松本市の昔話

 


1   牛つなぎ石  
    戦国時代、武田信玄は、信州、甲州の武士を引きつれ、今川、北条氏らと戦っていた。
 このとき、今川、北条方は太平洋側から信州、甲州へと入っていた塩の流れを止めてしまった。塩不足に苦しむ信州を見て、越後の上杉謙信は敵方であるにもかかわらず、日本海の塩を信州に送った。
 糸魚川街道を牛の背に積まれた海の塩が、松本に着いたのが一月十一日、そのとき牛をつないだのが本町の角にあるこの石だといわれている。
 敵ながらあっぱれな義挙を記念して、その後この日に「塩市」が開かれ、それはやがて商売繁盛を願う「あめ市」祭りとなったが、この「牛つなぎ石」は「あめ市」のとき注連縄が張られ、神聖な市神様の御神体ともされている。
 
     
 2  松本の飴市  
    今から四百年余り前の永禄年間、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄との間の戦いにまつわるいろいろな物語が伝えられている。
 山国の将武田信玄が、今川、北条など隣国から塩の道をたたれて困っていた。その話を聞いた上杉謙信が、「甲斐の武田とは戦っているが領民を困らせるような事はせぬ」と越後から塩を送ったという話が美談として残っている。
 そのころ信州の大半は武田方の勢力下にあった。塩をたたれることは大変な苦しみで領民の困り方はひと通りではなかっただけに塩を送って貰った時の喜びはひとしお。有難かったその事を記念してお祭りが行われるようになり今も続いている。その祭りが松本付近の飴市である。永禄十二年正月十一日、糸魚川方面から送って来られた塩が当時深志といっていた松本に着いたのだった。その日のことを記念してできたのが松本市の飴市でこの日をしのび塩俵の形の飴細工が売られている。松本市の飴市は一月十,十一日。この松本の祭りに続いて豊科町、穂高町、大町市、池田町などでも今なお盛大に飴市が行われる。(松本市)
 
     
 3  玄蕃石  
    大阪城の「肥後石」、安土城の「鮑石」など、城郭に巨石を据えるのは築城者の念願で、それは石垣を強固にするだけのものではなく、築城者の威光を誇示し、権威の象徴にしたものといわれている。
 松本城の太鼓門に座る、「玄蕃石」も、天守の築城者石川玄番頭康長が、巨石を城門の前に据えることで、城主としての権力を誇示したものだが、巨石だけにこの石引きにあたっては、凄惨な話が伝わっている。
 築城の名人といわれた加藤清正など、巨石搬入にあたっては、稚児小姓みな石に乗せ、自らも木やりを歌い祭りさわぎで運ばせたというが、康長はちがった。
 康長の場合、引けど押せどなんとも動かない巨石に、疲労困憊した人足から苦情が出た。
 それを耳にするや康長、有無をいわさず首をはね、その首を槍の穂先につきたてて、号令したところ、さすがの大石もごろりごろりと動き出したと話にある。(松本市松本城)


 

     
 松本城の匠  
    松本城天守閣工事の折、どこからか一人の大工が弟子一人を連れやってきた。
 工事も忙しいさなかだったので、工事監督は彼らを雇い入れてやったが、この大工、仕事もしないで毎日ぶらぶらしているばかり。
 そして、思いついたように「込み栓」を削っているだけだったので、工事監督もまわりの手前、やめてもらうことにした。
 大工は、こちらこそ願いさげだと、それまで削っていた込み栓の束を、堀に投げ捨てると、どこへともなく立ち去ってしまった。
 その時、近くにいた大工ども、込み栓なら使いみちもあると、その栓の束を拾いあげてみたところ、栓の束はまわりが濡れているだけで、中の栓は水に少しも濡れていない。
 これを見て大工ども、びっくり仰天、これほどの削りができる大工、きっと名工にちがいないと思った。
 監督も、その束を見て驚き、さっそく連れもどし、自分に目がなかった非礼をわびた。
 やがて工事も進み、いよいよ天守組み立てとなった。
 ところが、どうしたことか、梁の一本がどうしても短い。
 それが、天守組み立ての大事な梁ときては、今さらとりかえることもできない。
 棟梁はじめ、みんな蒼くなっているのを見て大工が言った。
「なに、わしが伸ばしてやるだに見ておれや。木は生きものだに、いいきかしゃわかることよ。」
 大工は、梁の両端に大綱を結び、大勢で両方から引かせるうち、自分は梁の中央に立ち、両足ふんばりゴーン、ゴーンと槌で梁をたたいた。
 と、梁はちょうどに伸びて、木組みにぴったりはまった。
 みんなはただ舌をまき、この神技に驚嘆したという。
 
