俳 諧 撰 集

俳諧撰集 編    者 書    名 成  立 内     容
歳旦発句牒      天和2年版 俳諧師として世間に附き合って行くにはとしどしの歳旦帖を出さねばならない慣例であった。歳旦帖は貞徳時代の三つ物から起こった。承應元年家綱が年十一で徳川四代の将軍職に就いた元旦
 御成人の君に来てあふや千代の春 貞徳
   粧り竹にもわたるから鳥   正章
 鍬入る苗代小田の土肥て    西武
貞徳子弟の発句・脇・第三を以てその治世を宿祝した三つ物俳諧が恒例となって、終にはそれを板行して、元旦の市中をふれ賣する三つ物賣といふ商売さえ行われた。
巻頭は桃青。
冬の日 尾張熱田の橿木堂苛兮の撰 その成立が初冬から中冬にかけてであったので名づけられた。 貞享元年
(1684)刊
芭蕉は「甲子吟行」の旅の帰途、貞享元年の冬名古屋へ立寄り、苛兮・野水・杜國・重五・正平・羽笠と巻いた五歌仙と表六句から成る。
芭蕉俳諧七部集の第一集。
(冬の日巻頭歌仙凩の巻の立句)
天和期の漢詩文調の残滓は見られるものの、正風化した安らかな句体・景気(自然の風物を詠んだ句や付合)の句も見える。蕉風開眼の書ともいわれる。
   狂句こがらしの身は
       竹齋に似たる哉
   芭蕉
   たそやとばしる笠の山茶花  野水   (歌仙初雪の巻の立句)
  はつ雪のことしも袴きてかへる 野水   (歌仙しぐれの巻の立句) 
  つつみかねて月とり落す霽かな 杜國
(歌仙炭賣の巻の立句)
  炭賣のをのがつまこそ黒からめ 重五
(歌仙霜月の巻の立句)
  霜月や鸛の彳々ならびゐて  苛兮
(追加六韻の立句)
  いかに見よと難面うしをうつ霰 羽笠
               
春の日 山本苛兮とする説有力。越人とする説もある。 「冬の日」の後を受けて、尾張の人々が巻いた歌仙三巻が、いずれも中春から暮春にかけて催されたので、「春の日」を書名とした。 貞享3年
(1686)刊
本集には、芭蕉の句は連句には見えず、下記の三句が見えるのみである。
芭蕉俳諧七部集の第二集。
冬の日の姉妹(続)編とみなされる。芭蕉は「曠野」の序文で「予はるかにおもひやるに、ひととせ此の郷に旅寝せしおりおりの云捨、あつめて冬の日といふ。其日かげ相続て、春の日また世にかかやかす」と書いている。「冬の日」にくらべて、優艶・柔和な印象は否めない。天和期の漢詩文調の影響を脱した結果、穏やかな表現の中に、事象を細やかに心くばりして観察した句や、雅語・俗語の用い方に注意を示した句など、新しい風潮の行き方を十分に把握した集である。芭蕉の「古池や蛙飛こむ水の音」が挙げてあるので、集の名が高い。
   古池や蛙飛こむ水のをと
   雲折々人をやすむる月見哉
   馬をさへながむる雪のあした哉
(春の日巻頭歌仙伊勢参りの巻の立句。)連衆は苛兮・重五・雨桐・李風・昌圭・執筆の6人である。
  春めくや人さまざまの伊勢まいり 苛兮
(歌仙八重ざくらの巻の立句)連衆は旦藁・野水・苛兮・越人・羽笠・執筆の6人である。
  なら坂や畑うつ山の八重ざくら 旦藁
(追加六韻の立句)
  山吹のあぶなき岨のくづれ哉 越人
  夏川の音に宿かる木曽路哉 重五
               
曠野 山本苛兮 「荒野」から出て、表記を「曠野」としたもの。芭蕉は序文に上略、無景のきはまりなき、道芝のみちしるべせむと、此野の原の野守とはなれるべし」と書いた。 元禄2年
(1689)
3月
実際の刊行は元禄3年か。
蕉風の発句七百三十五句、連句十巻を所載。芭蕉三十五句、
芭蕉俳諧七部集の第三集。
「冬の日」「春の日」が、いささか表現の華美に走りすぎた点を反省して内容も十分に配慮した撰集。許六は、「「曠野」「猿蓑」二集に眼をさらし、昼夜句を探る事隙なし」(俳諧問答)といった。いわば、本書を読破することで蕉風を学んだ。支考は、正風は「曠野」に至って風情をととのえたと評している。
作者は蕉門ならずとも作品本位に、貞門・談林の徒も採録してあるので「猿蓑」や「炭俵」より軽視さるる傾向があるのは選者に対してやや気の毒であるといわれている。
  枯れ朶に鳥のとまりけり秋の暮
  月花もなくて酒のむひとり哉
  橿の木のはなにかまはぬすがた哉
  何事の見たてにも似ず三かの月
  いざゆかむ雪見にころぶ所まで
  二日にもぬかりはせじな花の春
  梅の木になをやどり木や梅の花
  かれ芝やまだかげろふの一二寸
  ほろほろと山吹ちるか瀧の音
  なつ来てもただひとつ葉の一つ哉
  おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
  夕がほや秋はいろいろの瓢かな
  あの雲は稲妻を待たより哉
 きぬたうちて我にきかせよ坊がつま
  冬籠りまたよりそはん此はしら
  から崎の松は花より朧にて
  五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
  星崎のやみを見よとや鳴千鳥
  雲雀より上にやすろふ峠かな
  ひとつ脱で後におひぬ衣がえ
  草枕犬もしぐるるか夜の聲
  寒けれど二人旅ねぞたのもしき
  旅寐して見しや浮世の煤拂
  父母のしきりに戀し雉子の聲
 さればこそあきれたきままの霜の宿 
  ふるさとや臍の緒に泣年の暮
  埋火もきゆやなみだの烹る音
  神垣やおもひもかけず涅槃像
  灌佛の日に生れ逢ふ鹿の子哉
  先祝へ梅を心の冬籠り
  ひょろひょろと猶露けしや女郎花
    (更科紀行に見える句)
  いざよひもまださらしなの郡かな
      (更科紀行にある句)
  おくられつおくりつはては木曽の秋
           更科紀行には
  おくられつ別ツ果は木曽の秋
となっている。

