木曽の歌

木曽節
木曽のナアーなかのりさん
木曽のおんたけナンチャラホーイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷なあーなかのりさん
袷やりたやナンチャラホーイ
足袋そえてヨイヨイヨイ


 
心ナアーなかのりさん
心細いよナンチャラホーイ
木曽路のたびはヨイヨイヨイ
笠にナアーなかのりさん
笠に木の葉がナンチャラホーイ
舞いかかるヨイヨイヨイ
木曽のナアーなかのりさん
木曽の名木ナンチャラホーイ
ひのきにさわらヨイヨイヨイ
ねずにナアーなかのりさん
ねずにあすひにナンチャラホーイ
こうやまきヨイヨイヨイ
三里ナアーなかのりさん
三里笹山ナンチャラホーイ
二里松林ヨイヨイヨイ
嫁ごナアーなかのりさん
嫁ごよくきたナンチャラホーイ
五里の道ヨイヨイヨイ
木曽のナアーなかのりさん
木曽の山寺ナンチャラホーイ
今鳴る鐘はヨイヨイヨイ
昔ナアーなかのりさん
昔ながらのナンチャラホーイ
初夜の鐘ヨイヨイヨイ
格調高い民謡で全国的に有名
「木曽のなかのりさん」の名でも知られる。
素朴な「木曽節」と優雅な木曽踊りとの調和は、長い歴史と伝統のもとに培われてきたもの。
鎌倉時代木曽家12代目信道が興禅寺を菩提寺として倶利伽羅峠の戦勝を祈念した霊祭で武者踊りが起源と伝われている。後に民衆に伝わり盆踊りとして広まった。
1915年大正4年も淘汰に現在の「木曽節」や「木曽踊り」が整理され当時の福島町長伊藤淳氏が木曽踊り保存会を結成して木曽節の宣伝に努め一般に知られるようになった。 
木曽でナアーなかのりさん
木曽で生まれたナンチャラホーイ
なかのりさんはヨイヨイヨイ
可愛ナァーなかのりさん
可愛がられてナンチャラホーイ
みやこまでヨイヨイヨイ
木曽節
木曽のナアーなかのりさん
木曽のおんたけナンチャラホーイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷なあーなかのりさん
袷やりたやナンチャラホーイ
足袋そえてヨイヨイヨイ
袷ばかりもやられもせまい
じゅばんは仕立てて足袋そえて
木曽の名所は桟、寝覚
山で高いのは御嶽山
心細いよ木曽路の旅は
笠に木の葉が舞いかかる
踊りましょぞえ躍らせましょぞ
月の山端にかぎるまで
木曽の五木はひのきにさわら
ねずにあすひにこうやまき
こぼれ松葉を手でかきよせて
主のおいでを焚いて待つ
木曽の山寺今鳴る鐘は
昔ながらの初夜の鐘
月はかたむく夜はしんしんと
やかたやかたで鶏の声
君が田とまた我が田とならぶ
同じ田の水畦畔ならぶ
木曽で生れたなかのりさんは
可愛がられてみやこまで


高い山
高い山から谷底見ればノーイソーレ
瓜や茄子の花ざかりノー
ハリワヨイヨイヨイ

ここのおせどにゃみょうがと富貴とノーイソーレ
みょうが目出度や富貴繁昌ノー
ハリワヨイヨイヨイ

目出度座敷のその真ん中でノーイソーレ
鶴と亀とが舞いあそぶノー
ハリワヨイヨイヨイ
木曽谷では、祝い唄、式唄として欠くことのできないものとされている。
結婚式の披露宴や、その他の祝宴で祝い唄として最も重い唄とされている。
木曽福島町水無神社の例祭で神輿をかついで町内を練り歩くときにも唄われる。


木曽甚句   
木曽の深山に伐る木はあれど思いきる気は更にない
思いこんだにそわせておくれ神も仏も親様も
主の心と御嶽山の峯の氷は何時とける
私しゃ奥山一重の桜八重に咲く気は更にない 
主を慕うてこの木曽川え浮名流したこともある
石の冷たい寝覚めの秋はさんさ時雨に濡れてゆく
 
   
   



