黒田官兵衛の年表

官兵衛が活躍した頃の木曽

西暦  和暦  月日  年齢  事項   その頃の木曽
 1532年

1554年
 天文年間        木曽義康信濃の国四大将の一人にあげられるまでにその勢力を伸張した。
 1533年 天文2年         木曾氏17代義在、馬籠ー洗馬間に宿駅を定む
1534年        織田信長生まれる。尾張国古渡城主・織田信秀の嫡男。  
        織田信長の幼少時の逸話 「少なりし時豪縦無状、壮なるに及び侠を好み士を養い細節に拘わらず勇にして断多し常に馬を調し弓銃を習い泅を学べリ。また近臣を聚め、竹鑓を以て闘わしめて曰く、鑓は長きに利ありと言い、三間柄、或は三間半の鑓を造る」  
1537年        明智光秀の家臣明智光春生まれる。 父は明智光秀の叔父。明智光安。幼名岩千代。通称左馬助。信長に対して謀反を起こした荒木村重の嫡男に嫁いでいた光秀の次女を妻に娶った。坂本城で自害。享年四十六.  
 1542年  天文11年        木曾氏17代義在長子義康を立てて隠居す。
跡目を継いだ義康は中部大輔といった。
義康の母は伊那松尾の小笠原定基の娘である。
義康は遠山主水、千村内匠、贄川監物等をして分家が領有していた高遠城を攻めてこれをとり千村内匠(藪浦千村すなわち福島の千村の祖)を城代とした。
 1545年  天文14年  5月      武田信玄侵略の時塩尻峠で木曾義康が戦ったが義高は小笠原長時と号し先鋒を承り大いに武田勢を悩ました。
 1546年  天文15年  11月29日
8時頃
 1歳  黒田孝高(よしたか(幼名萬吉))播磨の国に生まれる。通称は官兵衛。竹中半兵衛と並ぶ豊臣秀吉の懐刀として調略および他大名との折衝役として活躍。姫路城主小寺職隆(もとたか)の長男。母は明石氏。  
         官兵衛、勘解由次官(かげゆのすけ)、入道号は如水、円清
如水軒円清と署名している。
姓は「黒田」から「小寺」さらに「黒田」に戻る。
キリスト教信者で洗礼名はドン・シメアン
 
         黒田氏はもともとは近江伊香郡黒田荘の出で曽祖父高政の代に播磨に移ったという。  
         孝高の父職隆は御着城主小寺政職に仕えて家老職になる。

御着城跡公園
 
         孝高の祖父重隆は秘伝の目薬を売って産を築いたという言い伝えがある。
孝高の祖父重隆は廣峯神社の御師(参拝者の世話をし御札を各地に配る人)たちに神符と一緒に家伝の目薬を売ってもらうことで財をなした。

廣峯神社
 
 1548年   天文17年  5月      武田春信、高遠城を攻める。城代千村内匠善戦するも部下保科正俊、甲州に内通し苦戦となる。この保科氏がのち白虎隊で有名な会津藩主松平家の祖である。
   7月16日夜      千村内匠、木曾義康ひそかに城を脱出木曾に帰った。(高遠記成集)
 1549年  天文18年  4月      武田晴信はその将甘利藤蔵・内藤修理・原美濃・曽根七郎兵衛等をして兵を率いさせ、木曾に来攻した。木曽義康は奈良井にいた武将奈良井治部の急報によって出陣しこれを鳥居峠に迎えうって、一度はこれを撃退した。(第一次鳥居峠合戦)
1551年  天文20年      織田信長家督を継ぐ。弟の織田信行(信勝)はじめ対抗勢力を次々と下し尾張統一。   
 1552年  天文21年    7歳  近くの浄土宗の寺に入り円満坊から書を学ぶ  
 1554年  天文23年    9歳  弟小一郎生まれる。  木曾氏17代義在と18代義康が御嶽山の東麓一合目にある御嶽神社里社本社の社殿を再興。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)
     12月8日      木曾氏17代義在62歳で亡くなる。『木曾考』では天文6年9月18日45歳没になっている。法名智源院殿英山雄公
義在17歳の時五霊の山に山城を築き(上の段)伊那六郎定基の女を娶る。(松尾小笠原定基)木曾左京大夫、藤原義在と称するとある。
黒澤里宮鰐口に『大檀那木曾義在同嫡子義康」の銘がある。義在の弟千代若は父義元死後古畑家に引き取られ古畑家八代を嗣ぐ(古畑古文書)
 1555年  天文24年  春3月  10歳  妹が生まれ幼くして失明 武田信玄は栗原佐兵衛、多田淡路に兵数百をさずけて再び来攻、鳥居峠を越えて薮原に陣をしいた。『木曽古今遠隔氏』は『天文24年春信玄木曽に入り数百の兵寄せ来たり薮原に屯し陣屋を作る』と記している 
     4月5日      武田信玄は義昌の居城・福島城を攻略にかかったが、途中で上杉謙信が善光寺方面に出ると聞いて栗原信盛に砦を守らせ福島攻めを中止し川中島へ急いだ。薮原に残った栗原左エ門・多田淡路の両将は鳥居峠に付城を築いて福島からの逆襲に備えた。
     8月      4ヵ月後信玄は薮原の陣屋を出て突如福島に向かって侵攻し福島境の小澤川(現七笑川)に陣をとった。
これに対し義昌は福島から急遽小澤川に出陣したがこのとき父義康は飛州兵の来攻に備え王滝に在ったため福島の義昌は手勢少なく苦戦となって福島へ退いた。この頃甲州兵の別動隊が荻曽から末川への間道を通って黒沢へ抜け、山中を義康の居た王滝城に向かっていた。(木曽考)この一族は元木曽の出である原隼人という甲州軍の将の案内で小木曽から開田の末川に道をあけて侵入し黒川に出てさらに三尾から三岳の和田や王滝の上島に押し寄せてきた。
原隼人はもと木曽家の家臣であり義元戦死ののち武田家に仕えていた。
木曽郡は甲州軍の本体を福島の手前の小澤川に撃退したが敗れた。小沢川附近では相当な激戦があり木曽の武将であった村井、広野の諸氏が戦死した。
武田勢の本体は進んで福島に入り向い城に砦をつくって木曽家の上の段城に対峙した。
小丸山・上之段の両城は敵に包囲されてしまった。