 更科の月は二人に見られけり 何兮
 
これはこれはとばかり花の芳野山 貞室 
曠野集巻の一、花三十句の首位に置かれてある。作者貞室は貞徳の愛弟子。
  目には青葉山ほととぎす初がつほ 素堂
    
曠野後集 何兮撰   元禄6年板 重賴が「毛吹草」に巻頭に載せたため「氷室守」から難じられた「うぐいすも哥機嫌なりけふの春  春可」を再び巻頭にかかげ、貞徳時代の俳風を慕ふが如き態度があるので蕉門の徒から疑惑の眼を投げられ何兮の勘當説となったといわれる。 
此のあたり目に見ゆる物はみなすずし
 ためつけて雪見にまかる紙子哉
 京に居て京なつかしや郭公
ひさご 浜田珍碩
(後の洒堂)
(近江膳所の人)
芭蕉の命名と見られる。『荘子』(逍遥遊篇)の恵施(子)の大瓢の故事無用の用にちなむとともに、当時の芭蕉に胚胎した(かるみ)への思いを託したもの。 元禄3年
(1690)刊
「奥のほそ道」行脚のあとの元禄二年末、翌年春・夏湖南に滞在した芭蕉の指導の下に、同地若手作家によって成った。冬の日五歌仙の体裁に倣っている。
芭蕉俳諧七部集の第四集。
巻頭歌仙の「木のもとに汁も鱠も桜哉」の発句は、芭蕉が「軽みをしたり」(「三冊子」)と漏らした自慢の句である。これを立句(連句の巻頭としての発句のこと)として三吟歌仙を興行したが、意に満たず近江でようやく成就した。本集は、観念的な句作りを拝し、素直な具体的描写に努め、「猿蓑」の先駆として「かるみ」の新風を初めて世に問うたものである。越人の序。
翁・珍碩・曲水三吟歌仙花見の巻の立句
  木のもとに汁も膾も櫻かな
   西日のどかによき天気なり 珍碩
  いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
   うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
  鞍置る三歳駒に秋の来て
   名はさまざまに降替る雨   珍碩
 物おもふ身にもの喰へとせつかれて
   
 月見る顔の袖おもき露 珍碩
いろいろの名もまぎらはし春の草 珍碩
        
猿蓑 向井去来
野沢凡兆
芭蕉監修
其角序
丈草跋
其角序に「これ(初しぐれ猿も小蓑をほしげ也)を元として此集をつくりたて、「猿みの」とは名付け申されける」とある。 元禄4年
(1691)刊
幻住庵の山居より湖畔の無名庵にかけて止まること約一年、芭蕉が風雅の道にその精神を徹した時代、洛の去来・凡兆の二人が、入集する句句に就いて論難をかさねて師の決断を求め,漸くにして共撰の功を遂げたものである。其角の序。跋は丈草。
冬・夏・秋・春の順に蕉門諸家の発句382句を収め、他にも芭蕉の俳文「幻住庵記」、去来の兄震軒の「芭蕉翁国分山幻住庵記の後に題す」、「几右日記」を収める。入集句数では凡兆41句、芭蕉40句、去来・其角各25句、尚白14句、史邦13句、丈草・曽良・羽紅各12句等、入集の作者71人。
芭蕉俳諧七部集の第五集。
古人や他門を編入しない芭蕉一門の撰集で、当時の蕉門作家がほぼ網羅されている。俳諧の古今集と称された。蕉門の円熟期を代表する集。蕉門の俳諧は「猿蓑」がその頂上であるとの通説は容易に動し難いとされる。
   初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
   こがらしや頬腫痛む人の顔
   住つかぬ旅のこころや置火燵
信濃路を過るに
   雪ちるや穂屋の薄の刈残し

 
   から鮭も空也の痩せも寒の内
   人に家をかはせて我は年忘
   野を横に馬引むけよほととぎす
   うき我をさびしがらせよかんこ鳥
   たけのこや稚き時の繪のすさび
   蛸壺やはかなき夢を夏の月
   粽結ふかた手にはさむ額髪
   夏草や兵共がゆめの跡
   這出よかひ屋が下の蟾の聲
   笠島やいづこ五月のぬかり道
   日の道や葵傾くさ月あめ
   風流のはじめや奥の田植うた
   眉掃を面影にして紅粉の花
   ほたる見や船頭醉ておぼつかな
   頓て死ぬけしきは見えず蝉の聲
   無き人の小袖も今や土用干
   文月や六日も常の夜には似ず
  合歡の木の葉ごしもいとへ星のかげ
   桐の木にうづら鳴なる塀の内
   病雁の夜さむに落て旅ね哉
  海士の家は小海老にまじるいとど哉
   むざんなや甲の下のきりぎす
   其春の石ともならず木曽の馬
                  乙州
木曽塚、粟津義仲寺にある義仲の墓。朝日将軍とたたえられた木曽義仲も、範頼・義経の大軍を引受けて敗戦し、壽永三年正月二十日、粟津の原に於て深田に馬を乗入れたために、あへない最後を遂げたのであった。その時乗用の馬は、平家物語によると「聞ゆる木曽の鬼蘆毛」といふ逸物であったが、馬首を没するばかりの深田に入っては、打てども煽れども働かず、義仲は内甲を射られ、痛手に堪へず甲の眞甲を馬首に押當てて俯いたところを、敵の郎黨のために首をかかれたといふことである。その時の馬は、そのまま主人に殉じて石にでもなって了ひそうなものをと、馬に寄せて、一世の梟雄義仲の悲惨な末路を偲び、目のあたりに見るその墓の淋しさに慨然としたのである。
去来の「旅寝論」には、名所の句はその場所その實情を知ることを第一として、句の善悪は第二であるといふ芭蕉の説を掲げて、次に「乙州に、木曽塚の句は勝れたる句にはあらずといへ共、爰をゆるして猿蓑集に入べきよし下知し給ふ」とある。
    
