地 図 |
見どころ
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高ボッチ高原 |
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塩尻宿 |
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平出一里塚 |
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洗馬宿
洗馬宿は木曽義仲が愛馬を洗ったことに由来してこの名がある。 |
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洗馬あふたの清水
木曽義仲が家臣今井兼平と会った場所とされるあふたの清水は時代を超えて清水を湧き出している。また宿場内のはずれには追分道標が残されており中山道を辿って諏訪、軽井沢、東の終点江戸日本橋に続く道と善光寺へと続く北国西街道の分岐点であった。
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塩尻市
本山宿
江戸時代の文献「風俗文選」には本山宿が「蕎麦切り発祥の地」との記録がある。 |
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1日目 (平成25年9月18日 水曜日) |
木曽谷旬行 中山道い (約14km) |
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1日目の1 |
日出塩駅8:30 |
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日出塩一里塚跡 |
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@
境橋 ・境川 |
かつての尾張と信濃の堺 |
A
これより南
木曽路の碑 |
この石碑のたつ桜沢は奈良井川の支流の一つでありこの沢が木曽の北の堺となりここにかけられた境橋から南が「木曽路」になる。 |
桜沢の桜 |
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B
馬頭観音 |
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中山道 |
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中山道 |
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立場茶屋 |
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C
明治天皇の
行在所の碑 |
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明治天皇
御小休所 |
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白山神社 |
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片平橋
土木学会推薦土木遺産 |
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中部北陸自然歩道の道しるべ |
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やさしくもあやめの咲きけり
木曽の山 (正岡子規) |
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1日目の2 |
@
若神子一里塚 |
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若神子一里塚 |
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A
道祖神 |
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B
草地 |
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下を見おろす |
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中部北陸自然歩道の道しるべ |
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旧片平橋
昭和10年(1935年)造で奈良井側に掛る旧国道19号の橋梁として重要な役割を担ってきたが昭和33年(1958年)に始まった新国道建設により旧道は廃止され片平橋はその役目を終えた。
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大日様
宿場から奈良井川の対岸に大日様と呼ばれている断崖絶壁がある。この岩山には大日如来の石像が祀られたお堂があり背後の岩肌にはさまざまな仏の名を彫った石塔が一面に張り付くように建てられている。天保年間頃に観音寺の僧侶が大日如来をこの場所に祀ったことから大日様と言われるようになった。それ以前は御嶽行者の霊場であったといわれている。 |
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1日目の3 |
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ただ一人北斎の絵の中を行く
木曽の山路の夏の夕ぐれ
(吉井勇) |
@
贄川駅前 |
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雀の宮石碑群 |
もとはここにお宮があり関所を通ろうとする旅人が身づくろいをしたという伝承がある場所。江戸時代にはここから坂道を登ると木戸がありその右手(西側)が関所であった。 |
第33次
贄川宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 25軒 |
贄川宿の昼どおり
鳥居峠をひかえた奈良井宿にくらべ贄川宿には泊まり客を引き止めるものがなかった。だから夕方になると客引きがひどい引き止め方をしたので陽の高いうちに贄川宿を通り抜けようとした旅人から贄川宿の昼どおりという言葉が江戸時代に生まれたという。 |
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贄川の南に隣接する奈良井は近世中期漆器や漆櫛など木製品の一大産地として成長していた。奈良井で作られた檜物細工や漆器を贄川が全国へ販売する分業関係がこの頃は形成されていた。贄川宿の生業が近世を通じて徐々に流通業へ移行した様子が「中山道宿村大概帳」などからうかがえる。 また行商によって経済的実力を備えた有力者が存在したと伝えられている。「奈良井過ぎた寺過ぎた・平沢過ぎた宮過ぎた・贄川過ぎた蔵過ぎた」の言い伝えもある。
宿駅制度の廃止により農林業をはじめるものが多くなり河岸段丘上の緩斜面に農地を広げた。明治末年の中央本線全通により行商と宿泊業は終焉した。 |
A
関所橋
たたくと木曽節が聞こえる。 |
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B
贄川関所
贄川宿は中世は北の要衝。「是より南木曽路」の碑が立つ桜沢山には当時砦が設けられていた。この宿場の入り口にあるのが贄川関所。豊臣秀吉の時代木曽材木の監視のため南の妻籠番所と共に設置された。関ヶ原の戦いの後福島関所が設置されるとその「副関」として出女を改めるようになった。また北の口留として貴重な木曽檜を使って作った曲物や漆器、木材の蜜移出の取り締まりをし尾張藩の「北の番所」と呼ばれた。
宿の北の入り口に昭和51年(1976年)に復元された。、元の場所は小道をへだてた反対側に位置していた。関所は明治2年(1869年)に宿駅制度の廃止に伴いその機能を停止した。 |
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上番所 |
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座敷 |
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下番所
贄川は贄川沢から温泉が噴き出したことから古くは「熱川」と書かれ「熱川」と呼んでいたという。 |
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木曽考古館
贄川地区の簗場遺跡をはじめとする数か所の遺跡から発見された縄文初期から中期時代の土器石器などを展示している。また平安時代の土師器・須恵器・灰釉(かいゆう)陶器などの遺物も展示されている。 |
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眼鏡橋
明治43年(1910年)12月の中央西線全通時に建造されたレンガ造りのアーチ橋。昭和63年(1988年)歩道専用橋として整備された。 |
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レターポスト
贄川郵便局前に昭和23年(1948年)〜24年(1949年)頃にかけ試作品として製造されたと思われる珍しいポストがある。ひさしの上の桜模様と差し出し口の「LETTER」の文字が戦後占領下の当時をしのばせる。 |
一般的なポスト
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C
観音寺
木曽谷にただ一つ残っている真言宗の寺院。正面の山門(鐘楼門)は市の有形文化財に指定されている。 |
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D
麻衣迺神社
諏訪神社を本社と仰ぎ7年に1度(寅年と申年)に御柱祭が執り行われ
境内には四本の御柱が立てられている。 |
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重文住宅
深澤家住宅
切妻、二重出梁。嘉永7年の木曽独特の伝統的町家造り。 |
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E
栃の大木
(県指定天然記念物。昭和44年(1969年)に指定された。)
贄川宿南西の山際に推定樹齢1200年を超える見事な樹形の栃の木。 |
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桜の宮のあと
枝垂れ桜 |
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スサノオノミコト |
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F
押込の一里塚 |
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松の木一本
一里塚があったしるし |
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木曽漆器について
木曽漆器の成立は伝承として中世後期からといわれている。最初の資料は寛文5年(1665年)の「檜物駄詰覚」という文書に「ぬり小丸ぼん」の製品名があり檜物細工に漆を塗るということがあったと考えられている。奈良井が漆櫛を中心に発展した中で木曽平沢では盆や指物に拭き漆や春慶塗を施す製品が主であった。明治初期に錆土という下地材が発見されたことにより大きく木曽漆器が発展した。これにより本堅地漆器の制作が可能となり木曽漆器に大きな技術革新をもたらした。この本堅地をもとにした加飾などの技術の研鑽により昭和50年(1975年)に「木曽春慶」「木曽変わり塗り」「塗り分け呂色塗り」の3種の技法により木曽漆器が国の伝統的工芸品として指定された。 |
多種多様な木曽漆器
京都高台寺に展示された木曽漆器の巨大オブジェ |
木曽漆器祭 |
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竹祭
文禄2年(1593年)大火がおこり青竹で火を消したことが始まりといわれる。 |
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雁行する風景
中山道が部分的に湾曲しているため、地割が街路と直角ではない。それゆえ自然と建物は雁行して建ち側面が連続して見えることとなる。また街路と建物の空地は寛延2年(1749年)の大火後尾張藩により3尺ずつセットバックさせられたものである。 しかし所有はあくまで私のもの(「吾持ち」)という意からアガモチと呼びならわされている。 |
雁行する町並みとアガモチ |
仕事場としての蔵
土蔵を漆器の作業場として使っている。漆器作りには湿度と温度が重要であり土蔵の内部は湿度、温度が安定しているため作業に適している。 |
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敷地奥への通路
敷地の奥の蔵に抜けるための通路又はドジ(通り土間)が東西どちら側の家も南側にある。 |
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各時代の建物が存在する
江戸時代の出梁造だけでなく大正時代から戦前にかけての建物や戦後の建物など各時代の特徴的な建物が併存している。 |
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大火以前の平沢 |
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平沢大火後の平沢 |
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明治後半
切妻の出梁造の木曽平沢では数少ない旅籠建築。正面両端の柱を通し柱としこの間に間口いっぱいの胴差を入れる伝統的な形式。 |
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明治後期頃
医院に貸していた時に入母屋のポーチが取りつけられ太い格子もその時付けられたという。南側に奥に続く通路がある。 |
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明治後期頃
出梁造 |
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カミノクラ(明治32年)と
シモノクラ( 昭和7年)
カミノクラには明治32年の棟木銘がある。昭和初期の移築。二棟の蔵に一連の置屋根でおさめている。 |
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大正13年(1924年)
真ん中に通り土間を持つ珍しい形の建物 |
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昭和初期の平沢 |
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昭和2年(1927年)
モルタル大壁にドイツ壁仕上げと土蔵と洋風意匠を折衷した建物。屋根は土蔵のような置屋根。 |
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昭和5年
寄棟の主家に切妻の取り付きL字型の屋根がかかっている。ニ階に宴会場を持つ大規模な商店建築。 |
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昭和6年(1931年)
木曽平沢では珍しく土蔵が表にある。通路が南側にある。 |
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昭和6年(1931年)
通称「別荘」モルタル塗りの洋館に黒漆喰仕上げの土蔵造りの建物をくっつけたような外観が目を引く建物。 |
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昭和6年(1931年)
出梁造の建物。一二階とも縦格子をはめ込み垂木構造の小庇を持っている。 |
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昭和9年(1934年)
入母屋、桟瓦葺の屋根の重厚な印象の建物南側に奥へ続く通路がある。 |
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戦後の平沢 |
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正面は昭和20年代に増築
出梁造の建物であるがニ階の軒の出が小さく窓の上に小庇を付けるなど新しい要素が見られる。 |
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昭和後期の平沢 |
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昭和32年(1957年)
木曽平沢で最初に建てられた大谷石蔵。斜めの加工痕跡から手掘りによるものとわかる。栃木県宇都宮市大谷から鉄道と馬車によって運ばれた石で宇都宮から石工を招いて建築された。
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昭和35年(1960年)
ドジを通って奥へ行くと三階建の大谷石の蔵がある。 |
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1日目の4 |
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@
道の駅
木曽ならかわ |
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A
木曽くらしの
工芸館
12:00昼食 |
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伊藤大山祗神社 |
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B
芭蕉の句碑
諏訪神社境内に立つ。寛政年間に編纂された「中山道分間延絵図」には現在の場所から少し贄川よりに描かれているという。 |
送られつをくりつはてハ
木曽の秋
更科紀行 芭蕉
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文化財修復工房 |
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荻村神社 |
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荻村神社の湧水 |
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C
諏訪神社
本殿は天正10年(1582年)の武田勝頼と木曽義康の合戦で焼失。享保17年(1732年)に再建された。正面は祭りのときのみ見ることができる。外側の覆屋も比較的古く裏側には壁がないので本殿の側面を見ることができる。 |
武田勝頼の木曽攻めの本陣となった。
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諏訪神社御柱 |
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御柱祭
諏訪大社にならい7年目ごとに御柱祭が開催されている。 |
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宮原神社 |
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諏訪坂 |
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D
漆工町
木曽平沢
木曽平沢は慶長3年(1598年)に奈良井川の左岸にあった道が右岸に付け替えられたことを契機に周辺の山林付近に生活していた人々がその道沿いに居住することで集落が形成されていったと考えられている。この道は古代中世では吉蘇路や木曽路などと言われていたが徳川幕府によって中山道の一部として整備された。近世には奈良井宿の在郷として位置づけられ檜物細工漆器の生産で生計を立ててきた。木曽漆器の制作上重要な素材の一つである良質な錆土が確保できたことから明治の初め頃から産業としての基盤が確立し漆工町として発展していく。大正13年には新たな街路が中山道の西側に築かれ金西町として拡大した。日本有数の漆器生産地として認められる木曽平沢は漆工という伝統工芸の職人町として平成18年に全国で唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 |
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E
木曽漆器館 |
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’98長野冬季オリンピック入賞メダル |
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覚明神社 |
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大峯神社 |
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八王子神社 |
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白山神社 |
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南原稲荷神社 |
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御嶽神社 |
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橋戸大山祗神社 |
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F
橋戸の一里塚
一里塚は慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により一里ごとに街道を挟んで2基設置され松や榎が植えられた。 |
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木曽楢川小学校
楢川小学校の給食器セットは漆の器が使われている。 |
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中村邸 |
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1日目の5 |
二百地蔵
この周辺にあった観音様や地蔵様の石仏が合わせ祀られている。 |
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杉並木の案内板 |
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旧中山道
杉並木
杉の巨木が十数本並ぶ古道。 |
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八幡宮 |
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奈良井駅
15:10 |
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2日目 (平成25年10月15日火曜日) |
木曽谷旬行 中山道ろ (約13km) |
軒高と建築年代 |
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町屋の正面意匠と部分名称 |
屋根 |
屋根の材はもともとは板葺の石置き。今は鉄板になっている。 |
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軒 |
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花隠板 |
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垂木 |
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登梁 |
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出桁 |
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小屋根 |
小屋根、袖壁を持つ建物
天保頃の建築。 |
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吊り金具 |
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持送 |
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袖壁 |
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幕板 |
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猿頭 |
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手摺り |
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格子 |
明治初期の建築。正面は1階2階ともに格子が目を引く。杉玉が特徴的な近世から最近まで続いた造酒屋。 |
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障子 |
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ニ階縁 |
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腰長押 |
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腰壁 |
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畳 |
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板大戸 |
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くぐり戸 |
障子の戸の上に板戸が入る。 |
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出梁 |
天保8年から14年(1837から1843)の間に建築。間口が狭く奥に深いつくりで奈良井の町家の典型。出梁造になっていて正面は蔀がある。 |
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方立 |
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胴差 |
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蔀 (しとみ) |
3枚とも板が入る。明かりとりの障子が入ることもある。
1階正面は蔀と大戸にくぐり戸が残されている。天保頃の建築。 |