開田嫁入り唄(こちゃ節) 
1   今宵この家の小娘をそーれ
花にして一枝国のみやげに
こちゃ一枝国のみやげに
     
 2  娘をやりて出てみればそーれ
傘の端がほのかに見えつ隠れつ
こちゃほのかに見えつ隠れつ
 3  お前さんはどこの誰が娘そーれ
天竺の七曜の星の小娘
こちゃ七曜の星の小娘
 4 おまえは十九身も十九そーれ
枠の糸どちらが先に立つやら
こちゃどちらが先に立つやら 
5  お前さんと信じつ添いたさにそ―れ
丸山の観音様に願掛けた
こちゃ観音様に願掛けた 
 6  お前さんを待ち待ち蚊帳の外そ―れ
蚊に喰われ七つの鐘の鳴るまで
こちゃ七つの鐘の鳴るまで


初 恋  島崎藤村作詞 大中寅二作曲
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
  
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情けに酌みしかな
林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
文豪島崎藤村の姉、園は木曽福島町の高瀬家にとついでいる。
山口村馬篭は島崎藤村誕生の地で林檎の木は隣家の庭にあったといわれる。
この詩は明治29年「文学界」に発表の「一葉舟」の中の一編。  
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそうれしけれ
(島崎藤村は明治二十九年二十五歳頃[若菜集]の中にこの一篇を入れた。藤村詩集を見るとこの詩は4行4節となっておる。ところが最後に編んだ決定版藤村文庫の「早春」の中には3節は削除され最初の4節が3節となっている。25歳の折の作を昭和十一年六十五歳で訂正したのである。又4節目の最後の行は「問ひたまふこそうれしけれ」に訂正されていることにも注意せねばならぬ。)と野田宇太郎の「馬籠手帳」に記してある。


信濃の国(長野県歌) 浅井れつ作詞 北村季晴作曲
信濃の国は十州に
境つらぬる国にして
そびゆる山はいや高く
ながるる川はいや遠し
松本、伊那、佐久、善光寺
四つの平らは肥沃の地
海こそなけれ物さわに
万たらわぬ事ぞなき

十州は越後(新潟県)・越中(富山県)・飛騨・美濃・(岐阜県)・三河(愛知県)・遠江・駿河(静岡県)・甲斐(山梨県)・武蔵(長野県に接している部分は埼玉県)・上野(群馬県)の十国である。現在の県でいうと八県である。
まことに信濃には名実兼ね備わった高山・大河が多く、木曽の霊山御嶽は3063メートル、中央アルプスの盟主駒ケ岳は2956メートル活火山浅間山は古来著名な歌枕である。
千曲川・犀川の合した信濃川は長さでは日本一、天竜川は五位、木曽川は十位の大河である
木曽は全地積の95パーセントが山林で、その半ばは檜とさわらの良材である。すでに室町時代から京都の社等の造営に使用され、銀閣寺の造営などにも木曽檜が送られている。江戸時代に起訴の領主であった尾張藩徳川家はあつくこの山林を保護し「木一本首一つ」と称して住民の伐採を厳禁した。この美林は皇室財産として引き継がれ、今は国有林となっている。しかしこの美林はあくまで領主、為政者のためのものであり、住民は長くその犠牲になった。藤村の生家島崎家の没落の一原因は、住民の代表として官有林払い下げ運動にまきこまれ敗れ去ったことである。
諏訪湖の漁獲高は長野県の川や湖でとれる全漁獲高の約三分の一である。
信濃の養蚕は近世末期から盛んであったが、明治五年ごろから機械製糸ができはじめ、明治十七年には工場数三百十一製糸生産高八万貫で早くも日本一を占めた。昭和四年には工場数八百四十七、生産高二百七十三万貫に達し、製糸王国長野県の名は全国に高かった。その後昭和恐慌と長い戦争による打撃のため、養蚕・製糸は日の当らぬ片隅で細々とその命脈を保つだけになったが、その歴史的な栄光は、、長野県民には忘れられぬ思い出である。
四方にそびゆる山々は
御嶽、乗り鞍、駒ケ岳
浅間はことに活火山
いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は
北に犀川、千曲川
南に木曽川、天竜川
これまた国の固めなり
木曽の谷には真木茂り
諏訪のうみには魚多し
民のかせぎも豊かにて
五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて
蚕飼の業のうちひらけ
細きよすがもかろからぬ
国の命をつなぐなり
尋ねまほしき園原や
旅のやどりの寝覚の床
木曽の桟かけし世も
心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯
月の名にたつ姨捨山
しるき名所と風雅士が
詩歌に詠てぞ伝えたる