月清し遊行のもてる砂の上
     麥めしにやつるる戀か猫の妻
     かげろふや柴胡の糸の薄曇
     不性さやかき起こされし春の雨
     闇の夜や巣をまどはしてなく鵆
     ひばりなく中の拍子や雉子の聲
     山吹や宇治の焙爐の匂ふ時
     うぐひすの笠おとしたる椿哉
     猶見たし花に明行神の顔
     一里はみな花守の子孫かや
     草臥て宿かるころや藤の花
木曽塚
    其春の石ともならず木曽の馬
                   乙刕   
    春の夜は誰か初瀬の堂籠り                       曽良
             

    行春を近江の人とをしみける

    花とちる身は西念が衣着て
                   芭蕉
      木曽の酢莖に春もくれつつ
                  凡兆

炭俵 小泉孤屋
志太野坡
池田利牛の共編。
芭蕉の独り言「炭だわらといへるは誹也けり」から出た書名。柏木素龍序によると、元禄6年(1693)10月初旬、芭蕉に会した編者らが、火桶を囲んで四吟俳諧に興じた折に、撰集を思い立った。その夜の芭蕉の独り言が、書名の由来となる。 元禄6年板
元禄7年
(1694)刊
6月28日
上・下の二巻。発句総数258句のうち、多く入集した作者は、野坡26句、利牛17句、芭蕉13句、其角14句、嵐説11句などである。
芭蕉俳諧七部集の第六集。
芭蕉晩年の「かるみ」の風、庶民生活を軽妙な観察によって描出し、俗語の自由な使用、蕉風後期の代表的な俳諧集。桜井吏登は、師嵐雪の説として、「翁(芭蕉)の俳諧も「冬の日」に、「春の日」こもり、「曠野」・「ひさご」は「猿蓑」に熟し、扨「炭俵」にしらげ上げたものなり、「続猿蓑」は「炭俵」にあるなり」(『七部捜」宝暦11年刊)と述べている。
「炭俵」の軽みとは発句のことではなく、連句の調子とその運びにあるのであると記されている。
炭俵巻頭、芭蕉・野坡両吟歌仙梅が香の巻の立句
むめがかにのつと日の出る山路かな
       

   喰つみや木曽のにほひの檜物
                   岱水
この檜物は、檜製の白木の重箱でもあろうか、ともかく、新春の食物に檜の移り香のしている新鮮な感じである。「木曾のにほひ」とは、木曽の檜は特産で、匂ひも高いので、檜の香皍木曽を聯想させるからである。
   木曽路にて
 やまぶきも巴も出る田うへかな
                  許六
元禄六年夏、江戸から彦根に帰る道すがらの吟である。木曽路にかかった時、恰度田植時で、女達が出揃うているのを見て、あの中には山吹も巴も交っているであろう、と興じたのである。山吹・巴、何れも義仲寵愛の勇婦の名である。
 
  蓬莱に聞ばや伊勢の初便
   傘に押しわけみたる柳かな
   四つごきのそろはぬ花見心哉
   青柳の泥にしたるる塩干かな
   春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏
   卯の花やくらき柳の及ごし
   うぐひすや竹の子藪に老を鳴
   木がくれて茶摘も聞やほととぎす
   するが地や花橘も茶の匂ひ
   川中の根木によろこぶすずみ哉
   冬枯の磯に今朝みるとさか哉
   鞍壺に小坊主乗るや大根引
   寒菊や粉糠のかかる臼の端
   煤はきは己が棚つる大工かな
続猿蓑 服部沾圃
芭蕉撰
(一説未詳)
後猿蓑
猿蓑後集
元禄11年
(1698)刊
はじめ、服部沾圃が企画撰定した一集があった。芭蕉は元禄七年(1694)西上の旅にこれを携行し、夏から秋にかけて、伊賀で支考と協議し修補した。此筋・千川宛芭蕉書簡にも「続猿蓑板下清書に懸り候」(元禄7年9月17日付)と報じている。しかし実現に至らぬままに、芭蕉は没した。未定稿として伊賀の松尾家に残っていたのである。芭蕉俳諧七部集の第六集。
上下巻より成る。上は連句集、下は発句集。連句集は歌仙五巻。発句集は、春季148句、夏季90句、秋季122句、冬季115句、釈教24句、等計519句。「あら野」(発句735句)につぐ第撰集。
「炭俵」とともに、芭蕉晩年の風調を示したもの。猿蓑を意識して生れた集であるが、表現は平明かつ日常的な次元に重点が置かれている。俗語に関する細かな関心が読み取れる。
巻頭歌仙八九間柳の巻の立句
  八九間空で雨降る柳哉
 許六が木曽路におもむく時
  旅人のこころにも似よ椎の花
許六は江州彦根の藩士であって、芭蕉に私淑して久しく對面の機を望んでいたが、漸く元禄五年八月九日、桃隣の仲介によって、深川の庵を訪ねて師弟の約を結んだのであった。これは翌六年五月、許六の帰国に際しての送別吟である。
「韻塞」には、この時の芭蕉の送別の詞が掲げられてある。

木曽路を経て舊里へかへる人は、森川氏許六といふ。古しへより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ草履に足をいため、破笠に露霜をいとふて、をのれが心をせめて物の實をしる事をよろこべり。今、仕官おほやけの為には長剣を腰にはさみ、乗かけの後に鑓を持たせ、歩行・若黨の黒き羽織のもすそは風にひるがへしたるありさま、此人の本意にあるべからず。
椎の花の心にも似よ木曾の旅
うき人の旅にも習へ木曾の蠅

