木曽義仲にちなんだ民話

 


1   足無し様(東筑摩郡朝日村)  
  昔、木曽義仲の様子を探るため、平家方では菅長須根彦(すげのながすねひこ)を間者として木曽へ忍び込ませた。
 が、まもなく間者であることを見破られた長須根彦は、木曽から鉢盛山を越え逃げて来たが、途中凍傷にあって動けなくなってしまった。
 見かねた古見の人たちが介抱してやったが、
「足で困っている人の力になりたい」と言い残し亡くなってしまった。
 そこで、古見の人たちは、そこに祠を建て長須根彦を手厚く祀った。
 昔は、足の悪い人は祠から草鞋の片方を借り、なおると一足にして返したものだが、今は草履もなく、「足無し様」の祠だけがのこっている。
 
     
2   木曽義仲伝説(東筑摩郡朝日村)  
   朝日には、木曽義仲にまつわる伝説がいくつもある。
 義仲と今井兼平は、幼少の頃より竹馬の友であったというが、西洗馬の光輪寺には、義仲・兼平の位牌が安置されている。
 薬師堂は治承四年(1180)義仲が平家討伐を祈願し、兼平に再興させたと伝えられ、寺には「義仲の祈願文」もある。
 境内には、「義仲手植えの桜」、近くには、「兼平うがいの泉」もある。
 また、義仲ゆかりの地名も残され、義仲が木曽から山中を越えて来た所を、「御馬越」といっている。
 その他、昼げに使った柳の箸を逆さにつき立てておいたら、それが芽吹いて「逆さ柳」
「義仲清水」「義仲顕彰公園」もあり、木曽につながる朝日ならではの義仲伝説である。
 
     
   木曽義高物語(お伽草子)  
   義高の身にせまる危難
 おごる平家は久しからず、以仁王の令旨を奉じて源氏の残党が各所に蜂起し、なかにも嫡流頼朝は伊豆に兵をあげ、その従兄弟義仲は木曽の谷を出て、信濃・上野の兵をあつめ、勢いがはなはださかんであった。両雄ならび立たず、北陸道を都へ攻めのぼろうとする義仲は背後を頼朝におびやかされ、やむなく長子義高を鎌倉へ送り頼朝と和した。
 頼朝は義高をその長女大姫のむことし、両家はめでたくむすばれたかにみえた。夫は十四才、妻は十二才、ままごとのような若夫婦の家庭には政略結婚の暗い影はなく、 若草のような二人の純情は固くむすびあっていた。
 都へ上って、征夷大将軍の地位を得た義仲の栄華も、源義経らの関東勢のためにもろくもふみにじられ、義仲が粟津の露ときえた後は、義高も朝敵の子と白眼視されるようになった。頼朝は血をわけた弟義経さえも殺すほど、うたがい深い心の持ち主。なんで義高に心を許そう…・義高は我を親の敵と怨んでいるに違いない。ことに才能もすぐれ武勇の聞こえもあるからには、早く処分せねば己が身のわざわいとなろう。しかし、彼の家に追手をむけたならば、姫の身があぶない……頼朝は一策を案じ、姫は鶴岡八幡参詣のためと偽って御所へまねき、その留守に義高をおびき出して討つことにした。
 何も知らず父の御所へ行った姫は、侍女の口から事の真相を聞き、急ぎ家へ帰る。一刻も猶予はできない。屋敷は武士にかこまれている。さいわい、義高は、まだ年十六才の美少年、姫は義高主従五人を女装させ、、家をしのび出させる。
「この鏡は私の形見です。私もやがてあなたのあとを追うつもりですが、この鏡の裏表がともに曇ったら私はもうこの世にないものと思って下さい。裏だけ曇ったら、私が尼になって生きながらえていると思って下さい。」
 姫は夫に形見の鏡を与え、義高らは陸奥の藤原秀衡をたよって旅立ったのである。

