木曽の御嶽山
番号 | 地図 |
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王滝口霊場 | 黒沢口霊場 | ||||
1 | 御嶽神社別殿 室町時代からの社家であり御嶽山の祭祀を司る滝神主家の奥まった一角に御嶽大神を祀る神殿が設けられている。 |
1 | 御嶽神社別殿 木曽伊予守義信が鎌倉時代の徳治二年(1307)に信州諏訪大社から武井宮内少輔重治を招いてより連綿と続く黒沢御嶽神社社家の敷地内の祈祷殿・神楽殿である。 武田勝頼の礼状、木曽義昌が奉納した三十六歌仙画額、覚明行者の鉄杖などが保管されている。 |
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覚明行者の鉄杖 | |||||
一合目 | 一合目 | ||||
里宮社務所 | 霊碑園 | ||||
2 | 里宮 滝社家の「当社記録」によると文明十六(1484)年に現在の地に岩と五社と小社を再興したものであり御嶽蔵王権現三十八座の一座で岩戸権現と呼ばれた。 神仏分離令後に御嶽神社と呼ぶようになり御嶽大神の三神の国常立命、大己貴命、少彦名命を祀っている。 |
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2 | 覚明霊神大石碑 神聖な山として崇敬されていた御嶽山は江戸時代後期に至るまで七十五日間あるいは百日間の精進潔斎をした道者だけが登拝を許されていた。 天明五年(1785)に尾張の覚明行者(1718〜1786)は無許可の状態で多くの信徒を連れて黒沢口から登拝市一般信者が水行の軽精進だけで登拝できるように解放した。 地元住民の協力を得て登山道の改修も実施した。 嘉永三年(1850)七月覚明に対し上野東叡山日光御門主より菩薩の称号が授与された。 覚明行者は中興開祖と尊称されその遺徳を偲ぶ百五十年祭の時に黒沢口一合目の道標があり御嶽山を遥拝する台地に大石碑が建立された。 石碑の前には岐阜の敬神大教会が寄進した石の大鳥居がある。 かたわらの御社では地元民により五月三日に例祭が斎行される。 |
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岩戸十二社 | 御祓殿 | ||||
3 | 講祖本社 普寛行者による王滝口登山道の開闢によって地元王滝村は経済的にも大きな恩恵を受けてきた。 普寛行者没後その遺徳を称えるために、地元の人々によって普寛堂が建立された。 明治二十六年(1893)に開山百年を記念して松越山中から現在地に移転再建され傍らに「普寛霊神百年祭之碑」と刻まれた巨大な記念塔も建立された。 その後大正九年(1920)に一心行者百年祭、昭和二十九(1954)年に一山行者百年祭が行われそれぞれ巨大な石碑が建立され三霊神を祀る講祖本社と称した。 現在の社殿は開山二百年を記念して平成八年に新築された。 社殿の中央奥に王滝口開闢普寛行者の生前に造られたという木造座像を安置しその前に新たに中興開祖覚明行者と普寛行者及び普寛行者の法統を継ぎ御嶽講の発展に大功のあった一心行者と一山行者の銅像が祀られている。 普寛行者の命日にあたる九月十日が祭日になっている。 |
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3 | 里社若宮祖霊殿 里社若宮は、武運長久に霊験あらたかであるとされ木曽義仲の子孫である木曽氏一族の守護神として崇敬を受けた神社であり御嶽蔵王権現三十八座の一座である。 室町時代の至徳二年(1385)に木曽伊予守家信が再興した時の棟札と鰐口が現存している。 明治十年(1877)に関東巴講の寄進により現存の社殿が造営された。 古くは安気大菩薩を祀っていたが明治の神仏分離令後は大己貴命を祭神としている。 |
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若宮拝殿の絵馬 | |||||
木曽御嶽本教 総本庁 |
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4 | 一心堂 一心行者(1771〜1821)を祀る霊場である。 一心堂のある二合目には王滝口から御嶽山を正面に遥拝する一の鳥居と「講祖一心霊神」の巨大な石碑が建っている。 一心行者は普寛行者の最後の弟子で本明院二代目を継いだ。 弟子の盛心行者等により弘化四年(1847)に埼玉県深谷市国済寺の並木一心霊場に祀られた。 |
