西 暦 | 和 暦 | 月 日 | 事 項 | |
8世紀初め | 御嶽山は信仰登山の対象として修験者・役小角(えんのおづぬ)が開山したとされる。 | |||
702年 | 大宝2年 | 信濃国司高根通基が御嶽山の頂上にある御嶽神社奥社を創建 御嶽神社奥社 |
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774年 | 光仁天皇 宝亀5年 |
6月13日 | 「信濃守石川朝臣望足、大己貴命・少彦名命の二神を御嶽山に祀りて疫病除祓を祈る」とある(西筑摩郡誌) 信濃守石川朝臣望足が登拝し社殿を営み祈願したところ疫病が終息したといわれている。 |
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928年 | 延長6年 | 醍醐天皇信濃国守に勅して黒沢里宮を建立せしむ。同じく醍醐の御代に勅使として白河殿登山して祈誓をこめらるという。(御嶽縁起、郡誌) | ||
1007 | 寛弘4年 | 藤原道長が金峯山登拝 | ||
1090年 | 寛治4年 | 白河上皇の熊野参詣 天台宗園城寺の僧、増誉が先達を勤め その功によって熊野三山検校に任命された。 |
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12世紀 | 木曽義仲が御嶽山に登ったといわれている。 | |||
1161年〜 1162年 |
応保中 | 後白河上皇の勅使御登山御祈願をこめらる。(西筑摩神社資料) | ||
1307年 | 徳治2年 | 諏訪大祝武居宮内大輔重家の子宮内少輔重晴御嶽神社禰宜職となる。(郡誌、武居文書) | ||
1384年 | 至徳2年 | 木曽家信御嶽神社若宮再興。神領を寄進し鰐口を奉納す | ||
1483年 | 文明16年 | 王滝岩戸社再興 | ||
1492年〜 1500年 |
明応中 あるいは 大永中 |
木曽義元小笠原氏と戦いこれを破り帰りて藪原峠に御嶽遙拝の鳥居を建つ。(郡誌) | ||
1503年 | 文亀3年 | 王滝村禰宜彦五郎「王御嶽登山清女行法巻」なる祭文を書写す。 | ||
1507年 | 永正4年 | 王滝村禰宜宿禰「王御嶽座生権現祭祀祝詞」を書写す。 | ||
1552年 | 天文21年 | 御嶽神社里宮(黒沢)野火にかかる。(郡誌) | ||
1554年 | 天文23年 | 木曽義在、義康親子御嶽神社里宮再興鰐を口奉納す。 | ||
同じく若宮へ安気菩薩像をつくらしめて奉納す | ||||
1560年 | 永禄3年 | 木曽義昌従者と共に御嶽へ登山す。 | ||
1565年 | 永禄8年 | 木曽義昌以下三十六歌仙の額を黒沢若宮に奉納す。 | ||
1576年 | 永正4年 | 「王御嶽登山社礼伝祝詞巻」に御嶽三十八社が挙げられている。 | ||
1580年 | 天正8年 | 木曽伊予守義昌岩戸大権現を再興す。 | ||
1591年 | 天正19年 | 王滝村禰宜滝六郎右エ門嶽由来記を記す。 | ||
1592年 | 天正20年 | 王滝村禰宜滝六郎右エ門「御嶽山縁起」を書写す。 | ||
1600年 | 慶長5年 | 木曽代官山村良勝黒沢若宮の流鏑馬神事を再興す。 | ||
1613年 | 慶長18年 | 幕府は修験道法度を発する。 | ||
1615年 | 元和元年 | 木曽代官山村良勝黒沢若宮遙拝所を再興す | ||
1652年 | 承応1年 | 木曽代官山村良勝黒沢本社の修理をおこなう。 | ||
1660年 | 万治3年 | 黒沢若宮の修理を行う。 | ||
1664年 | 寛文4年 | 山村良豊王滝里宮を再興す | ||
1665年 | 寛文5年 | 尾張藩が巣山、留山などの立入禁止区域を設定。 | ||
1669年 | 寛文9年 | 山村良豊黒沢若宮に鳥居を建立す。 | ||
1670年 | 寛文10年 | 黒沢本社前堂の屋根葺替修理をなす。 | ||
1679年 | 延宝7年 | 黒沢若宮舞堂および瑞籬の修理をなす。 | ||
1686年 | 貞享3年 | 黒沢若宮・本社の宝殿の屋根の葺替修理をなす。 | ||
6月25日 | 南木曽町等覚寺の天神祠の棟札によって円空作の天神像が此の日に祀られている。 | |||
8月12日 | 南木曽町等覚寺の弁財天祠の棟札によって円空作の 弁財天と十五童子像がこの年に祀られている。 |
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1694年 | 元禄7年 | 福島宿問屋亀子氏「御嶽縁起」を書写す。 | ||
1695年 | 元禄8年 | 円空は全国を行脚し岐阜県関市の弥勒寺で68歳で没した。 円空作の仏像が木曽路からも発見されている。 南木曽を中心に17体御嶽山麓の三岳黒沢の大泉寺と屋敷野から1体ずつ合わせて木曽谷全体で19体が発見されている。 南木曽町等覚寺の円空仏 |