「園原」は下伊那郡阿智村にあり、東山道が神坂峠をこえて信濃にはいったところにあたる。 名木帚木・伏屋とともに歌枕として有名。 
「寝覚の床」は古くは歌枕であったかどうか明白でない。 寝覚の床という語句を含む古歌はたくさんあるが、たとえば信濃古歌集に引いてある寝覚の床の歌二十四首はほとんど普通の意味の寝覚の床であって、信濃の特定の歌枕を詠んだと思われるものは、年代の新しい一,二首に過ぎない。
かけはしは、桟道のことで、けわしいがけに丸太などをかけ渡したものをいう。木曽路はけわしく、断崖をけずりとって、ようやく道を通じているようなところが多かったのでかけはしが多く、それが有名になって歌枕にもなったのだろう。
大宝二年(702)美濃の国に木曽山道を開く
和銅6年(713)に信濃・美濃の国堺に木曽路を通じたことが「続日本紀」に見える。
木曾は美濃・信濃にまたがっていて、平安時代初期にも国境争いが起こったことがある。
   なかなかにいひもはなたで信濃なる
          木曽路の橋のかけたるやなぞ
(拾遺・源頼光)
もとは特定の一か所をさしたのではあるまいが、いまは木曽福島町と上松町との中間、上松町沓野部落の下の国道のあたりだとされ
   かけはしや命をからむ蔦かづら       (芭蕉)
の句碑が路傍に立っている。
「久米路橋」は大和葛城郡の橋が本家らしく、水内橋(上水内郡信州新町と長野市信更との間の犀川にかかる)を久米寺橋とこじつけたのは近世以降であろう。
「筑摩の湯」は古代から有名であった。[日本書紀」に、天武天皇が、六八五年、信濃に行宮を造るため使者をつかわした記事がある。その目的は「束間の温湯」に行幸するためであった。「宇治拾遺物語」には、「信濃につくまの湯という所によろづの人のあみける薬湯あり」という書き出しで、観音が筑摩の湯に入湯する話が出ている。このように古来著名な温泉だが、歌枕としてはさびしく、勅撰集には
   出づる湯のわくにかかれる白糸は
         くる人絶えぬものにぞありける
(後拾遺・源重之)
の一首があるだけで、この歌も詞書によってかろうじて筑摩の湯の歌だとわかるありさまである。松本市郊外の山辺・浅間温泉郷がそのなごりだろうといわれる。
「姨捨山」は信濃の歌枕中もっとも著名なもので、「古今集」「大和物語」の
   わが心なぐさめかねつさらしなや
             姨捨山にてる月を見て

の古歌以来、「姨捨山」や「更科の月」を詠んだ詩歌は数えきれない。いまは姨捨駅に近い長楽寺境内の大岩を姨を捨てたところと言い伝え、元禄元年(1688)ここを訪れた芭蕉も、「姨捨山は、八幡という里より一里ばかり南に、西南に横をれて、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、ただあはれ深き山のすがたなり」と説明している。芭蕉のころはすでに今の場所が姨捨山と呼ばれていたわけだが、古くは塩崎(長野市篠ノ井)長谷観音の裏の小長谷山のことだったといい、また冠着山のことだったともいう。
旭将軍義仲も
仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も
象山佐久間先生も
皆この国の人にして
文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ
川と流れて名は尽ず
吾妻はやとし日本武
嘆きた給いし碓氷山
穿つとんねる二十六
夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば
昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる
国は偉人のある習い
尋ねまほしき園原
旅のやどりの寝覚の床
木曽の桟かけし世も
心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯
月の名にたつ姨捨山
しるき名所と風雅士が
詩歌に詠てぞ伝えたる
歌によく詠まれる名所を歌枕という。信濃の国の4番は信濃の歌枕を列挙したものである。(赤字の語が歌枕)
安貞元年(1227)歌人・藤原定家が信濃知行国主から信濃の国務を請負い、使者を派遣して視察させた。その使者が信濃視察の結果を定家に報告したが、そのなかで、使者は、つぎのように言っている。
 先ず桟なく、皆その路を作り、人馬の通路となす。更科の里は姥捨山(里の南西にありと云々)に対す。浅間の嶽燃ゆ(峰石の焼くるなり。昼は黒煙立ち、夜は火気見ゆ)。千曲川は大河なり。国中を廻り流る。
この報告も、おもに歌枕についてのものである。都の人は、木曽のかけはしというのは、橋のことだと思っていたが、木曽路を通ってみると、そういう橋がなかったので、「桟なし」と報告したのであろう。
おそろしや木曽のかけ路の丸木橋
  ふみ見るたびに落ちぬべきかな
                (千載集空仁法師)
木曽の桟
かけはしは桟道のことで、険しいがけなどに板などをかけた道のことである。川のこちらがわから、むこうへかけわたす橋のことではない。木曽路は、けわしくて、断崖をけずりとって、ようやく道を通じているようなところが多かったので、かけはしが多く、それが有名になったのであろう。ところが都の貴族は実際に木曽路を通ったことのない人が多かったので、木曽のかけはしというのは、丸木橋のことだろうと思っていたらしい。