  顔に似ぬほつ句も出よはつ櫻   
  春もやや気色ととのふ月と梅
  鶯や柳のうしろ藪のまへ
  人もみぬ春や鏡のうらの梅
  朝露によごれて凉し瓜の土
  夕顔や醉てかほ出す窻の穴
  さみだれや蠶煩ふ桑の畑
  窓形に晝寝の臺や簟
  名月に麓の霧や田のくもり
  名月の花かと見えて綿畠
  川上とこの川しもや月の友
  鶏頭や鴈の来る時なをあかし
  老の名の有ともしらで四十雀
  いなづまや闇の方行五位の聲
 まつ茸やしらぬ木の葉のへばりつく
  蕎麦はまだ花でもてなす山路かな
  行あきや手をひろげたる栗のいが
  稲づまやかほのところが薄の穂
  けふばかり人も年よれ初時雨
  菊の香や庭に切たる履の底
  一露もこぼさぬ菊の氷かな
  えびす講酢賣に袴着せにけり
  氅につつみてぬくし鴨の足
  埋火や壁には客の影ぼうし
  盗人にあふた夜もあり年の暮
  ねはん會や皺手合る珠數の音
  家はみな杖にしら髪の墓參
  鮎の子のしら魚送る別哉
  宿かりて名をなのらするしぐれかな
      

句餞別 貞享4年稿 純然たる蕉風躰
江戸を立って伊賀に向ふ芭蕉と別れを惜しんで、諸家の餞別を手抄して置いたものを寛保四年に開板したもの
千鳥掛 蝶羽(酒造家千代倉の本家下郷知足の子供) 素堂の序に「此所は名護や・あつたに近く、桑名・大垣へもまた遠からず。千鳥がけに行き通いて、残生を送らんと」といった芭蕉の言葉を引用している。知足はこの言葉より思いついて「千鳥掛け」を作ろうとした。  正徳2年板 尾張の鳴海には貞享以後蕉門作者が多く住んでいた。其のきもいりは酒造家千代倉の本家下郷知足で芭蕉のために何かと世話をした。知足は芭蕉と其の一門及び知名の俳諧師の作を収録し「千鳥掛」といふ外題で板行しようとしていたが終に果たさず、宝永元年物故したのでその子蝶羽が遺志をついで健順二巻として開版した。
  星崎の闇を見よとや啼千鳥
  たび人と我名よばれむはつしぐれ   

  古郷や臍の緒に泣としのくれ
  鳥さしも竿や捨けんほととぎす
  蓮池や折らで其まま玉まつり
  夕がほや秋はいろいろのふくべ哉
  十六夜の月と見はやせ残る菊
蛙合 仙化
青蟾堂
(江戸の人)
  貞享3年版
閏3月
貞享三年三月、深川の芭蕉庵において門下の作者が衆議判即ち互選で、左右廿番の発句合せを行ひ、その可否を批評しあったものを門人仙化が筆録した書である。
芭蕉の句は第一番の左に配されている。
   古池や蛙とび込む水の音
武蔵曲 千春
大原氏
彦四郎
流石におかし櫻折ル下女の武蔵ぶりと選者千春の発句が集中にある  天和2年
3月
   梅柳さぞ若衆哉女かな
   郭公まねくか麦のむら尾花
   芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
   櫓の聲波うつて腸氷夜やなみだ

   夕皃の白夜の後架に帋燭とりて
   佗テすめ月佗齋がなら茶哥
虚栗 其角     天和3年 純粋な蕉門の選集 
巻頭の作者幻吁は建長寺の太巓和尚で其角参禅の師である。 
   うぐひすを魂にねむるか嬌柳

   ほととぎす正月は梅の花咲り
   清く聞ん耳に香燒て郭公
   青さしや草餅の穂に出つらん
   椹や花なき蝶の世すて酒
   あさがおに我は食くふおとこ哉
   世にふるもさらに宗祇のやどり哉
   貧山の釜霜に啼聲寒し
   夜着は重し呉天に雪を見るあらん
   氷苦く偃鼠が咽をうるほせり

   雪の魨左勝水無月の鯉
   三日月や朝皃の夕べつぼむらん
   髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ
続虚栗 其角   貞享四年 素堂の序「風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず。」
巻頭の作者任口は伏見西岸寺の善智識

   誰やらが形に似たりけさの春

   花の雲鐘は上野か浅草か
   髪はえて容顔蒼し五月雨
   山賊のおとがい閉るむぐらかな
   萩原や一夜はやどせ山の犬
   蓑虫の音を聞に來よ艸の庵
   名月や池をめぐって夜もすがら
   起きあがる菊ほのか也水のあと
   旅人と我名よばれん初霽
   年の市線香買に出ばやな
   月雪とのさばりけらし年の昏

