山梨県の昔話

都留市    姥捨て山  
      全国的にある民話で、郡内では忍野村、秋山村、都留市鹿留などにも伝わる民話である。ここでは鹿留の奥村、沖というところの民話を紹介しよう。
 昔、この村ではどんな丈夫な年寄りでも五十歳になると、山へ捨てに行かねばならないという村の厳しい掟があった。
 長い習慣でそういうものだと思い込んでいた村人たちは、従順に掟に従っていた。五十になると、あたかも嫁や婿にやる時のように祝いの膳をもうけ、翌日は十日位の食べ物を持って山へ捨てに行くのであった。
 孝行息子がいた。息子は病に犯された自分を寝ずに看病したり、飢饉が続いて食べ物が欠乏しても自分の食をへらしてわが身を守ってくれた母親を、いくら掟だからと言って姨捨山に捨てねばならぬなどということはとてもできることではなかった。だが掟は掟である。掟に逆らえば村八分にされる。止むなく断腸の思いで母親を岩穴に置き帰って来たものの、五日に一度は密かに村人にかくれて食べ物を運び世間話をしては戻っていた。
 母親はあたりに生えている葦でむしろをあみ、床にしいたり蒲団としてかけて寒さをしのいでいた。息子はあるとき代官から「灰であんだ縄を持って参れ。曲がりくねった筒口に糸を通せ。元と先のわからぬ棒の見分けをせよ。」という難問を出されたが誰も答えられぬという話をした。母親は、そんなことはわけはないと、塩水をひたして縄を焼き形を残す法、蟻を使って糸を通す法、ゆるい流れ水を使って元を調べる方法を教えた。
 息子は早速その方法を郡司へ行って伝えると郡司から国司へとり継がれ、間もなく国司からお使いが来て目どうりが許され、どうしてこの方法を考えたかと問われた。
 息子は一部始終を語った。すると国司は、わが領地に年老いた者を捨てるような風習があったことを知ってひどく驚き、貧村なるが故にそのような習慣があるのだろうと判断し、租庸調を大幅に減じることを約束した上で、難題を解いただけでなく実際に葦で寒さをしのいだ年寄りの知恵を讃え、貧村の生活の知恵として生まれた掟ではあろうがかような習慣は直ちに破ることを命じ以後年寄りを大切にするようにと命令したのである。
 沖の山には今でも葦を採ってはいけないとされる禁忌の地があって、葦を刈ることは捨てられた死者の寒さしのぎのむしろや雨露よけの箕のを奪うことになると伝えている。
 




       
 富士吉田市北麓各町村 2   富士の修験開祖  
     千三百年も昔の話、大和国葛城郡に生まれた役小角は、天来の才に恵まれ、幼児から諸事を学び、博識であったばかりでなく、鋭い感性があった。
 山が大好きで、山を友として育ったが、自ら山にこもって修練し、修験者になろうと決心して、葛城山で三十余年の修行をした。木の葉や木の実を食し、フジの皮で織った布を着物とし、孔雀明王法の呪術という不思議な術を体得し、仙人のように鬼を手下に、雲に乗って飛行するまでになった。しかし、衆生の防災除厄を願っての呪法を体得したばかりに、この不思議な術を使って葛城山を神出鬼没と跋□する小角に、かえって異様な恐れを抱いた里人は、悪魔の宿った人物として役人に訴えたために、捕らえられて伊豆国大島へと流された。途中葛城山よりは、はるかに高くはるかに美しくはるかに気高く神々しい富士山をはじめて見た小角は、偉大さ荘厳さにすっかり心を奪われてしまった。富士山のとりこになった小角は、孔雀明王の呪法で島をぬけ富士山へ登った。山頂からの眺望は、一層小角を感動させた。雲さえも従え霊気あふれる山は、まさに神の山であった。それから、小角の富士日参が始まった。
 このことを知った役人は、「化物だ、殺さねばならぬ。」と小角を捕え、がんじがらめに縛り上げ、処刑をすべく刀を小角の目の前に突き出した。が、こともなげに小角はその刀をぺろりとなめて、「その刀で私が切れるか、刀を改めてみよ。」といった。役人が改めると、「富士山」と書かれていたのでさらに驚き、「異様な術者、殺して災いでもあったら大変、」と、ことの次第を朝廷に報告すると、神の使いかも知れないと島流しが許された。このことがあって、小角はますます富士山の僕となることを心に決め、十二ヶ岳に登って岩場に座し、日夜富士を遥拝して修験の行を重ねた。
 富士山の神の子となろうとする行者の修行は何年も続いた。ある夜、月光さえもいてつく厳寒のさ中、祈りを終わって眠りにつくと、富士の女神木花開耶姫が現れて、「小角よ、お前は神の子なり。」と告げたので、はっと目が覚めて、神の姿を探したが既に消え、背にした松の木に「富士山」の文字が刻まれていた。
 木花開耶姫のお告げにより小角は自分の願いがかない、富士山の霊力を身につけた修験者の力を授かったことを知った。旱に小角が祈ればたちまち雨を降らせ、病に苦しむ人に祈祷をすれば病人はたちまち治った。村人たちも、「行者様は神様のお使いである。」と、修験道開祖となった役小角を敬うようになった。やがて富士山は、日本一の山岳信仰の山となった。
 
       
 大月市
上の原町
 3 桃太郎   
      むかし、鶴島村(上野原町)に正直で働き者の仲のよい夫婦がいた。夫婦は、あとを継ぐ子供に恵まれないまま、いつしか老人になり、毎日、子供を授けてほしいと、神様に願をかけるようになっていた。
 そんなあるとき、台風があって大洪水となり、岩殿山(大月市)の東にある百蔵山が崩れ、ふもとの家が人や馬もろとも押し流されてしまった。
 ところが、そんな中でたった一人、まだ赤ん坊だがまるまると太った男の子が、とっさに詰められたのだろうか、流れついた長持ちの中で傷一つなく、子供がほしいと願をかけていた鶴島(上野原町)の老夫婦に拾われたのである。
 老夫婦は、神様からの授かりものと、大へん喜び、百蔵山にちなんで、「桃太郎」と名をつけ、「丈夫な子になれ、大きな子になれ」と、いつくしみはぐくんだ。
 そのころ岩殿山には、鬼がすんでいた。鬼は付近の村々を襲っては、食べ物を強奪し女子供をさらい、鬼の分際で何に使うのか金銀財宝までも略奪して人々を困らせていた。
 親の願い通りに、強く、たくましく、大きく育った桃太郎には、「鬼もかなうまい」という評判が立って、被害に苦しむ村人が、鬼退治を頼みとするようになった。
 桃太郎は、「自分の力が役に立つならば」と、快く引き受け、軍刀利神社に先勝祈願をし、桃太郎鬼退治と書かれたのぼりをいただいて、鬼退治の征途についた。
 犬目へくると、扇山の山犬が出迎え、お供を願い出た。しばらくして鳥沢へくると、キジが出迎え「一緒に連れていってくれ」という。さらに進んで猿橋までくると、橋の主である猿が出迎え、「鬼退治をさせてくれ」という。聞いてみると、みんな、「鬼に石を投げられたりして、親や仲間を失ったり、ひどい目にあっているので、仇を討ちたいのだ。」という。
 犬、猿、キジの強力な家来を得た桃太郎は、猿が鬼の顔をひっかき、山犬がすねにくらいつき、キジが目を突く間に鬼の金棒を奪い、たたきつけるという計画を立て、その通りに戦い、見事にやっつけて、あたり一帯を平和なのどかな里にしたのであった。
 
       
       


参考文献 
 郡内の民話 なまよみ出版