和 暦 | 西 暦 | 月 日 | 年齢 | 事 績 | 参考事項 |
神武天皇 | 1代神武天皇 | ||||
2代綏靖(すいぜい)天皇 | |||||
3代安寧(あんねい)天皇 | |||||
4代懿徳(いとく)天皇 | |||||
5代考昭(こうしょう)天皇 | |||||
6代考安天皇 | |||||
7代考霊(こうれい)天皇 | |||||
8代考元(こうげん)天皇 | |||||
9代開化(かいか)天皇 | |||||
10代崇神(すうじん)天皇 | |||||
垂仁天皇元年~ 垂仁天皇 99年 |
1月2日 ~ 7月14日 |
11代垂仁(すいにん)天皇 | |||
垂仁天皇 7年 |
7月7日 | 菅原氏の祖は天穂日命(あめのほひのみこと)十四世の子孫で出雲の人野見宿祢(のみのすくね)と伝えられている。野見宿祢は当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(すもう)をとってこれを投げ殺したという。 | |||
野見宿禰の建言により初めて埴輪を並べた古墳を垂仁天皇妃の日葉酢媛(ひはすひめ)の墓と伝える。(日本書紀) | |||||
12代景行(けいこう)天皇 | |||||
13代成務(せいむ)天皇 | |||||
14代仲哀(ちゅうあい)天皇 | |||||
15代応神天皇 | |||||
16代仁徳天皇 | |||||
17代履中天皇 | |||||
18代反正(きんぜい)天皇 | |||||
19代允恭(いんぎょう)天皇 | |||||
20代安康(あんこう)天皇 | |||||
233年~ 297年 |
陳寿 | ||||
265年~ 419年 |
中国晋代 | ||||
372年~ 451年 |
裴松之 | ||||
456年~ 479年 |
12月25日~ 9月8日 |
21代雄略天皇 | |||
雄略天皇 4年 |
2月 | 葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)が「現人之神ぞ」と告げたごとく、神のほうに主体があった。(日本書紀) | |||
雄略天皇 15年 |
秦酒公(さけきみ)が絹や縑(かとり)(絹布の一種)をうずたかく積み上げて朝廷に献上したのでうつまさという姓を賜ったという記事がみえる。(日本書紀) | ||||
22代清寧(せいねい)天皇 | |||||
23代顕宗(けんそう)天皇 | |||||
488年~ 498年 |
2月4日~ 9月9日 |
24代仁賢(にんけん)天皇 | |||
498年~ 507年 |
12月~ 1月7日 |
25代武烈(ぶれつ)天皇 | |||
507年~ 531年 |
26代継体(けいたい)天皇 | ||||
531年~ 535年 |
27代安閑天皇 | ||||
535年~ 539年 |
28代宣化天皇 | ||||
539年~ 571年 |
29代欽明天皇 | ||||
572年~ 585年 |
30代敏達(びたつ)天皇 | ||||
585年~ 587年 |
31代用明天皇 | ||||
587年~ 592年 |
32代崇峻天皇 | ||||
593年~ 628年 |
1月15日~ 4月15日 |
33代推古天皇 | |||
推古天皇 11年 |
11月 | 秦河勝が聖徳太子から賜った仏像(宝冠弥勒菩薩半跏思惟像)を安置するために広隆寺を建立した。(日本書紀) | |||
629年~ 641年 |
34代舒明天皇 | ||||
皇極天皇 元年 |
642年 | 7月 | ひでりがつづいて村々の祝部(はふりべ)の所教(おしえ)のままに、牛馬を殺して、諸社の神を祭祀したという。(日本書紀) | ||
8月1日 | 皇極天皇みずからが、大和飛鳥の南ぶちの河上で「跪きて四方を拝」み、「雷なりて大雨ふる」(日本書紀) | ||||
642年~ 645年 |
35代皇極天皇 | ||||
6世紀末~ 7世紀 |
土師氏は曽我氏と密接な関係を持っていた。 素が・物部二氏の抗争にさいして土師氏は常に曽我氏の側にあって働き、軍事的な面においても活躍している。 |
||||
皇極天皇 2年 |
643年 | 土師氏は「皇極紀」二年に大仁土師娑婆連(さばのむらじ)その主眼はとあって、十二階冠位の大仁を授けられた人もある。 | |||
大化1年 | 645年 | 大化の改新 | |||
もともと宮廷祭祀をつかさどっていた中臣(なかとみ)氏から出た鎌足が、大化の改新のさいの功績によって天智天皇から藤原の姓を賜り、さらに鎌足の子で大宝律令(701年)養老律令(718年)選定の最大の功労者となった不比等の系統のみが藤原姓を名乗るようになった。 | |||||
大化の改新も律令体制も、各氏族の私有地・私有民を公地・公民化するとともに、それまでの大和朝廷の伴造=部民制という氏族制的官司体制を、中国的な天子専制官僚体制に再編することにあったが、藤原氏は他氏に先がけていちはやく律令官僚に転身することができたわけである。 | |||||
藤原不比等は娘宮子を文武天皇の後宮に入れ、都の産んだ聖武天皇にも娘の光明子(こうみょうし)を娶(めあ)わせ、さらに天平元年(729)光明子を皇后に立てることに成功して(皇族でない女性を皇后に立てることに強く反対することが予想された左大臣長屋王(ながやおう)を失脚自害させて)藤原氏の勢力拡張の確固たる礎を築いた。 | |||||
大化2年 | 646年 | [現為明神御八嶋国天皇」(日本書紀) | |||
645年~ 654年 |
36代孝徳天皇 | ||||
655年~ 661年 |
37代斉明天皇 | ||||
斉明天皇 7年 |
661年 | 疫病が流行した。「扶桑略記」に「時の人云く、豊浦大臣(蘇我蝦夷)の霊魂の為す所なり」と書いている。 | |||
661年~ 671年 |
38代天智天皇 | ||||
天智天皇 4年 |
665年 | 大講堂 薬師堂といふ。天智天皇4年に造建すといふ。古への安楽寺なり。(筑前国続風土記附録) | |||
671年~ 672年 |
39代弘文天皇 | ||||
672年 | 壬申の乱 | ||||
雄略朝に大友室屋(むろや)が大連(おおむらじ)に任ぜられた五世紀の後半頃から、その孫の金村(かなむら)が活躍した六世紀の前半にかけてが大伴氏の全盛期で、大和朝廷の最有力氏族であった。金村が失脚して以後、一時振るわなかったが、壬申の乱にさいして、一族が天武側について輝かしい武勲を立てて以来、再び朝廷で重きをなしていた。しかしながらもはや藤原氏の下風に立つかたちであった。 | |||||
天皇を明神(あきつかみ)(現為神)とする意識は、壬申の乱以降にいちだんとたかまりをみせた。 | |||||
672年~ 686年 |
40代天武天皇 | ||||
白鳳2年 | 674年 | 大宰府郭外の東北の地は京の比叡山を思わせる海抜八百三十メートルの宝満山がそびえ、山頂には竃神社の上宮が祀られていた。祭神は神武天皇の母玉依姫命で、社殿によると、大宰府都城鎮護のため、天智天皇によって祭祀が行われた。道真の葬送の目的地となった大宰府郭外の東北の地に、天武天皇の白鳳2年(674年)心蓮上人が宝仲寺を創建して筑紫の総鎮守を称し、以来金剛宝満と号していた。都城の東北は鬼門とされ、都城守護のために社寺を創建している。 | |||
