四国の昔話

   
大宝寺のうば桜(松山市)
 昔々のことじゃがの、伊予の松山に、角の木長者という金持ちがおった。大きな屋敷に蔵をいくつも持ってのう、何不自由のない暮らしじゃったが、ただ一つ子どものないのが悩みの種、思い余った長者夫婦は、近くの大宝寺に詣で、薬師如来に願をかけた。
 すると間もなく妻は身ごもり、やがて玉のような女の子が生まれたと。夫婦の喜びはひとしおじゃ。子どもは「瑠璃姫」と名づけられ、お袖という乳母が面倒を見ることになったそうな。お袖は瑠璃姫をわが子のようにかわいがり、おかげで姫は、すくすくと成長していったと。
 ところが、姫が十になった頃のこと、ふとした風邪がもとで、姫は重い思い病にかかってしもうたそうじゃ。毎日のように医者が呼ばれ、薬を飲ませてみるが、ようなるどころか、ますます悪くなる一方、今はもう、死ぬのを待つばかりとなってしもうたと。長者夫婦は毎日泣いて暮らすばかりじゃったが、それにも増して乳母の悲しみようは一通りではなかった。どうにも治る見込みがないとわかったお袖はのう、藁にもすがる気持ちで、食を断って毎日大宝寺の薬師さまにお祈りを始めたんじゃと。我身はどうなってもええから、姫様を治してくださいというてのう、おかげでお袖は日に日にやせ細っていった。
 ところが反対に、どういうわけか瑠璃姫は日一日と、うす紙をはぐようにようなっていく。こうしてお袖が断食を始めて三十七日目の満願の日には、瑠璃姫はすっかり元の元気な体になったそうな。お袖の気持ちが通じたのよのう。家族は泣いて喜んだ。
 けれども今度は、乳母のお袖が寝込んでしもうたんじゃ。みんな心配して医者よ薬よと手を尽くすんじゃが、お袖はどうしても、薬を飲もうとせんかった。「姫様の身代わりになって死ねるんなら、何も思い残すことはありません。」というての、とうとう医者にもかからんまま、お袖の体は悪くなる一方じゃったと。
 こうしていよいよ最後という時、「ご主人様、私は薬師さまが姫様の病気を治してくださったら、お礼にお堂の前に桜を植えようと思うとりました。私が死んだら、どうか私のかわりに桜を植えてください。」苦しい息の下で、お袖はそれだけ言い残してのう、とうとうそのまんま死んでしもうたということじゃ
 長者は早速立派な桜の木をお堂の前に植え、お袖の霊を慰めたと。それから翌年の三月二十八日、その日はお袖の命日じゃった。薬師さまのお堂の前に植えた桜が、見事な花を咲かせたそうな。優しかったお袖の心を表すような、きれいなきれいな花じゃったとよ。さくらはいつしか、「うば桜」と呼ばれてのう、今も大宝寺の本堂の前に残っておるという。
 



 
       
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石神様
 吉田町の西、犬尾山の中腹に、石神様と呼ばれる小さな社がある。その昔、吉田で奇妙なことが起こった。夕暮れになると決まって、川平の森の方から、誰ぞ歌を歌う声が聞こえてくるという。それが世にも美しい声の上、その主を見たもんがまだ一人もおらんというんじゃから、噂は噂をよんでのう、町は大変な騒ぎになったげな。
 そんなある晩のことじゃった。町に住む二人の若者が、その歌声の主をつきとめようと森に向かった。しばらくすると、月明かりの中、二人の耳に、どこからともなく歌声が聞こえてきたそうな。小さいがはっきりとした美しい声じゃったと。さすがの二人も、何やら背中がぞくっとしたが、それでも一歩、また一歩と、声の方へと近づいて行ったそうな。
 ところが、気のせいか歌声の主もだんだんこっちへ近づいてくるかのようじゃ。ためしに二人は、その場に立ち止ってみた。と、歌声の主も立ち止まる。そこで二人は、反対に一歩、また一歩と後ろに下がってみた。すると相手はこちらへ向かってやってくる。こうなると、もう声の正体なんぞ、どうでもよくなってきた。二人は恐ろしゅうて恐ろしゅうてならんようになってな、わあっと大声を上げると夢中で駆け出したそうじゃ。
 気が付いたときは、石神様の境内に転がり込んでおった。二人はがたがたふるえながら、「石神様、どうぞお助けを」と、一心不乱に祈り続けたと。するとやがてどこからともなく、ペタッペタッという足音が聞こえてくると、境内の前でぴたりと止まった。と、その時のこと、いきなり、「しもたあ。人間二匹も喰い損ねたあ。」という地面を揺るがすような大声がしたかと思うと、あたりは急に静かになってしもうたと。こうして二人は危うく命拾いをしたそうじゃが、それ以来、石神様は、魔よけの神様じゃと言われてのう、町の人たちは、大いに信心したという。
 