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框 |
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通柱 |
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土台 |
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束 |
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奈良井氏居館跡地 |
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法然寺
浄土宗の寺院。関ヶ原の合戦に向かう途中徳川秀忠が一時滞在し陣屋として使用したとの記録が残る。 |
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奈良井義高墓地 |
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大宝寺
木曽路七福神寿老人。天正10年(1582年)奈良井義高が自らの菩提寺として開いたのが始まりとされる。臨済宗妙心寺派の寺院。 |
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大宝寺
マリア地蔵
昭和の初め住民によって近隣の藪の中から発見された。かくれキリシタンが密かに祈るために作ったものともいわれている。
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神明宮 |
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長泉寺
曹洞宗の寺院。徳川家光により始められた宇治茶を江戸に運ぶ「お茶壷道中」の宿泊所として毎年使用されていた。 |
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浄龍寺
奈良井五ヶ寺のうち最も南にある真宗大谷派の寺院。彫刻家石井鶴三はこの寺で藤村木彫像を制作した。 |
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2日目の1 |
奈良井駅
8:45
明治42年(1909年)開業。トラス小屋組みの屋根がかかっている。 |
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第34次
奈良井宿 |
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奈良井宿場まつり |
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専念寺
真宗大谷派の寺院。寺の入り口にはその昔夜毎うなりをあげていたという「うなり石」がある。 |
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水場 |
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柳屋
戦前立ちが少し高くニ階に楕円の窓がある。この時代の窓にはほかに八画形や円形などがある。 |
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@
木曽の大橋
樹齢300年以上の総ヒノキ造り。橋脚のない橋として有数の大きさを誇る。 |
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水場 |
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A
奈良井宿
木曽路は古来交通の要衝として栄えた。木曽路の中でも最大の難所である鳥居峠の北に位置し土豪奈良井氏が居館をかまえた奈良井の地は交通のかなめとなる宿として繁栄した。慶長7年徳川家康により中山道の宿駅が定められ奈良井宿も幕府関係者など公用旅行者や参勤交代の大名通行のために人馬を常備した。また近世奈良井は檜物細工、塗物、漆櫛などの木工業務等によって多くの収入を得ていた。木曽谷の住民に尾張藩より下賜された白木御免木6000駄のうち4分の1の1500駄が奈良井に当てられており生産量も群を抜いていた。奈良井は近代以降大火がなかったことから江戸末期の形式を多く残した町屋が残っていた。地域住民の町並みに対する熱意と宿場町の特色が認められ昭和53年に国から重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。 |
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手塚家住宅
上問屋
史料館
天保時代の町家建築。慶長7年(1602年)から明治時代に至るまで奈良井宿の問屋をつとめてきた手塚家住宅。国の重要文化財。 |
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中村邸
漆櫛の問屋を営んでいた中村家の住宅。天保年間(1830年から1843年)の建物ニ階を少しせり出させる出梁造、鎧庇など典型的な奈良井の民家の様式を残している。 |
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おひさまロケ地
奈良井宿は平成23年度NHK連続テレビ小説「おひさま」の撮影地として使われた。宿場は約200m(鍵の手〜鎮神社の間)にわたり大掛かりなセットが組まれ昭和初期の町並みが再現された。 |
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信濃路
自然遊歩道 |
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ジャンボ
カラマツ
(県指定天然記念物)
木曽谷と伊那谷を結ぶ権兵衛峠から林道を入った国有林に天を突く推定樹齢250年の巨樹は日本最大といわれている。 |
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徳利屋
昭和初期まで旅籠として使われていた。市の有形文化財
天保頃の建築。 |
郷土館として公開 |
若宮様 |
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B
鎮神社と
高札場
奈良井宿の鎮守。もともと鳥居峠に建立されていたが戦火で焼失し奈良井義高によって現在の場所に移されたといわれる。 |
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鎮神社例祭 |
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高札場 |
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楢川歴史民俗資料館
島崎藤村が「初恋」にうたった花櫛の原型である漆櫛や宿場で流通したお金の宿札などを展示している。 |
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C
中の茶屋 |
菊池寛の「恩讐の彼方に」の舞台 |
F
鳥居峠 茶屋跡 |
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御嶽山の霊神碑 |
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D
鳥居峠
一里塚跡 |
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鳥居峠に残る石畳 |
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中山道 |
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G
明治天皇
駐蹕所碑 |
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H
子産みの栃 |
木曽の栃うき世の人の土産かな 芭蕉 |
栃の木群 |
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E
鳥居峠
木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったとき御嶽に戦勝を祈願し勝利を収めたのでその記念に鳥居を立てたことから鳥居峠と呼ぶようになったという。 |
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I
御嶽遙拝所
御嶽四門
北 鳥居峠
南 王滝村の
三浦山
西 木曽町開田高原の
長峰峠
東 木曽町福島(旧岩郷村)の神戸 |
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J
石の鳥居 |
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御嶽神社 |
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G
丸山公園 |
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鳥居峠古戦場碑 |
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芭蕉句碑 |
ひばりより上にやすろう峠かな |
L
義仲硯水 |
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味噌川ダム
奥木曽湖
木曽川源流にあるダム湖 |
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味噌川ダム防災資料館 |
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水の回廊 |
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水木沢天然林
(木曽村小木曽)
樹齢200年を超える木曽檜などに広葉樹が混生する森林資源。「平成の名水百選」にも選定されている。 |
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床並の滝
(木祖村小木曽)
木曽川源流の支流「床並沢」にある滝。落差20mで階段状に流れ落ち約100mの一枚岩を滑るように流れる「床並の平垂」へとつながる。 |
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こだまの森 |
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やぶはら高原スキー場 |
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田ノ上観音
(木祖村・小木曽)
木曽三十三番札所のうち第五番札所
総欅造の茅葺きの堂。境内の枝垂桜は木祖村天然記念物。 |
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薬師堂の桜
(木祖村・菅) |
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縁結神社
出雲大社の分社。日本で唯一「縁結」の名を持つ神社。 |
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2日目の2 |
新 馬頭観音
平成24年建立の物 |
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水をのんでは水をながめては
木曽は花ざかり (山頭火) |
@
御鷹匠役所跡 |
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A
飛騨街道追分 |
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B
本陣跡 |
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C
藪原神社
文政10年に立川和四郎富昌が建設。
古くは熊野社熊野大神宮と称されたが明治4年に藪原神社と改称した。金?や獏の頭部および唐獅子の彫刻がある。 |
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藪原神社例大祭 |
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D
極楽寺
1550年代の創建と伝えられる臨済宗の古刹。観音堂の天井には修養に訪れたアララギ派の歌人たちが残した画がある。高名な洋画家藤田嗣治や近藤浩一路の画もある。遠州流の庭園がある。 |
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宮川家
資料館 |
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第35次
藪原宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 10軒 |
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藪原宿の町並 |
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お六櫛の店 |
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お六櫛産地 |
旅人につげの小櫛は峯張りの
木曽路はここと指して教えん
太田南畝(蜀山人)
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防火高塀跡 |
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E
高札場跡 |
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F
道の駅木曽川源流の里
きそむら |
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木祖村
郷土館 |
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G
藪原駅
12:00
昼食 |
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H
一里塚跡 |
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木祖村木工文化センター |
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2日目の3 |
衣更著神社 |
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吉田原の大曲 |
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吉田洞門 |
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@
わせぐり坂 |
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A
吉田地区の
福寿草 |
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B
下吉田
一里塚 |
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山吹トンネル |
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神谷諏訪神社
創建年は不明。権兵衛街道沿いの神谷に産土神として祀られている。旧社殿は明治十七年(1884年)大雨による神谷川及び沢の洪水のため流出してしまいその後現在の場所に再建された。 明治の初めに各地の社は南宮神社へ統合することになったが担いて行く途中の川越の所で急に重くなってしまったので神様が怒って動かないものだと引き返し元の場所へ戻したそうである。 |
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徳音寺地区のお稲荷様
宮ノ越徳音寺地区の裏山にある二つの赤い鳥居をくぐって登ったところに稲荷神社が祀られている。少し右の石積みの上には馬頭観音や南無阿弥陀仏名号塔・西国坂東秩父供養塔が並んでいる。石段の両側に馬頭観音の文字碑が一基ずつあるが右側の碑は「馬頭観世音菩薩・中央大日如来」と刻まれ左側の碑は「大日如来馬頭観音」と刻まれている。大日如来は牛の背中に座って現れることから牛の守護神とされていた。馬頭観音と同じように牛の供養塔として祀られたのだという。 |
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お堂内の馬頭観音坐像
石段の正面にお堂があり中には馬頭観音座像が収められている。正面から見ると頭部にあるはずの馬の顔がみえないが頭の上に平になって付いていて馬頭観音であると確認できる。 |
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権兵衛街道
米の乏しい木曽谷住民は伊那谷から調達しなければならなかった。しかし昔は鳥居峠や牛首峠、塩尻峠を越えて大回りするしか手段がなかった。そこで神谷で牛方をしていた古畑権兵衛は姥神峠と鍋掛峠を越える近道の改修を思いつき代官の同意を得て問屋の協力のもと高遠藩主の同意を得ることができた。二年間の難工事の後元禄九年(1696年)に二十四キロの道路が完成し新道を権兵衛街道と呼び鍋掛峠を権兵衛峠と呼ぶようになった。
平成十八年二月(2006年)権兵衛トンネル開通。 |
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姥神峠の権現様
神谷地区から羽淵地区への峠を姥神峠という。峠で振り返ると御嶽山を望むことができ羽淵地区の遙拝所には鳥居や石碑が祀られている。 |
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地蔵峠
福島から高山への街道を飛騨街道と呼び地蔵峠は最大の難所であった。特に唐沢の滝上の山の神峠は急峻で苦労を強いられていた。このため安政六年1859年にこの難所を迂回するため滝上の断崖絶壁を掘削して平らな道を完成させた。しかしこれも桟道を渡りながら滝を見おろすスリル満点の危険な道であった。昭和初期にようやく車道が完成した地蔵峠展望台から眺める御嶽山は最も均整の取れた姿といわれる。。
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西野峠
昭和20年代になって九蔵峠を通る迂回道路の計画があるまでは西野峠を歩いていた。子どもたちが学校へ通う通学路だった時代もあった。峠から南へ300メートルの所にそびえたっている山が城山で標高1422mの山である。戦国時代は砦があり飛騨勢の侵入があると狼煙を挙げて福島へ知らせていた。金毘羅大神像の石碑などが祀られている。 |
西野峠の石碑群 |
長峰峠
長野県と岐阜県の県境にある峠。昭和初年(1926年)に福島待ちで着工した福島高山線も戦時中は勤労奉仕隊を組織して地蔵峠の開削をし昭和41年(1966年)春にようやく長峰峠まで道路が完成した。 |
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合戸峠
明治43年(1910年)に鉄道が開通してからは道路整備が進みバス通行が始まったがそれまでは御影堂の分岐から合戸峠を越えて黒沢に抜けていた。峠には茶屋もあり合戸峠遙拝所からの御嶽山展望は素晴らしく霊神碑も祀られている。 |
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2日目の4 |
木曽町
木曽町は「日本で最も美しい村連合」に加入している。 |
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旧日義村 |
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山吹山 |
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らっぽしょ
木曽義仲の旗揚げ地日義地区では毎年8月「らっぽしょ」という木曽義仲公を弔う祭りをする。山吹山から松明をかざして降りてくる武者行列は町内を行進し義仲公の墓参りをする。当日は巴太鼓の演奏も行う。 |
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巴が淵 |
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A
南宮神社
義仲が産土神として岡田神社・沙田神社・阿礼神社から三神を分社した。松本から南の方向だから南宮神社と称された。義仲の死後三神は上州へ祀られたため美濃(岐阜県不破郡)一宮垂井の南宮神社から金山彦之命(天照大神の兄神)を分社した。創建年月日は不明。境内には十二社が祀られていて屋根付相撲場(土俵)もある。前に朱塗りの木の鳥居その次に石の鳥居があり拝殿・本殿とも総檜造り。 |
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南宮神社祭礼
見どころは長持ち行列で派手な衣装を着けた若者が長さ9mもの長持ち竿をギッシギッシと揺り動かす姿は壮観である。行列と共に唄われる長持唄は祝い唄として地域に根付いており宴席などでよく唄われる。 |
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義仲館跡 |
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B
旗揚げ
八幡宮
幼名を駒王丸と名付けられ養父中原兼遠に育てられた木曽義仲公はこのあたりの平地に城を構え八幡宮を祀ったと伝えられている。13歳にして元服、木曽次郎義仲と改め高倉の宮(以仁王)の令旨を賜り治承4年(1180年)一千騎を従え平氏打倒の旗揚げををした。時に義仲27歳であった。 |
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旗揚げ
八幡宮の
大欅
日義には古くから義仲の七本欅と呼ばれる欅の巨木があった。現存するものは旗揚げ八幡宮の境内にある欅のみである。御神木である大欅は平成14年の農学博士であり樹医である浜武人氏の調査によると胸高周囲12m樹高約30m樹齢約800年とされた。落雷により傷つけられた大欅は延命と保存のため平成14年3月にその生命力を枝1本にかけることになり現在の御姿に変わることになった。
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C
義仲館
朝日将軍「木曽義仲」の波乱に満ちた短い生涯を絵画にして展示してある。 |
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D
徳音寺
木曽義仲の菩提寺
木曽路七福神
毘沙門天
徳音寺は元柏原寺といい義仲の祈願所として建てられた。元暦元年(1184年)義仲が粟津で討死した後祐筆であった大夫坊覚明が義仲とその一族の霊を祀り義仲の法名「徳音寺殿義山宣公大居士」より徳音寺としたと伝えられている。開山を朝日将軍木曽義仲宣公大居士とした。最初は真言宗に属し開山は円成阿闍梨。楼門は享保8年(1723年)犬山城主成瀬隼人正幸の母堂の寄進による。山際には義仲・小枝御前・巴・今井兼平らの墓がありまた弓道場も整っていて義仲弓道大会が開かれている。 |
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徳音寺の義仲公墓地 |
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木曽八景
徳音寺の晩鐘 |
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木曽義仲肖像画
(徳音寺) |
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巴御前肖像画
(徳音寺) |
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木曽義仲旗挙げまつり
(らっぽしょ)
子どもたちが松明を灯し唄いながら木曽義仲公の墓参りをする徳音寺の行事 |
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宮ノ越駅
15:20 |
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3日目(10月30日 水曜日) |
木曽谷旬行 中山道は (約9km) |
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3日目の1 |
宮ノ越駅
9:15 |
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第36次
宮ノ越宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 24軒 |
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宮ノ越一里塚
江戸時代初めに一里ごとに築かれた塚。土を盛った上に榎や松などが植えられた。木曽路には22カ所ありそのうち木曽町には宮ノ越・出尻・塩渕の3カ所があり石碑が立てられている。
昔の人は男性で一日に9里女性で5〜6里歩いたというから江戸から京都まで男性なら14日から15日で歩いたようである。 |
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A
出梁造
宿場町独特の出梁造2階建ての町並みが残っている。宮ノ越は木曽大工の多い土地柄であったため細かな格子や見事な彫刻を施した持送りが特徴。 |
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本陣跡
本陣は元治二年(1865年)に再建された建物であったが明治十六年(1883年)に大火があったため焼け残った材料を使って建てた形跡がある。 |
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脇本陣跡 |
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明治天皇
御膳水 |
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原野八幡宮
棟札及び古記録によれば慶長三年(1598年)木曽家の旧家臣らが勧請し原野郷の氏神として創建したとされている。御祭神は誉田別命、本殿内には神像がニ体ある。本殿の両側に独立して?(うだつ)がある。鳥居は両部鳥居と明神鳥居。 |
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E
林昌寺
創立由緒は久寿年間(1154〜1155年)中原兼遠の創建にして真言宗高野山地蔵院の末寺に属すとある。慶安2年(1649年)禅宗妙心寺派の僧北伝なるものが尽力して再興した。墓地には中原兼遠の墓もある。 |
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門近くには守屋貞治作の石仏像がある。 |
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中原兼遠