天武11年 | 682年 | 3月 | 土師連真敷(ましき)は卒去のさい、壬申の年の功をもって大錦上(二十六階冠位の第七位)の位を贈られた。 | ||
天武13年 | 684年 | 土師連馬手(うまて)は屯田司舎人(みたつかさのとねり)として、天皇の挙兵の初めから従軍し、功績をたてた故か、八色姓(やくさのかばね)の授与のさい土師連(はじのむらじ)は宿禰を賜りこれより土師宿祢を名のる。 | |||
12月6日 | 「大唐の学生土師宿禰甥」が留学先の唐から帰国(日本書紀)土師宿禰甥はのちに大宝律令の編纂者として「続紀」に記され、「菅家御伝記」にも野見宿禰三世の孫身臣(みのおみ)、身臣七世の孫大唐学生甥と見え菅原道真の直系の祖と仰がれている。 | ||||
685年~ 762年 |
玄宗皇帝 | ||||
686年~ 697年 |
41代持統天皇 | ||||
文武元年 | 697年 | 文武天皇即位の宣命に、「現御神と大八島国知ろしめす天皇」(続日本紀) | |||
697年~ 707年 |
8月22日~ 7月18日 |
42代文武天皇 | |||
文武天皇 4年 |
701年 | 大宝律令 土師宿祢甥は大宝律令の制定に参画している。(続日本紀) |
美濃国岐蘇山道を開く(続日本紀) | ||
律令制を導入したということは単に政治体制や税制などだけの問題ではなくて、日本を中国的な文化国家として整容するということも意味していた。文化とは文字通り武力ではなく文を以って民を感化するということであるが、文とは広義には制度文物や礼楽を、狭義には漢詩文を意味する。中国には、政治にたずさわる士大夫(したいふ)は、学問に長じた読書人であることはもとより、すぐれた詩が詠めるような高雅な文人でもなければならないという理想が伝統的にあったから、律令体制の導入に伴なって、日本でも漢詩を作ることが重んじられるようになった。 | |||||
大宝年中 | 701年~ 704年 |
大宰府郭外の東北の地は、文武天皇の大宝年中より、修験道者の修法場として盛大をきわめた。 | |||
大宝2年 | 702年 | 7月 | 乙訓の火雷神をまつって祈雨した。(続日本紀) | ||
大宝4年 | 704年 | 藤原不比等の長子、武智麻呂(むちまろ)は、大学助(だいがくのすけ)となって大学を再興し、釈奠(せきてん)(孔子とその弟子を祭る儀式)を行った。 | |||
慶雲3年 | 706年 | 「天下諸国疫疾ありて、百勝多く死す、始めて土牛を作して大いに儺す」と「続日本紀」にあり、牛が祭祀と関連をもったことがうかがわれる。 | |||
707年~ 715年 |
43代元明天皇 | ||||
和銅元年 | 708年 | 藤原不比等の長子、武智麻呂は図書頭(ずしょのかみ)となって、図書の整備拡充に努めた。 | |||
毎年季秋 (9月) |
藤原不比等の長子、武智麻呂は習宣(すげ)(添下(そうのしも)郡菅原郷の地名)の別業(別荘)に文人才子を招いて文会を催したと天平宝字4年(760)頃に成った藤原氏の家伝に記されている。 | ||||
和銅4年 | 711年 | 土師連馬手は天武朝廷のあと持統・文武・元明の三朝に仕えこの年従四位下をもって卒した。四位になったことは、貴族の圏内に入ったことを示す。 | |||
715年~ 724年 |
44代元正天皇 | ||||
養老2年 | 718年 | 養老律令 | |||
4月11日 | 良吏であった[筑後守正五位下道君首名(みちのきみおびとな)」がなくなり、[卒するに及びて百姓之を祠る]と記述する。(続日本紀)熊本県内に道君首名ゆかりの社がある。 | ||||
724年~ 749年 |
45代聖武天皇 | ||||
神亀4年 | 727年 | 渤海入貢 | |||
神亀5年 | 728年 | 令制の大学寮に文章科が新設される。教官として文章博士(もんじょうはかせ)が置かれる。新設当初文章博士の官位相当は正七以下であって、明経博士の正六以下よりも低く定められる。 | |||
天平元年 | 729年 | 藤原不比等、娘の光明子を皇后に立てることに成功する。 | |||
左大臣長屋王が藤原氏の陰謀によって失脚し自殺した。 | |||||
長屋王の遺骨は土佐国に流された。そののち土佐国のうちで「親王の気に依りて、国の内の百姓皆死に亡す」という疫病流行があった。(日本霊異記) | |||||
天平2年 | 730年 | 正月16日 | 踏歌行われる。 | ||
9月 | 安芸(広島県)・周防領国の国人たちが「妄りに禍福を説き」、多くの民衆を集めて「死魂」を祀っている、また平城京近郊でも「妖言して衆を惑わす」者がおり参集する民衆の数は「多きときは則ち万人」にも達している、として、そうした活動に禁断を加えた記事が見える。(続日本紀) | ||||
天平5年 | 733年 | 2月 | 「出雲国風土記」に大原郡の「神原社」が記載されている。社地に景初年銘鏡を副葬した有名な神原神社古墳があって、古墳の立地に社殿が造営された。廟と社はもともとは別であった。 | ||
天平6年 | 734年 | 検税使は畿内七道に任ぜられて活躍していたことが「延暦交替式」によって知られる。 | |||
天平10年 | 738年 | 10月30日 | 太宰大弐紀男人が亡くなり、その遺骨が骨送使によって都へ戻された。多くの官人がそうであった。 | ||
天平15年 | 743年 | 正月12日 | 正月子の日に宴を催すことは続日本紀の記事が初見 | ||
天平18年 | 746年 | 6月 | 僧玄昉の死について「世相伝へて云ふ、藤原広嗣が霊の為に害せられる」と記している。(続日本紀) | ||
天平21年 | 749年 | 2月 | 東大寺の盧遮那(るしゃな)大仏の鋳造完成を目前にしながら、大仏に塗る黄金がないことに心を悩ませていた聖武天皇のもとに、陸奥で黄金が発見されたという報せがもたらされる。 | ||
749年~ 758年 |
46代孝謙天皇 | ||||
驚喜した天皇は仏恩に謝するとともに、慶びを天下の臣民に分かつ宣命を発した。大伴家持、「陸奥国より金を出だせる詔書を賀ぐ歌(万葉集巻十八)と題す長歌を作る。「陸奥国より金を出だせる詔書」とは宣命をさす。 | |||||
750年 | 大伴家持越の国(北陸)で目にしたカタクリの花を詠む 物部の八十少女(やそをとめ)らが汲みまがふ 寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花 (万葉集巻十九) 多くの少女たちが入り乱れるようにやってきて水を汲む、その寺井のほとりに咲いているカタクリの花よ |
||||
天平勝宝3年 | 751年 | 漢詩集「懐風藻」に藤原不比等の詩が五首、不比等の第二子房前の詩が三首、第三子宇合の詩が六首、第四子麻呂の詩が五首収められている。大伴旅人(大伴家持の父)の詩は一首のみである。 | |||