   よくみれば薺花さく垣ねかな
   永き日も囀たらぬひばり哉
   原中や物にもつかず鳴雲雀
句餞別 芭蕉翁   貞享4年稿
寛保4年
開板
罌粟合 嵐蘭 元禄5年板 嶋原の亂後の責を引いて絶家した松倉藩の嵐蘭が、江戸で浪人生活中に罌粟合の判者となる。   
   白けしに羽もぐ蝶のかた見哉
其袋 嵐雪撰 いろいろの袋をあげて「其袋」は月花のかけ、しぼみたるを収めて「我家の秘蔵ぶくろとす」と序文に説明している。 元禄3年板 芭蕉をして「門人に其角・嵐雪あり」と世間に誇らせた其・嵐二子の性格に就いて、其角は豪放である、嵐雪は温厚であるというのが俳諧史の通説であるが、私的生活を観察すると嵐雪も、ものに拘泥しない方で、或は其角より放縦であったという。選集のような煩わしい仕事はあまりしない。「其袋」が其の代表作である。
  薦を着て誰人います花のはる
  はまぐりの二見へわかれゆく秋ぞ
  はだかにはまだ衣更着のあらし哉
  文月や六日も常の夜には似ず
俳諧勸進牃 路通撰 元禄4年刊 みづから乞食と称した路通が観音大士の夢想に「霜の中に根はからさじなさしも草」の句を得て、俳諧の勧進を発企して元禄3年11月回国の旅に就いた其勧進に応じた人々の俳諧を翌年春江戸において撰集し、京都の井筒屋に托して開版した。狂面堂其角の跋。勸進始の俳諧は近江の曲水亭にて其角も一坐して行はれ、江戸に赴いては露沾子から召され、溜池の藩邸にて選別の會を賑かに興行せられなどして、乞食どころか、ただの俳諧師では思ひも寄らぬ待遇を受けている。此の勧進帳二巻は露通が蕉門俳人として世間的交渉の廣く、句作の技倆の優に一家をなせる事實を明瞭にするものであるとされている。
   人に家をかはせて我はとし忘れ
   大津繪の筆のはじめは何佛
いつを昔 其角撰 「新月やいつを昔の男山」其角の此の句から題が出たとされる。 元禄3年板 湖春の跋 
  山陰や身を養はん瓜畠
  わせの香や分入る右はありそうみ
  蕣は下手のかくさへ哀也
  艸の葉を落るより飛螢哉
  うたがふな湖の花も浦の春
  鰹賣いかなる人を醉すらん

三旅 越人を供して木曽の月見し比
  俤や姨ひとり泣月の友
  いざよひもまだ更科の郡哉
さらしなには翁の句のみ、吟がたくて
  霧はれて桟は目も塞がれず
                尾陽越人

  雪の中に兎の皮の髭作れ
華摘 其角撰 元禄3年板  其角は母妙務尼と貞享四年四月八日に別れた。母方の姓榎木氏を通称した其角は亡母の俤忘れられず、元禄三年の四月八日芝上行寺の墓前で「灌佛や墓にむかへる獨言」と手向け、一夏百日の結縁をおもひ立つてその百日の起居と日毎の句作を記し見聞する句句をそれに附け添へた俳諧日記である。 
   獺の祭見て来よ瀬田のおく
   虵くふときけばおそろし雉の聲
   木下に汁も膾も櫻かな
   畑打音やあらしのさくら麻
   たうとさに皆をしあひぬ御迁宮
   雪かなしいつ大佛の瓦葺
   何に此師走の市にゆくからす

廿七日入湯の人
木賀をかたりしに
   木曽川の材に待得たり五月雨                      山川
 あられせば網代の氷魚を煮て出さん
 
すり針や近江の海を見おろして渓石    着やぶる迄は木曽の麻衣  琴風
元禄
百人一句
近江の流木堂江水撰   元禄4年板 序文は大垣の木因が寄稿 
   先たのむ椎の木もあり夏木立
北の山 加賀金澤の卯辰山のほとりに柳陰軒を構へた俳僧句空撰 「うらやましうき世の北の山桜  翁」から外題を取る  元禄5年板    うらやましうき世の北の山桜
     雪消えしまふ細ね大根  句空
             
   ともかくもならでや雪のかれ尾花
句空は近江に旅して無名庵の扉をたたき、芭蕉の直指を受け、丈草・去来の高弟に導かれて俳道に精進したのであるが、本集によると江戸へ歸菴後の木曽塚の舊草を訪ひ「すててゆく庵見よとや遅桜」の句を詠んでいる。
          
己が光 車庸撰 芭蕉の「己が火を木々の蛍や花の宿」の句より題名を貰う 元禄5年板 蛍の名所勢多・石山へ、大坂から川舟で車庸・之道の二人が吟行して、たまたま芭蕉の詠み残せる発句として宿の者の「己が火を木々の蛍や花の宿」と、告げたるを感じて、その夜来合はせた珍硯の「蛍身や茶屋の旅籠の泊客」を立句に、同席の膳所の人々と八吟歌仙を行ひ、芭蕉の句より題名を以って本集を板行する事となった。
撰者車庸の序

  己が火を木々の蛍や花の宿
  人も見ぬ春や鏡のうらの梅
  猫の恋やむとき閨の朧月
  起よ起よ我友にせんぬる胡蝶

木曽の弥生の雪も消て
 梯の下上ながらさくらかな   車庸
     桜咲寺に貴し善の綱  探志

   稲妻にさとらぬ人の貴さよ
   胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉 
   橋桁のしのぶは月の名残哉
   貴さや雪降ぬ日も蓑と笠
   三尺の山も嵐の木の葉哉
   都出て神も旅寝の日数哉
   かくれけり師走の海の鳰

俳風弓 晩年の芭蕉の門人壺中撰   元禄6年板
9月
冬の部に壺仲・一至の二人、淀船にて京を下り、一の谷の古戦場を懐古し、須磨・明石の浦々をさまよひ、播州へ赴いた吟行がある。一至とは仲のよい吟友のようである。
   一里はみな花守の子孫かや
   節季候の来れば風雅も師走哉
桃の實 兀峰撰   元禄6年
5月
 備前の人、櫻井兀峰は江戸の藩邸に勤番中、蕉門の俳諧に志を寄せて、芭蕉の捌きで五吟歌仙を行ったりして撰集の意圖を抱いた。芭蕉の「草庵に桃櫻あり」とて門人の其・嵐二子をたたへた言葉に感激して「かかる翁の句にあへるは人々のほまれならずや」と羨み、二子の桃の発句を巻初にかざり、「桃の實」と題して本集を出版した。芥舟の跋文。  
   両の手に桃とさくらや草の餅
   頓て死ぬけしきに見えず蝉の聲
   名月や門へさしくる潮頭

