中山道

時 代 年 号 事     項
「日本書紀」はヤマトタケルが東国平定の帰途、上野国から碓氷峠を越えて信濃国に入り、伊那路から神坂峠を越えて、美濃国、尾張国に出たことを伝えている。
奈良時代 神坂峠越えの伊那路(天竜川筋)から鳥居峠越えの木曽路(木曽川筋)に切り替えられ、それが江戸時代まで踏襲される。
 戦国時代  天正18年(1590年)  天下統一を果たした豊臣秀吉が木曽を直轄領とし贄川に蕃所を置いたことが知られる。
江戸時代 慶長5年(1600) 徳川家康は関が原の合戦に勝利して天下の権を握った徳川家康も東西の交通の要衝を抑える軍事的意味合いのみならず木曽で産出される豊富な木材とそれらの流通路を掌握する経済的意図を持って木曽を直轄領として支配した。
   慶長5年(1600)  徳川家康により福島に居を構えた山村家が木曽代官に任じられ木曽を支配した。
慶長6年(1601) 京と江戸を結ぶ東海道に点馬制をしき、続いて中仙道などの主要路を幕府直轄として、いわゆる五街道の整備をすすめていった。宿駅には、常備すべき人馬の数が東海道百人・百疋、中山道五十人・五十疋(木曽をのぞく)などと定められ、公用の場合は無賃で使用できた。
慶長7年(1602) 徳川家康は東海道と中仙道の二つを京都・江戸間の幹線道路と定めた。
   元和元年(1615年)  尾張藩領になってからも山村家が尾張藩家臣として引き続き統治の任に当たった。。木曽は宿場を核にして独自の経済的文化的まとまりを持つ地域に発展する。木曽11宿(北から贄川・奈良井・藪原・宮ノ越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠)
享保元年(1716) 「五街道」は初め「五海道」と表記されていたが、海岸沿いの東海道はともかく、山中を行く道までが「海道」では不都合であるとして、「街道」の表記を採用し、中仙道も中山道に改めた。
幕府が置かれた江戸は日本の政治の中心となったが、天皇の居られる京は、なお日本の都であり、大坂を含めた上方は経済・文化の中心であった。「五街道中細記」に東海道一二五里余り、中山道一三五里余りとあって、十里ほどの違いにすぎないが、途中の宿数は前者が五十三次、後者が六十九次となっていて、大きな差がある。これは中山道に険阻な山道が多いためで、大名行列の通行も東海道の五分の一くらいしかなかった。中山道は東海道の裏街道の役割を果たしていたと言えよう。
江戸幕府は大名の反乱を防ぐために、その奥方を人質として江戸表に住まわせ、大名には隔年ごとの参勤交替を強いた。又、街道を通って人質の奥方が国元に逃げ帰ったり、江戸に武器が持ち込まれるのを防ぐために関所を設け、「出女」「入鉄砲」を厳しく取り締まった。ことに、幕府は西国大名の動向に厳しく監視の目を向けていたから、東海道の箱根・新居・中仙道の碓氷・福島は四大関所として江戸防御の重要拠点に位置付けられていて、その通過は外国旅行で通関手続きをするよりも煩わしいものであった。
中仙道は江戸日本橋を基点に板橋を一番目の宿場として、関東平野を北上し、高崎を経て、碓氷峠を越えて信州に入り、軽井沢、下諏訪、木曽路を通り、美濃へ抜け、濃尾平野から近江へ出て、京都へ通ずる約五百三十八キロメートルの道である。木曽路は中仙道のちょうど中間に位置し、北は桜沢から馬籠の十曲峠まで約二十三里約九十キロメートルあり中仙道の代名詞のごとく人々に親しまれてきた街道で、公家・諸大名の大通行をはじめ、御嶽講中や善光寺詣りの往来などでにぎわった。
「助郷を勉むる駅々の繁昌、とめ女の化粧かたちも優に艶しく、往来の旅人も、東海道にかわることなし」(「続膝栗毛木曽街道」十辺舎一九)
明治元年 木曽の十一の宿駅は廃止された
   明治5年(1872)  馬籠宿で庄屋・本陣・問屋の三役を兼ねる旧家に島崎藤村が生まれた。
明治6年 大蔵省は道路の等級を決め中仙道は第1等道路と定められた。
明治9年 太政官布告により国道となり年々改修が行われた。
明治16年~17年 鳥居峠をはじめ道路の改修がなされ馬車も通れるようになった。
大正8年 道路法の制定により中仙道の道路は国道8号線と改められた