天平勝宝5年 | 753年 | 春 | 大伴家持が京で詠む わが屋戸(やと)のいささ群竹(むらたけ)吹く風の 音のかそけきこの夕べかも (万葉集巻十九) わが庭のささやかな竹むらを吹き過ぎる風が、かすかな音を立てているこの夕方よ |
||
天平勝宝8年 | 756年 | 大伴家持「族(うから)を諭せる歌」([万葉集]巻二十)を作る。 うつせみは数なき身なり山川の 清けき見つつ道を尋ねな この現実のわが身は、何とつまらない存在なのだろう。山河の清らかな風光のなかで、真(まこと)の道を尋ねたいものだ。 |
|||
757年 | 橘の奈良麻呂の変の数日前 移りゆく時見るごとに心いたく 昔の人し思ほゆるかも 移りゆく時世の変化をまのあたりにするたびに、今は故人となった人々が痛切になつかしく恋いしのばれることだ。 咲く花は移ろふ時ありあしひきの 山菅(やますげ)の根し長くはありけり すべて花咲くものには衰える時がある。山菅の根こそ長いものではあったよ。 |
||||
大伴家持は、藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の子)を倒そうとした橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変に連座して大伴・佐伯両氏の多くの者が処断され、大伴氏は一挙に力をそがれた。 | |||||
天平宝字 2年 |
758年 | 正月3日 | 宮中で行われた子の日の宴で大伴家持が歌を詠む(万葉集) | ||
758年~ 764年 |
47代淳仁天皇 | ||||
天平宝字3年 | 759年 | 正月1日 | 大伴家持因幡国守(いんばのくにのかみ)として任地にあり詠む 新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) 新しい年の初めの、初春の今日降りしきるこの雪のように、よい事がいよいよしきりに重なりますように 系譜関係はまったく不明であるが道真の母親は大伴氏の裔(すえ)であった。 |
||
天平宝字4年頃 | 760年頃 | 藤原氏の「家伝」成る | |||
764年~ 770年 |
48代称徳天皇 | ||||
神護景雲4年 | 770年 | 看病禅師であった僧侶の道鏡を寵幸して、奈良朝末の政治に異常な混乱を招いた称徳女帝が53歳で崩御する | |||
宝亀元年 | 770年 | 10月 | 光仁天皇が即位。改元 | ||
看病禅師であった僧侶の道教を寵幸して奈良朝末に政治に異常な混乱を招いた称徳女帝が崩御した時皇太子が定まっていなかった。右大臣吉備真備らは天武系の皇親のなかから皇太子を擁立しようとしたが、藤原氏が天智天皇の孫で当時すでに六十二歳になっていた白壁王すなわち光仁天皇を即位させた。 | |||||
平安時代の末から鎌倉時代にかけて成立した歴史物語「水鏡」に立太子の儀式の際に読み上げられる宣命(せんみょう)には、右大臣吉備真備らが推戴する天武天皇の孫の文屋大市(ふんやのおおち)の名が書かれてあったのだが、藤原百川(ももかわ)らが宣命使をまるめ込んで、白壁王の名を記したにせの宣命を読ませたのだという逸話が載せられている。 | |||||
11月 | 光仁天皇の夫人で聖武天皇の皇女であった井上(いのがみ)内親王が皇后に冊立(さくりつ)(勅命により皇太子・皇后などを正式に定めること)される | ||||
宝亀年中 | 770年~ 780年 |
和氏は高野に改姓 | |||
770年~ 781年 |
49代光仁天皇 | ||||
宝亀2年 | 771年 | 1月 | 井上皇后所生の他戸(おさべ)親王が皇太子に立てられる。すなわち光仁天皇の次にはまた天武の血を引く天皇が即位することが予定されていた。 | ||
宝亀3年 | 772年 | 3月 | 井上内親王は巫蠱(ふこ:巫女やまじない師。また、まじないで人をのろうこと)を行っていたことが発覚したとして皇后を廃された | ||
5月 | 他戸(おさべ)親王も「魘魅大逆(えんみだいぎゃく)の息子であるということで皇太子を廃された | ||||
772年~ 846年 |
白居易の詩文集「白氏文集」は日本の漢詩や和歌、さらには日本文化全般に与えた影響は大きく、道真にとっても博士文集は学ぶべき大きな源泉であった。 | 白居易 | |||
宝亀4年 | 773年 | 正月 | 山部親王(桓武天皇のこと)が皇太子に立てられる。 | ||
桓武天皇の母親は高野新笠(たかののにいがさ)という女性で、彼女の父親は和史乙継(やまとのふひとおとつぐ)という百済系渡来人の裔の下級役人であった。 | |||||
10月 | 井上内親王と他戸親王母子は、大和国宇智郡(奈良県五條市の辺)にあった邸宅が官に没収されたうえでそこに幽閉される。 | ||||
宝亀6年 | 775年 | 4月27日 | 井上内親王と他戸親王母子は同じ日に亡くなる。(続日本紀) | 御嶽山の黒沢里社本社創建 | |
「公卿補任(くぎょうぶにん)」という信頼性の高い資料に記された藤原百川の伝記には、早くから山部親王に「特に心を属」せていた百川が「数しば奇計を出だして遂に他戸を廃し」、山部親王を立太子させたと書かれている。 | |||||
6月 | 旱害のおりに「使いを遣はして疫神を畿内諸国に祭らしめ」たとある。(続日本紀) | ||||
6月 | 「黒毛馬を丹生川上神に奉る、旱すればなり、それ畿内諸国の界に、神社の能く雲雨を興す者あれば、亦使いを遣はして幣を奉る」とあり、疫神はたんなる疫災の神ではなく、祈雨の神でもあった。 | ||||
宝亀8年 | 777年 | 2月 | 「遣唐使、天神地祇を春日山の下に拝す」とある。(続日本紀) | ||
3月 | 「宮中に頻りに妖怪が有る」ので大祓(おおはらえ)をして「大般若経」を転読せしめたとある。(続日本紀) | ||||
宝亀10年 | 779年 | 6月 | 周防(すおう)国にみずから他戸(おさべ)親王と名乗って民を惑わす男が現れたので、捕らえて伊豆に流したという奇怪な記事が記されている。(続日本紀) | ||
正月 | 土師(はじ)宿祢古人は外従五位下となる。菅原氏はもと土師氏といい神代以来の名族と伝えられる。 | ||||
天応元年 | 781年 | 4月 | 50代桓武天皇即位 桓武天皇の母親は、高野の二位が差という女性で、彼女の父親は和史乙継(やまとのふひとおとつぐ)という、百済系渡来人の裔(すえ)の下級役人だった。(和氏は、宝亀年中(770~780)に高野に改姓) |
||
781年~ 806年 |
50代桓武天皇 直ちに旧弊を刷新すべく、道教政権下で乱れていた官人と僧侶の綱紀を粛清し、また寺院で行われていた高利貸し的な経済活動や土地の集積を禁断し、地方国司への監察を強化するなど、律令体制を再建するための政治改革に着手した。 |
||||
5月 | 道真の曽祖父、土師宿祢古人遠江介となる。 | ||||
6月16日 | 土師宿祢古人は外従五位下から従五位下に叙せられる。 | ||||
