会津藩の歴史
西 暦 | 和 暦 | 月 日 | 木曽関係 | 事 項 |
811年 | 弘仁2年 | 会津は古代から生糸の生産が盛んであった。 蚕養神社が鎮座したといわれる。 |
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1570年 | 元亀元年 | 姉川の合戦 | ||
1611年 | 慶長16年 | 会津藩の初代藩主保科正之が生まれた。二代将軍徳川秀忠の庶子だった。秀忠の正室(御台所)は織田信長の姪にあたる「江」であった。秀忠と秀忠の乳母大姥局の侍女お静の方との間に生まれた男の子が幸松丸後の正之であった。 | ||
幸松丸 は大姥局のはからいで武田信玄の重臣だった穴山梅せつの未亡人見性院のもとで養育された。 | ||||
1615年 | 木曽は尾張藩となる | |||
1617年 | 元和3年 | 幸松丸 は信濃高遠城主保科正光の養子となり後に正之と名乗る。 | ||
1631年 | 寛永8年 | 保科正之は保科正光の跡を継いで高遠城主の座に就いた。 | ||
1635年 | 寛永12年 | 木曽街道を通る大名増加 | 幕府の参勤交代制が確立される | |
1636年 | 寛永13年 | 保科正之は出羽山形二十万石に封じられた。 | ||
1640年 | 寛永17年 | 木曽義利死亡 | ||
1643年 | 寛永20年 | 保科正之は会津二十三万石に転封となった。 | ||
1644年 | 寛永21年 | 松尾芭蕉誕生 | ||
1657年 | 明暦3年 | 江戸で大火があり薩摩藩邸が類焼。 | ||
1668年 | 寛文8年 | 4月11日 | 保科正之は家老宛という形で十五カ条からなる家訓を提示した。以後会津藩の藩是となる。 | |
1672年 | 寛文12年 | 芭蕉江戸へ行く | ||
1688年 | 貞享5年 | 芭蕉木曽を通る 更科日記 | ||
1688年〜 1703年 |
元禄年間 | 鹿児島城下にも4回大火があり鶴丸城も焼けた。 | ||
1703年 | 元禄10年 | 江戸で大火があり薩摩藩邸が類焼。 | ||
1708年 | 宝永5年 | 尾張家第3回木曽山巡見 | ||
1709年 | 宝永6年 | 木曽5木停止木となる | ||
1803年 | 享和3年 | 第5代藩主の松平容のぶが日新館を造る | ||
1808年 | 文化5年 | ロシアの侵攻に備えるため会津藩は兵士六百人を率いて蝦夷地から樺太に出兵した。三か月にわたってロシア兵と対峙した。 | ||
1809年 | フランスの ロッシュが生まれた。 | |||
1811年 | 文化8年 | 佐久間象山が信濃松代藩士佐久間一学の長男として生まれた。同時代の人々の象山に対する人間評価は上々というわけにはいかない。 [いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、・・・・・漢学者がくると洋学をもっておしつけ、洋学者がくると漢学をもっておどしつけ」(氷川清話)妻の兄である勝海舟にしてこれである。 彼はこの時代を代表する天才であった。 初め佐藤一斎に朱子学を学ぶ。洋学は江川門下である。 自ら大砲やガラス瓶を作りハルマ氏辞典の翻訳をも手がけたという。 吉田松陰に密航をそそのかしたとする罪により国許に蟄居 |
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1818年 | 文政元年 | 4月 | 会津藩に小野権之丞が生まれた。 甲容認小野権之丞は箱館戦争のとき榎本軍の医師高松凌雲を助けて箱館病院を開き患者を敵味方問わずに治療し日本最初の博愛人道主義の医療に尽力した人物として知られる。 |
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1821年 | アマースト大学創立 新島襄が入学したときは四十六年目であった。 |
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1823年 | 文政6年 | 勝海舟の家は曽祖父が越後から江戸へ出て様々なことをやって富を築き祖父の代で御家人株を買って旗本となった。昔からの由緒正しい旗本ではないためどんなに勉強してもトップには登用されない家柄であった。 勝海舟の父小吉は「剣道だけでは駄目だ。これからは蘭学を勉強しなければいけない」と考え息子海舟を蘭学塾に入れる。 そのうち「蘭学だけでも駄目だ。やはり英語だ」と聞いてくると海舟を英語塾に入れた。 |
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オランダ語ができた勝海舟は長崎海軍伝習所に第一期生として入学する。 | ||||
海舟は軍鑑操練をするが海軍トップにはなれずいつも二番手・三番手であった。 日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節団が派遣されることになった。 使節団は米軍艦で渡米したが護衛という名目で咸臨丸も同行した。 勝海舟は「自分こそ艦長」と期待していたが木村摂津守という勝より十三歳年下だが家柄は格上の人が総督に任命された。 「勝は不平たらたらでキャビンに閉じこもって寝転がっていた」と記録されているという。 |
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咸臨丸には木村摂津守の従者として渡米した福沢諭吉も一緒に乗っていた。そのため福沢諭吉は常に木村摂津守に味方して勝には批判的であった。木村摂津守はよく分かっていた人で米海軍士官を七,八人採用して連れて行き実際には彼らが操船して約一カ月かけて咸臨丸はサンフランシスコに到着した。 福沢諭吉は「勝海舟は口だけだ。船が出て嵐になったら日本人は皆船酔いを起こして寝ているだけだ。何の役にも立たない。勝海舟が艦長だったら船が沈んでしまう」と書いているという。 |
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勝海舟は「全部俺が動かした」と吹聴し米海軍士官が乗っていたことを「氷川清話」その他で一言も触れていないという。 そのため福沢諭吉は「また嘘を言っている」と憤り勝とは終生不仲だったという。 |
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1825年 | 文政8年 | 5月 | 大村益次郎は周防国吉敷郡鋳銭司村の医者の家に生まれた。 | |
岩倉具視は権中納言堀川康親の次男として生まれた。岩倉具慶の養嗣子。 岩倉具視は孝明天皇の侍従となり公武合体・和宮降嫁に賛同し三条実美ら尊攘派に追われ洛北岩倉村に隠棲。 のち諸藩志士と交わり政治思想を転換。薩摩藩と結んで王政復古を画策した。 維新後の新政府では議定・大納言から外務卿・右大臣となり条約改正の特命全権大使として欧米に渡った。 |
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1827年 | 文政10年 | 西郷隆盛が鹿児島県城下の下加治屋町山之口馬場に父吉兵衛隆盛、母マサの長男として生まれた。幼名小吉。 十六,十七歳のころから吉之助といい 父の死後は吉兵衛を名乗ったが のちに吉之助を名乗った。 雅号は南洲、諱は隆永、隆盛、変名は菊池源吾、大島三右衛門。 |
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西郷隆盛は薩摩藩の役人として江戸にいる時に勝海舟に会った。 海舟は「これからは幕府の時代ではない。諸君たちが新しい日本を造るんだ」と演説し幕府の批判をした。 西郷隆盛は「幕臣なのにこんな発言をする人がいる」と驚いた。 |
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6月 | 小栗忠順が生まれた。 | |||
長岡藩家老河井継之助が越後長岡に生まれた。江戸で斎藤拙堂に学び備中松山の山田方谷にも入門した。 | ||||
1828年 | 文政11年 | 1月 | 山本覚馬は会津藩の砲術師範山本権八、妻さくの長男として生まれた。砲術を学ぶと共に幼年期から蘭学を学んで後に藩校の日新館の教師も務めた。 | |
1830年 | 文政13年 | 吉田松陰は萩の護国山南麓の地に長州藩士杉百合之助の次男に生まれた。幼名虎之助、後に大次郎、松次郎、寅次郎などと改めた。 名は矩方字は子義、義卿、号が松陰である。 |
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会津藩家老西郷頼母(さいごうたのも)が生まれた。 藩主松平容保の京都守護職就任に反対。 戊辰戦争には恭順を唱えたが容れられなかった。 会津落城後仙台より榎本軍に投じ箱館戦争に加わった。 のち日光東照宮宮司となった旧主容保のもとに禰宜として仕えた。 |
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1831年 | 天保2年 | 第百二十一代孝明天皇が生まれた。在位二十一年。 父は仁孝天皇母は正親町雅子。女御は九条夙子典侍は坊城伸子、中山慶子。 孝明天皇は十六歳で践祚するとさっそく幕府に海防を厳重にするよう命じ幕府も外交上の重要問題については勅許を求めるようになった。 しかし孝明天皇は一貫して攘夷を主張し安政の和親条約にも皇女和宮の降嫁にも反対したが幕府に押し切られた。 けれどもこれを機に勤皇の志士たちの倒幕運動が一段と活発化しこの天皇を精神的支柱と仰いだ。 「宸記」のほか優れた多くの和歌を残している。 国民のやすけきことをけふここに むかひて祈る神の御前に(此花集) |
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1834年 | 天保5年 | 岩崎弥太郎は郷士岩崎弥次郎の長男として生まれた。 江戸で安積良斎(あさかごんさい)に学び帰国後吉田東洋に入門。長崎の土佐藩商会開成館の主任となる。 |
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新撰組局長近藤勇が武州多摩郡上石原村農業宮川久次郎の三男としてで生まれた。近藤周助の養子となる。 本来ならば剣術好きの農家の少年が町道場天然理心流試衛館を継ぎその主として一生を終るはずであった。 |
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1835年 | 天保6年 | 松平容保は尾張徳川家二代藩主光友の次男善行が分家した美濃高須藩三万石の十代松平義建の六男として江戸四ツ谷の上屋敷で生まれた。 容保は幼名を_之允後年祐堂、芳山と号した。 会津藩主松平忠恭の養嗣子。 |
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坂本龍馬が生まれる。 坂本龍馬の実家は下士階級であったが非常に裕福であった。 上士と下士の間には厳格な身分差別があり下士は侍扱いされず登城も禁止であった。だから龍馬は土佐城に入った事はなかった。 |
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裕福だった坂本龍馬は江戸に何度か私費留学をし江戸滞在中黒船を見て「刀を振り回して攘夷を叫んでも黒船は斬れない」と悟る。 竜馬は京都に向かい勝海舟の弟子になり最後まで徳川を切り捨てないという立場を取った。 |
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勝海舟は「実力本位で人材が登用されない幕府は駄目だ」と思っていたので坂本龍馬のような幕臣でない人が好きだった。 | ||||
1836年 | 天保7年 | 榎本武揚が幕臣榎本武規の次男に生まれた。 | ||
1837年 | 天保8年 | 第十五代将軍徳川慶喜が水戸藩主徳川斉昭七男として生まれた。 母は有栖川宮吉子。正妻今出川美賀子。 内大臣将軍在職慶応二年〜慶応三年。 |
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1838年 | デービスがニューヨーク州で生まれた。 | |||
1839年 | 天保10年 | 長州藩の鬼才高杉晋作が生まれた。父は萩城下菊屋横丁に住む長州藩士高杉春樹通称小忠太であった。晋作は通称で本名は春風であった。ほかに暢夫、東一、和助などの名前があり谷梅之助の変名があった。晩年には谷潜蔵を名乗った。この年西郷隆盛十三歳、吉田松陰十歳であった。 | ||
長州では高杉晋作の奇兵隊のように階級社会を打破する藩政改革がおこなわれ下士が藩政の実権を掌握している。 | ||||
1843年 | 天保14年 | 1月14日 | 新島襄が上州安中藩板倉家(譜代大名)で祐筆を務める藩士父新島民治母とみの息子(第五子、上四人は女子)として江戸の安中藩内で生まれた。 もともとは七五三太(しめた)と名づけられた。 祐筆は今でいうと書記官にあたる。 |
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新島民治は咬んだ小川朝にあった板倉家上屋敷内に妻子ともども居住しており現在は学士会館などの建物が立ち並ぶビル街だがその敷地内に徳富蘇峰の撰による生誕の碑が立っている。 | ||||
板倉家は譜代大名といっても三万石の小藩だった。 | ||||
本家の備中松山藩板倉家は幕末に最後の将軍徳川慶喜を補佐した老中首座板倉勝静を出している。 板倉勝静は奇しくも慶喜が大坂城を脱出して海路江戸に向かった時覚馬や八重の主君松平容保とともに同行を命じられる。 そして板倉勝静は奥羽越列藩同盟の参謀として戊辰戦争を戦った。 |
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1844年 | 弘化元年 | 十八歳の西郷隆盛は郡方書役助の役職に就いた。 | ||
調所広郷は大阪の豪商を味方につけて資金を調達し国産品の販売と唐物貿易で借金を返しこの年には五十万両の備蓄に成功した。 | ||||
1845年 | 弘化2年 | 山川大蔵が生まれる | ||
11月3日 | 八重が父会津藩砲術指南役山本権八、母佐久の三女として鶴ヶ城下米代四ノ丁(現会津若松市米代二丁目)に生まれた。屋敷跡には生誕の地の石碑が立てられているという。 | |||
1846年 | 弘化3年 | 松平容保は八代目藩主容敬の婿養子となる。 容敬(かたたか)も高須藩の出身であり松平容保の実父義建の兄にあたる人物だった。 |
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1847年 | 弘化4年 | 善光寺地震 | ||
1849年 | 嘉永2年 | 凶作 西郷隆盛の上司迫田太次右衛門は「たとえ凶作でも年貢を加減してはならぬ」という藩のやり方に抗議して奉行を辞職した。 |
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1851年 | 嘉永4年 | 島津斉彬が藩主となった。四十三歳。 西郷隆盛は二十五歳、大久保利通二十三歳であった。 |
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松陰は五歳のとき長州藩大組士吉田大助の養子となり吉田家は代々山鹿流兵学の師範であったため松陰は兵学の師範を継ぐが二十二歳のこの年脱藩した。 | ||||
1852年 | 嘉永5年 | 松陰は東北各地を歩く | ||
2月 | 容敬(かたたか)の甥にもあたる松平容保が十八歳で会津藩の第九代藩主に就任した。 会津藩主松平容保 |
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1853年 | 嘉永6年 | 島津斉彬は磯の邸内に反射炉を造る。 | ||
6月 | アメリカのペリーの艦隊が浦賀に来る。 | |||
嘉永7年 | 島津斉彬は溶解炉を完成させた。 大砲鋳造所、砲腔をうがつための鑽開台、製薬所、ガラス製造所、鍋釜製造所、鍛冶場、海岸近くの造船所、紡績所と次々に工場を建設しそこを集成館と称した。 |
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山川健次郎が生まれる。 | ||||
1854年 | 安政元年 | 正月 | 西郷隆盛が島津斉彬のお側に仕えた。 この年斉彬は参勤交代のため江戸に向かいそこに中小姓に抜擢された西郷隆盛がいた。 |
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正月14日 | 再びペリーの艦隊が日本に姿を現す。 | |||
1月16日 | 浦賀奉行は浦賀沖に停泊するよう申し入れたがこれを無視して神奈川沖に七隻の軍艦を集結させた。 | |||
1月25日 | アメリカ建国の父ワシントンの誕生日のこの日羽田沖で号砲を放った。 | |||
3月 | 松陰は桜田藩邸に家老の秋良敦之助を訪ね密航計画を打ちあけ旅費の借用を申し入れた。 松陰の密航計画は長州藩邸で噂になりことの重大さに気づいた秋良は借金の申し出を断った。 |
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幕府は日米和親条約を締結した。 | ||||
3月6日 | 斉彬は江戸の高輪の藩邸に入った。 | |||
3月27日 | 松陰は艦隊の乗組員に「投夷書」を手渡し午前二時頃見つけておいた小舟に乗って艦隊に向かおうとした。 ミシシッピイ号にたどりつくと旗艦ポウハタンに行くよう言われなんとか接舷した。 水兵から接舷を拒否されたが松陰は甲板によじ登った。 しかし断られすべてを観念した松陰は下田番所へ自首して出た。松陰が下田の獄で詠んだ歌 世の人はよしあし事もいはばいへ 賎か誠は神ぞ知るらん 松陰が下田から江戸に護送される途中高輪の泉岳寺の前を通ったとき詠んだ歌 かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 |
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4月 | 西郷隆盛が「庭方役」を拝命した。斉彬の秘書役である。 | |||
松陰はアメリカ軍艦に密航を求めて萩の野山獄に投じられる。 | ||||
山川健次郎が会津若松に生まれた。 | ||||
1856年 | 安政3年 | 徳川慶福の紀州派に推されて井伊直弼が大老に就任した。ただちに慶福(家茂)を将軍継嗣とし勅許を待たず独断で日米修好通商条約に調印した。 井伊直弼は国学者長野主膳義言らを用いこれに反対する公卿・大名・志士らを弾圧した。(安政の大獄) |
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新島襄は藩主板倉勝明の命を受けて蘭学を学び始める。 | ||||
榎本武揚は長崎海軍伝習所に入る。 次いでオランダに留学。航海術を初め国際法・化学・電信・兵制・および英・蘭・露等の語学まで当代一といわれる知識・技術はこの頃身につけた。 |
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8月前頃 | 松陰は生家の近所に松陰の叔父玉木文之進が開いた塾がありそこを使って講義した。初期の聴講者は十二,三人だった。これが松下村塾となる。 | |||
1857年 | 安政4年 | 日新館内に蘭学所が設置される。 | ||
山本覚馬の帰国後蘭学所では蘭学のみならず江戸で学んだ西洋式の砲術や兵学、医学が藩士の子弟たちに教授された。 兵学は山本覚馬が担当したが蘭学は南摩綱紀、医学は古川春英が担当した。 南摩綱紀は昌平黌で学んだ俊才で明治に入ると東京大学教授にのぼる。 適塾に学んだ古川春英は戊辰戦争時には負傷した藩士の治療に忙殺される。 |
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幕府が洋書の翻訳と教授の機関として九段坂下に蕃所調所を設置した。 | ||||
4月 | 参勤交代が満期となり斉彬は西郷をつれて帰国した。 | |||
1857年〜 1858年 |
夏〜 7月 |
高杉晋作は松陰の松下村塾の革新的な学問の評判を聞いて入学し学んだ。 松陰はこの時期門弟を全国各地に遊学に送り出していて高杉晋作も松陰のめがねにかなって江戸に出かけた。 |
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1858年 | 安政5年 | 6月 | 大老井伊直弼が日米修好通商条約に調印 | |
松陰は朝廷の勅許を得ずして行った調印は無効でありこのような幕府は打倒しなければならないと幕府を批判して国事犯として投獄された。 | ||||