の墓 |
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B
中山道の中間点の案内板 |
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中山道の
中間点
道の駅日義木曽駒高原にあるもの |
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C
明星岩公園
から見る明星岩
木曽義仲と巴御前が馬で駆け上がったという。 |
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明星岩 |
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D
道の駅日義
木曽駒高原 |
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大原諏訪神社
新開大原入口にあり創建は不明。上屋殿は大正11年(1922年)建立。石灯籠には天明二年(1782年)7月と刻まれている。寛政四年(1792年)に再興したものが現在の社殿。本殿は流造り板葺で正面の竜の彫刻をはじめ様々な彫刻で飾られている。上屋内本殿横には御嶽神社・駒ケ岳神社・稲荷神社が祀られている。境内には地区別の社もあり鳥居の額には「諏訪宮」と書かれ両部鳥居となっている。 |
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岩華観音
岩華観音は開田高原の丸山観音、大桑村の岩出観音とともに木曽三大馬頭観音の一つに数えられている。渡沢観音とも呼ばれる岩華観音は昔、木曽馬の放牧地であった木曽駒高原の一角に木曽義仲が祀った霊験あらたかな馬頭観音として牛馬の息災を祈念する人たちの厚い信仰をうけ崇敬されてきた。現在の建物は明治21年に建て替えられたものを、昭和34年の伊勢湾台風の後修理したものである。岩場の道の両側には西国三十三所観音も祀られている。 |
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原野庚申塔群
六十年ごとに訪れる庚申の年に建てられていた石碑が原野駅近くの中山道端にたくさん祀られている。六十日ごとにも庚申の日が訪れるが「その夜は眠ってしまうとサンシという虫が人体から抜けだし天に昇って天帝に悪行を告げられて命を縮められてしまうと」いう言い伝えがある。みんなが集まって一番鶏がなくまで起きているのはそうした信仰の名残である。青面金剛像や鶏、三猿などを刻まれたものがあり昔の信仰を偲ばせる。 |
青面金剛像 |
天神温泉 |
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木曽文化公園 |
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木曽駒高原
吉川英治の小説「新平家物語」や「宮本武蔵」の舞台でもある。 |
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木曽駒高原のコブシ |
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木曽駒高原CC |
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木曽駒オート
キャンプ場 |
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木曽駒
森林公園 |
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木曽駒高原
宇山 CC |
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キャンピング
フィールド 木曽古道 |
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3日目の2 |
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竹藪の向こうに見える山村甚兵衛の家臣の
石造駒石の墓
石造駒石は
駒ケ岳が好きで駒ケ岳の見えるこの場所に墓ができたという。 |
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木曽町日義の下水道の蓋
木曽氏の家紋を刻んである。 |
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A
草道
中山道を歩く |
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B
正沢川
木曽川の支流 |
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C
中原兼遠
屋敷跡 |
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此尻の
中原兼遠屋敷跡 |
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D
手習い天神
古くは山下天神と呼ぶ。源平盛衰木に義仲を木曽の山下に隠し養育したと記されているが山下は上田の古名で付近に中原兼遠の屋敷跡や義仲の元服の松等の史跡が残りこのお宮の古さを物語っている。 |
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木曽義仲の育ての親である
中原兼遠は
木曽義仲の学問の神として
京都の北野天満宮を迎えた。 |
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赤い鳥居をくぐり急な石段を登ると境内がある。社殿はこじんまりとした流造り。上田の大工棟梁・武居武左ェ門の作で正面左右に獅子頭と象鼻があるが向かって右側の獅子頭が盗難にあっている。 |
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手習天神にある絵馬 |
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境内にある
イチイの木 |
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境内にある
相撲場
大正の初期より青少年の相撲大会が行われている。 |
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薬師堂
境内下にある薬師堂には薬師如来が祀られ閻魔大王丁の十王が祀られている。 |
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右側には宝永七年(1710年)から享和二年(1802年)までの「南無阿弥陀仏」「三十三ケ所」などと刻まれた石碑が八基あり左側には「廿三夜」と彫られた石碑など五基がある。 |
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旧開田村 |
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ふるさと体験館 |
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黒川
河川延長約12,2km。黒川折橋地区上流より流れ木曽川に合流する。 |
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安倍清明の墓
安倍の清明を祀った神社は全国に数百あるという。黒川の清博士集落には阿部清明のお墓といわれる五輪の塔がある。塔の前には若き清明が鳥のさえずりを聞いている姿の石像があるが横から見ると母親である白狐の姿に見える。 |
左横に回るとキツネに変身 |
白山神社(新開橋詰)
山村代官は木曽谷の大工や杣、木挽らの職人を統括させるためにかつて宮中に努めていた御用大工を大工頭に任命したことでも知られている。棟梁を中心とする秩序だった体制、合理的な規則は職人たちを守ると同時に彼らのやる気を引き出し匠としてのプライドも育てた。こうして木曽の大工仕事は目覚ましく発展し彼らは信州はもちろんのこと中山道を通って江戸へ尾張へと活躍の場を広げた。 |
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白山神社本殿の龍
本殿を手掛けたのは幕末から明治にかけて活躍した棟梁斎藤常吉。木曽路だけでも熊野神社、本殿水無神社の社殿藪原神社本殿等の傑作を残した。 |
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白山神社の古代神楽
黒川郷の白山神社では毎年大きな祭りが春・夏・秋の3回行われその都度古代神楽が奉納されている。この神楽は1952年(昭和27年)戦後で娯楽の少ない頃静岡県掛川市の御嶽講社の方に1週間泊まり込みで来ていただき若い人たちに伝授されたと伝えられている。しかし掛川では行われなくなりこの踊りは黒川のみに伝わっている神楽となった。7種類ほどの神楽を30年ほど前からは小学生高学年の女子が行い「福神の舞」だけは大人によって奉納されている。 |
弓の舞 |
白山神社石仏
白山神社の鳥居をくぐった入口の横に大きな石造物が祀られている。左から蚕玉大明神、大日如来、十二面観音菩薩。蚕玉大明神の腹部には座っている馬が彫られている。
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大日如来像
蚕玉大明神立像 |
中谷蚕影山
下中入公民館前の広場には廿三夜と蚕影山が彫られている。蚕影山の元祖は筑波山の麓に伝わる金色姫であるが姫を神格化して彫られている。流れ着いた姫を育てた老夫婦も彫られており木曽では珍しいという。 |
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黒川の春駒
黒川の下中入り地区には古くから伝わる歌と踊りがあり祭りや目出度い結婚披露宴会場や敬老会などで披露されている。伴奏は簡単でゆったりした歌に合わせて十能を火箸で叩くなど音の鳴るものは何でも利用する。湯呑茶碗にばら銭を入れて布で包みこれを振って音を出す者もおりあとは会場の手拍子で盛り上げる。踊りも決まったものはなく体を動かしリズムに合わせれば一人前である。服装は男性は派手な襦袢と厚化粧に手ぬぐいで頬被りをして誰だかわからないようにするのが特徴で最近はお面を付ける場合が多い。無秩序な踊りに見えるがリーダーは決まっており大黒様の面をつけて袋を担いで小槌を振って先頭を行進している。この大黒様が小槌を振って退場すれば踊りは終了する。踊りの内容からいって木曽馬の子孫繁栄を願った歌と踊りと思われる。
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どんど焼き(賽の神)
1月14日に行う。だるまやしめ飾りなどを燃やしその日でお餅を焼いて食べると1年中風邪をひかないといわれている。 |
開田高原髭沢のどんど焼き |
東山観音
黒川郷の古畑家には木曽家十七代義在りの弟が養子入りしていた。その子家重は戦国時代の戦いに活躍して伯耆守の号を許された武将である。その伯耆守が寄進した東山観音堂は木曽三十三所観音巡りの一つで十二番所になっている。お堂内には西国三十三所観音の石造物が並べられ大きな地蔵菩薩立像や馬頭観音の本来の姿である三面八臂馬頭観音菩薩像などがある。 |
西国三十三所観音の石造物
三面八臂馬頭観音菩薩像
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きそふくしまスキー場 |
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唐沢の滝
(木曽町新開)
木曽福島〜開田高原に向かう飛騨街道地蔵峠の手前にある。高さ60m。黒川郷白山神社に奉納されている「黒川八景絵馬」に唐沢の滝の音として描かれている。 |
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開田高原
雄大な御嶽山を真正面に臨む。標高1100〜1300mの開田高原。夏でも冷涼で昼夜の寒暖差が大きい。絶滅が危惧された木曽馬の保護飼育も行っている。 |
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木曽の麻衣
木曽の麻織物は木曽の麻衣の名で鎌倉時代の古唄に唄われており江戸時代の記録によると御嶽山麓の村落を中心に相当の量の麻織物が生産されていたことが知れる。 |
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馬橋三十三観音
開田高原馬橋の旧道脇に厄除観世音菩薩像と三十三観音がある。聖観音が人々を救うために三十三の姿に変化したものに三十三応現身があるがこのエピソードを基にして作り出されたものが三十三観音である。白衣観音や水月観音などがあり石造物では珍しいという。 |
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尾ノ島の滝
開田高原御嶽山の麓、四の池から流れている冷川中流の高さ30mの滝。御嶽山開山中興の祖と崇められた覚明行者や空明行者ゆかりの修行の滝。昭和初期までは2本の滝であったが現在は1本の滝となっている。御嶽山から流れる冷川は雪解け水を集めた川で夏でも水温8度と非常に冷たい。 |
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開田高原の蕎麦の花 |
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開田郷土館
木曽馬最後の純血種「第3春山号」のはく製が展示されている。 |
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山下家住宅
馬医者であり馬主でもあった。本棟造りの現在の建物は建築当初の平面図に基づき間口11間奥行8間の建物に修復され1996年(平成8)年県宝に指定された。 |
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木曽馬
胴長短足・ずんぐりむっくりの大きな腹・つぶらな瞳が愛くるしい日本の在来馬。温和で人懐っこく
家族と一緒に暮らしてきた。
木曽馬のルーツは2〜3世紀に大陸から渡来した蒙古草原馬が祖先とする一説がある。8世紀ごろには木曽に生産地が形成されていたといわれている。鎌倉から戦国時代には優れた馬として評判が高まり武将たちがこぞって木曽馬を求めたといわれる。平和な江戸時代に入ってからは運送の発展にも貢献明治時代に開田村で開墾が盛んになると山間農耕馬として活躍した。ところが軍国主義の時代木曽馬は小柄なために軍用馬としては不適格とされ危うく絶滅寸前になった。しかし戦後木曽馬を愛する人々が立ちあがり少しずつ数を回復現在160頭余りが全国で保護されている。 |
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木曽馬の里
ブルーベリー |
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把之沢白山神社
本社は石川県鶴来町の加賀白山で白山比盗_社を本宮としているが創建された年代は不明。主神を菊理媛神とし伊弉諾・伊弉冉尊を合祀している。平成四年(1992年)に拝殿・社務所を全面改築した。 |
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姫獅子舞
昔開田高原把の沢地区に於いて姫獅子舞が行われていたがいつのまにか衰退してしまっていた。2010年頃に復活の話が持ち上がり地元の有志が集まって練習を重ね最近は地区の芸能祭などに参加して活動を行い地元の神社にも奉納されている。 |
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末川熊野神社
神殿は杭の原宮大工斎藤常吉の作で大社造り。日本社寺建築史上に於いて有名な「流唐破風造」の技法を汲んでおり嘉永7年(1854年)に建てられた大きな神殿。本社は島根県八束郡八雲村熊野といわれているが和歌山県熊野権現ではないかともいわれている。祭神は伊弉冉命・大日留女命・誉田別命を祀っている。 境内には珍しい北計星神碑があり北斗七星に向かって長寿延命や除災を祈る妙見信仰の碑であるといわれ神仏一如の修験道の道場となっている。 |
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珍しいシバタカエデが生育しているがクロヒメタヤと称するカエデの変種で尾瀬の原・赤城山里部などのほか県内の南佐久梓山などに分布しており最南西端に自生している木といわれている。 |
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瑞松寺
開田村末川。昔は万年山瑞松庵といった。本尊の釈迦如来は1660年(万治3年)に作られ創建開山は桂岳和尚により1664年(寛文4年)頃といわれる。瑞松寺観音堂は1703年(元禄16年)に大屋村(現大家)から移して建てた棟札があり1本の欅の大木で造られている。境内には守屋貞治作の地蔵眼王大菩薩像などの石仏がある。 |
瑞松寺の鐘楼門
守屋貞治の石仏 |
源流寺
本尊は釈迦如来で1665年(寛文5年)に創立。開山は長福寺七世澤堂智仁和尚。木曽古今沿革志によると1661年寛文元年長福寺六世高安和尚開山とある。観音堂は1845年(弘化2年)4月吉日当山一〇世禅而着座代建立。本尊は馬頭観音右に三井寺より意で妻籠光徳寺を経て源流寺に送られた如意輪観世音左に聖観世音と十二神将の仏画が安置されていたが1979年(昭和54年)3月1日早朝に失火し全焼してしまった。 |
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西野八幡宮
応神天皇を誉田別之尊と称えて主祭神とし伊勢皇大神宮・熊野神社・若宮八幡宮・津島王子神社の五社が奉斎されている。八幡真公は母子信仰の産土神から始まりのちに源氏の武神とされ西野村庄屋・青木家の先祖が主家祭神八幡を勧請して西野村の産土神としたといわれている。境内には祖霊社も祀られ水芭蕉も生育している。 |
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駒背原の子安地蔵(西野)
伊那西春近村出身の宮下鉄弥の石造物 |
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丸山馬頭観音(末川)
こんもりした山の頂にお堂があり大きな馬頭観音立像が祀られている。お堂には天女などの彫刻も施されている。お堂の脇にはたくさんの馬頭観音像などの石造物が祀られている。 |
観音堂周辺の石造物 |
唐沢の滝 |
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開田高原マイアスキー場
スノーシューで歩く「心の洗濯ロード」を開設 |
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チャオ御岳スノーリゾート |
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3日目の3 |
@
出尻一里塚 跡 |
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出尻の
栃の木
樹齢300m
樹高10m幹周り8,7m |
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木曽大橋 |
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旧木曽福島町 |
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A
あら町経塚
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郷土館に展示されている御経塚と書かれた絵図面。
この地は中山道からの高さが15メートルくらいの所で御嶽山の右端の継子岳がみえるという。経塚は山村家の御嶽遙拝所であったという伝承がある。(千村稔氏のふるさとを訪ねてより) |
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B
芭蕉の句碑 |
おもひ出す木曽や四月のさくら狩 |
代山温泉 |
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C
関所跡近くの
大きな冠木門 |
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第37次 福島宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 14軒 |
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木曽川
木曽町を流れる川はすべて木曽川水系となって流れ伊勢湾に流れ込んでいる。
河川延長約229km。隣村木祖村より福島・日義地区を流れ岐阜・愛知の両県を通り太平洋へ注ぐ。 |
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東山魁夷の日記から |
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福島宿 |
大正15年
7月9日 |
私達の今度の旅行の終着点としていた木曽福島に向かう。福島は江戸時代に代官のいたところで中仙道での最も大きな関所がここにあった。今ではもう昔の趣はない。馬市の立つ時は賑わうとのことだ。名物のそばを食う。土産物を買い汽車に乗る。 |
水無神社
元岩郷村の氏神ですが同時に福島村の氏神でもありました。1265年(文永2年)5月飛騨一宮水無神社をこの地に御勧請水無天皇と称し祀った。棟札には1279年(弘安2年)木曽沼田馬のかみ家仲によって勧請したといわれている。1357年延文2年越後の守藤原の家有が再興し木曽氏・石川備前の守・代官山村氏に至る領主によって木曽総鎮守水無大明神とされている。御祭神は「高照姫命」。周りは1200年を超える椹・桧・杉の木に囲まれている。 |
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水無神社例大祭
毎年7月22日・23日に開催される「天下の奇祭」として有名なみこしまくり。そのゆえんは毎年新調される重さ400キロもある頑丈な白木の大神輿を23日の本祭りの夜に福島地区内を「宗助」「幸助」の掛け声で縦まくり・横まくりをして壊してしまう豪快なみこしまくりである。 |
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川上・正沢念仏講
昔は各集落で旧暦の2月にはねはん念仏5月には百万遍念仏が行われていた。その他にも一日講・八日講・二十日講・廿三夜講など何回も念仏講が行われていたという。百万遍念仏講は1080個の珠がついている長い大数珠を「南無阿弥陀仏」を唱えながら回すのだが1周すれば一人千遍唱えたことになり10人で行えば一万遍となるから100回回せば百万遍となる。
福島の川上・正沢集落では現在も続けられていて町の無形文化財に指定されている。木版刷りの厄払いお札と飾りつけられた造花を分けて持ち帰り仏壇に祀っている。 |
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西方寺
貞享2年(1685年)僧順応によって開山創建された浄土真宗西本願寺末寺。元は八沢川端に建てられていたが宝暦3年(1753年)と嘉永3年(1850年)に八沢川の洪水被害をうけ安政2年(1855年)現在地へ移転した。明治17年(1884年)にも庫裏を流失して再建した。この場所には寺が移転する前から江戸時代の漢学者石作駒石の書斎があった。 |
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了源寺
第4代山村代官良豊公の奥方が日蓮宗に帰依して寛文年代(1660年代)に代官屋敷北東隣に寺を建立したのが始まり。一時衰退していたが寛文元年(1789年)に再度開山して今日に至っている。昭和13年(1938年)には福島小学校上校舎建築の際中畑に移転した。 |
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中畑津島神社
本殿正面前の額には津島牛頭天王と書かれ左横に従五位下山良由拝書とある。九代代官山村良由(山村蘇門)の書である。 |
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境内にある芭蕉句碑
かけはしや 命をからむ
蔦かづ羅
裏に「巴笑(福島の俳人)加之(しかのみならず)咄々房(とつとつぼう)建之宝暦5年」とある。
元は桟にあったものだが水害に遭い分からなくなってしまったので桟には改めて芭蕉の句碑を建てたのだが後に見つかり津島神社へ運んだという。 |
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城山史跡の森
木曽義仲が挙兵の際に打たれたという権現滝や戦国時代の山城福島城跡がある。
福島城は戦国時代木曽義康によって築かれた。
福島の中には「小丸山城」「上の段城」「福島城」の三つの城があった。
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権現滝
木曽義仲が平家追討の挙兵の際にこの滝で沐浴祈願しその時に御嶽大権現を勧請したことに由来する名称といわれている。落差約40m。滝直下には修験者が水行をするために岩を削った御立場が残っている。 |
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クライマーにも魅力的な屏風岩 |
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板敷野八幡宮 |
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白山神社 |
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荒神社 |
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大原諏訪神社 |
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木曽漆器
四百有余年の歴史を誇り良質な木材と天然漆から生まれる木曽春慶・木曽椎朱・塗り分け呂色塗は職人たちの伝統技法。 |
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遠藤於菟(建築家)
慶応元年(1865年)福島村で生まれた。建築家をめざして帝国大学造家学科を卒業した。 最初は工事監督をしていたが横浜の近代的なビル群の建築設計に関わるようになった。明治三十八年(1905年)に設計事務所を開設し三井物産横浜支店や現在の神奈川県立歴史博物館・旧横浜帝蚕倉庫などを手がけた。鉄筋コンクリートの強度を自ら実験して技法を探り日本の鉄筋コンクリート建築の先駆者として活躍した。 |
三井物産(日本最初の鉄筋建築) |
横浜帝蚕倉庫 |
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陳昌鉉(楽器製作)
韓国に生まれ第2次世界大戦中に来日明治大学在学中に糸川英夫氏の講演でストラディバリウスの音の解明は永遠に謎だという話を聞きバイオリン作りを目指そうとした。しかしどこへ行っても教えてもらえなかった。木曽福島へ来てからは土木工事に携わりながら鈴木バイオリン工場の従業員を訪ねて独学で学んだ。駒ケ岳がみえる土手に自分で丸太小屋を建てて暮らしていた。昭和五十一年(1976年)アメリカで開かれた国際バイオリン・ビオラ・チェロ製作者コンクールにおいて六種目中五種目で金賞を受賞。昭和五十九年1984年に無鑑査製作家の特別認定とマスターメーカーの称号を授与された。平成二十四年(2012年)に惜しまれながら永眠した。陳昌鉉氏は木曽福島に来ることがなかったらバイオリンを作ることができなかったといって手元に置いていた処女作のバイオリンや最新作など3提を木曽町に寄贈した。 |
