和 暦 | 西 暦 | 月 日 | 事 項 | |
大化2年 | 646 | 改新の詔に公地公民制、班田収授の法がみえる。 | ||
養老4年 | 720 | 正月 | 政府は「渡嶋・津軽津司(つがるのつのつかさ)」である諸君鞍男(もろのきみのくらおとこ)ら六人を「靺輵国(まつかつこく)」に派遣しその国の風俗を学ばせたという。 (続日本紀) | |
養老7年 | 723 | 三世一身の法が制定される。 | ||
天平15年 | 743 | 墾田永年私財法が制定される。 | ||
天平19年 | 747 | 東大寺に封戸一千戸が初めて施入される。二年後更に四千戸増加し五千戸となる。 | ||
天平勝宝4年 | 752 | 東大寺大仏開眼供養が行われ、良弁が初代の別当となる。 実忠が修二会の行法を始めたと伝えられる。 |
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天平勝宝7年 | 755 | 板蝿杣が東大寺に施入されたといわれる。 | ||
宝亀5年 | 774 | 実忠が東大寺三綱となり寺内経済の基礎を固める。 | ||
延暦7年 | 788 | 最澄、比叡山延暦寺を創建。 | ||
延暦13年 | 794 | 平安京遷都 | ||
弘仁7年 | 816 | 空海、高野山金剛峰寺を創建。 | ||
承和5年 | 838 | 最後の遣唐使が渡航 | ||
仁寿・斎衡年間 | 850年頃 | 東大寺・興福寺・大安寺の雑色人・強力者60人、兵杖を帯びて明詮僧都を襲撃。使者8人が兵士を率いて元興寺に至り、騒動 | ||
天安2年 | 858 | 藤原良房が摂政の任にあたる。 | ||
貞観2年 | 860 | 宇佐から勧請した石清水八幡宮が誕生 | ||
仁和3年 | 887 | 藤原基経が関白となる。 | ||
寛平年間 | 889~ 898 |
清盛の遠い先祖である桓武天皇の孫、高望(たかもち)王が平という姓を賜って臣籍に降って平高望となり上総介(かずさのすけ)として任国坂東に下向した。(平家物語) | ||
平高望の子(国香・良将(よしまさ)・良兼・良正・良文ら)の世代になると一族は上総の国はもとより常陸(ひたち)・下総(しもうさ)から相模(さがみ)の国にまで広がる | ||||
平良将(よしまさ)の子将門は土着王族の三世の後裔ということになる | ||||
延喜2年 | 902 | 「 延喜の荘園整理令」で中央貴族と地方富豪層との結託を禁止する。 | ||
承平5年 | 935 | 6月3日 | 検非違使、東大寺・興福寺両寺の雑人らの乱行を取り締まる。 | |
承平5年 | 935~ 940 |
平将門の乱.。平将門、平国香・源譲一族と争う。下総の石井を根拠地とし、東国に基盤を形成した桓武平氏の内紛から勃発した。常陸・下野・上野などの国府を攻撃し新皇と称す。 下野の押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)と高望王(たかもちおう)の孫で将門の従兄弟に当たる平貞盛がこれを鎮圧した。 |
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935~ 941 |
承平・天慶の乱始まる。 | |||
936 | 後唐滅び後晋建国。この頃高麗が朝鮮半島を統一。 | |||
承平7年 | 937 | 南都の僧ら、頭を包み兵杖を持ち、維摩会の論議に出席した比叡山延暦寺の良源と対峙。 | ||
天慶2年 | 939 | 平将門、親皇と称する。 | ||
939~ 941 |
藤原純友の乱。伊予の日振島を根拠地として伊予・讃岐の国府、太宰府などを次々と襲撃。追捕使小野好古・源経基らが鎮圧。 | |||
948~ 1021 |
源満仲の嫡男源頼光が生まれた。摂津源氏の祖。備前・但馬・美濃・伊予等の受領を歴任しそれによって得た蓄財で摂関家に奉仕した。藤原道長の義兄道綱を婿に迎えた。花山天皇出家事件や藤原伊周追放事件などにかかわった。 | |||
天暦4年 | 950 | 光智が東大寺別当となり板蝿杣を拡大し隣接地合併を企てる。 | ||
天徳4年 | 960 | 平安遷都以来初めての内裏消失。 | ||
康保4年 | 967 | 以後、摂政関白が常置される。 | ||
安和2年 | 969 | 朝廷内の内紛・安和の変。源経基の子源満仲の兵ぶりが源氏の名を高めた。 | ||
源満仲の子頼光・頼親・頼信も異色の武勇人として貴族社会で注目されそれぞれ摂津源氏、大和源氏、河内源氏の流祖となった。 | ||||
980年頃 | 中国の文化の集大成である「太平御覧(たいへいぎょらん)」成立 | |||
永延2年 | 988 | 尾張国の郡司・百姓ら国守藤原元命の非法を上訴 | ||
988~ 1075 |
源頼信の子源頼義生まれる。 | |||
長徳4年 | 998 | 前下野守維衡(これひら)、散位致頼(むねより)らが数多の部類を率いて伊勢国内に住して伊勢神宮や国郡務を妨げるとして訴えられ維衡(これひら)は淡路へ致頼(むねより)は隠岐へ流された。(権記(ごんき)) | ||
長保1年 | 999 | 常陸平氏平維幹五位となる。 | ||
寛弘3年 | 1006 | 正月 | 伊勢平氏の祖、維衡(これひら)が伊勢守に任命される | |
長和5年 | 1016 | 藤原道長、摂政となる。 この頃より摂関家の荘園が増大する。 | ||
寛仁3年 | 1019 | 刀伊(女真族)の入寇。中国沿海州地方の女真族が対馬・壱岐・筑前を襲撃。太宰権師藤原の隆家は武士を指揮してこれを撃退した。 | ||
長元元年 | 1028~ 1031 |
平忠常の乱。房総半島一帯で反乱を起こしたが源頼信が鎮圧。源氏の東国進出のきっかけとなる。東国平氏の勢力衰退。 | ||
奥羽に住む人々の多くは京都の朝廷から「蝦夷(えみし)」と呼ばれたが、律令国家の支配が強まると、蜂起してこれに抵抗した。 | ||||
桓武天皇や嵯峨天皇により「征夷」が継続的に行われ奥羽は律令国家の統治下に組み込まれた。 | ||||
律令国家に組み込まれた人々は「蝦夷(えみし)」から「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれさらに北方の人々が「蝦夷」と称された。 | ||||
この俘囚の住む地域には奥羽山脈の東、岩手県側に胆沢(いさわ)・江刺(えさし)・和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)・斯波(しば)・岩手(いわて)の六郡が西の秋田県側には雄勝(おがち)・平鹿(ひらが)・山本(やまもと)の三郡が設置された。前者を「奥六郡(おくろくぐん)」と言い阿部頼良が、後者を{山北三郡(せんぽくさんぐん)」と言い清原氏が支配することとなった。 | ||||
11世紀中ごろ | 阿部頼良が「六箇郡の司」と称し、清原氏が「山北の俘囚王 と呼ばれた。 |
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安倍頼良の勢力が徐々に強まり奥六郡を南下して磐井郡や栗原・玉造郡にまで拡大し陸奥国司の支配と抵触するようになった。 | ||||
長元6年 | 1033 | 板蝿杣東大寺領荘園として立券 | ||
長元7年 | 1034 | 杣工の臨時雑役が免除される。 | ||
長暦1年 | 1037 | 深観が東大寺別当となる。 | ||
長久2年 | 1041 | 領主藤原実遠が矢川を深観に米百石で売却する。 | ||
永承年間 | 1046~ 1053 |
陸奥の守藤原登任(なりとう)は出羽国司でもある秋田城介平の重成を誘って安倍頼良と「鬼切部(おにきりべ)」(宮城県鳴子町鬼首(おにこうべ))で戦ったが大敗をする。 | ||
永承6年 | 1051 | 源頼義を陸奥守に任じ陸奥に遣わす。 | ||
1051~1062 | 源氏が関東土着の小豪族を結集して旧蝦夷地に勢力を張る安倍一族と対峙する前九年の役。藤原清衡の父経清は初め頼義軍に参加したが妻が安倍氏の娘という縁もあり結局は源頼義・義家父子を裏切り敗れる。河内源氏の源頼義、子の源義家が鎮圧。清衡はこの戦いのさなかに生まれる。 | |||
永承7年 | 1052 | この年末法第1年に当たる。 | ||
1052 | 安倍頼良の反乱に対し、朝廷はこの状況を打開するため鎮守府将軍をかねた国守源頼義を派遣。 | |||
5月 | 源頼義の武名に驚いた安倍頼良は源頼義に帰服して安倍頼時と改名するとともに「駿馬・金宝の類」を献上して恭順の意を示した。 | |||
ところが源頼義が鎮守府に逗留して後多賀国府に帰る途中、阿久利(あくと)川のあたりで陸奥権守藤原説貞(ときさだ)が夜襲を受けるという事件が発生した。 | ||||
その嫌疑はただちに安倍頼時の子貞任(さだとう)ににかけられた。 | ||||
そこで安倍頼時は源頼義との対立を覚悟して衣川の関を固めたため、源頼義は大軍を持ってこれを攻撃したのである。 | ||||
この戦いで安倍頼時の婿でもあった藤原経清・平永衡(ながひら)は源頼義の軍勢に加わって安倍頼時と敵対した。 | ||||
ところが安倍氏に内応したと疑われた平永衡が源頼義に殺された。 | ||||
藤原経清も源頼義の猜疑心を恐れ安倍頼時に味方することになリ安倍氏有利に進展した。 | ||||
この状況を打開すべく源頼義は安倍氏の内紛を目論み、安倍一族の富忠に安倍頼時の背後を牽制しようと画策した。 | ||||
天喜1年 | 1053 | 伊賀国司の荘園整理に対して黒田荘民が実力で抵抗する。 | ||
天喜2年 | 1054 | 安倍頼時の子・貞任、源頼義の家来の営所を襲う。 | ||
天喜4年 | 1056 | 安倍頼時、再び反乱する。 | ||