島津斉彬は鹿児島にいた。 | ||||
7月8日 | 斉彬は調練場で城下士たちの訓練を検閲し砲台での大砲発射訓練を見て釣りをして城に戻った。 | |||
7月9日夜 | 斉彬は激しい悪寒と下痢に襲われた。 | |||
7月10日 | 高熱が出る。 | |||
7月11日〜 | 一日に三十,四十回もの下痢が続いた。 | |||
7月16日 早朝 |
島津斉彬死亡。 | |||
薩摩藩は斉彬の異母弟久光の嫡男忠義が藩主となった。 | ||||
12月 | 西郷は近衛家から勤王僧月照の身の安全を依頼され月照をつれて帰国の途についたが斉興はこれを拒み日向(宮崎県)送りとした。 そこで斬られることを知った西郷は月照と鹿児島の錦江湾に身を投げた。 |
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月照は命を落としたが西郷は助かり奄美大島に流された。 西郷は三十二歳であった。 |
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1859年 | 安政6年 | 4月 | 松陰は幕府に逮捕された。 | |
9月 | イギリスの武器商人トーマス・グラバーは十八,九歳の頃上海に渡り二十一歳のこの年長崎に来た。 | |||
10月27日 | 松陰は江戸伝馬町の獄で刑死した。享年三十 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂 師松陰の辞世の句に高杉晋作は号泣した。 |
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井伊直弼暗殺の陰謀は暮れから水戸藩と薩摩藩の間で綿密に練られていた。 | ||||
幕府が決めた開国に反旗を翻し攘夷実行を叫び朝廷がそれにお墨付けを与えた。朝廷が水戸藩に与えた攘夷の勅書を井伊直弼が幕府に返納せよと迫った。売られた喧嘩は買おうと水戸と薩摩の攘夷派は結託し直弼暗殺の謀議となった。 | ||||
北イタリアのソルフェリーノで起きたオーストリアとフランス・サルジニア連合軍の戦いは19世紀最大の陸戦と呼ばれるほどの凄まじさだった。 | ||||
戦場に商用で遭遇したスイスの商人アンリー・デュナンは近隣の農家の婦人や旅行者とともに負傷者の救護にあたるがその時の経験をもとに国際救護団の組織化を提唱する。 | ||||
1860年 | 万延元年 | 川崎尚之助と共に但馬国出石藩きっての俊才だった加藤弘之は蕃書調所教授手伝いに任命された。 | ||
新島襄は築地に設けられた幕府の軍艦教授所へ通学する。 | ||||
2月24日 | 家老山川重固の末娘山川捨松が鶴ヶ城下に生まれる。 | |||
3月3日 | 安政の大獄を憤った水戸藩浪士らに井伊直弼は江戸城桜田門外で殺害された。 犯人は水戸脱藩の関鉄之助ら十七人と薩摩藩の有村次左衛門の十八人だった。 有村次左衛門は安政の大獄を知って脱藩し井伊大老襲撃事件において水戸浪士と偽って大老の首を刎ねた人物である。自身も傷を負い自刃。 |
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安藤信正は井伊直弼横死後老中となり外交・内政の難局に当たった。 | ||||
12月 | プロシャ国が日本と通商条約を結んだ | |||
会津藩はこの年から越後に領地を持ち幕末までに七万五千石の領地があった。 蝦夷地の警備や京都守護職就任による加増である。 |
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アメリカを見てきた小栗は藩を廃止して新たな統一国家をつくることが幕府再生の道と確信した。 | ||||
1861年 | 文久元年 | 正月 | 大村益次郎の博学ぶりが長州藩に伝わり藩校明倫館に設けられた西洋学問所の兵学教授に迎えられた。 | |
3月 | 長州藩は直目付長井雅楽が主張する航海遠略策をもって国政への進出をはかることになった。 航海遠略策戸は朝廷と幕府が一体となって国難に対処するという開国論である。 |
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デービスは苦学してビロイト大学に進学したが南北戦争で北軍に義勇兵として身を投じた。 | ||||
11月 | 和宮の行列木曽路を通る | 有栖川宮熾仁(たるひと)親王の許嫁であった和宮が将軍家茂に降嫁 | ||
1862年 | 文久2年 | 松平容保は幕政参与を命ぜられ一橋慶喜・松平春嶽と幕政を担当した。 | ||
2月24日 | 千名の会津藩兵が約半月かかって京都に到着した。 | |||
小野権之丞は主君松平容保とともに京都に赴任し公用人として幕府、諸藩、公家の間を奔走し重厚な人柄で信頼を集めた。 榎本武揚がその能力を評価し病院長に抜擢した。 |
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幕府老中安藤信正は公武合体論者で和宮の将軍家茂への降嫁を計ったが尊攘派の激怒をかい江戸城坂下門で水戸浪士に襲われ負傷し(坂下門の変)老中を辞職した。 安藤信正は戊辰戦争では奥羽列藩同盟に加わり官軍に抗した。 |
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7月 | 攘夷論に圧倒され航海遠略策は否定され代わって条約を破棄して攘夷を実行するよう朝廷を通じ幕府に命じる破約攘夷の方針が長州藩の藩論として確定した。 | |||
7月6日 | 徳川慶喜は南紀派擁立の家茂との将軍継嗣争いに敗れ謹慎を命じられたが 一橋家を相続した慶喜が将軍後見職に就いた。 将軍家茂が未成年だったこともあり政事総裁職に越前の松平春嶽、将軍後見職に慶喜が選ばれた。将軍家茂はこの時十七歳慶喜は二十六歳であった。 以後専ら京坂の地で才腕を揮う。 |
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閏8月1日 | 会津藩が京都守護職を拝命公武合体を推進、孝明天皇の信任が厚かった。 将軍後見一橋慶喜、政治総裁職松平慶永が幕府親藩の会津を京都の治安維持に抜擢したのである。 |
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国家老の西郷頼母、田中土佐は反対した。 | ||||
しかし会津には藩祖保科正之が定めた「大君の義は一心大切に忠勤に存ずべし」という家訓があり幕府の命令は絶対だった。 主君松平容保は苦悩の末に京都守護職の大任を受けた。 |
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蘭学に加えて航海術も学んだ新島襄に瀬戸内海への航海のチャンスが訪れる。 本家の松山藩が横浜で購入したアメリカ製の木造帆船快風丸を備中玉島港まで航海させることになったのだ。 軍艦教授所に通学した経験のある新島襄に本家の意向を受けた安中藩から乗船命令が下った。 |
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11月12日 | 快風丸が出航 | |||
12月3日 | 快風丸が玉島に到着 | |||
12月24日 | 会津藩主松平容保が入洛、黒谷の金戒明寺に本陣を構えた。 八重の兄山本覚馬は京都守護職に就いた藩主松平容保に従って京都に赴き御所の守護にあたった。京都における三十年以上の生活がはじまる。京都に洋学所を設け教授を招いて英学や蘭学を教える場を作った。ここには他藩の藩士も自由に通わせている。 |
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禁門の変 | ||||
1863年 | 文久3年 | 正月2日 | 松平容保は初めて参内し小御所で孝明天皇に拝謁した。 | |
薩英戦争で集成館の大部分が焼ける。 | ||||
薩摩にイギリス艦隊が攻め寄せたとき五大才助は驚いて長崎から駆け付け薩摩藩の汽船天祐丸の船長として参戦したがすぐイギリスの軍艦に拿捕され横浜に拉致された。 | ||||
1月14日 | 快風丸は江戸へ戻ってきた。 約2カ月にわたる航海の経験は新島襄の視野を大いに広げた。 |
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新島襄は英語を学び始めた。 新島襄は聖書に触れるとともにロビンソンクルーソー物語の日本語訳版を読んでいる。 |
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2月17日 | 「負傷軍人救護国際常置委員会」が組織された。 この委員会は後年「赤十字国際委員会」と改称され現在に至る。 |
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4月末 | 神戸海軍操練所の設立が決定。 | |||
近藤勇は清河八郎の浪士隊に門弟共々応じて上洛した。 本隊が江戸へ引き上げを命ぜられた後特に残留を望んで松平容保の下に配された 新撰組の局長となった近藤勇は鉄の規律と「尽忠報国」の精神で隊を運営する。 もともと近藤勇は尊攘論者であったが勤王家が討幕を旗印として京の町を暗躍するようになったため新撰組はその粛清の先頭に立つようになった。池田屋の襲撃はその頂点であった。 |
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5月 | 坂本龍馬の手紙によると神戸海軍操練所の実際の操練がはじまっている。 | |||
5月12日 | 伊藤博文たち五人の長州藩士が横浜からイギリスに向かった。 | |||
8月18日 | 京都政変 孝明天皇の支持のもと御所の会議で尊攘派公家の中心人物である三条実美たちの参内差し止め、長州藩から堺町御門警備の任を解くことが決議された。 会津と薩摩は連合して御所を占拠し攘夷勢力の中心長州勢を京都から追放した。 |
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会津藩の在京兵力は九百人ほどだがちょうど京都詰藩士の交代時期にあたっていた。帰国の途に就いたばかりの藩士たちを政変に備えて呼び戻したため約千八百人の兵力になる。 会津藩に政変の決行をもちかけた薩摩藩の在京兵力は百五十人ほどだった。 |
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8月19日 | 長州藩は激しく反発するも孝明天皇の信任を失っていたため結局政治的敗北を認め三条たちを擁して帰国した。 | |||
公武合体論の孝明天皇がその心の中を述べた御製 「やはらぐもたけき心も相生の 松の落葉のあらず栄えむ」 を松平容保に賜わった。 孝明天皇は松平容保の誠忠を最も信頼していたのである。 |
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伊藤博文は周防の百姓林十蔵の子として生まれたがのち父が足軽伊藤家の養子になるに従う。松下村塾に学びこの年脱藩して渡英。攘夷の非をさとって帰り四国艦隊の下関砲撃事件を外交的に処理した。 | ||||
1864年 | 元治元年 | 新公使ロッシュの着任 ロッシュはフランスのグルノーブル生まれで北アフリカの植民地で三十余年の外交官生活を過ごし日本に着任した。 |
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但馬国出石藩士加藤弘之は幕臣に取り立てられる。 | ||||
国許に蟄居させられていた佐久間象山は許されて京都警護の藩主に従って上洛。 徳川慶喜の命により開国・公武合体のまとめ役として奔走中尊攘派によって暗殺された。 |
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3月12日 | 新島襄は友人が船長を務める快風丸が品川を出港する時に和歌を読んでいる。 武士の思ひ立田の山紅葉 にしききずしてなど帰るへき |
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3月 | 新島七五三太が箱館に行く。 | |||
3月31日 | 新島襄の出国について藩主の許可が出発の前日に届く 藩主としては箱館で英語や兵法、測量など西洋知識を学ぶということで許可している。 |
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新島襄は箱館で学ぶ環境にないことがわかり長岡藩の藩士の紹介でロシア人宣教師ニコライ・カサトキシン(ロシア正教)宅に日本語教師として住み込む。 | ||||
5月 | 勝海舟が軍艦奉行に昇進した。 | |||
6月 | 薩摩藩は様式軍制の拡充をはかるため開成所を設け砲術、兵法、操錬、築城、天文、地理、測量、器械、造船、物理、分析、医科などを生徒に教えた。 | |||
新島襄は箱館からアメリカ船に乗り込んで日本を脱出した。 | ||||
6月5日早朝 | 新鮮組は四条小橋で店を構える薪炭商人枡屋喜右衛門本名古高俊太郎を捕縛した。 枡屋を志士たちの会合場所に提供していた者だった。 |
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古高を捕縛した新鮮組は取り調べの結果志士たちが京都を火の海にしその混乱に乗じて孝明天皇を長州に動座する計画があると断定した。新鮮組は会津藩に対して志士たちの捕縛の許可を求めた。 | ||||
しかし会津藩はこれ以上の長州からの恨みを買うことを恐れて志士たちの捕縛には二の足を踏んだ。しかし京都を火の海とするという不穏な計画を知りながら黙殺することは京都守護職の職掌を放棄するに等しいため会津藩は志士たちを捕縛する決意を固めた。 | ||||
6月5日夜 | 三条小橋の池田屋に小高俊太郎の捕縛を受けその対応策を協議しようと長州藩士をはじめとする尊攘派の志士たちが集まっているところに新鮮組が踏み込む。 近藤勇率いる新鮮組が幕末の舞台に躍り出る契機となった池田屋事件が勃発。 |
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池田屋事件で闘死したのは長州藩士吉田稔麿をはじめ吉田松陰とも親しかった熊本藩士宮部鼎蔵たちである。 捕縛後に斬首された者も含めると池田屋事件で命を失ったものは三十人近くに及んだ。 |
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新島襄はニコライ宅に入る折にイギリス商館の初期である福士宇之吉と知り合い福士宇之吉が密かに函館に入港する外国船の船長らにアメリカに学びに行きたい青年がいると伝えて乗船を許すよう依頼した。 | ||||
6月14日夜 | 函館にいた新島襄はアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込む。しかし新島襄に藩の支援はなかった。 渡米したいという並々ならない決意に感動したベルリン号船長の義侠心により幸運にも密航できたのである。 |
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当時日本人は幕府の許可なく出国することはできなかった。密航が発覚すれば国禁であるから厳罰は免れないが薩摩藩や長州藩などは西洋文明を摂取するため藩士を密航させることを厭わなかった。 | ||||
6月21日 | 池田屋事件が会津藩と長州藩の関係を決定的なものとし早くも長州藩兵は大坂に到着した。 | |||
6月21日 | 新島襄之この日の日記に『今は襦袢三枚を洗ふ。我が家に在りし時自衣を洗わず、然し今は学問之為とは申しながら自ら辛苦を知るは是又学問之一と諦めリ。」とある。この日新島襄は次の漢詩を詠んでいる。 自従辞箱楯 空被役洋人 憂国還憂国 憤然不思身 |
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6月24日 | 伏見の長州藩邸に家老福原越後が入る。 羽柴秀吉と明智光秀が雌雄を決した山崎の戦いの戦場天王山に久坂玄瑞率いる藩兵が陣を構える。 |
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6月27日 | 来島又兵衛率いる藩兵が嵯峨の天竜寺に入る。 | |||
7月9日 | ベルリン号は上海に入港した。 | |||
7月9日 午後5時 |
新島襄の日記 此日午後五時、他ノ船ニ移レリ、船主ノ名テーラ助役ノ名、Reed第二助役名フェリー此船数多ノ材木を積めり」 ベルリン号は再び荷物を積んで長崎に引き返さなければならなかったため、新島襄は上海で船長はマサチューセッツ州出身のテイラーというワイルド・ローヴァー号に乗ることになった。 その船長も義侠心に富む人物だったことが幸いした。船中で新島七五三太敬幹はジョーと呼ばれた。いつしか新島襄が本名となって行く |
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アメリカ国内では南北戦争が最終局面を迎えていた。 | ||||
7月17日 | 長州藩は京都に侵入することを決議する。 名目は松平容保の討伐である。 会津藩を標的に絞ることで他藩が会津藩に同調するのを防ごうとした。 |
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しかし薩摩藩など他藩は長州藩討伐でまとまる。 | ||||
7月19日 未明 |
戦争が始まる。 蛤御門の変という名前でも知られる禁門の変は会津藩・薩摩藩の勝利で終わる。 山本覚馬も砲兵隊を率いて御所に侵入しようとした長州藩兵を撃退する。 |
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7月23日 | 長州藩討伐の勅命が幕府に下される。 | |||
8月22日 | スイスのジュネーブで十二カ国の代表によって赤十字条約(ジュネーブ条約)が締結される。 戦地の仮病院および陸軍病院に収容された患者や看護する人々は局外中立つまり危害は加えないことを国際的に約したのである。 | |||
10月 | 勝海舟は奉行職罷免の上自宅謹慎を言い渡され一切の活動を禁止されてしまった。 | |||
11月 | 水戸浪士伊那を経て馬籠に泊り美濃へ出る | |||
12月27日 | 征長軍の総督で松平容保の実兄徳川慶勝は撤兵を命じ総督府が置かれた広島を去る。 | |||
1865年 | 慶応元年 | 山本八重と川崎尚之助が結婚した。 川崎尚之助は正之助が本名だったが藩祖保科正之の名前に似ているということで尚之助に改めたと伝えられる。 |
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3月頃 | 一時は入所生が百名を越すほどの盛況ぶりを見せた神戸海軍操練所が幕府命令によって突如閉鎖廃止された。 | |||
森有礼のように薩摩藩から密かにおくられた留学生たちはイギリスで欧米事情を学んだ折にキリスト教に触れている。 特に森有礼はイギリスからアメリカに移りそこでキリスト教団体の施設に身を置いていたことがある。 森有礼は新島襄から蜜出国者のレッテルを外すために「留学免許状とパスポート」をワシントンからボストンに送ってきたと新島襄の記録に書かれている。 |
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5月16日 | 第一次長州征伐の結末に不満を持っていた幕府は長州再征を決意し将軍家茂が江戸城を進発する。第二次長州征伐の幕開け | |||
閏5月 | 坂本龍馬が統率する土佐海援隊の前身亀山社中(長崎市内亀山)が活動をはじめる。 | |||
閏5月22日 | 将軍家茂が京都に着く | |||
閏5月25日 | 将軍家茂が大坂城に入り長州征伐の本拠地と定めた。 | |||
坂本龍馬は長州のために汽船桜島丸のほか多くの武器弾薬を購入し藩の戦力増強に貢献した。 | ||||
5月 | 「 幕末の長州」(田中彰著)によると武器購入概算は施条銃千八百挺、剣付銃二千挺 | |||
6月 | 西郷隆盛は長州藩に対し外国商人からの武器購入を約束する。 | |||
6月17日 | 新島襄が乗船したワイルド・ローヴァー号がボストン港に入港した。7月20日にワイルド・ローヴァー号がボストンに着くとしている記述もある。 箱館を出てから1年以上の月日が経過していた。 新島襄はワイルド・ローヴァー号の船主であるハーディ夫妻のもとに向かった。 新島襄は渡米目的を英文で綴りハーディ夫妻に提出する。 |