木曽勢の不利を悟った義康は見方の多く討たれない内に降参を決意し直ちに薮原の信玄の軍門に落ちた。
義昌の妹岩姫を人質として甲府に送った。。白木八郎左エ門が付添いとなって行った。この白木氏は武田家滅亡後木曽に帰り福島の本陣の白木氏のちの柏原の祖である。
(『北條記』では義昌の母とされている。)岩姫は勝頼が新府城を去るとき義昌の反逆を理由に殺害された。
 1556年  天文25年    11歳  妹(次女)が生まれる。  
      弘治元年  10月     木曽は本領を安堵し且義昌を聟とし信玄の三女真理姫(眞龍院)を通婚させ木曽氏を武田の一族と認めて尊重する姿勢をとった。このとき義昌は16歳、真理姫は6歳であった。
武田家は源義光の流れであるが木曽家は源氏の主流である八幡太郎義家の流れであるため系統を尊ぶ当時にあって信玄は進んで娘真理姫を義康の子義昌の妻にさせた。
真理姫には阿部加賀守宗貞やもと木曽家の家臣で義元戦死の際甲州に赴いて武田家に仕えていた上村宮内(のち作右エ門)が付添ってきた。
阿部は妻籠に住み妻籠城を修理してここにおり木曽家の監視役をしたらしい。
この上村氏が甲州に赴く前は三岳村の屋敷野におりこれがため屋敷野の地名が残っているという。
      11月      義康・義昌父子共に甲府に赴き初めて晴信に謁している。義康義昌父子は老兵数十騎だけで甲州に至って信玄と盟約を結んだ。信玄は義康父子に対して木曽は義仲以来の高家であり殊に義昌は年少なれど勇なりと賞賛し父子を恭うほどの礼を以って接したという。信濃攻略を進めていた信玄は木曽義仲を祖として木曾谷に君臨していた木曾氏を軍門に下らせた後義昌に三女の真理姫を嫁がせ親族衆として美濃や飛騨への押さえにしようとしたものである。
           木曽は豊富な森林資源を持ち、美濃や飛騨に隣接する重要な地域であった。木曽氏は十八代義康の時に勢力を伸ばし、「甲陽軍鑑」では村上義清・小笠原長時・諏訪頼重と並んで信濃四大将と称されていた。
           木曽義康が上の段城の向い城として山城の福島城を造ったと言われている。
現在は本丸、二の丸、三の丸の跡とその間の空掘が残っていて中世城郭跡として県の史跡指定を受けている。

福島城跡
 1559年 永禄2年   11月28日  14歳  母がわずか29歳で亡くなる。  
  1560年  永禄3年  5月19日    今川義元桶狭間で織田信長に討たれる。   
  6月13日       21歳になった義昌は百日の精進成就後黒沢口より御嶽山に家臣10名を引きつれ登山。山頂で武運長久の祈願をこめはじめ宗太郎長政といっていたのをこの登山の後伊予守義昌と改めた。左馬頭と称した。その折十二歳になった真理姫を伴なっていたと伝えられ姫が着用した白地に刺繍入りの美しい浄衣が御嶽神社の里社本社に奉納されたという。登山後義昌は登山成就の木額を若宮に奉納した。(木曾旧記)(吉蘇志略)
     8月      飛騨の三木氏の檜田次郎左エ門が将となって急に木曽を襲って奈川口と西野口から侵入してきた。奈川口は古畑重家と斉藤丹後がこれを防いで敗走させ、西野口は山村良利・良候父子が信飛国境長峰峠に敵を迎撃した。敵将檜田次郎左衛門が良候についてかかり両将の一騎打ちとなり、ついに良候は檜田の首を打ち取り、敵を敗走させ、信玄から感状を貰った。さらに戦功として、美濃国千旦林・茄子川(現在の東濃中津川市附近)において三百貫の地を宛がわれた。
 1561年  永禄4年    16歳  父とともに新しい姫路城を築く
「本丸、二の丸から成り、櫓を掻きあげ石垣を畳み、塀を築き、堀を廻らし、大手門を始め幾多の門を構えた」(橋本政次著「姫路城史上巻」)

御着城主の小寺政職が鷹狩りの帰りに新城へ立ち寄り萬吉は近習に召し出される。
 
 1562年  永禄5年    17歳  元服。小寺官兵衛孝高と名乗る。  
      「 寛永伝」によると17歳の時に初陣した。
初陣で近在の土豪をやぶる。
 
 1567年  永禄10年    22歳  志方城主櫛橋伊定の娘光姫を嫁にもらう。
父が44歳で隠居したため家督を継いで姫路城主となり小寺家の家老をつとめる。
 
   永禄10年  12月23日    文書における所見はこの年「小寺官兵衛尉祐隆」と署名している判物がある。(正明寺文書)  
 1568年  永禄11年    23歳  長男が生まれ松寿丸(後の黒田長政)と名付ける。  
         織田信長足利義昭を担ぎ上洛する。  
 1569年   永禄12年    24歳  青山の戦い、土器山(かわらけやま)の戦い。いずれの戦いも少人数で大軍をやぶる。
 
