四 国 め ぐ り


48箇所巡り    四国の昔話
11霊山寺
2極楽寺
3金泉寺
4大日寺
 5地蔵寺        
 6安楽寺        
 7十楽寺        
 8熊谷寺        
 9法輪寺        
 10切幡寺        
 11藤井寺        
 12焼山寺        
 13大日寺
大栗山花蔵院大日寺
       
 14常楽寺        
15國分寺        
 16観音寺        
 17井戸寺        
 18恩山寺        
 19立江寺        
 20鶴林寺        
 21太龍寺        
 22平等寺        
 23薬王寺        
 24最御崎寺        
 25津照寺        
 26金剛頂寺        
 27神峯寺        
 28法界山高照院大日寺        
 29摩尼山宝蔵院国分寺        
 30善楽寺        
 31竹林寺        
 32禅師峰寺        
 33雪けい寺        
 34種間寺        
 35清瀧寺        
 36青龍寺        
 37岩本寺        
 38金剛福寺        
 39延光寺        
 40観自在寺        
 41龍光寺        
 42仏木寺        
 43明石寺        
 44大寶寺        
 45岩屋寺        
 46浄瑠璃寺        
 47八坂寺        
 48西林寺        
 49浄土寺        
 50繁多寺        
 51石手寺        
 52太山寺        
 53円明寺        
 54延命寺        
 55南光坊        
 56泰山寺        
 57栄福寺        
 58仙遊寺        
 59金光山最勝院国分寺        
 60横峰寺        
 61香園寺        
 62宝寿寺        
 63吉祥寺        
 64前神寺        
 65三角寺        
 66雲辺寺   徳島県   三好市  池田町白地ノロウチ763
         千手観世音菩薩
 67大興寺   香川県   三豊市  山本町辻4209
         薬師如来
 68神恵院      観音寺市  
    観音寺市   うなぎ渕   昔むかし、大野原や観音寺のあたりが、豊田郡いって呼ばれとったころのことじゃ。
 あるとき、何日も何日も雨が降らんことがあっての、田んぼはひび割れるし、イネも野菜も枯れ果てて、村の衆は毎日空を見上げては、ため息ばっかりつつきょったそうじゃ。ふだん干ばつのときには、近くの山のてっぺんで火たいて雨乞いしては雨をふらしてもろうたもんじゃが、そのときばっかりは、その雨乞いさえも効き目がない、みんなは、ただ空を見上げとるしかなかったんじゃて。
 ちょうどそのころ、奥谷別所に、源左衛門と源三郎いう兄弟がすんどった。二人は村の人らの様子を見るに見かねての、ひとつ竜王さんにお願いしてみよういうて、雲辺寺のふもとの竜王さんの社にこもったそうじゃ。それからいうもん、二人はろくに食うこともせんと、毎日朝から晩まで竜神さまに祈りつづけた。
 ほしたところがのう、それから七日目の晩のことじゃ。祈り疲れてうとうとしよった二人の夢の中に、一人のきれいな女の人が現れた。女の人は二人をじっと見ると、竜王さんの社からほど近い木の下を指さしての、「あそこを掘ってみなさい」と言うやいなや、そのまんますーっと消えてしもうたんじゃと。二人はたまげてとび起きて話し会うたところが、全く同じ夢を見とる。ふしぎなことじゃ。これは竜王さんのお告げにちがいないというての、さっそくいわれた所を掘ってみた。
 するとどうじゃ、たまげたことに一匹のウナギがはいでると、近くの渕にぼちゃんととびこんでしもうての、二人があっけにとられる間もなく、にわかにポツポツと大粒の雨が降り出したそうじゃ。雨はやがてどしゃ降りとなり、三日三晩降りつづいた。
 こうして村はすくわれたといことじゃが、それ以来、渕は、”おなぎさん”と呼ばれての、今でも雨乞いのおまいりに来る人があるというはなしじゃ。
 