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住宅跡に設置されたレリーフ |
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西筑摩郡誌によると奈川・楢川・山口を含め寺院は37寺ありそのうち木曽町には14寺あったと記録されている。現在は12寺ある。木曽は臨済宗妙心寺派のお寺が非常に多い地域である。 |
願行寺 |
城山 |
時の鐘を鳴らした寺。関所門の開閉もこの寺の鐘により行われていた。 |
勝澤院跡 |
中畑 |
長福寺高安和尚の隠居寺 |
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西光寺地区 |
寺跡といわれる古い五輪塔がある。 |
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大通寺付近 |
東本願寺派であった善性寺があったが天和3年(1683年)に廃寺となった。 |
龍源寺 |
八沢 |
戦国時代に亡くなって御墓島に埋葬された木曽義元公の供養は龍源寺に於いて行われていたといわれる。後に龍源寺は長福寺に合併した。 |
松尾寺 |
字松尾 |
お寺があった跡といわれている「屋敷田」という名前の田んぼがある。山村代官の書いた本「木曽古示談拾遺」の中にもその記述がある。 |
黒川地区には十九体の道祖神があり木曽地方では最も多い。江戸後期に造られたものがほとんど。 |
上志水双体道祖神 |
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中谷蚕影山碑(金色姫) |
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栃本双体道祖神 |
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芝原双体道祖神 |
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橋詰双体道祖神
猿田彦・宇受売命 |
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猪子島双体道祖神 |
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3日目の4 |
池井坂 |
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福島関所
福島関所は碓氷・箱根・新居とともに天下の四大関所のひとつであり中山道のほぼ中間に位置する関所である。木曽川の絶壁の上に構え背後に裏山が迫る一番狭い所で関所にはうってつけの場所である。
江戸を守るための中山道の要衝として「入鉄砲」・「出女」を厳しく取り締まっていた。
「女手形」はここで没収し江戸へ向かう女性には碓氷関所宛の「書替手形」が発行された。
慶長七年(1602年)に中山道が開かれて間もなく福島関所は創設されたと思われるが明治二年六月までその機能を果たしてきた。
廃関後所施設は全部取り壊されてしまっていたが昭和50年夏に行われた発掘調査の結果寛文年間(1661年から1670年)頃のものと推定される関所古絵図に見られる関所遺構の全容を確認することができた。
これを史跡公園として整備保存する計画が立てられ史跡公園に隣接して昭和52年4月27日当時の番所建物を再現関所資料館が完成した。
1979年(昭和54年)3月13日文部省により国の史跡に指定された。 |
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福島関所跡
復元図の看板 |
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関所跡 |
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福島関所跡の石碑 |
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関所跡 に建築された東門西門
平成2年史跡内の民地の公有化に伴い第2時発掘調査を実施し史跡保存・環境整備の一環として平成4年度に東西両門と木柵及び武家屋敷跡の公園化復元修景整備をした。 |
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東門跡 |
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西門跡 |
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福島関所まつり |
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A
高瀬家
文豪島崎藤村の姉「園」の嫁ぎ先。小説「家」のモデルとして知られている。高瀬家は山村氏の家臣で代々関所番を務めていた。
高瀬家の祖先は肥後の国(現熊本県)の出身で大阪冬の陣の頃福島に着て後に山村代官に仕えたのがはじまりという。 |
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島崎藤村
明治五年(1875年)に馬籠宿の本陣・問屋・庄屋を兼ねる旧家に七人兄弟の末っ子として生まれた。二歳のとき一番上の姉園が福島町高瀬家へ嫁いだ。明治三十一年(1898年)には高瀬家にひと夏滞在し「夏草」の詩編を書いた。明治四十二年(1909年)には高瀬家をモデルにした「家」の準備のため滞在して取材した。藤村の妻フユが七人の子供を残して早く亡くなったため三歳の三男を小学校卒業まで高瀬家に預けた。その後もよく高瀬家には立ち寄り昭和三年(1928年)には夜明け前出版のため資料調査に来た。昭和八年(1933年)大磯で亡くなった。 |
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高瀬資料館 |
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高瀬奇応丸 |
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旧帝室林野局木曽支局庁舎
尾張藩の管轄であった木曽美林は明治政府に引き継がれ御料林となった。1903年(明治36年)御料局木曽支庁が福島町に設置されモダンな洋風庁舎が建てられた。1924年(大正13年)に帝室林野局木曽支局に改称されて間もない1927年(昭和2年)5月の福島の大火により焼失してしまった。しかし帝室林野局では総力を挙げて復旧し木曽五木の良材を売却して購入した外材を使用してその年の暮には現在の庁舎が完成した。2012年(平成24年)に木曽町有形文化財に指定されて復元保存工事が行われた。 |
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木曽福島
郷土館
敷地内には旧開田村から移築された長板葺石置き屋根切妻造りの典型的な木曽の民家もある。 |
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興禅寺
木曽路七福神
吉祥天
木曽氏十二代信道公の父親、親豊公が小丸山城を築き福島に住んだことに伴い永享六年(1434年)に興禅寺を創建し木曽義仲公の菩提を弔った。倶利伽羅峠戦勝を記念して狼煙台である火燃山から興禅寺まで松明行列を行い墓前で木曽踊りを奉納して弔ったそうである。境内には義仲公御影観音堂と勅使門(勅使門は明治四十三年(1910年)に保護建造物に指定)があったが昭和二年の大火で焼失してしまった。現在は両方とも再建されている。 |
「木曽踊り発祥の地」の碑
木曽義仲の倶利伽羅峠の戦勝を祝ったものと説明されている
木曽義仲手植えの枝垂桜二代目
勅使門 |
興禅寺看雲庭
枯山水では東洋一の広さである。 |
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木曽義仲の墓 |
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興禅寺山村家墓地 |
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B
大手橋
江戸時代には代官所への通路として最も重視されていた橋で取り付け道路を広小路といい木戸が設けられ番小屋も置かれていた。御屋敷前橋といわれていたが明治になって大手橋と名づけられた。明治以降2度の洪水により流失し1936年昭和11年工学博士中島武氏の設計により世界で最初に造られたコンクリートローゼ桁橋である。これをきっかけに全国に架けられるようになり長い橋にも連続ローゼ桁で架けられたが現在はほとんどが老朽化し新しい橋に架け替えられている。しかし大手橋は世界で最初に架けられたことから2002年(平成14年)に土木学会選奨土木遺産として認定され床板補強を施し側面に歩道を添加して維持保存されている。 |
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江戸時代
関所橋」「大手橋」(山村代官屋敷へ入るための橋)「行人橋」(御嶽街道への入り口)の3つの橋があった。 |
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中央橋
明治時代上町六人衆と呼ばれた商人が私財を投じて完成した。 |
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山村代官屋敷東門跡の石垣 |
尾張の俳人横井也有の句
俎板のなる日はきかずかんこ鳥 |
C
山村代官屋敷
山村家伝来の品々が展示されている。
一部に江戸中期の漢学者
石作駒石の
書斎、翠山楼が移築されている。 |
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翠山楼
第9代代官山村良由の勘定方として天明の飢饉の時力を尽くし家老職に取り立てられた「石作駒石」の書斎として使われていた建物。 高床式回廊造り。駒ケ岳が望める西方寺の境内にあったものを山村代官屋敷の敷地内に移築した。 |
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城陽亭
現在は代官の住居の一部(城陽亭)が代官屋敷として一般公開されている。地区200年の建物に使われている柱は木曽檜の中心部のみ使用「四方無節」
窓ガラスは「明治ガラス」といい日本の技術で初めて作られたもの
四角い竹は何百本に1本の割合でしか生えない貴重なもの
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山村良勝は木曽氏に仕えていた。
20代木曽義利が改易された後
網戸の城を没収された山村良勝(たかかつ)ら木曽の武将は佐倉(千葉県)にいたが関ヶ原の戦いで家康に味方をして手柄をたて木曽や美濃に領地を拝領した。 中山道福島宿に福島関所が設置され山村義康が初代の代官となり山村家で代々引き継がれて江戸末期の十三代まで続いた。代々の大艦は学問が得意で特に九代良由(たかよし)は幼少の頃より文学を好み代官職の傍ら漢詩を謡い印刷製本まで木曽で行う技術を江戸で修得した。良由公は蘇門とも称し大内熊耳・南宮大湫・細井平洲・樺島石粱らと親交が深くそれらの資料が山村代官屋敷に展示されている。また江戸からお抱え絵師池井裕川親子を木曽に招き多くの神社に絵馬を奉納した。 |
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蘇門公直筆軸
(代官屋敷) |
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代官を守る「山村稲荷」の御神体である狐のミイラ「お末社さま」が祀られている。 |
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D
本陣跡 |
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木曽踊り |
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氷雪の灯祭り |
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長福寺
木曽義仲、武田信玄の供養塔山村家初代
良候の墓がある。木曽氏13代豊方公が永享2年(1430年)に開山したといわれているがその他の年号で書かれているものもある。足利期の中頃八沢に龍源寺があり長福寺に合併して龍源山長福寺というようになった。木曽家の墓碑5基と山村家は良候公までの墓碑が祀られているといわれる。良勝公からは殿方が興禅寺で奥方が長福寺に埋葬されるようになった。 |
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?羅陀山
地蔵堂 |
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信州高遠の名工守屋貞治の地蔵本尊がある。 |
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長福時木曽家代々墓地 |
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横宿 |
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上の段坂 |
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E
高札場
上の段の東の桝形の中にある。徳川幕府や藩からのお達しを周知するため木札に書いて高い所に張り出してあった。高札場は各町村ごとにあり本陣や庄屋の近くにあった。高札場の周りは柵を作って近寄ることができないようにし柵の中には栗石を敷き詰めて奇麗にしてあった。高札には荷物駄賃や切支丹御禁制・忠孝・毒薬・御朱印・倹約・喧嘩口論・人売り買いのことなど増えていったが明治五年(1872年)に廃止になった。 |
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おまつり会館 |
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上の段
福島宿は木曽谷の中心として古くから栄えてきた町であるが残念ながら昭和2年5月の大火によりほとんどが焼失してしまった。再建した家は板葺屋根形式で重石を載せた家なので面影は残っている。特に上の段地区は大火から逃れたため古い家並みが残っており、出梁造・袖うだつ・千本格子などの建物が江戸時代からの水場と調和している。 |
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F
上の段の水場 |
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12:00
昼食 |
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G
大通寺鐘楼門
木曽氏の家臣山村氏は木曽代官となり木曽氏館跡に大通寺を創建した。山村良し勝の内室が一寺を建立して桂山和尚を住職とし開山したといわれている。現在の本堂は平成6年(1994年)に落慶した建物である。鐘楼門は安永7年(1778年)9月施主・向井休治大工棟梁・原源右ェ門によって建てられた。木曽町内では3番目に古い建物で昭和54年(1979年)3月30日に町の有形文化財に指定されている。平成23年(2011年)に修復された。山門に掲げられている扁額は江戸中期の日本を代表する書家三井親和の作である。梵鐘は寛文4年(1664年)2代住職・北伝和尚の時寄進されたが第2次世界大戦のとき供出されたため昭和53年(1978年)再鋳造された。 |
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真理姫の
供養塔
武田信玄の三女真理姫は木曽義昌に嫁いだが義昌が下総国網戸で没した後は三岳の山村氏の家臣上村氏を頼って住んでいた。山村代官は真理姫が没後大通寺の境内に供養塔を建てた。 |
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上の段城
木曽氏第18代木曽義康が築く本丸:関山公園近く(義仲と氏をお守りした四天王が祀られているため本丸のことを「五霊様」ともいう。
二の丸:旧東校あたり
三の丸:大通寺あたり |
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小丸山城
木曽氏第11代木曽親豊が築く本丸:NHKの電波塔あたり
二の丸:木曽青峰高校あたり
三の丸:丘の上から木曽福島駅に向かう途中にある跨線橋あたり |
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久昌院
正保2年(1831年)4月興禅寺住職7世桂岳和尚によって創建された。 本尊は釈迦如来で右に文殊菩薩左に普賢菩薩の釈迦三尊像である。境内には豊川公が迎えた鎮守稲荷大明神天明祠が祀られ銅製の観音菩薩十六羅漢が並ばれていて本堂内には秘仏の観音菩薩が祀られている。梵鐘は水無神社のだんじりを寄進した新井新兵衛が享保5年(1720年)に寄進したもの。木曽には珍しい仁王門があり2階が鐘楼になっている。 |
久昌院の鐘楼門 |
H
上の段下の
井戸水 |
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木曽春慶
木曽町福島の八沢地区は古名を富田町といい1394年〜1427年(応永年間)木曽親豊の築いた小丸山城の城下町として発展したところといわれている。木曽氏はこの地に漆器業者を呼び寄せこれに庇護を加えたのが八沢漆器の始まりでその御木曽谷を治めた山村氏や尾張藩の庇護のもと大きく発展した。木曽谷の檜物細工は曲物・指物・塗物に大別される。 |
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I
木曽郷土館
木曽教育会館の敷地内にある土蔵造りの建物。木曽を愛した彫刻家石井鶴三作の島崎藤村像3体と木曽馬のブロンズ像がある。 |
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木曽郷土館
前庭 |
芭蕉句碑 清水塚
さざれ蟹足はひのぼる清水哉 |
木曽教育会館前の小庭園
島崎藤村の「夜明け前」自筆原稿用紙記念碑が昭和三十一年(1956年)に建立された。 |
「夜明け前」の碑
昭和31年(1956年)建立
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J
行人橋
御嶽信仰の行者が渡る橋から行人橋と呼ばれた橋は江戸時代末期の安政年間に架けられたが1878年(明治11年)の洪水で流失した。三岳・王滝両村への重要な橋のため応急措置として仮橋を架けてしのぎ1880年(明治13年)に竣工したがわずか4年後に再び流失してしまい再建した。1912年(大正元年)に下流に車道橋が完成し昔からの橋が撤去されたが2005年(平成17年)に町民からの寄付金を募り歩道橋として復元された。 |
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K
木曽川
親水公園 |
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L
崖屋造
中山道は本町から上の段に登り中八沢橋に出る道でしたが急な坂道であったため1906年(明治39年)に本町から西芳寺下の崖を掘削し新八沢橋を新設して迂回した。1911年(明治44年)の鉄道開設に合わせて道路整備が進められこの道路に沿って木曽川に張り出すように家が造られた。その後も国道工事で更に張り出し狭い土地を有効利用した独特の崖屋造りとなった。 |
山蒼く暮れて夜霧に灯をともす
木曽福島は谷底の町
太田水穂
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M
太田水穂歌碑 |
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牛越用水 |
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木曽福島駅
14:15 |
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4日目 (11月6日 水曜日) |
木曽谷旬行 中山道に (約15km) |
旧三岳村 |
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三岳・羽入
御嶽・乗鞍・駒ケ岳の三岳が見える羽入周辺。旧三岳村の名前の由来。 |
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道の駅三岳 |
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梅 |
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木曽町三岳日向の福寿草 |
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三岳小島のエドヒガンザクラ
樹齢600年以上
樹高12m
幹周り1、3m |
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三岳野口集落の真理姫墓地
武田信玄は木曽に攻め入り木曽義康と和を結んだ際木曽家は源氏の血を継ぐ高家だからと三女の真理姫を木曽家19代木曽義昌に嫁がせた。しかし信玄亡きあとは木曽谷領民を守るため織田信長がたに付き武田勝頼を倒す手助けをせざるを得なかった。木曽家は戦国時代の戦乱期を織田信長や徳川家康・豊臣秀吉らに所属替えをして乗り切った。しかし秀吉が天下統一をして木曽を直轄地にした時下総国網戸(千葉県)に移封された。五年後に木曽義昌が病死した後真理姫は幼子を連れて三岳野口の上村家を頼って木曽に戻り九十八歳で亡くなった。上村家と館跡の大通寺に五輪の塔が立てられ供養されている。 |
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大泉寺
現存する最も古い記録は1673から1680年延宝年間の寺院攻めの時書き上げたものを元に1724年享保9年検地奉行に差し出したものがある。
「1678年延宝6年9月書上申候
一、禅宗竜源山長福寺末寺大泉庵寺開山長福治寺四世大雅和尚大禅師開基知不申候
右の通り古来書上只今迄相違無御座候以上享保9年大泉庵」
1533年天文2年に半鐘を作った記録が残っているのでこの時期に建てたものと思われる。1627年僧大雅さらにこれを中興開山する。1893年(明治26年)に現在地へ移転した。観音堂の本尊は十一面観音。1823年(文政6年)3月9日入仏10日念仏供養修行とあり1823年(文政6年)の創建ではないかと思われる。堂内には十一面観音像を中心に右に三十三所観音左に十王像虹梁で仕切った内陣に20枚外陣に60枚の天井絵がある。 |
円空仏韋駄天像
守屋貞治作の石仏 |
普門寺
1641年(寛永18年)桑原氏の援助によって長福寺高安和尚が開山したといわれている。高安和尚は普門寺に通っていたが塩渕や川西地区の便宜を図るために郷谷に橋を架けたので「高安橋」と呼ばれていたという。今の「廣胖橋」のことである。境内に薬師堂があり1678年延宝6年の寺院改帳に載っていて本堂・薬師堂とも1624から1643年(寛永年間)に再興した建物である。
観音堂の創建は1775年(安永4年)本尊は十一面観音立像で中央にあり右側には十王像左側には薬師如来・日光・月光の三尊像が安置されている。山門は鐘楼を兼ねており1792年(寛政4年)に檀徒により寄付されている。 |
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三尾阿弥陀堂
三岳地区の三尾日向の阿弥陀堂には平安時代に造られた阿弥陀如来の座像が安置されておりこれが木曽谷最古の仏像といわれている。木曽志略によると現在の場所へは1612年(慶長17年)三尾村の原氏により再建され下条のお堂から移された。阿弥陀如来像は1979年(昭和54年)に長野県の文化財の指定を受けた。境内には百体余りの石仏があり日向の女人講が建てた地蔵菩薩像もある。 |
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瀬戸原の蚕影山立象 (三岳)
伊那西春近村出身の宮下鉄弥作。 |
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みたけ夏祭り
御嶽神社例大祭に合わせ7月に三岳お祭り広場で行う。青年連が担ぐ大樽神輿、女神輿、子供御輿が広場内を練り歩く。大樽神輿は600キロもある。 |
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御嶽神社太太神楽
三岳黒沢の御嶽神社で豊作を祈願する祭事。全12演ある舞が毎年4演ずつ3年で全演揃うように舞われる。 |
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白川の氷柱群 |
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白河氷柱群ライトアップ |
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猿橋渓谷の紅葉 |
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油木美林
(木曽町三岳)
檜・あすなろ・さわらなど樹齢300年を数える樹木が生い茂る原生林。学術参考林。 |
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こもれびの滝 |
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不易の滝(木曽町三岳)
太古の時代からその容姿を変えないためこの名がある。 |
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百間滝(木曽町三岳)
御嶽山の雪解け水が白い筋となって流れ落ちる。 |
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御嶽スーパートライアスロン |
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鳳泉寺の枝垂桜
(王滝村)
樹齢350年以上で県の指定天然記念物。 |
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森林科学館
(王滝村) |
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御嶽山史料館 |
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おんたけ銀河村キャンプ場 |
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御嶽神社里宮
本社は天文二十三年(1554年)に木曽左馬頭義康が再建するとある。慶安五年(1652年)木曽代官山村良豊(四代)現存する建造物は明治六年(1873年)に関東巴講社によって建て替えられた。によって修理が行われた。文久二年(1862年)に尾張藩主が寄進した石の鳥居は今も現存している。 |