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4 | 里社本社 百九段の石段を登った所に社殿がある。 室町時代の天文二十三年(1554年)に木曽左馬頭義康が再興した時の棟札と鰐口が保管されている。 現存の社殿は明治7年(1874)に関東巴講の寄進により造営された。 石段前の石の大鳥居は文久二年(1862年)に尾張十五代藩主徳川茂徳が寄進したものである。 この神社は御嶽権現の本社として格付けされ里社本社と若宮は木曽惣社と称された。 古くは八幡大菩薩を祀っていたが明治の神仏分離令後は少彦名命を祭神としている。 |
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二合目 | 二合目 | ||||
御嶽山史料館 | |||||
千羽鶴絵馬 | |||||
5 | 大又三社 普寛行者が開設した御嶽山一の行場 御嶽山の頂上をはじめ各霊場に参詣できない信者のために江戸深川の講社が葦原山に御嶽三大神の御嶽山蔵王権現(国常立尊]八海山提頭羅親王(国狭槌尊]、三笠山刀利天宮(豊斟淳尊)を奉祀したもので急峻な斜面の杉の木立の中に造られた三百三十八段のの石段を登った所に三神像が鎮座している。 その後いくつかの講社によって諏訪大神、磐長媛命、不動明王、摩利支天、覚明行者、普寛行者が奉祀された。 |
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5 | 開山堂 御嶽黒沢口を開山した覚明行者の遺骨を分骨して祀った堂である。覚明行者の手形を掘った石がある。 江戸時代に木曽を統治していた山村代官が御嶽山に参拝するときは開山堂で参籠した。明治時代までは先達もここで参籠したようである。 堂をお守りしている山本家には山村代官が奉納した御嶽大権現の一軸や宝刀などの品々にくわえて覚明行者の姿図の掛け軸、猿田彦の掛け軸、御嶽信仰に関する古文書や円空作の観音座像などが保管されている。 |
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覚明行者の手形 | |||||
三合目 | 三合目 | ||||
筒井教会 | |||||
6 | 水行場清滝新滝 | 6 | かんまん滝 落差10m 木曽御嶽本教天昇殿の脇から入ると「憾まん滝行場入口」の石碑がある。 渓流沿いの木立の中を進み白籠橋を渡って階段を上るとかんまん滝行場小屋がある。 小屋の脇から渓流沿いにさらに進むと右手に続く岸壁に窟祠があり不動明王の小像が祀られている。 すぐ目前に二筋の滝がある。 長らく閉鎖されていたが昭和三十八年夏に善覚行者によって再開された。 行者小屋の裏山には霊神場、御庇護堂、刀利天、摩利支天、役行者などが祀られ奥の院のある一周十分程度の霊場となっている。 |
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ヌ | 清滝 古くは道者が七十五日間あるいは百日間籠って精進潔斎する行場であった。 普寛行者の開山後に水行の軽精進で登拝ができるようになってからは、登拝前の水行場として利用されるようになった。 高さ三十メートル 清滝不動明王と弁財天が祀られている。 |
王滝村大又 高さ30メートル |
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ル | 新滝 滝の裏側の大きな洞窟に新滝不動明王、八大龍王像が祀られている。 ここから滝を見ることができるので裏見滝とも呼ばれる。 |
王滝村大又 落差30メートル 真裏からも見ることができ「裏見滝」とも呼ばれる。 |
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途中の霊神碑 | |