街 道 宿場順 宿場名 名所・旧跡 説  明
武州・上州路を歩く 日本橋 今でも国道の基点
道路元標が橋の中央部の道路に埋め込まれている。木造だった日本橋は明暦3年(1657)の大火振袖火事から安政5年(1858)の200年の間に数十回も炎上している。橋は何度も架け替えられ、現在の橋は明治44年(1911)に完成した。
真性寺   しら露もこぼさぬ萩のうねり哉  芭蕉
板橋宿 中山道最初の宿
蕨宿
浦和宿
大宮宿
上尾宿 あげお
桶川宿
鴻巣宿
熊谷宿
深谷塾
10 本庄宿
11 新町宿
12 倉賀野宿 倉賀野神社 倉賀野神社の裏手には、良寛を世に知らしめた国学者・飯塚久利の碑と案内板がある。
13 高崎宿
14 板鼻宿
15 安中宿
16 松井田宿
17 坂本宿
信濃路を歩く 18 軽井沢宿
19 沓掛宿
20 追分宿
21 小田井宿
22 岩村田宿
23 塩名田宿
24 八幡宿
25 望月宿
26 芦田宿
27 長久保宿
28 和田宿
29 下諏訪宿   雪散るや穂屋の薄の刈残し    芭蕉
  はつ午や諏訪の稲荷の廻り道  岩谷
30 塩尻宿
31 洗馬宿     
洗馬公園   入梅晴れの私雨や雲ちぎれ   芭蕉(俳諧一葉集)
  太田の清水 木曽義仲の家臣が義仲の馬を洗ったという清水。洗馬の地名はここからきている。
32 本山宿
木曽路を歩く 33 贄川宿 にえかわ 「木曽路名所図会」に「いにしえここに温泉あり、かかるがゆえに熱川(にえかわ)と名づく」とある。
その後温泉が涸れ麻衣廼(あさぎぬの)神社の本社である諏訪神社の神事の贄(にえ)としてこの地で取れた鯉や鮒を献じたことから熱が贄(にえ)に改められたという伝承がある。
是より南木曽路
昭和15年建立
この石碑のたつ桜沢は奈良井川の支流のひとつでありこの沢が木曽の北の堺となりここにかけられた境橋から南が「木曽路」になる。
贄川番所跡 江戸時代木曽路北門の関として、婦女の通行と檜の白木の搬出を取り締まった。
漆器の町平沢 漆器の里平沢は町並みのほとんどが漆器店


漆器はJAPANと呼ぶ日本の代表的工芸品
34 奈良井宿   天保年間には旅籠・茶屋などを合わせて39軒にも及び、奈良井千軒と呼ばれその数は木曽十一宿中最大であった。木曽で最も長い町並みの宿は国重要町並み保存地区として全国11番目に指定を受けた。
「木曽の奈良井か薮原流か、麦もとらずに飯をたく。」経済的に豊な奈良井が白米を食べていることを羨んだ俗謡に、宿場の繁栄ぶりをうかがうことができる。
二百地蔵
枡形の石積み
鍵の手
楢川歴史民俗資料館
鳥居峠 太平洋側に流れる木曽川と日本海側に流れる信濃川の分水嶺
御嶽山を望む山頂に木曽義元が戦勝祈願のために建てた鳥居があり、峠の名の由来である。
天正十年に木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎え撃ち勝利をおさめた古戦場がある。
峠の松
中の茶屋の跡 菊池寛の「恩讐の彼方に」の一舞台となった。
御嶽遥拝所
丸山公園    木曽のとち浮世の人のみやげ哉   芭蕉

芭蕉が詠んだ子産みの栃
義仲硯水
35 藪原宿 お六櫛 お六櫛は元々妻籠宿の名産品であった。ところが材料である粘りの堅い木のミネバリが妻籠周辺で不足しはじめ薮原からも購入していた。それを見ていた藪原宿の藤屋某が不甲斐なしとして、虚無僧に姿を変えて妻籠宿に赴き、苦心の末にその技術を習得してきたという。その後、皆で技術を磨き改良を加え、やがて旅人が土産に買うので京・大坂・江戸にまでも、その名が知られるようになった。

巴橋 巴橋の東詰めに
   山吹も巴もいでて田植えかな
の森川許六の句碑が立っている。
宮川家史料館    春雨やつい下の句は寝いりけり  芭蕉
   36  宮の越宿    木曽義仲が平家追討の兵を挙げた地。木曽川と木曽山脈が並行する縦谷のため木曽では珍しく広い平野がある。