781年 | 6月25日 | 道真の曽祖父である土師宿祢古人(ふるひと)・同長男道長ら15人は桓武天皇に、土師氏の名は喪葬という凶事との連想が強いから、居住地の名にちなんで菅原に改姓させてほしいと請願して、勅許される。(続日本紀) | |||
土師の先祖は天穂日命(あまのほひのみこと)から出ている。天穂日命の十四世の孫を野見宿禰(のみのすくね)といった。垂仁天皇の時には凶事の場合は殉死者を生きながら埋葬するという古代の風習が残っていた。たまたま皇后が薨去したので、天皇がその葬礼をどうするかと群臣に尋ねたところ群臣は従来どおりと申し上げたが、野見宿禰は、殉埋の風は仁政にそむき、国を益し人を利する道でないことを奏上し、土師三百余人を指揮して、埴土をとり、いろいろの物象を作って差し上げました。天皇は喜んで、これをもって殉死の人にかえた。これが埴輪である。はぜの先祖の業を顧みるに、昔は吉凶半々であって、天皇・皇后の葬儀にあずかると共に、祭日の吉事にも奉仕してきた。ところが今は凶事ばかりです。どうぞお願いですから、居住地の名をとって、土師の姓を改め、菅原とさせてください。(続日本紀の請願の文) | |||||
土師氏は天皇の葬式に関与するため暗いイメージで見られがちだが前方後円墳を築くには数学や土木工学天文学など学問が必要であり先端技術を持つ家柄であった。 | |||||
天穂日命とは、天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)とが「うけひ」(誓約)をして互いに子を生んだ時に、天照大神の子とされた五男神のうちの一柱である。大国主神の国譲りの際に、第一回の出雲への使節となって、高天原から下ったが、大国主に媚びへつらって、つひに復命することができなかった。けれどやがて大国主が国を譲り、天日隅宮(あまのひすみのみや)にかくれてから、その祭祀を掌(つかさど)ったものが穂日命である。穂日命は、出雲臣の祖神とされるが、同じく出雲の出身である土師連(むらじ)の祖神ともされる。 | |||||
延暦元年 | 782年 | 5月 | 秋篠に住んでいた土師氏も同じ理由によって秋篠氏に改姓することを請願して許される。 | ||
大枝(のち大江)氏もほぼ同じ頃に土師氏から改姓した。 | |||||
氷上川継(ひかみのかわつぐ)のクーデター計画が未然に発覚し川継は伊豆に流される。川継の父は天武天皇の孫の塩焼(しおやき)王で、母は聖武天皇皇女の不破(ふわ)内親王である。 | |||||
万葉歌人の大伴家持も、事件への関与を疑われて一時的に解官される。 | |||||
延暦2年 | 783年 | 議政官(公卿)は藤原氏六人・非藤原氏六人(大伴・石川・紀氏二人・大中臣氏と王族一人)と完全に同数。 | |||
延暦3年 | 784年 | 長岡京遷都 長岡への遷都を建策し、新都建設の最高責任者となった藤原種継(百川の甥)の妻も秦氏の女性だった。 |
|||
清公は十五歳の時勅命によって東宮相良親王に近侍しその諮問に応ずる役となった。二十歳で試を奉じて文章生となった。 | |||||
延暦4年 | 785年 | 8月 | 大伴家持亡くなる。 | ||
9月23日夜 | 長岡京の建設現場を視察していた藤原種継が弓矢で射殺される。大伴氏の没落が決定的になる。 | ||||
逮捕された下手人を尋問した結果、故中納言東宮大夫(とうぐうのだいぶ)大伴家持が、大伴・佐伯両氏に呼びかけて、桓武天皇の寵臣種継を殺して朝廷を傾け、皇太子早良(さわら)親王(桓武天皇の同母弟)を即位させようと謀っていたことが明らかとなった。 | |||||
大伴・佐伯両氏の多くの者が斬罪や流罪に処せられた。大伴家持はこの事件の前の月に亡くなっていたが、家持も官位を追奪(死後に官位を剥奪すること)して除名されたうえ、その所領も没官(もっかん)(官に没収すること)されまたその息永主(ながぬし)も隠岐に流された。(日本紀略) | |||||
早良親王は桓武天皇の弟として皇太弟になったが、藤原種継暗殺事件の首謀者として拘束され、無実を主張して、当時の宮都長岡京近郊の乙訓寺で餓死する。遺骸は、すでに流罪地と決定されていた淡路島まで運ばれた。 | |||||
この直後に、桓武天皇の母新笠・皇后乙牟漏・夫人旅子が死去し、早良に代わって皇太子になった安殿(あて)(平城天皇)の罹病などがあいついだ。 | |||||
大伴・佐伯両氏の多くの者が斬罪や流罪に処せられた。 | |||||
大伴家持も官位を追奪して除名されたうえ、その所領も没官(もっかん:官に没収すること)され、またその息永主も隠岐に流された。(日本紀略) | |||||
11月冬至 | 長岡京の南郊にあたる交野で郊祀(こうし)を行わせる。郊祀とは中国において、冬至などのさいに天使が皇城の南郊で、宇宙を支配する最高神である昊天(こうてん)上帝を祀った祭儀で、日本の天皇がこれを行うことは前例のないことであった。郊祀は本来天子が視察すべきものであるが、桓武天皇は視察せず、勅使を遣わして行わせ、郊祀のさいに昊天上帝とともに祀る王室の始祖として、父光仁天皇を祀った。 | ||||
12月 | 「続紀」延暦四年十二月の条に「故遠江介従五位下菅原宿祢古人」と見えるから菅原宿祢古人はそれ以前に亡くなっている。 | ||||
12月23日 | 菅原古人の遺児たちに学資が支給された。古人が桓武天皇の侍読(天子に学を講ずる学者)を勤めた功績による(続日本紀)。この古人の第四子が菅原道真の祖父清公で、十五歳であった。 | ||||
延暦6年 | 787年 | 11月冬至 | 長岡京の南郊にあたる交野で郊祀を行わせる。 | ||
延暦7年 | 788年 | 5月 | 桓武天皇の夫人で大伴親王(後の淳和天皇)の生母藤原旅子(たびこ)(百川の娘)が三十歳の若さで亡くなる。 | ||
延暦8年 | 789年 | 12月 | 桓武天皇の母皇太后高野新笠が亡くなる。 | ||
12月15日 | 桓武天皇の生母高野新笠の母親が土師真妹という土師氏の女性だったと記されている。(続日本紀) 新笠の母の系統の土師氏も、その居住地にちなんで大枝氏を名乗ることになり、大枝はのちに大江という字に改められる。 | ||||
高野新笠が亡くなった後、その母の土師真妹に桓武天皇は正一位を与えた。桓武天皇は土師氏を優遇した。 | |||||
菅原清公二十歳で試を奉じて文章生となる。 | |||||
延暦9年 | 790年 | 閏3月 | 早良親王にかわって皇太子に立てられていた安殿(あて)親王(後の平城天皇)や神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)を生んだ皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が三十一歳で亡くなる。 | ||
9月 | 安殿(あて)親王が病気になる。 | ||||
相継ぐ凶事や安殿(あて)親王の病は早良親王の怨霊の所為だということが取りざたされた。 | |||||
12月30日 | 大枝を名乗ることになった土師氏の系統は、現在の大阪府堺市南郊あたりを本拠としていた。(続日本紀) | ||||