朝日将軍 福沢青嵐作詞作曲
朝日将軍義仲公と
おらが在所はひとつでござる
巴御前も山吹姫も
おらが隣の姉さじゃないか
今井兼平樋口の次郎
鬼の血筋に生まれもすまい
同じ木曽路の育ちじゃものを
彼等ばかりに威張らすものか
 


惜別の歌 島崎藤村作詞 藤江英輔作曲
遠き別れに耐えかねて
この高楼にのぼるかな
悲しむなかれわが友よ
旅の衣をととのえよ
 
別れといえば昔より
この人の世の常なるを
流るる水をながむれば
夢はずかしき涙かな
君がさやけき目の色も
君くれないの唇も
君がみどりの黒髪も
またいつか見んこの別れ
君の行くべき山川は
落つる涙に見えわかず
そでのしぐれの冬の日に
君に贈らん花もがな


 木遣唄(きやりうた)  
 一  今日は吉日天しゃ日 木曽の深山で
育てたる 日の本一のこの檜
伊勢の社に納めます
       
 二  香りも高き木曽檜 大樹の幹を伊勢様へ
送り届けりゃ木曽人の
山の誇りもいや高く
 三  今日はめでたい 初曳きよ 待ちに待ったる
御神木 綱にすがりて皆様の
真心こめて送ります
 四  木曽の深山のその奥で
御嶽、乗鞍、駒ケ岳 眺めて育ったこの檜
今日はめでたい御神木
 五  神楽太鼓の音高く 笛の音高く木曽谷の
山々こだます祝い唄
お伊勢様へと届くよう
 六  今日は日もよし天しゃ日 お伊勢様へと
やるわいな やるというたらやるわいな
めでたく到着頼みます
 七  木曽の深山で生まれたる 檜の幹を伊勢様へ
送り届けりゃ木曽人は
山の誇りもいや高く
 八  木曽の深山で幾星霜 育てた檜の美しさ
これぞ信濃の誇りぞと
伝えよ永久に残すよう


千曲川旅情のうた     島崎藤村 作詞  弘田竜太郎 作曲
小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子悲しむ
緑なす
  