木曽塚にふして
   木曽殿と背あはせする夜寒哉
                 又玄 
藤の實 素牛撰 「藤の實は俳諧にせん花の跡 芭蕉」と、大垣の旅店にて師より授けられた発句を題名にした。 元禄7年 風羅念佛を唱へて廻った風狂人惟然が素牛と號した時代の撰集。
   藤の實は俳諧にせん花の跡
   蕣や晝は錠おろす門の垣
   菊の花咲くや石屋の石の間
   ふり賣の雁哀なり夷講
   鞍壺に小坊主乗や大根引
   花に寐ぬ是も類か鼠の巣
   郭公聲横たふや水の上
   夕にも朝にもつかず瓜の花
市の庵 洒堂撰 元禄7年板    難波津や田螺の蓋も冬ごもり
閏5月22日
落柿舎乳吟
   柳小折片荷はすずし初真瓜
別座鋪 子珊撰 「紫陽草や藪の小庭の別座鋪」の芭蕉の句から「別座鋪」の題名をつける 元禄7年板    紫陽草や藪を小庭の別座鋪
   寒からぬ露や牡丹の花の蜜
   鶯や竹の子藪に老を鳴
   駿河路や花橘も茶の匂ひ
其便 泥足撰   元禄7年板 芭蕉の生前撰集されたものはこれが最後である。其角の序。嵐雪の跋。
   三井寺の門たたかばやけふの月
   清瀧や浪に薼なき夏の月
   初雪やかけかかりたる橋の上
   月澄や狐こはがる児の供
   菜畑に花見顔なる雀かな
   皿鉢もほのかに闇の宵凉み
   芹燒やすそわの田井の初氷
枯尾花 十月十八日義仲寺で興行した追善の百韵「なきがらを笠に隠すや枯尾花   其角」を題名に充てる。 元禄8年版 元禄七年九月大坂の旅寓にて病み、門人の介抱を受け、花屋裏に移居して間もなく十月十二日遷化した芭蕉の追善集である。