12月 | 祖(おや)は子をもって貴しという「春秋」の義によって、天皇の母、皇太夫人高野新笠(たかののにいかさ)の父高野乙継(おとつぐ)・母土師真妹(まいも)に、それぞれ正一位を追贈し、土師氏に大枝(おおえ)朝臣・秋篠(あきしの)朝臣・菅原朝臣などの朝臣の姓を許した。 | ||||
「続日本紀」によると、土師氏に四流があり、高野新笠の母土師真妹の家は毛受(もず)の流である。毛受の流には大枝朝臣の姓を賜い、外の三流には秋篠朝臣・菅原朝臣などを賜ったとある。 | |||||
菅原の氏名は居住の地名をとったとされており、「和名(わみょう)抄」に大和添下(そうのしも)郡菅原郷とある所で現在の奈良市菅原町である。式内菅原神社が氏神として鎮座し、菅原寺も奈良時代以来の古寺として存在する。 | |||||
「和名抄」土師郷は、このほか大和添上(そうのかみ)郡・河内志紀(しき)郡・同丹比(たじひ)郡にあり、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には、土師宿禰、または土師連が、右京・山城・大和・摂津・和泉などにいたことが記されている。 | |||||
早良親王の称号を回復する。 | |||||
古人の四子のうちの長男、菅原道長は一族秋篠宿禰安人らとともに朝臣の姓を賜る。道真直系の祖父となった人は古人の第四子清公である。 | |||||
延暦10年 | 791年 | 正月 | 菅原古人長男道長は外従五位下から従五位下と内位に入る。 | ||
延暦11年 | 792年 | 長岡京は洪水に見舞われる。 | |||
6月 | 安殿(あて)親王の病状が相変わらず思わしくないので、占わせたところ、相良親王の祟りであると判明したので、淡路島の親王の墓に使者を遣わせてその霊にわびた。(日本紀略) | ||||
延暦12年 | 793年 | 正月 | 桓武天皇が長岡京にかわる新しい京の候補地として、山背(やましろ)国葛野(かどの)郡の調査を命じる。 | ||
延暦13年 | 794年 | 10月 | 桓武天皇が都を京に遷す | ||
11月 | 「此の国は山河襟帯(山が襟のように、川が帯のように四囲をめぐる要害の地)、自然に城を作すがごとき地勢であるので、山背国を改めて山城国とする」という詔を発して新京は平安京と名づけられた。 | ||||
延暦14年 | 795年 | 正月16日 | 宮中で催された宴で踏歌(足を踏み鳴らして拍子をとりながら歌い舞う集団的な歌舞で、中国とくに唐代に、首都長安や副都洛陽などの大都会で上元(陰暦正月15日)の日を中心に連夜行われた行事)が奏される。 | ||
延暦十四年の踏歌は宮中のなかだけで行われた小規模なものであったが、平安新京をことほぐ七言絶句の漢詩四首が「新京楽。平安楽土。万年春」というリフレイン(繰り返し句)をつけて歌われた。 | |||||
延暦17年 | 798年神御 | 菅原清公は二十九歳で令制最高の任官試験である方略試という論文試験を受けて及第する。大学少允(だいがくしょうじょう)をふり出しに官途についた。 | |||
延暦18年 | 799年 | 皇親のなかには、官から支給される禄を担保に、高利貸しを営む町人から借財している者が多かったため,禄物が支給される日になると債権者が殺到して濫訴に及んだということが、太政官符に見える。(類聚三代格) | |||
延暦19年 | 800年 | 7月 | 桓武天皇は「朕、思う所有り。宜しく故皇太子早良親王に崇道天皇を追称し、故廃皇后井上内親王に皇后を称することを追復し、その墓を並びに山陵と称すべし」という詔を発した。(菅原道真が編纂した「類聚国史」) | ||
延暦21年 | 802年 | 菅原清公遣唐判官となる | |||
大宰府郭外の東北の地の宝満山に伝教大使(最澄)が入山して、遣唐使の平安を宝満宮に祈った。 | |||||
延暦22年 | 803年 | 大宰府郭外の東北の地の宝満山に弘法大使(空海)も入山して雨乞いを行った。 | |||
延暦23年 | 804年 | 第十六次の遣唐使が進発。この時の遣唐使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)が大使で留学生として最澄・空海や橘逸勢(はやなり)が加わる。菅原道真の祖父清公は、遣唐判官として入唐する。 | |||
菅原清公は、帰朝後、大学助となり、尾張助に任じた。 | |||||
尾張介がみちて入京したあとは、左京亮・大学頭・主殿頭(とのものかみ)・右少弁・左少弁・式部少輔などを歴任した。 | |||||
大同元年 | 806年 | 3月17日 | 桓武天皇は勅を発して、藤原種継暗殺事件によって配流されていた者たちを許して召還し、大伴家持らを本位に復す。(日本後記) | ||
桓武天皇崩御 | |||||
806年~ 809年 |
51代平城天皇 | ||||
大同2年 | 807年 | 伊予親王(桓武天皇の皇子)、謀反の罪に問われて大和国川原寺に幽閉され、母とともに服毒自殺 | |||
京都市上京区の上御霊神社には、崇道天皇・井上内親王・他戸親王・藤原吉子・文屋宮田麻呂・橘逸勢・吉備真備・火雷神(ほのいかずちのかみ)(菅原道真とも)の八神が祀られている。 | |||||
大同3年 | 808年 | 史学担当の紀伝博士置かれる。 | |||
809年~ 823年 |
52代嵯峨天皇 | ||||
嵯峨朝を頂点として日本でも政治にたずさわる者はすぐれた詩が詠めるような高雅な文人でなければならないという中国的な理想が実現していた。 嵯峨朝においては、高官たちも盛んに漢詩を作って嵯峨天皇と唱和していた。 |
|||||
道真の祖父清公は、嵯峨朝の代表的な漢詩人の一人であったばかりでなく、長く文章博士を勤めて、「儒門の領袖」すなわち儒者全体の指導者と仰がれた鴻儒であった。 | |||||
弘仁元年 | 810年 | 9月10日 | さわら親王の怨霊の恐怖に取り憑かれた桓武天皇が藤原種継暗殺事件と早良親王廃太子の記事を続日本紀から削除させた。(日本紀略) | ||
弘仁5年 | 814年 | 勅撰漢詩集「凌雲集」 | |||
弘仁6年 | 815年 | 最澄神坂峠に広済院・広拯院を設置。 | |||
弘仁9年 | 818年 | 3月 | 嵯峨天皇は詔を発して、朝廷での儀式、礼法、五位以上の官人に位階を授ける時に発給される位記の書式、男女の衣服等、すべて唐風に倣うこととした。これを主唱し推し進めたのは菅原清公である。 | ||
勅撰漢詩集「文華秀麗集」 | |||||
4月 | 伝教大使は大宰府郭外の東北の地の有智山内山に宝塔院を建立した。内山と南谷・北谷を加えた三個所の僧舎は三百七十坊を数える隆盛をみせていた。 | ||||
弘仁10年 | 819年 | 4月 | 宮城(大内裏)諸門の名称をすべて唐風のものに改めて、新しい門額を付け替えることになった。 | ||
