塩尻市旧楢川村および他地区の昔話

 


1   マリア地蔵  
   木曽十一宿の一つ、奈良井宿は、中山道随一の難所といわれた鳥居峠をひかえ、また伊那への道、権兵衛峠にも通じていたことから、「奈良井千軒」といわれるほどにぎわっていた。
 この宿場の中ほどに大宝寺があり、その墓地内に昭和七年掘り出されたという「マリア地蔵尊」が置かれている。
 頭部も膝も、抱かれた子供も破壊されているが、わずか胸に十字架を残すことから、これはあきらかに子育て地蔵に擬し、密かに刻まれた「マリア地蔵尊」ではないかといわれた。
 キリシタン禁制の江戸時代、旅人にまぎれたかくれ信者が、宿場の片隅にこの像を見て、いかばかり胸をつまらせたことであろう。
 かくれキリシタンの悲惨な歴史を伝える「マリア地蔵尊」。それが木曽谷であるだけに、そこに灯された信仰の火は、より深く谷底にゆらめいたのであろう。
 
     
2   子産の栃  
   鳥居峠に群生する栃の木の中でも、ひときわ大きく幹に空洞をつくった大樹を「子産の栃」といっている。
 なんでも昔、この洞に赤子が捨てられていたそうだ。
 泣き声を聞きつけた旅の夫婦は、やぶを分け大樹によると、その子を抱き上げ、これは御嶽山からの授かりものにちがいないと思った。
 鳥居峠は、木曽路第一の難所でもあったが、また御嶽山を遥拝できる峠でもあった。
 子供は幸せなことに、この峠で拾われたが、さっそく子供にあげる乳がほしい。そこで、洞のまわりで拾ってきた栃の実を、煎じて飲むと、女の乳房からはあふれるほどの乳が出てきたという。
 それからこの栃の木は、子宝に恵まれるとか、乳の出がよく出るようになるとかいわれるようになった。
 
     
 3  鳥呑爺  
    昔、お爺さんが山仕事にいって、弁当箱を木の枝にかけておいたら、鳥にみんな食べられてしまった。お爺さんは腹をたて、その鳥つかまえひと呑みにした。
 すると、へそから鳥の片足がでて、もそもそ動くものだから、お爺さんくすぐったくてたまらない。
 そこで、鳥の片足ひっぱってみると、
「ぴぴんぴよどり、ごよの宝みんな持ってこい。ぴぴんぴよどり」
と、腹の中から、鳥の鳴き声がきこえてきた。
 お爺さんおもしろくなって、仕事も忘れ鳥の片足ひっぱって、「ぴぴんぴよどり、ぴぴんぴよどり」と,鳴かしていた。
 ちょうど、そこへ通りかかったお殿様、
「なんじゃ、あの鳥の声は、早くつかまえてまいれ」
 家来はさっそく山に入り、お爺さんを連れてきた。
「なんだ老人ではないか。鳥はどうした。」
「それがその、鳥はこの爺の腹の中に」
「なに、腹の中じゃと」
 おどろくお殿様の目の前で、お爺さんへそから出ている鳥の足をひっぱって見せた。すると鳥は、すっとんきょうな声で、
「ぴぴんぴよどり、ごよの宝みんな持ってこい。ぴぴんぴよどり」
と、鳴いてみせた。
 殿様は、たいへん喜ばれ、たくさんのほうびをくれた。
 それを聞いた隣の爺さん、真似をしてやってみたら、へそからではない、お尻からうんこたれてしまった。
 おこったのはお殿様、刀をぬいて爺さんのお尻すぱんと切ってしまった。
 切られたお尻は、松の枝にひっかかり、そのうちくたくたっと落ちてきた。
 そんなこととは知らない隣の婆さん、いまに爺様ほうびをもらって来るかと、家の屋根に上がり待っていた。
 ところが、血だらけになったお尻おさえ、ひいひい泣きながら帰って来る爺様見て、婆さんびっくりぎょうてん、屋根からドチンと落ちてしまった。
 