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7 | 普寛堂 花戸(鼻戸)にある普寛行者の墓所である。 普寛行者の四大弟子の一人である吉神行者(小谷吉右衛門)の子孫が現在も堂を守っている。 普寛行者(1731〜1801)は三峰山観音院で修験道の奥義を窮め本明院と号した。 「庶民の為に病厄を祓除する」と修業を重ね救世済民のために諸国周歴の旅に出た。 寛政四年(1792)から三年かけて王滝口を開闢した後江戸を中心に関東一帯に広く御嶽信仰を押し広めた。 遺言により御嶽山麓花戸、郷里の秩父大滝村(現御嶽普寛神社)、入寂の地本庄宿(現普寛霊場)、江戸法性院墓地の四箇所に分骨埋葬された。 辞世の句で 「なきがらはいくつの里に埋むとも心御嶽に有明の月」と詠まれた。 これが死後霊魂が御嶽山に還るという御嶽信仰のもとになった。 嘉永元年(1848)の五十年忌に江戸の高砂講社により「開闢木食普寛行者」と刻まれた供養塔が建立された。 |
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F | 大祓滝 落差四m 弘法大師が護摩を焚いたとか革命行者が一〇〇日間の精進潔斎をしたと言い伝えられてきた場所に東京日本橋魚河岸の浦兼吉氏が明治四十五年から大正十四年までの長期にわたり莫大な費用をかけて岩肌を掘削し完成に至った滝である。 |
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御嶽教暦代 官長殿霊場 |
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四合目 | 四合目 | ||||
8 | 十ニ権現 この付近は古くは木曽馬の採草地であり、木曽馬の守護神とも養蚕の守護神ともされていたが江戸時代後期に普寛行者が富士山の神木花咲耶姫命を習合して祀ったとも伝えられている。 子授け、安産、子育てに御利益があるとされる。 |
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G | 松尾滝 落差6m 江戸時代末の文久年間(1861年頃)に上田松尾講の開作行者が松尾講の丸山平八郎(広徳霊神)の援助のもとに開いた滝である。 摩利支天が祀られその奥に滝がある。 開作霊神碑には 「御嶽なる神のめぐみやいろかえぬ松尾の滝と開きそめけむ」 「身のけがれこころのあかを洗ふへしこの滝瀬の清きながれに」 と和歌二首が刻まれている。 |
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神王殿 | |||||
五合目 | 五合目 | ||||
9 | 八海山神社 御嶽三座神の一つ八海山提頭羅親王を祭神としている。 普寛行者は弟子の泰賢行者(1767〜1804)と越後国八海山を開闢したがその八海山の提頭羅親王(国狭槌尊)を勧請し御嶽山黒石原に祀ったことに由来する。 以後この地を八海山と呼ぶようになった。 提頭羅親王は大般若経六百巻を守護する十六善神の筆頭である。 国狭槌尊は水の徳を表すといわれている。 眼病平癒の御利益があると言われる。 脇には八大龍王、愛染明王、および摩利支天が祀られている。 |
H | 八海山 覚明行者が越後の八海山と上州の三笠山の神さまを勧請し祀るようになってから御嶽山蔵王権現を中心に左右にニシンを配した御嶽三座神が定着するにつれ黒沢口登山道の5合目にも八海山提頭羅神王(国狭槌尊)が勧請され祀られた。眼病平癒の御神徳があるとされる。 昭和二十五年登拝していた服部八壽行者に降臨した八海山大神の命により御神像を祀ることとなった。 |
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ヲ | 御嶽スキー場 | イ | 千本松 | ||
六合目 | |||||
10 | 三笠山神社 御嶽山の前山で遠くから覆笠のように見えることから三笠山と称された。 普寛行者は三笠山刀利天宮(豊斟淳尊)を勧請した。 刀利天は火と竃の神として信仰される三宝大荒神と同体とも帝釈天と同体ともいわれている。 豊斟淳尊は火の徳を表すとされる。 鬱蒼とした樹林の中に半僧坊薩、三宝大荒神、長崎社、神変大菩薩、青龍大権現、秋葉大権現、阿留摩耶天、妙見大菩薩など数多くの神仏像がたたずむ。 頂上には三笠山大神の社をはじめとして幾つもの社殿が立ち並んでいる。 その傍らには熊笹に囲まれた三宝荒神池と呼ばれる小さな火口湖がある。 この三笠山からがいよいよ本山(ほんやま)といわれている。 |
