木祖村の昔話


   
1おろく櫛についての伝説   
 享保年間薮原におろくという美人がいた。
この人は持病の頭痛に悩まされていた。
何とかしてこの病を治したいと、いろいろな療法を試みたがその効果がなかった。
思い余ったおろくは木曽御嶽山に願掛けをした。
その満願の夜、枕もとに御岳の神が現れ「ミネバリの木で櫛を作って髪をすいてみよ」とのお告げがあった。
おろくは早速鳥居峠にあるミネバリの木で櫛を作り髪をすいたところ、不思議にも毎日悩まされていた頭痛が消え去った。
そこでおろくは櫛を作り、同じ病に悩む人にあたえたのがおろく櫛のはじめだという。
 
   
2 お六ぐし1  
 昔、妻籠宿の旅籠に、お六という美しい娘が住んどった。あまりにも美しいので方々から
「おらちの嫁に欲しい。」
「いや、ぜひおらちへほしい。」
と、頼まれることが多くなった。
ところがどうしたことか、嫁にという話があるたび、お六は浮かぬ顔付きでただ首を横に振るばかりだった。嫁に行こうとしないばかりか、日がたつにつれ段々とふさぎ込むことが多くなって、しまいには人と顔を合わせるのさえ嫌い、一日中床につくようになってしまった。
おっとうと、おっかあの心配は大変なもので、方々手をつくしてはよい医者を捜してみてもらった。しかしどの医者も、
「これは頭の病じゃ、気長に薬を飲んで養生することじゃ。」
と言うだけだった。両親もお六も、薬を飲み熱心に養生はしてみたが病はますます重くなるばかり、この頃では頭も上がらぬようになってしまった。
「この上は、神様にお願いするよりほかあるまい。」
ふた親は、日頃から信仰していた御嶽さまにお願いすることにした。
こう決めた日から、おっかあは茶断ちをして、毎日燈明を上げて、ひたすらお祈りを続けておった。
御嶽の行者たちが招かれて御座(神様のお告げを聞く行事)も立てられた。お六の家には、大きな祭壇がきずかれ、ごまがたかれ行者たちが神様のお告げを聞くためごう、ごうと祈った。
もうもうと煙が立ち込め、祈りの声がひときわ高くなった時、御嶽さまのお告げがあった。
「お六よ、よう聞け、お前の頭の病は、ミネバリの木をもって、櫛を作り、朝な夕なに、その黒髪をくしけずったなら、日ならずして必ずよくなるであろう。」
家中は大喜びであった。
早速、櫛は、妻籠一番の腕前と言われる庄助爺さんに頼まれることになった。
庄助爺さんも熱心な御嶽信者であったので、頼みを聞くと
「それは、それはもったいないことですじゃ。一生懸命に作らせてもらいますじゃ。」
と、喜んで引き受けてくれた。
じいさんは上等なミネバリの木をさがし、体を清め、魂を込めて、こり、こりとすきぐしを作った。
 
 日ならずして、すきぐしは出来上がり、お六がこれを使うと、不思議にも、病気は薄紙をはがすようによくなり、以前にも増して、美しく明るい娘になっていった。  
 さて、こうなるとまた
「是非嫁に欲しい」
と頼まれることが多くなった。しかし、
「どうせ嫁に行くなら、これも何かの縁、庄助爺さんの一人息子の所へ。」
と、お六も、家の人も賛成して、めでたく、嫁入り先まで決まった。
嫁に行ったお六は、自分の病をなおしてくれた御嶽さまを朝な夕なに拝み、
(もし私と同じ病で苦しむような人があれば、此の櫛でなおしてあげたい。丈夫な人であれば、より美しく黒髪がすけますように。)
と願いを込め、自分の病をなおしてくれたと同じ櫛をミネバリの木で作るようになった。
このことが、評判になると、宿場の女衆は、競ってこの櫛を買った。いや宿場の女衆だけではなく、中山道を通る旅人も、このことを伝え聞いて、競ってこの櫛を買うようになった。
実際、お六の作った櫛は、今までの物より丁寧に磨かれ、すき心地も良かった。
こうなると、宿場中がまねしてミネバリの櫛を作るようになり、材料のミネバリを遠く藪原まで買いに行くようになった。
悔しがったのは、藪原の衆だ。目の前に佳い材料がありながら、みんな妻籠でもうけられてしまう。
「わしらも、なんとか、お六ぐしにあやかりたい。」
と、幾度も真似して作ってみたが、どのように真似てみても妻籠のようにうまく作れなかった。
そこで、藤屋なにがしという人が、虚無僧にばけ、妻籠に入り込み、その作り方をぬすんで藪原に伝えたという。
 