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そこにはキリスト教の神をもっと知りたい。英語で書かれた聖書を読みたいと思い密航による渡米を決意したと書かれていた。信仰心の篤かった夫妻は感動し物心両面からバックアップすることを決意する。 | ||||
1865年〜 1867年 |
〜 7月 |
新島襄は英語の習得に努める フィリップス高校に入学させるにあたりハーディー夫妻は新島襄をこの高校近くのМ・ヒドゥン家を紹介している。 М・ヒドゥン家にはフィリップス・アカデミー以外の各種教育機関に学ぶ学生や研究者たちも寄宿していて新島襄はヒドゥン夫人から英語を学ぶだけでなく同宿の学生や研究者から聖書について学びアメリカ社会の現実についても知識を得た。 |
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1865年 | 7月 | 長州藩士の井上馨と伊藤博文は長崎のグラバー商会から薩摩藩名義で新式の鉄砲を大量に購入する。 ミネーゲベル短銃四千百挺、ゲベル銃三千挺を購入している。 |
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10月11日 | 新島襄はボストンのハーディ家に落ち着く | |||
ハーディーの母校であるフィリップス高校に新島襄を入学させる。新島襄は二年間ほど在学するがその間に洗礼を受ける。 | ||||
板垣退助は西郷隆盛とあって昵懇となり討幕を密約する。 | ||||
1866年 | 慶応2年 | 坂本龍馬は念願であった薩長同盟の成立に尽力する。 | ||
正月 | 六カ条からなる薩長同盟が京都で成立 出席したのは薩摩の小松帯刀と西郷隆盛、長州藩の桂小五郎である。 |
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3月 | 新島襄は父親民治に手紙を書く | |||
6月7日 | 幕府が長州藩との戦争に踏み切る。 | |||
7月20日 | 将軍家茂が大坂城で死去する。 | |||
7月29日 | 老中小笠原長行(おがさわらながみち)は九州小倉から関門海峡を越え長州藩領に攻め入ろうとしていたが前線基地の小倉城から逃亡してしまう。 | |||
8月1日 | 戦況の不利を悟った小倉藩は城を自焼する。 | |||
8月21日 | 徳川慶喜は朝廷に要請し長州藩に対して休戦するよう命じる沙汰書を出させる。 | |||
9月2日 | 幕府と長州藩の間で休戦協定が結ばれた。 | |||
10月12日 | 山川大蔵、田中茂手木は小出大和守秀実を正使とするロシアとの国境談判遣露使節の随員としてヨーロッパに渡りイギリス、ロシアを見聞きしてきた。 この日横浜を発つ |
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経済使節クーレが来日 クーレは鉄道、電信の敷設の建設を進めた。 |
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12月5日 | 徳川慶喜は十五代将軍の座に就く | |||
12月25日 | 孝明天皇崩御 | |||
12月 | 一橋慶喜は十五代将軍に就任し徳川慶喜を名乗った。 | |||
もと薩摩藩の船だったいろは丸を伊予(愛媛県)の大州藩藩が買い取った。この汽船購入の責任者が国島六左衛門という大洲藩士だった。国島六左衛門は藩命で小銃などの武器を買い入れるために長崎へやって来たのだ。 | ||||
12月末 | いろは丸を独断専行の行為で買ったため後に問題が表面化し国島六左国島六左衛門衛門は責任を取って割腹自殺を遂げた。 | |||
1867年 | 慶応3年 | 1月11日 | 横山主税、海老名郡治は遣仏使節の一員としてヨーロッパに渡った。 パリの万国博覧会参列と将軍徳川慶喜の弟徳川昭武のパリ留学が目的で田辺太一、渋沢栄一、佐野常民,高松凌雲らもいた 仏郵船アルヘー号で出帆 上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデン、スエズ、アレクサンドリア、メッシナ、マルセイユ、リヨン、パリを経てスイス、イタリア、エジプト、オーストリア、プロシャ、オランダ、イギリスを回った。佐野常民は万国博覧会の会場で赤十字運動の存在を知った。 |
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赤十字の思想を日本に伝えたのは佐賀藩出身の佐野常民だった。 | ||||
3月28日 | 徳川慶喜は大坂城で外交団を引見した。 | |||
3月29日 | 新島襄は父親民治に手紙を書く | |||
4月1日 | 徳川慶喜は大坂城で外交団を引見した。 | |||
榎本武揚は海軍副総裁として勝海舟を補佐 | ||||
4月 | 坂本龍馬は正式に脱藩の罪を赦されると同時に藩命により土佐藩海援隊長に就任 | |||
4月中旬 | 大洲藩と土佐藩との間でいろは丸のチャーター契約が成立。坂本龍馬をはじめ海援隊の有志が乗り組みはじめての航海の途についた。 | |||
4月19日 | 「 龍馬大阪に送らんとて鉄砲弾薬を夥しく伊呂波丸に積み自ら之に搭乗して長崎を発す」 | |||
4月23日 後后11時 |
船讃州箱崎の海上を過ぐ 一大汽船東より来り右旋して伊呂波丸に衝突しその機関室を毀つ |
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4月24日 早朝 |
備後鞆ノ津に上陸した伊呂波丸と明光丸の乗員はそれぞれ宿所に入り三日間にわたり談判を行ったが解決せず | |||
5月7日 | 小出大和守秀実を正使とするロシアとの国境談判遣露使節の随員として山川大蔵、田中茂手木はマルセイユ、パリ、ペテルブルグ、パリ、マルセイユを経て横浜に戻った。 | |||
5月15日 | 伊呂波丸と明光丸の会談開始 紀州藩は船長の高柳楠之助以下九名、土州藩は船長の小谷耕蔵、才谷梅太郎(坂本龍馬)当番士官の佐柳高次ら八名が出席。 |
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6月初旬 | 紀州藩から土佐藩へ賠償金として八万三千五百余両を支払うという約束を取り付けた。 | |||
6月 | 近藤勇以下新撰組の隊士は幕臣に取り立てられた。 | |||
1867年〜 1872年 |
7月〜 3月 |
新島襄はマサチューセッツ州のアマースト大学(アーモスト大学)に学び理学士の称号を受ける。 新島襄は自然科学系のカリキュラムを学んだのだがウィリアム・S・クラーク教授の化学の授業も受けている。 アマースト大学(アーモスト大学)には札幌農学校を卒業した内村鑑三も後に留学している。 その後新島襄はアンドーヴァー神学校に入学しキリスト教伝道のための教育も受けた 新島襄はワシントンに駐在する日本の外交官森有礼と知り合い親しい友人となる。 |
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1867年 | 10月13日 | 慶喜は在京五十藩の代表を二条城に集めた。 | ||
10月5日 | 新島襄は初めて慶応3年6月に投函された日本からの手紙を受け取る。 | |||
11月頃 | 江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として強盗騒ぎが頻発した。江戸で騒ぎを起こすことで薩摩藩は後方撹乱を狙ったとされる。 | |||
11月14日 | 慶喜は桑名藩主松平定敬を連れて参内し大政奉還を奏上した。 | |||
11月14日 | 西郷隆盛たち討幕派は公卿の岩倉具視と連携して討幕の蜜勅の発給に成功。 討幕つまりは慶喜の討伐が薩摩・長州藩主に命じられた。 同時に守護職の松平容保と所司代の定敬の討伐を命じる沙汰書も発給された。 偽勅とされる討幕の密勅は執行停止となる。慶喜が自ら幕府を消滅させたからである。 |
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12月 | 新島襄は洗礼を受けてキリスト教信徒になる。 | |||
12月9日 | 西郷たち討幕派は御所内で開かれた小御所会議で慶喜や容保・定敬を排除した形での新政府樹立を決めてしまう。 | |||
12月12日 | 薩摩藩などとの衝突を恐れた慶喜は幕臣や会津・桑名藩士たちを連れて京都を去る。 | |||
会津藩士たちの多くは薩摩藩との戦いを辞さずという強硬な意見だった。山本覚馬は京都にとどまった。 | ||||
12月 | 王政復古の大号令発令 | |||
12月13日 | 慶喜は幕臣や会津・桑名藩士たちと大坂城に入る。以後双方の睨み合いが約1カ月も続く。 | |||
所司代・守護職の廃止に伴い桑名・会津両藩士並びに旧幕臣他在坂の旧幕府勢力は将軍に対する辞官納地の処置に激昂した。 | ||||
旧幕府を武力打倒する口実を作るために薩摩藩は浪士に江戸市中を騒擾させる挑発に出た。 | ||||
12月24日 | 新島襄は弟の双六と母とみに手紙を書く。 |
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12月25日 | 新島襄は父民治と飯田逸之助宛の手紙を書く | |||
12月25日 | 江戸城の留守を預かる徳川家首脳部は庄内藩などを動員して三田屋敷を包囲する。 三田屋敷は火に包まれた。 |
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12月下旬 | 会津藩は大阪から京都南郊の伏見に出た。 会津藩と配下の新撰組は伏見奉行所に陣を構え薩摩藩兵と対峙する。 |
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山本覚馬はなんとか衝突を回避しようと奔走するが視力を失っていた覚馬は奔走にも自ずから限界があった。 | ||||
12月 | パリの万国博覧会参列と将軍徳川慶喜の弟徳川昭武のパリ留学が目的の遣仏使節が1年に及ぶ遊学を終えて帰ってきた。 | |||
中岡慎太郎らと西郷隆盛との間で薩摩・土佐盟約を結んだ。 | ||||
江戸薩摩藩邸三田屋敷は火に包まれたという報が大坂に入ると薩摩藩を討伐すると称して京都に進撃していった。 | ||||
1868年 | 慶応4年 | 1月2日 | 大坂城に籠っていた幕府兵や会津・桑名藩兵は薩摩の罪状を挙げた「討薩表」を朝廷へ奉じるとして京都に向かって進撃を開始した。 淀城を本陣とする旧幕府軍は総勢一万五千在京の薩長藩は五千の兵力である。 |
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旧幕軍は鳥羽街道の小枝橋、伏見街道は新撰組の駐屯する伏見奉行所付近で入京を阻止する薩・長・土・芸州四藩の新政府軍と対峙した。 | ||||
近藤勇は伏見街道で狙撃され負傷。 | ||||
正月3日〜 正月4日 |
鳥羽伏見の戦い 鳥羽伏見の戦いから明治2年5月18日箱館五稜郭開場までのおよそ1年半をこの年の干支から戊辰戦争と呼ぶ 山本覚馬は会津藩の何人かの藩士とともに薩摩藩兵にとらえられ京都屋敷に幽閉されてしまうがその事実は会津には伝わらなかった。 |
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京都守護職を命じられていた会津藩だけは風雲急を告げる京都の様子を肌で知っていたが他の東北藩は京都で何か騒ぎがあるようだ程度の認識であった。 幕府が鳥羽・伏見の戦いで敗れて初めて盛岡や仙台は慌てて使節団を派遣した。 |
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正月4日 | 征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王が錦旗を掲げて東寺まで進み慶喜 征討の本陣を置いた。 | |||
朝敵の汚名を蒙るという衝撃は旧幕軍兵の指揮を著しく低下させ総崩れになる。 | ||||
本陣淀城を目指すも譜代藩淀藩は入城を拒絶 | ||||
正月6日 | 徳川方は味方の津藩からも砲撃を受け総崩れとなる。 | |||
正月6日夜 | 戦いの最中に将軍徳川慶喜は大坂から軍鑑開陽丸で江戸へ逃げ帰った 会津藩主松平容保や定敬も慶喜の厳命により家臣たちを上方に置いたまま江戸への同行を余儀なくされた。 |
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正月7日 | 朝廷は慶喜の追討令を発した。 | |||
正月8日 | 軍鑑開陽丸が大坂天保山沖を出帆 | |||
正月10日 | 慶喜らの官位を剥奪する。容保も同様である。 | |||
正月10日 | 気象が悪く 軍鑑開陽丸は八丈島の北五,六里の方角に流され時間がかかった。 | |||
正月12日 | 松平容保江戸に到着 | |||
正月12日 | 東帰した慶喜は江戸城に入る。 | |||
不眠不休で馬を乗り継いできた小姓の簗瀬克吉、小池周吾も藩邸にたどりついた。 | ||||
正月13日 | 御前会議が開かれた。 主戦論派の勘定奉行小栗上野介、陸軍奉行・大鳥圭介、海軍副総裁榎本武揚らは徹底抗戦を主張。 大久保一翁、勝海舟らは恭順を説き紛糾。 |
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御前会議は二日に及んだが慶喜は小栗を罷免、陸軍総裁勝海舟に事後を委ねた。 | ||||
正月15日 | 近侍の家老神保内蔵助の長男神保修理、浅羽忠之助が大坂から江戸に駆けつけ主君に会った。 | |||
会津藩士たちは幕府の軍艦に乗って江戸に戻って来たがその中に山本覚馬はいなかった。弟の三郎は重傷を負っていた。負傷者は芝の新銭座の会津藩中屋敷に収容された。弟三郎は傷がもとで二十一歳の生涯を江戸で終えた。 | ||||
近藤勇は鳥羽伏見の敗戦後江戸へ戻る。 | ||||
1月17日 | 会津藩主松平容保に朝廷から追討令が出された。 明治政府は東北の雄藩である仙台藩主の伊達慶邦に対し会津藩主松平容保討伐を命じる。 |
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伊達慶邦は追討を猶予して諸藩に諮る建白を行うが拒絶される。 | ||||
1月20日 | 慶喜が負傷者の見舞いと称して新銭座屋敷を訪れる。 このときの慶喜の言動について白虎隊の一人として籠城戦に参加する会津藩士の山川健次郎は著書「会津戊辰戦史」の中で「伏見・鳥羽の負傷兵への見舞いは無意味なり、偽善なり、笑ふ可し」という感想を述べている。 |
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王政復古を布告 各公使へ布告する。各国国外中立を宣言する。 |
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1月23日 | 薩摩藩士大久保利通は大阪への遷都を建白する。 遷都そのものに反対する公家の抵抗に遭い大阪遷都論は潰える。 |
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2月 | 会津藩の越後への派兵が開始された | |||
2月4日 | 松平容保は隠居して会津藩主の座を降りた。ときに三十四歳。 | |||
2月8日 | 松平容保に徳川慶喜から登城の命が下った。 それとなく慶喜の意思を察した会津藩では病と称して容保を登城させず代わりに家老の内藤介右衛門を登城させた。内藤に伝えられた慶喜の意思とは藩士たちを会津に帰国させること。そして容保の登城禁止だった。 |
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2月11日 | 元一ツ橋家家臣で陸軍調役並・本多敏三郎は同僚伴門五郎らと幕府陸軍内外に檄文を回す。その会合から生まれたのが有志で組織する「彰義隊」である。 | |||
頭取・渋沢成一郎(栄一の従兄)、副頭取・天野八郎は結成後分裂大方の隊士は天野に従い謹慎する慶喜の警護の名目で上野へ移る。 | ||||
渋沢成一郎は別に振武軍を組織し飯能戦争を戦う。 | ||||
越後長岡藩の河井継之助は町奉行、郡奉行を経てこの年長岡藩家老となった。 兵制・財政を初めとする藩政改革を行った。 鳥羽・伏見に敗戦後長岡七万四千石の命運を一身に背負って活動する。 河井継之助は自ら近代化した兵備を背景に会津と官軍の仲立ちとなろうとした。この武装中立の論をもって小千谷の東征軍本営で軍鑑岩村精一郎と会見した。 しかしあくまでも武力討伐を狙う官軍に拒否され戊辰戦争の中でも最も熾烈な長岡城攻防戦となる一カ月余の死闘の間一度は城を取り戻したが再度落城、会津へ敗走の途次戦傷がもとで没した。 |
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2月12日 | 徳川慶喜は江戸城を立ち退き上野寛永寺に閉居した。 子院である大慈院の一室に謹慎し恭順の姿勢を示した。 以後陸軍総裁に任命した勝海舟や会計総裁に登用した大久保一翁に全権を委ね政府軍との交渉にあたらせる。 徳川慶喜は三十二歳でその政治的生命を断棄した。 |
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2月13日 | 神保修理切腹 浅羽忠之助は総ての責任は慶喜公にあると思った。 しかし大坂から敗残の兵が帰るにつれて藩中の容保に対する不満が爆発し怒りは神保修理に向けられた。 神保修理は長崎に出かけ見聞も広く将来を嘱望されていたがこうなると容保の身代わりとなって自刃するしかなかった。 |
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2月15日 | 総裁職にあった四親王家の一有栖川宮幟仁(たかひと)親王長子有栖川宮熾仁(たるひと)親王を東征大総督とする官軍が京都を出発し東海道・東山道・北陸道の三道から江戸に向かった。 維新政府では総裁職に任じ国政を総理した。 有栖川宮熾仁(たるひと)親王は西南戦争では幕末征東軍の参謀であった西郷討伐軍の総督となった。 |
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2月15日 | 申の下刻 (午後5時) |
松平容保は鳥羽伏見の戦いに参戦した全将兵や江戸でフランス式の軍事調練に励む総勢千数百人を和田倉邸の馬場に集めた。 | ||
藩士の前に姿を現した容保は以下の通り訓示する。 前線で奮戦する汝たちになにも告げず江戸に戻ってしまったことを自分は大いに恥じる。その責任を取って藩主の座は養子の善徳に譲るが会津藩の失地回復は必ず実現しなければならない。皆一致団結して自分を助けるように。汝たちにこのことを厚く頼みおく。 |
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松平容保の跡を継いだのは水戸藩主徳川慶篤の弟であり慶喜の弟でもある十四歳の慶徳。会津藩としては十代目 | ||||
江戸には抗戦派幕臣や略奪を行う歩兵がおり打ち壊しや一揆等関東一円は不穏だった。 | ||||
勝海舟は全面武力衝突を回避すべく山岡鉄舟を使者に立て駿府に達した東海道軍・先鋒隊の参謀西郷隆盛に嘆願書を出す。 | ||||
新撰組は甲府城接収に、衝鋒隊には信州鎮撫に向かわせて江戸市中の危険分子を外へ置きかつ旧幕府海軍は江戸湾に留置き武力を温存する措置を取った。 | ||||
2月16日 | 松平容保江戸を発ち帰国の途についた。 帰国にさいし上野寛永寺の輪王寺宮や尾張徳川家以下二十二藩を通じて朝廷に恭順の嘆願書を提出した。 しかし受けいられることはなかった。 |
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松平容保が会津に向かった後も江戸に残る会津藩士はいた。山川健次郎の兄で砲兵隊の隊長を務める山川大蔵は小川町にあった幕府陸軍所でフランス人教官から教練を受けていた。 | ||||
2月22日 | 松平容保が会津に帰国した。 | |||
2月23日 | 薩州軍木曽へ入る | |||
2月25日 | 山村良醇は総督に勤王に尽力すべき旨を伝え軍馬を献上 | |||
2月26日 | 公家の左大臣九条通孝が奥羽鎮撫総督の任に就いた。 実権を握っていたのは参謀職を務める長州藩士の世良修蔵と薩摩藩士の大山格之助だった。 |
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2月27日 | 松平容保は藩士一同に対して政府軍の襲来に備えるよう求める布達を発した。 | |||
3月 | 越後長岡藩は「局外中立」の立場をとっていた。 北陸鎮撫総督府からの出兵要請を拒否三万両の献金命令を黙殺。 |