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御嶽神社例大祭
御嶽神社里宮(王滝村) |
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御嶽神社若宮
創建年代は不明 。棟札によって至徳二年(1385年)木曽伊予守家信(十三代豊方の次男)によって再建されている。本社に比べ社殿が広く毎年行う例祭には木曽氏はこの境内で流鏑馬神事を行い山村氏もこれを引き継いだ。社殿は元和一年(1615年)山村良勝により再建された。 |
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六段橋からの紅葉 |
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御嶽湖 |
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自然湖
長野県西部地震による土石流で川がせき止められて作られた天然湖。深さ約10m。最深部は約20m。 |
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御嶽神社若宮 |
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4合目十ニ大権現
昔12人の子を持つ男が妻に先立たれ乳飲み子の乳母がなく困り果て御嶽山に一心に祈願すると男から乳が出るようになったという言い伝えがある。その霊験から十ニ権現様を祀ったという。いつからか猿ボコという小さな人形が供えられるようになりそれを借りて帰ると願いがかない翌年には倍にして供えるという風習が今も続いている。 |
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かんまん滝
御嶽山4合目半にある天昇殿付近の霊神碑の近くにある。落差約6m。 |
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清滝(王滝村大又)
王滝村から田の原高原へ向かう途中の大又川上流にある。高さ約30m。御嶽修験道の場として知られている。清滝不動明王と清滝弁財天が祀られている。 |
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冬の清滝 |
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新滝(王滝村大又)
行者がこもる岩の祠がある。落差およそ30m。流れ落ちる滝を裏側からも見ることができ「裏見滝」とも呼ばれる。 |
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御岳ロープウェイ
全長2333m御嶽5合目〜7合目まで標高差580メートルを一気に登るゴンドラ。山頂駅舎からは木曽駒ケ岳・乗鞍岳・槍ヶ岳・八ヶ岳・浅間山など日本を代表する名山そしてまぼろしの巨大滝を展望できる。 |
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田の原天然公園 |
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おんたけ田の原天然公園 |
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御嶽山八合目 |
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黒沢口九合目の覚明行者墓地
木曽にやって北春日井の覚明行者は天明二年(1782年)に修験者(山伏)しか登拝することができなかった御嶽山を軽精進で登れるように願い出たが許されなかった。しかし3年後に無許可のまま連れてきた信者と登拝を強行し捕らえられた。黒沢口の登山道改修にも力を注いでいたが翌年ニの池の傍らで亡くなった。遺体は九合目に祀られている。これがきっかけで五年後には軽精進登拝の許可が下った。ちょうどその年江戸から普寛行者が訪れて王滝登山道を開設した。 |
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最初に立てられた覚明供養塔
(大泉寺) |
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ニの池
海抜2905mの日本最高所の高山湖。水深3,5mの水をたたえている。 |
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御岳山剣ヶ峰の御嶽神社
御嶽山頂上の奥社・山麓の里宮・若宮を一社として統一した。里宮の御神田尾は少彦之命若宮は大己貴命、頂上奥社は国常立命の三神を一つに祀って御嶽大神とし御嶽神社と称している。御嶽神社では毎年一月四日に太太神楽を奉納するが十二座ある神楽を四座ずつ行っている。 |
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御嶽山 |
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木曽八景
御嶽の暮雪 |
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おんたけ2240 |
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王 滝 川 |
三浦ダム |
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三浦発電所 |
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滝越発電所 |
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王滝川ダム |
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牧尾ダム |
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御岳発電所 |
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常盤ダム |
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三尾発電所 |
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常盤発電所 |
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木曽ダム |
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4日目の1 |
木曽福島駅
8:00 |
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木曽福島駅周辺の中山道は最初は富田町を木曽川に沿って平らな道になっていたが宝暦三年(1753年)の洪水で崩壊してしまった。修理のしようがなく万郡地区へ迂回して塩渕へ下りるようにした。
明治中ごろに改修された馬車道開設で元の場所を通れるようになった。 |
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@
御嶽神社 |
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A
塩渕一里塚
江戸ヨリ七十里
京へ六七里
一里塚は江戸時代初めに一里約(3927m)ごとに築かれた塚で榎や松などが植えられ旅人の目安となった。木曽路には22カ所ありそのうち木曽町には宮ノ越・出尻・塩渕の3カ所があり石碑が立てられている。昔の人は1日に男性で9里女性でも5〜6里歩いたというから江戸から京都まで男性なら14日から15日で歩いたようである。
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塩渕の看板
昔中山道を馬の背中に塩を乗せて運んできたところその馬が木曽川の渕に転落し、塩をまいてしまったところから塩渕という地名がついたという言い伝えがある。 |
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B
二十三夜さま |
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C
木曽川えん堤 |
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D
中平
立場茶屋跡 |
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E
中央西線の
旧トンネル |
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F
木曽義元の墓 |
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台ヶ峰 |
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G
元橋 |
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新田墓地の六地蔵
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六地蔵は上松町で一番古い地蔵様で延宝六年(1678)七月に建立された。 建立者の氏名が裏面に彫られている。 |
八幡神社
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江戸中期の代表的な社殿建築。毎年九月上旬に幕末の頃三河の神田徳七から伝えられた「芸ざらいと」呼ばれる獅子狂言が若連によって上演される。 |
かくれ滝のお姫様の伝説 |
荻原村の人の前に追っ手から逃げるお姫さまが現れかくまってくれるよう懇願しましたが村人は後難を恐れて断った。するとお姫さまは小判を出してお礼をするといったが村人は小判だけを取り上げて願いは聞かなかった。途方にくれたお姫さまは山路を逃げ名も無き滝のほとりに身を隠すも追っ手に発見されついには滝に身を投じた。以来この滝は「隠れ滝」と呼ばれ滝上の祠は姫を祀ったものとされる。 |
御嶽の四門 |
登拝や修行にはさまざまな時期、順序、方法、行場、などが定められているが御嶽の四門もこれら修験道に関係のある決まり事である。四門とは吉野の金峯山などで知られているように発心(東)修行(南)菩提(西)涅槃(北)を指す。御嶽では御嶽を中心にしてこの四門が定められ北は鳥居峠東は岩郷村(現木曽町福島)の神戸西は飛騨街道筋の長峰峠南は三浦山中の拝殿山を指した。 いずれも木曽谷に入って初めて御嶽山を目にすることのできる場所であり修験者にとっては修行の大切な場所として重視していたと考えられる。 |
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4日目の2 |
@
御嶽遙拝所
寛永2年山村良忠が再建
寛永9年壬申毀損の記録あり
文政4年7月金剛院順明が石の華表に建て替えた。
北 長峰峠
西 三浦山
東 鳥居峠
南 神戸
しかし神戸の遙拝所では御岳山がみえないのでその山の上にどうがん岩という岩がありそこから御岳山が拝めるからそこで拝むようにと言われていた。又どうがん岩にはいつも水をたたえている穴がありその水は目にいいというので旅人は山を登ってどうがん岩の水で目を洗ったという。
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A
御嶽教大本殿 |
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御嶽教大御神火祭
御嶽信仰では御嶽に生まれ御嶽に帰るとの考えから御嶽の麓に霊神碑を建てて先祖の霊を慰める。木曽御嶽本教では碑を造れない信者のため三岳に祖霊殿を建立し毎年慰霊大祭を斎行している。 |
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B
道の駅
木曽福島 |
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道の駅
木曽福島から見える御嶽山 |
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C
沓掛観音
霊験あらたかで有名なこの馬頭観音の縁起によると木曽義仲公の名馬は人の言葉がわかったという。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり目算で「七十三間飛べ」と号令をかけた。馬は命ぜられるまま正確に七十三間とんだが実際は七十四間あったので人馬ともに川中へ転落してしまった。義仲は九死に一生を得て助かったがかわいそうに名馬は死んでしまった。そこで義仲は金の観音像を造らせて一堂を建てて馬の菩提を弔ったのがこの観音堂のいわれであるという。以前はもう少し南の観音坂にあったが、明治四十三年の鉄道の工事の折にこの地一里塚の上に移築されたという。金の観音像は盗まれてしまったという。 |
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D
沓掛一里塚
一里塚の上に沓掛観音堂が移築されている。
一里塚は昔は中山道の両側にあったが明治四十三年(1910年)中央本線の鉄道工事の折に山側(西側)の一里塚は取り壊され川側(東側)の一基が残っている。
京へ六十六里
江戸ヨリ七十一里 |
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4日目の3 |
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木曽の桟
昔は険しい岩の間に丸太と板を組藤蔓等で結わえた桟であったが正保4年(1647年)通行人の松明で焼失した。そこで尾張藩は翌慶安元年(1648年)に長さ五十六間(102m)中央に八間(14,5m)の木橋をかけた石積みを完成した。寛永元年(1741年)の大改修と明治十三年(1880年)の改修の二度にわたる改修で木橋の下の空間はすべて石積みとなり残されていた木橋は明治四十四年(1911年)国鉄中央線工事のためにとり除かれてしまった。現在石積みの部分が国道19号線の下になっているがその全貌が完全な姿で残されていることが分かる。 |
恐ろしや木曽のかけ路の丸太橋
ふみ見る度に落ちぬべきかな
木曽八景 桟の朝霞 |
大岸壁に残る桟完成の文字
尾張藩が慶安元年(1648年)に木橋をかけた石積みを完成したことを大岸壁と石垣に銘記している。 |
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A
山頭火の碑
山頭火の碑のみが残されているがその他の碑は工事の折に木曽側の反対側に移された。 |
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明治天皇の碑 |
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B
木曽の桟にある芭蕉の句碑 |
文政12年友左坊建立の芭蕉句碑
桟や命をからむ蔦かづら
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芭蕉の句碑
この句碑はなくなってしまった句碑を拓本を取って作ったものだという。後に見つかった芭蕉句碑の本物は木曽町福島中畑の津島神社の境内に置かれているという。 |
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正岡子規の歌碑 |
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C
天狗岩 |
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D
鬼淵鉄橋
現存する国産最古のトラス橋。大正2年宮内省土木技師三根奇能夫の設計で大阪の横河橋梁製作が作った。鬼淵鉄橋は全長93,8m。完成から昭和50年まで森林鉄道として使われた。木曽森林鉄道は鉄橋の西側で小川線・王滝線の軌道が分岐し特に王滝線は昭和50年5月の廃線まで活躍し日本で最後まで運行され鬼淵鉄橋の上でフィナーレが行われた。その後の鬼淵鉄橋は車道線として永年にわたって地域の交通を支え続けた。 |
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大38次上松宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 35軒
広重・英泉合作の中山道六十九次の浮世絵に上松として描かれた小野の滝 |
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上松町
「上松太郎 」 |
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十王橋 |
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E
上松町上町 |
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上松町のマンホール |
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F
本町一里塚 の跡
京へ六十五里
江戸ヨリ七十一里。
江戸時代には今の碑より30m下方に二基の一里塚があった。一里塚は丸く土を盛って作られているので南に向かって右側を下の山と呼び左側を上の山と呼んでいたという。 |
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桝形のあと |
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風越山 |
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木曽八景
風越の青嵐
上松宿を眼下に見下ろす風越山の頂上周辺は見渡す限りのススキの原。
一陣の夏風が吹き越す眺めは雄大にして爽快。 |
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上松町から木曽駒ケ岳を臨む |
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木曽八景
駒の夕照
駒ケ岳
標高2956m |
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寺坂 |
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小川若宮神社例祭 |
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安倍清明
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安倍清明(921〜1005)は実在の陰陽師で中国の陰陽道五行説による天体観測暦の作成や時の測定や筮竹などで吉凶を占っていた。父は安倍保名母は霊力を持つ動物として崇められる白狐。一子清明を授けた後正体を知られた母は「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を詠みこれに因む「信太妻」の物語は有名で毎年春小川若宮神社で奉納の舞が演じられる。 |
八幡宮 |
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天神堂(天満宮) |
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赤沢
自然休養林
伊勢神宮の用材林として保護されてきた。樹齢300年を超える木曽檜の林が延々と広がる。日本の森林浴発祥の地でもある。現在は森林セラピー基地に認定され8つの散策路を巡って森林浴が楽しめる。 |
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セラピー体験館 |
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森林鉄道
記念館 |
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森林鉄道乗場 |
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ふれあいの道 |
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駒鳥コース |
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向山コース |
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中立コース |
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冷沢コース |
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渓流コース |
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三つ紐伐り
20年に一度の遷宮行事・御杣始祭にあわせ選びぬかれた御神木を斧(ヨキ)を使い三つ紐伐りの技法で伐採される。
第62回伊勢神宮式年遷宮のため伝統の技「三つ紐伐り」で伐採される御神木 |
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昭和60年伐採跡地 |
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上松町 |
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東山魁夷の日記から |
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寝覚ノ床 |
大正15年7月5日 |
途中小野の滝を見て寝覚ノ床に着く。このあたりは川幅が狭く両岸の岸壁は奇妙な形に侵食されている。川は深い青緑色の淵になって静かであるがこの底にはどんな渦が巻いているのだろうか不気味である。水面を白い泡がゆるやかにうねってゆく。 |
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駒ケ岳神社 |
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駒ケ岳神社例祭
三剣の舞・四神五返拝など13座の舞台で構成される奉納の舞。およそ400年前から一子相伝で伝う門外不出の神前の舞。 |
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木曽駒ケ岳
標高2956m。山頂からは御嶽山・南アルプス・富士山を望むことができる。登山口は木曽町、上松町。 |
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大宮神社
天照大神・伊弊丹尊 ・底筒男命を祭神に祀る。町内のおよそ三〇〇戸を氏子に持ち若連によって各戸の悪魔払いが行われしき・拾ニ当・お七などの獅子神楽が奉納される。縄文人の遺構が発見されたことでも名を馳せる。昭和五九年(1984)大雪で崩壊した拝殿を再建築の際、拝殿前後で縄文時代早期の押型分土器片と石器が発見された。 |
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大宮神社例祭・芸習い
(上松町) |
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小川若宮神社例祭 |
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4日目の4 |
玉林院
木曽家16代目木曽義元の次男玉林が創建したと伝えられる寺。推定樹齢二百年の黒松。山門は明和3年(1766年)に造営。
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GYOKURININ TEMPLE |
玉林院山門前の地蔵尊 |
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斎藤茂吉歌碑 |
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A
藤村文学碑 |
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B
上松
材木役所跡
寛文三年から四年にかけて尾張班は木曽総山の検見を実施しその大半が伐られ尽山も多いことに驚き山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ上松の原畑の地に直轄の材木役所を作った。この役所は南北65間東西55間で3500坪という広さだった。周囲を高土手や丸太で囲い福島へ向けた大砲まで備えた堅固な陣屋だった。
陣屋内には水天宮・三島大明神:熱田神宮・御嶽大権現・ の五社を祀ってあった。
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上松の御陣屋 |
材木役所は御陣屋と呼ばれ檜の丸太を使った柴土手を築き入口に大砲を備える堅牢な陣地になっていた。 山方一切の業務を取り上げた山村氏への尾張藩の警戒あるいは木曽谷住民全般に対する示唆とされる陣屋と推察された。正面玄関の七尺(二,三メートル)の高土手に「御陣屋の松」と呼ばれた松が植えられていたとされる。 |
諏訪神社 |
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諏訪神社例祭 |
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五社神社
五社様と親しまれる五社神社は天明年間(1781〜1788)時の材木奉行日比野源八が木曽山川の安全とここに働く杣や日雇に怪我や事故がないことを願って建立されたと伝えられる。五社とは御嶽大権現、熱田大神宮、天照大神、三嶋大社、水天宮を指す。上松材木役所に祀られていたが明治4年(1871)材木役所の廃止を期に諏訪神社の境内に移転された。 |
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蕎麦屋と
立場茶屋 |
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C
立場茶屋 |
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D
越前屋 |
十辺舎一九が味った
蕎麦切りの名所
めいぶつのそばきりよりも旅人はむすめに鼻毛のばしやすらむ |
E
寝覚の床
「寝覚の床」という名前は晩年をこの地で過ごした浦島太郎伝説に由来する。木曽川の流れが花崗岩を侵食してつくられた。白い岩肌の奇岩は屏風岩・獅子岩・畳岩などと名付けられている。 |
木曽八景 寝覚の夜雨
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寝覚の床
奇岩の上の
浦島堂 |
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臨川寺
木曽路七福神
弁財天 |
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臨川寺 |
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松尾芭蕉の
句碑 |
ひる顔にひる寝せふもの床の山 |
正岡子規の