  その後は、藪原でどんどん作られるようになり、ついに藪原の方がお六ぐしの本場のようになってしまったと。
今でも木曽に行けば、お六ぐしの古い看板はあちこちに見られ、方々で櫛は、売られている。(木祖村藪原)
 
   
 昔は妻籠の特産品
3お六ぐし2
 
 木曽の藪原はお六ぐしの産地として知られている。今から二百数十年前、享保年間の藪原は旅籠、漆器業などを営んでいた村だった。お六ぐしはその頃妻籠宿で作っていた。
 妻籠宿は元禄年間すでに製造していたというが、この櫛が売れ、その材料のミネバリの木が不足したため藪原から提供を受けていた。藪原の人達は材料を提供するだけでは面白くない。自分たちも製造しようと試みたが失敗。そこでスパイを放って製法を盗み製造を始めるとともに、妻籠への材料供給を断った。妻籠は材料難からすたれる一方、藪原が盛んになって藪原の名産となった。天保九年(1838年)すなわち今から140年程前の文書に藪原宿の木櫛の売上高年間およそ千五百両にのぼったとあるとのことだから、当時の盛況ぶりが偲ばれる。
お六ぐしについて伝説がある。
 それは、享保年間この地にお六という美人がいた。この人は持病の頭痛に悩まされていた。何とかしてこの病を治したいと、いろいろな療法を試みたがその効果がなかった。思い余ったお六は木曽御嶽山に願掛けをした。その満願の夜、枕元に御嶽の神が現れ、「ミネバリの木で櫛を作って髪をすいてみよ」とのお告げがあった。お六は早速鳥居峠にあるミネバリの木で櫛を作り髪をすいたところ不思議にも毎日悩まされていた頭痛が消え去った。そこでお六は櫛をつくり同じ病に悩む人に頒ったのがお六ぐしのはじめだという。
 お六ぐしは藪原より妻籠が先に生産していたのだから、お六は藪原の人ではなく、妻籠の人でなくしては話のつじつまが合わなくなる。
 大正初期藪原にはまだ百七、八十軒の櫛屋があったというが、最近、合成樹脂などの化学製品におされて、この木櫛の生産高はごく少なく、ほんの家庭工業程度になっている。だが木櫛には木櫛の良さがある。素朴なこの木ぐしの愛用者も多く。お六櫛の人気はまだ地には落ちてはいない。
 
   
4さいとりさしとお茶壷   
 昔は木曽路を大名行列が「下にい、下にいといばって通っておった。
中でも一番いばって通り、旅人や、宿場の人たちから嫌がられていたのがお茶壷道中だ。 
お茶壷道中とは、水戸の殿様が宇治のお茶を将軍に差上げるため繰り出した道中のことだ。
将軍に差上げるお茶を運ぶというだけで、行列に加わる下っ端の侍たちまでいい気になって威張り散らしておったのだ。
さて今年も年一回のお茶壷道中がくる時期になった。木曽ではわざわざ伊那の方から人足を集めて道を直したり、宿場の掃除をしたり、細かく気を配って準備をした。
しかし、こうして細かく気を配っておってもちょっとした落ち度でしかりとばされることが多いのだ。
 
  こうした有様を、いつも苦々しく思っていた者にさいとりさしたちがいた。
さいとりさしとは、将軍が鷹狩りに使う鷹を育てるためそのえさになる小鳥を捕まえる人たちのことだ。
鳥居峠の上り口には、そのための御鷹匠役所もあった。
さいとりさしは、たっつけばかまに草鞋がけで、トリモチのついた竿を持ち、山を駆け回っては小鳥を取っておった。
この衆が集まって、何とかお茶壷道中を懲らしめてやろうと相談したわけだ。
「そのだのう・・・・・・。よくよく考えてみればお茶が将軍様のもんなら、たかも将軍様のもんだ。その上にだ、たかはえさなしじゃあ一日と生きておれんでのう。考えようによっちゃあ、こっちが一枚上というもんだ。こいつをうまく使って、ぎゅっと言わせる方法はないもんかのう。」
と、頭が口火を切った。
こちらの方が一枚上となると、これは面白い、話は大いに弾んで、相談はまとまった。
もう今は道中が来るのを待つばかりだ。
いよいよお茶壷道中が行列をたててやって来た。道こそ狭いが、鳥居峠の上り口、木々の緑が目にしみるように鮮やかだ。
 