     
 松本城と中萱加助  
    昔から、信州の中萱加助と下総の佐倉宗吾とは、一対の義民として伝えられている。
 また、加助は多田氏で宗吾は木内氏なのに二人とも生まれた所の地名を苗字のようにしているところも似ている。
 が、二人ともに歴史的な義民であることに間違いはない。
 加助の家は中萱村(現三郷)の中ほどにあって、広大な屋敷をかまえ、堀を掘って土手をめぐらし、まるで城のようだった。
 加助は、その庄屋の家に生まれたが、生来の硬骨が、藩の役人に気に入られず、役を解かれていた。
 松本藩をゆるがす騒動が起こったのは、江戸時代貞享三年(1686)のことだった。
 徳川時代の松本藩主は、石川、小笠原、戸田、松平、堀田を経て貞享の水野氏となっていた。
 事件は、この水野氏三代の忠直のときに起こった。
 貞享三年は、長雨が続き天候が悪く作物ができなかった。それでも藩は重い税を取り立てようとした。
 加助は、この百姓たちの難儀をそのままにしておくことができなかった。
 というのも、前々から加助の家に寄宿していた儒学者丸山文左衛門から、「身を殺して仁をなす」とか、「義を見てなさざるは勇なきなり」という教えに深く感銘していたからである。
 そこで、同士と語らい、ある日密かに中萱の熊野権現様の森に集まり、拝殿で協議のすえ、百姓に代わり松本藩主に訴え出ることを決めた。
 その時の同士とは、中萱村多田加助、楡村小穴善兵衛、大妻村小松作兵衛、氷室村中野半之助、堀米村堀米弥三郎、丸山吉兵衛、梶海渡村塩原惣左衛門、浅間村三浦善七、岡田村橋爪嘉助、執田光村望月戸右衛門、笹部村赤羽金兵衛、三溝村百瀬左平治、以上の十二名だった。
 加助たちが協議して、訴え出ようとした内容に五つあったが、そのうちの主なものは次の二つであった。
一、籾を足で踏んで、籾の皮を薄くさせることはやめにして下さい。
一、米一俵三斗五升を、幕府の定め通り二斗五升にして下さい。
 いずれも、幕府の定めにはないもので、特に米一俵の量を三斗五升にするなど、あきらかに幕府の税率に反したもので、松本藩の勝手な定めにすぎない。
 加助たちはこの点をふまえ、藩にかけあおうとしたが、藩では城門を閉め相手にしない。
 そのことを知った近隣の百姓たちは加助たちに加勢しようと、みの笠に身をかため、焼餅を腰にして、陸続と城に向かい集まって来た。
 その数およそ一万を超え、藩は松本の宿屋に泊めないよう命じた。
 が、百姓たちは縄手や上土、さらには城山、筑摩あたりに陣取って、口々に
「お願い者であります、お願い者であります」と叫んだ。
 しかし、五日たってもらちがあかず、加助たちはとうとう最後の手段として、江戸の幕府へ直訴することにした。
 藩としては、加助たちに直訴されれば、これまで法に反していたことがばれてしまい、お家とりつぶしになるかもしれない。
 それが怖くて藩としては、一時逃れに、加助たちの言い分はすべてとり上げるとし、百姓たちを解散させた。
 加助たちは、願いかなったと喜び、それぞれの村に帰ったが、そこを見澄ました役人にふみ込まれ、同士の者たち家族ことごとく縛られ牢屋に入れられてしまった。
 藩の中にも、これは百姓たちを欺く悪事だと反対する鈴木伊織や土方縫之介など道理をわきまえた武士もいたのだが、藩主水野忠直は参勤で江戸にいて留守、重役の意向を変えることはできなかった。
 そしてついに十二月二十二日、加助たちは処刑されることに決まった。
 安曇郡のものは勢高(城山下)、筑摩郡のものは出川だった。
 刑場には竹やらいが組まれ、そこへ加助たちが亀の子縛りにされ来た時には、群衆みな口々に「南無加助菩薩」「南無阿弥陀仏善兵衛様」と、ゆかりの人の名を唱え、いたいけな子どもたちが入って来た時など、一度にわっと泣き叫んだという。
 加助は、はりつけ柱にくくられ、まさに脇の下を槍で突かれる寸前、かっと目を見開き、
「皆の衆、二斗五升は我らが願い、おれの魂は、必ず天守にとどまって、この願い果たさずにおくものか。」
と叫び、はるかな天守をぐいとにらんだ。
 すると、加助の怨念か、天地がにわかにゆれ、さしもの天守閣も西にがっくり傾いたという。
 あわれ加助たちは、百姓のため刑場の露と消えはしたが、加助の一念、傾いた天守に残り長く語りつがれることになった。
 その後、水野氏は、二代を経て、忠恒になったが、江戸城中において突然乱心、領地没収のうえ切腹を申しつけられたというが、これも加助の怨霊のたたりだと伝えられている。
 
