長野県歌「信濃の国」
長野県歌「信濃の国」は明治三十二年(1899)松本師範学校の漢学・国文・歴史教師四十九歳の浅井洌(きよしによって作詞された。 作曲は同僚の上田出身の音楽教師依田弁之介が行ったが雅楽調であったためあまり歌われなかった。翌年の秋ある女子生徒から運動会の遊戯に使いたいから信濃の国に曲をつけてくださいと依頼された依田弁之介の後任の東京出身の北村季晴は曲のあることを知らなかったため大急ぎで作曲して運動会に間に合わせた。こうして生まれた県歌「信濃の国」は同校の運動会の定番になったにとどまらず県下各地に教師として赴任した師範学校の卒業生たちが先々の学校でこの歌を広めた。 県の明治百年事業の一環として昭和四十三年に正式に県歌に制定された。 一番は県土の地理概況二番は山や河三番は林業・養蚕など明治三十年当時の基幹産業四番はしっとりとしたメロディとテンポに変わり名所旧跡五番は溌剌とした曲調に戻り著名な文人武人六番は通じたばかりの鉄道を歌っている。一心に学べば昔に劣らぬ偉人になれるから誇りを持ちなさいといかにも師範学校的に締めくくられている。 |
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北村季晴 |
浅井洌 |
一 | 信濃の国は十州に境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺四つの平は肥沃の地 海こそなけれもの沢に万足らわぬ事ぞなき
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信濃乃國盤十州尓境徒良奴累國丹之亭 曽飛由留山盤以也高く流留留川者いや遠之 松本伊那佐久善光寺与川乃平は肥沃の地 宇美古處奈希連物左波尓万川足者奴事曽奈幾 十州
4つの平
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二 | 四方に聳ゆる山々は御嶽乗鞍駒ケ岳 浅間はことに活火山いずれも国の鎮めなり 流れ淀まず行く水は北に犀川千曲川南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
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四方に聳ゆ累山々者御嶽乗鞍駒ケ岳 浅間盤古と尓活火山以川連毛国迺鎮な利 流れ淀未受行く水者北丹犀川千曲川南耳木曽川天竜川 古連又国乃固奈梨
川の長さ
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三 | 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し民の稼ぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やあるしかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
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木曽能谷丹は真木之介利 諏訪乃湖尓者魚多之民の加世幾毛豊丹て五穀能実良奴里也安流志可乃三那良数桑止利帝 蚕飼乃業乃打飛良希細幾与春も軽加良奴 国能命乎徒那具奈離 木曽は95%が森林でその半ばはヒノキサワラの良材。 室町時代から京都の社寺の造営に利用された。(銀閣寺) 江戸時代に木曽の領主であった尾張藩徳川家はこの山林を保護し「木一本首一つ」と称して住民の伐採を厳禁した。この美林は皇室財産として引き継がれいまは国有林となっている。 諏訪湖の漁獲高は長野県の川や湖で取れる全漁獲高の約3分の1である。 信濃の養蚕は近世末期から盛んであったが明治5年頃から機械製糸ができはじめ明治17年には工場数311生糸生産高8万貫で日本1を占めた。昭和4年には工場数847生産高273万貫に達し製糸王国長野県の名は全国に高かった。しかし昭和恐慌と戦争による打撃のため養蚕・製糸は日の当たらぬ片隅で細々とその命脈を保つだけになった。 |
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四 | 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山著き名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝えたる
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尋祢未保之幾園者良也 旅能屋止里乃寝覚乃床木曽能桟加希之世母 許己路之天遊計久米路橋久累人多支筑摩の湯 月農名尓堂川姨捨山之累起名所と美也飛雄可 詩歌耳与美天所伝へ堂流
園原やふせやに生ふる帚木のありとは見えてあはぬ君かな(新古今坂上是則) 謡曲「木賊」の舞台
なかなかにいひもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ(拾遺・源頼光) 桟やいのちをからむ蔦かづら 芭蕉
出でづる湯のわくにかかれる白糸はくる人絶えぬものにぞありける(後拾遺・源重之)
いまは姨捨駅に近い長楽寺(更級市八幡)境内の大岩を姥を捨てたところと言い伝え元禄元年(1688)ここを訪れた芭蕉も「姨捨山は八幡といふ里より一里ばかり南に、西南に横をれて、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、ただあはれ深き山のすがたなり」と説明している。 |
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五 | 朝日将軍義仲も 仁科五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず
安政元年(1854)、松陰の密航失敗事件に連座して松代に蟄居すること八年、元治元年、幕府に召され、京都に出て開国論を説き、ついに尊攘派浪士に暗殺された。 象山はまれにみる天才でその学識は天下に聞こえていたが、傲慢不遜で敵が多く、その暗殺も同藩の者が裏で糸を引いていたという噂が当時からもっぱらであった。信州人の長所・短所を兼ね備えていた人物というわけであろう。 |
朝日将軍義仲も 仁科五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 三那こ迺国迺人丹之帝 文武の誉れ多具飛なく 山と聳衣亭世尓仰き 川と流連亭名盤尽数
安曇郡北部の名族仁科盛政は一時小笠原長時に従っていたが早く長時を見かぎって武田信玄に属し各地を転戦した。しかしそのかいもなく永禄末年ころ上杉氏に内応していると疑われ信玄に殺されてしまった。生島足島神社(上田市下之郷)には「長尾景虎(上杉謙信)と内通しない」などと誓った永禄10年と推定される仁科盛政さの起請文がある。 天正4年(1576)付の仁科神明宮の棟札に「仁科五郎盛信」という名が見えている。 盛信は天正10年(1582)3月2日高遠城で織田軍を迎え撃ってわずか21歳戦死した。 盛信を信盛と誤ったのは「甲乱記」をはじめ江戸時代にできた書物の大部分が信盛と書いているのでそれに従ったものであろう。
名は純。飯田藩士200石の太宰言辰の長男として生まれ7歳のとき浪人した父に従って江戸へ出た。15歳のとき出雲候松平家に仕えのち辞そうとして許されずついに脱藩して荻生徂徠の門に入り一時仕官したが間もなく辞した。徂徠の死後門戸を開いて門弟を教育し『経済録』など多数の書物を著した。経済とは経国・済民の意味で儒学の立場から政治・経済を論じた。 |
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六 | 吾妻はやとし大和武 嘆き給ひし碓氷山 穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道 道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い |
吾妻者也と之大和武 嘆き給飛之碓氷山 宇可川トンネル二十六 夢丹毛古遊類汽車の美遲 美遲一春知耳未那飛奈婆 無可之能人尓也於止累辨幾 古来山河乃秀て堂流 国に偉人迺安累奈良飛
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参考文献 |
長野県歴史館古文書教室資料 |
しなの夜話 小林計一郎 社団法人信濃路 |