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1701年 | 元禄14年 | 黒沢本社若宮全社殿の葺替修理をなす。 | ||
1705年 | 宝永2年 | 王滝岩戸権現社殿の修理をなす。 | ||
1718年 | 享保3年 | 3月3日 | 覚明行者が尾張国春日井郡の牛山村皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(清左衛門)と千代の子として生まれる。 幼名を源助といい後に仁右衛門と改める。 家が貧しかったので土器野村の新川橋辺の農家に引き取られて養われたという。 |
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王滝里宮を改造す。 | ||||
1719年 | 享保4年 | 山村家給人古畑助三郎以下四十一人御嶽に登山す。 | ||
1723年 | 享保8年 | 木曽代官山村良及黒沢本社および若宮を修理す。 | ||
1724年 | 享保9年 | 尾州藩木曽谷の検地をおこなう。 | ||
黒沢武居氏の御嶽の支配権確立す。 | ||||
1731年 | 享保16年 | 普寛行者は武州秩父郡大滝村の落合という所で木村信次郎の子として生まれた。 幼名を好八といい幼にして浅見家の養子となり長じて左近と称した。 |
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1733年 | 享保18年 | 山村良及本社若宮の全面的屋根の葺替修理を行う。 | ||
1744年 | 延享1年 | 山村良及若宮の瑞籬を寄進す。 | ||
1747年 | 延享4年 | 山村良及里宮若宮両社殿を修理す。 | ||
1748年 | 延享5年 | 岩郷村塩淵の弥市「御嶽縁起」を書写す | ||
1749年 | 寛保元年 | 覚明行者が五条川近くの弘法堂の住寺となる。(春日井郡誌) | ||
1752年 | 宝暦2年 | 覚明第一回四国霊場の巡拝に出発 | ||
1753年 | 宝暦3年 | 松平君山「吉蘇志略」を著す。御嶽の記事あり | ||
1755年 | 宝暦5年 | 王滝村において「御嶽岩戸権現」の称を用いたるより黒沢村の故障あり山村家命じて「御嶽」の二字を除かしむ 。 | ||
1758年 | 宝暦8年 | 山村良啓黒沢本社若宮の大修理をなす。 | ||
覚明行者が第2回目の巡礼 | ||||
1759年 | 宝暦9年 | 覚明行者が第3回目の巡礼を行う。 | ||
1761年 | 宝暦11年 | 覚明行者が第4回目の巡礼 | ||
1763年 | 宝暦13年 | 覚明行者が第5回目の巡礼 | ||
1764年 | 明和元年 | 覚明行者が第6回目の巡礼 | ||
8月 | 普寛は一時酒井雅楽頭に仕えて二十五人扶持を食んでいたがこの年致仕して郷里武蔵国の三峰山高雲寺(現三峰神社)の観音院日照の門に入り剃髪して本山派の修験者となり普寛と改め修験の道に励むこととなった。 | |||
1766年 | 明和3年 | 覚明行者が第7回目の巡礼 | ||
4月18日 | 覚明行者が第7回目の四国巡礼の途中三十八番札所金剛福寺を巡拝のとき修業中に降臨した白川権現の託宣により御嶽開山を託されたとする伝説が残されている。 | |||
8月 | 普寛、権大僧都に昇格し本明院と号し再び江戸に入り八丁堀の本山派修験法性院の法統を継いだ。 | |||
1767年 | 明和4年 | 覚明行者が尾張から御岳山へ向かい内津津(うつつ)峠を越え 多治見、土岐を経た道中にある恵那山を開山し山上で七日間の断食行をしたと伝えられる。 | ||
1768年 | 明和5年 | 松平君山黒沢武居氏に依嘱されて「御嶽山縁起」を草す。 | ||
1769年 | 明和6年 | 儀覚行者が尾張国愛知郡熱田大瀬子(今の名古屋市熱田区)に生まれた。本名武藤清六と言い生家は「綿清」という綿問屋を営む豪商の家であったという。。 | ||
1771年 | 明和8年 | 4月2日 | 一心行者は信州小県郡上本入村(現長野県上田市)に生まれた。 | |
一心行者は俗名橋詰長五郎といい幼時より江戸に出て下谷車坂町穀物商丸山重兵衛の養子となった。 | ||||
一心行者はのち一家を創立して信濃屋又四郎と称したが妻女の死に遭い仏門に入って下谷金杉の萬徳寺恵性和尚の弟子となった。 | ||||
一心行者はその後さらに聖護院修験道本山派江戸氷川明神別当大乗院役僧福寿院順穂の弟子となり本明院一心と号した。 | ||||
一心行者は深く御嶽大権現を信仰しのち普寛法の法統を継ぎ信者を糾合して毎年御嶽に登山し信仰の普及に努めた。一心行者は新たに[五行座」「中座の位置替」「神薬差し下し」など後に一心講の特色として継承される御座法を編み出した。 更に一心行者は講中に対して「信者の魂は死後に御嶽山に引き取られる」と説くなど後の霊神信仰の原型ともなる信仰によって多くの人々をひきつけ数百人にのぼる講中を組織した。 |
