思い出

       
 1990年  平成2年  1月15日  囲碁とゴルフ
        語呂あわせのような題になった。今「あなたの趣味は何ですか」と尋ねられれば、「囲碁とゴルフです」と答えるであろう。なぜなら、これに費やされる時間が圧倒的に多いからである。腕前はということになると、囲碁は二段であるから何とか話せられるが、ゴルフの方はコースを110から120の間くらいでラウンドするのであるから、これが趣味ですなどとはとても言えないと思う。
 私は昭和44年1月、26歳のとき結婚した。当時は医学部紛争の中にあって、県立木曽病院に勤務していた。その時の病院長であられた小口源一郎先生に仲人をしていただいた。例のごとく新郎の紹介の折に「林君は室内ゲームではなかなかのセンスを持っているようですが、屋外ゲームとなるとやや難点があるようです。」と話されたことを昨日のように覚えている。事実、麻雀や花札などではあまり負けたことがなかったが、その一方でアウトドアのゲームでは何回か屈辱感を味わった。一例を挙げると、野球では大抵セカンドを守っていることが多かったが、走者が一塁より二塁に盗塁しようとした時、捕手はセカンドを守っている私にはボールを投げてはくれなかった。捕手はボールを外されてはかなわないと判断した結果であったろう。そのような惨めな思いをしながらも、屋外ゲームといえるゴルフをするというのは何であろうか。ゴルフはどちらかといえば個人の競技であり、下手は下手なりにでき、いつかはハンディが少なくなる日があるのではないか、また健康のためにも良いのではないかと考えつつ続けていると思う。
 平成元年11月5日、木曽医師会の奥原佐千男先生がホールインワンをした。そのことで11月28日に祝賀コンペが行われた。当日は、先生の79歳の誕生日にあたることが主な理由だと言われた。先生のゴルフ歴は満60歳以後とのことである。ホールインワンは偶然の産物とも言われるが、やはり、並はずれた健康と運動神経を持ち合わせておられたということによると思う。ところで、私に中学3年生の長男がいるが、現在囲碁三段である。父親である私より少し強くなったことになる。11月19日の信濃毎日新聞主催の囲碁の大会で、男子中学の部に準優勝した。中学に六段の腕前の先生がみえ、よき囲碁の指導者に巡り合えたことにもよろうが、やはり室内ゲームは得意なのであろう。
 ゴルフの上手なプロの兄弟、囲碁の強いプロの兄弟棋士は日本には数多くいる。才能教育を続けておられる鈴木真一先生は、「どの子も育つ」ということを力説され、環境が大事であると一貫して話されている。しかし、見方を変えて「どの子もその子なりに育つ」と言えるのではないか。環境づくりは誰にとっても必要であり、それは皆が平等に受けられるべきものであるが、生まれ備わった天性というものは、どうしても考えざるを得ない。環境と天性とが調和されてこそ進歩もあり、努力も必要となってくると言えよう。
     長野医報
1990年

331号
   
       
 1990年 平成2年  1月30日   
       
   
       
 1992年  平成4年  4月15日  祖霊祭と三岳村の秋
        毎年10月後半に入ると、三岳村では珍しいものが目につく。それは横13センチ、縦38センチの紙のお札が縄にしっかりとくくりつけられて沿道を埋めているからである。御岳教を信じる人たちは、10月23日から25日までの3日間、「祖霊祭」を行う。お札は祖霊祭の一環として国家安穏、家内安全、五穀豊穣、商売繁栄を祈願して縄にくくりつけたものであり、それらは祖霊旗と呼ばれている。
 今年、往診の時、やや車をゆっくり(20㎞/時くらい)で運転していたところ、一定間隔ごとに縄を木に固定し、その縄に吊るされた祖霊旗の様子をみると、多くの祖霊旗がその重さで少したるんで波のようになっていたので、次のように感じられた。
 それは信州大学の生理学教室で研究していた血圧第三級動揺の波形または周期性呼吸のそれに似ていたということである。それはかなりのスピードで運転している時にも、またゆっくりと歩いている時にもそのような印象を受けなかったのはおもしろい。
 私は昭和58年より、三岳村診療所にお世話になるようになり、毎年秋、同じように祖霊旗を見てきた。しかし、そこから血圧第三級動揺と似ているということは受け止めなかったが、今年初めてそのように感じられたことには別の理由もある。毎年、祖霊祭の時期には、もう少し寒く、風が強く、横なぐりの雨が降っていたので、祖霊旗そのものも不規則にたなびいていたということである。こうして祖霊祭の時期には秋というよりは、むしろ冬がかなり近づいてきたのだという印象しか持ってなかったというのが実情である。今年は比較的暖かで、風も穏やかで旗も規則正しく配列されていたから、かつての実験のことを思い出させたのだろう。
 祖霊祭の行われる時期と、三岳村の秋の景色及びその気候を比べてみよう。6,7年前には紅葉の時期は終わりに近づき、ほとんどの木の葉が落ちて、風が吹くと、それらは舞い散らされていた。その後、少しずつではあるが、年毎に暖かくなり、昨年は紅葉も最盛期で木々の葉は黄金色または赤紅色であった。ところが今年の紅葉はまだ始まりといったところで、木々の葉はようやく黄色を帯びてきたばかりである。木の種類によって緑色のままであるものも見受けられた。すなわち、今年の三岳村の秋の様子は、6,7年前よりは2週間遅く、昨年よりは1週間遅くなっていると計算できそうなのである。そして温暖化という現象がこの村にも目に見えて進んでいるように感じられた。
 このように暖かくなってきたという現象を、私たちは素直に喜んで良いのだろうか。近い将来、氷河が融け、今までの平野の一部は海底に沈んでしまうとも言われている。地球温暖化はエネルギーをあまりに消費したため、炭酸ガス等の排気物が加速度的に多く蓄積されてきた結果ともいう。そこで地球環境を破壊から守るためには省エネルギーということに向かい、お互いに努力しなければならないことになる。
 今年8月、イラクによるクエートへの侵攻はそれに相呼応して石油とその関連物資の高騰をもたらした。このことは他のどんな種類の手段やキャンペーンなどより、それらの消費を抑える効果を持つ。つまり有限である地下資源の無駄な需要を抑え、地球の環境破壊にも歯止めをかけることになる。皮肉な見方をすれば、サダム・フセインなる人物は、地球の環境破壊を守り、かつ地球温暖化を防ぐ大恩人などということになるかも知れない。
    長野医報
1992年

