阿智の昔話

 


  1   木曽八  
     隆芳寺の裏に、三界万霊の石塔があります。
  この石塔は、木曽からこの村にやってきた、八人の男を供養するために明和七年(今から二百二十年ほど昔)にたてられたものです。
 この八人とは、仕事につかず、無法なことをするならず者で、この土地に居すわって、人妻やむすめに暴行をくわえたり、夜は、民家にあばれこんでくるなど、平和な村を恐怖におとしいれた人たちでした。
 あまりの乱暴な行いに耐えかねた村の衆が、寄り集まって、七久里のある家に、八人をだまして連れ込み、皆殺してしまおうと相談しました。
 計略通りおびき寄せて、乱暴者の七人までは殺してしまいましたが、残る一人が見つかりません。
 よくよく探したところ、味噌を煮る大釜の下のかまどにかくれているのを見つけだして七人と同じように殺してしまいました。
 そして、八人の死体をサンマショへ運んで埋めました。
 (サンマショとは、現在の阿智高校から南へ三百メートルほど離れた 山側にあった共同墓地で、行き倒れの人や 家畜などを埋葬するところです。)
 その後、何年か過ぎたころ、村中に悪病がはやりました。
 上中関の名主吉左衛門が、易者に見てもらうと、殺した八人のたたりだといわれました。
 八人とは、木曽から来たならず者たちだが、村中誰一人として彼らの名前すら知りませんでした。
 仕方がないので「木曽八」として、隆芳寺うらに、三界万霊と刻んだ石碑を建てて、施餓鬼をして供養しました。
 今でも、毎年八月四日に続けられております。
 
       
  2   阿智神社の神様  
      阿智川の上流の本谷川と黒川が合流するところに、水力発電所のダム湖があります。そこへ、こんもりと島のように突き出して浮かぶ森があります。森の中には、こじんまりとした社がありますが、これは、阿智神社の奥宮で「山王さま」と呼ばれています。
 阿智神社には、奥宮と前宮があり、前宮は昼神にあります。
 このお宮の御祭神は,天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)とその子供の天表春命(あめのうわはるのみこと)とよばれる神さまです。
 神話によりますと、天八意思兼命は、高天原で一番知恵のある神さまで、数人の神様の思うことを一度に考えることができたといわれます。
 古事記や日本書紀には、天照大神が、天岩屋におかくれになって、世の中が真っ暗になってしまった、という有名なお話がありますが、この時、神さまたちを集めていろいろ工夫して神さまたちをさしずしたのが、この天八意思兼命です。
 榊の木に鑑と玉をかざって岩屋のまえに立て、また、たくさんのにわとりを集めて、岩屋のまえでおなかせになりました。
 この時、天鈿女命(あめのうずめのみこと)に岩屋のまえで舞をまわせられました。
 かづらをたすきにかけ、笹の葉を手に持って、ふせた桶を台にして、その底を、トントンふみならしながら、滑稽な手ぶりや身振りをして、面白くお舞になりました。大勢の神さまたちは、どっとお笑いになりました。あまりにも 面白そうなので、天照大神は、少しばかり岩戸を開けて、おのぞきになりました。岩戸の前で待っておられた天手力男命(あめのたぢからおのみこと)は、この時とばかり、さっと岩戸を開けて、ぶじ、天照大神を外へ連れ出されたので再び、この世が、明るくなりました。
 
 天八意思兼命は、天照大神から、
「あなたは、私に代って、いろいろのまつりごとをしなさい。」
と命じられ、天から降りてきました。
 やがて、天八意思兼命は、阿智の地へ子供の天表春命や天手力男命らと一緒に来て、この地方を開拓し、阿智祝部(あちのほうり)といわれる阿智地方の神さまの祖先となったと伝えられています。
 阿智の里へおちつかれた天八意思兼命が、ある日、村の様子を見にでてみると、一人のおばあさんが、むしろをひろげて籾をほしていました。
 この様子をご覧になり、「今まで、ものの長さの決まりがなく、何かと不便だった。この籾は、私たちの命をつなぐ大切なものであるから、この籾をもとにして長さを考えよう。」と思われました。そして籾を両手の指の数の10粒をならべて「一寸」とし、「十寸」を「一尺」という長さの単位をつくられました。
 これが「曲尺(かねじゃく)」(ものさし)のはじまりで、この曲尺が、ひろまることによって、今までの竪穴住居の家から高床式の家が、できるようになりました。
 天八意思兼命は、今でも大工さんたちに曲尺の神さまとしてまつられ、また建物の神さまとして棟上げの棟札に書かれています。
 さらに、高天原で天の岩戸から天照大神をつれだそうと、天安之河原(あめのやすのかわら)で神さまたちが、集まって相談したとき、そのまとめやくとなったことから政治の神さまとも言われます。
 知恵の神・勉強の神だけでなく、建物の神・曲尺の神、そして政治の神として、この山王さまには、方々からお参りに来る人が少なくありません。
 