宇陀川・名張川西岸は黒田本荘として公認。以後東岸をめぐり国司と東大寺の争いが一世紀余り続く。 | ||||
天喜5年 | 1057 | 7月 | 源頼義、鳥海柵で兵二千を率いて北上した安倍頼時を討つ | |
8月 | 藤原清衡誕生(父は藤原の経清、母は安倍頼時の娘) | |||
11月 | 源頼義河崎柵で安倍頼時の亡きあと安倍氏を統率した安倍貞任に大敗 | |||
康平5年 | 1062 | 春 | 源頼義は出羽山北三郡の俘囚主たる清原光頼・武則兄弟を説き伏せ、安倍氏攻撃の態勢を立て直した。 | |
7月26日 | 源頼義の軍勢は多賀国府を出発した。 | |||
前陸奥守源頼義の要請により、「出羽国山北俘囚主」清原武則が1万余の兵を率い参戦 | ||||
8月9日 | 源頼義の軍勢は栗原郡営崗(たむろがおか)で清原軍と合流 | |||
8月17日 | 松山道を出て萩馬場に到着。安倍一族の僧良昭が立て籠もる小松柵を攻め落とし一族宗任(むねとう)も敗れた。 | |||
9月 | 源頼義は安倍貞任を追撃。安倍貞任は高梨宿・石坂柵をすてて衣川柵に入った。 | |||
9月7日 | 源頼義は衣川柵を落とした。 | |||
源頼義は大麻生野柵・瀬原柵を攻撃。 | ||||
9月11日 | 源頼義は鳥海(とのみ)柵を攻撃 | |||
安倍貞任、藤原経清は逃れて厨川(くりやがわ)柵に後退した。 | ||||
9月15日 | 源頼義は厨川柵、嫗戸(うばと)柵を包囲して攻撃を開始した。 | |||
9月17日 | 源頼義は厨川柵、嫗戸(うばと)柵を陥落させた。捕らえられた藤原経清は鈍刀で安倍貞任は斬首された。安倍氏は滅んだ。これが「前九年の合戦」である。 | |||
安倍頼時の娘は安倍頼時・安倍貞任らとともに行動した藤原経清に嫁ぎ一子(後の藤原清衡)をもうけていた。敗者となった藤原清衡の母(安倍頼時の娘)は頼義に味方して安倍一族を滅ぼした出羽の豪族清原清原武則の子息清原武貞のもとに再嫁する。清衡は父の仇の家で成長したのである。 その後清原武貞との間に清原家衡が生まれた。 |
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康平6年 | 1063 | 6月2日 | 源頼義らの勲功が賞され源頼義は伊予守に、長男源義家は出羽守に任じられた。出羽の俘囚主清原武則が従五位上に叙せられるとともに鎮守府将軍に任命された。 | |
清原武則は山北三郡に奥六郡を加えた広大な地域を支配することになった。 | ||||
清原武貞の後を継いだのは清原真衡(まさひら)であったが、彼が常陸国の豪族多気宗基(たけむねもと)の子息成衡(なりひら)を養子に迎えたことは、一族吉彦秀武(きみこのひでたけ)との間に対立が生じる原因となった。 | ||||
吉彦秀武(きみこのひでたけ)は藤原清衡、清原家衡を誘い清原真衡(まさひら)を背後から攻撃させた。 | ||||
延久2年 | 1070 | 後三条天皇が「東夷征討」の命を出す。 | ||
永保3年 | 1083 | 清原武則の孫で清原武貞の子真衡と家衡(同父異母兄弟)の間で家督をめぐる内紛が勃発。 | ||
9月 | 源義家、陸奥守・鎮守府将軍として陸奥国に赴任。 源義家、家衡・清衡を攻める。 | |||
この清原氏の内訌に源頼義の子義家が介入し、藤原清衡、清原家衡は敗れて出羽に逃れた。 | ||||
清原真衡(まさひら)が突然病死した。 | ||||
戦う意味がなくなった藤原清衡、清原家衡は源義家に降伏し、改めて奥六郡が二人に分与された。 | ||||
広徳2年 | 1085 | しかし、清原武貞の子として誕生した清原家衡は母の連れ子である清衡と対等の所領配分に反発、兄弟の対立に発展した。 | ||
源義家、清衡を支援する。 | ||||
1083~1087 | 後三年の役。清衡と真衡らの異母兄弟の争い。安倍一族の領地を受け継いだ清原一族の内紛が原因。中央から源義家が陸奥守・鎮守府将軍として派遣され鎮圧。清衡は義家が現れると陸奥に下向し義家の武力を巧みに利用して後三年の役に勝利を収めた。 | |||
応徳3年 | 1086 | 11月26日 | 院政が開始された。 白河天皇は寵愛した中宮賢子(右大臣源顕房(あきふさ)の娘、関白藤原師実(もろざね)の養女)を母とする善仁(たるひと)親王(堀河天皇)を皇太子とし即日に譲位して上皇となり院政を開始した。 当時の善仁(たるひと)親王が八歳であったことから自然に院政の開始になったとも考えられるが「扶桑略記」によればこれ以前より後院として鳥羽殿(鳥羽離宮)の造営を開始してそこに院庁という機関を置き実質的にこれが政務を司ることになった。周到な準備のもとに実行されたことは確か。 |
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1086~ 1129 |
白河院政期 | |||
寛治元年 | 1087 | 11月 | 再び源義家が介入し、今度は清衡を助け清原家衡とその叔父武衡が拠る金沢柵(秋田県横手市)を陥落させた。「後三年の合戦」 | |
12月 | 源義家、家衡・武衡の誅殺を報告。清原清衡(4年後、藤原姓に改称)「奥六郡の主」の地位を継ぐ | |||
寛治8年 | 1094 | 5月 | 藤原家後の青侍たちが田楽を行い「瓦礫」で闘争。 | |
永長元年 | 1096 | 8月 | 白河上皇は出家して法皇となる。 | |
夏~秋 | 京都に田楽大流行(永長の大田楽) | |||
1096~ 1153 |
平忠盛(清盛の父) 有明の月もあかしの浦風に 波ばかりこそ夜と見えしか(「金葉集」) |
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永徳1年 | 1097 | 平正盛は伊賀国の私領二十町余(鞆田村・山田村)を六条院(白河皇女郁芳門院の菩提所)に寄進した。 | ||
永徳2年 | 1098 | 源義家に院昇殿を許す。 | ||
康和年間 | 1099~ 1104 |
藤原清衡(初名清原清衡)は平泉の地に本拠を移した。 | ||
康和5年 | 1103 | 1月16日 | 堀川天皇の第1皇子鳥羽上皇誕生 | |
6月 | 鳥羽上皇が宗仁と命名される。 | |||
8月 | 宗仁皇太子となる。 | |||
1104 | 源頼政、摂津源氏源仲政の子として誕生。母は藤原友実女。 白河院判官代、次いで鳥羽院の北面となる。 |
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長治元年 | 1105 | 藤原清衡が中尊寺伽藍の建立を開始する。 | ||
長治2年 | 1106 | 10月26日 | 「中右記」によるとこの日に「院の女御」と称される人が祇園の南辺に堂を建立して供養したがその「天下美麗過差」は人の耳目を驚かすものであったという。 | |
嘉承元年 | 1106 | 奥羽の地に野望を抱く河内源氏嫡流家は徹底的に疎外・抑圧され源義家は失意のうちに死去した。 | ||
嘉承2年 | 1107 | 7月19日 | 堀川天皇崩御。宗仁が5歳で皇位につく。祖父の白河上皇の院政が本格化した。 | |
白河上皇は権大納言藤原公実(きんざね)の娘璋子(しょうし)(待賢門院(たいけんもんいん))を鳥羽天皇の女御とし、皇后とした。 | ||||
5月 | 京都の下人たち辻々で飛礫。これが禁止される。 | |||
1107~ 1108 |
源義家の子、源義親の乱。 | |||
嘉承3年 | 1108 | 正月 | 白河院の命を受けた因幡守平正盛は出雲の雲津浦で反乱を起こした河内源氏の嫡流源義親(よしちか)(八幡太郎義家の嫡男)を討って凱旋、但馬守となる。 | |
天仁元年 | 1108 | 3月 | 延暦・園城(おんじょう)(三井寺)の両寺が対立したときその鎮圧に派遣されたのは検非違使ならびに源氏、天下の弓兵の士、武勇の輩数百人とある。(中右記(ちゅうゆうき)) | |
天仁2年 | 1109 | 7月 | 祇園女御が白河院のために七間の堂宇を建立し大威徳の半丈六像一体を本尊にまた院の年齢にちなんで等身像五十九体を安置した。 | |
天永年間 | 1110~ 1113 |
藤原清衡は 北奥「蝦夷の地」の征討・統合を進め、陸奥守・鎮守府将軍藤原基頼との共同作戦によって「蝦夷の地」の完全併合と「郡」の設置をなしとげた。日本国の国境は本州の北端に到達した。 | ||
永久5年 | 1113 | 10月15日 | 「 殿暦」に「院の祇園の女御、同じく姫君、さる10日より精進すと云々とあり、待賢門院の入内の折のために精進しているという記事からこの女御が待賢門院を養っていたことが知れる。 | |
1113~ 1186 |
平盛国 | |||
1114 | 春~夏 | 京都に摺衣・博戯の輩飛礫の輩らが充満し朝廷がこれを制止。 | ||
元永元年 | 1118 | 備前守在任中の正盛は肥前国にある仁和寺領藤津荘の荘官平直澄が荘園領主に背いたため院の命を受け討伐した。 | ||
平清盛出生 「源平盛衰記」は祇園の女御が白河法皇との間に生んだとしている。 近江の「胡宮(このみや)神社文書」に見える「仏舎利相承記」には清盛の母は祇園の女御の妹の女房でその女房が白河院の子を身篭って平忠盛に下賜され生れたのが清盛であり女房の死後は姉である祇園の女御に養い育てられたとする。 |
||||
元永2年 | 1119 | 平正盛、京・九州で賊を討伐 | ||
平正盛、郎従を派遣し藤津荘の平の直澄を討つ。 | ||||
鳥羽天皇と璋子(しょうし)の間に皇子が生まれる。 | ||||
保安元年 | 1120 | 7月12日 | 伯耆守忠盛の妻がにわかに卒去したがこれは「仙院(すなわち白河院)の辺」だったという記事がある。(中右記) | |