       小寺氏が赤松政秀と姫路で戦った時活躍したという。  
1570年 元亀元年
庚午
      義昌は、義基以来 黒沢御嶽神社の祭礼に若宮境内において行われていた流鏑馬の神事が当時は中絶されていたものを再興した。さらに福島の興禅寺、長福寺、西光寺の三カ寺の住僧による大般若転読の行事も復活した。
1573年  元亀4年      織田信長が対立した足利義昭を追放。   
 1573年  天正元年     「 重修譜」には孝高が織田信長に京都で謁見したと書かれている。  
 1574年  天正2年        義康長子義昌(34歳)に総てを譲って隠居
子の義昌は伊予守といった。のち左馬頭といった。
     4月       信玄の子武田勝頼は父の遺図を成さんとして兵を美濃に入れ義昌もその命によって美濃に向かった。
阿寺攻めは木曽がその主力で三尾五郎左エ門が奮戦し多数の敵を討ち捕ったが己もついに討たれその子三尾将監が勇敢にも父を負って逃れたといわれている。
     12月10日      木曽義昌は武田勝頼より美濃平定後関にて千貫文の地を宛行うことを約束されている。(国会図書館文書)
 1575年  天正3年    30歳  織田につくか毛利に従うか迷う主君小寺政職を説得。信長に臣従を伝えるため岐阜へ行く。岐阜城で織田信長に謁見後家臣となる。信長に中国(毛利)攻めを進言する。  
     7月    孝高、小寺政職の使いとして上京しはじめて信長にあったという。(黒田家譜)  
     9月   信長の命を受けた荒木村重は播磨に入って国衆の人質を徴収した。(公記)
このとき主小寺政職は正式に信長に降った。 
 
     10月20日    小寺政職は上京、他の播磨国衆赤松広秀・別所長治らとともに信長に謁見。  
 1576年  天正4年    31歳  小寺政職が織田についたことを知った毛利輝元は五千の兵を英賀の浦に上陸させ姫路を攻めようとする。
官兵衛は一千の兵で撃退。
農民に旗やのぼりを上げさせて大軍が攻めてきたと毛利勢に思わせ勝利を導く。
 
 1577年  天正5年    32歳  長男の松寿丸を人質として安土城の信長のもとへ連れて行く。信長は長浜城の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に預ける。
羽柴秀吉が毛利攻めのため播磨入りする。
官兵衛は秀吉の先鋒として播磨平定のために働く。
 木曾氏二十代仙三郎義利生まれる。母は武田信玄女真理姫
     5月14日    小寺軍は姫路近辺の英賀で毛利方の軍と戦ったがそれに対する信長の感状は政職宛てである。
孝高には信長の意を受けた村重から書状が出されている。
 
     6月23日    秀吉は孝高に通信している。(黒田家文書)  
     7月23日    秀吉は孝高に書し「其方のき(義)は我らおとと(弟)の小一郎めとうせん(同然)に心やすく存候間」などと気安い言葉をかけている。(黒田家文書)  
         秀吉は孝高の長男で安土に人質とされていた松千代(長政)と別所重棟の娘との婚約を仲介している。
別所重棟は別所宗家から独立して信長と繋がっていた播磨の実力者である。
 
     9月6日    信長は孝高宛に朱印状を発し秀吉に協力するよう命じている。(黒田家文書)  
         孝高はその期待に応えるかのように入国した秀吉に自分の居城だった姫路城を提供している。(黒田家譜)
官兵衛から姫路城をゆずりうけた豊臣秀吉が三層の天守閣を築き周囲に石垣をめぐらした。
 
     10月15日    孝高は秀吉からの誓書を受け「貴所御身上不可有疎略之事」などを約束されている。(黒田家文書)  
     10月下旬    羽柴秀吉が播磨及び但馬平定の指揮官として播磨に下った。  
     11月27日    孝高は秀吉に密着し秀吉与力竹中重治とともに宇喜多氏の属城福原城を攻め落とした。  
     12月5日    この日付で孝高は信長から感状を受ける。(公記、黒田家文書)  
    12月10日     秀吉は孝高と別所重棟宛に書し婚約が整ったならば両人とも見放さないことを誓うなど盛んに気を遣っている。(黒田家文書)  
 1578年 天正6年    33歳  摂津の有岡城へ説得交渉に行ったおり捕らえられる。一年後に有岡城が落城して救い出されるまでは牢内に閉じ込められたまま。官兵衛が裏切ったと勘違いをした信長は人質である松寿丸の殺害を秀吉に命じる。しかし官兵衛と同じ秀吉の軍師である竹中半兵衛が命を救う。

有岡城跡に残る当時の石垣
 
     2月    東播磨に勢力を張る別所長治が信長に背いた。  
     3月22日    孝高は別所の謀反にかかわらず忠節を尽していることを信長に褒され戦功を励まされている。(黒田家文書)  
     4月2日   毛利軍に雑賀衆も加わり味方の別所重棟の砦を攻撃。 孝高は秀吉の命により出撃してこれを撃退した。(黒田家文書)  
     10月    摂津の一職支配者荒木村重が信長に反旗を翻した。
孝高の形の上の主である御着城主小寺政職も村重に応じた。
 
         村重と親交のあった孝高は村重説得のため有岡城に乗り込むが囚われてしまう。(黒田家譜)
このとき孝高の重臣7名は黒田孝高の父職高に宛てて主のいない間職高の命に従うべきことを誓約している。(黒田家文書)
 
   天正7年  11月    孝高は有岡開城までの約1カ年入牢生活をした後救出された。  
         有岡城から救出された孝高は再び秀吉に従って活躍しこの頃から黒田の姓を称する。  
 1579年 天正7年   正月7日      木曾氏18代義康62歳で亡くなる。
        織田信長琵琶湖畔に安土城を完成。   
 1580年  天正8年      黒田官兵衛は豊臣秀吉の家臣となる。参謀役として鳥取城の兵糧攻め備中高松城の水攻めなどを進言。  義昌は織田信長と結ぶ 
    9月1日      「黒田」姓の初見は秀吉よりの判物である。(黒田家文書)
この文書によって孝高は秀吉より摂東郡福井荘の地などを与えられている。
 
