくぞくとはい出し
「お梅よ、どうして私がそんなににくいの。」
「お梅よ、どうして私がそんなににくいの」
と言いながら、ねらねらとお梅の体にからみつき、とうとうお梅を淵にまきこんでしまったと。 
 
    次の晩、お松は何者かに誘われるようにふらふらとこの淵に来てしまった。
すると、
「お松よ、髪の毛が黒いといって自慢するでないぞ」
「お松よ、髪の毛が黒いといって自慢するでないぞ」
と言いながら、淵から小さなヘビがぞくぞくとはい出してきて、ねらねらとお松の体にからみついたと。
「私が悪かった。お梅ちゃ、堪忍してっ」
お松は恐ろしさに震えた。
しかし、小さなヘビは、そんなことにおかまいなく、もがき苦しむお松をも淵へまきこんだしまった。
こんなことがあってから、村の衆は、この淵を蛇が淵と呼ぶようになったそうな。
   (木曽町三岳三尾) 
 
     
 蛇が渕  
  昔、西野川の近くに住んでいた女が、村の若者に恋をした。
 が、若者は髪の毛が赤いその女をどうしても好きになれず、黒髪の女に心を移してしまった。
 女は、自分の赤髪を嘆き、なんとか黒髪になりたいと、薬草を煎じて飲んだり、行者に頼んでみたりもした。
 けれど女の赤髪はなおらなかった。
 思いあぐねた女は、恋敵の黒髪の女に相談をもちかけた。
 黒髪の女は、村でもいちばん美しい黒髪の持ち主といわれていたからだ。
 黒髪の女は、川の渕で髪を洗えば、黒髪になると教えた。
 そこで女は、毎朝毎晩、西野川の渕に出て髪を洗った。
 しかし、髪は黒くなるどころかしだいにちぢれ、櫛ですくこともできなくなった。
 女は自分の赤髪を怨み切って捨てると、赤髪は渕にもまれていたが、やがてことごとく蛇になり、
「おまえは、そんなに私が嫌いなの、そんなに私が憎いの」
と、ざわめきながら、女の体にからみつき、女を渕深くまき込んでしまった。
 こうして女は、渕の主になったが、それからまもなく黒髪の女と若者も、渕の水底に引き込まれてしまった。
 その後、この渕は「蛇が渕」とよばれるようになり、主の呪いを恐れてか、若い男女は決してこの渕には近づかないようになったという。 
 
     
 4  使いをする馬  
   昔、三尾村のある家で、使いをする利口な馬を飼っておったそうな。
その家ではこの馬を「太郎」と名付け、我が子のように可愛がっておった。
ある秋も終わりに近い、雪でもまい出しそうな寒い日であった。山の木の葉は皆落ち、落葉の吹き溜まりが至る所にできておった。
家では取り入れた麻をあんで機をおる準備に大忙し。こんな時、福島まで使いをするのはいつも太郎と決まっていた。家の主人は、
「太郎や、寒い日ですまんがのう、福島まで塩を買いに行って来ておくれ」
と、手紙と塩の代金を馬の鞍に結び付けて頼んだ。
「気をつけてな、日暮れは早いから、道草せんように帰って来いよ」
家の人は太郎の首をたたきながら、まるで人間にでも話すようにして太郎を送り出した。
木曽福島までは四里(十六キロメートル)以上もある。太郎は鈴をならし、元気よく出かけて行った。
秋の日は暮れるのが早い。太郎が帰る頃には、夕日は西の山に沈み、井原峠を登る頃には、夕闇がだんだん迫って来た。井原峠を越せば家は近い。太郎は鈴をしゃりんしゃりん鳴らしながら、峠道を急いだ。
そして峠を登りきった時だ。
 