10 | 三笠山 千本末の少し上の所から旧道を登っていくと三笠山刀利天宮社があり御嶽三座神の一柱である三笠山刀利天宮が鎮座している。 開山は昭和元年頃。 金峰山出生元祖教会講祖大河闍梨金剛院榮昌法印が衆生救済の苦行の末上州三笠山の刀利天宮(豊斟淳尊)の御降臨を拝しその命により村の人たちの協力を得て山道を整備し、寄進により社堂を建立し、三笠山刀利天宮を勧請したのが開山の始まりである。 三笠山刀利天宮は天神七代の一人であり、諸天の化現神でもある。 社堂内には刀利天像をはじめ大和金峰山蔵王大権現、白川大神、中央不動尊、明治天皇像が合祀されている。 刀利天宮の御神示により登拝すれば御山頂上と同じ功徳がありまた足の病の治癒に御利益があるといわれている。 |
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田の原社務所 | |||||
七合目 | |||||
ワ | 田の原 天然公園 |
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11 | 田の原大黒天 御嶽山を正面に見る田之原天然公園入口の鳥居をくぐり登山道を進んだ右手に大国主命を祭神とする田之原大黒天が鎮座している。 商売繁盛開運の神徳がある。 |
11 | 白川大神 御嶽山の縁起に係る京都の公家白川宿衛少将重頼をお祀りする御嶽山蔵王権現三十八座の一座である。 白川少将の子息阿古多丸は継母の冷たい仕打ちにあったことから旅に出たものの木曽山中で病にかかって命を落としその亡骸を訪ねあてた姉姫と少将も自害をするという悲しい伝説が伝えられている。 阿古多丸の忌日とされる六月十三日が黒沢口御嶽神社の例祭日となっている。 御嶽山の外輪山の継母岳継子岳はこの伝説に由来する名称である。 |
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遙拝所社務所 | 中の湯 | ||||
六合目 | |||||
12 | 大江権現 大江権現は御嶽山蔵王権現三十八座の一座であって万物生成の力を持ち大地の母神である伊弉冉尊を祭神とする。 かつて御嶽山は女人禁制であった。 軽精進登山が許されたのちも大江権現が女性の結界とされ女性はそこから上に登ることが許されなかった。 女性が頂上へ登れるようになったのは明治十年代以後のことである。 子授かりと縁結びに御利益がありお礼で奉納されている幣束から男の場合は金の幣束女の場合は銀の幣束を持ち帰り成就したら同じ幣束を作って奉納するという慣わしがある。 |
12 | 覚明行場 覚明行者が改修した登山道付近に、行者が水垢離をとったとされる行場跡があり、明治年間に建てられた記念碑がある。 伝承によれば覚明行者は御嶽山麓の小坂村・王滝村・三岳村・開田村などを回り米・麦の作り方、薬草の利用法などを教授し荒れ地を開拓し、教化活動によって信仰を説き、病人の加持祈祷などをして信者、協力者を増やしたという。 |
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あかっぱげ | 行場小屋 | ||||
八合目 | 七合目 | ||||
13 | 金剛童子 金剛童子は御嶽蔵王権現三十八座の一座で伊弉諾命を祭神とする。 周囲には蔵王権現、意波羅天、摩利支天、日之権現、弘法大師、指徳大神が祀られている。 これより上を「山中」と言って御嶽山の神々が鎮座する特別な場所と神聖視された。 登拝する者は新しい草鞋に履き替え服装を整えたとされここを下馬という。 これより上では用便は紙の上でしなければいけないという禁制があった。 |
L | 百間滝 落差40m 百闡黷経由する道は覚明行者が開いたと伝えられ百闡齠ケの方丈の滝付近には覚明行者の事業に協力した庄屋と村民などが開道を記念するために建立した石燈籠が残されている。 |
木曽町三岳 |
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九合目 | 八合目 | ||||
富士見 | ロ | 女人堂 | |
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一口水 | |||||
14 | 中央不動 一口水を過ぎた最上部が中央不動で中央大日大聖不動明王が鎮座している。 不動明王は御嶽蔵王権現三十八座の日之権現に祀られていた大日如来の化身で憤怒の姿をしている。 |
14 | 金剛童子 金剛童子は御嶽山蔵王権現三十八座の一座で伊弉諾諾尊を祭神とする。 金剛童子の大石を現世と黄泉との境としこれより上を特別の霊場として神聖視していた。 この地を下馬と呼び、登山の道者はここで草鞋を履きかえたので草鞋の山ができたという。 これより上では用便は紙の上でしなければいけないという禁制があった。 明治初年頃までここから上を女人禁制とした。 |