宮城の諸門にはそれまで、大伴門・佐伯門・壬生(みぶ)門・的門(いくは)・建部(たけるべ)門等々、古くから大和朝廷に武力をもって奉仕してきた氏族の名が冠されていた。中でも大伴氏の名は宮城正門に冠されていたが、平城京以来宮城正門の名は朱雀門となった。それでも大伴氏の名は朱雀門を入って正面の、国家的な儀礼の場である朝堂院)(ちょうどういん)の正門の名称に残されていた。弘仁九年の新制によってそれらの門号がすべてもとの名称と音を似通わせた中国風の嘉名に改められた。大伴門は応天門、佐伯門は藻壁(そうへき)門、壬生門は美福(びふく)門、的門は郁芳(いくほう)門、建部(たけるべ)門は待賢(たいけん)門となる。新しい門額は、三筆と称された嵯峨天皇・空海・橘逸勢の三人が揮毫したと伝えられている。 | |||||
菅原清公文章博士を兼ね、天皇の侍読として「文選(もんぜん)」(中国の詩文集)を講じた。つづいて式部大輔・左中弁・右京大夫・弾正大弼等に任じた。 | |||||
嵯峨朝において消滅したものは旧い門号だけではなく天皇の宴や行幸などの折に和歌が詠まれることは絶無となりかわりに漢詩が詠まれた。 | |||||
伊予親王は母藤原吉子とともに本位を回復 | |||||
弘仁12年 | 821年 | 文章博士の官位が明経博士をも超えて従五以下にまで引き上げられる。当時の文章博士は菅原道真の祖父清公であった。 | |||
弘仁14年 | 823年 | 嵯峨天皇は異母弟の淳和(じゅんな)天皇に譲位する。 | |||
823年~ 833年 |
53代淳和天皇 | ||||
弘仁の末 | 菅原清公の第四子是善が十一歳で徴されて殿上に侍し、天皇の前で書を読み、詩を賦した。 | ||||
是善の邸宅は菅原院天満宮のある烏丸下立売あたりにあったという。 | |||||
天長元年 | 824年 | 菅原清公播磨権守となって京外に出た。 | |||
渤海は七二七年の入貢以来さかんに来朝しはじめは歓迎していたが次第にそのために費やす国用の大きいことと渤海の貿易第一主義とにあいそをつかしこの年来朝回数を制限して十二年に一度と定めた。 | |||||
天長2年 | 825年 | 公卿が議奏して、国の元老を遠く離すべきでないということで菅原清公は再び京に召されて諸官を歴任し文章博士を兼ねた。 | |||
天長3年 | 826年 | 十二年に一度の決定に従わず渤海来朝 | |||
天長4年 | 827年 | 勅撰漢詩文集「経国集」 | |||
833年~ 850年 |
54代仁明天皇(にんみょうてんのう) | ||||
承和元年 | 834年 | 史学担当の紀伝博士が廃された。代わりに文章博士の定員が二名に増員された。 | |||
承和年間 | 834年~ 848年 |
仁明天皇(嵯峨天皇皇子) | |||
承和2年 | 835年 | 菅原清公の第四子是善二十二歳で文章得業生となる。 | |||
承和3年 | 836年 | 2月1日 | 北野には早くから天神社があり「続日本後紀」に「承和三年二月庚午朔、為遣唐使祠天神地祇於北野也(「遣唐使のために、天神地祇を北野に祠る)」と記されている。 | ||
天神とは元来地祇(くにつかみ)に対する称で、アマツカミと訓み、高天原の神々、また葦原中国(あしはらのなかつくに)に降り給うた神の系統をいうのである。 | |||||
承和5年~ 56年 |
838年~ 56年 |
巨大な組織となった遣唐使を派遣する費用は財政上支弁できない情勢となっていた。事実、承和五年から五十六年も派遣の事のなかった理由でもある。 | |||
承和6年 | 839年 | 菅原清公従三位に叙せられ初めて公卿の列に入った。 老病で行歩艱難のため、牛車に乗って南殿(なでん)の大庭の梨の木の下まで到ることを勅許せられた。 |
|||
菅原清公の第四子是善対策及第し、大学少允・大学助・大内記・文章博士・東宮学士など儒門の要職を歴任した。 | |||||
承和7年 | 840年 | 淳和上皇が崩御 | |||
橘逸勢、承和の変に連座して謀反の罪で逮捕され、伊豆国に配流される。流刑地に向かう途中の遠江国で病死した。 | |||||
承和8年 | 841年 | 十二年に一度の決定に従わず渤海来朝 | |||
承和9年 | 842年 | 10月17日 | 菅原清公の薨伝(三位以上の官人の死亡記事に付された伝記)によれば「父古人は儒行高くして、人と同ぜず、家には余財無く、諸児寒苦す。清公は年少にして経史を渉猟(しょうりょう)(調査・研究などのために、たくさんの書物や文書を読みあさること。)し、延暦三年詔して東宮に陪せしむ」とある。薨伝には弱冠(二十歳)にして文章生を選抜する試験を受けて合格したとある。享年73歳。 | ||
菅原清公は「令義解」「凌雲集」「文華秀麗集」などの公的な編纂物の選者の一人である。清公の詩文集は六巻「菅家集」として、後年道真によって編纂献上せられた。紀伝道の講学と学生の寄宿のための特別の機関として、文章院を創立したのも菅原清公である。 | |||||
嵯峨上皇が崩御 | |||||
承和の変 淳和派官人たちが恒貞親王を奉じて謀反を計画していることが発覚したとして、恒貞親王は皇太子を廃され、淳和派の官人たちは左遷された。即ち、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢らは流刑に処された。これが藤原良房の陰謀であることは定説となっている。廃された恒貞親王の代わりに皇太子に立てられたのは藤原良房の妹順子所生の仁明皇子道康(みちやす)親王(文徳天皇)だった。 |
|||||
承和12年 | 845年 乙丑 |
6月25日 | 1歳 | 菅原道真、菅原是善の第三子として生れる。丑年に菅公菅原道真が生誕したというので、牛が天神に付合されたのであると説明せられている。 | |
讃岐守時代に、牛に深い慈愛の心を表した話や、大宰府へ西下の途中、牛によってその身の危難を救われた説話が残っている。ちなみに、天神参りは丑の日がよいとされたのもこのためといえる。 | |||||
菅原是善が三十四歳で文章博士となる。 | |||||
善愷(ぜんがい)訴訟事件 法隆寺の僧善愷が、法隆寺の檀越(だんおつ)登美直名(とみのただな)の非法を太政官に訴え、太政官中枢の事務官僚である弁官たちがその訴えを受理して登美直名の罪を裁こうとしていたとき、弁官の末席にいた伴善男(とものよしお)が、訴訟手続きの不備を問題にして上席の弁官五人全員を罷免に追い込んだという事件。このことから生じた大きな人事異動はやはり藤原良房による支配体制固めに利用されるところとなる。 |
|||||
嘉祥元年 | 848年 | 4歳 | 渤海来朝 | ||
嘉祥2年 | 849年 | 5歳 | 庭の紅梅を眺めて うつくしや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある との和歌を詠じて人々を驚嘆させたと伝えられている。 |
||
嘉祥3年 | 850年 | 橘逸勢復権 | |||
850年~ 858年 |
55代文徳天皇(もんとくてんのう) | ||||
仁寿元年 | 851年 | 智証大師(円珍)が入唐の便船を待つ間、普賢菩薩を刻んで普賢行願の説法を行った時、華台坊を主座とする門弟ら八人が、大宰府郭外の石踏川を望む景勝の地原山に普賢院無量寺を建立しようと志した。 | |||