  ふと前を見ると、行く手にモチザオが高々と立てられ、道の真ん中で交差しているではないか。
「ぶ、無礼であろう。あの竹竿、のぞきおろう、のぞきおろう。」
先導の侍が、どなった。
すると、突然、道の両がわの草むらからどっと笑い声が起こった。
「わっはっはっはっ、おんしらの目は、ふし穴かのう。ようく見てくだされ、あれは、竿は竿でもわけが違うわい。御鷹匠役所のさいとり竿じゃぞ。今頃は、よう小鳥が取れるゆえ、こうして立ててあるんじゃ。」
「お茶壷道中の方々が、さいとり竿もわからんとは・・・・」
「ま、将軍様の鷹のえさが取れず、鷹が死んでもええちゅうんじゃったら、どうぞお通りくだされ」
これにはお茶壷道中の侍たちも返す言葉がない。
さいとりさしたちは
「まだ小鳥が取れんことにゃのう。」
と、道をはさんで、悠々と煙草をふかしはじめた。
たかがモチザオとはいえ、これでは引き抜いて通るわけにはいかない。かと言って道端で休むわけにもいかん。道中の侍たちは、そのまま胸を張り、威厳を保って立っていなければならなかった。
 
半時あまり(一時間余)も経っただろうか。威張りくさって立っていた侍の中にも立ちくらみを起こし、へなへなとしゃがみこむ者も出て来た。
「頼む、小鳥は別な所で取ってくだされ。」
「いいや、だめじゃ、今頃は、ここでよう小鳥が取れるでのう。おぬしが邪魔するので、今日は一匹もとれん、まだまだじゃ。」
さいとりさしたちは、思うようにからかいさんざじらし、このぐらいでよかろうと思うと
「小鳥が取れなんだのは、おんしらのおかげじゃ。場所でも変えねば、どうしようもないわい。」
とやっと通してやった。
ことのなりゆきを見ていた旅人たちは
「こっぱ役人のくせぇして、将軍様のお茶をかさに、あんまり威張るからだわい」
「まったくよう、今日ほど面白かったことはねえわい」
「ああ、せいせいした。」
と、手を打って喜んだ。
宿場の人たちも、この話を聞いて
「あの威張りくさった侍たちが、立ちくらみを起こしたとは、さぞかし、いいざまだったろうなあー。」
と、喜んでは噂しあった。
その後も、時々こんないたずらをされたので、さすがのお茶壷道中も、さいとりさしだけには頭が上がらなくなったという。(木祖村藪原)
 




   
 5きつねに化かされたおばあさん  
藪原であるおばあさんが油を五合買い家に帰る途中、ふだん通る道はこの日は葬式があったので別の道を通りました。 すると近くからシャーシャーという音が聞こえてきたが、おばあさんは別に気にせずどんどん歩いて行きました。
 ところがしばらく行くと突然転んでしまいました。また歩き始めましたが石もないのにそれほどいかないうちにまた転んで油がこぼれてしまいました。やっと家についてみると油は筒の底にわずかに残っているだけでした。
 きつねは油が大変好きなので、おばあさんはこれはきっときつねのしわざに違いないと考えたそうです。

 あるおばあさんが倉へ行こうと鍵を持って外へ出た。ところがたぬきに化かされたらしく、山の中へ行って馬糞を食べたりで家に着いたのは朝だったということです。
 
   
 6蛇ぬけ  
 木祖村と奈川村を結ぶ県道が境峠にさしかかるあたり、小木曽のはずれに「新池」と呼ばれている小さな池があります。そこから舗装された道を数分奥の方に歩いて行くとまわりを木々に囲まれた湿地帯につきます。そこには枯れかけた木が何本も立っていて、地面には背丈の低い雑草がはえています。この辺り一帯は昔は大きな池でした。村人たちは「古池」とこの池を呼んでいました。この池には池の主として夫婦の蛇が住んでいました。
 ある年の春、武者修行中の武士がここを通りこの池を見ていましたが、あまりの美しさに気を引かれてしまい、池の中に小柄を落としてしまいました。何年もの後、小柄の銅がさびて大蛇は体が腐りはじめたのを感じました。そこで、この夫婦はこの池をぬけて海に出ようと決心しましたそして待望のその日が来ました。
 ある年の夏、一ヶ月も大雨が続いて村中の川が氾濫し、泥土が押し流された夜、夫婦は決心を実行に移しました。夫は北の土手を、妻は南の土手を一挙にくだり、海に向かいました。二頭の大蛇の目はランランと輝き、村中に響きわたるうなり声をあげて通りぬけました。
 
   
   


 参考文献      
 木曽路の民話 下井和夫  信教出版部  昭和52年 
 私たちが調べた木曽の伝説第一集  木曾西高等学校地歴部民俗班