69七宝山観音寺        観音寺市  
 70本山寺       三豊市  
 71弥谷寺       三豊市  
 72曼荼羅寺      善通寺市  
     善通寺市  人面石   とんと昔のことじゃがの、鳥坂のあたりは、見わたすかぎりの荒れたひどい土地じゃったそうな。
 あるとき、村人たちが集まって、このへんを開こんしよういうことになった。ほんでもな、そのころいうたら機械も何もないんじゃきに、ひと口に開こんというても大変なもんじゃ。石ひとつ運ぶんも、木一本切り倒すにしても難儀しよったんじゃと。
 ちょうどそのころ、このあたりに、とてつもなくでかい男が住んどったそうな。背丈は見上げんならんほどやし、歩くにもその足音というたら、まあ、ドスンドスンとそこいら中にひびきわたるほどじゃいうきに、大したでかい男やったんぞのう。村の人らは、この大男が開こんを手伝ってくれたらありがたいいうての、さっそく頼みに行ったんやって。ほんだら、この男はもともと親切な男じゃきに、二つ返事で承知したそうじゃ。
 こうしてさっそく仕事が始まったそうなが、またまたこれが大したもんじゃ。ひとかかえもあるような大石でも、ひょいと片手で持ち上げるし、大人が何人もかかってする仕事なんぞも、一人ですぐにやってしまいよる。おかげで荒れ放大の鳥坂の野原も、みるみる開けていってのう、あっという間にきれいな田畑になったんやって。
 村人らは、それこそみんなほくほく顔じゃ。さっそくその地に稲や麦を植えると、どうな、秋には面白いぐらいに作物がいっぱいとれたいうで。みんなはこれもあの大男のおかげじゃというての、それからいうもんは、お礼のしるしに、とれ高の三分の一を男にもっていくようになったんやと。
 一方、開こんが終わってなあんもすることののうなった大男は、毎日岩の間にねころんでは、村人のもってくる年貢で暮らすようになったそうじゃ。
 ところが、ある年のことじゃ、ひどい日照りがつづいてのう、村では作物がとれんで、ほとほと困ったことがあったそうじゃ。みんな草や木の根っこなんぞを食べて飢えをしのぐほどじゃきに、大男のところへ年貢をもっていくどころではないわいのう。弱ったのは大男じゃ。もうずいぶんと長いこと、何もせずにもろうて食うばっかりやったもんで、すっかり力もないようになっとった。ほれでも大男は、毎日あちこち歩き回っては食べ物を探しよったいうが、何せ体が大きいもんでのう。、少々の食いもんでは足らんわい。こうして男は、しまいに動くこともでけんようになってのう。とうとう飢え死にしてしもうたと。
 ほれがふしぎなことにの、死んだ大男の体は、どういうわけか顔だけが石になってしもうたんやって。村人たちはいつしかこの顔を、”人面石”いうて呼ぶようになっての、たいそうおそろしがって誰一人近づく者はおらんかったというはなしじゃ。
 今でもこの石は、大男の死んだと伝えられる山腹に残っとるんやって。
 
 73出釈迦寺        善通寺市  
 74甲山寺       善通寺市  
 75善通寺       善通寺市  薬師如来
     善通寺縁起  善通寺市   弘法大師ー空海は宝亀五年、讃岐国(今の香川県)多度郡屏風浦の名門豪族の家に生まれたそうな。幼い頃の名を真魚というてな,,それはそれは賢く、村人たちから”神の子”と呼ばれるほどじゃった。
 何でも十二歳のとき、両親が真魚に出家を勧めると、それは喜んで、自分で泥をこねて仏像を作り、お堂までを建てて熱心に仏さまを拝む心の持ち主じゃったそうな。
 やがて、大学に入った真魚は、ある日、一人の修行者から、「虚空蔵求聞持法」という神秘的な修行を聞き、すっかりとりこになってしもうてな、修行のために旅に出たんじゃ。
 さて、真魚は各地で食べ物の恵みを受けながら、社寺で宿を借り、全国各地を修行し続けたそうな。雨の中、風の中、杖にすがり山野を歩き、野宿することも度々じゃった。
 そして、延喜二十三年、空海と改名した真魚は、留学僧として遣唐使船に乗り、唐へ渡ったんじゃ。その頃、唐の長安では真言密教が全盛を極めておった。そして、密使の大先生から教えを受けた空海は、たった一年で正統真言宗の第八祖にまでなったそうな。
 大同元年、唐より帰国した空海は、日本で真言宗を広めようと情熱を燃やし、そして、まず最初に一門の氏寺を建てようとしたんじゃ。その氏寺の場所として、亡くなった空海の父、善通の荘園を当てるのが良いと思った空海は、その土地にそれは立派な寺を建てたそうな。その寺が今の善通寺なんじゃ。そんなわけで、空海は六十一歳で亡くなるまで、仏教界の第一人者として真言宗の布教に一生を捧げたといわれておる。
 空海が生まれた地に建てられた子の善通寺には、今も数多くの寺宝とともに空海にゆかりのある像や塔などが残されているそうな。また、この寺の境内には、空海が生まれた頃からあったといわれる大楠の木が残っており、その偉大な遺徳をたたえるかのように、太い幹が大空に向って高々とそびえているということじゃ。
 