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当時の一心行者の講は武蔵の名主や百姓代、藍商人など街道筋や農村の上層階層に属する人々が中心を担っていたこともあって武蔵の農村部における地縁、商縁を中心に地域横断的に御嶽信仰が広まった。 | ||||
信者たちは一心行者より祈念の仕方や九字の切り方などの伝授を受け「幣帛」を持って祈祷する先達組織を構成しその下で講活動に必要な宿を提供して先達とともに経を唱えて祈祷に励む活動的な信者たちと共に講活動を行っていた。 | ||||
彼ら先達は祈祷料を取らず家業を営みながら俗人のままで修行するという普寛行者以来の御嶽講のあり方を守って活動を行っていたものの一心講の発展とともにその活動は村落の上層部や幕府から警戒されるようになった。 | ||||
文化元年 | 10月 | 「連城亭随筆」に収録された「聚聞雑書(しゅうもんぞうしょ)」という書物に作者、小田切春江が幼少期に見聞きした覚明行者の様子が記されている。小田切春江は尾張藩で絵図の作成に携わっていた。 | ||
覚明は罪人の濡れ衣をきせられたために行者となり諸国を行脚した。 | ||||
1782年 | 天明2年 | 覚明行者は御嶽の支配者である黒沢村の神官武居家を訪れ従来のような厳しいものでなく簡単な軽精進の潔斎による一般信者の御嶽登拝の許可を願い出る。 覚明行者(木曽町西洞公民館) |
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武居家ではこれは数百年間続けられている慣例を破るもので御嶽の神威をけがしまた山内には立入禁止の巣山や留山もあるからとの理由で覚明の願いを却下した。 | ||||
尾張の修験者覚明行者黒沢口より御嶽へ登山す。下山の後黒沢村民とはかり山道を改修す。 | ||||
普寛行者は伝燈阿蘭梨にまで進んだ | ||||
1784年 | 天明4年 | 福寿講を開いた寿覚行者が丹羽郡北島の庄屋木村家に生まれた。本名木村周右衛門。 14歳のときに儀覚行者に師事したとされる。 | ||
1785年 | 天明5年 | 6月8日 | 覚明は無許可のまま多くの無精進の信徒をつれ登拝を強行した。地元の住民八人。 | |
この事を知った武居家では福島の代官所へ報告しその指示を待った。 | ||||
6月14日 | 尾張の信者など三十八人が登山。 | |||
6月28日 | およそ八十人余りが御嶽山大先達覚明という旗を押し立てて登った。 | |||
驚いた王滝、黒沢両村の役人や福島代官所では覚明の運動に弾圧を加え無精進で登った百二三十人の者を役所に呼び出し福島宿へ三日間お預けお咤りにした。 | ||||
登山者に宿を貸したものも福島に七日間お預けにした。 | ||||
覚明行者は二十一日間の拘束を受けたとされる。 | ||||
1786年 | 天明6年 | 覚明は今後寺へ泊るほか宿に泊まることも滞在することもいっさい禁ずるという処分にされた。 | ||
しかし覚明はなお初志をつらぬこうとして多くの信者をつれて登拝を続けるとともに登山道の改修に当たった。 | ||||
最初は役人の目を恐れて非協力的だった黒沢村の村人たちの中にもその熱にうたれて黒沢村藪原のそま長九郎等協力するものがあらわれ黒沢口登山道の改修は急速にはかどった。 | ||||
6月20日 | 覚明は御嶽山上の二の池のほとりで病気のために亡くなる | |||
覚明行者の没後ミイラ化した遺骸は信者たちにより九合目に葬られた。現在の覚明堂の場所である。 | ||||
覚明の遺志をついだ信者たちは登山道改修工事を完成させた。 | ||||
この登山道は湯道と称した古来よりの道でこの大事業を記念して「覚明行者開道遺跡の石灯籠」として石灯籠が建立された。 |
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1788年 | 天明8年 | 8月 | 普寛行者は十数年間にわたる工夫の末修験道の「憑り祈祷」をもとにしてこの年初めて神仏を中座に降ろし直接託宣を聞く御座の技法を編み出すことに成功した。 | |
御座とは一般に神が憑依する「中座」と神をおろして中座に憑依させる「前座」という役割を異にした二人の行者を中核に「四天」と呼ばれる行者が囲み結界を張って行う一連の儀礼のことである。 | ||||
1790年 | 寛政2年 | 普寛行者のもとを眼病平癒の祈祷のために訪れた王滝村出身の与左衛門を通じて覚明行者による黒沢口の中興開山の情報を知りその刺激を受けたことが普寛行者が御嶽開山を行った動機となったことが彼の残した日記によって知れる。(「普寛行者道中日誌」埼玉県御嶽普寛神社蔵) | ||