    「うおー、うおー、」
というものすごい鳴き声と共に腹をすかしたおおかみの群れが太郎を取り巻いた。
「ひひひーん」
太郎は悲しげに助けを呼んだが、おおかみは一斉に太郎にとびかかった。逃げ出す暇もない。一瞬のことだ。
群れの頭と思われる大きなおおかみは、いなづまのような速さで飛びあがると、太郎の喉元にがっぷりかみついた。太郎はそのまま、どっさりと地面に倒れ、足をばたつかせて息が絶えてしまった。
腹の減ったおおかみは、散々に太郎を喰いあらし山の中へ引き上げて行った。
 
    一方、家の人たちは、日暮れになっても太郎が帰ってこない。夕飯でも食べていたら帰るかもしれないと待っていたが、まだ帰ってこない。
心配になった主人は、下男に提灯を持たせ、太郎を捜しに出かけた。
「太郎よう、太郎よう、」
と呼びながら、暗い山道を井原峠まで来た時、投げ出された太郎のくらと塩の俵を見つけた。
更によく見れば、跡形もないほどに喰い荒らさればらばらになった太郎の亡骸も見つけることができた。主人は驚きと悲しみのため、茫然と立ちすくんでしまった。
「ああ、わしが悪かった。遅くなるのはわかっていたのに、忙しさにかまけ、つい使いに出したわしが悪かった・・・・・」
主人は悲しさに震えながら、残された死骸を丁寧に拾い集めた。
このことを知った、家の人たちの驚きと悲しみは大きかった。家の人は、部落の人、親類の人たちに来てもらって盛大なお弔いをした。
更に、それだけでは気のすまない家の人びとは、立派な馬頭観世音を作って、太郎が殺されたあの井原峠に祀ったという。  (木曽町三岳小奥) 
 
     
 5-1  井原峠の馬頭観世音  
   昔、小奥の家で飼っていた馬は、たいへんりこうな馬で、主人と行った所は必ず覚えていた。
 そのうえ、馬の身でありながら、人の言葉も分るかのように、主人の使いまでした。
 ある日、馬は主人の使いで四里(約十六キロメートル)離れた木曽福島まで塩を買いに行った。木曽福島は、主人と何度も来た所だったので、馬は迷うことなく塩買いをすませ、井原峠までやってきた。
 この峠を越せば家は近い。
 馬はうれしくいなないて、峠を上りきろうとしたその時、待ち伏せしていた狼の群れに襲われ死んでしまった。
 井原峠の馬頭観世音は、そのときの馬をいたみ祀られたものだといわれている。
 
     
5-2    井原峠の馬頭観世音2  
    昔、小奥集落の君山家で飼っていた馬に良馬がいました。その馬は馬の身でありながら、木曽福島まで使いに行く利口な馬でした。
 ある日、木曽福島まで塩を買いに行った帰り、井原峠まで来た時に、その馬は多くのオオカミに襲われて、ついにこの峠で死んでしまったということです。それで、この峠に祀ったのがこの馬の馬頭観音であるそうです。
 
     
 6  小島のはかんでら  
   木曽氏は、十九代義昌の子の時代に、徳川家によって改易された。
 その時、義昌夫人は遺児をともない、三岳は黒沢の上村に隠棲した。
 また、それ以前に小島に隠れ住んでいたとの説もある。
 三尾の「小島のはかんでら(墓の平)」には、武田信玄の姫で政略結婚により義昌の妻となった夫人(万里姫)ゆかりの守り地蔵と五輪塔があり、また上村家にも万里姫の墓とされる五輪の塔がある。
 はかんでらの傍らには、木曽氏の家臣児島権兵衛一族が植えたとされる樹齢五百年にも及ぶエドヒガンザクラの巨木が、墓を覆い往時をしのばせている。
 
     
 7-1 かんなくず人形  
   昔、里宮の前の西野川へ、本社橋を架けることになった。
 ところが、長雨もあってなかなか工事がはかどらない。
 みんなが困っていたある日、村の一人がなにげなくかんなくずを川の中に投げ捨てた。
 すると、かんなくずはたちまち人形になって、仕事を手伝ってくれた。
 人の形をしたかんなくずは、それから村人ができなかった仕事をどんどんやり、とうとう橋を架けてしまったということだ。
 