    おつえの井戸   善通寺市   さて、その昔、弘法大師が四国を巡礼されていた頃の話じゃ。筆岡ちゅうところのお不動さん付近で、井戸の水が濁ってしまい、村人たちは困りはてておった。ごはんを炊く水もなく、きれいな水を隣村までわざわざもらいに行かねばならぬ始末じゃった。
 ところがある日のこと、一人のお坊さんがこの村を通りかかったそうな。そして、村人たちから、井戸水の話を聞いたお坊さんは、うなずきながら、こういうたんじゃ。
 「それでは、わしが何とかして、きれいな水を出してあげよう」。
 そこで、お坊さんは、お坊さんは、自分の杖で地面をトントンと叩きながら、お経を読み始めたではないか。それを見ていた村人たちは、そんなことで水が湧き出るはずもないと思い、白い目でお坊さんを眺めておったと。そして、誰かれともなく、ひそひそと話をしておった。
 「奇妙なことをするお坊さんじゃ」「ちょっと頭が変になったのではないかのう」
 ところが、しばらくすると、不思議なことに、地面から少しずつ水が湧き出てきたではないか。そして、見る見るうちに、水の量も増え、なんと澄みきった真水が溢れ出てきたんじゃ。これには村人たちもびっくり。驚くやら、喜ぶやらで大騒ぎじゃった。
 そんな騒ぎが終わって、ふと気がついた村人たちが、お坊さんの姿を探したんじゃ。ところが、いつのまにかお坊さんの影も形もなくなっていたそうな。
 「あのお坊さんこそ、きっと、あの有名なお大師さま(弘法大師)に違いない」
 村人たちは誰からともなく、そう言い始め、いつのまにか、この井戸を”お大師さんのおつえの井戸”と呼ぶようになったそうな。
 そして、井戸には、今もこんこんときれいな水が湧いておるんじゃ。
 
 76金倉寺       善通寺市  
 77道隆寺      仲多度郡  多度津町北鴨1丁目3番
 78郷照寺      綾歌郡  宇田津町1435
    蛇巻き石    綾歌郡   むかし、ある日のこと、弘法大師さまが朽木ちゅうところを通りかかったときのことじゃ。道のまん中に大きな奇妙な形をしたものがあるではないか。お大師さんが近寄ると、なんと、それは、大きな石に巻きついた大蛇ではないか。
 「なんと、これはきっと魔物に違いない。こんなやつがいたのでは、さぞかし村人も怖がって大変なことじゃ。何とか退治してやらねば、、、、、、」そう思うたお大師さんは、急いで背中のつつみの中からお経を取り出そうとしたんじゃ。ところが、お経が見当たらん。
 「さては、ここへ来る途中で落としてしもうたにちがいない」そこで、お大師さんは急いで今来た道をひき返したそうな。すると、さがし(大師がお経をさがした所なのでこの名が付いたと伝わる)という所にお経が落ちていたんじゃ。
 さて、急いで大蛇の所へ戻ったお大師さんは、一心にお経を読み始めたそうな。
 79天皇寺      坂出市  
    蚊渕   坂出市   むかしむかしの話じゃ。今の坂出市の高屋ちゅうところに、与平とおときという夫婦がおったと。
 この夫婦、貧しいけれど、本当に人の良い夫婦じゃった。
 さて、ちょうどその頃、この高屋にある遍照院という寺で、弘法大師が修行をされておった。大師は毎日、この寺でお経を読んだり、村々へ托鉢に回ったりの忙しい日を過ごしておられたそうな。
 心やさしい与平夫婦は、大師のために食べ物を用意したり、風呂をわかしてあげたり、何かと大師の身のまわりのおせわをしてあげたんじゃ。
 そんな毎日が続いているうちに、大師は、まる二ヶ月の修業を終えたそうな。そして、ちょうど大師がこの村を出発しようとする前の日のことじゃ。二ヶ月の間、なみなみならぬ世話をしてもらった与平夫婦を寺に招いたそうな。
 「長い間、まことに世話になりました。何かお返しがしたいが欲しい物をいうて下され」
「いえいえ、お返しなどとんでもありません。わしらは、ただ、お大師さまのお役に立てればうれしいと思うたばかりでございます」と夫婦はなかなか答えようとせなんだ。
 「それでは、何か困ったことでもあれば話しをして下され」と大師がたずねると、夫婦は、
 「私どもは毎晩、蚊に悩まされています。かやを買うほどのぜいたくもできません、、、、」
さて、その話を聞いた大師は、与平夫婦の家を訪ねたんじゃ。そして、部屋の中で正座し、何やらお経のようなものを唱えたそうな。するとどうじゃ、家中の蚊が一勢に大師の両手の中に寄せ集められたではないか。そして、大師はその蚊を近くの沼へ捨てたんじゃ。
 それからのち、不思議にも、与平夫婦の家の中には一匹の蚊も現れなんだそうな。
 そして、今も、大師が蚊を捨てたという場所が、蚊渕と呼ばれて残ってい。るそうな
 