泰賢行者はこの年27歳で叔父吉豊の計らいで出家し一村尾の本山派修験南方院に身を寄せた。 | ||||
1791年 | 寛政3年 | 正月2日 | 亀翁霊神は結城家十家と称された北総結城の里正の家に生まれた。亀翁霊神は俗名中里允修通称を作右衛門と称した。 | |
6月 | 福島、岩郷、三尾、黒沢、西野、末川、黒川、上田、原野、王滝の十か村の村役人らが連署して七十五日精進の御嶽登山を軽精進に改め登山の簡便化による登山者の増加を図り木曽谷の富源に資するようにと武居家に願い出た。 | |||
8月22日 | 武居家でも旧習を固持することはかえって御嶽の神威をきずつけるとして山村家の庇護のもとに御嶽の支配者としての武居家の地位を再確認することを条件にして寺社奉行へ裁許を申し出た。 | |||
1792年 | 寛政4年 | 1月 | 代官山村氏御嶽の軽精進登山を正式に許可した。 六月十四日〜十八日までの間軽精進での入山を認めること 入山料二百文を徴収することなど六カ条からなる規定であった。 |
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御嶽は一般登山者に開放されることになり信仰の全国普及の端緒をつくった。 | ||||
この後登拝者は年とともに増加し登山口にあたる福島・黒沢の両村は経済的な潤いを受けるようになった。 | ||||
3月21日 | 普寛行者は日誌に御嶽山の神からの依頼によって王滝登山口を開いたのだとしている。(「普寛行者道中日誌」) | |||
4月 | 黒沢若宮および本社の屋根葺替えをなす。 | |||
同じ山麓の村である王滝村はその恩恵を受けなかった。 | ||||
江戸の普寛行者はついに王滝口登山口を開削し江戸を中心に御嶽講社が結成された。 | ||||
5月 | 普寛行者江戸などの信者を引きつれて御嶽開山の旅に出発 | |||
6月6日 | 普寛行者御嶽山麓上島村(現王滝村)の与左衛門宅に到着 普寛行者4人の弟子たちに関東における先達を申し付ける。普寛行者は開山当初から御嶽山を講中登拝の舞台とする構想を持っていたということ。 |
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6月8日 | 普寛行者一行は与左衛門宅を拠点として山に入る。 | |||
6月10日 | 武蔵の修験者普寛行者は神使とされる鳩や雷鳥に導かれながら王滝口より御嶽の山頂を極めることに成功した。 普寛行者は第1回登拝の際山中の各地で御座を立て御岳山中の様々な聖地や合目に祀られるべき神仏を示している。 |
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ちょうどこのとき御嶽登拝の新ルート開拓の念願をもって来村した江戸の修験者普寛を王滝村の村民は陰に日向に援助した。 | ||||
修験者出身の普寛は修験者たちが布教に利用した霞支配の方法を取り入れ江戸を中心に信者たちをまとめて講社づくりを進めたので急速に普及した。 | ||||
1792年〜 1794年 |
寛政4年〜 完成6年 |
中座の和田孫八はもとより三河屋庄八、京屋金七などの江戸の信者たちは御嶽山王滝口開山に同道するとともに御座の一翼を担う四天の役割を申しつけられたり神託によって御嶽講の講元になることが求められている。 | ||
1793年 | 寛政5年 | 春 | 泰賢行者はこの年20歳となり暮坪の当山修験満願寺に入門したと伝えられる。 | |
普寛行者が「諸神諸仏現来秘法」完成 つまり現在御嶽講で見られる御座の原型は修験の「憑り祈祷」をもとに普寛行者が編み出したものと言える。 |
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普寛のグループは大別すると修験の弟子と講中の在俗信者とに分けられる。 修験の弟子としては円城院泰賢、金剛院順明、三笠山寛鈴坊など後に各講の講祖となる修験者が知られている。 その他にも普寛行者の養子の伯明や上州武尊山の別当を勤めた法称寺義謙など。 |
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また主な在俗信者としては普寛行者の最初の中座を勤め後に高砂同行の先達となる和田孫八(明岳院広山)をはじめとして三河屋庄八、京屋金七、山城屋清七、井田善右衛門、内田庄次郎、赤城屋栄助、飯田屋治兵衛、伊勢屋新兵衛、奈良屋吉次郎など江戸の商人の名がみえる。 更に普寛行者がよく祈祷に廻ったとされる武州、上州方面にも有力な弟子や信者が存在していた。 ことに本庄宿を中心とする中山道周辺には米屋弥兵衛、菊屋太兵衛、加治屋源兵衛など「七屋七兵衛」と称される熱心な信者たちが存在しこれらの人びとによって本庄宿の塚本講(後の普寛本講)や大胡普寛元講など地域における主要な講が結成されている。 |