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政府軍は長岡を誅伐の対象と見た。 | ||||
長岡藩上席家老兼軍務総督河井継之助は武装中立の立場で武器商人スネル兄弟からガトリング砲二門を購入し武器弾薬を多量に調達藩兵に仏国式調練を施した。 | ||||
3月1日 | 鳥羽伏見の戦いで敗れ新撰組は江戸に逃げ戻ったが徳川家から甲斐国の鎮を命じられたことで甲陽鎮撫隊と改名し江戸を出発し甲州道中を西に向かった。 | |||
3月6日 | 駿府の軍議で江戸城総攻撃は3月15日と決したが西郷隆盛は戦争回避に条件7カ条を提案。 | |||
3月10日 | 軍制改革に着手 江戸を去る時には開港場の横浜で小銃を八百挺購入し藩士たちに猛烈な射撃訓練を課した。 教官は幕府陸軍から招いた歩兵差図役頭取といった中堅クラスの将校である。 |
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会津藩の軍制は鳥羽伏見の戦いまでは長沼流の兵法による旧式の兵備であったが3月に軍制を改革し装備を西洋式に改めた。東西南北の神の名をとり、年齢別に朱雀(南)、青龍(東)、玄武(北)、白虎(西)の四隊に編成した。 | ||||
朱雀は十八歳から三十五歳までで部隊は士中、寄合、足軽の三隊に分けそれぞれ一番から四番隊まであり規模は一隊が約百人なので総数では約千二百人だった。 | ||||
青龍隊は三十六歳から四十九歳までで士中三隊寄合二隊足軽四隊の約九百人で編成した。 | ||||
玄武隊は五十歳以上で士中寄合各一隊足軽二隊の約四百人だった。 | ||||
白虎隊は十六歳十七歳の少年兵でこの隊も士中寄合足軽の各二隊に分かれここは一隊が約五十人全体では三百人程度だった。 飯盛山で自刃したのは士中隊に属する少年たちだった。 |
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このほかに砲兵隊、築城兵、あるいは力士隊、猟師隊、修験隊さらに農兵隊約三千人があったが、それらを加えても会津藩の総兵力は七千人に過ぎなかった。 | ||||
3月13日 | 慶喜から後事を託された陸軍総裁勝海舟と大総督府参謀・西郷隆盛が前年焼き打ちにされた高輪の薩摩屋敷で会談 | |||
3月13日 | すでに甲府城は政府軍の手に落ちていたため新撰組は甲州勝沼で迎え撃ったものの大敗し再び江戸へ逃げ戻る。江戸にしても政府軍による江戸城総攻撃が目前に迫っており新撰組は江戸を離れる。今度は武蔵国足立郡五兵衛新田(現東京都足立区)へ向かった。 | |||
3月14日 | 慶喜から後事を託された陸軍総裁勝海舟と大総督府参謀・西郷隆盛が三田藩邸で会談し、品川と板橋に駐陣する東海・東山道両先鋒隊が総攻撃の号令を待つ中で勝と西郷は江戸城明け渡し、軍鑑の委譲等を条件に戦争回避で合意を見た。 徳川家は存続、慶喜は水戸で謹慎と決まる。 |
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3月 | 京都御所紫宸殿において「天神地祇御誓祭」が執り行われた。孝明天皇崩御の後16歳で践祚した祐宮陸仁親王、明治天皇が皇祖神に新政の基本指針五箇条を誓ったのである。 | |||
3月14日 | 朝廷は「五箇条の御誓文」を発布し天皇中心の新しい政治の方針を広く示した。 | |||
御誓文の原案は越前藩出身の政府参与である由利公正が起草した「議事之体大意五箇条」でそのベースは坂本龍馬の「船中八策」であり彼らの師である横井小楠の理念に根ざしていた。 | ||||
一広く会議を興し万機公論に決すべし 一上下心を一にして盛んに経倫を行ふべし 一官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦ざらしめんことを要す 一旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし 一知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし |
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3月15日 | 江戸城攻撃は勝海舟と西郷隆盛の階段を受けて急遽中止になった。 | |||
3月19日 | 新政府軍松島湾に上陸 | |||
3月23日 | 奥羽鎮撫総督の九条通孝たちが海路仙台に入った | |||
3月29日 | 総督府は仙台藩のほか米沢藩上杉家に対しても会津藩の討伐を命じた。 。 |
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3月晦日 | 総督府は仙台藩と秋田藩に対して江戸薩摩藩邸を焼き打ちした庄内藩の追討を命じる。 | |||
仙台藩主は藩兵二千を会津藩との国境に向かわせた | ||||
五箇条の御誓文を示す。 明治天皇が公卿や諸侯に明治政府の基本方針を示した。 |
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4月 | 会津藩は越後に家老一瀬要人を総督とする約二千の大部隊を送った。 | |||
近藤勇は甲陽鎮撫隊を率いて甲州勝沼で官軍と戦い敗れる。 | ||||
4月1日 | 新撰組は下総国流山に陣を移したが政府軍に包囲された近藤勇がその軍門に下った。 | |||
4月2日 | 徳川家への回答書を携え再び西郷隆盛が江戸に来た。 | |||
閏4月3日 | 総督府は会津藩に容保自ら本営の軍門に出頭することを命じてきた | |||
閏4月4日 | 政府軍側に属する天童藩領に侵入して天童城を落とし藩主織田信学(おだのぶみち)を仙台に走らせた。 | |||
4月4日 | 東海道先鋒総督を務める橋本実梁が政府の決定事項を徳川家へ伝えその実行期限を十一日と通告した。 | |||
4月10日 | 会津・庄内両藩は「会庄同盟」を結ぶ。 | |||
仙台藩は会津藩に同情的 隣の米沢藩は過去に御家断絶を救われた恩義がある。 総砲の会津国境への出兵は形だけで密かに仙台藩家老但木土佐と坂英力が会津藩に恭順に意を固めさせ処置の軽減を狙い両藩は斡旋に動いていた。 |
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4月11日 | 勝海舟と西郷隆盛らにより江戸城は無血開城される。 | |||
抗戦派諸隊は江戸を脱走。大鳥圭介の率いる脱走軍主力は関東を北上宇都宮城を落城させ家康を祀る日光東照宮を目指す。 | ||||
4月11日 | 徳川慶喜は謹慎していた上野の寛永寺を出て水戸に向かう。 | |||
4月11日 | 流山を脱出して江戸に向かった土方歳三は江戸城が明け渡されたため下総の国国府台(現千葉県市川市)に走ると国府台には武装解除の命令に反発して江戸を脱出した徳川家の将兵三千人余りが集結していた。 | |||
4月11日夜 | 軍鑑引き渡しを求められた海軍も江戸城明け渡し当日の夜海軍副総裁の榎本武揚が軍鑑七艘を率いて安房の国館山に走る。 | |||
閏4月11日 | 仙台藩・米沢藩は東北諸藩に呼びかけ奥羽列藩十四藩が参集、会議を白石城で開き会津藩に寛大な処遇を求める嘆願書を鎮撫総督府に提出した。 | |||
日本郵便の父として知られる前島密が江戸遷都論を主張し大久保のもとへ届ける。 | ||||
閏4月12日 | しかし参謀長州の世良修蔵は会津憎しの一念で拒否握りつぶす。 | |||
彰義隊は慶喜の水戸退去後も市中取締りを任じ輪王寺宮警護の名目で上野の山を拠点とし続ける。 | ||||
輪王寺宮当代公現法親王の側近で別当覚王院義観が彰義隊に助力し扇動する風さえあった。 | ||||
4月12日 | この日行われた評議で大鳥圭介が全軍の総督となる。 土方歳三は参謀である。 |
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4月17日 | 仙台藩主慶邦が白石城に入った。 | |||
4月18日 | 会津藩との国境の一つ土湯峠に仙台藩兵が到着した。 国境を固める会津藩兵との間に戦端が開かれたが双方とも戦闘の意思はなく形だけの砲弾のやりとりに終わった。 |
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4月19日 | 下総や常陸国を経て下野国に向かった大鳥圭介や土方歳三たちは宇都宮城への攻撃を開始。 | |||
4月20日 | 大鳥圭介や土方歳三たちは宇都宮城を奪取した。 | |||
閏4月20日 | 東北諸藩連盟の嘆願書が政府の意向を受けた参謀世良の主張により却下された。 傍若無人な世良修蔵の態度には怨嗟の声が上がっていたが「奥羽皆敵」と書かれた書簡を見つけた仙台・福島両藩士らは激昂、世良を捕縛、斬首した。 |
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4月21日 | 東征大総督の有栖川宮が江戸城に入った。 | |||
閏4月 | 薩摩・長州連合軍が越後に侵攻を始めた。 | |||
閏4月5日 | 会津藩は国境の警備を固めるとともに白河城に向けて軍勢を送った。斎藤一率いる新鮮組百三十人余も白河に向かうよう命じられる。 | |||
4月20日 | 二本松藩丹羽家の管理下にあった白河城を会津藩が奪取する。 | |||
4月22日 | 白石で開かれた列藩会議で白石盟約書が締結される。 参加した諸藩は仙台・米沢・盛岡・山形・福島・二本松藩などである。 |
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4月23日 | 政府軍は宇都宮城奪還を目指して激しい攻撃を加えてきた。戦闘で土方歳三は負傷し再起を期して会津に向かう。 | |||
4月24日 | 庄内藩は領内に侵入しようとした政府軍を敗走させる。 | |||
4月25日 | 近藤勇は中山道板橋宿に護送されこの日処刑された。 近藤勇の首は三条河原に晒された。 |
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4月25日 | 陸奥国白河は欧州への入り口にあり古来より関所がおかれ要衝の地である。政府軍と会津藩は白河で激突した。 新撰組も参戦し会津藩の勝利に終わる。 |
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4月上旬 | スネル兄が会津若松藩の城下に現れた。 会津藩主松平容保はスネル兄に平松武兵衛の名前を与え屋敷も提供した。 |
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八重は夫川崎尚之助とともに一カ月もの籠城戦を戦い抜く。川崎尚之助は大砲の指揮を取ったが八重の砲撃の腕前は周囲を驚嘆させたほどだった。 | ||||
閏4月 | 政府は「政体書」を発令 新政府の統治機構を定め交付した。 地方制度では府藩県が置かれる。 旧幕領地や旗本領、朝敵処分藩の没収地等は府・県になったが旧来の藩はそのままである。 |
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4月29日 | 土方歳三は会津に入った。 土方歳三は怪我の治療のためしばらくの間明治維新後に会津藩士の娘高木時尾を妻に迎える斎藤一が新撰組の指揮を取る。 |
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5月1日 | 白河城攻防戦は兵器の差が勝敗を分け政府軍が一方的に勝利する。軍制改革の遅れが会津藩にとって致命的であった。 | |||
5月2日 | 河井継之助の申し出により小千谷慈眼寺で会談 応対する東山道軍軍鑑土佐藩岩村精一郎は二十三歳 四十二歳の老練な藩家老河井の説く局外中立の経緯や会津藩への調停の申し出が理解できるはずもなく岩村精一郎が一方的に座を立ち決裂。 |
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長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟、抗戦態勢を取る。 | ||||
5月3日 | 白石盟約書は修正のうえ仙台・米沢両藩の主導で奥羽越列藩同盟成る 新政府に対抗するため奥羽二十五藩が正式に同盟する。遅れて越後六藩が加わり奥羽越列藩同盟は成立する。上野戦争を逃れ会津に入った輪王寺宮を奉じ旧幕抗戦派の閣老を入れ奥羽越公儀府が白石城内に置かれた。 白河・北越・東北諸方面で新政府軍との戦闘へ突入した。 |
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世良が殺害された後奥羽鎮撫総督らは福島を脱出秋田に至り必死の説得で巻き返しを図る。 | ||||
5月13日 | 朝日山の戦いで新政府軍主力の海道軍と長岡藩・同盟藩が対峙、山頂守備の桑名藩・立見鑑三郎隊が薩長藩兵と激闘した。 この戦闘で松下孫塾出身の時山直八が戦死する。 |
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桑名藩は恭順。長岡城は開城したが前藩主松平定敬主従が飛び地領柏崎へ来援し実兄会津前藩主とともに抗戦の構えだ。 | ||||
5月15日 | 上野戦争が起きたが1日で終結 最大3000人を擁したという彰義隊が上野の山に立て籠もり戦ったのは1000人だった。戦いは明け方雨の中始まった。無益な戦火を避け白昼堂々と一日で終結させるのが長州・大村益次郎の作戦だった。政府軍の一方的勝利に終わり残党は転戦後海を渡り箱館まで戦う。 |
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5月 | 名古屋藩士遠山彦四郎の奥州征伐に木曽の有志が従軍した。 | |||
5月19日 | 越後では奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩が政府軍と激戦を繰り返したが新政府軍の奇襲作戦により長岡城は落城。戦況は膠着した。 | |||
5月24日 | 徳川家処分が公表される。 慶喜の隠居を受けて徳川宗家を継いでいた徳川亀之助(後に家達と改名)は駿河国府中城主(駿河城)に封ぜられ駿河・遠江国などで七十万石を与えられた。 静岡藩の誕生だが江戸城は徳川家には返還しないという政府側の意思表明でもあった。 |
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6月 | 八百万石と称された身上からすれば十分の一にも満たない大幅な減封処分だ。徳川家の家新つまり幕臣の数は明治元年四月の数字によると三万人強だったが七十万石の大名として抱えることが可能な藩士の数はせいぜい五千人と見積もられていた。その五千人といっても今までの俸禄水準を維持することは無理だった。 徳川家は家臣に対し今後の身の振り方として三つの選択肢を提示した。 @徳川家の籍を離れて政府に出仕 A徳川家にお暇願いを出して新たに農業や商売をはじめる。 B無禄覚悟で新領地静岡に移住する |
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身上が十分の一に縮んでしまった徳川家としてはできるだけ多くの家臣が政府に仕えることを望んでいた。 ところが家臣の大半は無禄覚悟つまり給料ゼロであっても静岡に移住して徳川家家臣であり続けることを望んだ。 こうして静岡に大挙移住した。その数は一万人以上家族も含めると数万人にも及んだ。 |
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6月前半 | 白河城攻防戦は6月前半まで続いたが奪還できなかった。 | |||
6月16日 | 軍鑑に乗った薩摩藩兵など約千五百人が常陸の国平潟港現茨城県北茨城市に上陸した。 | |||
6月24日 | 白河から向かった政府軍が棚倉場を陥落させた。 | |||
7月 | 江戸を東京と改める。 明治天皇は江戸を東京と改める詔を出す。 |
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7月 | 二本松城が落城 | |||
7月6日 | 秋田藩帰順 近隣同盟藩にも波及した。 |
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7月13日 | 平潟港に上陸した政府軍は勿来関を越えて浜街道を進み平城へ向かった。磐城平藩の前藩主は老中職を務めたこともある安藤信正であり平城には仙台藩兵なども駐屯していたがこの日の攻防戦で同盟側は敗北し平城は落城した。 | |||
7月17日 | 政府は江戸を東京と改称するよう命じた。 | |||
7月20日 | 河井継之助は困難な八丁沖渡河を敢行 | |||
7月25日 | 河井継之助は長岡城を奪還したが市街戦の督戦中河井は流れ弾により左足を負傷してしまう。 | |||
7月26日 | 政府軍は平城を陥落させた軍勢を吸収する形で三春藩に向かいこの日三春藩を下す。 | |||
7月29日 | 長岡城が再陥落する 新政府軍が新潟港を掌握すると米沢藩も帰順を決意、同盟は崩れた。 |
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7月29日 | 政府軍は新潟港を占領した。 | |||
7月29日 | 政府軍が二本松藩領に侵攻し二本松城を攻め落とす。 | |||
8月7日 | 相馬藩が降伏し政府軍は仙台藩の国境に迫った。 | |||
8月16日 | 八十里越えで会津藩領塩沢村に入った河井継之助は傷の悪化により会津藩領の只見村(現福島県只見町)で没した。 | |||
8月下旬 | 榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊四艦四隻は品川沖を脱走同盟軍の援軍として仙台松島湾に来航したが仙台藩の帰順を受け脱走軍諸隊三〇〇〇を合わせて艦隊は蝦夷地へ渡る。 | |||
榎本武揚は蝦夷地渡航の目的を静岡七十万石に移封され失業した徳川家臣団を蝦夷地開拓に当たらせるとして嘆願書を新政府へ提出 諸外国へは独立政権であると表明した。 |
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8月20日 | 薩摩・長州・土佐・大垣・大村・佐土原藩から構成された政府軍二〜三千は二本松を出陣し会津藩領の一つ石筵口(いしむしろぐち)から母成(もなり)峠に迫った。 全軍の指揮を取ったのは土佐藩士板垣退助と薩摩藩士伊地知正治だった。 | |||
会津藩も石筵口防衛のため母成峠を固めた。大鳥圭介率いる部隊や新撰組も配置し仙台・二本松藩兵も防衛の一翼を担ったが総勢約八百人ほどに過ぎなかった。 | ||||
8月21日 | 両軍は激突するが兵力の差や濃霧のため敵の発見が遅れたことが重なり会津藩は母成峠を突破されてしまう。 | |||
8月22日 午後1時 |
松平容保は城を出て滝沢本陣で自ら指揮を執り君側の士中白虎二番隊の少年達約四十名も戸の口原へ出陣した。 | |||
滝沢峠が破られると蚕養口で共戦し来援した実弟桑名前藩主定敬と別れ容保一行は城中へ定敬一行は米沢へ向かう。 | ||||
8月22日 午後 |
政府軍は猪苗代湖北岸の戸ノ口原になだれ込んできた。 | |||
8月22日 午後5時 |
二番隊の少年達約四十名も戸の口原へ到着した。 | |||
8月23日朝 | 政府軍の激しい攻撃が始まり白虎隊をはじめ会津藩兵は退却を余儀なくされる。松平容保も城下まで退いた。 | |||
いつしか二番隊は二十名に減っていた。その中には八重がゲーベル銃の操作を教えた伊東悌次郎もいた。 滝沢峠が占領されたため白虎隊は間道を経て城下が一望できる飯盛山へ向かう。 |
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8月23日 | 政府軍は会津若松城下に連なる街道筋の要衝を圧倒的な物量で攻め落とし会津城下に突入した。 松平容保は甲賀町郭門で防戦を試みる。 藩士たちは屋敷から畳を持ち出して胸壁を築き応戦するも政府軍に突破されてしまう。 松平容保は単騎城に掛け込まざるを得なかった。 |
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八重は弟三郎の形見である着物と袴を身につけて男装し腰には大小の刀を帯びた。七連発が可能な最新式の七連発スペンサー銃を肩に担いで入城した。 | ||||
入場後八重は断髪した。最初は脇差を持って自分で黒神を切り落とそうとしたがうまく切れないため山本家の近くに住む大目付高木子十郎の娘で後年新撰組の斎藤一の妻となる高木時尾に切ってもらった。八重は城内では三郎さんと呼ばれていた。 夫の川崎尚之介も入城しともに砲撃戦に参加する。 八重はすぐに土佐藩の征軍兵士たちと銃撃戦を行う。 |