木曽義仲が挙兵した旗揚げ八幡宮に咲く山吹
山吹も巴もい出て田植えかな   許六
徳音寺 義仲の菩提寺。義仲、母の小枝御前、巴御前の墓がある。
      木曽大工 この宿には木曽大工と呼ばれた出稼ぎ大工が多く住んでいたので、今に残る建物は見事な出来である。
       義仲館  ふるさと創生資金で村が建てた義仲館
      山下天神 木曽義仲が手習いに通ったという山下天神(手習い天神)が左手高台にある。
37  福島宿 福島関所 福島は江戸時代の二百七十年間宿場町が街道沿いに町並みを作り関所が通行人を取り締まり、代官屋敷が行政を司るなど中山道のかなめとされた。「木曽路名所図絵」に「木曽谷第一の豊饒の地なり」とあるように七町にわたって賑わう宿場は奈良井と福島しかなかったと記され、さらに「当駅京都・江戸等分の地なり」として京と江戸の中間に位置し交通の要衝として宿の江戸方入り口には福島関所が設けられていた。
東海道の箱根・新居、中山道の碓氷と並び天下の四大関所の一つに数えられた。ここは江戸城警護が大きな使命であったため「入り鉄砲に出女」の言葉通り女性の通行と鉄砲の持込が厳重に取り締まられた。荷物、長持ちも改めの対象とされ、一般の通行も明け六つ(朝六時)から暮れ六つ(午後六時)に限られた。
この場所は明治2年の廃関後、民間に払い下げられていたが、学術調査を踏まえて復元し、当時の面影をしのぶ下番所、上番所、侍控え室など国の指定史跡になっている。
木曽谷を背に碑文を刻んだ巨石のほか東門跡、西門跡が建ち水屋も復元された。
関所跡には太田水穂が大正十一年潮音同人の歌会で詠んだ歌
   「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす
            木曽福島は谷底の町

の碑が建てられている。太田水穂は塩尻市の出身。
         
      高瀬家 木曽代官山村氏の用人で、代々関所上番を勤めた高瀬家が屋敷を構えている。藤村の姉の嫁ぎ先「家」の舞台。
      本陣跡 木曽町役場福島支所となっている。
元の木曽福島の役場がかなり古い木造建築なのは福島宿本陣・白木郷左衛門の屋敷跡を使っているからである。
       崖屋造 陣屋町として発展し、木曽福島は土地が狭いため木曽川の川端極限まで屋敷割りされ 崖屋造が誕生した。
       筏橋  福島の町は木曽川を挟んで右岸が代官屋敷と武家屋敷、左岸に宿場町が続き、木曽川には行人橋、大手橋、筏橋(関所橋)が架けられていた。筏橋は飛騨と結ぶルートであったため軍事上橋を架けず旅人たちは木曽川を筏で渡る不便さを味わっていた。橋が両岸に架かったのは承応二年(1653年)であった。
      興禅寺
木曽義仲の墓、宝篋印塔がある。義村や討ち死にした大津市にも墓がある。木曽氏、山村氏のお墓もある。境内には木曽踊り発祥之地の碑、日本一広い枯山水の看雲庭(重森三玲作)がある。
      大通寺の鐘楼門 最初の鐘楼門は寛文4年(1664年)に建てられたが宝暦2年(1752年)に現在地に移設され安永7年(1778年)に建て替えられた。福島地区に現存する木造建築物としては最も古く木曽町の文化財に指定されている。鐘楼は大戦で供出されたため昭和53年に再鋳造された。山門に掲げられている扁額は江戸中期の妙心寺管長三井親和の書である。
      山村代官屋敷 山村代官屋敷の建物、庭、展示物を見ると、こんな不利な土地でありながら、江戸時代、この地の文化程度がいかに高かったかが分かる。

(木曽代官下屋敷の城陽亭と庭園)
山村氏は関ヶ原の合戦(1600年)以来徳川家康側について頭角を現し、木曽代官として尾張藩から山林を預かり福島関の関守も兼ねその権力は絶大で山村家は明治二年まで代官の職に就いた。屋敷のあった木曽川右岸は向城(むかいじょう)と呼び、下屋敷とされた福島小学校の校庭も含めるとその広大さがうかがえる。
本陣に投宿すれば代官様に挨拶に伺うのがしきたりであったため往還する大名たちからは敬遠されていたらしい。ある記録では福島本陣に宿泊した大名公卿は四十九少ない年は〇。ところが隣の上松本陣は百三、藪原本陣では百三十と、福島本陣と大きな開きがあるのはどうやら家康からじきじきに木曽の関守を仰せつかった天下の直参から離れていたいというのが大名たちの本音によるものかもしれないといわれている。
       