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また信州では御嶽山麓の王滝村に普寛の御嶽開山に協力した木屋吉右衛門(吉神行者)がおり来山する講中を援助しつつ麓講を結成していた。 中山道の下諏訪宿には普寛行者在世当時から吾妻屋終治による講中が存在していた。 |
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6月 | 普寛行者再び王滝側から御嶽登山をする。 | |||
1794年 | 寛政6年 | 6月 | 普寛行者、信者たちを山頂や三の池まで導くようになった。 | |
普寛行者による王滝口開山は御嶽山の祭祀と登拝を取り仕切っていた黒沢口の武居神主家の権利を侵すものであったことから黒沢口からの強い反発を呼んだ。 | ||||
一方岩戸権現の滝神主家では当初は普寛行者一向に若干の警戒心を持っていたものの早くから宿を貸したり王滝口登山道の開削費用を預かったりするなど普寛行者側に協力的だった。 | ||||
王滝口より御嶽に登山する者あるをもって黒沢村より故障あり、代官山村氏王滝口の登山を禁ず。 | ||||
広山行者は俗名和田孫八信州松本在和田村に生まれたが深く普寛行者に帰依し弟子となり第1回の御嶽登拝から行を共にした。この年の越後八海山の開山にも同行した。 | ||||
泰賢行者は普寛行者の越後国の八海山開山に地元修験者として同道しておりこの時から普寛行者に師事したようである。 | ||||
普寛行者上州の武尊山を開山する。 | ||||
1795年 | 寛政7年 | 滝家は「御嶽」の社号許可を京都の吉田家に依頼 | ||
神祇官長上吉田家黒沢王滝両村間の「御嶽権現」称号問題の調停を計りしが成立せず。 | ||||
不二講などへの宗教弾圧(禁止令) | ||||
普寛行者越後の八海山を開山 | ||||
寛政9年 | 江戸講中20人ばかりが王滝里宮にこもった。これが最初の御嶽講社である高砂講である。 | |||
泰賢行者は広山等と共に普寛の王滝口開削にあたって同行しており木曽谷の布教にも務めている。 | ||||
1799年 | 寛政11年 | 7月 | 福島宿役人の調停にて黒沢王滝両村間の登山道問題解決し王滝口登山道公認せらる。 | |
1801年 | 享和元年 | 9月10日 | 普寛が巡錫中に武州本荘宿(現埼玉県本庄市)で病み信者米屋弥兵衛宅にて遷化し亡骸は同所の安養院に葬られた。行年71歳。 なきがらはいずくの里に埋むとも 心御嶽に有明の月 |
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これ以後普寛行者の弟子たちは本庄に設けられた普寛の墓所(現普寛霊場)を拠点に活動を続ける。 普寛行者を祀る本庄の普寛霊場 |
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普寛の王滝口登山道開削に行をともにした広山(明岳院)、順明(金剛院)、泰賢(円城院)などが普寛の遺志を受け継いで講勢の拡張を図ったので次第に信者が増えた。 | ||||
高砂講から分派するものや新たに結成されるものなど講社の数も増えた。 | ||||
その後更に泰賢、広山、順明、のほかに儀覚、一心、一山などの有力な行者が続々と出ることによって御嶽信仰は全国的なものへと普及し今日みられるような強大なものとなった。 | ||||
毎年講中から御嶽登山の代参を立てたりまた講中の信者を集めて御座を立て祈祷なども行うようになった。 | ||||
一心、一山行者は「御嶽を信仰するものは死後その霊魂は童子としてお山に引き取ってもらえる」と説いた。 | ||||
熱田に広山の法を継いだ儀覚がおり文化文政のころ宮丸講を結成した。 | ||||
1802年 | 享和3年 | ● | 圓城院泰賢は八海山の大崎口登山道を開く | |
1804年 | 享和3年 | 木曽代官山村良由家臣五十五名とともに御嶽登山をおこない木曽義昌登山の故事にならって黒沢若宮へ人名を記した額面を奉納す。 | ||
順明行者は普寛講の勤行次第である「朝暮果誦」を再版して普寛講の儀軌を明らかにするとともに北関東各地や木曽谷に御嶽信仰を広め多くの講社を結成させた。 順明行者画像(埼玉県本庄市普寛霊場蔵) |
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1805年 | 文化2年 | 3月21日 | 泰賢行者病没。 | |
泰賢行者が遷化した後普寛講のまとめ役として活動したのが金剛院順明であった。 | ||||
順明行者は武蔵国秩父郡薄村の本山派修験金剛院に誕生し後に普寛行者の弟子となった。順明行者は御嶽三十九度高野山十二度四国霊場七度などの修業と廻国を行った他師の行法を継承し特に「天感感得法」という一人伺いの御座法を伝えたとされる。 又順明行者は明岳院広山とともに木曽側との交渉にも当たるなど対外的な代表者を務めた。 |