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この日会津藩士やその家族で自害したものは二百三十人余に及んだ。 市街戦も激しくその戦死者も四百六十人余を数えた。 約千戸の家屋が焼失したという。(佐々木克「戊辰戦争」中央新書1977年) |
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8月23日夜 | 八重は夜襲隊の一員として城外に出て西軍兵士を襲撃する行動を続けた。 | |||
先鋒の土佐藩の勇将たる大総督軍艦の牧野群馬、三番隊長小笠原謙吉、半大隊長祖父江可成、九番隊長三用元介等の隊長連が次々と斃されたという。(阿達義雄「会津鶴ヶ城の女たち」) | ||||
戦場から暗夜雨中を踏み迷い飯盛山に辿り着いた士中白虎二番隊二〇名は城下に上がる煙を落城と見誤り絶望感から自刃してしまう。 | ||||
8月23日〜 | 会津藩主松平容保が防御陣の視察を取りやめて籠城体制を取ることになった。 この日の朝の鶴ヶ城の防御は次のようであったという。 三の丸埋門(老兵十余名、近臣十余名) 三の丸南門(老兵七,八名のち十余名増加) 北出丸(玄武足軽隊) 西出丸(水戸脱兵二十余名) (山川健次郎監修「会津戊辰戦史」) 城下の異変に気付いた藩士たちが政府軍の追撃を受けながら血路を開いて城下に戻ってきた。 政府軍が鶴ヶ城下に突入した時山川大蔵は国境の日光口に出陣していたが会津伝統の彼岸獅子に扮した農民を先に進ませその踊りと音楽に政府軍が引きつけられている間に一気に城に向かって突進し入城を果たした。以後籠城後の指揮を取るが山蔵大蔵の妻とせは焼き玉押さえで受けた傷がもとで落命してしまう。 決死の覚悟で籠城を希望した藩士の家族たちが槍をもって続々城内に駆けつけたという。薙刀をもった娘立ち白虎隊のような少年兵たち街道筋で敗走を重ねた藩士たちが入城した結果城内の人数は四千九百五十六名になった。 城内に残っていた武器は大砲五〇門、小銃二八四五挺、胴乱一八箱、小銃弾二三〇〇〇〇発、槍一三二〇筋、長刀八一振、だったという。 土方歳三に代わり新撰組の指揮を取った斎藤一は会津に残り鶴ヶ城開城の日まで戦い抜く。 |
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薩摩軍は外国との戦いにより大砲や鉄砲などの物量によって戦の帰趨は決まることを理解していて物量差で決着をつけようとしていた。 これに対して会津藩の持つ大砲や鉄砲は限られていた。 山本覚馬は洋式銃法を会津藩でも揃えなければならないとの判断をもちいくつかの手を打っていた。 山本覚馬は父権八から砲術の教えを受け洋式兵器こそ必要だと信念を固めており京都で会津藩士に洋式軍隊の訓練を行っていた。覚馬は会津藩の軍事組織を近代化することを目的に外国の武器業者から密かに小銃などの購入を図っていたが依頼した銃器は会津戊辰戦争時には搬送されなかったという。 |
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入城した女性たちには三つの役目があった。 @兵糧を焚くことすなわちお握りを作ること A負傷者の看護をすること B弾丸を作ること その他井戸の水汲み、兵糧の運搬、汚れた衣類の洗濯、会津藩が一カ月もの籠城戦を戦い抜いた裏には女性たちの必死の支えがあった。 |
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八重は政府軍がうちこんだ四斤砲の砲弾を松平容保の前で分解し説明を加えた。 八重は城内で砲撃の指揮を取っただけでなく銃を担いで場外へ出て政府軍と戦った。 |
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三番目の弾丸作りの補助作業が当時八歳の山川捨松の仕事だった。弾丸となる鉛の玉を蔵から運び出し紙製の弾丸筒に詰められた弾丸を別の蔵に運ぶのである。 政府軍が場内に向けて打ち込んだ弾丸を拾い集めることも捨松たち子どもの仕事であった。 |
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8月28日 | 米沢藩は会津藩と行動を共にするが西軍の戦力を知り最終的に板垣退助の勧告を受け入れて降伏 | |||
9月4日 | 米沢藩が降伏 | |||
降伏した米沢藩藩主上杉斉憲(ないのり)が政府軍への降伏を促す書面を会津へ送ってきた。 | ||||
明治元年 | 9月8日 | 年号が明治となる。 | ||
江戸城へは天皇が入城 | ||||
9月14日 | 総砲撃で約五十門もの大砲が火を吹く 鶴が城を囲む政府軍の数は三万人を超える。 |
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9月15日 | 仙台藩が降伏した。 | |||
9月15日 | 会津藩士は場外に出陣して城南の一ノ堰村に向かい政府軍と激突した。 | |||
9月15日 | 手代木直右衛門と秋月悌次郎が米沢藩の陣所へ向かうことになった。 政府軍の本陣に護送され参謀板垣退助との降伏交渉に入る。 |
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9月17日 | 一ノ堰戦で八重の父権八が戦死した。 享年六十一歳 | |||
9月20日 | 約1カ月の籠城戦の後に会津城は降伏、開城に向けての交渉がまとまる。 手代木直右衛門と秋月悌次郎が白旗を携えて帰城する。 |
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9月20日 | 明治天皇が京都を出発して東海道を経由して東京へ向かった。 | |||
9月21日 | 会津藩は発砲を中止する。 松平容保は家臣一同に開場する旨を伝えた。 |
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9月22日 午前10時 |
北追手門に白旗が掲げられる。 | |||
政府軍は各藩の陣所に発砲停止を命じた。 | ||||
9月22日 12時頃 |
城から家老梶原平馬たちが麻上下姿で大手門前の甲賀町通りに設けられた式場に赴き政府軍の軍鑑中村半次郎(後の桐野利秋)を出迎える。 | |||
その後同じく麻上下姿の松平容保と喜徳が城を出て式場に入ったがお供の家臣ともども丸腰だった。 容保は太刀を袋に入れて家臣に持たせたが八重によれば実は脇差を抜き身のまま家臣の懐に忍ばせており恥辱を受けたならばその場で自害するつもりだったという。 |
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容保は総督府への謝罪書を家老たちは容保父子への寛大な処置を願う嘆願書を連名で提出し式は終わった。 | ||||
9月22日 | 会津城は落城、藩士は離散。 会津藩が明治政府に降伏する。 |
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9月23日 | 会津城開城 明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城にのこす月かげ (八重) |
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山川大蔵は松平容保とともに謹慎の身となる。 | ||||
家老田中土佐と神保内蔵助は自害 | ||||
抗戦を続けた庄内藩も降り奥羽東北も新政府により平定された。奥羽越列藩同盟は消滅 | ||||
9月 | 奥州征伐に参加した長州芸州尾張等諸藩の兵隊の帰りの輸送手伝いが木曽の負担であり伊那や東筑の助郷も加わり人馬が使役された。 | |||
10月13日 | 明治天皇が品川宿を経て江戸城に入った。 この日江戸城は東京城と改められ皇居と定められた。 |
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10月17日 | 内外の政治に天皇自ら携わる旨の詔書が発せられる 若く神聖な天皇はいまだ不穏な政情を鎮めるために重要な存在だった。 |
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10月19日 | 容保父子は妙国寺を出て東京に護送されることになった。 従う家臣は家老萱野権兵衛ら5名のみ |
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11月 | 造船所と製鉄所は11月完成が目標だった。 | |||
11月3日 | 東京に到着した容保は鳥取藩池田家の屋敷に喜徳は久留米藩有馬家の屋敷に幽閉される。 | |||
11月4日 | 明治政府は江戸っ子改め東京市民および近郷の農民に天皇の東京行幸のご祝儀として計三千樽余にものぼる酒を下賜する。 酒を飲むための土器、酒を入れる錫製の瓶子、祝い事に用いられるスルメも下賜した。 |
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11月6日 11月7日 |
明治政府からの指示もあり東京市民はこの両日仕事を休み下賜された新酒を頂戴した。 各町は山車や屋台を出し天皇の東京行幸をお祝いした。 |
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12月 | 対馬藩、朝鮮に遣使 新政府成立通告のため派遣したが受理されず |
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12月 | 猪苗代などに謹慎されていた会津藩士の処分が越後高田と東京に護送されることが決まった。 川崎尚之助は東京に移された。 |
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12月7日 | 容保喜徳父子の処分が決まり死一等を減じ容保は鳥取藩喜徳は久留米藩に永のお預けの身となった。 | |||
12月15日 | 榎本武揚率いる旧幕府艦隊と仙台へ集結した脱走軍諸隊三千は蝦夷地へ渡航箱館と松前江差を掌握 箱館と周辺を平定後五稜郭で士官以上の入札公選で幹部が選出され榎本は総裁に就く。 その体制はわが国最初の共和制といわれる。 榎本武揚は戦いのさ中自軍の敗北を悟り秘蔵の「海律全書」を官軍指揮官黒田清隆に送った。 |
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12月22日 | 明治天皇はいったん京都に戻る。 | |||
1869年 | 明治2年 | 1月 | 横井小南暗殺される。 新政府に登用されていたが京都で暗殺された。 |
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1月 | 薩長土肥四藩主が「版籍奉還」を奏請 領地を表す「版図」人民の「戸籍」双方の文字を取って「版籍奉還」といい領地領民を王土王民として天皇に御返し申し上げ大政を一新する意がある。。 薩長土肥藩主が関所廃止 |
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2月 | 通商司設置 通商・為替会社を置き商業振興や金融業務を行った。 |
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2月24日 | 政府そのものである太政官を東京に移すことが決定される。 | |||
3月7日 | 東京遷都 天皇は再び東京に向かう。 |
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衝鋒隊の隊員古屋佐久左衛門が箱館で戦死。 古屋佐久左衛門は久留米藩士で大坂で医学、江戸で洋学、兵学を学び幕府陸軍の指導者となった。 |
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山本覚馬は幽閉が解かれるがすぐに京都府の顧問的立場となって知事の槇村正直の相談役となった。 山本覚馬はとくに佐久間象山を畏敬していて木屋町で佐久間象山が暗殺されると真っ先に駆けつけたのは山本覚馬だったという。 |
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3月 | 新政府は箱館侵攻を開始 新政府軍来攻の情報を入手し宮古港に「甲鉄」艦が寄港すると見た五稜郭首脳陣は奇襲作戦を企てる。 接舷攻撃による甲鉄艦奪取で仏人軍事顧問団も作戦に協力した。 |
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甲鉄は本来旧幕府が米国に発注引き渡されるはずの装甲艦で戦争勃発で引き渡しが宙に浮いた。 | ||||
中立を解除した米国に新政府がいち早く交渉手に入れた。 | ||||
前年の冬江差沖で当時最新鋭艦の艦隊旗鑑「開陽」を座礁・沈没させたのは榎本以下痛恨の一事でこの作戦で制海権回復を狙う。これが日本海戦史上名を刻む「宮古湾海戦」である。 | ||||
3月20日 | 回天船将甲賀源吾、荒井郁之助、土方歳三、新撰組や彰義隊を乗せ三艦は箱館を出港した。 しかし嵐で二艦は故障、無謀にも回天の単独決行となる。 |
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3月25日朝 | 回天は米国旗を揚げて宮古湾に侵入、目指す甲鉄へ接近日彰旗を揚げた。 しかし外輪船回天は甲鉄左舷に並行できず艦首を丁の字に乗り上げた。回天艦首から甲鉄甲板まで高低差が三メートル高所から飛び降りる斬り込み部隊には苛酷な戦闘となった。 |
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狼狽から覚めた新政府軍のガトリング砲が激射を始めると戦闘は僅か三十分だった。 | ||||
回天は脱出したが死傷者は数十名作戦の発案者で被弾しつつ指揮を執った甲賀源吾も壮絶な戦死を遂げてしまい榎本軍の損失は大きかった。 | ||||
3月28日 | 明治天皇は再び東京に行幸し皇居である東京城に入った。 | |||
京都府は民衆の動揺を収めるため決して遷都ではないと繰り返したが東京遷都の流れは止まらなかった。 京都の人びとの反発を恐れた政府は遷都を公式に表明することができなかった。 |
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天皇が東京にいる以上公家たちも東京に移住しはじめる。 町人も東京や大阪に移住しはじめ京都の人口は激減する。 景気も落ち込んでしまった明治の京都は経済振興による再生が最大のテーマとなる。 |
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4月 | 勧業基立金として京都府に十五万両を貸与した。 勧業基立金は勧業事業を政府直営から各府県に移管する際に公布されたもの |
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4月9日 | 新政府軍は江差の北の乙部に上陸、手薄な守備をつかれて脱走軍は松前へ退却江差は新政府軍が占領した。 | |||
新政府軍は青森からの増援部隊を投入して松前、木古内二股方面から箱館へ進軍する。 | ||||
五稜郭の首脳陣は江差松前の守備兵力を引き上げ大野五稜郭箱館へ集中させる意向だったが松前や木古内攻防戦の現場は士気が高い。その支えが二股峠守備で見せた土方歳三の戦いぶりである。土方は峠に十六の胸墻を築き台場山に砲台、散兵壕を掘る等強固な陣地を作り上げた。 | ||||
4月25日 | 遂に新政府軍は屈し退却した。 しかし戦局は新政府軍優勢に進み脱走軍の拠点は五稜郭と箱館のみになった。 |
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5月11日 | 新政府は箱館を総攻撃 | |||
土方歳三が一本木関門で戦死 | ||||
5月12日〜 | 降伏に向けての工作が始まる | |||
5月16日 | 千代ヶ岱参陣屋で中島三郎助父子が戦死 | |||
5月18日 | 箱館五稜郭に籠って最後まで政府軍に抵抗していた榎本武揚が降伏し名実ともに戊辰戦争は終わる。 | |||
榎本武揚は入獄。 出獄後黒田清隆のひきと豊富な知識・技術を認められ新政府に用いられた。 北海道開拓に従事・のち海軍卿・逓信大臣・文部大臣・農商務大臣等の要職を歴任した。 |
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5月18日 | 会津藩の家老萱野権兵衛が容保の義姉照姫の実家保科家の屋敷で会津を代表する形で処刑された。 | |||
6月 | 諸藩が薩長土肥四藩に追随し「版籍奉還」 各藩主は知藩事に任じられた。知藩事は管轄地と人民(かつての領地領民)を支配する地方官である。 旧藩主は華族に藩士は士族になった。 |
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7月 | 廃藩置県 | |||
8月24日 | 遷都反対運動が激しくなり旗を持った千人ほどの町人が御所に押しかける。 | |||
9月 | 初代兵部省大輔大村益次郎暗殺される。 | |||
9月28日 | 松平容保が赦免された。 会津松平家の家名も再興となる。 容保は側室との間に容大(かたはる)を儲けていた。 |
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10月 | 政府は右大臣岩倉具視を特命全権大使として米欧12カ国を歴訪する使節団を派遣 参議木戸や大蔵卿大久保工部大輔伊藤ら政府首脳が参加し視察回覧は1年10カ月に及んだ |
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この間留守政府によって参議大隈重信が「鬼の留守に洗濯」と揶揄するほど急進的な改革が進められた。 地租改正に着手し封建的身分制度の撤廃、学制、徴兵令、新橋・横浜間鉄道の開通等のあらゆる面での近代化が進められた。 |
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11月4日 | 容大(かたはる)は家名の相続を許され陸奥の国の旧盛岡藩南部家領において三万石が与えられた。 会津藩は斗南(となみ)藩として生まれ変わった。 会津藩士たちによる御家再興運動が実を結んだのだ。 |
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会津藩は所領二十三万石を没収され改めて三万石を与えられたが奥羽越列藩同盟に参加した東北諸藩の大半も同じく減封処分を受けた。 伊達家は六十二万石から二十八万石 南部家は二十万石から十三万石に減封された。 |
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会津藩の新たな所領は現在の青森県下北郡上北郡三戸郡岩手県二戸郡の一部にあたるがその大半は下北半島にあった。 | ||||
この下北の地に東京や高田そして会津の地から藩士とその家族一万七千人余が向う予定だった。しかし大幅に減封され財政難に苦しんでいた会津藩としては藩士全員を移住させることは無理で四千三百戸余のうち移住できたのは二千八百戸にとどまった。 残りは会津にとどまって自活あるいは出稼ぎにより生計を立てていく。 |
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謹慎の身であった山川大蔵は赦免され会津改め斗南藩の大参事として下北半島に向かった。 | ||||
1870年 | 明治3年 | 1月 | 大教宣布の詔勅 国民が天皇を敬い勤王奉公の精神教育の教化 |
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会津藩士が斗南藩士として集団移住を開始した。 | ||||
産業基立金として十万両を京都府に下賜する。 産業基立金は京都再生のための資金で京都だけに適用された特例なのである。 京都府は前年の勧業基立金とこの産業基立金を運用することで明治政府のスローガンでもあった殖産興業を推進していく。 その中心となったのが権大参事として府の実権を握る長州藩出身の植村正直であった。 |
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殖産興業とはつまりは欧米の最新技術を日本に導入することである。植村正直は殖産興業を実践するに際し欧米の事情に通じた山本覚馬の知識を活用しようとした。 | ||||