仁寿2年 | 852年 | 11月 | 菅原清公の第三子善主は聡明で容儀がうるわしく、文章生から弾正少忠となり、承和の遣唐使判官となって唐に渡り、帰朝後、諸官を経、勘解由次官・従五位下で卒した。五十歳。 | ||
仁寿3年 | 853年 | 菅原是善大学頭になる。ついで左京大夫・弾正大弼・刑部卿等を経た。 | |||
855年 | 11歳 | 道真の漢詩文集「菅家文章巻一」の巻頭に掲げられた詩「月夜に梅花を見る」と題された詩で、題の下に「時に十一歳。厳君(父のこと)、田進士(当時、文章生であった島田忠臣をさしている。進士は文章生の唐名)をして之を試みしむ。予、始めて詩を言う。故に篇首に載す」と注記されている。 月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨 月の耀きは晴れたる雪の如し 梅花は照れる星に似たり 憐れぶべし金鏡のめぐりて 庭上に玉房の馨れることを 島田忠臣は是善の門人である。後にこの人の女が道真の妻となる。 |
|||
菅公の梅に関する詩歌は案外少なく「菅家文章」巻第一の巻頭に、十一歳の作「月夜見梅華」が著名である。 | |||||
菅公左遷ののち名残を惜しんだその愛梅の片枝が空を飛んで大宰府に根をおろしたという伝説が起こった。 北野文叢に「飛梅老松訴陳」なる文が載っている。 |
|||||
飛梅伝説は「源平盛衰記」「十訓抄」「古今著聞集」「太平記」「百人一首一夕話」などに見え、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」にも取り入れられている。 | |||||
梅を好文木と称することは「十訓抄」に見え「帝、文を好み給ひければ開き、学問怠り給へば散りしをれける梅は有りける、好文木とぞいひける」とある。 | |||||
天安2年 | 858年 | 14歳 | 「臘月独興」の七言律詩を詠む。(文草) 氷封水面聞無浪 雪点林頭見有花 氷は水面を封じて聞くに浪無し 雪は林頭に点じて見るに花有り は秀句としてもてはやされ、後年「和漢朗詠集」に採録された。 |
||
大宰府郭外の原山に大野山四王寺の別院原山無量寺が落慶し、法華三昧の道場を開いた。これが原八坊で、のちに道真の葬儀を勤めた僧侶たちである。 | |||||
858年~ 876年 |
56代清和天皇 | ||||
貞観元年 | 859年 | 15歳 | 菅原道真十五歳で元服 ひさかたの月の桂も祈るばかり 家の風をも吹かせてしがな 道真の母 |
||
菅原道真、刑部(おさかべ)福主の四十の賀の願文を代作する。 | |||||
5月 | 渤海来朝 | ||||
貞観3年 | 861年 | 渤海来朝 | |||
貞観4年 | 862年 | 4月14日 | 18歳 | 菅原道真文章生試(もんじょうしょうし)を受ける | |
5月17日 | 菅原道真文章生試に及第して文章生になる。 | ||||
文章生になった年を調べると十八歳は藤原衛(まもる)・正躬(まさみ)王の二人がいる。そのほかは十九歳から二十三歳までの各年齢が多く、二十六歳という人もある。祖父の清公は二十歳、叔父の善主は二十三歳、小野篁(たかむら)は二十一歳、藤原愛発(あらち)は二十二歳、大江の音人(おとんど)・滋野貞主(しげののさだぬし)らは二十三歳である。 | |||||
7月 | 唐商人李延孝ら来朝 | ||||
貞観5年 | 863年 | 5月20日 | 19歳 | 「神泉苑(しんせんえん)に於いて御霊会(ごりょうえ)を修す」(三代実録)「この日、御霊会を監修させるために近衛中将藤原基経らが勅使として神泉苑に遣わされ、皇族や公卿らもこぞって見物に訪れた。六座の御霊には花と果物が備えられ、「金光明経」や「般若心経」が読誦され、雅楽寮の伶人(楽人)の奏楽に合わせて、天皇近侍の児童や良家の稚児が大唐や高麗の舞を更ごもに舞、雑伎散楽の徒も競ってその演目を披露した。また、宣旨によって神泉苑の四門を開放し、都の人々にも自由に見物させた。」(日本三代実録) | |
官撰国史「三代実録」には御霊会の由来について次のように記述している。「いわゆる御霊とは、崇道(すどう)天皇(早良親王)・伊予(いよ)親王(桓武天皇の皇子。大同二年(807)謀反の罪に問われて幽閉され、母とともに服毒自殺)・藤原吉子(伊予親王の母)・観察使(藤原仲成?)・橘逸勢(承和の変の犠牲者)・文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)の六座である。すべて事変に連座して誅せられた人々であり、その冤魂(無実の罪で死んだ人の魂)が厲鬼(たたりがみ)となっていた。近年、疫病が頻発して死亡する者が甚だ衆く、天下の人々は、この災いは御霊の生せるわざと考えるようになった。そこで毎年夏から秋にかけて御霊会を修することが、京から始まって畿外にまで広まっていったのである。あるいは仏を礼して経を説き、あるいは歌い且つ舞い童丱(あげまき)の子には化粧をさせて馳射(はしりゆみ)をさせ、膂力(ちからもち)の士(おとこ)には肌脱ぎさせて相撲を取らせ、そのほか騎射・競馬、俳優の滑稽な演技なども競演されて、見物人が塡咽(ひしめ)きあっていた。この春、咳逆(がいぎゃく)の病が大流行し、百姓が多く斃(たお)れたので、朝廷でもかねて祈祷をしていたが、このほど朝廷が主催してこの御霊会を修することになったのである。」 | |||||
12月13日 | 菅原道真、源能有の先妣(せんぴ)伴氏の周忌法会の願文を代作する。 | ||||
貞観6年 | 864年 | 正月 | 20歳 | 天皇元服 | |
8月15日 | 菅原道真、大枝豊岑(とよみね)・真岑らの先妣周忌法会の願文を代作する。 | ||||
貞観7年 | 865年 | 7月 | 21歳 | 唐商人李延孝ら来朝 | |
8月3日 | 菅原道真、平子内親王(仁明天皇皇女)の先妣藤原氏(貞子、三守女)の周忌法会の願文を代作する。 | ||||
貞観8年 | 866年 | 3月 | 22歳 | 応天門の変 伴善男が応天門炎上の放火犯として流罪になった事件 真相は不明だが、この不穏な政情のなかで、良房は摂政の地位を確立した。この伴善男は大伴氏である。淳和天皇が即位した時、天皇の名前が大伴親王であったため、その名に憚って、以後大伴氏は伴氏を名乗ることになった。 |
|
11月25日 | 菅原道真、慈覚大師円仁の「顕揚大戒論」の序を草す。「顕揚大戒論」は慈覚大師円仁が師最澄の「顕戒論」を祖述し、大小二戒を峻別して、大乗戒によるべしとする理論を展開した八巻十三篇の大文章である。はじめ円仁はその草稿を作ったけれども病気にかかり完成できないで寂した。あとをついだ座主の安慧が師の委嘱をうけて、これに刪正を加えて完成したものである。安慧はこの書の序文を是善に頼んだらしいが是善はこれを道真に委嘱し、道真が安慧の名において草したものである。 | ||||
大納言藤原氏宗の職封の半ばを減ずることを請う状を草す。 | |||||
11月29日 | 氏宗のために右大将を辞する表を草す | ||||