桟を詠んだ歌
なかなかに言ひもはなたで信濃なる 木曽路のはしのかけたるやなそ 美濃守源頼光(拾遺集)
恐ろしや木曽のかけ路の丸木橋 ふみ見る度に落ちぬべきかな 空仁法師(千載集)
分暮す木曽の桟絶え絶えに 行末ふかき峯の白雪 後京極摂政(続拾遺集)
浪と見る雪を分けてぞ漕ぎ渡る 木曽の桟底も見えぬは 西行法師(山家集)
浅ましやさのみはいかに信濃なる 木曽路のはしのかけ渡るらむ 実重(千載集)
わりなしや渡り難きは信濃なる 木曽路のはしの絶間なりけり 紀伊(堀川百首)
雲もなほ下に立ちけるかけはしの はるかに高き木曽の山道 源頼貞(新後拾遺集巻10)
秋もなほ木曽路の橋の危さを 知らでや月のすみ渡るらむ 左大臣(新続古今)
旅人のかつく袂に雨見えて 雲たちわたる木曽のかけはし 蘆庵(六帖)
いにしへのなうの御世よりかけそめし 木曽のかけ路のあれずもあるかな 真淵(家集)
思ひきや年月名のみ聞き渡る 木曽の桟けふ越さんとは 烏丸光栄
危さは名のみ残りて今更に 渡るに易き木曽の桟 不知読人
ふる雪に木曽路の谷はうつもれてかけても橋は見えぬ頃かな 源三位源頼政(拾遺和歌集)
正岡子規の『かけはしの記』
正岡子規は明治24年6月25歳の時芭蕉とは逆のコースでかけはしを訪れ『かけはしの記』を著している。
折からの木曽の旅路を五月雨 正岡子規
かけはしやあぶない処に山つつじ                        正岡子規 
     上松町桟
桑の実の 木曽路出づれば 穂波かな 正岡子規 
      旧山口村荒町なかのかや
かけはしや水へとどかず五月雨 正岡子規 
むかしたれ雲のゆききのあとつけて わたしそめけん木曽のかけはし 正岡子規  
白雲や青葉若葉の三十里  正岡子規
寝覚の床の絶景を見おろす上松町臨川寺の境内にこの句碑がある。正岡子規が馬籠峠でこの峠を越えれば木曽30里の峡中を出るというのでこして来た木曽路をふりかえりなつかしみ詠んだと『かけはしの記」に書かれている。この句碑は下伊那出身の北原痴山が師と仰ぐ子規の木曽路紀行をなつかしみ昭和11年9月子規の33回忌に建てた。南木曽町馬籠峠
島崎藤村と桟
島崎藤村は明治14年秋9歳の時東京に修行に行く際桟を通った。大正9年に著した童話「ふるさと」に『桟の猿』がのっている。
島崎藤村の「夜明け前」
木曽路はすべて山の中である。あるところは岨つたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いてゐた。
松尾芭蕉及び弟子の俳句
かけはしや命をからむ蔦かつ羅 更科紀行
芭蕉は「笈の小文」の旅の後、45歳のとき、貞享5年(1688)8月11日更科の名月を見るため越人を伴って尾張から木曽路に入り15日に更科到着。16日坂城に宿り 同中旬長野の善光寺に参詣後浅間山麓を通過月末に江戸に帰着した。その約20日間の旅の記を「更科紀行」という。
 かけはしの対岸へ橋を渡ってすぐの正面と岸に降りたところと二つあり宝暦の頃この桟の地を訪れた美濃の俳人咄々坊が芭蕉の句碑を建てようとしたが果たさず江戸で亡くなってしまった。そこで咄々坊の友人で福島の俳人巴笑が明和3年9月11日にそれまで木碑であったものを石碑として建てた。しかし崖くずれで地中に埋もれてしまったので文政12年(1829)秋8月美濃の友左坊によって新しく再建された。それが現在橋を渡って対岸にある角型の句碑である。明治初年には友左坊の句碑が道端に建てられていたが明治の国道改修で茶屋前の岩盤上に移されさらに国道19号線の工事で移されて対岸の現在地に建てられたわけである。これが橋の正面のものである。
 ところが地中に埋もれた古い句碑が発見された。旧地には友左坊の句碑があるため木曽町福島の津島神社の境内に明治15年に建立したという。
 さらに昭和になって上松町の有志が古い句碑は桟にあってこそ意義があるものだとし拓本をとりもう一基自然石に彫って建立したものが上手の句碑である。
木曽のとち浮世の人のみやげ哉 更科紀行
鳥居峠の山頂に木曽神社が鎮座し神社から薮原側に歩いてすぐの丸山公園にこの句碑が立つ。此の句碑は木曽代官山村良喬(俳号風兆)の揮毫になるものである。
ひる顔にひる寝しようも床の山
寝覚の床の入り口にある臨川寺の境内に明和7年(1770)に建てられた芭蕉の句碑
送られつ送りつ果ては木曽のあき 更科紀行
    
 信濃と美濃の国境の地馬籠の新茶屋にある句碑。この句碑は天保13年(1842)に芭蕉の供養のために建てられた。
 塩尻市楢川木曽漆器館の入り口近くにも此の句碑がある。側面に宝暦11年と刻まれているがこれは後に刻まれたものであることが『楢川村の石造文化財』に記されている。
送られつ別れつ果ては木曽の秋 更科紀行
桟橋や先づ思ひ出づ駒迎へ 越人(更科紀行)
あの中に蒔絵書きたし宿の月 更科紀行
身にしみて大根からし秋の風 更科紀行
霧晴れて桟橋は目もふさがれず 越人   更科紀行  
義仲の寝覚めの山か月悲し    元禄2年(1689)8月14日越前の国にての吟
木曽の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉庵十三夜
「更科紀行」から帰った後、貞享5年(1688)9月13日夜深川の芭蕉庵に素堂、杉風、越人、路道、宗波、苔翠、反五夕菊ら俳客8名を招いて後の月見の会を主催した折の作。9月30日元禄と改元。
木曽の情雪や生えぬく春の草 義仲寺草庵で詠む
椎の花のこころにも似よ木曽の旅
旅人のこころにも似よ椎の花
年の暮れとちの實一つころころと 荷ケイ
このとちの實は芭蕉が木曽路を通ったときの土産であろうといわれている。
やまぶきも巴も出る田うへかな 
元禄6年(1693)芭蕉50歳の夏江戸から彦根に帰る道すがらの吟
山吹も巴もいでて田植えかな 許六
   