句碑 |
白雲や青葉若葉の三十里 |
臨川寺境内の横井也有の
句碑 |
いかだ士に何をか問む青あらし |
F
木曽路美術館 |
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裏寝覚
10分ほど下流にある方丈節理群は「裏寝覚」と呼ばれる。 |
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桂の木
現存する上松町の桂の木の中で一番太く幹の周囲は4,1mもある。
この上で発生した山崩れの際に流れてきた桂の苗木が大きくなったという伝説が残っている。 |
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滑川橋改修記念暦銘文 |
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東山魁夷の日記から |
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小野の滝 |
大正15年
7月5日 |
途中小野の滝を見て寝覚ノ床に着く。 |
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木曽古道(信濃路自然歩道)
中山道が整備される以前から交通路として利用された古代のバイパス。木曽駒ケ岳山麓を南北に延び山間の集落を辿る。 |
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東野阿弥陀堂
木曽谷で最も古い建造物といわれている。 |
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東野阿弥陀堂の天井
山村代官おかかえの絵師池井裕川が描いた花鳥の絵がある。 |
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4日目の5 |
@
小野の滝 |
木曽海道六十九次之内・上ケ松
広重と池田英泉の描く
中山道シリーズの39番目
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小野の滝
中央アルプス木曽駒ケ岳に源を発し国道十九号のすぐ脇に流れ落ちる滝
落差約15m
「志ろたえに み類ひとすじは手都くりの
それとまがふをのの瀧つせ」
上洛途中に木曽を歩いた土方歳三の和歌
池井裕川父子の版画も残っている。 |
ONO−NO−TAKI FALLS
木曽八景 小野の瀑布
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鹿島神社 |
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A
荻原一里塚 |
京へ六十四里
江戸ヨリ七十三里 |
くるみ坂 |
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神明神社 |
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木曽古道 |
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明治天皇
御休憩所 |
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寝覚発電所 |
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隠滝 |
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倉本駅
2:10 |
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5日目 (平成25年11月13日 水曜日) |
木曽谷旬行 中山道ほ (約13km) |
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5日目の1 |
倉本駅
8:00 |
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栃の木坂 |
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@
倉本の古い庚申塔 |
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常夜灯 |
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中山道の
道しるべ |
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中山道 |
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空木岳の案内板 |
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5日目の2 |
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倉本一里塚 |
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A
桃山発電所
日本最初の東・西サイクル発祥の地 |
落差79,55m |
上松発電所 |
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5日目の3 |
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エドヒガンザクラ |
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A
馬宿だった家 |
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のぞきど高原の案内板 |
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B
神明神社 |
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夫婦大杉 |
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糸瀬山登山口の案内板 |
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東山魁夷の日記から |
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定勝寺 |
大正15年
7月4日 |
定勝寺という立派な寺がある。境内のどこかに天幕を晴らしてほしいと頼んだが断られる。ここは由緒ある寺で明治天皇の行在所であったそうだ。 |
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伊 那 川 |
伊奈川第二発電所 |
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相之沢発電所 |
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田光発電所 |
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橋場発電所 |
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5日目の4 |
@
幸田露伴文学碑
須原宿は幸田露伴の風流仏の舞台となった。 |
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水舟と歌碑
須原は昔から清水が湧いていた。
水舟は須原宿の随所にあり大木(主にサワラ)をくり抜いて作っている。 |
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正岡子規の
歌碑
寝ぬ夜半を
いかにあかさん
山里は
月出づるほどの
空だにもなし |
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A
須原宿一里塚 |
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第39次
須原宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 24軒 |
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日前神社 |
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鹿嶋神社 |
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鉄砲町と
いわれる長い町並み |
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B
鍵屋の坂 |
須原宿の桝形 |
須原宿高札場 |
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金毘羅神社 |
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C
定勝寺
臨済宗妙心寺派の寺院。
定勝寺は木曽路の中の最古刹。嘉慶年間(1387年頃)に木曽氏が建立したと伝えられる。鶯張りの本堂・桧皮葺の山門・庫裏は桃山建造物として国の重要文化財に指定されている。
木曽路七福神
布袋尊 |
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定勝寺達磨
大座像の説明 |
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定勝寺
達磨座像 |
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電力資料館 |
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大桑村歴史民俗資料館 |
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E
瑠璃山池口寺
薬師堂
1300年代初期に建立された鎌倉建築様式を備えた木造平屋造り。間口三間奥行四間で内部に薬師如来座像、日光月光菩薩立像が安置されている。 |
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F
白山神社
鎌倉末期に創建され社殿建築としては長野県最古のものとして国指定の重要文化財となっている。一間社流桧皮葺。白山神社を正面に左右に蔵王・伊豆・熊野の四社殿が並んでいる。 |
一間社流造桧皮葺きの長野県最古の鎌倉建築 |
のぞきど森林公園 |
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5日目の5 |
@
岩出観音堂
別名を伊那川観音または橋場観音という。
口伝によると三百余年前須原の一老父が馬の沓を作る商いをしていた。ある日一人の威厳ある馬上の侍が馬の沓を求めたが折悪しく片足分しかなかったのでその旨を伝え不足分を早速作り後から追いかけて現在の橋場の入口付近で渡した。侍は喜んで代金を渡そうとしたが老父は侍の尊容に打たれて代金を辞退したところ傍らにあった木片をとらせ馬上で「馬頭観世音」と書いて渡し「必ずこれを信仰せよ。御利益があるであろう」と言って立ち去ったという。俗にこれをこっぱ観音ともいう。老父はこれを家に持ち帰り神棚に安置したところ光明を放ったので恐れを抱いて橋場の岩出山の岩間に祀ったところ一層赫々と光明を放った。忽近郷近在の評判となり来拝するものが多くなったので、近隣の助力を得てこの木片に観世音菩薩と刻み京都まで出かけて妙心寺の名僧愚堂国師の開眼を受けて持ち帰り一宇を建立して奉安したところ信仰するもの多く一月十七日、二月の初午の縁日には遠くから大勢お参りに来られるようになった。 |
木曽の清水寺といわれる。
英泉「木曽街道・伊那川橋遠景図」に描かれた崖屋造り
江戸中期に建立された懸崖造りの観音堂。多くの絵馬が奉納されている。
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中部北陸自然歩道の案内板 |
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A
伊奈川橋 |
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伊那川渓谷
南駒ケ岳・空木岳・越百山の登山口がある渓谷。断崖の中腹を林道が走っている。 |
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八幡神社 |
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善光寺 |
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B
水害記念碑 |
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C
天長院
天長院は室町時代木曽家祈願所として真言宗に属し木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてあったが天文年間(1540年〜)武田軍あるいは山賊の焼き打ちにより廃絶してしまったといわれている。その後文禄年間(1594年〜)定勝寺七代天心和尚を開山として禅宗地球院天長院として旧地に開かれ街道の変遷により寛文年間(1662年〜)地蔵堂のあった合の宿平沢の現在地へ移転し現在に至る。 |
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天長院のマリア地蔵 |
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平和公園 |
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しめ縄の
掛っている家
このあたりの家は玄関に一年中しめ縄をかけているという。縄の真ん中には縁起のいいというユズリハの枝を差し込んである。 |
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大桑村の
マンホールの
図柄 |
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疣石 |
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出梁のある家 |
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映画寅さんシリーズのロケが行われた家 |
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古中山道
一里塚 |
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関山 |
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E
道の駅大桑
12:00
昼食 |
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伊奈川発電所 |
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須原発電所 |
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木曽発電所 |
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大桑発電所
福沢桃介は大同電力社長に就いてから大桑、須原、桃山、読書の各発電所を次々に建設した。 |
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大桑野尻
発電所
平成23年6月
発電開始
490KW |
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大桑えん堤 |
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倉坂 |
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高札場跡 |
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本陣跡 |
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H
JR野尻駅
2:10 |
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6日目 (平成25年11月20日 水曜日) |
木曽谷旬行 中山道へ(約12km) |
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6日目の1 |
野尻駅
8:30 |
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第40次
野尻宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 19軒 |
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@
野尻宿 |
外敵を防ぐための曲がりくねった町並みが特徴で「七曲がり」と呼ばれている。 |
「はずれ」という屋号の家 |
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与川〜三ど野宿「歴史の道」 |
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@
阿寺渓谷 |
野尻駅から徒歩20分で阿寺渓谷入り口へ着く
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フォレスパ木曽 |
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千畳岩
この岩の下に立って耳を澄ますと谷川の瀬音が反響しあたかも頭上に渓流がほとばしっているような錯覚を受ける。一名「瀬音岩」ともいう。 |
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吊り橋 |
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犬帰りの淵 |
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狸が淵
狐が淵
狐や狸が「化身」の出来映えを鏡の代わりに映して見たと言われ名づけられた。 |
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牛ケ淵(大桑村野尻) |
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雨現の滝
樽ヶ沢の滝
六段の滝
吉報の滝 |
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吉報の滝 |
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ヒノキ美林 |
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島木赤彦歌碑 |
山深くわけ入るままに谷川の
水きはまりて家一ツあり
夕川の水のたぎちの石に立つ
真裸人に月出でにけり
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美顔水 |
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阿寺国有林のハナノキ |
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読書ダム |
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6日目の2 |
下在郷
一里塚 |
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蛇抜沢 |
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馬頭観音 |
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妻神社 |
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鹿島神社
鹿島神社例大祭 |
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法霊山妙覚寺
木曽路七福神
大黒天
臨済宗妙心寺派の古刹。1300年頃に創建。1624年に再建。 |
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妙覚寺の
マリア観音 |
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千体地蔵堂 |
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須佐男神社
須佐男神社例大祭 |
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八人石 |
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廿三夜碑
豊作や幸福を授かろうと廿三夜の月の出を拝んだと伝えられている。 |
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十ニ兼
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立場あと |
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6日目の3 |
木曽熊野神社 |
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いぼとり観音
この観音堂にある木の靴でこすると疣がとれるといわれる。 |
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十ニ兼一里塚 |
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南寝覚 |
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八剣神社 |
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八剣神社
境内の大杉は木曽では珍しい熊野杉で樹齢五七〇年余り。四本の杉が一株になっていて「よすぎ」ともいわれる。町の天然記念物。 |
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@
柿其水路橋
全長142,5m二重アーチ橋とした鉄筋コンクリート造り。国の重要文化財(国指定近代化文化遺産) 読書発電所に送水する水路橋。現存する戦前の水路橋の中では最大級のもの。 |
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きこりの家
江戸末期の文久四年(1864年)に建てられた民家を解体復元。 |
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柿其峡
「南寝覚」ともいわれる「寝覚の床」のミニチュア版。木曽側の広い河原をバックに花崗岩の柱状節理が浸食されて美しい姿を見せている。別名中河原峡とも呼ばれる。 |
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杣の家 |
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牛ケ滝 (南木曽町読書)
花崗岩をくりぬいて柿其川本流が落下する。 |
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ねじだる |
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霧ケ滝 |
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虹ケ滝 |
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カモシカ帰り |
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雷の滝 |
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忠兵衛峡 |
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読書発電所
大正12年最大出力40700kWの水路式発電所。
国の重要文化財(近代化遺産)に指定されている。(平成6年12月27日)
@発電所本館
(鉄筋コンクリート造り、レンガ壁、陸屋根構造)半円形の窓や明かり窓などの近代西洋様式意匠が特徴。
A水槽・水圧鉄管
B柿其水路橋
C桃介橋(南木曽町所有) |
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柿其渓谷
約八kmにわたって滝あり瀬ありの変化に富んだ渓谷 |
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6日目の4 |
信濃路
自然歩道
川西古道 |
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明治天皇御小休所碑 |
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明治天皇中河原御膳水碑 |
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沓掛 |
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御嶽霊神碑 |
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推河脇碑 |
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羅天の桟跡 |
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羅天 |
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蛇抜けの地蔵 |
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根の上峠
与川と野尻の堺の峠。かつてはここにも御小休所が設けられていた。 |
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与川
この奥に月の名所「与川の里」がある。 |
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金知屋一里塚 |
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阿弥陀堂