     
 4  姑と嫁  
   昔、仲の悪い姑と嫁がいた。
 姑は、いやな仕事ばっかり嫁にいいつける。
 そこで嫁は、早く姑がいなくなればいいと、そんなことばっかり思い暮らしていた。
が、姑ときたら、てんてんとして、少しも弱いところを見せないばかりか、日に日に若返っていくように見えた。
 いたたまれなくなった嫁は、お寺に行って早くひきとってもらえるよう坊さんに頼んだ。
 坊さんはこころよく承知して、なにやら紙に包み、
「これを毎食の味噌汁にこっそり入れ姑さまに飲ますがよい、早死にの薬だでな」
と嫁に渡した。
 嫁は喜び、言われた通りにしてやると、姑は急ににこらとしだし、それからは人がかわったようにやさしくなった。
 嫁もまた思い直し、こんないい姑様早くいかれたら困ると、また坊さんに頼みに行った。
 すると坊さんは、カッカと笑い
「なに、あの薬はなあ鰹節の粉といってな、姑と嫁が仲良くなるための薬なのじゃよ」
と、言った。
 
     
 5  太田の清水  
   似た呼び名の清水に同じ伝説が残されている。
 それが、旧宗賀村新洗馬にある「邂逅の清水」と、旧洗馬村大田にある「太田の清水」だ。
 木曽義仲が、平家を討つべく挙兵したとき、それに呼応して今井を領していた義仲の重臣今井四郎兼平が、この地で義仲と邂逅。その時、兼平は義仲の馬をこの泉に曳いて行き、脚を洗い馬の疲労をいやしたという。
 洗馬の地名は、それからのものだといわれているが、平安時代の古文書にも洗馬の地名が残されている。
    木曾どのの
        馬あらふ里よ水清し

              「太田の清水」
 
     
 6  天照沢(あてらざわ)の天狗  
    むかし、奈良井の山奥、天照沢に天狗さまが住んどったそうな。この天狗さまはいつも山を見まわっては歩き、山のおきてを破る者がいると、きつい罰を加えたそうな。
 ある時、よそ者がこの山にはいってボヤをぬすんで行こうとしたことがあった。
「だあれも見ていない山ん中だ。少しばかり刈ったっていいら。」
 男が背板をおろし、厚がまを取り出しボヤを刈ろうとした時だ、さっと強い風が吹きぬけ、太い手が男のえり首をむんずとつかんだ。つかんだとみるや天狗はそのまま天高く飛び上がり、よほど高く上がった所で、こんどは谷底にむかってなげつけた。男はまるで流れ星のように尾を引いて落ちていき、こっぱみじんにとび散ってしまったそうな。
 やがて、山も谷もわれよとばかりの大きな声が響きわたった。
「村人ならばよいが、他村の者が山を荒らせばいつでもこうなるぞよ。」
と、こんなことがあってから、よそ者はこの山にはいらなくなったと。
 ところが、平吉という少しへそまがりの若者は、この話を聞くと、
「天狗がいるだと?だれかこの目で見たものがいるんかや、おらあこの目でたしかめるまでだまされんぞ。」
とうそぶいたおった。
「いやあ、彦じいは見たっちゅうぞ、ほんとうに流れ星のように落ちて、こっぱみじんになっちまったっちゅうぞ。」
「おらあも、天狗の声聞いたぞ、ちょうどその時山にいたもんでなあ。」
「気のせい、気のせい、そんなばかなことあってたまるか。」
 平吉はいっこうにとり合わなかった。
 やがて夏もさかりとなった。平吉は気のあう与平と連れ立って天照沢へ草刈りに出かけた。ほし草を作り、冬の馬のえさにするためだ。
 ふたりは背板をおろし、草を刈りはじめた。夏草のにおいがあたりをつつんでいく。ふたりはざくざくと刈ってはほし、ばさばさと干しては刈っていった。
 ひるめしを食べ、一ぷくすると、また平吉は話しはじめた。
「まんず天狗がいるなら行き会いたいもんだ。せっかく天照沢まで来たんだものなあ。」
「おらあも見たいもんだ。天狗ってどんな顔をしているずら。」
「やあい、天狗よう、いるんなら出て来いってんだ。出て来れめえ、くそ天狗めっ」
 平吉は、さんざあくたいをついた。
 夕方になると、ふたりは干し草を山のように積み重ねその中にもぐって寝ることにした。かぐわしい干し草のにおいと、一日の疲れでふたりがうとうとっとした時だ。
「どしーん、どしーん。」
 と遠くから響く地響きに目がさめた。
 ふたりは顔を見合わせ、耳を澄ませた。
「ボランララ、ボランララ。」
 妙な、笛の音も聞こえてくる。そっと干し草の間からのぞいて見ると、月の光に照らされて、身の丈九尺あまり(約三メートル)の大男がふたり連れ立ってこちらに近づいて来るではないか。
 息をこらしてなおも見ていると、
「ボォファーンララ、ボォファーンララ。」
と笛の音を響かせ、なおも近づき、干し草の前まで来るとぴたりと止まった。
 ふたりは、昼間の勢いはどこへやら、まるで生きた心地もせんで、ただ、がたがたふるえておった。
 大男はじっと干し草の中をうかがうと、
「平吉じゃな、天狗の夜回りじゃ。よう見ておくがいい。そして山のおきてはよう守ることじゃぞ。」
 と言って、顔を見合わせうなずき合った。
 平吉は、もうたまげてしまって返事もできんでいると、天狗たちは、もう一度平吉をようく見てむこうへ歩き出した。 
 こわいもの見たさに、ようく見れば、右手に金剛杖、左手にしょうの笛、頭には角ばったかぶりものをのせ、そでの広い白い着物を着た天狗さまであった。
 天狗たちはしばらく行くと立ち止まってふり返り、またうなずき合って、山奥へ去っていった。
 次の朝になると、平吉と与平はころがるように山をおりた。そしてゆうべ出合った天狗のことを身ぶりをまじえて村のしゅうに話した。
 村のしゅうは、ますますありがたく思い、天狗を山の神として大切にまつるようになった。
 それからも村人の中には天狗を見かけたり、山の中を歩くうちに天狗のはく、大わらじを見かけたものが、いたそうな。(楢川村、奈良井)
 