     
7-2   本社橋  
    里宮という所に西野川が流れています。
ある時、この川に橋を架けることになって、仕事を始めましたが、少しもはかどらなくて村人たちは困っていました。
 ある日、村人が橋に使うための木のかんなくずを川の中に捨てました。すると不思議なことに、そのかんなくずは人の形になり、仕事を手伝ってくれたのです。人の姿をしたかんなくずは、村人だけではできなかった事を次々にやり、とうとう橋が完成したということです。
 
     
 8  三尾村  
   三岳村・日向地区を別名・三尾といいます。この三尾地区は梅の栽培が有名で、県下でも指折りの生産量を誇ります。この梅の栽培を最初に推し進めたのが、今の村上家の先代、三尾熊之助であったといいます。三尾地区は土地がなだらかな傾斜で、日向と地名がつくだけあって日当たりが良く、年平均気温が十一度と、郡下でも暖かな所です。しかし王滝川に接しているにもかかわらず水利が悪く、その上砂地で水田耕作には向きません。梅はまさに適地適作といえましょう。
 村上家は旧姓を「三尾」といい、木曽義仲の七代家村の四子家光を祖とします。日向地区の住民すべてが門家と呼ばれ、三尾家に仕えていたように、三尾家はこの地の有力者であり、三尾という地名はこのことに由来するようです。
 村上家の建物は木曽には珍しい武家屋敷で、四百年の歴史を持ちます。中でも御門は、日本に三つしか現存しないという貴重なものです。また座敷の下には秘密の部屋が一室あります。これは昔バクチをしたところだと伝えられていますが、実際は災害に備えた倉庫の役目を果たしたようです。しかし、昔バクチが流行ったのも事実で、若者の堕落した状態を見た三尾家が中心となって、若者に獅子舞を習わせたこともあったようです。現在は後継者がいないため絶えていますが、獅子頭は、上松町に伝えられているものより古いといいます。
 また、三尾家の庭には祖先が関ヶ原の戦いで、苗を懐に入れて持ち帰ったと伝えられる松が植えられています。持ち帰った松は三本で、残りの二本のうち一本は黒田の千丈館にあり、一本は不明です。
 
     
 9  阿弥陀の七不思議  
   三尾に、この辺では珍しい阿弥陀様があります。この阿弥陀様は、千八百年前か千二百年前頃誰かが京都から盗んできたものではないかと言われていて、七不思議が伝えられています。
 七不思議とは、ワラビ、アズキナ、ネエナなど山菜七色のことだそうで、阿弥陀様のあるお堂から駒ケ岳の見える方面で取れるものは、ほとんどあくがなくておいしいといわれます。
 
     
10   オトワカ様の伝説  
    昔、三尾家にオトワカ様という人が追われて逃げてきました。オトワカ様は、「わたしをかくまってくれるならば、わたしはここを京の都にしてあげよう」と言ったのですが、オトワカ様はたいへん頭がよく、一つの目に瞳が二つあったため、人々は、「生かしておいては世のためにならぬ」とオトワカ様が馬屋の飼葉おけの下へ逃げ込んだところをヤリで刺し殺してしまいました。殺されたオトワカ様は、古い梅の木のもとに葬られたそうです。オトワカ様は当時わずか七歳であったということです。
 現在、オトワカ様の霊は三尾家で祖先といっしょに祀られています。
 