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1806年 | 文化3年 | 普寛行者の高弟金剛院順明によって旧岩郷村を中心とする大元講ができる 順明の掛け軸 |
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普寛系の講社が江戸を中心にして結成されたのに対し、覚明系の講社は御嶽山麓の地元木曽谷から再興され木曽谷に結成された御嶽講が普寛の直弟子順明によって開かれた大元講など二、三のものを除き二十を超える講社がみな覚明系である。 | ||||
1809年 | 文化6年 | 義具行者が生まれた。本名児野嘉左衛門 | ||
文化7年 | 順明行者は[御嶽大権現誓詞][御嶽山三ツ引き講中の面々へ誓詞]「 講中勤行之規則」などの規則をつくり講中に示す。 | |||
1811年頃 | 文化8年頃 | 儀覚行者は普寛行者の初期の講の中心的役割を担った一人で普寛行者の中座を務めた明岳院広山行者に師事したと伝えられ以降「不動院」と号す。 儀覚行者は広山行者から法を受けた後名古屋の熱田に宮丸講を設立。 |
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1815年 | 文化12年 | 空明行者は本名を中村茂後に(神平)と言い東筑摩郡広丘村に生まれる。 | ||
1818年 | 文政元年 | 金剛院順明、明岳院、広山等普寛派の行者黒沢村神官、武居氏に談判して「御嶽岩戸権現」の称号を両行者の名において称することを得、神札、守札を発行す | ||
10月 | 覚明行者と同じ村出身の小田切春江という学者が幼児見聞した覚明行者の様子を「連城亭随筆」に収録された「聚聞雑書」に書いている。 | |||
1820年 | 文政3年 | 当時の民間信仰団体として急速に発展した富士山を信仰する不二講や御嶽講は新興宗教として既成の仏教団勢力から嫉視の目で見られ幕府の権力を借りて迫害されたびたび幕府当局の弾圧を受けた。 一心もその難に遭い門弟らとともに寺社奉行松平伯耆守の処分を受け一心行者は遠島門弟たちは所払の刑に処せられている。 |
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文政3年 | ● | 一心行者は名主の訴えにより捕縛され遠島を申しつけられる。 門弟6人も所払の処分を受ける。 |
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1821年 | 文政4年 | 金剛院順明、福島、岩郷、上松の信徒等と岩郷村神戸の御嶽遙拝所の鳥居を再興しまた石灯籠、手洗、石段等を寄進す。 | ||
10月2日 | 一心行者配所に没す。行年51歳。 | |||
1822年 | 文政5年 | 心願講の講祖明寛行者が名古屋の古出来町に生まれる。本名丹羽宇兵衛と言い若い頃行商をしていたと伝えられる。16歳で儀覚行者の指導のもとに御嶽登拝を行った。 | ||
天保年間 | 長岳院法樹によって木曽福島町中組に寿永講が創立されたという。 | |||
天保年間 | 覚明講の方は講社の結成が遅れていたが福島の児野嘉左衛門が其の再興に努め空明などの行者を擁して活発な活動が行われるようになった。 | |||
1834年 | 天保5年 | 一心行者の没後も一心講の組織と信仰は弟子たちによって維持された。 武州上江原村の柴崎仙左衛門は所払の刑を受けた後他領である隣村の下江原村に住みそこに講中の起点として麻利支天社を創建した。 そのうえでこの年吉田家から神職としての裁許状を受け宗教活動の合法化を図った。 柴崎仙左衛門は一心講の勤行形式に吉田神道の要素を加味した御嶽山肝要集を作り上げた。 |
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1836年 | 天保7年 | 夏 | この年疫病が流行し亀翁霊神の中里家でも一家罹病するという災難に遭った。このとき一人の国学者が飄然として訪れ作右衛門に敬神の道を説いた。 | |
作右衛門は悟るところあり沐浴斎戒神祇を敬事したところ1月余りで疫病がことごとく治まったのでその後ますます神祇を敬い国学に志し天心術という教義を立てるに至った。 | ||||
その後門弟を集めてこの天心術を教授したがその門に集まる者数万の多きに達しその講名を三種の神器の三徳すなわち智・仁・勇をかたどる形態である巴紋により巴講と名付けた。 | ||||
明心行者は心願講を組織した古伯行者の実子として生まれた。本名を倉知茂兵衛、幼名を鎌太郎と言った。11歳で古伯行者の下御嶽山に登拝し先達としての修業をした。 | ||||
1837年 | 天保8年 | 伊那余地出身の佐伝霊神が覚明講を開く(楢川村羽淵) | ||