山本覚馬が薩摩藩に提出した管見を通じてその卓見ぶりが政府内で知られるようになっていた覚馬は植村の知恵袋として京都の勧業政策をリードしていく。 | ||||
岩崎弥太郎は土佐藩と合弁で九十九商会を設立。 | ||||
4月 | 会津藩の藩士や家族の移住が始まるが八重は斗南(となみ)には行かず会津にとどまる。 東京にいた尚之助は斗南藩士として下北の地に向かった。 |
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● | 八重は女性だけになった山本家の家計を支えるため会津から米沢の米沢藩士内藤新一郎方に出稼ぎに出向くことになった。 | |||
会津藩士とその家族一万人以上が向った下北半島の新たな所領は三万国の収穫があるはずの土地だったが実際の収穫は七千石に過ぎなかった。 |
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回顧録(石光真人[ある明治人の記録]中公新書1971年)にはいかに斗南の地で藩士たちが過酷な生活を強いられたかが連綿と語られている。 | ||||
4月14日 | 覚馬は京都府に登用された。 京都府権大参事として府の実権を握る長州藩出身の槇村正直の顧問のような形で京都府の勧業政策の立案にタッチしていく。 |
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9月 | 「藩制」で諸藩に政府への海陸軍事費納入を割り当て士族の家禄の大幅な削減を行った。 | |||
戊辰戦争と続く凶作さらに過酷な増税で農民一揆が各地で勃発財政破綻に陥り自ら廃藩を申し出る藩が出た。 | ||||
薩摩等の維新の功労藩は恩を仇で返される如き改革に藩内に憤懣が高まり西南に割拠し政府を批判する状態となる。 | ||||
大久保と岩倉らは薩長土三藩に赴き政府の提携を確認三藩兵を御親兵へ取り立て政府との融和策を取る。 | ||||
12月 | 新律網領を布告 14律192条からなる刑法 |
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12月 | 京都府は河原町にあった旧長州藩邸内に舎蜜局を設置 舎蜜とはオランダ語で化学を意味する言葉 舎蜜局ではビール・石鹸・ガラスなどの生産のほか印刷・写真技術の研究、薬品の製造、水の分析なども行われた。 舎蜜局の局長は京都の薬屋の息子で覚馬が京都詰め時代に会津藩の藩校として開設した洋学所の学生だった明石博高であった。洋学所は他藩士にも門戸を開いていた。 |
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1871年 | 明治4年 | 元旦 | 山川大蔵の弟山川健次郎は政府の派遣留学生に選ばれて渡米する。四年間エール大学で学び物理学の学位を取得した。帰国後は東京開成学校の教員となり同校が東京大学に改組されると二六歳で東大最初の物理学教授となる。山川健次郎は四八歳の時東京帝国大学総長に就任する。 | |
米沢藩士の内藤新一郎方に八重とその母そして姪のみね、山本家に入っていた奉公人の女性の一族四人で身を寄せて出稼ぎとある。八重の身分は川崎尚之助妻とある。 (福島民報の2011年11月26日付で会津若松市立会津図書館の館長だった野口信一氏が紹介している。同志社大学校友会の刊行する同志社タイムズ2011年11月15日号。) |
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2月10日 | 舎蜜局の隣に京都府の勧業事業を統括するセンターとしての役割を果たす勧業場が設置される。 | |||
散髪、脱刀令 牛肉屋が出現 椅子やテーブルの習慣が生まれる。 |
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4月 | 養蚕場の設置 | |||
すでにアメリカなど四カ国には弁務使館が置かれていた。 弁務使とは公使相当の外交官のことである。 アメリカには初代小弁務使として薩摩藩出身の森有礼が着任するが薩摩藩派遣の留学生としてイギリスやアメリカで学んだ経歴を持つ森は西洋文明やキリスト教にも理解が深かった。 よって新島襄には好意的で有力な支援者となっていく。 |
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5月26日 | 森有礼の奔走により新島襄は外務省から米国留学免許状を公布される。 海外旅行券も交付された。 |
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北会津郡役所の戸籍に尚之助の妻として八重の名前が記されていることが判明した。(「福島民友」2011年11月26日付紙面) | ||||
三年前の鳥羽伏見の戦いの折政府軍に捕らえられ処刑されたと伝えられていた兄覚馬が京都で生きているという話が八重のもとに飛び込む。 | ||||
覚馬の家は河原町の御池にあり舎蜜局や勧業場に近かった。槇村の家のすぐ隣でもあった。 | ||||
7月14日 | 廃藩置県の詔 全国の知藩事を召集し三条実美が詔書を読み上げ廃藩置県は断行された。は断行された。 明治政府は藩を廃止して中央管下の府と県を置いた。 太政大臣に三条実美、参議に西郷、木戸、板垣、大隈の薩長土肥が席を占める新体制のもと中央集権化が進められた。 全国は三府七二県に編成された 廃藩置県により大名(藩主)と家臣(藩士)という主従関係は公的にはなくなった。 大名は華族に列せられ天皇を守る藩屏として位置づけられていく。 知藩事は東京居住を義務づけられ政府任命の新県令が替わって赴任した。 斗南藩も消滅する。 |
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斗南藩主松平容大は東京居住が義務づけられ斗南の地を去る。 | ||||
斗南藩も消滅する 藩が消滅した以上政府の官吏となるかあるいは在野で生きるしか道は残されていなかった。 小参事として藩首脳部の一人だった広沢安等のように斗南に残って牧場経営に成功する者もいたが藩士の大半は斗南を去り東京や会津に移り住んだ |
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大参事を務めた元家老山川大蔵(当時は浩と名乗る)は陸軍省に入る。 |
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川崎尚之助は藩士たちが飢えに苦しむ姿を見過ごすことができず同じ斗南藩士の柴太一郎とともに函館に向かう。 柴太一郎は[ある明治人の記録]という回顧録を残した柴五郎の実兄にあたる。 川崎尚之助と柴太一郎が函館に向かったのは藩士たちに支給する扶持米を調達するためだった。 |
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川崎尚之助と柴太一郎は貿易商米座省三のの仲介で函館駐在のデンマーク領事ブリキストンとの間に藩内で収穫予定の大豆と外国米を交換する契約を結ぶ。 ところが仲介人の米座が違約して逃亡したためブリキストンは斗南藩を相手取り賠償請求の訴訟を起こす。 賠償金の支払いなど藩に迷惑がかかるのを恐れた尚之助と柴は自分たちが独断で契約を結んだと主張してしまう。 |
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この係争は長期化する。 間もなく斗南藩も消滅したため頼るべき藩もなくなる。 裁判は東京で行われることになり二人の身柄は東京に移された。 |
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岩崎弥太郎は廃藩置県により九十九商会を解散し藩船の払い下げをうけ大阪に三つ川商会のちの三菱商会を設立して海運業を続けた。 台湾征討や西南戦争等に軍事物資を輸送、また参議大隈重信に後援され政府から船舶の払下げを受け海運界に独占的地位を占め三菱財閥の基礎を作った。 |
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10月 | 八重は京都へ向かう 兄嫁のうらは京都へ行くことを拒んだ。 藩主容保が京都守護職を長く務めたことで長い別居生活が続きそのうえ当時覚馬には身の回りの世話をする時恵という女性がおり時恵との間に久栄という娘も生まれていた。 八重、母の佐久、姪のみねの三人は京都にいる覚馬のもとへと向かった。 |
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11月 | デービスはアメリカンボード伝道会社派遣の宣教師として神戸に来任し神戸地方での伝道に成績を上げるとともに有力な英学校を営みキリスト教伝道学校も開くとある。 | |||
11月12日 | 岩倉具視が明治政府の特命全権大使として遣米欧使節団が横浜を出港した。 使節団は参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務小輔山口尚芳ら四名の副使と随行員留学生四十九名等で総勢百七名。 幕末に日本と条約を結んだ十二カ国へ一年九カ月もかけて赴きその文明の実態を探る旅だった。 留学生には津田塾大学の創立者津田梅子(八歳)、山川捨松(十二歳)ら官費女子留学生五名、中江兆民、金子賢太郎もいた。 |
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岩倉使節団とともに渡米した山川捨松たち女子留学生五名の留学期間は十年間と定められていたがそのうち二人はホームシックに罹りまもなく帰国する。 よって山川捨松、津田梅子、幕臣永井久太郎の養女繁子の三人がアメリカで十年間留学生活を送ることになる。 |
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津田梅子の父親津田仙は佐倉藩士の息子として生まれたが幕臣津田家の養子に入り幕府使節団の通訳として渡米経験もあった。 津田仙は明治維新後はサラダ用の西洋野菜を栽培する傍ら学農社という農学校の創立や「農業雑誌」の創刊を通じて西洋の農法の普及に努める。 津田仙もキリスト教徒である。 |
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新島襄は自宅の家庭菜園でイチゴなどを栽培したがその苗は津田仙から取り寄せたものだった。 | ||||
熊本藩では肥後実学党が提出した建白書により洋学校が開かれた。 長崎にいた宣教師の推薦で元軍人で宣教師でもあるリロイ・ランシング・ジェーンズをメリーランド州から招いている。 |
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ジェーンズは軍人らしい規律、英国式の人格教育、高度な専門知識を与えることを目的に五十人の青年を集めた。(応募者は五百人) | ||||
12月 | 製革場の設置 | |||
12月6日 | 遣米欧使節団の一行はサンフランシスコに上陸した。 | |||
1872年 | 明治5年 | 帽子の流行 ビールの流行 新橋―横浜の間に鉄道開通 太陽暦が採用される。 |
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2月 | 兵部省を廃止して 陸海軍省を設置する。 | |||
2月 | 東京に官立女学校が設立される。 | |||
2月 | 京都に牧畜場の設置 | |||
2月17日 | 島崎藤村誕生 | |||
3月1日 | 明治政府の指導者をはじめ将来を担う官僚や教育者さらには留学生で構成された遣米欧使節団はサンフランシスコからロッキー山脈を越え大陸を横断し二十九日をかけて開拓精神旺盛な米国の首都ワシントン到着 出迎えたのは駐米弁務使の森有礼らだった。 森有礼が使節団の理事官である尾張藩出身の文部大丞田中不二麿に新島襄を紹介した。 |
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1872年〜 1873年 |
3月〜 9月 |
新島襄は森有礼からの要請にこたえて岩倉使節団から協力を求められ文部官僚らとともに教育に関する調査全般の視察に同行する。 新島襄はアンドヴァー神学校に休学届を出して協力した。 使節団とともにアメリカだけでなくイギリス・フランス・スイス・ドイツ・ロシア・オランダなど西欧諸国の教育事情の視察にも同行して通訳の任にも就いている。 その間副使の木戸孝允と親交を取り結び信任を得ることに成功する。 |
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大久保利通と伊藤博文はワシントンで条約の改訂交渉を行おうとしたらアメリカ政府から「天皇の信任状がない」と断られたため急遽日本に戻って信任状を持ってくることとなり新島襄が使節団に随行する時は団の中に入っていなかった。 | ||||
3月 | 西本願寺などを会場として八十日間の会期で博覧会が開催された。 覚馬はドイツから輸入したものの倉庫に眠っていた印刷機に目をつけ案内記を大量に印刷しようと目論む 印刷された英文の案内記は四十八ページにも及び活字を拾うのが八重の仕事だった。(青山霞村[山本覚馬]同志社1928年) |
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4月 | 公家の九条家の屋敷跡に女紅場が設置された。正式には[新英語場及び女紅場]という。 明治に入ると公家や大名は華族に列せられ一般の武士は士族と呼ばれるようになるが華族や士族の娘に英語や手芸などの技術を教授する学校として設置されたのが女紅場いわゆる女学校である。 京都の女紅場は日本で二番目の公立女学校である。 開校時教師は男女十名ほどで生徒は七十八人だった。 教師には外国人もいてイギリスのイーバン夫妻が英学を教えている。 女紅場では裁縫・機織・袋物・押絵など実用的な手芸が教授されたがそのレベルは非常に高かった。 西陣一流の機織師が指導に当たり希望すれば西陣の特産品として知られる綴れ錦の織り方も教授された。 裁縫は市内一流の仕立師お茶は千家活け花は池坊家が教えた。 |
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京都にやって来た八重は覚馬が推進する京都の勧業事業の一つとして設置された女紅場(府立第一高等女学校の前身)に権舎長兼教導試補として勤めた。 権舎長つまり寮母として寮生の世話をするとともに授業では機織を指導した。 |
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後に八重は同志社女学校でも小笠原流の礼法を教授する。小笠原流の礼法とは江戸時代に幕府や諸藩がこぞって採用した武家の礼法である。 | ||||
6月 | 京都に製糸場を設置 | |||
9月 | 新橋・横浜間に鉄道が開通する | |||
11月 | 2月に東京に設立された官立女学校は東京女学校と改称された。 | |||
12月 | 遣米欧使節団は産業革命の成功と世界相手の貿易で強大な富国となったイギリスロンドン到着 | |||
1873年 | 明治6年 | 1月 | 徴兵令が発布 | |
野球が輸入される。 暑中休暇が始まる。 廃藩置県断行の年散髪と廃刀の自由を布告したがなかなか浸透しないのでこの年天皇自ら洋装断髪の写真を撮影、新しい時代を演出した。 |
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明治新政府は外国との外交交渉や交流を進めていく中でキリスト教を禁止しておくわけにいかずキリスト教を禁教とする布令の撤回を行う。 | ||||
小野組転籍事件 小野組は京都を基盤とした江戸以来の豪商だったが明治維新後は東京に本拠を移して為替や銀行などの業務を営む。ところが業務に必要な戸籍謄本を本籍を置いていた京都からいちいち取り寄せなければならなかった。 |
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2月 | 遣米欧使節団はブリュッセル到着 めまぐるしく政体が変わり市民自治の崩壊の根を残すフランスほか各国を巡覧した。 |
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3月 | 遣米欧使節団はハーグを経てベルリン到着 普仏戦争の勝利から一大帝国へ躍り出たビスマルクの率いるドイツは小国日本が国家像を模索する上で大きなヒントになった。 |
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4月 | 遣米欧使節団はペテルブルグ到着 | |||
4月 | 小野組は京都府に対して転籍を願い出る。 戸籍を京都から東京に移そうとしたわけだがその拒否に遭う。京都府としては小野組ほどの豪商が転籍してしまうと今後租税収入に支障が出るとの判断があった。 何かの際に御用金という寄付金を要請できなくなる懸念もあった。これは槇村の意志でもあった。 |
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小野組は府の姿勢に憤慨し転籍を認めるよう京都の裁判所に訴訟を起こす。裁判所は転籍願いに応じるよう命じたが府はこれに応じずついに司法権を掌る司法省と全面対決に発展する。 | ||||
東京で開廷された臨時裁判所に出廷した槇村はその態度が不遜とされて身柄を拘束されてしまう。 その裏では司法省に強い影響力を持つ参議の江藤と槇村の後ろ盾になっていた同郷の参議木戸孝允との対立抗争が蠢いていた。 |
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当時覚馬は東京にいて槇村の窮状を救うため右大臣岩倉具視や参議の木戸・江藤など政府有力者を歴訪した しかし覚馬は失明しておりさらに脊髄の損傷のため自力歩行できないため八重が絶えず付添っていた。 覚馬が人力車を降りる時は肩に掛けて座敷まで連れて行った。覚馬は若い頃二十二貫(八十二,五キロ)もあったという。 |
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八重は岩倉たちの印象を次のように語る。 岩倉は八重に非常に丁寧に対応したという。 木戸も居心地の良い人と好印象だった。 江藤の印象は悪かった。覚馬の話を真面目に聞く様子はなかったという |
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5月 | 遣米欧使節団はコペンハーゲン、ストックホルムを経てローマに到着 | |||
6月 | ウィーンに到着ベルンに赴く | |||
9月 | 召喚命令で大久保利通、木戸孝允が一足先に帰国したが他の遣米欧使節団は一年十カ月に及ぶ旅を終えて帰国した。 | |||
1873年〜 1874年 |
9月〜 10月 |
新島襄は再びアメリカに戻ってきてアンドーヴァー神学校に復学 | ||
1873年 | 9月20日 | 覚馬は江藤に意見書を提出 司法省内部に設置した臨時裁判所の担当裁判官に槇村と対立する京都裁判所の裁判官を起用しそのうえ姓名も開示しないのは裁判の公平性という点で如何なものかと糾弾したのだ。 |
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10月14日 | 参議西郷隆盛の自ら韓国派遣を望む主張は一端可決された。 | |||
10月24日 | 突如西郷の韓国派遣を不裁可とする勅諚が出た。 西郷隆盛が征韓論論争に敗れ参議を辞職し鹿児島へ帰国 江藤新平、板垣退助ら五参議も下野する政変へ発展した。 近衛兵や官僚のうち薩摩や土佐出身の者が続々と辞職、後を追った。 |
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征韓論に敗れた西郷や江藤たち参議が辞表を提出したのに乗じて政府のトップである岩倉は槇村釈放という政治決断に踏み切る。 | ||||
これに抗議して司法大輔福岡孝悌たち司法省高官は総辞職した。 | ||||
当時岩倉は大久保や木戸と連携して征韓論を葬り去る役割を演じていた。征韓論をめぐる岩倉・大久保・木戸と西郷・江藤たちの政争が岩倉側の勝利に終わったことで槇村は救われた。贖罪金の支払いで一件落着となった。 覚馬の東京滞在は五カ月にも及んだ |
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岩倉具視は帰朝後西郷隆盛らの征韓論に反対した。 欽定憲法の制定に執着したが実現を見ずに没した。 |