     
 11  衣掛の三角石  
   三岳村藪原地籍の王滝川の中ほどに、どちらの方向から見ても三角形に見える「衣掛の三角石」と呼ばれている大きな石があります。
 いつの頃からか、この石のところに一人の若い女が住んで、王滝川で洗濯をしては、この三角石に衣をかけて干したので、「衣掛の三角石」と呼ばれるようになったそうです。
 古くから、この衣掛にはカアカンパー(カッパの意と思われる。)がいるから、水遊びに行ってはいけないと伝えられています。それは、この若い女が水の中に引き込んでしまうから、との意味らしい。
 洪水時に衣掛の三角石がかくれるほど水がでると、下流の田に水が入り、その年は稲ができないと伝えられています。
 三角石について民話があります。
 この衣掛から寝覚の床に水が通じており、人魚が住んでいたといわれます。このため、毎年この場所には魚の産卵期になると、必ず大きなカタマリ(魚が産卵する意)が今でもできます。この魚がタイやヒラメの変った姿だと伝えられています。
 また、この近くに、「盗人岩」と呼ばれる大きな岩があります。昔、イカダで材木を下流に流していた時、この岩にかかり、取れなくなってしまったことから、「盗人岩」と呼ばれるようになったそうです。
 
     
 12  まり姫の塔  
    一五五八年、都は戦いのまっただ中でした。
この戦いにまきこまれた木曽義昌は、妻と三人の子供、そして上村作之門をつれ、三岳村へ避難してきました。義昌の妻は「まり姫」と呼ばれていました。まり姫は武田家から嫁いでおり、この武田家と木曽家との戦いの中で、本家と嫁ぎ先の板ばさみになり苦しみました。そして、悩み苦しみながら、八十余りでこの世を去りました。
 今でも、野口集落には「まり姫の塔」として、まり姫を供養してあります。
 まり姫の子供の一人は幼くして亡くなり、若宮神社に供養してあるということです。
 また義昌とまり姫の衣服が、村の宝として残っているそうです。
 
     
 13  摩利支天様  
    昔、荻島という集落に平太郎というお百姓さんがいました。
 ある日、平太郎さんは万病を治すといわれている「黄連」という薬草を取りに、百閒滝の近くへ出掛けました。百閒滝は日帰りが難しい山の中にあるので、そこで一夜を過ごすために岩穴を見つけ、もみの木を利用した簡単な壁をつくりました。
 夜になり、だんだんと冷え込んで来たので、平太郎さんは火をおこして暖まっていました。するとそこへ、一丈五尺もある大男が壁を破って入ってきました。驚いた平太郎さんは逃げ出そうとしましたが、岩穴は狭く、大男は入口近くにいるので、逃げることができません。そのうち平太郎さんは、摩利支天様のお守りを持っていることに気付き、それを出すと、不思議なことに大男は「もう帰る」と言って、すぐ帰ってしまいました。
平太郎さんが見た大男の後姿には、二間もある大きな尻尾があったそうです。
 
     
 14 白蛇  
   昔、合戸集落には、祖先を祭ったといわれる産土神のお社がありました。 
 ある時、このお社があまりに山深い所にあるので、村里近くに移すことになり、このお社を壊しました。すると、壊した跡から一匹の白蛇が出てきました。
 白蛇は昔から、神社の使いとされておりましたので、それからは何か村で災難や飢饉があると、この白蛇のたたりだと言い伝えられるようになりました。
 
     
 15  とても罰当たりな人  
   ずっと昔のことです。
 村に覚明行者が現れ、ある家に一夜の宿を頼みましたが、行者があまりにも汚らしく、髪も髭も伸びほうだいなのを見て、その家の人は行者を追い払おうとしました。しかし、なかなか行者が出て行かないので、家の人は蹴りつけて追い出してしまいました。
 後にその人は足が悪くなったということです。
 
     
16   蛇のたたり  
    昔、ある行者が、一の沢という所のある家に一夜の宿を頼みましたが、あまりのみすぼらしい様子に、すぐ断られてしまいました。
 行者が仕方なく外へ出ると、家の前に一匹の蛇がいました。宿を断られて腹が立っていた行者は持っていた杖でその蛇を突き殺してしまいました。
 行者はそのまま立ち去りましたが、その家には蛇のたたりの為か、天井を蛇が這い回ったそうです。
 