1838年 | 天保9年 | 黒沢村民大泉境内に覚明行者の碑を建つ。 | ||
5月6日 | 武州秩父郡薄村の人金剛院順明行者が没す。 | |||
1839年 | 天保10年 | 木曽上松材木奉行水谷総八郎王滝村大峠頂上に御嶽遙拝の鳥居を建つ。 | ||
児野嘉左衛門の覚明講再興運動に呼応して旧黒川村に御嶽講が結成された。 | ||||
7月18日 | 亀翁霊神はそのころ江戸の尾張藩邸に出張していた御嶽神社の神官武居若狭と相知り勧めによって講員二百八十余名を引きつれて御岳山に登山した。 | |||
7月22日 | 亀翁霊神一行二百八十余名は御嶽山の奥社に登拝した。 | |||
下総結城(現茨木県結城市)においては天心術という独自の呪法を会得した中里允修が二百八十余名にも上る大講中を組織し御嶽山に登拝した。これが関東有数の規模を誇る巴講の始まりである。 巴講は中里が国学者平田篤胤の門人であったとされていることから他の御嶽講より神道信仰色が強い傾向がある。 |
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1841年 | 天保12年 | 3月 | 平田篤胤が秋田藩に帰藩する途中下野の仁ら川陣屋に止宿したとき亀翁霊神は地方の有志たちとともに訪問して平田篤胤のの講議を受けたことが機縁となって平田門下となった。 | |
黒川村福島村上町の講中黒川野田野に覚明霊神の石像を建立す。 | ||||
尾張藩江戸屋敷へ御嶽権現を勧請す。 | ||||
王滝の滝神主家は現王滝頂上奥宮(日権現)を建立 | ||||
1842年 | 天保13年 | 儀覚行者亡くなる。 | ||
1843年 | 天保14年 | 岩郷村社木(現木曽町福島川西)の講中「覚明神霊」の自然石の碑を建つ。これが最も古い。 | ||
1845年 | 弘化2年 | 明岳院広山、円城院泰賢、普寛行者の碑を王滝岩戸権現入口に建つ | ||
岐阜県益田郡日和田村の小日和田峠頂上に日和田の講中「大阿闍梨覚明霊神」の石像を建つ | ||||
御嶽講社は覚明講、普寛講の二派に分かれて発達し登山口も黒沢口・王滝口と相反するに至りその間ややもすれば円満を欠く好ましくない傾向を生ずるにいたった。 | ||||
富士講その他の講社が新興宗教として「異説を言いふらす」と幕府の弾圧をうけた。 | ||||
御嶽講も処分される者が生じた。 | ||||
児野嘉左衛門たちは深くこれを憂え黒沢・王滝両登山口へ護摩堂を建立して両派の妥協を図り両派一丸となって御嶽信仰の布教に努めた | ||||
1846年 | 弘化3年 | 6月 | 巴講、講祖亀翁霊神の碑を黒沢口護摩堂原に建つ。これが覚明普寛両行者以外の一般先達の建碑の始まりである。 | |
1847年 | 弘化4年 | 松本在の百姓七名中五名御嶽頂上にて凍死する。 | ||
5月 | 亀翁霊神は享年55歳で没 | |||
亀翁霊神の長子守常(稜雲と号す)孫守道(通称内蔵助純徳霊神)がその跡を継ぎますます御嶽を信仰し講勢を拡張した。 | ||||
柴崎仙左衛門は一心行者の名誉回復に尽力した。 一心が赦免されその名誉が回復されると柴崎仙左衛門は深谷に師の墓所を設けた。 |
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1848年 | 嘉永元年 | 6月 | 普寛の弟子、広山、順明、泰賢等王滝口花戸に普寛行者の追福塔を建つ。 | |
児野嘉左衛門等黒沢・王滝両登山道へ護摩堂を設け、両護摩堂を上野東叡山の直轄とし尾州藩の祈願所自証院のェ真大僧都御嶽山法務別当に任ぜられこの年よし年々御嶽登山をなすこととなる。 | ||||
1849年 | 嘉永2年 | 御嶽山問題にて、王滝、黒沢間に紛争あり、代官所の裁定にて解決す。 | ||
亀翁霊神の長子稜雲によって若宮の石段が寄進された。 | ||||
1850年 | 嘉永3年 | 7月 | 上野東叡山日光御門主より覚明・普寛両行者に菩薩号を授けらる。 黒沢の赤岩巣橋の霊神場の覚明行者の霊神碑はこのとき建立された。 |
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柴崎仙左衛門は尾張藩とその祈願所である上野寛永寺の自証院ェ真への接近を図り寛永寺一山浄妙院輪住慧澄より普寛行者に対して菩薩戒が許された。 | ||||
日出講が美濃国武儀郡大矢田村(現岐阜県美濃市)庄屋治郎兵衛方において火難・病難除けの祈祷を行ったことにより以後同村を中心に結成された。 | ||||
1851年 | 嘉永4年 | 空明行者日和田・西野の信者らとはかって、長峰峠の御嶽遙拝所を再興、御嶽大権現の碑を建つ。 | ||
柴崎仙左衛門は普寛の弟子である法称寺義謙の支援を得て聖護院より本明院の院号と権大僧都の位を受け本明院盛心と名乗った。 | ||||
12月20日 | 一山行者没す。 | |||