薄幸の貴公子
「あなた方親兄弟三人も、雪の中逃げのびられるところをつかまり、すでに命の危ない時、池の禅尼様の御情で命を助けられたではありませんか。」
 姫が義高をおちのびさせたことを怒った頼朝が、姫を尼にしようとすると、夫人政子は大いに姫をかばった。妻に頭の上がらない頼朝だから、姫の方はうやむやになったが、義高にはさっそく追手が差し向けられた。
 義高らはなれぬ旅ではあり、昼は人目をしのび、夜ばかり旅をつづけるので、なかなか道がはかどらず、七日目に那須野にさしかかった。追手の大将河野三郎は三百余騎をひきつれ鎌倉を立って三日目に義高らにおいつき、那須野の小松のしげみに休む主従五人を包囲した。いまはのがるるすべなし。
「われこそ六孫王の末征夷大将軍源義仲が嫡子、木曽の太郎清水義高、生年十六才」
 義高は高らかに名乗り、矢つぎ早に二十余騎を射落としたが、多勢に無勢、かなわじと腹を切ろうとしているところへ大勢かさなりあい、ついにいけどりにされてしまった。
 鎌倉へつれもどされ、頼朝の前へ引き出された義高は少しもわるびれず、
「将軍も幼い時、叔父義朝様が平治の乱にやぶれて部下の手にかかって死なれ、御身は伊豆に流され給うた時、雌伏二十年、時の至るを待たれたではありませんか。私も陸奥の秀衡を頼り、父の敵鎌倉殿に一矢報いんと思ったのです。」
と申し立て、頼朝もあっぱれ若武者よと感じたが、すでに謀反の志の明らかなものを、そのまま許すことはできない。元暦元年三月八日子の刻(夜十二時ころ)鎌倉小坪の浜で義高はわずか十六才の花を散らせた。

女の執念、源氏を亡ぼす
 義高の形見の直垂が姫のもとへ届けられ、最後の一部始終が報告された。
「夫が地獄においでなら、私一人極楽へ行っても何になりましょう。夫のいらっしゃるところなら、どんな地獄の底へでもまいりましょう。どうぞ私の命をおとり下さい。」
 姫は昼はひもすがら、夜はよもすがら泣きあかした。障子の外に馬の足音がすれば、義高が帰ってきたかと思われ、机に義高の手馴れた琴のあるのをみては楽しかった日がしのばれ、ただ、夫のあとを追うことを思うばかりであった。三月十二日の夜明け方、十四才を一期として夫の形見の直垂を枕にしてついにはかなくなられた。
 姫の遺言が枕屏風に書き残されていた。
「私は、こいしい人のあとをおってまいります。父上の無情な行いは、けっして忘れません。それにくらべ母上の御情の深かったこと、父上の御子孫は私の一念でのろい殺します。母上の御一族は七代まで御守り申しましょう。
”なさけにはいかなる花のさくやらん身になりてこそおもひしらるる”」
そして最後には「あらあら、ちちの御かたうらめしや、義高とりかへしまいらせし河野三郎うらめしや」という不吉なのろいの言葉が添えてあった。賢くても、わずか十四才の姫には、父の立場が理解できなかったのである。
 それにしても姫の遺言が次々に事実となってあらわれたのは恐ろしいことであった。姫が死んで三十五日目に鶴岡八幡宮の柱に文字のごとき不思議な虫くい跡があらわれ、それを判読すれば、冥土で夫に再会した姫の消息を伝えるものであった。頼朝は姫に対し薄情であったことを後悔し、河野三郎を切り、姫の菩提のために二階堂という堂を建立した。その後また三重塔を建てようとしたが、姫の亡霊が火災となって妨害し、建てることができず、やがて五十三才で死んだ。その二子、二代将軍頼家、三代将軍実朝がいずれも若くして非業の最後をとげ、源氏の正系がわずか三代で絶えたことは、よく人の知るところである。それに反して、政子の実家北条氏は、執権として長く威勢をほしいままにした。
 