       
  3   さかさうつ木  
      むかし、平安、鎌倉の時代の頃、今の木戸脇のあたりに関所があって、あふち(会地とも、又逢地とも書く)の関といわれていました。
 あるとき、西行法師が諸国遍路でこのあたりに来た時、長い旅路でつかれたのでひと休みしました。この時、杖にしてついたきた、うつぎの枝を、地面にさかさにつきさして、「この枝に芽がふくころには、京の都に帰りたいものだ。」といって腰をおろしました。
 ところが、そのうつぎの枝が根をおろして、枝葉がしげり、美しい八重の卯の花が咲くようになったといわれます。
 歯をやむ人が、そのうつ木の根元へ、籾がらをまいて願かけすると、不思議によくなおると言いつたえられ、そこには、たえず籾がらがまかれておりました。
 その後、うつ木は、さかさのまま生い茂り、このあたりを卯の花坂とか卯の花町とかいわれてきました。
 いつの時代かに、そのうつ木は枯れて、その後へ、
    「卯の花やくらき柳のおよび腰」
の句をきざんだ碑がたてられました。
 今のうつ木は、何十代目かのうつ木だといわれます。
 
       
  4   恵那山のはなし  
      伝説によれば、恵那山は、天照大神がお生まれになった所ともいわれ、山の中腹にある広さ十アールほどの池(生が池と呼ばれている)で、うぶゆを使われ、その湯をすてた所が山崩れとなり、赤なぎができたといわれます。この土は赤土のため天気の良い日は、遠目にも赤いなぎがはっきりと見えます。
 生が池は、伝説にふさわしく、秋になっても木の葉一枚浮かばず水は清くすんで、箱根山椒魚がすみ、太古の神秘を物語っています。また、雨ごいの池としても、村の内外から多くの人が、次々とおとずれ、にぎわいました。池をとおり過ぎ、少し奥に入ると、自然石に「三浦正和の神霊」とほられた碑があります。
 これは、本谷の熊谷源六という人が先頭に立って、恵那山への山道をきりひらいた時、仲間の一人として、仲間の一人として大きな働きのあった三浦正和が、大変きびしい工事の犠牲となり、帰らぬ人となりました。そこで責任者の熊谷源六氏が、彼をしのび、御霊をまつったものです。
 山のいただきには、恵那山神社とともに、葛城社、富士社、熊野社、劒神社など山岳信仰の神社と、天照大神をまつった神明社と、一宮の七社がまつられています。
 
       
   5  おせん様とおまつ様  
      浄久寺の境内の一言観音さまから五十メートルほど西の方に、古びた祠がぽつんとたっております。中には、「芳杲院殿名誉貞珠大禅定尼」と、字もうすれた位牌が一つさびしく安置されています。
 これは、「お姫さまのおたまや」です。つねは、訪れる人もなく、おしょうさまが朝夕たむけてくださる線香がしずかにくゆっています。そこに眠られているお姫様という人は、本名を「おまつ様」といい、昔、この地を支配した林丹波守という人の娘です。
 おまつ様とお母さんのおせん様には、こんな悲しい話があります。
 おせん様は、向関や中関の支配者、宮崎筑後泰景の娘として生まれました。
 おせん様の生まれたころは、ちょうど武田信玄と上杉謙信が川中島で最後の戦いをした時代でした。戦国時代の末ごろになりますが、武田や上杉だけでなく織田信長や徳川家康、今川義元など各地の武将たちは、それぞれに国盗りのために野心をもやし、権力や領地の争いのために血を流すことが当たり前の時代でした。
 そのような武将の権力争いの犠牲になったのは、妻や娘や子供たちでした。
 おもてむきに忠誠をちかいあっている仲でも、いつおとしいれられるかわからないので、政略的に娘を縁ぐみ(結婚)させたり、妻や子を人質としてあずけたり、あずけられたりするのがならわしの時代でした。
 武田家では、信玄が天正元年になくなったばかりで、このせまい伊那谷へ織田勢・徳川勢がすきがあれば、わが領土にと目を光らせている中で安心できない武田家が、伊那谷のおおぜいの大将から人質をとっておかなくてはという政策から、おせん様と娘のおまつ様がその犠牲となったのです。
 武田勝頼のところへ人質としてとられてゆくおせん様は、十八歳くらい、おまつ様は一才か2才くらいだったといわれています。
 おせん様は、その時、林丹波守の妻として幸せに暮らしていたのでしたが、母と子で甲州の武田家の所にやらされるのだから哀れなことでした。
 この、哀れな母と子をみかねたおせん様の父、宮崎泰景は、二人を武田の手から取り返しました。
 その後、武田家では、信玄が花咲かせた全盛時代とうって変わり、父信玄の死後、勝頼の甲州勢は、目に見えてその勢力はおとろえていきました。そして、美濃・三河・遠江へと進出しましたが、長篠の戦で、織田・徳川連合軍にやぶれ、天目山のふもとで自刃してしまい、鎌倉時代よりつづいた武田家はほろびました。
 このあと数年は、林丹波守といっしょに、おせん様とおまつ様は幸せにくらしました。が、林丹波守は、同じ仲間に、”反逆をくわだてている”と、ありもしないことを家康につげぐちされ、おとし入れられてしまいました。そして、備中原ふきんで家康のけらいにうたれてしまいました。お気の毒におせん様は、若くして夫に死なれてしまったのです。
 こんなことがあって、伊那谷は徳川家康のものとなりました。
 しばらくして、おせん様は、おまつ様をつれてどうした手びきか、家康の側室として駿府(静岡市)のお城にあがることになりました。
 直接、家康が手を下して夫をうったのではないけれど、うてと命令したのは家康、そのような夫のかたきのもとに側室に入らなくてはならないとは、おせん様にとって、どんなにかくやしかったことでしょう。これは、この時代の女の定め、お家のためと政略の道具としてどこへでも行かなくてはならない世の中でした。
 家康の側室の一人として暮らしたおせん様は、幸せか、不幸せだあったかわかりませんが、家康にかわいがられ大切にされたことは本当のことです。
 元和二年、家康が亡くなり、その三年後、おせん様は五十才くらいで駿府で亡くなりました。
 おまつ様も家康につかえ、家康が死んでからは尼となって、お母さまのおせん様と家康をとむらいましたが、寛永十九年,六十二才ぐらいで江戸で亡くなりました。
 家康が、まだ元気だったころ、よくつくし、誠意のあるおまつ様の希望で駒場の八軒屋敷を与えられました。
 おせん様、おまつ様は、時の権力者家康公におつかえしたということでうやまわれて、おまつ様は、当時の八軒屋敷の人々によって浄久寺境内に、あのようなおたま屋が造られ、語りつがれています。
 