紀行・日記

書   名 成  立 内      容 意       義
野ざらし紀行 巻頭の句『野ざらしを心に風のしむ身かな』による。貞享元年(1684)は甲子の年にあたり「甲子吟行」という。 貞享2年
(1685)4月以降で、貞享3年6月頃か。断片的には、既に旅中に記録されていたであろう。
貞享元年(1684)八月、芭蕉は門人千里を伴ない、「野ざらしを心」に深川の草庵を出発。東海道を伊勢まで直行し、風漠(伊勢国渡合の産、江戸住。一晶の門人)のもとに約10日間逗留。郷里伊賀上野に着いたのは9月8日。亡き母の白髪を拝み慟哭。大和に向かい、千里の家に暫く滞在。別れて独り吉野の奥にたどり入り、西行の旧庵を訪ね、後醍醐帝の御廟を拝む。山城・近江を経てみのにいたり、9月末大垣の木因の家に客舎。深川出発の折を想起し
 死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
と述懐。ついで桑名・熱田を経て、  木がらしの身は竹斎に似たる哉
を感じつつ名古屋に入る。
ここで「冬の日」五歌仙が巻かれる。12月杜国亭に遊ぶ。越年は郷里伊賀上野。明けて貞享二年(1685)2月下旬まで逗留。春は奈良に向かい、薪能を見物、お水取りを見、京都・伏見・大津を経て、再び尾張の桐葉のもとに至る。4月10日、知足亭を発し、帰東の途につく。下向中、甲斐の山中に立ち寄り、4月の末、深川に帰庵。9箇月にわたる紀行文。発句が中心で、文は前書的性格を持つ。
所収の45吟は、自ら二分される。「野ざらしを」
 猿をきく人すて子に秋の風いかに
等の悲愴・破調の句と、それを脱皮した
 道のべの木槿は馬にくはれけり
 山路来てなにやらゆかしすみれ草
等に見られる新しい世界とが、共に死を基底にしての実践を通じて獲得されていること。虚栗調(漢詩文の詩句が1句のうちに大きく占めるといった風潮)を蝉脱し、正風開眼の前奏曲として評価すべきである。
鹿島紀行
別称
鹿島詣
鹿島へ月見に出かけた小旅行の紀行による。 一応の成稿は貞享4年(1687)8月 貞享4年8月14日、曽良・宗波を伴い、月見と鹿島神宮参詣を兼ねて、深川芭蕉庵より舟路で行徳に至り、行徳より釜谷を経て利根川畔布佐まで陸路。布佐より利根川便船で鹿島に至る。8月15日の夜は、鹿島根本寺の前住職、仏頂和尚(芭蕉参禅の師。根本・臨川・雲岸の諸寺に高臥)の隠居所に一泊。そこで雨後の月見をした紀行。後に仏頂和尚の歌1種と芭蕉・曽良・宗波等の発句14を添え、さらに帰路に立ち寄った旧友小西似春(自準)宅での連句3つ物を載せてある。 紀行としては「野ざらし紀行」の次に書かれたものである。短編のせいもあるだろうが、よくまとまっており、芭蕉が漸く俳文としての紀行のスタイルを自得したことがわかる。
笈の小文 「卯辰紀行」
とも称する。これは「笈の小文」の旅が、卯年(貞享4年)から辰年(貞享五年)にわたるところからの命名。
元禄3~
4年
(1690~
1691)頃の成立か。貞享4,5年の旅を中心としながら、元禄3,4年ごろの成立と確定される部分を含んでいるため。
貞享4年(1687)10月25日、露沾・其角の餞別興行をすませて江戸を発ち、尾張鳴海知足亭に到着。11月10日、越人を伴い保美村に蟄居中の杜国を訪ね、12月中旬、名古屋を出て郷里伊賀上野に向う。12月末上野に帰着、郷里で越年(元禄元年)して、伊勢神宮に詣で、万菊丸と名のる杜国を同行して吉野に花を見、高野山から和歌の浦へ出て、4月8日奈良に到着。4月11日、奈良を発ち、大坂へ赴き、4月19日大阪を発足、尼崎より海路、兵庫(神戸市)に至る。須磨・明石を遊覧し、紀行はここで終わる。4月21日は、山崎街道を京へ向かう。 「黄奇蘇新(中国の黄山谷と蘇東坡はの詩文のように新しい)のたぐひに非ずばいふことなかれ」という紀行観や、「造花に随い造花に帰れ」という風雅観など、芭蕉俳諧を見る上で重要な紀行である。また「野ざらし紀行」と「奥のほそ道」との中間的な性格を示すものとして興味深い。
笈日記 岐阜の部に、落梧に与えた「十八樓の記」の次にその年の秋ならん、この国より旅立て更科の月みんとて
   留別四句
送られつおくりつ果は木曽の秋
草いろいろおのおの花の手柄かな
   人々郊外に送り出て三盃を傾侍るに
朝がおは酒盛しらぬさかり哉
ひょろひょろとこけて露けし女郎花
とある。
更科紀行 信州更科の里姨捨山の月見の紀行であったところからの命名。 元禄元年
(1688)
更科の名月を賞して江戸帰省は、8月下旬。旅の行程の規模から考えて、その執筆は帰省後まもなくのことと思われる。
8月11日、信州更科に仲秋の名月を賞すべく、越人同伴で岐阜を発つ。その折の吟、
 送られつ送りつ果は木曽の秋
木曾街道に入り、8月15日、夜、更科の里に到着。後日、その折の感を「更科姨捨月之弁」に執筆。「上略、8月11日美濃の国をたち、・・・・・其の夜(15日)更科の里にいたる。・・・・・そぞろにかなしきに、何ゆゑ
にか老いたる人をすてたらむとおもふに、いとど涙落そひければ、
 「俤は姥ひとりなく月の友」
」と叙した。紀行の執筆は、その間の出発の準備から、途中の情景、旅の感慨等を記し、道づれになった層と宿屋で月を肴に酒を汲むところで筆を収め、終わりに芭蕉及び越人の旅の句十余句が記してある。8月中・下旬、善光寺に参詣後、浅間山麓を経て中仙道を江戸に向かう。途中吟あり。
 『吹き飛ばす石は浅間の野分哉」
以上、尾張発足以降の紀行文を「更科紀行」という。
この旅は、これまでの旅と違って、門人も知己もいない辺鄙な山間の地の名所を訪ねていることである。芭蕉自身に何か明確な意図するものがあったのではあるまいか。「笈の小文」の旅の最終の場所が明石の地である。須磨明石は「源氏物語」ゆかりの地であり、また、須磨は、在原行平配流の地であった。さらに源平の世の戦乱の地でもある。芭蕉は、鉄拐が峰に登り、「逆落」「一ノの谷内裏やしき」など源平戦乱の地を俯瞰、その俤をまざまざと心にうかべている。そして「千歳のかなしび」を、この浦にとどめた。その思いが、信濃の姨捨山へと足を運ばせたのである。前者は歴史の中に、後者は伝説の中に、千歳のかなしびを求めての旅であり、鎮魂の旅であった。やがて、半年後「ほそ道」の旅となる。