 
       
 
石神さま
 愛媛県吉田町の西、犬尾山の中腹にある石神さまは、魔よけの神様として親しまれており、それにはこんな謂れがある。
 ある時、吉田の町に奇妙な噂が立った。それは、廃寺になった川平の山寺に、夜になるとたいそう美しい娘が現れ、その姿を見たものは病気で死んでしまったりするというのだ。そんなわけで、この山寺に近寄るものは誰もいなかった。
 ところが、どこにも物好きというのはいるもので、この噂を聞いた二人の男が、酒と食べ物をもって山寺へ向かった。二人は、たき火で鍋を温め、酒を飲みながら夜が来るのを待った。そして夜も更けた頃であった。墓場の方から人魂が飛んできたかと思うと、噂のとおり美しい女が二人の前に現れたのだ。二人は恐ろしかったが、どうにか平静を装い、女に酒を勧めた。ところが、女は人間の肉が食いたいと言う。これを聞いて二人は震え上がった。そして、一人の男が女をふと見ると、何と女の姿は骸骨に変っている。これを見た男は、恐ろしさのあまり気を失ってしまう。もう一人の男は、女から逃げるべく無我夢中で山道を走ったが、男の後ろからは、女と無数の人魂が追ってくる。男はとうとう崖から滑り落ち、石神さまの境内に転がり込んだ。しかし人魂と女は、なおも男に迫ってくる。男は「命がありますように」と手を合わせて祈った。
 するとその時、境内から小さな男の子が現れ、棒きれで人魂を山寺に投げ返し、女に山寺へ戻るよう命令した。この男の子に気押されしたのか、女の幽霊は姿を消したそして男の子は、山寺を修繕して亡者を供養するよう男に言い残すと、拝殿の中に消えて行った。
 後に村の衆が川平の山寺を修繕して、墓の手入れをすると、あの美しい女の幽霊も出なくなった。そしてそれからというもの、石神様の祭りの晩には、肥松に灯をともし、「なんまいだー、なんまいだ―,コケても命があるように」と言いながら、子どもたちが田んぼや山を練り歩くのが習わしとなった。
 
 
       
 高松市  4 食わずのナシ   
     その昔、讃岐の国には、弘法大師さんいうて、それは偉い坊さんがおったんや。大師さんは修業のため日本国中を旅しとったそうなが、あるときたまたま、屋島の山を登りよったんやと。細い山道、草をかき分けかき分け登りよったら、たいそうえろうてのども乾いてくるわいな、どこぞ近くに清水でもわいとらんものかと、大師さんは、あたりをきょろきょろ見回してみた。するとのう、向こうの方に、ナシの木が一本立っとって、まあ、うまそうな実がたんとなっとるんやと。ちょうどええ具合に、木のそばにはおばあさんがたっとる。大師さんは思わず、ごくりとつばを飲み込むとの、もう我慢でけんようになって、ナシの木の方に近づいて行ったんやと。そうしておばあさんにむこうて、「もしもし、のどが渇いてたまらんけに、どうかその梨を一つ分けてはもらえまいかのう」いうて頼んだんやと。ほしたところが、そのおばあさんはの、大師さんをちらっと見て、いとも冷たげな風に、「こなにうまげななしじゃけど、ほんとはかたうてくわれんけにのう。」というんじゃと。それで、どんなに大師さんが頼んでみたところで、頑としてくわれんなしじゃの一点張り、大師さんは、それはそれは残念がってのう、じっとおばあさんの方を見ると、何やらごにょごにょ口の中で文句を唱えながら、どこぞへいってしもうたそうや。ところがまあ、どうしたことぞのう、大師さんがおらんようになってしまうと、今の今までみずみずしかった梨の実が急にかとうなってきてのひとつ残らず喰われんようになってしもうたんやと。次の年もその次の年も、その木になるのは喰われん梨ばっかりいつしかその梨の木は、食わずのなしと名がついてのう、今でも屋島にのこっとるという話や。