       藤村文学碑 「夜明け前」の原稿を銅板に刻む。信濃教育会の敷地にある。 
       ほうば巻き  朴の大きな葉でくるんだ木曽の銘菓
       水無神社 飛騨国一宮を勧請 。みこしまくりは白木の神輿を壊す荒行事。
       八沢  江戸時代漆師屋、曲げ物師、指物屋約三十軒が営む「木曽春慶塗」で知られた。「八沢、平沢漆器の産地」と言われ元の楢川村の木曽平沢と八沢は漆器で有名だった。
       上の段 昭和2年の大火から免れた家並みがある。
袖卯達をつけた連子格子の町家や石置き屋根の家、なまこ塗りの土蔵などがあり宿場町の面影が残っている。
       水場  戦国時代「上の段城」の水の手として創設され江戸時代になって尾張藩が改修したもので宿場や道中を行き来する者には欠かせぬ水であった。
      
       桝形  上の段坂と横宿が典型的な桝形を今にとどめている。
       高札場  現在の公示板にあたるもので駄賃の額や幕府の政令、キリシタン禁制のお触れが庶民に知らされた。
宿はずれの上之段坂に復元。隣に石置き屋根の民家が残る。
       二十三夜  中山道沿いの寺や一里塚には「二十三夜」と彫られた石碑がある。これは地域に伝わる念仏講の名残で「二十三夜さま」と呼ばれ木曽では二十三夜の月の日、木曽の山から出る月を待ち、拝んで願い事を託したといわれ、この行事に合わせて必ず五平餅を食べたという。
       木曽義元の墓  御墓島と呼ばれる谷底平野に木曽義仲の末裔を名乗り木曽を支配した木曽義元の墓がある。
       刎石の街道  刎石の山腹を巻いて中山道が残る。
      御嶽遥拝所 石造りの鳥居がある。西から来た旅人で実際に現地へ行けない者は、ここで遥拝し御嶽山参りとした。
       御嶽山眺望地  川の向ひの山間より御嶽は高く見えたり「たく柴日記」
      木曾の桟跡 「上松の北十八町、木曽川岸の桟道なり。慶安年間尾州候によりて開かれ、寛保に至り修繕を加ふ。現今の桟道即ち是なり。古の桟道は、之に異なり、駒ヶ根村字立町より国道に分れ、渓流に沿うて山を登ること半里、絶壁相対して自然の橋礎をなすもの、即ちその舊跡なりと云ふ。」と「信濃大地誌」にある。
   桟や命をからむ蔦かづら    芭蕉

木曽の桟を代表する波計(はばかり)の桟跡は江戸初期にできた石垣が国道19号線の下に見える。
       白川阿古多丸の墓 少将の子で東山道を下る途中この地で没した。石積みの塚。 
       沓掛一里塚  義仲の愛馬伝説がある観音堂を塚上に移す。塚本屋は旧茶屋
   38 上松宿    尾張藩が管理した材木役所が置かれた上松は日本三大美林の木曽五木の集散地として発展しヒノキの里と呼ばれた。
寝覚の床 木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形。上流に設けられたダムなどにより水位が下がったために水底で侵食され続けていた花崗岩が水面上にあらわれたもの。
木曽八景の内の一つ
木曽八景は天保年間の詩人代官と言われた山村蘇門が儒者の松平君山に命じて選ばせたという。
大正12年(1923年)に国の名勝に指定され
谷川の音には夢もむすばじを
       寝覚の床と誰が名づくらん 近衛家凞公



木曽川の流れの中に盤石の広き床あり
     岩の間間を水めぐり 沢庵和尚
臨川寺    ひる顔にひる寝せふもの床の山  芭蕉
   白雲や青葉若葉の三十里      子規 
   筏士に何をか問わん青あらし    也有
浦島がつりせし寝覚の床有。寺より見ゆる「東路記」
小野の滝 木曽八景の一つ
「渓水風越山より発し、此の所に至り数丈の断崖を下る。岩質は即ち花崗岩なり。」(信濃大地誌)