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11月 | 内務省を設置 大久保利通らは輸出用製糸紡績の官営模範場を設立。 |
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12月 | 政府は「秩禄送還」の法を公布 | |||
12月2日 | この年の12月は2日で終わり | |||
1874年 | 明治7年 | 1月1日 | 翌朝は太陰暦から太陽暦への変換で1月1日となった。 | |
1月 | 征韓論に敗れた 板垣退助、江藤新平、大隈重信、副島種臣は愛国党を結成 | |||
木曽御嶽山の女性の7合目以上の登拝が解禁された 。頂上の発登拝は江戸吉原の遊女の団体だったといわれる。 | 板垣退助は政府の専横を非難し江藤新平・後藤象二郎らと民選議院設立建白書を提出した。 板垣退助は高知に帰り立志社を設立して自由民権運動を始めた。 板垣退助は国会開設の詔が出ると自由党を結成してその党首となり全国を遊説した。岐阜で暴漢に刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したのはこの時のことである。 のち大隈重信と憲政党を結成隈板連立内閣を組織し内相となった。晩年は政界を引退し社会事業に尽くした。 |
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征韓派参議の下野は不平士族を刺激し右大臣岩倉の襲撃事件が起きた。 | ||||
下野した佐賀の江藤新平は留守政府の急進的改革の立案者で藩閥の汚職を裁く司法卿だった。 政府の主導権を握る大久保利通、長州閥にとっては征韓問題を機に葬りたい政敵である。 |
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内務卿大久保利通は佐賀へ新県令として岩村高俊を送り込む。戊辰戦争時、新潟小千谷で長岡藩家老河井継之助との会談を決裂させた岩村である。 | ||||
新島襄はこの年学業を終えた。 | ||||
2月 | 大久保利通の狙い通り岩村の挑発に乗って決起した佐賀県士族を止めることが出来ず江藤新平は佐賀の乱を引き起こした。 圧倒的な兵力の政府軍の前に反乱軍は大敗、江藤は鹿児島の西郷を頼るも西郷は拒否した。 |
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3月27日 | 江藤新平は逃亡先の土佐で捕縛、佐賀へ連行され形だけの裁判で判決後即座に処刑梟首された。 | |||
佐賀の乱の鎮圧後、内務卿大久保利通の主導で政府は富国強兵策を推進する。 | ||||
台湾に漂着した琉球漁民の殺害事件その他の責任追及を口実に政府は台湾出兵を決定した。 | ||||
英国公使・米国公使・他の参議らの反対にあい沙汰止みになる。 | ||||
5月22日 | 長崎で出兵準備に当たった西郷従道は出兵を強行。 。長崎より薩摩藩士編成の兵三千を率いて軍鑑2隻で台湾に出兵し台湾・社寮港に集結、軍事行動に出た。 先住民地区制圧し戦死者十二名、マラリアによる病死者多数を出した。 |
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全権代表大久保が北京入りし交渉にあたるが交渉は難航、英国駐清公使の仲介により清国は日本の台湾出兵を認め償金五十万両を払い日本は撤退することで合意した。 | ||||
5月 | 新島襄はマサチューセッツ州の教会で初めて説教を試みる。 | |||
6月 | 北海道屯田兵制度の設置 北海道の開拓と外国からの警備が目的だった。 |
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7月2日 | 新島襄はアンドーヴァー神学校を卒業 | |||
10月9日 | 新島襄はその後の三ヶ月間は自らの宗派アメリカン・ボードの年会などに出席日本に帰ってからの教育機関の設立への協力を訴える。 アメリカン・ボードの大会で新島襄は劇的な訴えを行い将来同志社創立への財政的な面での第一歩となった約五千ドルの寄付金を即座に得たという有名なエピソードが残っている。 |
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この演説は十五分ほどだったが次のような内容であったと「同志社百年史」に書かれている。 「この国「アメリカ」のキリスト信者達が自分たちの財のほんの少しの部分でも与え続ければ私の祖国の同胞達は生命のパンで養われることでしょう。我が祖国はおよそ三百人ばかりの留学生を世界の各地に送って彼らの力の及ぶかぎりの最善のものを学ばせようとしました。しかし残念なことにこれらの学生達の大部分はヨーロッパの無神論者の影響下にあります。私達が必要とするのは単なる教育ではありません。私達は我が国民のための霊的な教えを必要とするのです。」 |
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この演説が終わるとバーモント州の知事が起立して千ドルの寄付を約束し学者企業経営者などの有力者が相次いでそれに応じ五千ドルがすぐに集まった。資産家ばかりでなく老いた農夫が二ドルを取り出し「これは今日ここから帰る汽車賃である。君の演説を聞き熱烈な愛国心に感激した。私は老いてはいるが徒歩で帰ることができる。これを学校建設の費用に使ってほしい」と新島襄の手に握らせたという。 | ||||
10月31日 | 新島襄がサンフランシスコを出航する。 | |||
11月26日 | アメリカでキリスト教について知識をつみアマースト大学やアンドーヴァー神学校で学んだ新島襄が日本にキリスト教精神にもとづく人材養成の教育機関を創立したいと考えて帰国した。 正式の牧師の資格を得ていた新島襄は米国伝道会社に所属する宣教師の一人として帰国した。 いったん故郷安中に戻った新島襄は東京や横浜で用事を済ませた後大阪へ向かう。 |
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1875年 | 明治8年 | 1月22日 | 宣教師として大阪に向かうことになった新島襄は大阪の外国人居留地に住む宣教師ゴードン宅に身を落ちつける。 | |
3月20日 | 川崎尚之助肺炎のために東京の病院で死去。享年三十九 浅草寺近くの称福寺に葬られたという。 |
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4月上旬 | 京都知事の槇村正直の紹介で山本覚馬と新島襄が知りあう。新島襄が山本覚馬にキリスト教主義の学校を設立したいと伝えると山本覚馬はすぐに諒解して協力者となっている。新島襄を槇村正直に紹介したのは木戸孝允であり山本覚馬に紹介したのは勝海舟だったとの説もある。(青山霞村[山本覚馬]) | |||
覚馬は新島襄に京都で学校を創立するよう熱心に勧める。 新島襄はその助言に従い覚馬が所有する相国寺門前の地所五千八百坪を五百円(五百五十ドル)で譲り受け敷地とした。 この地所は覚馬が幽閉された薩摩藩の二本松屋敷跡だったが後に覚馬が買い取ったのだ。現在は同志社大学今出川校舎が置かれている。当時は桑畑だった。 |
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5月 | 日本の軍艦が朝鮮の釜山に入港、軍事演習を行い示威行動に出る。 | |||
5月 | 樺太・千島交換条約調印 | |||
6月初旬 | 京都にやって来た新島襄は宿所とした目貫屋旅館で八重とその同僚の教員二,三人を相手に聖書の手ほどきをした。 | |||
6月28日 | 新島襄は覚馬宅に同居して学校創立の準備を進める。 | |||
8月 | 新島襄が山本覚馬を訪ねてきた。八重が井戸の上に板戸を渡してそこに正座して裁縫をしていたのを見て新島襄は驚くだけでなくこういう度胸のある行為を平然と行いしかも裁縫まで恐れるでもなく続けている八重に興味を持った。 | |||
8月23日 | 新島襄は山本覚馬と連名で「私塾開業願」を提出 | |||
9月20日 | 軍鑑雲揚号の武装端艇が江華島から塩河の奥へ無断で遡航し朝鮮側の砲台から砲撃を受けた。 これは明らかに国際法に違反した日本の挑発行為で三日間の衝突で朝鮮側に戦死三十五名を出す結果となった。 |
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10月 | 新島襄が新烏丸頭町に家を借りる。 | |||
10月15日 | 新島襄と山本八重が婚約 | |||
デービスは妻子と共に京都に移り住み同志社英学校の副校長として教育全般に目を配りづづけた。新島襄のよき理解者であり新島襄にとっては恩人ともいうべき存在であった。 | ||||
11月18日 | 八重の女紅場での勤務はこの年まで続く 八重は勤務先の女紅場で聖書を学生たちに配ったらしい。 八重が女紅場でキリスト教を教えることで親たちが娘を退学させてしまうのではないかと危惧したのだ。 八重が新島襄と婚約したことでさらなる反発を恐れた槇村によって解雇処分を受ける |
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間もなく覚馬も京都を追われる。 仏教徒による排撃運動の結果でもあった。 |
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11月22日 | 私塾開業願が許可された。 | |||
11月29日 | 同志社英学校が設立された。「同志社」は山本覚馬の命名によった。 新島襄の私宅に「官許同志社英学校」の看板が掲げられた。 第一期生募集は同志社社長新島襄を軸に結社人山本覚馬の助力を得ての呼びかけが行われている。 当初は教授のすべてが外国人であったがそれが受け入れられたのも山本覚馬の政治力に依ったのだという。 開校時の生徒数は寄宿生七人通学生一人の八人だった。 男子校だった。 |
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12月 | 同志社英学校にさらに四人の学生が入学した。 | |||
12月 | 日本は全権大使黒田清隆を派遣 | |||
1876年 | 明治9年 | 1月2日 | 八重はディヴィスの子息メルルとともにプロテスタント式の洗礼を受けキリスト教に入信する。その場所は宣教師ディヴィスが借用していた家で公家の柳原前光邸跡地であり現在は国立京都和風迎賓館が立っている。 | |
1月3日 | ディヴィスの自宅において 新島襄と山本八重が結婚 | |||
1月 | 日朝修好条規を締結した。 | |||
3月 | 廃刀令 武士の帯刀が禁止され旧武士の誇りを奪い去った。 官庁で日曜休暇制が実施 |
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4月 | 安中に住む両親や姉そして甥も同居する。 両親たちは離れに住まわせた。 |
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春 | 同志社英学校の学生は四十人に増えた。 | |||
熊本藩が開いた洋学校でジェーンズは初めはキリスト教について語らなかったが三年の教育期間を経て学生たちが英語を理解するようになってからキリスト教を語るようになった。 有志の生徒にはジェーンズの私宅に於いて毎水曜日の夜聖書を講解することにした。 |
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その結果三,四十人の学生は信仰を深めるために「連夜の祈祷会」を開くことになった。この熱心なグループの信仰は世間の目を引くことになる。 | ||||
夏 | 熊本県は洋学校を黙認できなくなり廃校とする。 ジェーンズは解雇され大阪英学校に転出した。 |
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熊本の洋学校の廃校の前にジェーンズはデービスに自らの苦境と学生たちの将来を相談した。 | ||||
デービスはジェーンズを同志社に招こうとしたがそれはできなかった。 然れどもジェーンズに薫陶せられたる新進俊髦の徒三十名は挙って同志社に転学しきった。 |
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8月 | 「 金禄公債証書発行条例」が公布され士族の家禄廃止が決定的になる。政府は歳入の三割にも相当した家禄支出が解消出来る。 一方士族は官職に就く一握りを除き公債を使いきれば困窮と没落しか道はない。 |
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9月 | 覚馬から購入した薩摩藩二本松邸跡地に校舎が新築された。 | |||
9月以降 | 熊本から次々と入学したことで同志社英学校の生徒数は七十名近くに達する。 すでに熊本ではキリスト教主義に基づく熊本洋学校が設立されていたがキリスト教への反発からこの年閉鎖された。そのため在校生の多くが同志社英学校に転校のような形で入学してきたのである。 その一人が徳富蘇峰であった。 |
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9月18日 | 同志社英学校の 新築校舎の捧献式 在校生七十人近くと一般市民が参加した 落成したのは学生の増加に応じて建てた第一寮と第二寮そして食堂であった。 |
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京都府知事の植村正直は当初は同志社に寛容であったが次第に学校運営に口を挟んでくるようになり「学校内で聖書を教えてはならない」と命じこれを守らなければ英学校の開校を認めないと強く要求した。 | ||||
新島襄は「講堂内ではさしあたり聖書は教えない」と植村知事に約束した。しかし学校以外例えば教授個人の家ではかまわないとの保証を獲得していた。 | ||||
10月 | 熊本神風連の乱 旧肥後藩士らは廃刀令に反対して乱を起こした。 |
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10月下旬 | 福岡の秋月の乱が勃発したが政府軍は短期の鎮圧に成功する。 | |||
10月28日 | 長州藩士前原一誠の萩の乱が勃発した | |||
斗南藩で少参事を務めた長岡久茂が呼応して千葉県庁の襲撃をはかる。しかし未然に発覚して捕縛される。 | ||||
下野した西郷隆盛は私学校を設立、士族の憤懣を吸収すべく軍事調練と薩摩武士の精神教育を施した。 私学校急進派を牽制し続発した各地の乱にも西郷は動じなかった。 |
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開校当時は男子校であったが欧米社会の教育事情に通じていた新島襄は女子専門の教育機関も設立すべきと考えていた。 | ||||
10月15日 | 米国伝道会社に女性の宣教師派遣を要請しA・J・ スタークウェーザーが来日する。 スタークウェーザーと八重はディヴィス宅に四〜五名の女子学生を集め英語教育を開始した。同志社による女子教育のはじまりだ。当時は同志社分校女紅場と称した。 |
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当初は旧柳原邸を仮校舎として通学生五人寄宿生五人であったが次第に学生数は増え寄宿生は二十人余に達した。 女学校の最初の生徒はデービスの親友ともなった摂津三田藩主九鬼隆義の姪である。 |
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宣教師ラーネッド宅に京都第一公会、新島襄の自宅に京都第二公会を設立し伝道の拠点とした。 | ||||
12月3日 | 第二公会である新島襄の自宅で八重の母佐久、覚馬の娘みね蘇峰たちが洗礼を受けた。 | |||
12月 | 柴に判決が下った。禁固百日 出獄後柴は青森県下北郡長や福島県南会津郡長を歴任する。 |
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1877年 | 明治10年 | 1月 | 私学校生徒が引き起こした火薬庫襲撃事件は一気に事態を動かした。 | |
槇村正直は京都知事に就任 新島襄の伝道活動に冷淡な態度を取り続ける。 |
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槇村正直に変わって北垣国道が知事に就任すると状況は一変し北垣国道は新島襄の活動に理解を示し市内でキリスト教大演説会を開催することまで許可した。 | ||||
1月30日 | 西南戦争の勃発 | |||
千葉県庁の襲撃が未然に発覚して捕縛されていた長岡久茂が獄死する。 | ||||
2月中旬 | 政府筋による西郷暗殺計画を糾弾するという名目で反乱軍は熊本鎮台に向けて進撃を開始した。 挙兵に反対の西郷隆盛は急進派の側近桐野利秋らに押し切られた。 西南戦争 西郷軍一万三千は熊本城を包囲、政府軍鎮台司令長官谷干城以下兵三千三百は五十二日間の籠城戦を持ち堪えた。 やがて政府救援部隊が南下熊本城北方の要衝田原坂で両軍は激闘激烈な銃撃戦になる。 士族西郷軍に対し徴兵令により組織された政府軍は経験が浅い。白兵戦には警視庁抜刀隊が組織されこれに旧会津藩士が応募積年の恨みを晴らす者もあった。 もと斗南藩士柴五郎の兄四郎もその一人である。 当時陸軍中佐だった山川浩は別働第二旅団に属して熊本城を包囲する西郷軍を撃破し見事入城を遂げる。 会津藩の猛将として知られた佐川官兵衛は廃藩置県後警視庁に入り西南戦争では警視隊を率いて参戦したが熊本で壮烈な戦死を遂げる。 会津に最後までとどまり斗南藩が誕生すると斗南に移住した新選組出身の斎藤一も警視隊の一員として奮戦する。当時の名前は藤田五郎といった。 十七日間の死闘の戦死者は合わせて六千。 西郷軍は熊本を撤廃後、南九州各地を転戦鹿児島へ戻り城山に立て籠もる。 西郷軍残党は三百増派された政府軍は五万に達した。 |
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西南戦争の際赤十字国際委員会をモデルとして博愛社という傷病者救護組織を立ち上げる。敵味方の区別なく傷病者を救護しようとした。 | ||||
京都の女紅場の最初の卒業生に対して教員免状が授与される。 教場のほか構内には寄宿舎も設けられこの年寄宿舎に入っていた女性の数は百人にも及んだという。 |
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4月 | 同志社女学校の生徒たちを受け入れる新校舎が完成 この新校舎は御苑の北隣にある旧二条家の屋敷跡六千坪に建てられた。敷地購入にあたって役所や仏教界からの圧力を避けるために一材木商の名義によって買われた。 |
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4月 | 京都府から女学校として認可された。 | |||
5月3日 | 博愛社の設立が認められる。 総長には東伏見宮嘉彰親王が迎えられた。 |
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9月 | 同志社女学校が開校する。 現在の同志社女子大学の前身である。 校長を務めたのは新島襄。八重も小笠原流の礼法を教える教員として勤務した。 校舎は上京の常盤井殿町にあった二条邸跡に置かれたが建物は二階建て二階が寄宿舎となっており八重の母佐久が舎監を務めた。 |
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9月24日 | 総攻撃の中西郷隆盛は自刃 七か月に及ぶ西南戦争は終結した。 |
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木戸孝允死去 | ||||
1878年 | 明治11年 | 9月 | 開校時に仮校舎を置いた場所に新島襄は自宅を新築する。現在も新島旧邸として保存公開されている。 | |
1879年 | 明治12年 | 2月 | 新島襄が勝海舟にはじめて会う 大学設立の必要性を説く新島襄に勝はこう尋ねる。 新島襄が希望するキリスト教主義の教育を日本全国に普及させるにはどれくらいの年月がかかると考えるかと 三百年かかると新島襄は即答した。 この答えが勝海舟を動かす。 以後二人は新島襄の墓標を勝海舟が揮毫するほどの関係にまでなる。 |
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6月12日 | 同志社英学校第一回卒業式が行われ十五人が卒業した。 | |||
