東筑摩郡坂北村の昔話

   1 切通し   
     中山道洗馬宿(塩尻市)より松本を経て、長野へ通じる道を善光寺街道(北国西街道脇往還)といった。 
 その松本から長野へ通じるちょうど中間地点に青柳(坂北)の「切通し」がある。 
 切通しとは、岩山を掘り下げて、そこに道を通したもので、横から見ると岩山を真っ二つに断ち割り、割れ目を広げて下を道にしたように見える。
 この切通しとは、天生八年(1580)坂北の青柳城主、青柳伊勢守頼長が切り開いたものとされ、善光寺参りや札所巡りなど、信仰の道であり、またたばこ、茶、油などを馬の背で運んだ庶民のための道でもあった。
 幅約三メートル、高さ約六メートル、長さ約二十六メートルにも及ぶこの岩間の壁には、およぶこの岩間の壁には、無数ののみの割跡があり、そこには文化年間の文字や仏像が刻まれておりまた岩山には馬頭観音などの石仏が祀られている。 
 なお、街道の東山麓には、武田信玄が善光寺平への拠点とした青柳城跡がある。(東筑摩郡筑北村坂北)
 青柳の切通し
       
   沢田の馬頭観音  
      沢田に古い馬頭観音がある。
 この観音様、だれがどっちに向けてもいつの間にか南の方に向きなおってしまう。
 何だ、なんだ、どうしてだ。
 観音様の向く方、ずうっとたどってみたら、そこには馬が生前、可愛がってもらった家があった。
 馬はその恩に報い、その家を守っていたことが分かったという。(東筑摩郡筑北村坂北)
 
       
   3  狐の嫁入り  
      坂北の青柳にある「里坊稲荷神社」は、青柳の氏神様である。
 この神社のお使いは狐であるというので、ここでは狐がきらう犬は飼わないという昔からのしきたりがある。
 それは、狐に害をあたえてはいけないという思いやりからなのだが、それというのも江戸時代後期、青柳宿で大火があった。その時、土地の者は稲荷神社に、
 「どうかこれから朝、昼、夜と三度火の用心をして下され。もし、お願いできるなら、犬は飼いません。」
と、願かけした。それからのことだといわれている。
 以後、雪の夜など村の家々のまわりに、狐の足跡が見られるようになり、青柳に大火の災難はなくなったという。
 「狐の嫁入り」は、大正初期ごろから七年目ごとに行われていた稲荷神社の春祭りで、狐の面をつけた男衆が、狐に扮した花嫁のかごを、長持ち唄を歌いながら、「切通し」までの村の道を練り歩く。
 先頭には、紋付はかまに高下駄の二人、後を法被姿の男衆がかごをかつぎ、その後にはこれも紋付、留め袖のはね親が続く。
 花嫁は途中で、かごから投げ出されたりして行列を盛り上げるのだが、人と狐との親交を、今に伝える奇祭として、山あいの村に息づいている。
 
       


 参考文献
信州の民話伝説集