細川幽斎の紀行文で有名になり広重も北斎も描いた。

広重と池田英泉の描く中山道シリーズの39番目にあたる絵
  39   須原宿   須原宿は江戸中期の水害後に計画的宿場町として再建されたため街道は五間の広さを持つ。宿場用水が流れ街道に大木をくり抜いた水舟がが置かれ歌碑が建てられている。正岡子規は須原宿で一夜を過ごした。
       
その昔幸田露伴が「風流仏」で木曽路みたままに「須原の花漬け売り」を描いた。その奔放な筆致に感嘆して小説家を志し木曽路に旅したのが正岡子規である。[かけはしの記]に
此の日は朝より道々覆盆子桑の實に腹を肥したれば畫餉もせず。やうやう五六里を行きて須原に宿る。名物なればと強ひられて花漬二箱を購う。餘りのうつくしさにあすの山路に肩の痛さを増さんことを忘れたるもおぞまし。
   寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は
          月出づるほどの空だにもなし
       
安藤広重の絵 
木曽海道六十九次之内四十
定勝寺 興禅寺、長福寺と共に木曽三大寺のひとつ
木曾氏14代家賢の子越後守家盛は定勝寺造営のための資金調達のため通行税を徴したことが定勝寺文書にある。
桃山様式の庫裏、本堂、山門(国重文)が美しい。
40 野尻宿 野尻の宿の七回りと呼ばれ屈曲と坂が多い。

山中に萱屋なく皆板葺なり。「東路記」木曽に多かった板葺石置き屋根が今も健在。
  41  三留野宿   野尻と三留野の間最も危ふき路なりと貝原益軒は記述している。花崗岩地帯で蛇抜けと呼ばれる土石流も多く発生。 
       
安藤広重の絵 
木曽海道六十九次之内四十二
       本陣跡 三留野宿本陣は明治天皇が泊られた翌年焼失したが庭の名木枝垂梅が残る。 
巴御前ゆかりの
振袖松
かぶと観音堂 木曽義仲が守り本尊として兜の中に納めていた十一面観音を祀っている。
       円空仏  円空の足跡を留める円空仏
       桃介橋 木曽川の水力発電開発に尽力した福沢桃介が資材運搬のため大正11年に架けたもの。老朽化により渡れなくなっていたが南木曽町の近代文化遺産として復元された。福沢桃介は福沢諭吉の養子で電力王とも呼ばれ近代産業の振興に大きな業績を残した。
 
   42  妻籠宿  鯉岩 妻籠宿の北のはずれにある奇岩
鯉が空に向かって泳ぐ形だったが明治24年の濃尾地震で横転したため現在のようになったという。
 
        明治百年記念事業として復元修景が実施され、昭和51年全国初の国重要保存地区に指定された。
 
奥谷郷土館 旧脇本陣。藤村の「初恋」の詩のモデルが嫁いだ。明治10年に総檜造りに建て替えられた。明治13年に天皇御巡幸の際に立ち寄られた上段の間も見られる。


奥谷入口の門
       妻籠宿本陣 藤村の母の生家。藤村の実兄の広助が最後の当主となったが明治20年代彼が東京へ出た後取り壊され平成7年になって江戸時代の間取図をもとに忠実に復元された。 
馬籠峠    白雲や青葉若葉の十三里   子規
   吹きあぐる木曽の御坂の谷風に
       梢も知らぬ花を見るかな   鴨長明
43 馬籠宿 街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。(夜明け前)    島崎藤村
馬籠脇本陣
史料館
       大黒屋  藤村の「初恋」の詩のモデルとなった「おゆふ」さんの実家。大黒屋の主人が記録した「大黒屋日記」が「夜明け前」の貴重な資料となった。
島崎本陣跡 本陣の建物は明治28年(1895)の大火で消失してしまったが、同地に建つ藤村記念館では夜明け前などの原稿や初版本を見ることが出来る。

藤村の生家馬籠宿本陣は藤村記念館
「藤村を記念する何かをつくろう」と声が上がり地元有志約百名が「ふるさと友の会」を結成し東京工大の谷口吉郎先生が設計して昭和二十二年十一月十五日に藤村記念館ができた。「昼はそれぞれに自分の田畑に出て精出し夜になると重い木材を運んだり遠くの中津川から屋根瓦を運んだりしてて文字通り馬籠に住むみんなの汗と情熱を結集したものだった」と藤村の長男島崎楠雄さんが街道物語の中で述べている。
昭和二十七年に資料を集めて記念文庫と案内所ができた。数年のちに第二文庫も併設されこれらの建造物を総合した藤村記念館へとなっていった。
       馬籠宿車坂と桝形 急カーブを描く道は外敵の侵入をくい止めるため道をかぎの手に曲げて桝形の名残ある。
 