  徳音寺の集落を外れて狭い道を抜けた所にある山吹山直下のS字状をなした巴が淵に此の句碑がある。義仲の愛妾巴御前にちなんだ場所で此の淵に住む竜神が巴御前に化身して義仲の生涯を守り続けたという伝説がある。
うき人の旅にもならへ木曽の蠅 元禄6年(1693)の句
夏川の音に宿かる木曽路哉 重五
其春の石ともならず木曽馬    乙州
さざれ蟹あし這のぼる清水哉 芭蕉
  木曽代官山村氏の屋敷跡の一部にあたる木曽教育会館の洋風建物がある敷地の一角に木曽郷土館がありその小庭にこの句碑がある。
杜かけに われらもきくや 郭公 芭蕉
   木祖村薮原神社
雲雀より うへにやすらふ 峠かな 芭蕉
   鳥居峠丸山公園
おもひ出す 木曽や四月の さくら狩 芭蕉
   木曽福島町荒町くるまやそば店前、国道19号線上り車線の脇にある。
   中山道の加茂七茶屋の庭先にあたる所。
さまざまの ことをおもひだす 桜かな 芭蕉
   王滝村鳳泉寺
塚も動け わがなく声は 秋の風 芭蕉
   上松町緑町観音区
著名な歌人等のうた
山の上の清き月夜に出て踊る 木曽の踊は神代のなごり  女流歌人今井邦子
木曽踊は古い歴史と伝統を持っていて木曽踊という言葉が記録に現れるのは室町時代の終わりごろである。その頃の『閑吟集』に『7月がおじゃれば木曽踊り始めて振りようおどろうよ。とかくおどらにゃ気が浮かぬ』とあるように今から400年も昔に盆踊りとして木曽踊が京都で流行していたことが知られる。又江戸時代の『信濃奇勝録』に民謡記事として木曽踊がとりあげられている。
風越の峰の上にて見るときは雲はふもとのものにそありける 藤原家経(詞花集)
風越の峰こえくれは木曽路川なみもひとつにうつ蝉の声 鴨長明(詞花集)
ふきのほる木曽の御坂の谷風に梢も知らぬ花をみるかな 鴨長明(続古今集)
谷風に雲こそのほれ信濃路や木曽の御坂の夕立の雨 千恵法師(新千載集)
この山にすつる命はおしからで あかではなれし父ぞ恋しき  白川阿古多丸
白川阿古多丸は、京都の北白川に住む宿衛少将重頼の一子で姉の利生御前と共に父母の寵愛を受けて成長したが、母が突然の病でなくなり、父は継母をむかえた。継母はことごとにこの子弟につらくあたるので、阿古多丸は父母の家に住むことができず、父母の叔父にあたる奥州の中納言氏家を頼って木曽路の板敷野(木曽町福島板敷野)まで来た時旅の疲れと病のためにこの辞世の歌を残して15歳で亡くなってしまった。
先たつも後るも同じ草の露 何れの秋ぞあはで果つべき 利生御前
その後夢枕に立った阿古多丸から継母の策によって家を出て行ったことを知った父重頼は姉の利生御前と共に阿古多丸の亡くなった板敷野を訪れた。 姉利生御前はこの歌一首を残し弟阿古多丸のあとを追い墓前で自害した。 父重頼は姫をねんごろに弔い初七日の後に二人のわが子の墓前で自害した。風の頼りにこのことを聞いた継母は、自分の所業のあさましさを悔い京からはるばるこの板敷野を訪れこれまた墓前で自害したという。     
士に何をか問ん青あらし 也有
上松町臨川寺境内に黒色の粘板岩の小さな自然石に彫られ建てられている。巴笑と福島の連中によって建てられた。横井也有は尾張藩の重臣であるが俳句、和歌、狂歌、書画と何でもこなした文化人で俳文集「鶉衣」を著す
俎板のなる日はきかず閑んこ鳥                        也有
 尾張藩の重臣の横井也有が延享2年(1745年)藩主に従って山村代官屋敷に泊ったとき山村代官から厚いもてなしを受け御馳走に鯛や鰤まであり山の中といった感じは少しもないと誉めた上で「ゴチソウサマ」とあいさつがわりに一句呈上したという。この句は山村代官屋敷東門跡に残っている。
ふきおろす松の嵐も音たえて あたりすずしき小野のたきつせ 浅井洌
梟は花の浮世を晝寢かな 黒地堂 尾海
鳥類は昼眼明らかに、夜は目の見えざるが生得也。その中に梟は昼中は少しも見えざる故、木の茂みにかくれ住みて、世の中の色香も知らず、やうやう日暮れて眼明らかに飛びあるけど、夜の事なれば世上は皆しづまり、何のけしきもなく、食物も心にまかせず、やうやう寝鳥などを取りくふのみにして、夜が明けくれば又盲目のごとく飛びもならず、人を恐れてこの下闇にかくれて一生を送る、是人界にも此処の有様多くあり。過ぎし宝暦十二年の夏私用有りて、木曽路にかかり、上ケ松という宿より一里半程北、曲宮といふ所に留りしに蚊は一匹もなし、江戸ならば蚊屋を釣るの何のと世話ならんといひしに、宿の亭主と見えて六十余りなるが、其の蚊屋といふものは如何様の道具にて御座候哉、どのやうな形にて候や、是までつひに見ず。江戸といふ所も有りとはきけど、用事もなければ行かずといふ。又翌朝出立の前に至り、朝飯を食べる時、予れ持参せし浅草海苔を取り出だし、焼きて汁に入れしを、あるじ見て、それは何にて候やと尋ねる故、是は海苔なりといふに、未だ合点行かずと見えて、此の地に糊と申し候は、行燈障子抔張り候時つかひ候と申す故、其の糊にてはなし、是は海より出でて、畢竟いわば、海水の垢のやうなる物と言えば、此の畢竟という詞又通ぜずと見えて、主が顔を永め至り、其の宿を立つ折柄、浅草海苔一枚あるじにつかはしければ、ことの外よろこび、少々ずつちぎりてあたり近所へ配りて吹聴す。予れ思ふに、此のあるじは鳥類と人とかはれど、此の発句の梟同然の境がいなり、娑婆に生れたりといふばかりにて、人と名を付けたるばかりと思へども、其れにても一生是にても一生なり。云々。(歌俳百人撰巻の一)
寝覚の床と古歌
浦しまのよはいものべよ法の師は ここに寝覚の床をうつして  綾小路宰相有長
谷川の音には夢も結ばじを 寝覚の床と誰が名つくらん 近衛摂政家照公
老の身におもひをそえて行道の 寝覚の床の夢もうらめし 小倉大納言実起公
岩の松ひびきは波にたちかはり旅の寝覚めの床ぞ淋しき 貝原益軒
山里はねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那 細川幽斎