     
 7  へびと金  
    むかぁし、じいさまが山へしばかりに行ったと。ひと仕事すんだので、一ぷくせずと思って、どっかと腰をおろし、すぱぁ、すぱぁってたばこをすっておったと。
 すると足もとから、そり、そりとへびがはい出して来て、
「ああけむい、けむい。へびが一ばんこわいのはたばこのヤニだ。へびはヤニでとけてしまう。ところで人間の一ばんこわいものは何だ。」
と、聞いたと。
「そうさなあ、人間の一ばんこわいものは金だべ。人間は金で命をおとすこともあるし、金に目がくらんで殺されることもあるわさ。」
と、じいさまは答えたと。
そいじゃあひとつ人間をこまらしてやれと、へびは次の日のばん、じいさまの家の縁の下に千両箱を一つ、どさぁん、ざらざらと投げこんだと。
 じいさまあ、おったまげて、
「こらあたいへんだ。こんねに金持ちになったら、殺されるかもしれん。こまった。こまった。だども、みんなにくれちまえばいい。」
って、近所のしゅうに、金を全部くばってしまったと。
 近所のしゅうは大喜びで、
「いいじいさまだ。いいじいさまだ。」
と、みんなで大事にしてくれたと。
じいさまは、
「こらあおったまげた、金ってものもいいもんだ。みんながこんねに喜んでくれるんだから、こらあひとつ、へびにお礼をせんといかん。」
と、またのこのこ山へ出かけて行ったと。そうして、へびに出会うと、またどっかと腰をおろして、
「へびどん、金もまたいいもんだ。きょうはなあ、お礼に来たぞよ。」
ってたばこに火をつけると、すっぱ、すっぱすって、きせるをぱん、ぱんはたいたと。するとやにがとんでってへびにあたり、へびは、にょろ、にょろってとけてしまったと。
「こらあえらいことしちまった。気の毒しちまったわさ。」
 じいさまは、し方なく、山を下りて来ちまったと。それでも近所のしゅうから、大事にされ、大事にされてしあわせにくらしたと。めでたし、めでたし。(楢川村 楢川)
 
