東筑摩郡麻績村の昔話
1 | お仙の茶屋 | ||
麻績から善光寺街道を北にのぼると、番場峠がある。 その峠のふもと、清水の茶屋に、お仙という娘がいた。お仙は美しく気立てのよい娘だったので、村の若者から、 番場の峠にゃお仙が待ってる 草刈りやめても山の草置いても お仙に会わなきゃなんにもできぬ と、歌にまで歌われ、もてはやされていた。 そんなある年の暮れ、お仙は茶屋の近くで、行き倒れになっていた一人の武士を助けた。 武士は京から来た者で、これから善光寺街道をさらにのぼり、越後へ行かなければならなかった。しかし、弱った体はなかなか回復しなかった。 やがて、雪の消える春を迎えた。 が、一冬をかけて芽生えた二人の思いは、雪どけ水の速さにもまして急に深まり、もう別れられないほどになっていた。 けれど、武士には命より大事な役目があった。 「この役目を果したら、きっと戻って来るから待っていてくれ」 と、武士が言うと、お仙は髪からかんざしを抜き、 「これを私と思って……・。」と、武士にわたした。 それから一年、二年、三年・・・・・・・と、お仙は待った。 が、武士はいっこうに現れず、便りさえ届かなかった。 そして武士が去ってから五年目の、やはり年の暮れのこと、お仙の茶屋の戸を、ほとほとたたく旅の僧があった。 「もし、ここはお仙どのの茶屋では・・・・・。」 旅の僧が戸を開け、中に入って来ても、お仙の目はうつろだった。 僧は、そんなお仙を、あみ笠の中からじっと見ていたが、やがてふところから包みを取り出し、黙ってお仙の前に進めた。 そのとき、どっと吹き込んだ粉雪に、合掌した僧の姿が消えた。 お仙はしばらく生気をなくしていたが、僧の置いていった包みを開いたとたん、 目を輝かせ外へ飛び出した。 「あなたさま!あなたさま!」 お仙の手には赤いかんざしが、しっかりとにぎられていた。 「あなたさま、いつお戻りになられたのです。早く、出て来てくださいませ。」 お仙は叫び、吹雪の中を雪を散らしてかけずり回った。 しかし、どこにも人影はなく、雪に埋もれた街道に、人の足跡さえ見当たらなかった。 お仙のなきがらが見つけ出されたのは、それからだいぶたってからのこと。 が、お仙を慕う番場節の歌だけは、今も歌い継がれて、峠のあたりに残っている。 峠恋しや清水の茶屋の 今もお仙が待っている(東筑摩郡麻績村) |
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2 | 姨捨の月 | ||
芭蕉の「更科紀行」などから、姨捨の月というと旧更埴市側から見た姨捨山(冠着山)に登る月のように思いがちだが、新古今和歌集に残されている姨捨山にかかる月は、ほとんどが麻績側から詠まれたものだ。 更科や姨捨山の高嶺より 嵐を分けて出づる月影 藤原家隆 古来より「月の里」であった麻績は、その名を後世に伝えようと、明治二十七年(1894)上町麻績宿のはずれに「姨捨山冠着遥拝所」を建立した。 |
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3 | 嫁の泣石 | ||
善光寺街道に沿う下井堀に「嫁の泣石」がある。 いつの頃か、この石の横を通りかかった花嫁が、突然この石にしがみつき、 「おら、嫁になんかいきたくねえ、嫁になんかいきたくねえよう。」 と、いって泣きくずれたそうだ。 よほどの事情があったものか、いや嫁には好いた男がいたのかもしれない。 困ったのは仲人だった。 うまく話をまとめ、ここまできていやといわれたのでは、仲人としての面子が立たん、いやがる嫁をなんとか石からひっぺがし、連れて行こうとするがどうにもならない。 嫁は石を抱いたまま、とうとうこの世を去ったそうだ。 それからというものこの石は、花嫁道中には不吉な石とされ、わざわざ避けて通るようになった。 避けて通るといっても街道をはずれた回り道だ。 そこには田もあり畑もある。 そんな田畑の畦道を、おおぶきの着物をきた花嫁を馬からおろし、歩かせるのはたいへんだった。なかには欲どしいやつもいて、畦道歩くに金をよこせという。 まったく、めんどうな「嫁の泣石」だった。 ところが、ある花嫁道中のことだった。 これまでだと、どの花嫁道中も「嫁の泣石」を見て、くいと曲がる。 そして、細い畦道に入るのだが、その行列ときたら平気のへいざ、そのまま泣き石へと向かって行った。 見物人も驚いて、どうなることかと固唾をのむうち、先頭に立ったお仲人、ぱっと自分の紋付羽織を脱ぎすてると、ひょいと泣石におっかぶせ、そしらぬ顔で通りすぎた。 なんとおつなお仲人様、見物人から拍手がおこった。 それから、どの花嫁行列も、嫁に泣石を見せないように、何かかぶせて通るようになったという。 |
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参考文献 |
信州の民話伝説集 |
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