平忠盛は北陸の大国越前守となる。 | ||||
保安4年 | 1123 | 源義朝生れる。父は源為義、母は淡路守藤原忠清の娘。 | ||
1月 | 鳥羽天皇退位。崇徳天皇即位。 | |||
7月 | 平忠盛、源為義、延暦寺僧兵を撃退。 | |||
1124~ 1185 |
平経盛(たいらのつねもり)平清盛の異母弟 | |||
1125 | 女真族「金」を国号とする国家を形成、遼を滅ぼす。 | |||
天治2年頃 | 1125年頃 | 時子は平時信を父に藤原家範(いえのり)の娘を母に生まれる。 | ||
大治2年 | 1126 | ● | 平忠盛は31歳で備前守に遷任する。 | |
北宋の都開封陥落 | ||||
天治元年 | ● | 藤原清衡は白河法皇の御願寺として建立した大伽藍一区(中尊寺説と毛越寺前身伽藍説がある。)の完成を祝い盛大な落慶法要を行った。 | ||
大治2年 | 1127 | 源為義検非違使となる。 | ||
1127?~ 1189 |
平時忠(平清盛の妻時子の弟(兄とする説もある)) 「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し平家の評判を落とした男である |
|||
1128~ 1185 |
平教盛(たいらののりもり)平清盛の弟。平清盛とも兄の経盛とも母は違う。 | |||
大治4年 | 1129 | 正月6日 | 12 | 清盛12歳で元服 「斎院の御給」により従五以下叙せられそれまでは院の非蔵人であったとする。・ |
正月24日 | 左兵衛佐(さひょうえのすけ)に叙任された。 長秋記に「満座の目を驚かす」とかかれたほどの抜擢であった。左兵衛佐(さひょうえのすけ)に叙任された。 長秋記に「満座の目を驚かす」とかかれたほどの抜擢であった。 |
|||
3月 | 備前守平忠盛、山陽・南海両道の海賊を追捕。 |
3月16日 | 岩清水八幡宮の臨時祭に平清盛は公達にまじって舞人をつとめる。 このとき「長秋記」の著者源師時(もろとき)が挿頭(かざし)花を清盛の冠にさす。 |
|||
1129 | 7月7日 | 白河法皇が没する。鳥羽院政始まる。 | ||
1129~ 1156 |
鳥羽院政期 | |||
1131~ 1186 |
平頼盛(清盛の異母弟) 平頼盛の母が源頼朝が殺されそうになった時命乞いをしてあげた池の禅尼 | |||
長承元年 | 1132 | 3月 | 15 | 平忠盛は内昇殿をゆるされ殿上人の仲間入りを果たした。忠盛が鳥羽法皇のために白河千体観音堂こと得長寿院を寄進した功によるものである。 内昇殿は天皇の居所清涼殿にある殿上間への出入りを認められたことを意味しており、忠盛は天皇の側近、公卿に準ずる地位を得たのである。 |
長承2年 | 1133 | 16 | 忠盛が肥前国神崎荘の預所の任にあったとき神崎荘に入港した宋の商船との交易に際して貿易の管理者大宰府の介入を排除しようとする動きをみせた。 | |
1133~1212 | 法然(浄土宗の開祖) | |||
長承3年 | 1134 | 17 | 今年以後天下飢饉 | |
保延元年 | 1135 | 18 | 飢饉は悲惨を極めて保延と改元 | |
4月 | 朝廷で瀬戸内海の海賊の追捕が問題になったとき、平忠盛が追討使に起用された。 | |||
6月 | 海賊追討使平忠盛、首領を捕らえる。 | |||
保延2年 | 1136 | 19 | 長子の重盛が生れる。 | |
「世間多く道路に小児を棄つ。大略天下飢饉」 | ||||
源頼政、蔵人、従五位下となる。 | ||||
1138~1179 | 平重盛 | |||
保延5年 | 1139 | 3月 | 22 | 平忠盛ら興福寺僧徒の入京を防ぐ。この頃、忠盛、鳥羽院の御 別当となる |
鳥羽上皇は権中納言藤原長実の娘徳子(美福門院)を女御として宮廷に入れ皇子が出生。 | ||||
保延6年 | 1140 | 10月15日 | 23 | 西行こと佐藤義清(のりきよ)が出家した。 |
保延6年 | 1140 | 12月 | 吉野山中腹、世尊寺跡にある「吉野三郎」と称する鐘は忠盛が熱銅を施入し翌年鋳造された。 | |
保延7年 | 1141 | 24 | 吉野山中腹、世尊寺跡にある「吉野三郎」と称する鐘は忠盛が鋳造した。 | |
1月 | 御修法の場に美少年を含む田楽妙舞の者らが乱入し「狂乱婆娑」の風情であった。 | |||
永治元年 | 12月 | 崇徳退位。近衛天皇即位。 | ||
永治2年 | 1142 | 3月15日 | 25 |
藤原頼長の「台記」に西行が一品経(いっぽんきょう)の勧進のために頼長邸を訪れた際の記事がある。 余、年を問ふ。答へて曰く、二十五なり(去去年出家せり、二十三)と。もともと兵衛尉義清なり。左衛門太夫康清の子。重代の勇士たるを以って法皇に仕へたり。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心憂ひ無きも、遂に以って遁世せり。人これを歎美せるなり。 |
康治2年 | 1143 | 26 | 源義朝はこの年から翌年にかけて房総半島から相模の国にかけて活動していた。 | |
6月 | 源為義、内大臣藤原頼長に臣従する。 | |||
天養元年 | 1144 | 27 | 源義朝の行動を訴えた文書に「上総の曹司」と記されている。 | |
1144~ 1184 |
平忠度(たいらのただのり)母は違うが清盛の末弟 | |||
久安元年 | 1145 | 28 | 忠盛播磨の守に就任 | |
6月 | 源義朝ら相模大庭御厨での濫行を禁ずる。 | |||
久安2年 | 1146 | 2月 | 29 |
平清盛、正四位下安芸守に任じられる。 このころ、平時子(二位尼)清盛後妻となる。 |
久安3年 | 1147 | 4月 | 30 | 源義朝の第三子 源頼朝生まれる。母は熱田大宮司の娘であった。 |
この年平宗盛生まれる。 | ||||
この年、平清盛、厳島神社修造 | ||||
6月 | 祇園社会に際し清盛が田楽を祇園社へ奉納しようとした清盛が、田楽者に郎党を付して遣わしたところ、郎党が祇園社司と乱闘を始め、社司を傷つけ社殿に矢を射るという狼藉を働いた事件が起こる。 | |||
本寺である比叡山延暦寺の憤慨を買い強訴によって平忠盛・清盛父子の流罪を要求して衆徒が都に乱入し大騒動となる。 | ||||
● | しかし忠盛父子をかばおうとする鳥羽院の意向に従って弁護論が大勢を占めしょく銅三十斤を出すことでけりがついた。 | |||
源義朝の第3子頼朝が生まれる。母は熱田大宮司の娘であった。 | ||||
法然美作より上洛し比叡山で受戒す。 | ||||
1147~ 1185 |
平宗盛(父は清盛、母は徳子)同腹の弟や妹に知盛・重衡・建礼門院徳子がいる。 | |||
久安4年 | 1148 | 31 | 九条院(藤原呈子)が鳥羽院の妃であった美福門院の養女として引き取られる。義経の母である常盤は「平治物語」に「九条院の雑仕」として見える。 | |
久安5年 | 1149 | 32 | 摂関家の左大臣藤原頼長が奥羽にある摂関家領荘園五カ所の年貢増額を平泉の藤原の基衡に要求した。 | |
藤原基衡は要求通りの増額は認められないと拒否。まったくはねつけたのではなく若干の上積みをするとともに海豹皮五枚の納入を回答した。(「台記」) | ||||
久安6年 | 1150 | 6月 | 33 | 九条院(藤原呈子)が摂政藤原忠通の養女として近衛天皇の中宮となる。 |
1150頃 | 平安末期の日本の総人口は690万。 | |||
仁平元年 | 1151 | 氏長者、左大臣頼長、内覧となる。 | ||
2月 | 34 | 平忠盛刑部卿に就任。 平清盛安芸守に就任。 |
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1152~1185 | 平知盛 平清盛の四番目の息子。母は二位の尼とも呼ばれる時子。 |
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仁平3年 | 1153 | 正月13日 | 36 | 父忠盛58歳で没する。 清盛は安芸守在任中で数年来高野山の大塔の再建工事を進めていた。 |
左大臣藤原頼長は忠盛について日記に「数国の吏を経て富巨万を累ぬ。奴僕国に満ちて武威人にすぐる。しかるに人となり恭倹、いまだかつて奢侈 の行いあらず。時の人これを惜しむ」と書き残した。 | ||||
忠盛の後妻の宗子は忠盛の死後出家し池禅尼と呼ばれた。 | ||||
8月 | 源義朝は下野守に任じられた。(「本朝世紀」) | |||
久寿元年 | 1154 | 37 | 木曽義仲、源義賢の次男として誕生。 | |
源為朝の乱行により、父源為義、その官を解かれる。 | ||||
西日本中心に大飢饉。疫病流行。京都紫野の今宮神社に京中の男女が群れをなし「やすらい花や」と歌いはやし笛や太鼓擦鉦を鳴らして踊り狂う。この悪魔払いは大きな反響を呼び天皇の勅によって禁止された。 | ||||
久寿2年 | 1155 | 38 | 源義賢と秩父重隆は武蔵国比企郡大蔵(現埼玉県嵐山町)の館にいた。木曽義仲の父、源義賢と秩父重隆が源義朝の長男源義平に討ち取られてしまう。(大蔵合戦) | |
この時駒王丸と呼ばれていた義仲は「平家物語」や「源平盛衰記」などによれば当時二歳「吾妻鏡」によれば当時三歳であった。 | ||||
危うく生きながらえた義仲は木曽谷の中原兼遠に託されて養育されることになった。 | ||||
義仲は中原兼遠の実の子息である樋口次郎兼光・今井四郎兼平・巴らと兄弟同様に育てられたがその場所は現在の長野県木曽郡木曽町日義を中心とする地域と言われている。 | ||||