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ハ | 石室小屋 | ||||
九合目 | |||||
15 | 奥の院 江戸時代の後期(1840年頃)に王滝頂上の奥の院として創建された。 三柱神(天照皇大神、春日大神、八幡大神)が奉祀されている 祭神は梵天(高御産霊神)帝釈天(神御産霊神)との説もある。 黒沢口開山堂の伝承によると、剣ヶ峰の北西にある山は連なった山々の間の小岳なので間間小岳と呼ばれていたのが継子岳となったという。この山の開祖は一心行者でここから遥拝できる北陸の霊山の白山から伊邪那岐尊、伊弉冉尊の二神を勧請し奉祀した。 この伝承による山は位置的に現在の継母岳のことである。 |
15 | 覚明堂 覚明行者は御嶽山を開山した翌年の天明六年(1786)に御嶽山頂上付近の二の池で入定したがミイラ化した遺骸が信者たちによって九合目赤岩の岩陰に葬られたとされる。 ここを覚明堂と称するようになった。 傍らに諸国を巡回布教し御嶽信仰の普及に大功のあった覚明講祖義具霊神(1809〜1885)の銅像がある。 |
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カ | 継母岳 2868m |
覚明小屋 | |||
ヨ | 日の門 | ||||
タ | 王滝頂上 山荘 |
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16 | 王滝口頂上本社 江戸後期まで朝日嶽(王滝頂上)は御来光を拝し遥か遠く伊勢神宮を遥拝する場所として日之権現と称し御嶽山蔵王権現三十八座の中で少彦名命を主神として六座が習合され祀られていた。 天保三年(1832)に王滝口頂上として奥宮が創建され国常立命、少彦名命を祭神とした。後に大巳貴命を合祀し御嶽大神と称して奉斎するようになった。 創建以降に二回の再建を経て昭和十年に現在の社殿が改築された。 昭和五十四年の御嶽山噴火昭和五十九年の長野県西部地震と度重なる災害を受けたが、平成十三年に全国の信者の寄進によって社殿と境内の修復整備が行われた。 |
16 | ニ之池覚明入定之地 二の池は頂上付近にある五火口湖の一つで水のある火口湖としては日本最高所(2905m)にあり湖畔には真夏でも解けない万年雪雪渓がある。 覚明行者は黒沢口登山道を開山した翌年の天明六年(1786)に二の池付近で立ち往生して入定された。 その遺徳を偲び石像が祀られている。 五行思想に基づく赤色赤帝龍王大権現が祀られている。 明治二八年に発行された御嶽経纂要に記載されている五つの池に祀られている龍神は五行思想の発生順と五つの池の方位により定められている。 乃ち『太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北(四の池)に移動して水行(黒龍)を生じ、次いで陽の中で特に熱い部分が南(二の池)へ移動して火行(赤龍)を生じた。 さらに残った陽気は東(三の池)に移動して風となって散って木行(青龍)を生じ残った陽気が西(一の池)に移動して金行(白龍)を生じた。そして四方の各行から余った気が中央(五の池)に集まって土行(黄龍)を生じた」 |
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リ | ニ之池万年雪 海抜2905mの位置にある日本最高所の高山湖形は楕円形で長径はおよそ400m短径は約200m水深は3,5m |
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ニ之池小屋 | |||||
P | 三之池 麻利支天 三の池 三の池は頂上付近にある五火口湖の一つで水深が最も深い。 五行思想に基づく青色青帝龍王大権現が祀られている。 三の池の水を行者や信者は「御水」または「御神水」と神聖視し竹筒に詰めたり「切符(きりふ)」といって和紙に水を浸して家に持ち帰り病人に飲ませたものである。 摩利支天 摩利支天岳には御嶽山蔵王権現三十八座の一座の士祖権現が祀られ領主木曽氏の厚い信仰を受けた。 後に武将の守護神として信仰を集めていた摩利支天を勧請し合わせて祀るようになった。 摩利支天は御嶽行者の行法中、重要な位置をしめる九字法の本尊として重要視されている。 |