 80白牛山千手院国分寺      高松市  
     高松市  くわずのナシ   その昔、讃岐の国には、弘法大師さんいうて、それはえらい坊さんがおったんや。
 大師さんは修行のため、日本国中を旅しとったそうなが、あるときたまたま、屋島の山を登りよった
んやと。細い山道、草をかき分けかき分け登りよったら、たいそうえろうてのどもかわいてくるわいな、
どこぞ近くに清水でも湧いとらんものかと、大師さんは、あたりをきょろきょろ見回してみた。
 するとのう、向こうの方に、ナシの木が一本たっとって、まあ、うまそうな実がたんとなっとるんやと、
ちょうどええ具合に、木のそばにはおばあさんが立っとる。
 大師さんは思わず、ごくりとつばをのみこむとの、もうがまんでけんようになって、ナシの木の方に近
づいていったんやと。
そうしておばあさんに向こうて、「もしもし、のどがかわいてたまらんけに、どうかそのナシをひとつ分け
てはもらえまいかのう」いうて頼んだんやと
 ほしたところが、そのおばあさんはの、大師さんをちらっとみて、いともつめたげな風に「こなにうまげなナシじゃけど、ほんとは固うて食われんげにのう」というんじゃと。
 それで、どんなに大師さんが頼んでみたところで、がんとして食われんナシゃの一点張り。大師さんは、それはそれは残念がってのう、じっとおばあさんの方を見ると、何やらごにょごにょ口の中で文句を唱えながら、どこぞへ行ってしもうたそうや。
 ところがまあ、どうしたことぞのう、大師さんがおらんようになってしまうと、今の今までみずみずしか
ったナシの実が急に固うなってきての、ひとつ残らず食われんようになってしもうたんやと。次の年も
その次の年も、その木になるのは食われんナシばっかり、
 いつしかそのナシの木は、”くわずのナシ”と名がついてのう、今でも屋島に残っとるそうな。
 
81白峯寺       坂出市  
 82根香寺      高松市  
    高松市  糸より姫  昔むかし、高松がまだ ”野原の郷”いうて呼ばれとったころのことじゃ。
 ある日、西浜の浜辺に、一そうの小船が流れついたんやと。浜の漁師が引き上げてみるとのう、
まあ、中にはきれいな姫さまと供の者が、ぐったりたおれておったそうな。漁師はさっそく家につれて帰って看病したけんど、あとでわかったことには、この姫さまは、戦で敗けた平家一門の姫さまで、追手を逃れてここまで流されてきたという。漁師は、そんな姫さまの身の上をそれはそれはあわれんでの、何かと世話をやきながら暮らすようになったそうや。
 それから一年たち、二年過ぎて、姫もすっかり浜の暮らしに慣れてきた。やがて姫はこの浜に骨をうずめる覚悟を決めたのか、浜の女たちにまじって、網糸をつむいだり水仕事をしたりして、働くようになったんやと。白く細かった指はだんだん太く、節くれだってきた。長く美しい黒髪もむぞうさに束ねられての、そのうち姫は、魚を売りに出るようになったそうじゃ。
 たらいの中に魚をいっぱい入れて、それを頭の上にのせ、姫は村から村を売り歩いた。
 ところがのう、一日中歩き回っても魚は一匹も売れんのやと。それもそのはず、魚よりも村人たちの方は、品のある姫の姿に見とれるばかりなんじゃ。困ってしもうた姫はの、次の日から手ぬぐいでほおかむりをして出るようになった。それで辻から辻へと魚を売って回ると、まあ、売れるわ、売れるわ、それから毎日、姫はほおかむりをして魚を売り歩くようになったんと。
 やがてこの姫のうわさは口づてに広がっての、ほかの女たちも姫のまねをしてたらいを頭にのせ
、魚を売って歩くようになったそうや。これが後に残る、”いただきさん”(頭にたらいをのせて魚を売る女の人)のはじまりなんやって。
 こうして年月は流れてのう、姫も年をとってくると、毎日浜で細糸をつむぐようになったんやと。そして弘和二年には、とうとう六十七才で姫もこの世を去ってしもうたということや。姫の亡きあとも、浜の人たちは姫の徳をしのんでのう、姫が糸をつむいでおった浜は”糸より浜”と呼ばれるようになったんと。それに合わせていつの間にか姫も”糸より姫”と呼ばれての、今、高松の西浜には、姫の銅像がたてられて、瀬戸内町には、糸より姫を祭るお社も残っとるんそうや
 