                          

木曽義仲火牛太鼓   木曽義仲が5万の兵を率いて北陸路を京に攻め上がり平家10万の大軍を相手に火牛戦術で大勝した越中倶利伽羅峠の合戦を表現した。1970年代初頭旧福島町で結成された。途中休止期もあったが2010年(平成22年)木曽義仲巴御前全国連携大会での演奏を機に復活後世に継承すべく活動が続けられている。  

 巴太鼓  1985年昭和60年日義駒見地区の女性たちによって生まれた太鼓連。木曽義仲に従って上洛した華麗な女武者巴御前にちなみ女性だけの太鼓連であることから「巴太鼓」と命名された。  
 開田若駒太鼓  平成元年に地元の若者有志で結成。  
 御嶽響太鼓  1985年昭和60年旧三岳村の同好会員と役場職員によって発足。1998年(平成10年)の冬期長野五輪への出演奏を辞退したがその五輪の揃い打ち演奏の感動が「符節御霊太鼓」の誕生を導き「子供わかば会」の結成など太鼓ブームを巻き起こした太鼓連。  

                             

参照文献
木曽 木曽教育会郷土館部編
信濃・木曽路     宝文館
しなの夜話    小林計一郎    社団法人信濃路
木曽町を学ぶ   木曽町観光協会

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