1880年 | 明治13年 | 永井繁子帰国 | ||
4月13日 | 自責の杖事件 | |||
1881年 | 明治14年 | 伊藤博文は木戸孝允・大久保利通なき後明治14年の政変で大隈重信を追放して明治政権唯一の最高指導者となった。 欽定憲法制定・内閣制度実施等により近代天皇制国家を確立し初代総理大臣、枢密院議長として国政を運営した。 近代国家に政党の必要性を痛感し立憲政友会を組織した。 日露戦後朝鮮併合の道をしいたがハルピン駅頭で朝鮮独立党の安重根に暗殺された。 |
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1882年 | 明治15年 | 6月14日 | 山川捨松はコネティカット州ニューヘイブンのヒルハウス高校から名門女子大学として知られたニューヨーク州ポキフシーのヴァッサー大学に進みこの年優秀な成績で卒業し学士号を得る。 | |
山川捨松は帰国までの間コネティカット看護婦養成学校に入学し看護婦として必要な衛生学の基本的知識を学ぶ。 | ||||
7月3日 | 新島襄は徳富蘇峰、湯浅吉郎、奥亀太郎、横井時雄ら六人とともに中山道の旅に出るために京都を出発した。 徳富蘇峰はその自伝の中に『困った事は寄れば触れば新島先生が余に向かって説教せらるる事であった。鳥居峠を登る頃などは日は已に暮れて嶮しき山坂を先生の説教を聞きつつ夢中になって過ぎた]と書いている。 |
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新島襄はこの中山道の旅で徳富蘇峰が記者となり新聞社を興そうとしていることの相談を受け求められるまま東京の著名人たちへの紹介状を徳富蘇峰に託している。 その一人に当時の自由党総理でもあった板垣退助がいる。 |
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東京は自由民権論の中心であり板垣退助はその指導者として多くの人々に人気があった。徳富蘇峰は新島襄の紹介状をもって自由党本部を訪ねている。 | ||||
この旅で新島襄は安中に入り八重と落ち合う。 徳富蘇峰らはそのまま馬車で東京に向かったという。 |
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7月27日 | 高崎太田、佐野、栃木、鹿沼を経て宇都宮、日光見物そして7月27日に会津若松に入ったという。 | |||
7月 | 新島襄は八重と共に会津を訪れた。 このとき新島襄と八重は旧米沢藩をも訪れている。米沢藩は八重が母さくそして覚馬の娘の三人で会津戊辰戦争のあとに身を落ちつけた地であった。ここに二年半ほど滞在した後に京都にいる兄覚馬を頼って米沢の地を離れる。 |
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10月31日 | 山川捨松と津田梅子が帰国の途に就く | |||
11月7日 午前9時 |
新島襄[同志社大学設立の主意の骨案] この草案を終るの記述がある。 |
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11月21日 | 山川捨松と津田梅子の乗船したアラビック号が横浜港に入港し二人は十一年ぶりに故国の土を踏んだ。 | |||
津田梅子は華族女学校の教員を経て女子英語塾(現在の津田塾大学)を創立した。 | ||||
山川捨松は永井繁子たちと英語演劇クラブを作った。 永井繁子は山川捨松が帰国した直後にアメリカで知り合った海軍中尉瓜生外吉(後海軍大尉)と結婚した。 |
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1883年 | 明治16年 | 1月25日 | 披露パーティに永井繁子の実兄にあたる三井物産社長益田孝から上演依頼の話が舞い込んできた。 益田孝の御殿山邸で山川捨松たちはシェークスピアの「ヴェニスの商人」の最後の二幕を余興として演じる。 山川捨松が主役のポーシャを瓜生がアントニオ永井繁子の弟益田英作がシャイロックを演じた。 披露パーティに招待された観客の中に薩摩藩出身で洋行経験もある陸軍卿大山巌がいた。 |
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その後しばらくして前妻を亡くしたばかりの大山巌から山川捨松を大山の後妻にという申し込みが山川家に入る。 | ||||
山川家では大山からの申し込みを断る。 会津藩士にとっては薩摩藩は長州藩とともに宿敵の間柄だ。 |
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しかし大山は従兄弟にあたる西郷隆盛の弟従道が間に入る形で説得し山川家も捨松本人の気持ちに任せるという線まで軟化した。 | ||||
八重の母さくはこの年まで同志社女学校の舎監を務めた。 | ||||
4月 | 同志社は大学設立の計画を発表する。 | |||
新島襄は二回目のアメリカ訪問をする。 此の時アメリカのウィスコンシン州で刊行された雑誌(「ノルス・ウィスコンシン・エパンゼル」)で新島襄と新島襄を支えたハーディーについて特集を組んだ |
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5月 | 盟友西郷隆盛を断腸の思いで死に追いやった大久保利通も東京紀尾井坂で暗殺された。 | |||
11月8日 | 山川捨松は思い悩んだ末大山巌と結婚式を挙げる。 | |||
11月28日 | 鹿鳴館がオープン | |||
12月12日 | 山川捨松と大山巌の結婚披露の晩餐会が鹿鳴館で開かれた。 アメリカ仕込みの捨松のマナーやダンスは外国人記者からも賞賛を浴びる。 |
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1884年 | 明治17年 | 新島襄は京都の政治、経済、教育の有力者五十人余を知恩院に招いて大学設立の計画への助力を求めている。 | ||
捨松はある時有志共立東京病院現在の東京慈恵会病院を訪れた。見たところ病人の看護をするのは男性ばかりで女性はいなかった。看護婦の必要性は病院側も認識はしていたもののその養成所を運営するほどの財力がないのだという。 | ||||
捨松はアメリカで見た慈善バザーを開催し養成所の運営資金を集めようと考える。 | ||||
6月12日〜3日間 | 鹿鳴館を会場として慈善バザーを開催した。 上流階級の婦人たちが品物を売るという日本で初めての試みが評判を呼び八千円の収益を得ることができた。 |
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収益は全額病院に寄付され看護婦の養成費にあてられる。 | ||||
1887年 | 明治20年 | 博愛社は日本赤十字社と名を改める。 総裁に有栖川宮熾仁親王社長には佐野常民が就任した。 社員の多くは華族と呼ばれた旧大名たちであったが社員は無給。社員は社業のため資金の拠出が課された。 |
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6月 | 仙台にあった東華学校の開校式に出席のおり東京で下車したときに松平容保に対面しようと八重は考えたがうまく時間調節ができず挨拶できなかった。 | |||
1888年 | 明治21年 | 4月22日 | 新島襄はは森有礼や木戸孝允の政治要人と親交があり 木戸孝允は明治10年に死去したが同じ長州出身の井上馨はイギリスへの密航経験がありこの井上馨たちから強力なバックアップを受けることができたのは幸運だった 井上馨邸で開かれた政界や財界有志による集会の場で新島襄は大学設立の募金への協力を直接訴える。 政界からは外務大臣を務めることになる陸奥宗光や青木周蔵財界からは渋沢栄一や三井物産社長増田孝たちが出席した。 |
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7月2日 | 八重は担当医から新島襄の病気は全快が覚束ない。 大事なことをそれとなく聞き取っておくようにと伝えられる。 |
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7月19日 | 外務大臣大隈重信の公邸で政界や財界有志による集会が開かれる。井上馨や大隈重信の斡旋もあり出席者からは総額三万千円もの募金を得ることができた。現在の貨幣価値に換算すれば数億円になるという。 | |||
八重にとっては天敵のような存在の徳富蘇峰は当時東京に出て「国民の友」という雑誌を創刊していた。 国民の友の売れ行きは非常によく徳富蘇峰は一躍メディア界の寵児となるが徳富蘇峰はその誌上に資金募集の広告を掲載する。新聞社や雑誌社の記者を集め募金のPRさえしている。 |
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旧主松平容保の嫡男で会津松平家を継いだ容大が同志社に入学する。八重新島襄覚馬そして容大たちが一緒に写っている写真が現在残されている。 容大の同志社入学は会津藩家老職から斗南藩大参事そして陸軍に入って西南戦争で軍功をあげた山川浩からの依頼に基づくものだった。 山川は松平家より容大の教育係を委託されていたが同志社に入学させたのは宗教上の教養を身に付けさせたいと考えたからだ。 |
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皇族や華族など上流階級の婦人で組織された会である日本赤十字社篤志看護婦人会が組織された。 | ||||
明治21年 | 宝冠章が制定された。 | |||
1889年 | 明治22年 | 旧主松平容保の嫡男で会津松平家を継いだ容大が同志社に入学してきたが卒業することなく学習院に転学してしまう。 | ||
10月12日 | 新島襄は大学設立の募金活動のため東京に向かう。 東京では徳富蘇峰仲介の元大蔵大臣松方正義のもとを訪ねて募金への協力を求めている。 その後群馬県前橋へ向かった。 |
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11月28日 | 新島襄は腹痛を訴え募金活動が続けられなくなった。 | |||
新島襄はいったん東京に戻って療養する | ||||
12月27日 | 温暖の地に転地することを決意し神奈川県大磯の百足屋旅館の離れに入った。新島襄は大学設立計画に余念がなかった。各方面に手紙を出している。 | |||
1890年 | 明治23年 | 1月11日 | 激しい腹痛が新島襄を襲う 新島襄はモルヒネ注射を打ちながら手紙を書き続けた。 |
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1月17日 | 1月17日付の手紙が絶筆となる。 | |||
1月18日 | 急性腹膜炎となり容体が急変する。 | |||
1月19日 午後 |
八重をはじめ関係者に病状急変の電報がうたれた。 |
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1月20日 午後11時頃 |
八重は大磯の百足屋旅館に入った。 | |||
1月23日 午後2時20分 |
新島襄は46年の生涯を終えた。 臨終の場に立ち会った蘇峰は八重の手を握って「これまではともかくもこれからは貴女を先生同様と思うから今後は何事も私に御頼り下され」と告げた。(徳富蘇峰「徳富蘇峰」蘇峰自伝) |
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1月27日 午前11時 午後1時 |
自宅で出棺式 同志社礼拝堂前の仮設式場で葬儀が執り行われた。参列者は約四千人にも及んだ。 |
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新島襄の死後八重は新島襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼するがその仲立ちとなったのは蘇峰である。 | ||||
埋葬地は新島襄の父民治が埋葬された南禅寺が予定されていたが前日になって急遽京都市の共葬墓地に変更されている。寺側がキリスト教式の葬儀に難色を示したため洛東つまり鴨川の東に聳える若王子山内の共葬墓地に埋葬されることになったのだ。以後同志社関係者が新島襄の墓所近くに葬られるようになりその地は同志社墓地と称される。八重の墓所もある。 | ||||
4月26日 | 八重が赤十字社の正社員となった。 | |||
11月29日 | 第1回帝国議会が開院 | |||
女性は議員として政治参加するのはもちろん参政権さえ与えられなかった。当初は傍聴することさえ禁止されていた。 | ||||
12月3日 | 傍聴禁止の規定が撤廃された。 | |||
12月17日 | 八重は参議院を傍聴している。 | |||
八重と新島襄の言動は周囲から異端視されたが新島襄とは師弟関係にあった同志社の学生たちは憤慨していた。 八重の態度は新島襄に対して失礼ではないか新島襄が八重にレディファースト的な振る舞いをしても遠慮するのが常識ではないかという批判の急先鋒だったのが熊本洋学校から入学してきた徳富蘇峰である。 徳富蘇峰は八重の身なりや振る舞いについて同志社の演説会などの場で糾弾している。 徳富蘇峰の自伝にどんな考えで八重を批判したかを書いている。(徳富蘇峰「徳富蘇峰」[蘇峰自伝]) 徳富蘇峰は八重について頭と足は西洋で胴は日本の鵺であると評した。鵺とは平安時代に源頼政が討ち取ったと伝えられる伝説上の怪物のこと。頭は猿で胴は狸尾は蛇手足は虎声はトラツグミに似た動物それが転じて鵺は正体不明の人物を指す言葉にもなっていく。 |
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1891年 | 明治24年 | 埋葬当初は新島襄の遺言どおり「新島襄の墓」と記された一本の木柱の墓標が立てられるのみだったがこの年鞍馬石で造られた墓石に代えられた。 その墓碑は勝海舟の揮毫による。 | ||
1892年 | 明治25年 | 山本覚馬が死去 | ||
1893年 | 明治26年 | 八重の母さくは明治十年から明治十六年まで舎監として同志社女学校初期の女子教育に尽くしたとの理由で明治天皇から下賜金を受け取る。 | ||
12月5日 | 松平容保死去 | |||
1894年 | 明治27年 | デービスは新島襄の評伝をニューヨークの出版社から刊行し英語圏に日本人教育者の実像を紹介している。 | ||
1896年 | 明治29年 | 12月 | 八重は日清・日露戦争の功績に対して勲7等宝冠章が授与された。 八重は日清戦争では広島陸軍予備病院で4カ月日露戦争では大阪予備病院で2ヶ月間戦地で負傷して護送されてきた傷病兵の看護にあたった。 赤十字社京都支部の依頼を受けて看護婦を監督する立場でもあった八重は日清戦争のときは京都から引率してきた四十人の看護婦を監督している。 八重は民間の女性としては最初の受賞者の栄誉を担う。 |
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1898年 | 明治31年 | 上野の森の西郷像を高村光雲が建立 愛犬ツンは後藤貞行の作 |
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1901年 | 明治34年 | 山川健次郎は白虎隊士から東京帝国大学総長になった。 | ||
明治35年 | 徳川慶喜公爵となる。 | |||
1906年 | 明治39年 | 4月 | 八重は勲6等宝冠章が授与された。 | |
1909年 | 明治42年 | 新島八重が十一月号の「婦人世界」(実業之日本社)で「男装して会津城に入りたる当時の苦心」というタイトルのもと会津戊辰戦争時の自らの戦いを語った。 | ||
1911年 | 中央線開通 | 藤原相之助の「仙台戊辰史」 | ||
1919年 | 大正8年 | 大山捨松死亡 | ||
1922年 | 大正11年 | 「新島襄 人と思想」の著者魚木忠一が同志社選科を卒業 | ||
1924年 | 大正13年 | 12月8日 | 大正天皇の皇后(九条節子)が同志社女学校を訪れた際に八重は皇后の単独での謁見を受ける。 六十とせのむかしをかたる友もなく あはれさみしきこほろぎのこゑ (永沢嘉巳男「新島八重子回想録」) |
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1928年 | 昭和3年 | 5月 | 八重が会津に里帰りしたとき 訪問したことがある会津高等女学校現福島県立葵高等学校の女子学生たちが修学旅行で京都にやってきた。八重は彼女たちをかつて会津藩士たちが駐屯した黒谷の金戒光明寺などに案内した。 金戒光明寺には京都で散った会津藩士たちの墓所がある。 |
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八十四歳になった新島八重が歴史研究者の平石弁蔵の求めに応じて会津戦争の自らの関わった部分を語る。 | ||||
9月28日 | 駐米大使などを歴任した外交官松平恒雄の長女節子(後に勢津子と改める)と昭和天皇のすぐ下の弟秩父宮雍仁(やすひと)親王との婚儀が発表された。 この御成婚は松平恒雄は容大の弟にあたるため朝敵とされた会津藩の藩主松平容保の孫娘の皇室入りを意味していた。 |
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八重は八十四歳になっていたが上京し松平家に祝辞を述べる。 いくとせかみねにかかれる村雲の はれて嬉しき光をぞ見る |
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1930年 | 昭和5年 | 7月 | 同志社校友友会から刊行された「同志社五十年史」には「明治8年の夏先生と山本覚馬氏の妹八重子との間に婚約成立し翌年一月二日八重子はデヴィス氏邸にて氏の孩児メルル君と共に京都に於ける最初の洗礼を授けられ翌三日先生と八重子との結婚式が挙げられた」と書かれている。 | |
『新島襄 人と思想』の著者魚木忠一は同志社遷科を卒業後アメリカに渡りニューヨークのユニオン神学校、コロンビア大学、さらにドイツのマルブルク大学でキリスト教史や哲学史を学びこの年以来同志社大学教授のポストにあった。 | ||||
秩父宮のすぐ下の弟高松宮宣仁(のぶひと)親王と最後の将軍徳川慶喜の跡を継いだ公爵徳川慶久の次女喜久子の婚儀が発表された。 | ||||
1931年 | 昭和6年 | 6月 | 八重は会津にある菩提寺大龍寺に山本家代々の墓を建立する。 | |
8月8日 | 八重は風邪を引いて以来元気を失う。 | |||
1932年 | 昭和7年 | 5月24日 | 八重は京都附近配属将校研究会から取材を受け主に鶴ヶ城籠城戦について語る。(「新島八重子刀自回顧録」) | |
6月11日 | 大徳寺の茶会に八重出席 | |||
6月13日 | 八重茶会に出席 その帰途急性胆嚢炎を発症 |
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6月14日 午後6時 |
八重の容体急変 | |||
午後7時40分 | 八重死亡。八十六歳 | |||
6月15日 | 八重の納棺式 | |||
6月17日 | 八重の出棺式葬儀、埋葬式。同志社葬 | |||
1933年 | 「 会津戊辰戦史」 白虎隊士から米国に留学、東京帝国大学総長を二度務めた山川健次郎の編纂による会津藩の正史。 |
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1947年 | 昭和22年 | 馬籠に藤村記念館が建てられる | ||
1968年 | 昭和43年 | 白虎隊記念館の創立者である早川喜代次は晩年の徳富蘇峰の顧問弁護士でありこの年「徳富蘇峰」という評伝を書く | ||
1986年 | 昭和61年 | 6月 | 新島襄の墓が不慮の事故で損壊してしまう。 | |
11月 | 「 新島八重のことなど」『同志社時報』八十一 | |||
1987年 | 昭和62年 | 1月16日 | 新島襄が過ごしたアメリカのラットランド産の大理石で再建されたが勝海舟による墓碑は新しい石碑にそのまま刻まれた。 | |
1989年 | 5月30日 | 学校法人同志社が八重の生誕の地に「山本覚馬・新島八重生誕の地]という碑を建立。 | ||
1993年 | 久野明子[鹿鳴館の貴婦人大山捨松]中央文庫 |
参考文献 八重と新島襄 保阪正康
新島八重の維新 安藤優一郎
総図解よくわかる幕末・維新 結喜しはや編
学士会会報 第886号