       
  6   松泉滝  
      栗矢と下条村の親田をへだてる鶯巣洞は、深い谷川です。田代川は、この洞にそそぐあたりで十数メートルほどもある滝となっていて松泉滝と呼ばれています。
 戦国の頃、下条の吉岡に城を構えていた下条氏は、新野から阿智あたりまで領地を持っていました。
 下条氏九代信氏の末の弟は、長岳寺の住職となり、祐教法印といい、松泉さまとも呼ばれていました。祐教法印の兄の九兵衛は、下条家の家老をつとめておりました。
 天正十年二月、織田信長は武田をせめるため信州に入ってきました。武田方である信氏は、治部坂で織田軍と対戦しました。このとき、九兵衛の娘が織田軍の川尻氏におよめいりしており、川尻氏は織田軍の先頭に立つ先□隊でした。九兵衛は、下条氏と武田氏にそむいて、織田軍を売木・和合からみちびいたので、不意をつかれた吉岡城は、たちまち落ちてしまいました。
 信氏は、身内から裏切り者の出たことを悲しみ、三河の徳川氏を頼って落ちのびてゆき、九兵衛は下条の領主となりました。
 ところが、その年の六月、織田信長は、本能寺で明智光秀に殺されてしまい、その翌年天正十一年に下条氏の家臣たちが伊那にもどってきて、ひそかにはかって九兵衛を討ちとりました。
 松泉(祐教法印)も「もってのほかの悪僧」ということで、同時に殺すことになり、吉岡城へ来るようにと使いを出して、鶯巣洞で待ち伏せておりました。
 そんなはかりごとがあるとは知らない祐教法印は、寺侍六人をひきつれて下条の吉岡にむかいました。
 栗矢から親田にかかる鶯巣洞にさしかかった祐教法印は、まえから待ち伏せていた下条氏の家臣たちに、とり囲まれてしまいました。
 びっくりした寺侍たちは、一目散に逃げだしてしまいました。
 祐教法印は、もと武士でしたから、腰の守り刀で打ちむかいましたが、けっきょくのがれられないと知り、せめてくる敵を追いはらいつつ、滝の上の大岩の上で腹をかき切って死んでしまいました。
 地元の人たちは、松泉の遺体を、はるか下条をのぞむ峠の上にほうむり、「松泉塚」とよび、大岩を、「腹切り岩」といい、滝を「松泉滝」とよぶようになりました。
 明治二十二年八月、その時の寺侍の子孫にあたる人が、今は、郵便資料館となっている前の阿智郵便局の裏山に祠をたて、「若宮社」とよんで、年一度おまいりをするようになりました。
 その後、バイバス工事で、「若宮社」は、長岳寺の境内に移され、上町の桝屋・よろずや・藤屋、下町の現金屋・土佐屋、木戸脇の葉那屋、曽山の藪下の方たちによってまつられています。
 
       
       
       
       


参考文献 
 阿智のむかしむかしのお話 阿智村子供の文化を考える会