1852年 | 嘉永5年 | 王滝、黒沢口の両護摩堂を合併し、新たに岩郷村児野に護摩堂を建立し尾州藩の祈願所となす。 | ||
代官山村氏同所に護摩方役所を置き御嶽講社の取り締まりをなす。 | ||||
10月 | 空明行者が長峰峠に御嶽遙拝所を再興し御嶽大権現の碑を建立。 | |||
柴崎仙左衛門すなわち本明院盛心の師一心行者に対して菩薩戒が許された。 | ||||
1854年 | 嘉永7年 | 鳥取城主、松平慶徳息女の病気平癒祈願をなし、その御礼として家臣岡部善左エ門を王滝岩戸権現に代参させ石灯籠一基を奉納せしむ。 | ||
1854年〜 1860年 |
安政年間 | 覚司行者は春日井郡清洲町周辺を中心に布教し安政年間に講を結成したといわれる。 | ||
1855年 | 安政2年 | 6月 | 聖護院の因幡堂柳坊等大先達となり王滝口より御嶽登山朝令を奉じて祈るところありと称す。 | |
1856年 | 安政3年 | 寿覚行者亡くなる。 | ||
1857年 | 安政4年 | |||
1859年 | 安政6年 | 黒沢口赤岩巣に黒沢麓太元講社覚明大菩薩の碑を建つ。 | ||
1860年 | 万延元年 | 江戸本所回向院にて御嶽山の出開帳をおこなう。 | ||
松本在の百姓八名中二名頂上にて凍死す。 | ||||
1861年 | 文久元年 | 頂上の祠の石垣を改築 | ||
1863年 | 文久3年 | 楢川村奈良井宿の徳利屋にこの年の「御嶽山御同行御休泊帳」が残っており関東講社の動静をうかがうことができる。 | ||
1868年 | 明治元年 | 3月17日 | 政府は諸国の神社に於いて僧形で別当あるいは社僧等と唱えているものは僧形をやめよという社僧禁止の布令を出した。(神仏分離令) | |
3月28日 | 神仏判然の御沙汰と称する布告を出した。これによると神社に某権現とか牛頭天王とかというような仏語をもって神号としているものはその由緒を申し出し御沙汰を待てということ仏像をもって神体としている神社はこれを改めることまた仏像を社前にかけたりあるいは鰐口や梵鐘などをつるしてあるものはとり除けということが示されている。(神仏分離令) | |||
これまで神仏混交であり菩薩および権現号を唱えていた黒沢里宮(御嶽座生権現)若宮(安気大菩薩)王滝里宮(御嶽岩戸座生権現)も名古屋藩木曽惣管所の指令により神社内の仏像を除き御嶽権現の称を廃して御嶽神社と改めることになった。 | ||||
1869年 | 明治2年 | 児野嘉左衛門が護摩堂を建立。 空明行者は護摩堂が廃止されるまで堂守先達を勤めた。 |
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1873年 | 明治6年 | 御嶽講社が分散していくのを嘆いて大同団結を図り下山応助が御嶽教会を設立した。 | ||
1874年、 1875年 |
明治7,8年 | 霊神碑の建立が盛んになる。 | ||
1876年 | 明治9年 | 理覚行者没(本名瀬尾半右衛門) | ||
義具行者、神道事務局より神道教導職試補を拝命 | ||||
1877年 | 明治10年 | 6月 | 亀翁霊神の孫守道によって若宮社殿の改修が行われている。 | |
1879年 | 明治12年 | 9月 | 順明行者の木像が岩郷村オエドに太元講によって祀られた。 | |
1880年 | 明治13年 | 明寛行者亡くなる。 | ||
1882年 | 明治15年 | 9月 | 下山応助は初めは大成教に所属していたがついに独立して今奈良市に本庁を置く御嶽教を立てた。 | |
戦後宗教活動の自由化とともに御嶽神社を主体とした本来の御嶽信仰に復帰しようとする運動がおこり地元黒沢御嶽神社を中心にした木曽御嶽本教が創立された。 | ||||
1885年 | 明治18年 | 義具行者、内務省より権訓導を拝命 | ||
義具行者亡くなる | ||||
1891年 | イギリスの牧師、登山家で日本アルプスの名付け親ウォルター・ウェストンが御嶽山に登る。著書「日本アルプス・登山と探検」に記されている。 | |||
1897年 | 明治30年 | 空明行者は大成教や神習教など御嶽講が所属していた各派の神道教団顧問を歴任するなどして生涯にわたり御嶽信仰の維持普及に尽力しこの年八十七歳で亡くなる。 | 義具行者 | |
1904年 | 明治37年 | 諏訪泰賢講によって泰賢行者の百回忌供養塔が鳥居峠御嶽遙拝所に建立された。 | ||
1911年 | 明治44年 | 明心行者亡くなる。 | ||
1979年 | 昭和54年 | 10月28日 | 木曽御嶽山が噴火 | |
2011年 | 平成23年 | 7月 | 御嶽山では火山噴火緊急減災対策砂防計画を策定した。 |
参考文献 御嶽の信仰と登山の歴史 生駒勘七 第一法規出版株式会社
木曽のおんたけさん 菅原壽清、時枝努、中山郁 岩田書院 2009年
御嶽山火山防災だより 平成25年3月