同じく命を長らえた義仲の兄の仲家は摂津源氏の源頼政にかくまわれてその養子となり後に頼政が以仁王を奉じて反平氏の兵を挙げた際頼政とともに宇治で討ち死にをした。 | ||||
7月 | 近衛天皇が17歳で没する。鳥羽院と院近臣藤原長実の娘得子(美福門院)との間の子である。 | |||
鳥羽上皇は関白藤原忠通と相談し近衛天皇の異母兄雅仁(まさひと)親王を後白河天皇として即位させた。 | ||||
雅仁親王の子の守仁親王は美福門院の猶子であったからこの親王こそが上皇の意中の人物であり新天皇は親王が即位するまでの中継ぎ役にすぎなかったといわれる。 | ||||
安芸守在任中の平清盛厳島神社の社殿を修復 | ||||
建礼門院徳子、清盛・時子夫婦の娘として生まれる。 | ||||
飢饉の年 | ||||
慈円、鴨長明生まれる。 | ||||
保元元年 | 1156 | 4月 | 39 | 高野山大塔の落慶供養が行われる。 |
後白河天皇と兄の崇徳上皇との確執は一段と深まりつつあった。 | ||||
6月 | 鳥羽上皇は危篤に陥った。 | |||
後白河天皇の周囲は平清盛と源義朝をはじめとする武士を呼び寄せ禁中の守護と上皇が臥す鳥羽院の警護にあたらせた。 鳥羽上皇が亡くなったなら崇徳上皇と左大臣藤原頼長は手を組んで軍を起こし国家を傾けようとするだろうという噂が流れたためであるとしている。 |
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崇徳上皇方についていたのは摂関家の藤原忠実・頼長親子、平氏では平忠正、源氏では源為義・為朝親子であった。 | ||||
天皇方についた藤原忠通にとって藤原忠実・頼長親子は父と弟にあたるだけでなく 平忠正は平清盛にとって叔父 源為義・為朝親子は源義朝にとっては父と弟にあたる。血肉を分けた争いとなった。 源頼政は後白河天皇方に属した。 |
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父危篤と聞いて崇徳上皇が駆けつけたが門前払いをくわされた。鳥羽の中宮待賢門院(藤原公実(きんざね)の娘珠子)が入内の前後に白河法皇の寵愛を受けていて入内後に生まれた崇徳天皇は実は白河法皇の子であったからである。 | ||||
7月2日 | 39 | 鳥羽上皇が洛南鳥羽殿(安楽寿院)で亡くなった。 | ||
天台宗の僧慈円(関白藤原忠通の子)の著した愚管抄に(保元元年7月2日鳥羽院ウセサセ給ヒテ後日本国ノ乱逆ト云フコトハヲコリテ後ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也ケリ)とある。 | ||||
7月3日 | 後白河天皇側は直ちに攻勢を強めた。東三条邸襲撃。 | |||
7月6日 | 平清盛の二男平基盛が大和国の源親治という武士を捕縛した。崇徳上皇と左大臣藤原頼長は手を組んで軍を起こし国家を傾けようとするだろうという噂が真実であることを前提とし藤原頼長のもとに馳せ参じようとした嫌疑によって即ち源親治を謀反の与同者として捕らえたのである。 | |||
7月8日 | 摂関家の本宅である東三条殿が差し押さえられた。同邸宅は藤原の忠実から藤原頼長に譲られたものである。天皇側は藤原頼長の最も重要な財産を没収することによって彼が謀反人であることを内外に強調したのである。 | |||
藤原の忠実・頼長の父子が諸国の荘園から軍兵を召集しているとの噂があるのでこれを固く禁止するという綸旨が後白河天皇より出された。 | ||||
7月10日 夕刻 |
藤原頼長は 宇治から上京し、崇徳上皇とともに天皇家の嫡流が所有すべき白河北殿を占拠し武士を呼集した。崇徳上皇の召しに応じたのは平家弘とその一門、平忠貞と子息長盛、源為義・源為朝父子、源頼憲と子息盛綱らであった。源為朝が夜討ちを主張したが上皇を奉じた天皇との国をかけた争いという大義名分にこだわる藤原頼長がためらう。 | |||
7月10日夜 | 後白河天皇方にも7月8日に接収した東三条殿に武士たちが集結し開戦の準備を整えた。平清盛、源義朝、源義康、源光保、平盛兼と子息信兼、源頼政、源重成、源頼盛らである。 同じころ開かれた天皇方の軍議では、源義朝の夜討ち論が採用された。 |
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源義朝は鎌田正清・後藤実基を筆頭に近江・美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・安房・上総・下総・武蔵・上野・下野・常陸・甲斐・信濃などの東国諸国の在地武士を動員しこの乱に参加させた。平氏系の千葉介常胤・大庭景義・斉藤別当実盛の名もみえる。保元物語によると壱千余騎である。この数字は誇張されたものらしく当時の公家の日記「兵範記(ひょうはんき)」には清盛三百騎、源義朝二百騎、源義康百騎とある。 | ||||
平清盛の率いる平氏は子の重盛・基盛弟の頼盛・敦盛・経盛など一族が中心となった。これに平家貞・貞能父子、盛国・盛俊などの郎等、難波経房・瀬尾兼康・古市伊藤景綱・山田惟行ら河内、伊勢、伊賀、備前、備中の武士たちが加えられた。六百余騎となっている。 | ||||
7月11日 明け方 |
出兵をためらう藤原忠通に、源義朝と信西が即時の出撃を唱え忠通はこれを受け入れ白河殿へ進発した。 | |||
平安京における初の兵乱、保元の乱おきる。 平清盛は後白河天皇の陣営に加わり、最大の300騎を統率して勝利に貢献した。一門を除く郎党としては、山城・河内における武士のほか平家貞、伊賀の伊藤景綱、伊藤六一族、伊賀の山田是行、備前の難波経房、備中の瀬尾兼康の名がある。(保元物語) |
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二条方面から平清盛、大炊御門から源義朝、近衛大路方面から源義康が押し寄せ戦いは4時間ほどで終結する。 | ||||
7月11日 午前8時ころ |
白河殿は炎上し崇徳上皇らは逃走した。 乱戦の中で藤原頼長は流れ矢にあたり3日後に死去した。 崇徳上皇は讃岐国に流された。平忠正と源為義は、死罪に。弓の名手源為朝は伊豆大島に流された。 源為義以下の武士たちは捕縛され20名が斬刑に処せられた。 |
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後白河・平清盛・源義朝ら勝利。 | ||||
後世に書かれた軍記や物語はこのとき最も勇ましい戦いぶりを見せたのは敗者となった崇徳上皇方の源為朝だったと伝える。弓の名手で九州平定に功があったところから鎮西八郎為朝とも呼ばれた彼の活躍は半ば伝説化されて後世に伝えられていく。 | ||||
清盛は保元の乱で焼失した白河千体阿弥陀堂を再建した。 | ||||
保元の乱後清盛は恩賞として播磨守に就任。 | ||||
必死で働いた源義朝は右馬権頭に任じられただけであった。 | ||||
源義朝は不公平な恩賞を怒った為朝廷は左馬頭・正五以下に任じた。 | ||||
7月11日 午後 |
天皇は藤原忠通を氏長者に任じた | |||
平清盛の三女、平盛子産まれる | ||||
7月17日 | 平清盛の申請によって頼盛と教盛の昇殿が許された。 | |||
9月 | 経盛が安芸守に任じられた。 | |||
信西が「新制七カ条」を設けた。荘園に関するものが二か条、僧兵統制に関して3カ条、寺社の所領やその用途に関してが二カ条という構成であった。七カ条の実行を任務とする記録所も設置した。 | ||||
信西は内裏造営に取り組み無事に天皇の行幸を得たのち「新制三十か条」を発布する。 | ||||
1156~1185 | 平重衡(平清盛の五男で母は時子) | |||
藤原頼長「台記」(日記) | ||||
保元2年 | 1157 | 正月 | 40 | 平重盛が従五位上に叙された |
保元3年 | 1158 | 41 | 清盛大宰府の実質的長官である太宰大弐に転ずる。 | |
8月 | 後白河退位。守仁親王が二条天皇として即位。後白河上皇の院政始まる。 | |||
この頃今様のほか一足・高足・輪鼓・独楽・咒師・侏儒舞など盛行 | ||||
1158~ 1179 |
後白河院政期 | |||
1158~ 1185 |
平資盛(たいらのすけもり)(平重盛の次男) | |||
1158?~ 1185 |
平維盛(たいらのこれもり) | |||
保元4年 平治元年 |
1159 | 2月19日 | 42 | 三条室町の上西院御所での饗宴で頼朝は清盛に酒盃をつぐ。頼朝13歳。 |
平治元年 | 保元の乱で夜襲を提案し本来なら軍功第一のはずの源義朝は左馬権頭に任じられ昇殿を認められただけで所領は増えなかったため義朝は不満を抱き院近臣の藤原信頼と結んで平治の乱を起こした | |||
平治の乱の原因は後白河上皇の近臣である藤原通憲(信西)と藤原信頼との反目にあった。藤原通憲(信西)は後白河を育てて皇位につけて実権を掌握したのに対し、藤原信頼は後白河の寵臣として保元の乱後に勢力を広げ出世の障害となる信西を退けようとしていた。 | ||||
12月4日 | 平清盛は一族をあげて熊野詣に出発した。 | |||
12月9日 夜半 |
藤原信頼と源義朝はこの機に乗じて信西を倒すクーデターを決行した。 | |||
後白河上皇は内裏の御書所という場所に軟禁され、信西の屋敷が焼かれた。 | ||||
12月10日 | 平清盛は紀伊国で平治の乱勃発の急報がもたらされた。 | |||
12月13日 | 信西は事前に異変を察知して屋敷から脱出したものの源義朝方の武士に追われこの日京都南方の田原で自害した。信西は頼みの清盛の武力が京周辺にないことから早くから死を覚悟していたらしい。 | |||
12月14日 | 藤原信頼は除目を行い源氏一門の官位を進めてその労をねぎらった。 | |||