358号
   
       
 1992年  平成4年  6月  
   
       
 1993年  平成5年    
       
       
       
 1995年  平成7年  12月  
   平成8年  12月  木曾医報 第19号
       ニホンザルとの出会い
       子供の頃の”ニホンザル”の存在と言えば、動揺や童話のなかで、また十二支の動物のひとつにもなっていて、比較的愛嬌のある人間に近い動物というイメージであった。地方の動物園で実際に檻の中のサルをみると、その金網をゆすったりする様子などからして一番の人気物というところであった。その後は少しずつ積み重ねはあったとしても、私の心に占める範囲は極めて小さいものであった。
 ところで最近”ニホンザル”について急に興味を持つようになった。それは野生のサルを見かける機会が多くなったためである。5年前10月の午後である。国道19号を運転中、楢川村桜沢のカーブのところで約20匹が山の斜面で日向ぼっこをしているところを見かけた。随分と多いサルの数にも驚いたが、それが野生のサルのはじめての出会いであった。
 それから2年程間をおいて御岳カントリーへ行く途中で数匹のサルを見かけた。そのうちにこの道路の途中で「サルに注意」という絵のある立看板があるようになった。今年になってから、ゴルフに行く途中でサルに出会い、ほとんどが子ザルで10匹程度はいた。木から木へと移動するところ、木に腰をおろして何やらものを食べているところを思う存分見た。そこには動物園と違う何かがあった。
 今年9月頃になってからである。診療所に通ってくる患者さんより、サルにりんごを食べられた、カボチャを食べられた、椎茸を荒されたなどという所謂猿害について聞くようになった。かなりのサルが木曽郡では増えているらしい。圧巻は三岳村の大島ダム沿いの道路で里宮の方向へ運転していた11月初旬のことである。2,5m位という至近距離に大きな雄ザルがガードレールのポールに座っていた。約40kgもある大きなサルで、また急いで逃げようともしないのでしばらく車を止めて観察することにした。すると後を振りかえりながらガードレールを器用に伝い歩いていくではないか。次のポールまで行くとまたこちらを見た。そうした行動を繰り返している間に、他にもサルがいるのではないかと思い、山の斜面の方向を見たところ、5~6匹のサルが木々を揺すったりして何か合図をしていた。それらのサルはいずれも顔と尻が赤かった。それがサルの特徴といえば特徴ではあるが、秋の深まったときのサルはよけい赤みを帯びるということである。ガードレールにいたサルはボスザルだったかも知れない。それはサルの一群が通る過程であったかも知れない。10分位の観察でおしまいにしたが、後で聞き及んだところによるとこの一群は45匹ほどいるとのことだった。
 11月9日付の朝日新聞に「「サル」の増えすぎ猿害?絶滅寸前?」という見出しがあった。内容は現状ペースに対して研究者が「東北ニホンザルフォーラム」を開催する主旨の記事であった。日本各地でサルが増え、また木曽郡でもここ4~5年の間にニホンザルが増加していることは確かなようである。サルが少ない間は愛嬌のある動物であるが、多くなるとかえって困ったことばかりするイタズラ動物の烙印が押されそうである。サルの大群に一人で出会ったりすると、襲われでもしないかと考えたりする。
 サルが増加した原因は何であろうか。サルに対して威嚇しないこと、人里には日中は若い働き手が勤めに出て、弱い老いた人たちが家にいるためサルも人間をなめてきていること、最近の気候は温和でサルの生息にもあっていることなどが挙げられるのではなかろうか。
 11月15日、狩猟が解禁となり、銃をサルに向けて威嚇したところ、あれだけいたサルが見かけなくなってしまった。サルが多くなることは先程述べたように困る事態ではあるが、一方、以前通りすぎたときいたそのサルは何処へ行ってしまったのかと懐かしくもある。冬には食物として木の皮をむいたりして過ごすということであるが、あの数多いサルたちが、そんなことのみで過ごせるのか、この厳冬をどう乗りきるのか気懸りである。