     
   唐糸物語(お伽草子)  
   鎌倉の侍女唐糸の密書
 木曽義仲が信濃・上野等の武士を率いて都へ攻め上り、おごる平家を西海へ追い落として、旭将軍と称して威勢をふるっていたころ、義仲配下の猛将に手塚太郎光盛という武士があった。光盛の娘唐糸は、まだ義仲が兵をあげない前から、鎌倉の源頼朝の御所に仕えていた。唐糸は琵琶・琴の名手で、頼朝やその夫人北条政子から愛されていた。
 寿永二年三月、義仲が都への進撃を続けている間に、もう頼朝と義仲の間には不和が生じていたが、義仲が上京して征夷大将軍に任ぜられるや、かつては、平家を共同の敵として立ち上がったこの従兄弟どうしは、互いに武力をもって争うはめになり、その年の末には、ついに頼朝の弟九郎判官義経らが、兵を率いて義仲追討のため都へ攻め上ることになった。唐糸は鎌倉でこの計画を知り物思いに沈んだ。
「情けない。木曾殿の滅亡は、けっきょく親一門の滅亡、なんとかして頼朝の計画を木曾殿に知らせなければ」
 そこで唐糸は頼朝の計略をこまごまとしるしたあと、義仲や父光盛のために頼朝を暗殺しようという決意をのべ、その手紙を下人にもたせて都の義仲のもとに届けた。義仲はこの手紙をみて大いに喜び、もし唐糸が鎌倉で頼朝暗殺に成功したら、父手塚太郎には関東八か国を与えて天下の副将軍とし、唐糸は義仲の正室にしようと約し、木曾重代の「ちゃく井」という脇差をそえて唐糸に送り届けた。
 唐糸は義仲からたまわった脇差を肌身はなさず持ち、機会があらばと頼朝のすきをねらったが、頼朝は好運にめぐまれた大将であるせいか、なかなかよい機会がない。あるとき、夫人政子が薬の湯に入り、唐糸等侍女たちもそれに奉仕した。その日の奉行土屋三郎もとすけは、これぞ役得とばかり侍女たちの着物をぬいであるあたりを役目顔をしてうろついていたが、ふと一つの着物の下から脇差がのぞいているのを見つけ、大騒ぎとなった。取り調べの結果、その着物は唐糸のものであり、しかも、その脇差が木曽義仲の家に伝わる名刀であることがわかった。唐糸は義仲の家臣の娘ということであれば、もはや言い逃れる術もない。唐糸をかばう人もあったけれども、梶原景時等が承知せず、御所の後の石の牢へ閉じこめてしまった。

母の行方を尋ねる万寿姫
 唐糸は鎌倉へ出る前、信濃で万寿姫という一子をもうけていた。手塚太郎光盛は小県郡手塚村の豪族、万寿は母がるすでも何不自由なく育てられたが、元暦元年正月二十日、光盛が主義仲に殉じて近江に討死し、木曽の一党ことごとく没落するに及んで、信濃の手塚の家族もまた日陰者の生活をおくらねばならなくなった。万寿が十二才になり、ようやく物心がついたころ、光盛の後家である祖母はもう六十才にもなっていた。母は昔、御所奉公に鎌倉へ出たまま行方がしれず、風の便りでは石の牢へいれられているという。母恋しさにたえかねた万寿は、乳母の更級をつれて、ある夜ひそかに家をぬけ出した。翌朝になり、それと気づいた祖母は万寿のあとを追いかけ、雨宮というところでおいつき、ひきとどめたけれど、その決心が固いのをみて感動し、自分もいっしょに鎌倉へ出ることになった。
 鎌倉へ出た万寿主従は、祖母を藤沢道場にかくし、御所へ奉公を願い出た。将軍夫人政子は、万寿の気品ある姿を見て、国はどこぞ、親はだれか、とお聞きになる。万寿ははっとしたが、「私は武蔵の国の者、親の名は申しません。奉公するからには主人が親ではありませんか。」とおそれる色なく御返事した。政子夫人は不思議なことを言う少女よとほほえまれ、ある老女に託して、その老女の局で万寿を使うことにした。万寿は、まず第一の難関をからくも通りぬけ、その局に奉公しつつ、それとなく母の行方をさがしたが、なんの手がかりもない。侍女更級は、失望する万寿をはげましつつ、主従たすけあって望みを万一に託し、悲しい日々をおくったのであった。