12月16日 夜半 |
京は藤原信頼・源義朝に占領されており清盛は九州への下向さへも考えた。 | |||
12月25日 | が紀伊の豪族湯浅宗重、熊野別当らが武士や武具を提供したため清盛は無事帰京して六波羅の屋敷に入った。 | |||
平清盛は藤原信頼に味方する旨を伝えて油断させながら内裏にいた二条天皇グループと連絡を取る | ||||
12月25日夜 | 二条天皇は内裏を脱出し平清盛の六波羅邸に入った。 | |||
源頼政は初め後白河院と二条天皇を擁する藤原信頼、源義朝方についたが、平清盛が帰洛し院・天皇が六波羅に走ると平家方に属して戦った。 | ||||
上皇も密かに仁和寺に脱出した。 | ||||
平清盛は藤原信頼・源義朝追討の宣旨を得る。 | ||||
12月26日 | 平家の軍勢は大内裏を攻撃した。 | |||
平清盛、源義朝、藤原信頼らに勝利。 | ||||
清盛は平治の乱で勝利の成果を事実上独占し公卿に昇進するとともに、実質的に全国の軍事・警察権を掌握し多数の知行国を獲得した。 | ||||
この乱に源氏一族の頼政も加わっていたが乱の終結まで兵を動かすことなく平氏に寝返った。この影響は大きく義朝一党は壊滅状態となり近江方面へ逃亡。 | ||||
藤原信頼を斬首。 | ||||
12月29日 | 源義朝は藤原信頼の失態もあって没落せざるをえなくなり、東国に逃れる途中で家人の長田忠致の裏切りにより討たれた。 | |||
永暦元年 | 1160 | 1月25日 | 43 | 源義朝の長子義平は斬られた。 |
牛若(のちの義経)が生まれる。 | ||||
平清盛は平治の乱で敗れた源義朝の遺児の命をいたずらに奪わなかった。 平清盛の継母の池の禅尼の懇願により捕らえられ処刑直前だった源頼朝も死を免れ伊豆の国に流された。 常盤を母とする今若(のちの阿野全成)・乙若(のちの円成(義円))・牛若(のちの義経)の三人も仏門に入ることを条件に命を救われた。 |
||||
3月 | 源頼朝伊豆に流罪。 平清盛は平治の乱で敗れた源義朝の遺児の命をいたずらに奪わなかった。 平清盛の継母の池の禅尼の懇願により捕らえられ処刑直前だった源頼朝も死を免れた。 常盤を母とする今若(のちの阿野全成)・乙若(のちの円成(義円))・牛若(のちの義経)の三人も仏門に入ることを条件に命を救われた。 |
|||
6月 | 平清盛は参議正三位となり武家初の公卿に叙任された。 | |||
この年、二条・後白河の対立から二頭政治体制となる。 | ||||
1160~1185 | 平教経(たいらののりつね)(平清盛の弟教盛(のりもり)の息子) | |||
応保元年 | 1161 | 9月 | 44 | 後白河女御の平滋子(建春門院)憲仁親王(高倉天皇)を出産。 |
後白河院政停止。二条親政始まる。 | ||||
源頼政、鵺を射る | ||||
応保2年 | 1162 | 45 | 清盛が福原のある攝津国八部郡を事実上私領化した。 平清盛権中納言となる。 |
|
長寛2年 | 1164 | 47 | 9歳の平盛子13歳年上の関白藤原基実に嫁ぐ | |
9月 | 平清盛と一族、厳島神社に写経(平家納経)奉納。 平清盛自筆の願文に加え、法華経二十八品と無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経の四経、計三十三巻。 平清盛は二巻、重盛、経盛(つねもり)、教盛(のりもり)、頼盛(よりもり)など一門三十二人がそれぞれ一巻ずつを担当して書写した。 |
|||
12月 | 後白河上皇発願の蓮華王院を清盛が造営し落慶法要が行われる。 三十三間堂がこれであるが今日のものは鎌倉時代に再建された。 |
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長寛2年~ 正治2年 |
1164~1200 | 「 玉葉」(関白九条兼実の日記) | ||
永万元年 | 1165 | 48 | 二条退位(直後に没)。六条天皇即位。 平清盛権大納言となる。 |
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仁安元年 | 1166 | 49 | 清盛の弟頼盛が太宰大弐に就任。 | |
7月 | 後白河院政、復活。 | |||
11月 | 平清盛、内大臣に就任。 | |||
12月 | 源頼政、正五位下に叙され内昇殿を許される。 | |||
木曽谷で幼年期を過ごした駒王丸(木曽義仲は養父の中原兼遠とともに上洛し、石清水八幡宮に詣でる。社前で元服し木曽次郎義仲と名を改めた。 | ||||
仁安2年 | 1167 | 2月 | 50 | 平清盛、公卿としての最上位の官である太政大臣に就任。嫡男の重盛以下一族に朝廷の要職と多数の荘園・知行国を与えさらに諸国の有力武士の多くを家人として組織した。平清盛と平家一門の貴族化が進む。 |
5月 | 平重盛、家督を意味する山賊・海賊追討宣旨を受け全国的軍事警察権を得る。 平清盛、太政大臣退任。 |
|||
源頼政、従四位下となる。 | ||||
仁安3年 | 1168 | 2月 | 51 | 前大相国(太政大臣)平清盛は大病を患って出家入道した。 |
平時忠、検非違使別当となる。 | ||||
厳島神社から造営の願いが出される。 | ||||
六条退位。高倉天皇即位。 | ||||
栄西入宋するも秋重源と共に帰国。 | ||||
嘉応元年 | 1169 | 52 | 清盛が大輪田泊に隣接する福原(神戸市兵庫区平野)に移り住む。 | |
6月 | 後白河出家 | |||
1169~ 1184 |
平知章(たいらのともあきら)(平知盛の嫡子、清盛の孫) | |||
嘉応2年 | 1170 | 高麗で文人の政権が倒れ、武人政権誕生。 | ||
5月 | 53 | 藤原秀衡、鎮守府将軍に就任。 | ||
源頼政、右京太夫となる。 | ||||
7月 | 殿下乗合事件。平資盛が藤原基房に牛車を壊される。 清盛の孫資盛(すけもり)(平重盛の二男)が鷹狩りの帰路、摂政藤原基房(ふじわらのもとふさ)と路上で行きあった際、下馬の礼をとらなかったため馬から引きずりおろされるという事件が起こる。 | |||
9月 | 宗船大輪田泊来航。平清盛福原に後白河法皇を招き宋人と面会。 | |||
10月 | 平重盛、殿下乗合事件の報復に参内する藤原基房を襲撃 | |||
1170~ 1185 |
平清宗(たいらのきよむね)平宗盛の息子 | |||
承安元年 | 1171 | 12月 | 54 | 平清盛の娘徳子(建礼門院)、高倉に入内。 |
源頼政、正四位下に叙される。 | ||||
承安2年 | 1172 | 2月 | 55 | 徳子高倉の中宮になる。 |
承安3年 | 1173 | 3月 | 56 | 後白河、平清盛に宋への返書を命ず。 |
清盛の命を受けて阿波の武士田口成良が大輪田泊に堤防として経が嶋を造営した。 | ||||
平清盛兵庫島築造。 | ||||
承安4年 | 1174 | 3月 | 57 | 後白河、平清盛ら厳島神社参拝。 |
春 | 義経16歳で鞍馬寺を飛び出す | |||
安元元年 | 1175 | 58 | 加賀・白山の末寺と院庁役人とがいさかいを起こし後白河上皇と僧兵たちとの対立を招いた。 | |
法然長い彷徨の末、専修念仏を唱えて下山す。 | ||||
安元2年 | 1176 | 7月 | 59 | 皇太后の建春門院滋子が死ぬ。 |
西光の子で加賀守の任にあった藤原師高が加賀国の一大勢力である白山神社との間で争乱を起こす。 | ||||
治承元年 | 1177 | 60 | 白山神社は国司諸高の処分を求めて本山延暦寺に訴え、延暦寺の衆徒たちが強訴に及んだため、後白河法皇は諸高を尾張国に配流した。 | |
諸高の父西光は後白河法皇に訴えて延暦寺に対する処罰を要求した。 | ||||
近臣の言い分を無視するわけにいかない後白河法皇は延暦寺の衆徒たちへの断固たる対応を平清盛に一任することとした。 | ||||
平清盛は後白河と延暦寺の間で板挟みになった。 | ||||
3月 | 藤原師長が左大将の位を辞したためその席を藤原成親が狙っていた。しかし実際に昇進したのは重盛であった。平重盛、内大臣に任ぜられる。 右大将には宗盛が就任した。 | |||
6月 | 西光(さいこう)、藤原成親(なりちか)、俊寛(しゅんかん)、平康頼(やすより)といった院の近臣たちによる源氏を頼っての平家打倒を図る京都東山の鹿ケ谷の陰謀発覚。 「平家物語」によると密議がなされた場所は鹿ケ谷にある俊寛の別荘。(慈円の著「愚管抄」によれば藤原通憲(みちのり)の子靜賢(じょうけん)の別荘) 謀議の発端は藤原成親の望む右近衛大将の地位に清盛の子宗盛がついたことであるとされる。すなわち官職をめぐる藤原氏と平氏の対立がもたらした事件ということになる。 |
|||
合戦の場で頼みとなる武士の中で謀議の場にいたのは摂津源氏の多田忠行綱のみであり、しかも肝心の行綱が平氏へ密告したことにより謀議が露見した。 | ||||
西光斬首。藤原成親は備前国に配流した後に殺害。俊寛・平康頼は鬼界島に流罪。 | ||||
鹿ケ谷事件によって多くの近臣を失った後白河法皇は事件を機に協調関係を維持してきた清盛との間に亀裂が生じた。 | ||||
後白河法皇は反平氏の政治スタンスを鮮明にしていた摂関家の藤原基房に接近するようになった。 | ||||
藤原基房の兄である藤原基実の妻となっていた清盛の娘盛子ガ基実の子である基道の養育費用の名目で摂関家領の大部分を継承し事実上の平氏による摂関家領の横領がなされたことにより基房と平氏との対立関係は決定的となる。 | ||||
6月 | 盛子が没する。 | |||
大火。大内裏を含め平安京の三分の一を焼く。 | ||||