 1581年 天正9年 正月      長篠戦に大敗した武田勝頼は信長の北上に備えて真田昌幸を普請奉行に命じ新城の縄張りにあたらせ甲信その他の分国諸将に命じて新府城の築城を急いだ。木曽義昌も勝頼の新府城築城のため過酷な課役に耐えていた。勝頼は築城の用材に檜材の供出を命じ、人足を動員させてその粮米を負担させた。義昌は勝頼の課役に応じ切れなかった。一方伊那谷の入り口であり甲州への関門として戦略拠点の高遠城の守備に弟仁科五郎盛信を城将に任命した。
     6月18日    播磨衆に対しては小寺の方が通りがよかったのか肥田修理宛の判物には「小寺官兵衛尉」と旧姓で署名したものもある。   
     11月    黒田官兵衛尉は仙石秀久とともに淡路、さらに阿波に攻め込む   
 1582年  天正10年    37歳    織田家より木曾は甲州と縁者の間故木曾が谷中の通行を塞がないよう苗木久兵衛(遠山友忠)を以って木曾家に説かした処木曾は遂にその計策を受けた。義昌は弟の上松蔵人を人質として織田方へ送り、木曽の所領安堵を条件に織田の傘下に入る決意を固めた。(上杉古文書、公記)
     2月3日      信長の長男信忠は三万余騎で下伊那口へ、苗木の城主遠山豊前守友忠、根来衆など三三万騎は木曾口から勝頼攻めの兵を進めた為勝頼は木曾義昌に鳥居峠で敗退した。勝頼は鳥居峠から軍を撤去し諏訪の上原城へ入った。
     3月11日      武田勝頼の長男太郎信勝は信長に攻められて甲州天目山で勝頼と運命を共にした。勝頼の後の夫人北條氏(北條氏政の妹)は勝頼と自害した時19歳だった。
     3月20日      木曾義昌は織田の本陣となっていた諏訪の法華寺においてはじめて織田信長に謁した。義昌は名馬二頭を進上した。信長は武田氏攻略の先導をした功を賞して梨地蒔の腰の物と黄金百枚、それに木曾のほか新知分として安曇、筑摩の二郡が与えられた。義昌在世中愛用した名器の一つ『鈴虫』という轡も織田信長が義昌の武功を賞して贈ったものである。信長は義昌を縁先まで送って出たと『信長公記』にある。この時点で木曾義昌は総高十余万石の深志城主となった。遠山主水、丸山久右エ門、馬場半左エ門、原平左エ門をしてこれを守らしめた。
    6月 1日   明智光秀は中国の山陰へ征伐に行く途中の亀山城において家老5人に「これから信長親子を討とうと思う」と決心を明らかにした。   
        斉藤内蔵之助利三が『今は時期があまり良くない』と反対した。   
         明智光春が「駟も舌に及ばず(ひとたび口に出した言葉は四頭立ての馬車で追いかけても追いつけるものではない)(論語)と云うから必ずこの話は広まるに違いない。ただ今急いで京都に押しかければ成功するでしょう」と云った。  
         明智光秀は明智光春の言葉通りその翌日に軍を率いて本能寺を取り囲み信長を打った。  
    6月2日    織田信長京都本能寺において明智光秀の謀反によって49歳の生涯を終える。  
         「名称言行録」によると並河金右衛門が信長の首と白綾の着物を取ったと明智光春に告げた。  
         明智光春が信長の亡骸を隠させた。  
         並河金右衛門は怒った。  
         しかし明智光春は次のように諭した。
「信長公はかつて甲斐を征伐し勝頼の首に罵詈雑言された。それについて今でも他の人が信長とあろう者が敵の首を斬って罵ったと悪口を言っている。今光秀公が信長の首を見たならば怨恨があるゆえ必ず侮辱するであろう。すると必ず後世になって悪口を言われることになる。お前の手柄については私があとで証人となって必ず褒美を取らせる」
 
         涙を流しながら明智光春が強く頼むので並河金右衛門も感じ入って光春にあとを任せた。  
         明智光春は信長の死体を西誉と云う僧に命じて葬らせた。  
        しかし明智光秀は信長の死体を自分の目で確認しないと安心できず斉藤利三を使わせて光春に「まだ信長の死体が見つからないのはどういうことか。もしも信長公が逃げたとしたら大変なことになる」と云った。   
         明智光春は斉藤利三に真実を告げた。  
         斉藤利三も納得して明智光秀には焼け残りの白綾の布を見せて信長の死を納得させたという。  
         明智光秀は信長を討ったあと光春に安土城を守らせ自らは山崎へいって秀吉と戦おうとした。  
        光春は光秀の言葉に従い安土城を守っていたがやはり光秀を助けにいこうと決心し城を出て京都に向かった。   
         しかし途中で明智光秀が打たれたと云う報がもたらされたので進路を光秀の居城である坂本城へ変え大津に向けて進んでいる時に秀吉の先陣を務める堀秀政の大軍に遭遇して戦いになり負けた。  
         本道が敵に塞がれて進めないので光春は琵琶湖に馬を入れ泳がせようとした。  
         光春は白練の絹地に雲龍を狩野永徳に描かせた羽織と二の谷という兜をつけ大鹿毛と名付けた馬に乗って大津から唐崎浜まで遠浅を通って辿り着いた。  
         そこから坂本に向かい十王堂と云うお堂の前で馬を降りて繋ぎ「明智左馬助湖水を渡せし馬なり」と札に書いて馬の手取髪に結び付けてから坂本城に入った。  
         この馬は秀吉が後に「曙」と名付け賤ケ岳の戦いのときに乗って美濃の大垣から二十余里の悪所を駆けたという逸話がある。  
         光春が馬を殺さなかったことは後三年の戦に負けて金沢城が落ちる時清原家衡が秘蔵の馬が敵にわたるのを残念に思って殺したのと比べて天地ほどの相違があると語り草になったという。  
         坂本城にはいった光春は落城することがわかっているため不動国行、ニ字国俊の刀、薬研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜などの名物の器を唐織の肩衣に包み「自分は自害するけれども天下の重器まで滅することは無益だから進呈する」といって目録をつけて天主より降ろした。  
         また二の谷の冑に羽織と金百両を添えて「百日の弔いを頼む」といって坂本にある西教寺に送った。  
         後始末をすべて済ませてから光春は城を囲む敵に向かって「明朝切腹をする。今日の城攻めは猶予してくれ」と頼み城の掃除をして城に残っていた女子供を刺殺し心静かに墨を磨って辞世の歌を書して暁の頃に火を放って自害したという。  
         この様子に秀吉も『流石に希なる侍や』と感じ入って言葉もなかったという。特に珍器名物を敵に贈るというのは松永久秀が信長によって志貴城で滅ぼされる時に秘蔵していた平蜘の釜を壊してしまったのに比べて天地の違いがあると感嘆した。  
         秀吉は[日向守(光秀)の侍を養いし心を織田殿に持たせたならば日向守のような者もなかったろう]といった。  
         毛利方の備中高松城を水攻めしている時信長が家臣の明智光秀の謀反により自害した本能寺の変が起こる。
京都の長谷川宗仁より黒田孝高のもとに飛脚が来て本能寺で信長が討たれたとの一報が届いた。
動揺する秀吉に官兵衛は「明智光秀を討ち天下を取るのは今」と進言。
秀吉は毛利方と和睦をしすぐに備中高松から撤退して京都の山崎に進軍。
山崎の合戦で明智光秀を討つ。(中国大返し)
 