     
8   へひりじじい  
    むかあし、むかあし、あったと。木曽の山ん中にじいさまとばあさまが住んどったと。
 ある日じいさまは山畑へ仕事に行った。やがておひるになったもんで、ばあさまが作ってくれたかいもち(そば粉を湯でねってもちにしたもの)を食って残りを木の枝につけたまま、また仕事をしとった。
 すると一羽のヤマガラが飛んで来て、かいもちに引っついて、ぱたぱたしよった。
 じいさまはヤマガラをとっつかまえ、
「まごにやるもおしし(もったげない)ばばあにやるもおしし、自分でつんのめ。」
とのんでしまった。
 すると腹ん中がもぞもぞして、やがてへその穴からヤマガラのしっぽがつん、つんと出た。
〈こらあ、どえらいことになっちまった。引っぱり出してやらず。〉
 じいさまがそのしっぽを引っぱると、
「チチンプヨプヨ、ゴヨノオンタカラ、チンチンカラカラツーツーツー。」
と鳴いた。また引っぱると、
「チチンプヨプヨ、ゴヨノオンタカラ・・・・・・・」
と鳴く。
 こいつぁえらいこんだとへそをまくったまんま、えっこら、えっこら帰って来て、
「ばあさ、ばあさ、えらいことになっちまった。これをよう聞け。」
と、しっぽを引っぱってみせるとやはり、
「チチンプヨプヨ、ゴヨノオンタカラ・・・・・・・。」
と鳴く。ばあさまはしばらく考えて、
「こんなめずらしいものはないぞえ、お殿様にでも聞かせてあげたらよからず。」
と言った。
 そこで次の日じいさまは、殿様の屋しきに出かけた。
 そしてわざと目だつよう屋しきのうら山の木を切った。なたですたーん、すたーんと切っとった。すると、
「うら山の木を切るのは何者じゃ。」
と家来がどなった。
「日本一のへひりじじいでございます。」
「ナニナニ、日本一のへひりじいじいだと。これはおもしろい。ならば、殿様の前でへをひってみよ。」
と言うので、じいさまはしゅびよく殿様の前へ出された。
 じいさまは、しりをくらんとまくって、ヤマガラの尾をそっと引いた。すると、
「チチンプヨプヨ、ゴヨノオンタカラ、チチンカラカラツーツーツー。」
と音が出た。
殿様はたいそうめずらしがって、ほうびをたくさんくれた。
その話を聞いた、となりのよくばりじいさん、
〈おれもひとつへをひって、ほうびをたくさんもらわず。〉
と思って、殿様の屋しきへ出かけて行った。
そして、うら山の木をなたで、すたーん、すたーんと切っとった。
 するとまた家来が出て来て、
「うら山の木を切るのは何者じゃ。」
と、どなった。
「日本一のへひりじじいでございます。」
「そんなら、殿様の前でへをひってみよ。」
というので殿様の前へ出された。
よくばりじいさんは、しりをくらんとまくり、なんとかへをひろうと一生懸命力むうち、うんこがくたぐたっと出て、おざしきをよごしてしまった。
鼻をつまんで顔をしかめたお殿様は、たいへんおこって、刀をぬいてじいさんのしりをすたんと切ってしまった。
 さて、よくばりばあさんは、じいさんがたくさんほうびをもらって来ると思い屋根にのぼって待っとった。
 すると、はるかむこうから、
「ばあさ、もっこ(ボロ)焼け、ばあさ、もっこ焼け。」
と、大きな声でよばりながらじいさんがやって来る。見れば、赤い物を背負ってくるようだ。
〈こりゃあ、赤い着物をたくさんほうびにもらって来たにちがいない。もう古い着物なんかいらんわい。〉
と、ばあさんはあるだけの着物をみんな焼いちまった。
そこへしりを切られたじいさんが、
「痛い、痛い。」
と泣きながら帰って来た。そしてきず口にもっこを焼いた灰をつけると飯も食わずに寝込んでしまった。
やがてもっこの灰がきいたものか、きずもなおったが、こりにこりてもうよくばりはしなくなったと。(楢川村 贄川)
 