石牢の母に再会
 ある朝、御所の裏へ出て、寂しくあたりをながめていた万寿は、ふと不思議な門のあるのに気づいた。一人の下女がそこを通りかかり、「あなた、この門をおはいりになってはいけません。御法度です。」と注意する。その下女の物語る話を何気なそうに聞きながら万寿の胸は高鳴った。これぞ、わが母のいますところに間違いない!その後間もなく、三月二十日の花見の宴があり、その宵は御所中の人々がみな花見に出はらって御所には人っ子ひとりいない絶好の機会。万寿はひそかに御所をぬけだし、おりふし番人もなく門も開かれているのをさいわい、更級を門のそばにまたせて人を見はらせ、自分は門内にはいってあちらこちらをさがしてあるいた。門内はさんざんに荒れはてている。あちこちさがしまわった末、松の一むら生えているなかにわけいってみると、草の繁みにポッカリと口をあけている石の牢。これこそとその前にかけより、牢の格子戸に手をかける。
「さては討手が来たのか。いつまでこうして苦しむより、早く死にたい。」
 内で唐糸は泣き伏す。万寿は格子の間に手をいれて母の手をとり呼ぶ。
「これは母にてましますか。わが身は万寿ぞ」
「夢かうつつか。万寿は信濃にいて、今年十二才になるはずだが、よもやここまで尋ねてこようとは、夢ならば早くさめよ。さめて後がうらめしい。」
とかきくどいて、母子もろともにさめざめと泣きながら、つきぬ物語に夜をふかした。唐糸は、ことに乳母更級の忠義に感じ、昔よりおちぶれた主人の世話をする者のはまれであるのに、更級の誠実さよとほめたたえて、今後も幼い万寿を導いてくれるようたのむのであった。母のありかはつきとめたものの、晴れて会うことはできない。9ヶ月の間、万寿と更級が、かわるがわる石の牢にしのんで行っては食物などを届けていた。

鶴岡神前の今様舞
 次の年正月二日、頼朝の御所の祈念の間の畳のヘリに一夜にして六本の小松が生えた。ただごとでないと陰陽師にうらなわせたところ、これはめでたいこと、この六本の小松を源氏の氏神鶴岡八幡の玉垣の内に植え、十二人の乙女を選んで今様(流行歌)を歌わせれば、頼朝の運勢は万々歳であろうとのこと。頼朝はさっそく小松を植えかえさせ、天下の美女を集めたが、十一人まで選んで最後の一人がみつからない。更級は万寿を今様の上手として推薦し、万寿が十二人目の乙女に選ばれた。正月十五日、いよいよ神前の今様が演ぜられたが、五番目に舞った万寿の今様のみごとさは見物の貴賤をうっとりさせ、頼朝も思わずつりこまれてともに舞いはじめ、八幡も感ぜられたか、神殿の扉がおのずから開いた。面目をほどこした万寿は、頼朝に身の上を問われ、「母は木曽殿の身内、今は石の牢にこめられた唐糸」と涙ながらに申しあげる。頼朝はじめなみいる侍たちは、万寿の孝心に感じ、唐糸は二年あまりの牢生活から解放され、万寿には手塚の里一万貫の地が与えられた。
 孝の一念が神を感ぜしめ、親をも救い、家をも興しためでたい物語である。
 
     
     
     


参考文献 
  信州の民話伝説集成 はまみつを 一草舎 
しなの夜話 小林計一郎 信濃路