         明智光春死す。  
         秀吉の参謀であった黒田義高が信長の死を伝えると秀吉は茫然としていた。その時黒田孝高は「君の御運開かせ給うべき始めぞ。能くせさせ給え」(いい知らせです。これで殿の御運が開けます。)といったという。これは事実その通りなのだが秀吉はあまりにも鋭い孝高の言葉にこれ以降心を許さなくなったといわれる。  
         そのため信長の死後柴田勝家と跡目を争った賤ヶ岳の戦いに勝つあたりまでほとんどすべて黒田孝高が秀吉の参謀役を務めたといわれるのに秀吉は孝高を大大名にしなかった。また領地も遠い九州に与えた。あまりに切れ過ぎるが故に要注意人物とみなされたのである。  
         秀吉は孝高を評して
「其心剛健、能く人に任じ宏度深遠天下に比類なし我在世と雖も彼若し得んと欲せば輒ち得べし」(孝高がその気になれば、自分が生きている間であっても天下を取るだろう)といったという。
 
         「常に世に怪しきものは徳川と黒田なり、然れども徳川は温和なる人なり、黒田の瘡天窓(かきあたま)は何にとも許し難きものなり」(家康は温和だけれど孝高には心を許せない)と家康よりもさらに一枚上を行っているという評価を秀吉はしていた。  
      ●   相性の良し悪しだけで判断してはいけない
ある時孝高は嫡男である黒田長政の一座で家老たちが居並ぶ中次のように言った。
「総じて人の上に会口不合口と云うことあり、主君の家臣を使うに、殊に之あることなり、家人多しと雖も其内に主君の気に応ずる者あり、是を合口と曰う。
 
 1583年  天正11年  4月     黒田官兵衛尉は賤カ嶽の戦いに従軍(柴田合戦記)
当時孝高は蜂須賀正勝とともに毛利氏との境界の折衝に当っていたと思われ賤カ嶽の戦いへの参加は疑わしいとしている。(毛利家文書)
 
    9月       小笠原貞慶に一時ではあったが本拠木曽福島を奪われた。
     11月2日    孝高は摂東郡内で三カ所都合千石を加増された。(黒田家文書)  
 1584年  天正12年  初めごろ      ところが秀吉が信長政権に変わる後継者として着々と頭角を現してきたため、義昌は秀吉と家康の二大勢力の対立関係の中で迷い動揺した後ついに天地神明に誓った家康との盟約を破棄し、次男を人質として大阪へ送って秀吉と手を結んだ。
           秀吉と家康が雌雄を決しようとした小牧長久手の戦を前に、木曾谷を領している義昌は、秀吉・家康双方にとって重要な存在だった。
           当時信濃は北信と筑摩北部を除いて大部分が家康の配下に属していた。そこで秀吉は義昌を味方に引き入れ、徳川勢が南下するのを木曽谷で阻止させ、更には勢力拡大を図ろうとした
    豊臣秀吉は家康の攻め上がることを恐れ義昌に命じて木曽路をふさぎ、伊那口、美濃口の押さえとして妻籠に城を築き、山村良勝に義昌の勢三百騎をつかわした
     9月      木曽勢は秀吉の命で木曽谷の最南端の要害に築かれた妻籠城を堅く守って木曽路とともに伊那路をふさいだ。家康は飯田の菅沼小大膳、諏訪頼忠、高遠の保科正直の連合軍七千騎を以って清内路を越えて妻籠城に襲いかかった。妻籠城の戦いの際、木曾義昌は籠城を余儀なくされ食料弾薬ともに少なくなった。そのときに義昌は兜観音に『木曾興亡の時、南無八幡武運を我に与え賜え、勝利の暁は銭三百貫文を寄進せん』との願文を奉って祈願したところ、観音堂の屋根から白鳩が舞い立ち、妻籠城の天守にとまった。このようなことがかつて義仲の昔、倶利伽羅峠の合戦の時もあって大勝利を得たという古事を聞いた義昌方の将士の士気が大いに上がり敵を打ち破ることができた。戦後義昌は銭300貫を兜観音に寄進したという。
   天正12年  3月頃まで    毛利氏との話し合いは何度も繰り返され孝高は備中、美作方面にいることが多かった。(毛利家文書) 。 
    7月18日     孝高は播磨宍栗郡の一職を加増され山崎城主となった。(黒田家文書)  
    9月     
黒田如水(福岡市博物館)
 木曽勢は秀吉の命で木曽谷の最南端の要害に築かれた妻籠城を堅く守って木曽路とともに伊那路をふさいだ。家康は飯田の菅沼小大膳、諏訪頼忠、高遠の保科正直の連合軍七千騎を以って清内路を越えて妻籠城に襲いかかった。妻籠城の戦いの際、木曾義昌は籠城を余儀なくされ食料弾薬ともに少なくなった。そのときに義昌は兜観音に『木曾興亡の時、南無八幡武運を我に与え賜え、勝利の暁は銭三百貫文を寄進せん』との願文を奉って祈願したところ、観音堂の屋根から白鳩が舞い立ち、妻籠城の天守にとまった。このようなことがかつて義仲の昔、倶利伽羅峠の合戦の時もあって大勝利を得たという古事を聞いた義昌方の将士の士気が大いに上がり敵を打ち破ることができた。戦後義昌は銭300貫を兜観音に寄進したという。
 1585年  天正13年    40歳  秀吉四国平定。官兵衛軍師として貢献。  
     3月26日      秀吉から義昌に感状が出される。
山村良勝は妻籠城篭城戦の功により秀吉から書を賜った。
       四国攻めの時は諸将に先んじて淡路に派遣された。(郡文書)  
     3月26日      秀吉から義昌に感状が出される。
山村良勝は妻籠城篭城戦の功により秀吉から書を賜った。
         宇喜多軍の検使として四国に入る。この遠征は秀長が総指揮をとり秀吉の出馬はなかった。  
     8月6日    長宗我部元親が秀長に降参して四国制圧は成った。  
   天正14年  4月10日   黒田孝高は九州攻めの時も先発する。北九州の諸大名の人質を徴収。   
     7月    黒田孝高は毛利軍の検使として九州へ向け出陣した。(吉川家文書、毛利家文書、黒田家譜)  
     8月12日    この日付の秀吉書状(黒田家文書)の宛名に「黒田勘解由次官(かげゆ)」とある。  
     10月4日   豊前小倉城を攻略。  
         続いて馬岳、時枝、宇佐城を降し島津攻めに備えて竜造寺氏と大友氏の和を斡旋する。(吉川家文書)  
     11月    黒田孝高は小早川隆景らとともに豊前宇留津城・筑前障子岳城を攻略した。  
     12月    黒田孝高は筑前香春岳城を攻略した。(吉川家文書ほか)  
         黒田孝高は豊前の陣中で越年。北九州は黒田孝高を参謀とする毛利軍によって大方平定を終えていた。  
 1586年          
     9月16日   副菅区長(コエリュ)師は白杵を出発し山口の市(まち)から一日半の旅程にある長門の国下関に向かった。   
        下関では浜辺にある2軒の貧しい家に分かれて4,5カ月を過ごした。   
        副菅区長(コエリュ)師は新しい山口の司祭館の地所を見たり自分を待っている古くからのキリシタンたちに会って彼らを慰めようとして下関から山口に赴いた。   
        そのような折に関白殿の側近で小寺官兵衛殿シアメンと称する貴人が都地方から陸路来訪した。   
        小寺官兵衛殿シアメンは2年前に高山ジェスト右近殿とその父ダリオおよび他の殿たちの説得によって大阪でキリシタンとなった。   
 1587年   天正15年    42歳  秀吉九州平定。九州豊前に十二万石を与えられる。  
   3月1日    秀吉自ら出陣。 黒田孝高はその後も豊前・豊後を舞台に活躍した。  
     5月8日    島津義久の降  
     7月3日    黒田孝高は豊前の京都・仲津・築城・上毛・下毛郡及び宇佐郡の一部を与えられ馬岳城主となる。  
         黒田孝高は後中津川城に移る。  
     9月    佐々成政の封じられた肥後で地侍が蜂起。豊前の諸氏も孝高に反抗の姿勢を見せた。  
     9月24日    河内丹北郡内五百石の地を与えられるがこれは妻子堪忍料だという。(黒田家譜)  
 1588年   天正16年   43歳   黒田官兵衛中津城を築城