治承2年 | 1178 | 11月 | 61 | 中宮 徳子は平家一門待望の息子言仁皇子(安徳天皇)を生む |
藤原俊成「長秋詠藻」成る。 | ||||
1178~1185 | 安徳天皇第81代天皇(在位1180~1185)父は高倉天皇母は平清盛の娘の中宮徳子のちの建礼門院 | |||
源頼政は75歳で、従三位に叙され公卿に列した。非参議となる。 | ||||
1178?~1185 | 平能宗(たいらのよしむね)平家一門の棟梁となっていた宗盛の息子 | |||
治承3年 | 1179 | 62 | 源頼政が出家した。源頼政は源頼朝の配流された伊豆国を知行していた。 | |
6月 | 藤原基房の兄である藤原基実の妻となっていた平清盛の娘盛子が没した。 | |||
摂関家に肩入れするようになった後白河は盛子の継承した摂関家の所領を没収した。 | ||||
これに激怒したのが清盛である。 | ||||
7月25日 | 平氏に延暦寺山門堂衆の追討を命じる。 | |||
8月1日 | 平清盛の長男重盛四三歳で病没。死因は不食の病(現代の胃癌、胃潰瘍) | |||
法皇、平重盛の知行国越前を没収。 | ||||
平清盛と親しい近衛家の所領継承問題に関して上皇は平氏に不利な裁定を下した。 | ||||
10月3日 | 延暦寺山門との合戦を避けたかった平清盛は追討使を派遣しなかったが衆徒の要求には逆らえずようやく参議の平教盛を追討使に定める。 | |||
11月 | 清盛は福原から軍勢を率いて上洛し武力で政権奪取。清盛は大量の知行国を掌握した。 | |||
11月17日 | 基房の関白職を解任しさらに上皇の行った近衛家の人事、また反平氏とされる39人にかかわる官職を奪うという処分を強行した | |||
11月20日 | 清盛は後白河を幽閉して院政を停止した。 | |||
これ以後形式上朝廷の政治体制は後白河の皇子である高倉天皇の親政に移行した。 | ||||
12月16日 | 平清盛は東宮言仁(ときひと)を京都西八条第に迎え摺本「太平御覧」を贈る。太平御覧は宗初の太平興国2年(977)大宗の勅命を受けて編纂、全体を天・時序・地・皇王・偏覇・州都など五五部門に分けあらゆる時類を網羅しようとしたいわゆる一大百科事典である。 | |||
後白河法皇「梁塵秘抄」成る。 | ||||
治承4年 | 1180 | 2月20日 | 63 | 清盛は国家権力の力を借りて大輪田泊を改修したいとの要求書を突き付ける。 |
2月21日 | 高倉退位。 清盛は3歳の外孫安徳(父は高倉天皇、母は平清盛の娘徳子)を即位させ、娘婿高倉に院政を行わせて事実上の独裁政権を樹立した。 | |||
3月 | 高倉上皇厳島神社に参詣 | |||
4月 | 安徳天皇紫宸殿で即位式を行う | |||
後白河法皇の第三皇子以仁王は生母(権大納言藤原季成の娘成子)が必ずしも身分の高い家筋ではなく平氏との縁も薄かったため皇位継承者の資格を認められないばかりか親王宣下すら受けられず幼少時に僧侶となるべく天台座主最雲の弟子にされていた。 | ||||
しかし以仁王はついに出家をせず皇位継承にわずかな望みをかけて俗人のままでいた。 | ||||
以仁王は平氏が後白河の院政を停止し兄高倉の皇子安徳を即位させたことで自らの皇位継承の可能性を消し去ったことにより平氏打倒の決意を固めた。 | ||||
以仁王は後白河法皇の妹にあたる八条院の猶子となっていた。八条院は膨大な天皇家領荘園を保有しその経済力を頼る様々な勢力が彼女に連なる人脈を形成していた。 | ||||
以仁王は平氏を倒すための武力として摂津国渡辺を本拠とする摂津源氏渡辺党の棟梁である源頼政に望みを託した。 | ||||
4月9日 | 以仁王は源氏を中心とする諸国の武士や大寺社にあてて清盛一門打倒のための挙兵に呼応することを命じる令旨を発した。 | |||
後白河法皇の第二皇子・以仁王をかついで源頼政が挙兵した。源頼政、以仁王から平氏追討の令旨を受け、新宮十郎行家を派遣して諸国の源氏に伝えさせる。 | ||||
4月27日 | 頼朝の叔父陸奥十郎義盛(行家と改名)が平氏追討の令旨を北条館にいた頼朝に伝えにきた。 | |||
5月 | 令旨が露見。 | |||
5月15日 | 以仁王を逮捕するために平氏家人である検非違使たちが三条高倉にある王の御所に押し寄せた。 | |||
以仁王は家人である長谷部信連の必死の防戦の間に脱出し園城寺に向かった。 | ||||
5月22日 | 源頼政が京内の邸宅を自ら焼き払い王に合流した。 | |||
兵力で劣勢にたつ以仁王と源頼政は園城寺に対する平氏の総攻撃が始まる直前に寺を出て興福寺の僧兵の加勢を得ることを最後の頼みに奈良に向かった。 | ||||
5月26日 | 途中の宇治で平重衡・平維盛の軍と合戦に及びともに討ち死にする。源頼政、平等院で自害。享年七七歳 。以仁王敗死。 | |||
以仁王生存説 ①ミズバショウで有名な尾瀬へ逃れた。この地で侍臣の尾瀬中納言が死んだため「尾瀬」という名がついた。 |
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②一行は南会津檜枝岐村に出て日光街道を北上。大内宿に入る。大内宿に以仁王を祠る高倉神社が鎮座している。 | ||||
③現在の新潟県南蒲原郡下田村に住みついた。「椿」という名字の家が以仁王とともに逃げてきた源氏の子孫といわれる。 | ||||
6月 | 平清盛福原への遷都を命じる | |||
三浦義澄と千葉胤頼の二人が伊豆の北条時政の家を訪れた。2人の父親三浦義明・千葉常胤はかつて源頼朝の父親源義朝の家人として仕えていた古参の関東武士である。京都御所の警備などを勤める大番役を終えて帰国したところであった。京都で宇治合戦に遭遇し官兵として平氏から動員されたという最新情報を伊豆の頼朝にもたらしたのであった。 | ||||
6月2日 | 平氏一門は安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇を奉じて福原に向かった。 | |||
6月中旬 | 新都建設計画の具体的検討が始まる。 | |||
伝統的な王朝貴族の代表右大臣九条兼実は高倉天皇の諮問に対し、大嘗会はしばらく旧都に遷都して挙行しそれが叶わなければ来年以降に延引するほかないだろうと答えた。 | ||||
6月19日 | 朝廷の下級役人出身の三善康信が以仁王の挙兵失敗の報を伊豆の頼朝に知らせるとともに諸国の源氏が平家の追討の対象となりつつあることを伝え奥州へ逃れることを頼朝に勧める。 | |||
7月半ば | 和田京建設が挫折し福原宮を中心とした都市城整備の方針に切り替えられていく。 | |||
7月16日 | 「玉葉」に「福原を暫く皇居となすべし、道路を開通し宅地を人々に給ふべし」とある。 | |||
8月 | 熊野別当湛増平氏に反旗を翻す | |||
8月初めまで | 高倉上皇は清盛の意を酌んで福原で大嘗会を決行する考えを持っていた。 | |||
8月中旬まで | 清盛を筆頭とする強硬派と伝統的な王朝貴族との間で安徳天皇の大嘗会を旧都でやるか福原でやるか激しく議論された。 | |||
8月12日 | 大嘗会は来年以降に延期と決まる。 | |||
8月17日 | 源頼朝、伊豆で挙兵。源頼朝は集まった武士たちに平氏家人である伊豆国目代山木兼隆とその後見人・堤信遠襲撃を命じる。 | |||
8月19日 | 頼朝は伊豆の国蒲屋御厨に下文を発し山木兼隆の親戚にあたる史大夫知親を解職した。 | |||
8月20日 | 源頼朝は。頼朝のもとに駆けつけていた伊豆・相模国の武士たち、北条時政・安達盛長・工藤茂光・宇佐美助茂・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・大庭景義・加藤景廉・近藤国平ら300騎を率いて伊豆から相模土肥郷に向かった。 | |||
相模の有力武士三浦義明・義澄の一族は折からの相模川増水に阻まれ頼朝のもとにはまだ到着しなかった。 | ||||
平家に心を寄せる大庭景親・俣野景久・渋谷重国・河村義秀・糟屋盛久・海老名季貞・曽我助信・滝口(山内首藤)経俊・毛利景行・長尾為宗・原宗景房・熊谷直実ら「平家被官の輩」三千余騎が伊豆石橋山に布陣していた。 | ||||
背後からは伊豆の有力武士伊東祐親の兵三百騎も頼朝をねらっていた。平氏追討の | ||||
8月23日 | 石橋山合戦で平家方に敗戦。 石橋山に陣を置いた源頼朝の兵力は三〇〇、対する兵士の兵力は三〇〇〇と一〇倍の戦力差であった。源頼朝、箱根山中に潜伏。 | |||
三浦一族豪雨のために酒匂川(さかわがわ)を渡れず。 | ||||
8月23日夜 | 大庭景親、頼朝に総攻撃開始。 | |||
8月24日 | 源氏再興・復権という源頼朝の宿願は山中に消えかけた。しかし敵の武将・梶原景時が頼朝に対し、何かの可能性を感じたのか、恩を売っておこうとしたのか隠れ潜んでいるところを見逃してくれた。そのため源頼朝一行は無事に房総の安房へ落ち延び軍を組織し直して再起の時を待つことができた。 | |||
8月28日 | 真鶴崎から安房を目指して出帆 | |||
8月29日 | 猟島(鋸南町)に至る。 | |||
徳子は建礼門院の院号を賜った。 | ||||
平氏討伐の以仁王令旨が源行家の手によって義仲のもとへもたらされた。 | ||||
9月3日 | 木曽次郎義仲(源義仲)、木曽に挙兵 | |||
9月4日 | 安西景益の屋敷に入る。 | |||
9月5日 | 州崎明神に詣でる。 | |||
9月7日 | 「吾妻鏡」に義仲の最初の大規模な戦闘である市原の合戦についての記事がある。 | |||
9月12日 | 頼朝追討軍福原を出発(総大将、平惟盛) | |||
9月17日 | 源頼朝下総国府(市川市)に入る。 | |||