     
 9  玄蕃丞狐(げんばのじょうぎつね)  
    むかしむかし、桔梗ケ原に玄蕃の丞狐といういたずらギツネがいました。
 ある時村の男が道を歩いていると、急に見たこともないような川に出ました。変に思いながらも着物のすそをめくって川を渡り始めたところ、いくら渡っても渡り切れず、それでも懸命に渡ろうとしていると、後ろでケンケンとキツネの笑い声がして、はっと気が付いてみるとそこは川ではなく田んぼの真ん中で立っていたというのです。
 ある日のこと、村の庄屋の家の前に人だかりができて騒いでいるので、何かと思ってみてみると、一人のきれいな娘が門のところに倒れているではありませんか。
 
 
     
10   夜道道  
    東山の中腹に、片丘から岡谷にぬける「夜道道」がある。
 昔、片丘に美しい娘が住んでいた。
 娘には岡谷に、恋しく思う男がいて、毎夜この道を駆け会いに行った。
 男は最初、女が来るに何の不思議もなく、ただ会える喜びに酔っていたが、そのうち女一人で三里の夜道をどうしてこられると思ったとき、疑念はむしろ恐ろしさに変わった。
 そこである晩、道の途中で待っていると、女が身に白衣をまとい、髪をふり乱してやって来るのが見えた。女は、糸わくを頭にのせ、そこにロウソクを何本も立て、口にくしをくわえ、「シャリシャリ、シャリ」と、大蛇が草の上をすべるような音を立て、小走りにやって来た。男はびっくり仰天、恐ろしくなり、そのままどこかへ逃げ身を隠してしまった。
 そして、まもなく女も、この地から姿を消してしまったという。(塩尻市片丘)
 
     
11   塩嶺御野立記念祭  
    塩尻と岡谷の境に塩尻峠がある。
 この峠は、戦国時代、武田と小笠原が戦った古戦場であるが、明治十三年(1880)明治天皇が訪れたことにより、昭和八年(1933)聖跡に指定された峠でもある。
 以来、塩尻峠は「明治天皇塩尻峠御野立所」として敬愛され、今も「塩嶺御野立記念祭」が行われている。
 毎年、春と秋に行われるこの祭りは、大正四年(1915)明治天皇御巡幸を記念して建立された巨大な「御野立記念碑」の前で、塩尻・岡谷の市長はじめ市会議員、観光、商工、その他関係者が参加して行われる。
 午前十時、明治天皇がこの地にお立ちになった同刻に合わせ、
「一同、礼」
「おなおり下さい」
 わずか、五秒ほどですべてが終了するこの祭りは、九十年の伝統をもった、日本で一番短い祭りだともいわれている。
 

     
 12  桔梗ヶ原  
    ブドウとワインの産地として知られる「桔梗ヶ原」は、昔「帰京ヶ原」と呼ばれていた。
 天平勝宝七年(755)唐の玄宗皇帝が楊貴妃の菩提を弔うため、自ら紺紙金泥で経題を書いた大般若経を、信濃の善光寺へ奉納しようと牛の背に負わせこのはらまで来たが、長途の疲れに牛はとうとう倒れてしまった。
 そこで、使者は、これも仏意によるものと、大般若経は東山の中腹に堂を建てて納め、牛はその傍らに埋めて京に帰った。
 このことから,堂を牛伏寺といい、この原を京に帰ることになった「帰京ヶ原」というようになったということである。
 
     
13   琵琶橋  
    洗馬の上組にある「琵琶橋」は、木曽谷を流れ下った奈良井川に架けられた橋である。古くからこの橋は、安曇と木曾路を結ぶ要路にあり、江戸時代は高遠を結ぶ重要な橋でもあった。
   これやこの行くも帰るも別れては
        知るも知らぬも逢坂の関 
     蝉丸(百人一首)
 平安時代の中期、琵琶の名手とうたわれた盲目の法師蝉丸は、この橋により橋下を流れるせせらぎの音を聞き、秘曲「流泉啄木」を悟ることができたともいわれている。
 このことから、それまで「隈の岩橋」と呼ばれていたものが、「琵琶橋」といわれるようになったという。(塩尻市洗馬)
 
     
     


参考文献 
  信州の民話伝説集成 はまみつを 一草舎
木曽路の民話 下井和夫 信州児童文学会