本丸北側の石垣:向かって右が黒田時代左が細川時代
 
   5月    「重修譜」によると従五位下勘解由次官(かげゆのすけ)に叙任とある。
しかし「黒田家譜」はこの叙目(じもく)を天正14年とする。
 
         黒田孝高は姫隈城を攻め落としさらに吉川経言(広家)らの援を得て賀来・福島城も攻略。(吉川家文書、黒田家譜)  
         鬼ケ城の城井鎮房はなかなか従わなかったが黒田孝高は息女を城井鎮房の妻にし子長政に鎮房の娘を娶らせて二重に婚姻を結んだ。  
1589年   天正17年  5月20日   黒田孝高は中津城に礼に来た城井鎮房をだまし討ちにしたという。 

中津城で謀殺された城井鎮房が埋葬された城井神社
 
     5月   黒田孝高は領地を嫡子長政に譲り隠居する。(黒田家譜) 出家して如水を名乗る。  
 1590年  天正18年  6月24日  45歳  秀吉に従い小田原攻め。
小田原城へ乗り込み北条氏を説得して無血開城に成功する。
秀吉天下統一。
 秀吉が小田原の北條氏を攻めた時、秀吉は木曽氏を家康の旗下に入って参戦するよう下知した。義昌は病と称して義昌の長子仙三郎(後の木曾家二十代義利)がこのとき14歳で従軍している。
         小田原陣に従軍。(伊達家文書)北条氏政父子に和議の使いとして遣わされた。  秀吉が北条氏を亡ぼして天下を統一すると秀吉は家康に関東八州を与え義昌も家康配下の信濃の諸大名とともに関東へ行き、家康の指図に従うよう命じられた。
           義昌は行き先不明のままあわただしく木曽を発ち途中の諏訪で移封先が下総国(千葉県)海上郡旭町阿知戸(蘆戸網戸)とわかったという。(現在の千葉県旭市)一万石に封ぜられた義昌は網戸村近くに居城した。その際、義昌の連れた従者が山村良勝、千村平右衛門、川崎与左衛門、島崎与右衛門、馬場半左衛門等13人に過ぎなかった。(木曽殿伝記・木曽考)
           木曽氏二十代の義利は父義昌とともに木曽から移封となって下総の国海上郡網戸(現千葉県旭市)一万石の城主となった。義昌の舎弟上松蔵人は名を義豊と言い共に網戸に移った。
           秀吉は木曾義昌を関東に追放してその後へ配下の大名を据えることなく、木曾全域を自ら蔵入地として押さえこんだ。秀吉は配下の石河備前守光吉犬山城主を木曽代官として、木曾山林と木曽川と飛騨川の運材ルートの支配を委ね、木曾山から聚楽第・伏見城などの造営用材を採運させた。
     7月5日    小田原が開城されると黒田孝高は城請取りの使いを務めた。  
        黒田孝高は秀次より加増を受けた。(黒田家文書)   
 1592年  文禄元年   47歳   秀吉が朝鮮へ出兵。
その命により朝鮮へ渡る。
 