10月 | 義仲は父義賢の根拠地であった上野多胡郡に進出し約2カ月滞在。その間に多胡・那和・桃井・佐位・木角などの上野の有力武士を味方にすることに成功した。 | |||
10月2日 | 隅田川を渡り武蔵に入る。 | |||
10月6日 | 頼朝上総・千葉氏らを従え再起し、相模鎌倉に入る。 | |||
10月17日 | 「 吾妻鏡」によると次子の源朝長は源義朝が相模の国で活動していた時期に生まれた。母を波多野氏の出としている。 この日源頼朝に背いた波多野義常は源頼朝の討手が到着する前に相模国の松田郷で自殺した。 |
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10月18日 | この日に義経にあったとする説もある。 | |||
源頼朝は平氏による追討軍が派遣されたことを聞くとこれを迎え撃つために駿河に向かって出発した。軍勢は20万騎 | ||||
これに対する平氏は数万規模の兵士を揃えたものの士気は高くなかった。出発にあたって大将軍の維盛と侍大将の忠清との間でいつ京都を出発すれば縁起がいいかをめぐって意見の対立もあり7日間も出発できないという混乱も起きる。 | ||||
こうした大勝たちの姿に愛想を尽かしたのか途中で逃げ帰る連中が続出し、駿河に着くころには、軍勢はわずか数千に減ってしまった。 | ||||
10月19日 | 富士川に対峙した源平両軍は10月19日に決戦を行うことを申し合わせた。 | |||
しかし戦う前に兵の数を大幅に減らし戦意までなくしていた平氏はひとまず撤退して体制を立て直すことにした。 | ||||
退却を控えた夜富士川付近の大沼沢地にいた何万という水鳥が突然一斉に飛び立ち羽音があたりに響き渡った。平氏軍はこれを敵の夜襲の音と勘違いして大混乱に陥り大慌てで逃げ去ったという。 | ||||
10月20日 | 富士川の合戦。平維盛軍、源頼朝軍を前に退却。 源義経、頼朝方に参陣。 |
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富士川から逃げ帰った平惟盛を見た平清盛は多いに激怒した。 | ||||
一方戦わずして勝者となった源頼朝は鎌倉に引き返す途中黄瀬川の宿で奥州から駆け付けた異母弟の九郎義経と対面した。 | ||||
この時期義経だけでなくその兄の全成・義円も異腹の兄、範頼もそれぞれ源頼朝の傘下に参じている。 | ||||
10月23日 | 頼朝相模国府に至る。 源頼朝は相模国府において本領安堵・新恩給与を実施した。これまで従ってきた武士たちに鎌倉殿として初めて恩賞を付与したのである。 | |||
10月25日 | 松田亭(神奈川県松田町)に入る。 | |||
10月27日 | 源頼朝佐竹氏を討つため常陸に進攻。 | |||
11月4日 | 常陸国府(石岡市)に至る。 | |||
11月5日 | 金砂城(茨城県金砂郷村)攻略 | |||
11月8日 | 源頼朝、小栗御厨の八田館(下館市)に入る。 | |||
11月 | 新造内裏で新嘗祭の五節を挙行。天皇・上皇らは都に帰還。 | |||
11月29日 | 平清盛、福原から引き上げ京に還都。 | |||
美濃・尾張・近江の源氏蜂起する。 | ||||
11月17日 | 鎌倉に戻った頼朝は御家人を指揮・統率する侍所の別当に和田義盛を任命して軍事組織を整えた。 | |||
12月 | 義仲は頼朝との衝突を回避するため上野から信濃に引き返した。 | |||
信濃に戻った義仲は依田城(現長野県丸子町)を拠点として東信濃の武士を組織することに務めその結果根井・海野などの有力武士が配下に加わった。 | ||||
12月 | 平清盛、後白河の幽閉を解き政務復帰を要請。 | |||
興福寺大衆が東大寺に呼び掛けて平氏攻撃に決起する事件が起きる。 | ||||
12月23日 | 平清盛は「南都の悪徒を追討すべし」という命令を発する。 | |||
12月25日 | 平重衡は京都を出発して宇治に向かう。 | |||
12月27日 | 河内から攻め入った官軍が南都の衆徒に攻撃されて30人余りが射殺されてしまう。 | |||
12月28日 | 平重衡の軍勢は木津・奈良坂・般若寺の南都側の防衛線を突破して奈良に入った。 | |||
平重衡、南都(奈良)を攻撃。東大寺・興福寺焼失。 | ||||
「吾妻鏡」の記事はこの年より1266年まで | ||||
藤原定家(19歳)「明月記」はこの年より1235年まで | ||||
治承4年~ 嘉禎元年 |
1180~1235 | 「 明月記」(藤原定家の日記) | ||
養和元年 | 1181 | 1月 | 64 | 高倉上皇が20歳で没する。後白河院政復活。 |
平宗盛、五畿内ほか近畿諸国の惣官職に任ぜられる。 | ||||
2月 | 豊後の緒方惟能、肥後の菊池隆直ら、対平家挙兵。 | |||
閏2月4日 | 平清盛亡くなる。温病(疫病)が死因だという。 | |||
伊予の河野通信、対平家挙兵。 | ||||
3月10日 | 尾張墨俣川の戦い。平重衡・通盛軍、源行家軍を墨俣川で破る。 | |||
6月 | 造興福寺長官任命され、再建を開始。 | |||
6月13日 | 信濃横田河原の合戦。木曽義仲、平家方の城長茂を破る。 | |||
7月14日 | 鶴岡八幡宮宝殿上棟の際、頼朝は工匠に与える馬を曳くよう義経に命じたが、義経はこの命に従おうとせず頼朝の怒りを招いた。この事件が義経失脚の遠因の一つになったといわれる。 | |||
8月 | 重源、東大寺再建の宣旨を賜り、勧進を開始 九条兼実の姉・皇嘉門院聖子、銅10斥を寄付 源頼朝千両の砂金を寄付 藤原秀衡五千両の砂金を寄付 |
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親鸞比叡山に入る。 | ||||
1181~ 1192 |
後白河院政期 | |||
寿永元年 | 1182 | この年大旱魃・飢饉により死者京に満つ。 | ||
3月 | 平家、院宣により諸国荘園から兵糧米徴収。 | |||
10月 | 平宗盛、内大臣就任。 | |||
興福寺、東金堂、西金堂上棟。 | ||||
寿永2年 | 1183 | 4月 | 平氏は西国から集めた五十万の大軍で北陸路を攻め上がリ越前に入った。 | |
越前燧城を前線にした義仲陣営は日陰川と日野川の合流する地点の水をせき止め人工湖を造る。そのため平氏軍はなかなか進撃できなかった。 | ||||
ところが燧城内にいた平泉寺の長吏斎明が平氏方の優勢を恐れて内通、人工湖に突破口を作る方法を記した密書を矢につけて送ってしまう。これによって人工湖は水を落とされ、平氏軍の進撃によって木曽郡は加賀の三条野に後退した。 | ||||
平氏軍の攻撃は厳しく木曽軍の先頭で戦った今城寺太郎光平は平氏方の斉藤別当実盛との一騎打ちで討ち死にをする。木曽軍はさらに後退し加賀の篠原に陣を構えることになった。 | ||||
平維盛・通盛軍、燧城で木曽義仲軍を破る。 | ||||
5月11日 | 倶利伽羅峠の戦い。平家方と木曽義仲が北陸の倶利伽羅峠で戦い義仲が勝利。平家方の指揮官は平維盛、平忠度、平通盛らであった。 | |||
6月1日 | 篠原の戦い。斉藤実盛ら平家軍、木曽義仲軍に敗北。 | |||
7月25日 | 平氏都落ち。平宗盛、一門、安徳天皇、神器とともに西海へ。 | |||
7月28日 | 木曽義仲・源行家入洛し平家追討の院宣を受ける。 |
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後鳥羽即位。 | ||||
8月 | 平家一門、官位を解かれ所領が没収される。 | |||
8月17日 | 平氏、九州の太宰府に入る。 | |||
後鳥羽天皇、三種の神器が揃わぬまま即位。 | ||||
10月 | 東海・東山両道の公領;荘園の本所還付を命じ不服の者の処置を頼朝に任す宣旨下る。 | |||
平氏九州を追われる。 | ||||
閏10月1日 | 備中 水島の合戦 平知盛・教経軍木曽義仲軍を撃破 | |||
11月 | 木曽義仲後白河法皇を法住寺殿に攻める 平家一門、木曽義仲より和議を持ちかけられるが拒否 |
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11月29日 | 室山の合戦 | |||
12月 | 木曽義仲、源頼朝追討の院庁下文を発給させる。 この冬、源頼朝、木曽義仲を討つため源範頼・義経軍を派遣 |
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重源、宋の陳和卿と共に東大寺の大仏補修を始む。 | ||||
?~ 1183 |
平清経(たいらのきよつね)平清盛の長男である重盛の三男 | |||
寿永3年 | 1184 | 1月 3日 | 平家一門と木曽義仲に和議成立 木曽義仲、征夷大将軍となる |
|
源範頼・義経軍入京 | ||||
正月 | 平氏福原に戻る。 | |||
元暦元年 | 1184 | 1月20日 | 源範頼・義経軍、宇治・瀬田で木曽義仲軍を破る | |
木曽義仲、近江粟津で討死 | ||||
源頼朝、後白河から平家追討の院宣を受ける 平家、福原を奪還し一ノ谷に陣を構築する |
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?~ 1184 |
平盛俊(清盛の側近だった平盛国の子) | |||
?~ 1184 |
平経正(たいらのつねまさ)清盛の弟経盛の子。平経正の弟が敦盛 くれ竹の かけひの水は かはれども なほすみあかぬ みやの中かな |
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?~ 1184 |
平通盛(平清盛の弟の教盛の長男) | |||