境内には庚申碑・巡礼参拝碑・名号碑などの石碑がある。 古いものは元禄五年(1692年)のものもある。 |
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松原
御小休所
御小休所は高貴な方が通行する際休憩所として見晴らしの良い場所などに設けられていた。 |
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白山神社 |
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白山神社の大杉
町の天然記念物
大杉は二本あり1本は目通り周囲8,2m他の1本は6,7mある。 |
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白山神社祭礼 |
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古典庵
江戸時代初期に僧坊古典庵のあったところ |
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木曽八景
与川の秋月
与川地区の古典庵から眺める。 |
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与川の秋月観月会 |
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廿三夜塔
二十三夜の遅い月の出を拝み豊作などを祈る民俗信仰の塔 |
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6日目の5 |
第41次
三留野宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 32軒
旅籠が多いのは野尻・三留野宿間に中山道最大の難所「羅天の桟道」があったからである。
明治14年(1881年)の大火でほとんどが焼失した。 |
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@
羅天の難所を避ける与川道.。その昔水害で通行できない中山道の迂回路でもあった。 |
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A
三留野宿
火災で焼けわずかに面影が残っている。 |
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三留野
脇本陣跡 |
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与川道分岐点 |
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B
本陣跡の
枝垂梅
枝垂れ梅は町の天然記念物 |
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明治天皇御膳水 |
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与川発電所 |
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伊勢山(1373m)
大正12年まで伊勢神宮式年遷宮の御用材を伐採・搬出 |
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蛇抜けの碑 |
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6日目の6 |
@
等覚寺の
円空仏
円空仏は南木曽町に6体あり等覚寺には韋駄天像以下3体がある。 |
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A
園原先生の碑
三留野東山神社神官の家に生まれた園原伯富は江戸中期の神学者で尾張・美濃・信濃に門人多数を擁していた。 |
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12:00
昼食 |
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B
桃介橋
電力王福沢桃介が木曽谷の電源開発期に架けた全長247
m幅員2,7mのの木製吊橋現存する最大最古の木製吊橋。読書発電所建築の資材運搬路として造らせた橋。大正11年9月に完成。
国の重要文化財(近代化遺産)
真ん中二本の板色の違う所は森林鉄道が通った軌道の跡を残している。 |
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C
天白公園 |
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悲しめる乙女の像
昭和28年7月の伊勢小屋沢の蛇抜け(山津波)犠牲者を悼んでつくられた。 |
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福沢桃介
記念館
福沢桃介が大正時代に建てた別荘。レンガ造りの建物には桃介と女優川上貞奴の遺品が展示されている。 |
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山の歴史館
妻籠宿の本陣跡地にあった明治時代の御料局妻籠出張所の建物。 |
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6日目の7 |
@
和合枝垂れ梅
町天然記念物。江戸時代木曽谷有数の酒造家遠山氏の庭木。 |
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神戸
立場あと |
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A
義仲巴袖振りの松 |
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B
木曽義仲の兜観音
木曽義仲が北陸路に出撃せんとする時かぶとの八幡座の観音像を祀ったのがはじまりといい伝えられている。 |
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変形5叉路 |
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C
せん沢 |
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D
石畳の道 |
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大平峠 |
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大平峠の木曽見茶屋
信州のサンセットポイント百選 |
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6日目の8 |
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上久保一里塚
江戸から数えて78里目の塚。原形をとどめている。町史跡 |
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A
良寛さまの
歌碑
江戸後期の歌人良寛がこの附近を通ったときに詠まれた和歌の歌碑 |
この暮れのもの悲しきに若草の
妻呼びたてて小牡鹿鳴くも |
蛇石 |
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B
妻籠城趾の
案内板 |
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妻籠城跡
長野県史跡。戦国時代より木曽の南の押さえとして重要であった。妻籠城は主郭・ニの郭・空堀・帯曲輪をそなえた規模の大きな山城で主郭からは妻籠宿・三留野宿が一望できる。小牧・長久手の戦いの折徳川軍に対して難攻不落を誇ったといわれている。 |
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妻籠城跡からの展望 |
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6日目の9 |
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鯉岩
大きな鯉の形をした岩で中山道三名石の一つであったが明治24年の濃尾大地震で形が変わってしまった。
「木曽路名所図会」には鯉が空に向かって泳ぐ姿が描かれている。 |
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第42次妻籠宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 31軒
慶長6年(1601年)徳川家康によって宿駅が定められ江戸から42番目の宿場として整備された。明治以降宿場としての機能を失い衰退の一途をたどったが昭和43年から始まった町並み保存事業により江戸時代の面影がよみがえった。昭和51年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 |
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A
昭和51年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定された、。日本で最初に江戸時代末期の宿場町復元と保存を行った場所である。「出梁造」と「竪繁格子」等の
宿場風景が残っている。
妻籠宿は伝統的建造物223件田畑や樹木岩など環境物件13件が存在し国指定の特定物件としてすべてが歴史を語る文化財となっている。 |
標高430m |
妻籠宿の町並 |
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妻籠宿火まつり |
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熊谷家住宅
19世紀初頭に建てられた長屋の一部。左右の半分づつが一軒の家として使用された。 |
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妻籠口留番所の跡
戦国時代から十七世紀半ばころまで関所がおかれ中山道を行く人々を監視していた。
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高札場
今でいう「官報掲示板」で江戸幕府が庶民に対し禁制や法度等を示したもの。 |
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水車小屋 |
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妻籠宿ふれあい館 |
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C
脇本陣奥谷
木曽五木の禁制が解かれて明治10年(1877年)に総檜造りで建て替えられたのが現在の建物である。平成13年に国の重要文化財に指定された。
島崎藤村の幼なじみ「おゆふさん」の嫁ぎ先 |
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なまこ壁の蔵 |
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奥谷上座の間 |
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奥谷
囲炉裏の間 |
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明治天皇
御小休所 |
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草野心平の
色紙 |
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佐藤春夫の
色紙 |
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前田青邨の
色紙 |
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石井鶴三の
色紙 |
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南木曽町
博物館 |
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南木曽町
歴史資料館 |
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南木曽駅
2:20
奥谷を見学後タクシーで戻る |
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7日目 (平成25年11月27日 水曜日) |
木曽谷旬行 中山道 と(約13km)
(標高差約371m ) |
道の駅賤母 |
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禅東院
先代の住職藤田啾漣は歌人岡本かの子の愛弟子。その縁で岡本一平、亀井勝一郎、岡本太郎、瀬戸内寂聴も訪れ境内には多くの文学碑がある。 |
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五宮神社 |
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花馬祭り
(県指定無形民俗文化財)
稲穂を模した五色の紙で飾られた木曽馬が笛太鼓を従え五宮神社の境内まで練り歩き厄除虫除けの花を取りあう。
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田立和紙の家
紙すき
南木曽町の田立地区は300年前から「和紙の里」として知られている。「田立和紙の家」ではその伝統技術を伝えている。 |
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田立の滝キャンプ場 |
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うるう滝 |
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らせん滝 |
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霧が滝 |
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田立の滝(天河滝)
南木曽町田立
田立の滝は高さ40mの天河滝を主瀑にうるう滝、らせん滝、霧が滝など大滝川の渓谷にかかる無数の瀑布の総称。 |
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天然公園 |
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7日目の1 |
南木曽駅
8:30
タクシーで妻籠宿まで行く |
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B
妻籠宿本陣
島崎藤村の母の生家。
本陣は代々島崎氏が勤めていたが馬籠の島崎氏とは同属で幕末に妻籠からぬいが馬籠の島崎正樹(夜明け前の主人公青山半蔵)のもとに嫁いだ。 七人の子供をもうけ末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)である。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となった。 |
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妻籠宿本陣
明治20年に最後の当主島崎広助(藤村の実兄)が東京へ出建物も取り壊された。本陣跡地はその後御料局や営林署 に使用されていたが町に払い下げられたのを機に平成7年4月に江戸時代後期の間取り図をもとに忠実に復元したのがこの建物である。 |
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卯建 |
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郵便資料館 |
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南木曽町の
マンホールの
図柄 |
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第46回
文化文政
風俗絵巻
之行列 |
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東山魁夷
心の旅路館 |
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妻籠の町並 |
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郵便資料館
妻籠郵便局に併設。島崎藤村の夜明け前にも開設当初の様子が描かれている。 |
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ギンモクセイ
県天然記念物
和智野神社務めた矢崎家の庭木 |
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黒又屋
やじさんきたさんのお話が残る |
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桝形
徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際西国大名の謀反に備え江戸への侵攻を少しでも遅らせるため宿場は一種の城塞の役割も持たされて整備され宿場の出入り口には必ず桝形が設けられた。
街道を二度直角に曲げ外敵が侵入しにくいようにしたのである。妻籠宿の桝形は明治32年からの大平街道改修工事によりその上部斜面を掘り割られているがよく当時の姿を伝えている。 |
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光徳寺
明応9年(1500年)に開山されたといわれている。
木曽路七福神
恵比寿
庫裏には明治初期に遂応和尚が考案した車付駕籠(町有形文化財)が展示されている。 |
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光徳寺の
枝垂桜 |
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延命地蔵
(汗かき地蔵)
文化10年(1813年)光徳寺住職中外和尚が地蔵尊像の浮かび上がっている岩を蘭ギ川から運んできて安置したもの。 |
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石仏
「寒山拾得」像
国内唯一とされる石仏「寒山拾得」像。双体像は他に類例がない。 |
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まねき |
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下嵯峨屋 |
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下嵯峨屋は当初長屋であったものの一部を昭和43年に解体復元した。庶民の住居を代表する片土間に並列する二間取りの形式をよくとどめている。 |
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寺下の町並み
寺下地区は最初に保存事業が行われた。 |
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上嵯峨屋
昭和44年の解体復元によって18世紀中期の木賃宿であることが分かった。 |
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和智野神社祭礼 |
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郵便屋さん
妻籠郵便局と郵便資料館
妻籠郵便局は明治6年3月妻籠郵便御用取扱所として開設された。当時の取扱い所は本陣にあったがその後名称や場所も変わり昭和54年1月に現在地に移った。建物は重要伝統的建造物群保存地区町並みの景観に合うように出梁造の形式を用いて造られている。郵便資料館はこの郵便局の中にあり昭和60年7月に開館した。明治4年新式郵便制度創業時の服装をはじめ時代の移り変わりに伴う郵便関係の貴重な資料が展示されている。 |
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書状集箱
現在のポストは初めは書状集箱や集信函と呼ばれ江戸時代の目安箱(訴状箱)をかたどっている。妻籠宿の中のポストは町並みの景観に合わせ創業時の書状集箱と同じ形に造られた。全国で唯一の黒いポストとして復元された最初の物で現役のポストである。 |
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蘭 川 |
妻籠発電所 |
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蘭川発電所 |
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7日目の2 |
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妻籠発電所
妻籠宿で唯一の鉄筋コンクリートの建物 |
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A
中山道の道標
高さ3メートルあまりの大石柱 |
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石柱道標
の説明
明治25年に賤母新道が開通するまで馬籠〜妻籠〜三留野を通る中山道は古くから幹線道路として重要な役割を果たしていた。ことに妻籠の橋場は追分とも呼ばれ中山道と飯田街道の分岐点として栄えたところである。
明治14年6月に飯田の皆川半四郎が発起人となって当所の松井興六・今井市兵衛・藤原彦作の世話人とともに飯田・江州・地元の商人によって石柱道標が建てられた。 |
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大妻橋 |
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B
中山道 |
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南木曽温泉郷 |
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木曽路館 |
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南木曽岳
標高1676m
木曽山岳の一つ。別名金時山と呼ばれ古くは山岳修験場となっていた。 |
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南木曽岳より御嶽山を望む |
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蘭(あららぎ)美林
樹齢300年以上の木曽五木(檜・さわら・あすなろ・ねずこ・高野槇)の群生する自然探勝園 |
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南木曽山麓蘭キャンプ場 |
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ろくろ工芸
(国指定伝統的工芸品)
ケヤキ・トチ・セン等良質な木材から削りだされる椀や盆。温もりと風合いは遥か千年を超える木地師たちの手技。 |
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蘭キャンプ場 |
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蘭桧笠 |
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工芸街道祭り |
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富貴畑高原花桃祭り |
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7日目の3 |
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県宝
藤原家住宅
17世紀半ばの古い建築。昭和63年に復元修理された。 |
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水車 |
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A
中山道庚申塚 |
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牛頭観音
石の多い急な坂道を思い荷物を運ぶために黒牛が使われた。その黒牛の供養塔。中山道で唯一の牛頭観音。 |
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下り谷一里塚 |
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下り谷 |
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7日目の4 |
@
段々田んぼ |
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A
倉科祖霊社
松本城主小笠原貞慶の重臣
倉科七郎左衛門は主人小笠原貞慶の命を受けて大阪の豊臣秀吉のもとに使いにいきその帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃に会い奮戦したがついに下り谷で従者30余名とともに討ち死にしてしまった。ときに天正14年(1586年)3月4日の事であった。当時は木曽氏と小笠原氏は何度も兵戈を交えておりそうした因縁からこの争いも起きたと思われる。この倉科七郎左衛門の霊が祀られている。 |
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大ガケ砂防堰堤
明治天皇が工事を視察されたという県内で最初の石積みの砂防堰堤。土砂に埋もれていたものが発見されその一部をみることができる。 |
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B
男滝
男滝女滝は木曽に街道が開かれて以来名所として親しまれ憩いの場であった。滝及び滝壺は洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているがなお往時の姿をとどめている。滝周辺は険阻なため道はしばしば付け替えられ幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。
吉川英治の小説「宮本武蔵」の舞台となった滝。滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝えられている。 |
宮本武蔵が剣の修業を
したところとして有名
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C
女滝 |
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D
滝見茶屋
石置き屋根
の家
木の豊かな木曽では99,9パーセントが板屋根であった。板はサワラを使いうえに石を載せていた。
残りの0,1パーセントは楢川村の平家の落人が済んでいた部落でそこは木が無いから茅葺きであった。 |
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7日目の5 |
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男たるの
国有林
中山道の東側一帯は木曽森林管理署南木曽支署管内の南蘭有林である。この中山道沿いの男?(おたる)山一帯は風致保護林に指定され檜・さわら・あすひ・高野槇・ねずこのいわゆる木曽の五木が鬱蒼と生い茂っている。これらの大木は江戸時代は停止木として明治になってから官林さらに明治22年以降は御料林として保護されてきた。またこの一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 |
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中山道
一石栃口 |
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熊よけの
テープ |
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A
かもいぎ
この椹(さわら)の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりになっているがこのような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)という。天狗の腰掛ともいう。昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられた。傷つけたり切ったりするとたちまち祟るといい伝えられ杣人(そまびと)はこの木の下を通ることも嫌がった。この木のように両方に下枝が立ち上がった木を両神居という。 |
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7日目の6 |
@
一石栃
白木改番所
白木改番所は木曽から移出される木材を取り締まるため設けられた。檜の小枝に至るまで許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったといわれている。番所は最初下り谷に設置されていたが木曽諸事情覚書によると寛延2年(1749年)の蛇抜けによってここ一石栃に移転した。 |
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A
一石栃観音堂と枝垂桜
枝垂れ桜は町の天然記念物 |
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一石栃
立場茶屋
立場茶屋は宿と宿の中間にあって旅人に休息と利便を与えた。一石栃立場茶屋は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し往時は7軒ほどの家があって栄えていたが今は牧野家住宅一軒だけになっている。牧野家住宅は江戸時代後期の建物で当初は間口が十間半もあったが現在は南側が切り取られ八間に縮小されている。 |
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B
馬籠峠
海抜801m |
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本当の801mはこの山の上だという。 |
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C
馬籠峠
峠の茶屋
標高790m |
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D
正岡子規の句碑
白雲や
青葉若葉の三十里
峠の茶屋のすぐ脇に正岡子規の句碑がある。 |
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ショウジョウバカマ |
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E
熊野神社 |
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蜂谷蘭渓「馬籠八景」 |
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蜂谷蘭渓が描いた馬籠宿の名勝八景に美濃派の俳匠八名が自作自筆の句を得て表装した一幅の掛け軸。天保7年(1836)作成。俳諧美濃派は蕉門十哲(松尾芭蕉の門下のうち優れた者10名)のひとりである各務支考(1665から1731)によって江戸時代広く普及した流派。 |
昭和3年、「夜明け前」執筆の前資料収集のため馬籠を訪れた藤村ははじめて「馬籠八景」を見た。 |
鹿越夜雨 |
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鹿越えや 雨の夜は又 ほととぎす 巒化 |
園原秋月 |
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ははき木を
たつねてみはやけふの月 完古 |
番垣戸青嵐 |
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吹替て田毎の波や青あらし
東武琴和坊 |
蘇川帰帆 |
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汲みてかえる
中の間の水か炉ひらきに 風二仙 |
背戸田落雁 |
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人気なき浦田や雁の遊ひ所
土游 |
恵那暮雪 |
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峰はかり暮てもくれず恵那の雪
八十曳友左坊 |
宮守夕照 |
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暮おしむ朱の鳥居や夕日影
逸歩仙 |
永昌寺晩鐘 |
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寺の名に鐘の響きも日も永し
良寿仙 |
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嵩佐坊「馬籠八景」俳画 |
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天保7年(1836)作成。 |
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7日目の7 |
峠の集落
宝暦12年(1762)の大火の後火災がないため家屋は江戸中期以後の姿を今にとどめている。江戸地代この峠の集落の人々は民間の荷物を運搬する「牛方」を家業としており俗に「岡船」と呼ばれ美濃の今渡から遠くは長野の善光寺辺りまで荷物を運んだ。安政三年(1856)八月のこの「牛方」と中津川の問屋の間に起きたストライキは藤村の「夜明け前」にも登場する。 |
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牛つなぎ石 |
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@
馬籠峠一里塚跡 |
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A峠の御頭頌徳碑
安政三年峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が中津川の問屋(荷物の取り次ぎをするところ)との間で運賃の配分の争いがあり牛方が勝った。牛行事(頭)の今井を讃えた碑 |
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B
十辺舎一九の
歌碑
渋皮の
むけし女は見えねども
栗のこはめし
ここ乃名物 |
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C
水車塚
明治37年山津波で亡くなった蜂谷家一家の供養の塚。文字は島崎藤村の筆。 |
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水車塚の碑
文字は島崎藤村の筆 |
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馬籠峠 |
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7日目の8 |
恵那山
@
展望台からみる恵那山
2191m |
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島崎正樹の漢文石碑
島崎藤村の父正樹翁が生まれ故郷の木曽谷の神坂をほめたたえたものである。 |
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越県合併
記念碑 |
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藤村の碑
ニイチエの言葉が書かれている。 |
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A
高札場
高札場は宿場の出入り口にあり木曽11宿では22あったのだが現在は馬籠、妻籠、福島、奈良井の4カ所にのみ残っている。福島の高札場は実際の大きさの4分の3の大きさに復元している。 |
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山口ダム |
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賤母発電所
大正8年
福沢桃介が最初に建設した。 |
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山口発電所 |
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落合ダム |
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新落合発電所 |
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落合発電所
福沢桃介は木曽川で7つの発電所を手掛け大正15年に最後の落合発電所が完成した。
水力発電に一生をささげ日本の近代化と発展に貢献した福沢桃介は「電力王」と呼ばれた。
男伊達ならあの木曽川の
流れくる水止めてみよ |
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道の駅「賤母」 |
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クリアリゾート湯舟沢 |
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詩集 |
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小説 |
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家
夜明け前
桜の実の熟する時
新生
嵐 |
童話 |
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紀行文集 |
仏蘭西だより
海へ |
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7日目の9 |
第43次
馬籠宿
本陣 1
脇本陣 1
旅籠 18軒 |
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@
馬籠宿
馬籠宿は板橋を一番目とすると四十三番目の宿場になり江戸からの距離は八十三里六町余りとなっていた。街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴である宿場の中央には高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」荷物運搬の差配をする「問屋」が置かれ旅人の利用する「旅籠」が十八軒このほか「飯屋」や「馬宿」があって行きかう旅人で賑わった。明治二十五年(1892)に木曽川沿いに国道が開設され明治四十五年(1912)には国鉄中央線が開通したことにより宿場としての使命を終えた。明治二十八年(1895)と大正四年(1915)の二度の大火により江戸時代の遺構のほとんどを焼失した。 |
標高600m
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小牧長久手合戦の陣場跡 |
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馬籠脇本陣資料館案内
宿場で大名や身分の高い人の宿泊に備えた家を本陣脇本陣といい藩の保護を受けていた。馬籠宿野脇本陣は明治28年の大火で建物は焼失した。馬籠脇本陣資料館は脇本陣の最高位の部屋である上段の間を当時の場所に復元してある |
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山口誓子の句碑 |
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12:00 |
昼食
藤村の初恋の歌に出てくるおゆうさんの生家の大黒屋で昼食をとる。
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A
藤村記念館
島崎藤村の生家
約6千点の作品を所蔵展示している。 |
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隠居所
明治28年の大火で焼け残った祖父母の隠居所。幼い藤村の勉強部屋でもあった。藤村は少年時代このニ階の部屋で平田派の国学者であった父から四書五経の素読を受けた。 |
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島崎藤村
浪漫派詩人として「若菜集」などを刊行。更に小説家として「破戒」「春」などで代表的な自然主義作家となった。他に日本自然主義文学の到達点とされる「家」父をモデルにした歴史小説「夜明け前」などを書いた。 |
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B
永昌寺
島崎藤村の菩提寺
「夜明け前」には万福寺として登場。 |
馬籠八景 永昌寺晩鐘
寺の名に鐘の響きも日も永し
良寿仙
永昌寺へ入る道 |
永昌寺にある島崎家の墓 |
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木曽義仲妹菊姫の墓
五輪塔 |
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清水屋
資料館
島崎藤村の作品「嵐」に出てくる「森さん」(原一平)の家 |
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C
車坂
馬籠宿の桝形
馬籠宿の街道の南端は直角に二度折り曲げてありこの部分の山手側は切り土になっている。これは城郭建築の「桝形」を模したものでここを「桝形」といった。本来宿場が軍事的な目的を持って造られたことを示している。明治三十八年(1905)の道路改修により当時の原形を焼失したがその後六十年代に復元された。
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桝形にある水車小屋
現在は小水力発電をしている。 |
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阿弥陀堂 |
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道の駅
きりら坂下 |
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乙姫岩
木曽川の流れが浸食してできたこの乙姫岩をはじめ地元ではこの一帯を竜宮と呼んでいる。 |
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まごめ
自然植物園 |
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元山口村の下水 |
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D
馬籠城跡
今から500年ほど前の室町時代から馬籠城があったことが記されている。戦国時代馬籠は武田信玄の領地となるが武田信玄滅亡後織田信長の時代を経て豊臣秀吉傘下の木曽義昌が治めた。天正12年(1584)3月豊臣秀吉徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍が攻め上がることを防ぐため木曽義昌に木曽路防衛を命じた。木曽義昌は兵3百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎藤村の祖である島崎重通が警備した。天正12年9月徳川家康は飯田の菅沼定利高遠の保科正直諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻めその一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。今この辺りを陣場という。馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍に恐れをなし夜陰にまぎれて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで天下を制した家康は木曽を直轄領としていたが元和元年尾州徳川義直の領地となり以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。 |
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E
諏訪神社 |
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正樹の碑 |
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ミツバ
ツツジ
葉が三枚である。 |
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F
子規公園 |
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正岡子規の
句碑
桑の実の
木曽路出づれば
穂麦かな |
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G
芭蕉の句碑
送られつ
送りつ果ては
木曽の秋 |
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新茶屋
この辺りの地名を新茶屋という。江戸の頃宿場と宿場の間にある茶屋を立て場茶屋といった。かつての茶屋はここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが江戸の終わり頃現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。蕨餅がこの茶屋の名物であったという。 |
標高495m
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H
これより北
木曽路
ここは元長野県と岐阜県の堺。木曽路の入り口に当たる。
昭和15年(1940年)7月当時68歳だった藤村が地元の要請によって揮毫した。藤村は60歳頃から自らを「老人」と記すようになったこの日は藤村記念館の落成10周年を記念して昭和32年(1957年)11月に藤村記念館建設の実行母体であるふるさと友の会によって建立された。。 |
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新茶屋の
一里塚 |
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なんじゃもんじゃの杜
本名を「ひとつばたご」といい古世代の依存木である。5月中旬頃の開化で満開時は樹上が真っ白になり雪が積もったような景観を醸すという。昭和51年落合老人クラブが植樹した。 |
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出羽三山神社 |
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落合の
石畳
840mにわたり石畳が続く「国の史跡」
当時のものは70mしか残っていなかったがそれを840mまで伸ばしたのである。当時のものには大きな自然のままの石が使われている。
この石畳は中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩きやすいように石を敷きならべたものである。江戸時代の主な街道には一里塚を造り植え木を多く植え制度化しその保護には絶えず注意を払ったが石畳については何も考えた様子がないという。このため傷んだまま放置されることが多くここの石畳も一時は荒れるままになっていた。地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元した。
今往時の姿をとどめているのはここと東海道の箱根の2箇所だけだという。中山道ができたのは寛永年間であるが石畳ができたのはいつか不明である。文久元年の皇女和宮の通行と明治天皇の行幸の時修理したが石畳に砂をまいて馬が滑らないようにしたことが記録に残っているという。 |
当時の部分は大きい自然の石がある所。
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石畳入口 |
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十曲峠 |
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医王寺
医王寺の枝垂れ桜
俳諧の宗匠嵩左坊が「その日その日風に吹かせる柳かな
と詠んだ県下随一といわれた名木であった。伊勢湾台風で倒れ今は2代目。 |
芭蕉の句碑
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落合宿石畳の
標示 |
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200m先石畳と標示してある柱 |
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中山道の分岐点 |
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中山道 |
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中山道はこのように陶器のかけらのようなものを敷き詰めてある。 |
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落合宿の
高札場跡 |
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江戸方町筋の入り口には道が直角に曲げられた桝形がつくられ |
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往還の真ん中に常夜灯もあった。
落合宿には昔防犯を兼ね各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながらほのかな明かりがともされていた4基の常夜灯があった。
この寛政四年
(1792年)に建立された上町の常夜灯はすぐ前の道の中央にあったが1880年の道路整備の際道の片隅に寄せられ往時の姿を留めている。
あと三基のうち一基は善昌寺の境内に二基はおがらん公園の愛宕社に移された。 |
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文化元年1804年十二年1815年の二度の大火は宿に大きな打撃を与えた。しかし現在もうだつ、格子のある民家や |
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江戸方の十曲峠と石畳京方の与坂付近には江戸時代の面影が随所に残っている。 |
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落合下水 |
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落合宿脇本陣跡 |
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落合宿本陣跡 |
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落合助け合い大釜
文久元年(1861年)皇女和宮の大通行時には4日間で延べ約2万6千人余りが落合宿を通った。当時暖かいおもてなしをするため各家のかまどは引きも切らず炊き続けられたといわれてきた。ここに展示してある大釜は天草を煮る時に使用されたものである。 |
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落合宿
町の中央には用水が流れ町の中ほどに本陣と脇本陣(ともに問屋兼務)があり本陣井口家は尾張徳川家給人の千村氏(久久利方)脇本陣塚田家は同給人の山村氏(木曽方)の庄屋も兼ねていた。 |
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落合宿
落合宿は江戸へ 、82里
12町(約323km)京へ52里9町(約205km)の位置にあり、中山道69次のうち江戸から数えて44番目の宿である。幕末頃の「中山道宿村大概帳」の記録では宿の長さは3町35間(約390メートル)宿内の家数は75軒である
。ここ下町にある曹洞宗の善昌寺は慶長5年(1600年)の創建といわれ武儀郡関村(関市)にある龍泰寺の末寺である。明治24年の道路改修工事で寺の一部が道路となり寺は東側に移設された。境内にあった松はそのまま残され現在「路上の松」と称されている。子の松は寺創建時の山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれている。道路の新設、拡幅、寺の移転等で根が痛めつけられてきたのか凡そ450年の年を経っているといわれているがさほど大きくなく宿場の入り口に格好の風采を添えている。 |
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中津川宿 |
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中津川駅
15:30
落合宿からタクシー |
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