木曽町新開黒川の昔話

 


 1 くわかけの松   
    道管山に道管じいというお爺さんがいました。
このおじいさんがくわかけ松という松にくわをかけておくとお爺さんが何をしなくても、この松がひとりでに畑を耕してくれました。そのおかげでこのおじいさんは畑を耕すのが速く上手だと評判になりました。
 
     
 2 蛇抜けの池   
    まだ焼棚山に山姥が住んでいたころです。焼棚山の尾根に池があり、そこにたいそう大きな蛇が住んでいました。しかしいつの日か誰も知らないうちに蛇がこの池からいなくなっていました。
それ以来この池のことを「蛇抜けの池」と呼ぶようになりました。
 
     
 3 ちさご塚   
    黒川の野中川集落にある、八幡様のそばに「ちさご塚」と呼ばれる塚があります。この「ちさご塚」にはこんな話が伝わっています。
 昔、この黒川は古幡伯耆守という庄屋に治められていました。ある日、この伯耆守が馬に乗って板野の八幡様の前を通りかかりました。そこにはちさご様という位の高い神様がいたのですが、伯耆守は別に気にもかけず馬に乗ったまま通り過ぎようとしました。それを見ていたちさご様は非常に怒り、
 「わしがいることにも気づかず、しかも八幡様の前にきても馬から降りぬとはけしからんやつだ。」
 と怒って伯耆守を馬から落としました。
 突然訳もわからず馬から落とされ、頭にきた伯耆守はそばにあった五輪の塔をつかむとおもいきり遠くへ投げてしまいました。すっきりしてそのまま家に帰りました。
 ところがどうしたことか、古幡伯耆守の家では不幸ばかりが続きました。人が死んだり、怪我をしたりしてほとほと困り、ついに神様にお伺いしてみました。すると、
 「おまえは板野の八幡宮にあった五輪の塔を投げたであろう。それが原因で不幸ばかり続くのだ。」
といわれました。
 そこでさっそくもとあった所に五輪の塔を建て、前にとって投げた五輪の石塔は塔は小さな塚を造りそこに埋め供養しました。その塚が「ちさご塚」です。
 今ある五輪の石塔はその時建てられたものです。
 
     
 4  白山神社  
    黒川の谷の橋詰というところに白山神社という立派な神社があります。このお宮は越前の国にある白山神社の分かれですが、黒川には昔から御嶽教が盛んだったので、他の宗教である白山神社だけを祀る訳にいかないので、御嶽教と一緒に祀ることになり、現在も両方一緒になっています。
 この神社のお祭りは五月五日、七月十五日、十月十三日の三回あります。十月十三日には特に雨が降ろうと風が吹こうと花火をあげることになっています。昔は、各地区で競って花火を作ってあげたそうです。
 
     
 5 八人塚   
     
    昔、黒川の氏神の家ではお酒を造っていました。神主は、この酒をとても自慢にしていたのでした。
 ある年、白山神社のお祭りに、八人の氏子総代が氏神の家に集まりました。神主は、この人たちをもてなそうと自慢の酒をその場に出したのですが、その中の一人が、
「なんだ、この酒は!まずくてまずくて、飲めたもんじゃない。」
と、言ったので、神主は怒ってそこにいた八人を全員切り殺してしまいました。
 神主は、後悔しました。が、もうどうしようもありません。それでせめてもの償いに、と、白山神社の前に塚をつくり、八人を弔って魂を慰めようとしました。
 それから塚は、村の人々から「八人塚」と呼ばれていましたが、いつの間にかそこには桃の木がはえていました。桃の木は少しの間に、どんどん成長して大きな樹になりました。それを不思議に思った村人が、桃の木を調べようとして登っていくと、急に体中が熱くなり、全身からできものが吹き出しました。村の人々は、これを殺された八人のたたりだと言って、その後絶対八人塚へは近づかないようになりました。
 今では、八人塚も桃の木もなくなってしまったので、そのことが本当に殺された人たちのたたりだったのかは、もうわからないそうです。
 