     
 17  弥蔵石  
    明治維新に際し、藩の山から住民の山へ移る時井原集落の組長(弥蔵)は早朝に出かけ、野中集落を通りこして永井野境に来て、そこにあった石に腰かけ、永井野集落組長と会い、その石の上の谷から永井野と井原に分けてしまいました。それで、野中には分け前の山が一つもなくなってしまったということです。それからは、この石を「弥蔵石」と呼ぶようになったということです。
 後に井原集落から買い受けて、今の山があるのだそうです。
 
     
 18  水神の信仰の寺  
    黒沢集落に寺沢という地籍があり、かつてここに寺院がおかれていたのではなかろうかという伝承があります。現在の大泉寺の山号は神譲であり、かつては真言系の寺院ではなかったかという推測がなされています。この寺は昔、大泉庵と呼ばれたといいます。
 昔、若僧が若宮地籍の池の近くで修業をしていました。その僧が経文を読むのを、土地の娘らしい者が聞いていたが、竜神の化身であったといいます。その竜神は現在の大泉寺のある地籍壁へ消えたといいます。
 聖地にちなむ伝承でありますが、仏教と水神との対立を物語るものです。
 
     
 19  阿古太丸の墓  
    昔、都に北白川宿衛少将重頼郷という人がいました。重頼には子供がいませんでした。
 ある日、重頼は御嶽山に祈願すると、子供にめぐまれると聞き、その日から毎朝毎晩一心にお祈りしました。祈願が効いたのか、四十歳になって二人の子供にめぐまれました。初めの子は女子で利生御前と名づけられ、二人目の子は男子で阿古太丸と名づけられました。重頼は二人の子を大変可愛がり、大切に育てました。
 ある日、阿古太丸の母親は突然病の床に伏してしまいました。母思いの阿古太丸は、父重頼から自分が、御嶽に祈願して生まれた子だということを聞き、御嶽に再び祈願しようと思いました。
 阿古太丸は、お供の者達と、木曽の御嶽へ向かいました。御嶽につくと阿古太丸は、自分が生まれたことのお礼と、母の病気を治してほしいと、頼み下山しました。しかしその途中、旅の疲れと風邪のために、阿古太丸は寝込んでしまいました。
 一方、都で阿古太丸の旅を心配していた重頼は、阿古太丸がいっこうに帰ってこないので、自ら木曽に向かいました。やっとのことで重頼が木曽に到着した時、阿古太丸は息を引き取りました。
 悲しんだ重頼は、村人らの善意で塚を建て、阿古太丸を供養しました。
 現在、木曽町福島に板敷野という集落がありますが、そこは阿古太丸が病の床に伏した時、板を敷いて休んだ事からきているのだそうです。
 
     
20   御嶽山縁起  
   「 御嶽山縁起」とは、御嶽山先達や神社などに書き残されている伝記です。その内容は千年ほど昔の京都三条に、白川将軍重頼という公家がいましたが子供がおりませんでした。ある日夢の中に白い髭の老人が現れ、「信濃国の木曽御嶽山に祀られている御嶽座王大権現にお願いをしてみなさい」というお告げがありました。さっそく御嶽権現のお社を庭に建て祈願をしたところ、美しい女の子を授かり、3年後には男の子も生まれ阿古多丸と名付けました。
 子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、阿古多丸が持ってきたお土産に毒を入れて犬に食べさせたため、父親は驚き阿古多丸を家から追い出してしまいました。阿古多丸は一人で奥州の親戚の家に行くことにしましたが、途中で御嶽山を拝んでいきたくなり板敷野まで来ました。しかし心労と旅の疲れで倒れてしまい地元老夫婦の介護もむなしく御嶽山を見ながら亡くなってしまいました。
 その晩父と姉は阿古多丸の夢を見たので探しに旅に出て探し当て、板敷野の墓前で姉は自害してしまいました。父親は泣く泣く姫を弔い、その後御嶽山に登り二人の霊を御嶽大権現の元にお返しした後に自害しました。このことを聞いた後妻と乳母も木曽を訪れ墓前で自害してしまったのです。
 この悲しい出来事を聞いた都の天子様は、「亡くなった5人の霊を御嶽大権現のおそばにお祀りしてあげなさい」と言われたため、信濃の国司は家来を引き連れ御嶽山に登り盛大なお祭りをして霊を慰めたそうです。
 地区では今も塚の前の小さな水田にもち米苗を植え、秋には餅をついてお墓に供える行事が続けられています。(生駒勘七著木曽のでんせつより)
 