       永昌寺 本陣島崎家の菩提寺で藤村と妻子を含む島崎家代々の墓がある。夜明け前では万福寺の名で登場し主人公が狂気して放火する寺でもある。
 
句碑    送られつ送りつ果は木曽の秋    芭蕉
天保十四年 美濃との国境に近い宿はずれの新茶屋に芭蕉句碑が建てられた。馬籠宿本陣の当主吉左衛門の友である年寄役の伏見屋金兵衛が「木曽路の入り口に新しい名所を」との発案でつくられた。
   桑の実や木曽路出ずれば穂波かな 正岡子規
是より北、木曽路 島崎藤村六十八歳の時の筆による
落合の石畳
医王寺境内    梅が香にのっと日の出る山路かな  芭蕉
十曲峠
美濃路を歩く 44 落合宿
45 中津川宿
46 大井宿
47 大湫宿 おおくて
観音堂前の句碑    花ざかり山は日頃のあさぼらけ   芭蕉
芭蕉が吉野で詠んだ句碑である。  
48 細久手宿
49 御嶽宿 みたけ
50 伏見宿
51 太田宿
祐泉寺の句碑    春なれや名もなき山の薄かすみ  芭蕉
「野ざらし紀行」の旅の折奈良で詠んだという。
52 鵜沼宿
脇本陣跡の句碑    汲溜の水泡だつや蝉の声       芭蕉
   ふぐ汁も喰えば喰わせよ菊の酒   芭蕉
   おくられつおくりつはては木曽の秋  芭蕉
53 加納宿
54 河渡宿 ごうど
55 美江寺宿 みえじ
56 赤坂宿
  金生山明星輪寺    鳩の声身に入わたる岩と哉     芭蕉
元禄二年八月「奥の細道」の旅の途次に芭蕉も参詣し詠んだという句碑が門前に建つ。
法泉寺の句碑    草臥れてやどかる頃や藤の花   芭蕉
「笈の小文」の大和行脚で詠んだ句
青少年憩いの森    苔埋む蔦のうつつの念仏哉     芭蕉
「みの里朝長の墓にて」として正徳二年刊行の「花の市」に収録されている芭蕉の句碑がある。源朝長の墓が近くにある。
57 垂井宿
垂井の泉の句碑    葱しろく洗ひあげたる寒さかな   芭蕉
本龍寺の句碑    作り木の庭をいさむるしぐれ哉   芭蕉
58 関ヶ原宿
不破関跡 壬申の乱の後、天武二年に設けられた不破関は、越前の愛発、伊勢の鈴鹿とともに三関と称せられ重要な関であったが、延暦八年に廃止された。後、国の大事や戦国時代に数回復活したが、江戸時代にはすっかり寂れてしまったらしい。
   秋風や藪も畠も不破の関    芭蕉
      常盤御前の墓 源義朝の愛妾で牛若丸、後の義経の生母である常盤御前は、平清盛に捕らえられるが、牛若丸が鞍馬山を抜け出し東へ下ったのを知り後を追う。しかしこの地で土賊に襲われ殺されてしまった。哀れに思った土地の人の手により葬られ、土賊の仇討ちは牛若丸が果たしたと伝えられている。五輪塔が建っている。
   義朝の心に似たり秋の風    芭蕉
近江路を歩く 59 今須宿
60 柏原宿
61 醒井宿
62 番場宿
63 鳥居本宿
64 高宮宿
大鳥居 寛永年間建立
芭蕉の紙子塚 芭蕉は野ざらし紀行の旅の途中の貞享元年十二月高宮の小林家に一泊した。その時に自分が横になった姿を絵に描き
   たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子   芭蕉
という句を作った。句にも詠んだ古ぼけた紙子を気の毒に思ったのか、小林家では新しい紙子を芭蕉に送り、庭に塚を築いて古い方をおさめ、紙子塚と称したという。
65 愛知川宿 えちがわ
66 武佐宿 むさ
67 守山宿
三上山 高さ430メートルほどの低山だが美しい形から近江富士と呼ばれる。
   比良三上雪さしわたせ鷺の橋   芭蕉
68 草津宿
69 大津宿
三条大橋
参考文献  
中山道を歩く    山と渓谷社
信濃大地誌     石川耕治   小平高明   光風館書店     明治38年5月5日
かけはし      関西電力株式会社東海支社
中山道69次を歩く    岸本豊    信濃毎日新聞社      2001年初版

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