     1月    秀吉は朝鮮に出兵  
     8月    黒田孝高は使いとして京城へ赴いた。  
 1593年  文禄2年   48歳   朝鮮出兵には消極的で秀吉の許可なく帰国して蟄居謹慎をこうむる。
そのため頭を剃って出家し如水円清と号するようになる。
 
     2月    黒田孝高は浅野長吉(長政)とともに渡海する。(黒田家譜)  
1595年   文禄4年  8月21日    黒田孝高は播磨の地千九百七十石余りを加増される。(黒田家譜)  
     3月13日      網戸城一万石の城主木曽義昌は56歳の生涯を終える。法名、東漸寺殿玉山徹公大居士。『網戸誌』によると義昌の遺骸は遺言によって網戸城の西北椿湖の水中に葬られたという。東禅寺の住職によると「義昌公の奥方の真理姫は武田信玄の娘であるが信玄は諏訪湖に水葬されたといわれている。信玄に関しては確かなことではないようだが義昌公の水葬は史実だ」という。元禄年間この椿湖が干潟になってからここに墓碑が建てられた。『木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれた墓碑は水田の中にある。菩提寺は悦道和尚開基の真言宗東漸寺であり義昌愛用の兜、弓、画像などのほか義昌を偲ぶ古文書などが残されている。義昌死後義利網戸城主となる。(木曽考・木曽殿伝記・士林泝)
           義昌はわずか五年を過ごしただけの網戸で偉大な足跡を残していた。義昌は弁天沼や浅間沼といった湿地帯を干拓して水田にし米の増収を図って年貢を軽減農民生活の安定を目指した。銚子街道が湿地のために通行が不便だったのを改修した。城下町の整備はもちろん領内の繁栄を図るために宿場町として整備したり市場を開いてにぎわいをつくりだした。義昌夫人の真理姫も婦人病に霊験があるとされる淡島神社や十一面観音を勧請して人心の安定を図った。など名城主として語り継がれ「木曾殿」とか「義昌公」と言って慕い続けられているという。今網戸は義昌の祖・旭将軍義仲からとって旭市になりお墓のある所も公園に整備され義昌を讃えて造った銅像は木曾を向いて建っているという。
           木曾義昌は出生以来隣国甲斐の武田信虎が信濃の侵略を始めたころから信玄・勝頼と三代に渡る戦国動乱の世を生きぬき、武田家滅亡後は織田信長に従いまもなく信長が本能寺で明智光秀の謀反によって討たれると徳川家康と盟約しまもなく豊臣秀吉に従うなど義昌の歩んだ奇跡は木曾領民の安堵のために心身を攻め抜いた生涯だった。木曾家臣や領民が侵略者と対決の場面はあっても戦いによる木曾氏の滅亡を回避し領民が侵略者の屈辱に耐えなかった記録はないことは木曾義昌の業績といえる。
 1596年  慶長元年       父没後網戸城主一万石の家督を継いだ義利は叔父の義豊を殺した。ことから徳川家康は改易(所領や屋敷を没収すること)を命じた。名器『鈴虫』の轡世義昌の弟義豊が使用していた。義利は父義昌がかつて信長より賜った鈴虫のくつわを叔父義豊が掠め取ったとして義豊を害したのである。木曾義利の行状を耳にした家康は早速改易の処分をした。義仲から四百二十年余り続いた木曽氏は二十代義利の代に没落した。改易の年月は不明だが慶長の初年といわれている。
木曾義利は追放されその封地は家康の直轄地となった。山村氏は浪人となっていた。 
 1597年  慶長2年      黒田孝高は再び朝鮮に渡海。  
 1598年  慶長3年     黒田孝高は秀吉の死に際して帰朝した。(黒田家譜)   
1600年  慶長5年         石川光吉は豊臣秀頼の命により伊那川橋及び波計桟道(今の桟)の改修工事を行った。
       55歳  関ヶ原の戦いで東軍徳川家康が西軍石田三成を下す。
官兵衛は中津城で九千の兵を集め九州の関が原と言われる石垣原の戦いで勝利。
九州の大半を制圧するが家康の命令で停戦する。

官兵衛が陣を置いた実相寺山から激戦地となった別府市内を望む。
 石田三成の挙兵により関が原戦が起こる。家康は秀忠に中山道を進ませた折、秀忠は妻籠城に止宿している。
           のちの二代将軍秀忠に兵三万余を託して中山道を上らせ大坂方の軍勢を美濃の関が原で挟撃することにしたが大坂方の武将石川備前守光吉の守る天下の難所木曽を通過することを憂慮した。
           そこで家康は、浪々中の木曾氏の遺臣、山村甚兵衛良勝(たかかつ)と千村平右衛門良重の両氏を小山の陣営に召しだし、大坂方の武将真田昌幸、石川光吉らが守衛する信濃の国を奪い東山道を西に向かう秀忠の軍勢を先導するように命じた。
家康は本多正信らの献策を入れ木曽にゆかりの深い木曽義昌の旧臣で浪浪中の旧士族たちを利用し塩尻から木曽谷にかけて蟠踞する三成の腹臣石川光吉の勢力を掃蕩せしめようとしたのである。
           山村甚兵衛良勝(たかかつ)と千村平右衛門良重の両氏は旧地回復の好機とこれを引き受け、各地に離散した山村・千村・馬場・三尾らの一族、木曽衆をあつめ、木曽にむかい、塩尻まできたとき、「木曽を攻略した」と秀忠のもとへ飛脚を出した
     8月12日      木曽へ攻め込み、木曽在住の旧臣と呼応してたちまちのうちに石川光吉の軍を木曽から追い払い、さらにすすんで、苗木の旧主遠山友政とともに、美濃の国苗木・岩村の二城をぬき、東濃の西軍を一掃する大功をたてた。
           関が原へ急がねばならぬ徳川秀忠が、途中で真田昌幸と一戦を交えたばかりに、合戦は終わったという知らせを聞いたところも妻籠城である。