     
   三岳の習慣  
 21  正月二日の仕事始め  
    昔は、「仕事始め」といって、農事や山の仕事始めをしました。まず山へ行って、「若木」と称して神事に使用する木を伐ってきます。
 十四日正月に飾る、カザリ花や、キダルを作るためで、ヌルデ、カツラ、マイメの木が適しています。人によっては、山の神へヒネリ木を進ぜてから仕事にかかります。この仕事だけをするのみです。
 キダルを作らないと、山へ行ってはいけないとされていました。正月松の内を過ぎれば薪切りが始まるので、ぜひ行わなければならない仕事でした。キダルとカザリ花は十四日の日、賽の神、神棚、地蔵様などに飾るものです。もしも、二日にキダルを伐れなかったものは、十一日までには必ず用意しなければならないとされていました。
(今はこの行事は行われていません)
 
     
 22  占い・まじない  
    村内や近郷の小伏行者が、年占、お告げ、祈祷、まじないを行いました。
 嘉永六年(1853)二月の「黒沢村小伏家門書上帳」によると、村内に山伏の家は四軒あったことがわかり、いずれも天台宗本小伏何某」とあります。
 これら山伏が、毎年春の初めに各家をまわり、一年中の家内安全、五穀豊穣を祈祷しました。
災害除きの呪文としては、傷の血止めに、向山を通るのは霧か露か血の雨か両親分けしこの血を止めてたのむアビラオンケンソワカ」と五回となえました。
やけどの傷は、「南無ナウトウチンジクのサルサガ池の水をやけどにかけてさますなり、アラビオンケンソワカ」と三回となえます。
 
     
 23  正月の松かざり  
    正月の松飾りで変っているのは、柳の家と松の家に分かれていることです。村全体の傾向としては、山手の集落(小奥・沢頭・倉本・瀬戸原]は、柳の家が多く、中央部は松の家が多いようです。
 古老の話によると、「松飾りは源氏、柳は平家の系統だ。」と言います。しかし、本当であるかどうかは今もって不明です。ある家では、昔は柳だったが今は松に変えた、と言っている事から、柳の方が古い習慣だということがうかがえます。
 柳飾りと松飾りの違いは、柳の方は比較的簡素で、鏡もち・松焼き・シメ、松飾りは反対で割りと派手です。
 しかし、他の地方でよく見る、門松と称して玄関へ松竹をたてるようなことは三岳村では行わず、もっぱら家の中で、ごく簡素に神々を迎えたということです。
 
     
 24 八十八夜   
    五月二日には、農休みで花見をする習慣がありました。この行事は、となり集落の人々と一緒に宿に集まって、花見をし、酒を飲んで楽しんだということです。その頃の百姓の楽しみは、この農休みだったそうです。  
     
25   十五夜  
    仲秋の十五夜には、枝豆を畑から取って来て、五升桝に入れて屋根に上げます。そして、月が屋根の上に上がった頃、この豆を屋根からおろして食べたそうです。
 又、米の粉でダンゴを作って供えたそうです。井原集落では野天に祭壇を作って、お月様のお祝いをして、直会のお酒をいただいたということです。
 
     


 参考文献 
  信州の民話伝説集成 はまみつを 一草舎
私たちが調べた木曽の伝説第三集(開田・三岳編)長野県木曽西高等学校地歴部 
広報木曽町 ふるさとを訪ねて