 (註)サルの個数の数え方ですが、朝日新聞には何頭と書かれていました。しかし私の記憶では、イヌなどと同じなので何匹という数え方で表示しました。
 1997年  平成9年    
       
       
       
       
1999年 平成11年  5月15日  青春18きっぷを利用して
  青春18きっぷがJRの割引きっぷとして発売されていることを知ったのは平成元年の春である。駅の壁にこのきっぷを買い求めてどこまでも旅をすればよいという主旨のポスターが貼られていた。当時5枚1セットとなっていて、1人1日1回分を切り離して使用するようになっていた。普通列車ならどこへ行ってもその1枚を使えばよく、またどこの駅で下車してもそれは自由というものであった。セットで11000円で1枚あたり2200円という記憶がある。格安であるかわりに、新幹線や在来線の特急・急行・グリーン車には、特急券やグリーン券を買い足しても乗ることが出来ず、これらを利用する際には普通乗車券もあらたに買わなければならなく、また、春・夏・冬の3回にわたって発売され一定の期間内に使用しないと無効になるというものである。
 昭和20年代から昭和30年代、画家であった父は東京へ展覧会のため絵を搬入するといっては現金収入が少なくその上出費が多い生活のなかで、当時の三等車で夜行に乗り、上諏訪から新宿へ行ったことを思い出す。最近多くの人は特急を使うことが常識のようになっているが、私自身父の姿を思い出すと普通列車に乗ることにさして抵抗感がない。また、かつては蒸気機関車であったので上諏訪―新宿間は6時間かかったが、現在は電化されスピードアップにより普通車でも4時間以内で行くことが可能となっている。
 いずれにせよ、当初大学生は生協で5枚をバラ売りにしていたので、子供たちに東京の大学から帰郷するときなど村井駅まで青春18きっぷを使用するようにすすめた。しかし平成8年2月20日の制度改正でそれまで回数券式に1枚づつきりはなして使えたものが、1枚のきっぷに統一されバラで使うことができなくなった。そのためか青春18きっぷを使う学生は急速に減少し、それとともに私どもの子供たちに青春18きっぷを使うようにすすめても、周囲の環境のせいか容易に同意してくれなくなった。今春、長男が通う東京区内の研究室が千葉県の柏市に移転することになった。それに伴ない現在の住所も転居しなければならなくなった。妻が移転先の判断に一緒に行って欲しいというので、それでは久し振りに青春18きっぷを利用しようと考え、現在では11500円で統一された一枚のきっぷを買い求め普通列車に乗り往復した。2人で2日分を使用したので4回分を使用したことになるので1回分残った。東京から帰郷していた次男にその1回分を使ってもらうことをすすめたが思うようにならず特急で帰ることを主張した。そこで1枚残ってしまうのももったいないと思い、名古屋の熱田神宮は有名であるが一度も行ったことがないのでこの神社をたずねた。1回分は2300円に相当するので、乗車料金がそれを超えるところに行かねばならないと考えるのは、何とも不思議な心理状態が働くものである。
 青春18きっぷは若者でなければ使用してはいけないということはなく、どの年齢層でも使用してもよいというものであるが、先程も述べたように使用している人が減少した。それに青春18きっぷを使うということは何かこそばゆい感じがすることは確かである。しかしこの割引切符がなければ多分行かなかったかも知れないところがある。それは軽井沢―横川間の碓氷峠の間を信越線で3回通ったことである。現在は新幹線となり従来の路線は廃止され通ることができない。また平成9年10月1日からは第3セクタとしてしなの鉄道となってからは青春18きっぷを使用にも、篠ノ井までしか利用できないという現実もある。かつて信越線が利用できた頃、このきっぷを使って村井―高崎間を往復したことがある。高崎を経由して高崎―八王子間の八高線に乗ったこともあり、また高崎より上越線を利用しその昔日本で一番長いといわれた清水トンネルを通ったこともある。
 青春18きっぷそのものの存在を知らない、または知ってはいても利用したことのない会員の先生方が多いと思う。正直いって普通列車に長時間乗っているのは疲れる。いつまでJRでこのきっぷを発売するか、また私自身このきっぷを利用するという気持ちが続くかは分からない。ともかく、青春18きっぷを利用しての思いではいくつか残っている。とくに碓氷峠のもとで短いトンネルを何度となくくぐり抜けての急勾配の坂を走るアブド式機関車の姿と風景はいつまでたっても忘れないであろう。
     長野医報
5月号
特集
緑陰随筆
 
       
 2004年  平成16年  5月  
       
 2005年  平成17年  5月