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チ | 麻利支天岳2959m | ||||
白龍小屋から見る 三之池 海抜2720m水深13,3m日本の最深高山湖として知られる。 |
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Q | 四之池 五之池 四の池のある火口の長径は約800mの湿原で幾筋かの小川が流れ這松と高山植物が咲き乱れる花畑となっている。 五行思想に基づく黒色黒帝龍王大権現が祀られている。 五の池は飛騨口頂上の真下にあり、御嶽山の五つの池の中で最も小さく水深の浅い池であるが常時水をたたえている。 五行思想に基づく黄色黄帝龍王大権現が祀られている。 新井清が1959年に著した「御嶽とその周辺」によると五の池小屋は明治元年(1867)の神仏分離令までは御嶽山寺を兼ねて仏を祀っていたという。 |
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麻利支天より見下ろす五の池 | |||||
ト | 飛騨頂上 | ||||
ニ | 五之池小屋 | ||||
19 | 高天原(継子岳) 御嶽山の北端の継子岳は御嶽山縁起の阿古多丸伝説に因んで命名されたと言われる。 継子岳には阿留摩耶天を祀っている。 黒沢口開山堂の伝承によると御嶽山に登拝する人々をあらゆる悪魔から守護するために覚明行者が悪魔を封じ込め、山嶺に六大天を勧請した山を魔が廃岳(まがはいだけ)と呼んでいたのが継母岳になったという。 六大天は東西南北上下の六方位の守護神でありそれぞれの名称は東方持国天、南方増長天、西方広目天、北方多聞天、上方梵天、下方地天である。 |
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ホ | 継子岳2859m | ||||
S | 賽之河原 二の池と摩利支天岳の間に広がる火口原である。 此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる三途川の河原を賽の河原と呼ぶ。 親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場所であるという。 子供たちは親の供養のために拾った小石を積み重ねて塔を作るが、完成する前に鬼が来て塔を破壊してしまう。壊されても壊されても塔を築いた子供たちは、最終的に地蔵菩薩によって救済されるといわれている。 |
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21 | 三十六童子 一の池は頂上付近の火口湖の中で最も高所(2980m)にあるが、今は北東部の壁が欠けて二の池へ流れ水は溜まっていない。 五行思想に基づく白色白帝龍王大権現が祀られている。 普寛行者の系譜を引く尾張熱田の宮丸講祖儀覚行者(1769〜1841)が江戸の講社の助力を受けて一の池火口壁に成田山の三十六童子を勧請した。 |
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ヘ | 頂上山荘 | ||||
22 | 頂上奥社 奈良時代の宝亀五年(774)に国内に疫病が流行ったときに勅命により信濃の国の国司石川朝臣望足がこれを鎮めるために御嶽山の頂上に社殿を造営し医薬の祖神の大巳貴命と少彦名命の二神を祀ったといわれている。 大和金峰山の蔵王権現を剣ヶ峰頂上に勧請し王御嶽蔵王権現と称した。 室町時代の天正四年(1507)の奥書のある古祭文によると御嶽蔵王権現三十八座の首座として王権現と称し大巳貴命を主神として四座を習合して祀った。 江戸末期から本格的な社殿の造営が行われるようになり三十年に一度を式年と定め社殿の建て替えが続けられている。 現在の社殿は昭和六十二年(1987)に建立された。 天保五年(1834)に太元講社が御嶽蔵王大権現の銅像を建立してから頂上の岩場には幾多の神仏像、石碑が奉祀されるようになった。 現存する御嶽蔵王権現の石像は安政三年(1856)に再建されたものである。 |
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レ | 剣ヶ峰頂上 3067m |
頂上近辺地図 |