妻籠城跡
     9月16日      秀忠の軍は東信の上田において真田昌幸、幸村父子の反抗になやまされたが、遅れて無事木曾に入り、この日、福島の旧木曾家の館今の福島小学校の地に止宿した。このとき山村良勝を召して功を賞し、金のしの太刀一ふりを賜った。
     10月      山村氏は浪人となっていたが、家康は関が原の軍功(家康の命により秀忠の先鋒として豊臣領となっていた木曽を取り戻した功績)を高く評価し家康は旧領に替えて、木曽衆に美濃国のうちで一万六千二百石を与えべつに良勝の父木曾義昌旧臣の山村良勝(たかかつ)の父山村良候(たかとき)(号道祐)を幕府の直轄地に組み入れた木曽の代官に任命して石川光吉の山河支配を継承させた。
           山村氏は木曽代官として福島に居館を構え香川県一県の広さに相当するといわれる広大な木曽の民政と山林の管理を任され江戸時代を通じて世襲することになった

山村代官屋敷
         関ヶ原の戦いには子長政は家康と行動を共にしたが黒田孝高は中津の留守居を務めた。  
     9月15日   黒田孝高は旧領回復を目指す大友義統と石垣原に戦ってこれを破り大友義統を捕虜にした。(黒田家譜)  
         黒田孝高は安岐城、小倉城を落とし北九州を平定した。(黒田家譜)  
         関ヶ原の戦いの功により黒田長政は筑前福岡五十二万石余りに封じられ黒田孝義高も福岡に移る。  
 1601年  慶長6年      黒田孝高は九州平定の軍功を賞される。
仕官については固辞したという。(黒田家譜)
 家康は良候(たかとき)を召して良勝等の功を賞し、山村千村氏等一族に下総国網戸一万石と木曾を賜ったが、良候は「木曽は良材に富み私有すべきでないよろしく天下の公領とすべきである」と受けなかった。家康はこれを容れ、あらためて美濃国(岐阜県の一部)で一万六千二百石を与えた。良候(たかとき)はこれを家臣に分け与え自分はその内の五千七百石を良候と良勝の父子で受けることにした。徳川家康はこれを聞いてさらに良候に木曾で毎年白木(皮をむいた材木)六千駄を賜ったが、木曽は耕地が少なく木材で生きねばならぬからこれを木曾の住民に与えて貰いたいと辞したので、家康はこれを容れ、別に良候に五千駄(だいたい馬一頭に背負わせるぐらいの重さが一駄)を与えた。山村氏にはその後も、五千七百石と白木五千駄が与えられた。
         関ヶ原の戦いのあと姫路城は池田輝政が城主となった。1601年から8年間かけて姫路城の拡張と大改修を行った。  
         さらに本多忠政により西の丸などが整備されて現在の姫路城が姿を現した。  
   慶長6,7年頃        木曾街道に中山道六十九次の内、十一宿の宿場ができ、馬籠、妻籠、三留野、野尻、須原、上松、福島、宮の越、薮原、奈良井、贄川が宿駅となった。中仙道は、近江の草津追分より江戸まで百三十二里廿二丁(約五二〇粁)といわれ、東海道より十里(約三九粁)長いが、大井川の川止めがないため旅程は短かった。はじめは、各宿に人足五十人と伝馬五十匹を常置させた。
           木曾を通過する参勤交代の大名は卅四家であり、加賀の前田候のごとく東海道通行の大名で木曾を迂回したものもあった。勅使の下降、徳川家より皇室への上使、日光例幣使、老中、奉行の巡見等高貴の方の通行は頻繁であった。このような高貴な方々の福島本陣泊まりは一ヵ年平均五十件余に及んだという。またお茶壺道中といって、宇治より天下の名器に茶を入れ献上するという行列もあった。
           大名行列は、行軍の形式をとったものであり、各宿場には「枡形」と云って道を直角に曲げた所が一,二ヵ所作られた。敵の防禦に備えたものである。
 1602年  慶長7年        福島に関所が設けられた。東海道の箱根、新井、中仙道の碓氷の関所とともに最も重要な四大関所のひとつであった。
福島関所
    11月20日      山村良候(たかとき)が福島で卒去し、長福寺に葬られている。
           二代良勝がその後をつぎ、さらに幕府直轄の福島関所の守関を兼ねることになった。明治2年13代良醇(たかあつ)の代まで274年にわたって山村氏は木曽を支配した。
石高7500石他に知行同意に白木5000駄(石に直すと1800石の材木)を給付され福島関所の関守として幕府から旗本の一種交替寄合の待遇を許されまた尾張藩では大寄合という重臣の列に並び江戸と名古屋にも屋敷を賜っていた。
 1603年 慶長8年       徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた。
徳川家康は全国にある山林や金銀の鉱山を統括して幕藩体制の強化を図った。
 
 1604年  慶長9年  3月20日  59歳  黒田孝高(よしたか)伏見の黒田藩邸で亡くなる(黒田家譜)キリシタン大名の一人であり洗礼名をドン・シメオンといい関ヶ原の戦いで小西行長が処刑された後は代わって宣教師の保護にあたったという。(切支丹大名記)  幕府は江戸日本橋を起点に36町を1里と定め、一里(三,九粁)ごとに五間四方、高さ1丈の塚を築き、塚上にえのきを植えさせた。一里塚という。一里塚は旅人の旅程標であり、また無料休憩所でもあった。
         「神の罰より主君の罰おそるべし」
「主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし。そのゆえは神の罰は祈りてまぬかるべし。主君の罰は詫び言をもって謝すべし。ただ臣下百姓にうとまれては必ず国家を失うゆえ祈りても詫び言してもその罰をまぬかれがたし。ゆえに神の罰君の罰よりも臣下万民の罰はもっともおそるべし」(江戸時代の儒学者貝原益軒が編纂した黒田家譜より)
 


 播磨・摂津  豊前・豊後
   




参考文献
JAF Mate2014 1・2
官兵衛駆ける   吉橋通夫  講談社  2013年 第1刷
黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国 松田毅一 川崎桃太  中公文庫  2000年
名将言行録を読む  渡部昇一   致知出版社  平成22年
名将と参謀  山内昌之 中村彰彦  中央公論社  2010年