 83一宮寺      高松市  
 84屋島寺      高松市  
 85八栗寺      高松市  
 86志度寺      さぬき市  
 87長尾寺       さぬき市  
 88大窪寺       さぬき市  
    越智郡   あいぞうの火   昔むかしのある日のこと。
 菊間の沖で漁師が一人、つり糸をたれておった。しばらくしてふと顔を上げると、北の方から一そうの小船が近づいてくる。妙なことに人の気配もなく、ただ波間に漂うばかりじゃった。
 「ひょっとすると、これが噂に聞く幽霊船か、、、、」思わずふるえてきたが、それよりも怖いもの見たさに、漁師はすい寄せられるように船に近づいていったそうな。
 中をのぞいて漁師は思わず声をあげた。どうしたことか、立派な身なりの女が、赤子を抱いて倒れている。驚いた漁師はさっそく女を介抱した。と、やっとのことで息をふき返した女は、ほっと安心したんじゃろ、「どうかお助けを、お礼はいかほどでもさし上げます」と、両手を合わせて頼むのじゃった。何でも女は京の由緒ある家の奥方じゃった。
ところがわけあって夫の怒りをかい、こうして流されてきたという。それよりも何よりも驚いたことには、船の中には輝くばかりの金銀財宝が、木箱に入れられて積まれてあるんじゃ。それらを見ているうちに、欲に目がくらんだんじゃのう、漁師は女を助けるようなふりをして宝だけを自分の船に移すと、さっさと一人で帰ってしもうたそうじゃ。かわいそうに、二人をのせた船は、またどこへともなく潮に流されていったと。それから数日の後、船は北条の沖の安居島に流れついた。そのころには女も赤子も、それはそれはやせこけてしもうてのう、今にも死んでしまいそうな有様じゃったそうな。親切な浜の人たちは、大急ぎで船をひき上げ、二人を民家へ運ぶと手厚く介抱してやったと。
ほんでものう、何日もの漂流ですっかり体力も衰えておったとみえる。せっかくの看病もむなしく、女も子供も、次々とはかなく息を引きとってしもうたとよ。浜の人たちは、この若い母と子を大そう哀れに思うてな、島の氏神さまのそばに、ねんごろに葬ってやったという。
 ところが母子が死んでからというもの、夕暮れどきになると決まって、安居島の方から赤い火が、菊間の海岸めがけてとんでくるようになった。噂を聞いた人々は、あのあわれな母と子の魂が、この世に思いを残しているに違いないと、口々にそう言い合うたということじゃ。やがていつとはなしに、その火は”あいぞう(愛憎)の火”と呼ばれ、たいそう恐れられるようになったそうな。
 ところで、宝を奪ったあの漁師はどうなったか、、、、あれからいっぺんで長者となり、数年の間は、人もうらやむほどのぜいたくな暮らしに明け暮れておった。ところが、やっぱり悪いことはできんもんよのう。そのうち家族が病気になるわ、火事になるわと、次々と災難がふりかかってな、ついには漁師も気が狂って、のたれ死にしてしもうたという。
 今、菊間の遍照院の裏山には,あわれな母子をまつる姫坂神社が残っている。
 
蛇巻き石 綾歌郡