 
出川の刑場跡


松本市城山の義民塚
     
6   義民社にまつられている多田加助  
    貞享三年(1686年)松本の藩主水野忠直の暴政に抵抗して農民一揆を起こしたのが中萱村(現三郷村)の庄屋多田加助だった。
 天和三年(1683年)は凶作で、民百姓はその日の暮らしに窮した。庄屋加助は苦心の末藩の老臣土方縫之介に訴えた。縫之介は藩では硬骨の家老として知られた人だった。加助の訴えを聞聞き憐れに思った縫之介は家老奉行等に幣政改革をはかったが、一同の賛同を得られなかったのみでなく、奸臣等の術中に陥り、翌貞享元年二月閉門を仰せ付けられ、加助も庄屋の役を免ぜられた。
 天和に続く貞享の頃も凶作がつづき、ことに貞享三年の凶作年には悪疫も流行し、餓死する者が道に横たわるという地獄のような有り様だった。にもかかわらず納税は苛酷で、新法と称して「のぎ踏み磨き三斗五升摺り」を命じた。従来は籾にのぎが付いたまま納めればよかったのに、のぎをとって同一分量納めよというのだから事実上増税。また、三斗五升摺りというのは籾一俵をひいて玄米三斗五升あるようにということで、それまで三斗摺りだったのに五升増税、しぼれるだけしぼるというものだった。
 この苛酷さに百姓等の怒りは爆発し、松本城下に押し寄せ暴動を起こした。その時藩主水野忠直は江戸在勤中だったので、老臣等が評議し、農民たちを欺瞞、「要求を聞き入れる」と回答し一時退去させた。加助等はその姦策を知り、同士一二人とともに江戸表に出て公儀に訴えようとした時捕らえられ投獄、一揆強訴の罪名で処刑された。加助等八人は磔刑に、その他関係者二十人が打ち首獄門という極刑だった。
 十一月二十二日、加助等処刑の事を知って集まって来た民衆に、加助は磔柱の上から、「たとえ加助此の世を去っても五分摺り二斗五升は我ら百姓の志・・・・・〉と叫び、刑場の露と消えた。時に四十八歳。
 村人は享保二十年(1735年)加助宅跡に堂を建て霊を祀った。
 処刑の瞬間、加助が松本城をにらむと、にわかに大地震が起こり、大音響とともに天守閣が西に傾いたという伝説がある。
 
     
 7  加助の墓  
    百姓のために犠牲となった中萱の多田加助は、義民として祀られているが、その加助神社の裏手に加助の墓がある。
 いつの頃からか、この加助の墓石のかけらをお守りにすると、九死に一生を得るとか、難病からまぬがれるなどといわれた。
 また、この墓地の土を借りて稲田にまくと、病虫害に侵されず、豊作になるともいわれた。
 そこで、墓石の角を少しずつ欠いて持ち帰ったり、墓土を借りに来たりする者も多くなった。
 秋にはお礼参りに、借りたときの二倍の土を反すそうだが、今も義民加助は、農民の守り神様として、厚い信仰をあつめている。(安曇野市三郷)
 
 
     
 牛伏寺  
    鉢伏山麓に、厄除観音として名高い、古刹、金峰山牛伏寺がある。
 この寺は、鉢伏山と関係の深い寺で、、もともとは鉢伏山中腹の蓬堂にあったもの、それが堂平に下り、さらに今の場所へ移ったものと伝えられている。
 金峰山という山号については、鉢伏山頂に祀られた蔵王権現に由来したもので、これが祀られた山は、いずれも金峰山と呼ばれていたからである。
 そこで、この寺の「牛伏寺」なる寺名についてであるが、寺の由来記やいい伝えによると、起源は奈良時代にさかのぼる。
 天平勝宝七年(755)、唐の玄宗皇帝は、その妃、楊貴妃の冥福を祈るため、自ら書写した紺紙金泥書の表紙のついた大般若経六百巻を善光寺に納めようとした。
 そこで、難波から赤黒二頭の牛に背負わせ、千里の道をはるばるやって来たが、牛は長旅に疲れ果て、ここ鉢伏山麓の寺の門前に倒れてしまった。
 牛と共に来た使者は、これも仏のおぼしめしかと、牛を葬り牛堂を建てた。
 そして、経巻はそこの寺に納め、都に帰った。
 その時、寺は、普賢院・威徳坊といったが、経巻を預かった時から、寺名を牛伏寺に改めた。
 本尊は、聖徳太子が刻まれたという秘仏「十一面観音像」で、広く信仰をあつめ、倒れた牛が石となったといわれる「牛石」は今も牛堂にある。
 
牛伏寺本堂
     
     
     
     


参考文献 
 信州の民話伝説集