寿永3年 | 1184 | 2月5日 | 三草山の合戦 | |
2月7日 | 一ノ谷の戦い 平家軍、 越から源義経の奇襲を受け敗北 平通盛・忠度・敦盛・知章討死、平重衡は捕縛される 源範頼・義経軍が福原に結集した平氏を攻撃。 平宗盛、安徳と一門を率い矢島に移る このころ平維盛那智で入水 |
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この頃平家の旧領を頼朝に与える。 | ||||
2月13日 | 「吾妻鏡」に「平家の首はいったん義経の六条室町の邸に集められた。それは、通盛卿、忠度、経正、教経、敦盛、師盛、知章、経俊、業盛、盛俊の首だった。その後これらの首は六条河原に運ばれ薙刀の先につけて獄門に向かってかけられた。これを見物する者たちで、市をなすようなにぎわいだった。」と記録されている。 | |||
しかしこの首が贋首ではないかという噂は都の人たちの間で当時からあったと九条兼実は日記「玉葉」に記している。 | ||||
「 醍醐雑事記」に教経は壇ノ浦で死んだとする伝聞が書かれている。 | ||||
平頼盛は鎌倉へ赴いて源頼朝に面会した。頼朝は頼盛に所領を返還した。 | ||||
8月8日 | 頼朝は弟の範頼を総大将に据え源氏軍を山陽道から九州へと向かわせた。「吾妻鏡」によるとその数は1千余騎だったという。 源範頼は義経同様側室の子であった。母は東海道筋の池田宿の遊女であった。 |
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9月25日 | 藤戸の合戦 | |||
10月 | さきの侍所に続いて公文所・問注所を設置。 | |||
文治元年 | 1185 | 2月1日 | 芦屋浦の合戦 | |
源頼朝は源範頼に九州への進軍を命じたが半年近くも戦果が上がらないため源義経に平家追討を命じた。 | ||||
2月16日 深夜 |
源義経摂津の国を出て四国に向かう。義経手勢を率いて摂津からの出帆を試みるも暴風のために断念。 | |||
2月17日 | 義経手勢わずか150騎を率いて出航 | |||
2月18日昼 | 義経軍屋島まで約60キロの阿波国勝浦に上陸 義経桜庭介良遠を撃破 |
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2月19日 | 引田を通過 | |||
讃岐国屋島対岸に到着し、周辺の民家に放火 屋島への突入を始める。 大軍の奇襲と誤認した平氏は海上に逃亡 この時初めて源氏の軍が少数であることを確認した。 平氏の反撃開始 佐藤継信、戦死 那須与一、扇を射る。 |
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2月21日 | 平氏軍の一部が志度ノ浜の志度寺を占拠し源氏を背後から突こうとした。志度合戦 源義経軍、平家軍を破る。源氏の援軍到着し平宗盛ら一門は海路長門へ移る | |||
3月22日 | 義経壇ノ浦へ出陣。源義経は熊野水軍200余艘や四国の河野氏の兵船150艘などを合わせて3000余艘の船団で東から接近する。(「源平盛衰記」では700余艘、「吾妻鏡」では840艘となっている。) | |||
瀬戸内海の西への出入り口、関門海峡の西をおさえる彦島を根拠地としていた平氏は四国・瀬戸内の西半部、北九州一帯の兵力を集結して1000余艘(「吾妻鏡」、「源平盛衰記」では500余艘)でこれを迎撃する。 | ||||
3月23日 | 壇ノ浦の奥津に到着 | |||
3月24日 | 壇ノ浦の戦い 源平の最後の戦い。源義経軍、平家軍を壊滅させる 平知盛・教経・教盛・経盛・。安徳・時子ら長門の国壇ノ浦で入水 平宗盛・徳子・時忠・清宗ら捕らえられ京へ移送 |
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徳子は安徳帝を抱いた二位の尼の後を追って入水するが源氏の兵の熊手に引き上げられてしまう。 | ||||
入水したはずの安徳天皇にまつわる生存説。 屋島から平資盛・経正らに守られ鬼界が島に落ち延び68歳で崩御するまで健在だったとする説。現地には安徳天皇の墓とされるものががある。 対馬の厳原には壇ノ浦から脱出した安徳天皇が対馬にわたり73歳で崩御されたという伝説がある。その陵は明治20年(1887)に御陵参考地とされている。 |
||||
平宗盛・徳子・時忠・清宗ら捕らえられ京へ移送 | ||||
5月 | 平徳子、出家し建礼門院と号する 源義経、平宗盛を鎌倉に護送するが入府を許されず腰越状を記す |
|||
6月 | 平宗盛、鎌倉で源頼朝に引見後、近江で斬首 平重衡、奈良の寺院勢力に渡され斬首 |
|||
8月 | 源頼朝、源行家追討を命じる | |||
10月 | 源頼朝、源義経追討決定 土佐房昌俊、義経邸を襲う 後白河、源義経の要請により源頼朝追討の院宣を下す 源頼朝、源義経・行家追討軍を派遣 |
|||
源義経の京都の堀川館に夜襲を掛けた土佐房昌俊の手勢に「白川印地」の者が50人ばかりもいたという。 | ||||
11月 | 源義経・行家、京を脱出 源義経、海難により奥州へ落ちる 諸国に守護・地頭設置される 源頼朝、日本国惣追捕使となる |
|||
東大寺大仏再興成る。大仏の開眼供養を行う。 | ||||
1185~ 1225 |
大倉幕府 | |||
文治2年 | 1186 | 正月 | 平知康は義仲が滅びると検非違使となっていたが義経の見方をしていたという理由で頼朝から解任された。 | |
4月 | 後白河、大原の建礼門院を訪ねる | |||
5月 | 源行家、和泉で捕らえられ斬首 | |||
6月 | 都落ち後一門と独自の行動をとり、源頼朝に厚遇された平頼盛、没 | |||
興福寺、講堂再建 | ||||
大原勝林院に法然・重源・貞慶らが会し専修念仏を詠ず。(大原談義) | ||||
文治3年 | 1187 | 3月 | 栄西再度入宋す。 | |
10月29日 | 藤原秀衡、没 | |||
藤原俊成撰「千載和歌集」成る。 | ||||
文治5年 | 1189 | 閏4月 | 衣川の合戦。藤原泰衡、源義経を襲い自害させる | |
8月8日 | 阿津賀志山の合戦。 | |||
9月 | 源頼朝、藤原泰衡を討ち奥州を支配下にする | |||
興福寺、金堂、南大門等供養を行う。 | ||||
建久元年 | 1190 | 11月 | 源頼朝、権大納言、右近衛大将に任ぜられる | |
西行没。「山家集」(西行) | ||||
東大寺上棟 | ||||
建久2年 | 1191 | このころ建礼門院没 | ||
栄西宋より帰国し臨済禅を伝える。 | ||||
建久3年 | 1192 | 3月 | 後白河法皇没 | |
7月 | 源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる。鎌倉幕府が成立。武家政権の誕生。 | |||
?~ 1195 |
平景清 | |||
建久4年 | 1193 | 富士の裾野の巻狩において決行された曽我兄弟の仇討の際頼朝が死亡したという情報が鎌倉に入った。これに臨んで源範頼は源頼朝の妻政子に「私がいるから安心してください」と励ます。 | ||
しかし政子はこの言葉を額面通りに受け取らなかった。安否が判明した源頼朝に報告され頼朝は自分にとって代わる気だと誤解した。 | ||||
8月 | 源範頼は伊豆修善寺で殺されてしまう。 | |||
建久6年 | 1195 | 東大寺大仏殿の再建供養行わる。 | ||
建久8年 | 1197 | 義高の婚約者、大姫24歳で死去 | ||
1198~ 1221 |
後鳥羽院政期 | |||
1199 | 東大寺三月堂、南大門再建。 | |||
源頼朝没 | ||||
法然「撰択本願念仏集」を著す。 | ||||
十二世紀後半から十三世紀半ばにかけ源頼朝・平重盛像などの似絵、佐竹本など歌仙絵、また「餓鬼草紙」などの六道絵が盛行。 | ||||
建仁元年 | 1201 | 藤原俊成「古来風体抄」成る。和歌所設置 | ||
1203 | 東大寺、、再建総供養を行う。 | |||
1205 | 興福寺、五重塔再建 | |||
1210 | 興福寺、、北円堂再建 | |||
承久2年 | 1220 | 元天台座主の慈円が愚管抄を著わす。 | ||
承久3年 | 1221 | 5月 | 承久の乱勃発により後鳥羽院政の崩壊 | |
1226~ 1236 |
宇都宮辻子幕府 | |||
文暦2年 | 1235 | 7月 | 仏舎利相承(系図)には祇園女御の妹も女房として仕えて寵を受け、男子を生んで清盛と名付けられたこと、それを後に女御が猶子となして仏舎利を伝えたことなどが記されている。 | |
1236~ 1333 |
若宮幕府 | |||
建長元年 | 1249 | 3月 | 大火で三十三間堂焼ける | |
建長4年 | 1252 | 「十訓抄」 | ||
文永3年 | 1266 | 三十三間堂再建。これが現在の建物で再建時の観音像は南都仏師の湛慶一派が造像した。 | ||
元弘3年 | 1333 | 北条氏と新田義貞軍の合戦。 | ||
慶長5年 | 1600 | 関ヶ原の合戦の時の日本の総人口は1227万。 | ||
享保6年 | 1721 | 江戸中期の日本の総人口3100万。 | ||
明治6年 | 1873 | 日本の総人口3300万人。 | ||
平成8年 | 1996 | 厳島神社世界遺産に登録される。 | ||
平成14年 | 2002 | 「 蝦夷・俘囚」と呼ばれた人々の村「林の前遺跡」が発掘された。 | ||
参考文献 実は平家が好き 三猿社 株式会社メディアファクトリー2005年6月19日 源氏対平氏 新人物往来社 編者 2004年12月12日五味文彦 |