おくのほそ道 本文中、仙台の次の章に、「かの画図にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符の菅有」とある地名によったものであろう。(「虚六離別の詞」の「細き一筋」や貫之の「糸による」の歌との関係もあるだろうか。 いつごろかかれたものかは、明確ではないが、元禄2年の秋(8月21日美濃大垣着)旅を終えてから、まもなく腹案をねって、その後何度も稿を改めたものであろう。現在の形の成立は、旅行後数年を経て、臨終の年、元禄7年4月であった。 芭蕉は曽良を伴なって、元禄2年3月下旬江戸を出発し、千住で見送りの人々と別れた芭蕉と曽良は、室の八島を拝み、日光に参詣し、那須野原を横断して黒羽に赴き、ここに13泊して、付近の名所を巡遊し、雲岸寺に仏頂和尚(芭蕉参禅の師)山居の跡を訪ねた。殺生石・西行柳(西行が、(道のべに清水流るる柳陰・・・・・)と詠んだ)を見、白河の関をこえて、須賀川に等窮(須賀川の駅長。芭蕉と旧知の間柄)宅に「4、5日とどめらる」(実際は7泊)。浅香山を一見して、福島に至る。佐藤庄司(藤原秀衡の臣)の旧跡を経て、飯坂温泉に一浴。その夜はひどい宿であった上に、持病(胆石症発作の腹痛)で、「道路に死なん」と思うほどつらい一夜であった。武隈の松を見て、5月4日仙台に到着。ここに4日間逗留。「壺の碑」に「羇旅の労をわすれ」るほど感涙を催す。末の松山を見て、塩釜に一泊し、塩釜神社に参詣した後、松島の月先心にかかりと旅立つ前から待望の松島にわたる。松島の名所を見て、平泉へと向かう。平泉では、高館(義経の居館だった所)に上り、中尊寺を拝し、藤原氏三代(藤原清衡・基衡・秀衡)の栄華を偲び、そこから南へ引き返し、奥羽山脈を越し、出羽の国に出て、尾花沢の清風(彼は富るものなれども、志いやしからず)を訪れ、そこで十泊する。ついで立石寺を一見し、大石田から最上川を舟で下って、羽黒・月山・湯殿の三山を巡排し、酒田に出、象潟の風光を賞し、松島と対比して、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と評した。そこから酒田に引き返した。むし暑い北陸道を西へ向かって、市振の関では遊女と同宿し、黒部川を渡って、7月15日(陰暦8月29日)に加賀の国金沢に入る。一笑(36歳で没した。蕉門俳人)の墓に詣でて
 「塚も動け我泣く声は秋の風」
と慟哭の句を詠んだ。小松の太田神社に詣で、山中温泉に浴した。ここで病気の空を潜行させ、一人旅となった芭蕉は、禅昌寺・視お越しの松・永平寺を訪ねたのち、福井に等栽を尋ね、8月14日夕暮敦賀に至る。16日は種の浜に遊ぶ。やがて一路南下して、美濃大垣にたどり着く。9月上旬。(実際には、8月21日頃着か)所要全日数百五十五日。歩行距離は概略六百里。
「おくのほそ道」の旅の主題は、無常が常であるという世相の中で、不変(不易)なものは、いったい何であろうか。それを実感することではなかったか。消えては残る歴史との感合の中で、実感したものを言葉に結晶させることであった。風騒の人々が、心をとどめた白河の地では句に成らず、多くの歌枕を探索し、「壺の碑」を眼前にして、「時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑いなき千歳の記」と、歴史の厳粛な事実の前に、感涙を催す。そして「今眼前に古人の心を閲す(まざまざと古人の心を見る思いがする)」と述べる。人の誠が千歳(永遠)の時を超えて、蘇りつづけることへの感動である。それは、高館での
 「夏草や兵どもが夢の跡」
にもそのまま代入できよう。「兵どもが夢の跡」が、訪れる者の心に、時を超えて生々しい感動を与える。すべてのものが変化・流転していく中で、なお滅びないもの・不易なるものを形象化していく努力・工夫、これが「ほそ道」の旅の意義の主題であった。旅を終えた年の12月、芭蕉は、去来に「不易流行」の教えを説いたという。
幻住庵記 芭蕉の門人菅沼曲水の叔父幻住老人所有であった「幻住庵」においての記。 元禄3年
(1690)成る。元禄4年「猿蓑」に発表。
本文は推敲課程に従って3種の形を残している。「奥のほそ道」の行脚を終えた芭蕉は、元禄3年4月初旬近江国石山の奥にある国分山の奥にある国分山の幻住庵に入り、元禄3年7月23日頃まで滞在した。国分山中腹の神さびた八幡宮に近い幻住庵の位置とその所有者が門人曲水の叔父、故幻住老人だったとの紹介から筆を起こし、次いで、深川隠棲以来の十年、漂白の境涯を送り、特に奥羽象潟の遠路の旅に苦労を重ねた末、4月はじめここに安住を得た喜び、豊かな自然の中で、湖西比叡・比良の峰、唐崎の松や湖上の遠景などを叙し、また中国の隠遁詩人に見る「睡へき山民」(眠りぐせのついた山人)のような自由な境地で暮らす庵住生活を述べ、時には宮守の翁や、農夫と野良話を交わし、夜中に起こる妄念に思いをこらすことにふれ、最後に「ある時は仕官懸命の地(官途について、知行をもらえる身分)をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉(仏陀の籬禅門・仏門)に入らむとせしも」風雅に憑かれて「この一筋(俳諧の道)につながる」半生を吐露して終る。文末に次の一句を添える。
 先たのむ椎の木も有夏木立
あたりの夏木立の中には、その木陰をたのみにまずは身を寄せるに足る椎の大木もある。これをたよりにしばしこの庵に身を寄せよう。
「終に無能無才にして此の一筋につながる」と俳諧の道に執する己の心事を吐露している。芭蕉の生き方を最もよくあらわしている。去来宛芭蕉書簡(元禄3年8月上旬頃)によってもうかがえるように、「幻住庵記」は「猿蓑」に載せるためのものであった。芭蕉俳文中、質・量ともに白眉である。
嵯峨日記 落成佐賀の去来の別荘落使者に、4月18日から5月4日まで滞在した芭蕉が、その17日間の出来事や感想をつづった日記に由来する命名である。 芭蕉著
魯玉編
宝暦3年
(1753)刊
4月18日落柿舎に到着した芭蕉は、多くの書籍を運ぶ。白氏文集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉名所和歌集等。去来一族の手厚い保護を受けて、芭蕉は「我貧賤をわすれて清閑に楽しむ」17日間を送った。この日記は、門人の来訪が多く特徴的である。訪ねてきた人は、去来はもちろん凡兆・その妻羽紅・千那・史邦・丈草・乙州・李由・曽良等である。句は門人のを合せて二十六句。うち芭蕉の句11句である。20日には、狭い蚊帳に5人も寝て、寝られるままに、皆夜中に起き出して、盆の菓子をつまんだり、盃を取りあげたりして、話し明かしている。28日には、前年3月病死した門人杜国のことを夢に見て「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム」「夜ハ床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ」「其志我心裏に染(心中深くしみこんで)て、忘るる事なければなるべし。覚えて又袂をしぼる」、と哀悼の念を痛切に述べて、読者をしみじみとさせる。4日の記述は「明日は落柿舎を出んと名残りをしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
   五月雨や色帋へぎたる壁の跡
日記の最後にこの句を置いている。
蕉門諸家の動静・追憶を記し、閑寂な環境に恵まれた中での芭蕉の心境をうかがい知ることのできる点、はなはだ興味ある日記であり、芭蕉の記した日記の唯一のものである。芭蕉は元禄2年冬、4年夏、7年夏と3度ここを訪れている。よほど気に入った場所であったのだろう。「去来兄の室より菓子・調菜の物など」の差し入れもあった。猿蓑には、去来兄震軒(元端)の「芭蕉翁国分山幻住庵記の後に題す」と題して、「幻住庵記」の読後の感想を叙した一文が載せてある。こうしたことからもこの日記が、去来家への滞在記念に書かれた可能性もあるだろう。

参考文献   蕉門俳諧前集 日本俳書大系刊行会 大正15年7月5日印刷 大正15年7月10日発行
         俳人逸話紀行集  文学博士 佐々醒雪 巌谷小波 校訂 東京博文館 大正4年8月3日印刷