     
 6  古幡伯耆守  
    昔、黒川に「古幡伯耆守」という庄屋がいてその人の屋敷は道のそばに建っていました。
 そのころ用事があって、町へ出かけていく人が多く、庄屋の屋敷の前を通りました。庄屋は荷物を持たない村人を見るといつも、「こら、荷物も持たずに町へ行くとは、どういうつもりだ。」としかるのでした。そして、そういう人には必ず何かを背負わせました。何もしょわせるものがない時は、藁までも持たせました。こんなことがあってから、この道を通る人は、みんな何か荷物を持つようになりました。
 この頃、黒川の人口は約百六十人程で、その一人一人に土地を分け与えて、余った土地を「共有地」にしました。そして何か困ったことが起きると、その土地の木を切って売りました。このようにして、人々は互いに助け合っていこうということになりました。
 
     
 7  みつくり爺  
    黒川にみつくりという山があります。昔この山に不思議なお爺さんが住んでいました。村の人が畑を耕せないで困っているとやってきてあっという間に畑を耕して帰っていきました。その速いことといったら、村人のだれも真似することができません。耕した畑もとても立派でした。人々はこのお爺さんのことを「みつくり爺」といって親しんだそうです。  
     
 8  焼棚山  
    昔、黒川の山奥に人々から恐れられていたやまんばが住んでいました。山姥は福島の町に市があると山を降りてきて町へ出かけて行ったそうです。そして帰りには里のある家に立ちより、焼き餅をもらっていきました。それだけならいいのですがそのたびに里の子供を一人づつ連れて行ってしまうのです。
 山姥にいつも子供を連れて行かれてしまうので困った里の人はある日、山姥がいつものように町へ行った帰りにもらっていく焼き餅の中に石灰を入れておきました。山姥は石灰の入っていることも知らずに、家に帰って餅を食べました。すると石灰がおなかの中で燃え始めました。「熱い。熱い。」といって山姥は死んでしまいました。やがて山姥を焼き殺した火は山全体に広がりすっかり燃えつくしてしまいました。
 この様子を里で見ていた人々は、「山姥の山が焼けたなあ、焼けたなあ。」と口々に言い、これでもう子供をさらわれないですむと喜び合いました。
 この時以来この山を「焼棚山」と呼ぶようになりました。
 
     
 9  焼棚山の山姥  
   黒川の山に山姥が住んでいた。山姥は時々里に出てくると、麻を紡いだり、畑仕事をしたりと、村の仕事を手伝ってくれた。
 ところが、山姥が里へ下りてくるたび、子どもが一人か二人いなくなる。
 村の人は、山姥のしわざに違いないと、山姥を殺してしまう相談をした。
 そこで、ある日、山姥が来た時、「虱をとってくれ」と言われたので、頭の毛を分けてみると、蝮が五,六匹巣をかけていた。村人は焼け火箸で蝮をとってやり、かわりに「ほうろく玉(火薬の玉)」を毛の中に包み込み、酒を持たせ帰してやった。
 その夜、山に帰った山姥は、酒によって囲炉裏の中へ転がり込んだ。すると、頭のほうろく玉に火がついて、山姥は焼け死に、火は山へと燃え移った。
 それから村人は、禿山となったそこを、「焼棚山」と呼ぶようになった。
 
     
10  ダイシサマ   
   木曽福島から開田へ通じる、馬の谷といわれた谷あいに黒川の里がある。
 この黒川には昔から「ダイシサマ」からの贈り物を信じる風習がある。十二月二十三日の夕方、子供たちは「こんぶくろ」という袋を吊るす。
 「こんぶくろ」とは、きれいな端切れを縫い合わせたもので、底が平らになっていて、米や大豆、小豆、粉などを入れ義理をしたりする贈答用の入れ物である。この袋を吊るすところは、同じ黒川でも橋詰では入り口に、芝原では土間にある藁のたたき石の上に、中谷では馬屋のませ棒にとそれぞれ違う。
 が、親たちは日ごろ子供たちが欲しがっていた物をこっそりこの「こんぶくろ」の中に入れておく。それが干し柿だったり、消しゴムだったり、タコ糸だったりするのだが、子供たちはその日、一日、ダイシサマからの贈り物を見せ合い、てんでに自慢するのである。
 
     


参考文献 
 木曽の伝説第五集 長野県木曽西高等学校地歴部 平成十九年再販 かいだ印刷
信州の民話伝説集成 はまみつを 一草舎