貞観9年 | 867年 | 正月7日 | 23歳 | 当時の制度で、文章生二十人のうち、才学抜群の者二人をえらんで文章得業生とし、最高の国家試験である方略試を受けさせる候補者としたが菅原道真は文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に推挙された。 | |
2月29日 | 菅原道真正六位下を授けられ、下野権少掾(しもつけごんしょうじょう)に任じられた。 | ||||
貞観10年 | 868年 | 24歳 | 菅原道真、某人亡考の周忌法会の願文を代作する。 | ||
8月27日 | 菅原道真、弾正尹親王の先妣紀氏のために功徳を修する願文を代作する。 | ||||
12月 | 貞観交替式を頒つ | ||||
貞観11年 | 869年 | 4月 | 「貞観格」撰進 | ||
9月25日 | 安倍宗行らの先妣多治氏のために法華会を修する願文を草す。 | ||||
貞観12年 | 870年 | 春のころ | 26歳 | 都良香邸にて弓射(きゅうしゃ)の技を試され、その技量を披露する。 | |
2月19日 | 承和十年から仁寿二年ころまでの間では、博士はみな名家であるので、こもごも相軽んじ、短長口にあり、弟子も門を異にし、互いに分争したと評せられた。(三代実録) | ||||
3月23日 | 菅原道真方略試を受けた。 | ||||
方略試は、少内記都良香(みやこのよしか)が問頭博士(試験管)となって行われた。策問は「氏族を明らかにす」「地震を弁ず」という二問であってその文は都氏文集に残っている。道真の答案は「文草」巻八にのせられている。道真の答案は、文章・内容ともにすばらしいものであったが、神ならぬ普通の人間であることを装うため、「一時」不明の様子で、しばらく思案げにしていた。この様子をみた是善の門人橘広相は、早馬に鞭打って嵯峨の「隠君子」のもとに参じ、正答を聞いたうえで帰参し、道真にひそかにそれを伝授したという。「賢者の振舞」はまことにはかりがたいもので、それ以来、策試の会場には人の立ち入りを禁じるようになったと伝えている。 | |||||
4月12日 | 右大臣氏宗のために左大将を解かれんことを請う状を草す。 | ||||
参議源生のために右衛門督を罷めんことを請う状を草す。 | |||||
5月17日 | 道真は方略試に中上の成績をもって及第した。 | ||||
春澄善縄(はるずみのよしただ)なくなる。春澄善縄の薨伝から菅原道真が同業の文人儒者たちから誹謗中傷された背景には当時の学閥抗争の風潮があったことが伺われる。(三代実録) | |||||
9月11日 | 菅原道真は正六位上となった。(三代実録) | ||||
貞観12年ころ | 「琴を弾くを習ふを停む」という七言律詩がある。 | ||||
貞観13年 | 871年 | 正月29日 | 27歳 | 菅原道真玄蕃助に任ぜられる。 | |
3月2日 | 菅原道真少内記(しょうないき)に任ぜられる。 内記は詔勅を起草する任務をもっていたので文章道出身の学者の任ずるポストであって、父の是善をはじめ、春澄善繩(はるずみのよしただ)・大江音人(おとんど)・都良香・三善清行などの諸学者もみなこれを経た。 |
||||
菅原道真「前年減ずる所の五位以上の封禄を旧に復する詔」を起草した。 | |||||
4月14日 | 「太政大臣藤原良房のために年官・随身を辞する第一表」を代作した。 | ||||
4月18日 | 「太政大臣藤原良房のために年官・随身を辞する第二表」を代作した。 | ||||
4月20日 | 「太政大臣藤原良房のために年官・随身を辞する第三表」を代作した。 | ||||
8月 | 「貞観式」撰進 | ||||
12月 | 加賀国に楊成規ら百五人の使節一行がついた。渤海入覲使のことである。 | ||||
12月16日 | 「温明殿女御源の厳子のために尚侍殿下六十の算を賀する修功徳の願文」を代作する。 | ||||
貞観14年 | 872年 | 正月6日 | 28歳 | 渤海来朝は貞観三年からちょうど十二年目にあたっていたので、正規の来朝と見られた。朝廷は恒例により接待の役人を任命した。少内記菅原道真・直講美努清名(みぬのきよな)を渤海からの使者を接待する存問渤海客使(そんもんぼっかいきゃくし)とし園池正春日宅成(かすがのやかなり)を通事(通訳のこと)となすということが「三代実録」にある。 | |
菅原是善六十一歳で参議になり、式部大輔を兼ねた。 | |||||
正月14日 | 菅原道真の母亡くなる。道真の母は伴氏である。一年の喪に服するために、すべての官を解かれた。 | ||||
正月26日 | 少外記大春日安守を存問渤海客使に任じ、菅原道真の職を去った代わりとしたという記事がある(三代実録) | ||||
2月 | 右大臣藤原氏宗薨ず | ||||
5月 | 渤海使入京 | ||||
5月24日 | 本官に復す。菅原道真「渤海王に答ふる勅書」と「渤海入覲使(にゅうぎんし)に賜ふ告身(こくしん)勅書」を起草した。 | ||||
大学助教善淵朝臣永貞のために官を解き母に侍することを請う表を代作する。 | |||||
8月 | 源生(みなもとのいける)薨ず | ||||
9月 | 良房薨ず | ||||
10月13日 | 右大臣藤原基経のために官を謝する表を代作する。 | ||||
文章博士の本務として後漢書を講じた。 この年から文章博士巨勢文雄が「後漢書」を講ずる |
|||||
貞観15年 | 873年 | 5月 | 29歳 | 菅原道真「左大臣(源融(とおる))の職を辞するに答ふる勅」を起草した。 | |
5月18日 | 「大蔵大丞藤原清瀬のために家地を雲林院に施入する願文」を代作する。 | ||||
9月2日 | 「右大臣基経のために故太政大臣良房の遺教により、水田を以って興福寺に施入する願文」を代作する。 | ||||
「治要策苑」の序を草す 政術治道に関する古今の文章を集めて、時務の参考、対策のより所としようと分量も十巻と定めたが、完成を見なかった |
|||||
貞観16年 | 874年 | 正月7日 | 30歳 | 従五位下に叙せられる | |
菅原道真は二十九歳で叙爵(律令制で六位から従五位下に叙せられること)した。橘広相・小野篁が三十一歳、菅原是善が三十三歳、藤原菅根・紀長谷雄が四十三歳、三善清行が四十四歳であった。 | |||||
正月15日 | 兵部少輔に任じられる。 | ||||
2月29日 | 民部少輔(みんぶしょうふ)に任じられる。 | ||||
10月19日 | 「小野親王のために別給封戸を謝する第一表」を代作する。 | ||||
10月25日 | 「小野親王のために別給封戸を謝する第二表」を代作する。 | ||||
11月 | 「小野親王のために別給封戸を謝する第三表」を代作する。 | ||||
11月10日 | 「源湛(たとう)のために亡室藤氏七十七日修功徳願文」を代作する。 | ||||
貞観18年 | 876年 | 32歳 | 菅原道真の長男高視(たかみ)生れる。 博学洽聞といわれ、文章得業生より成業に及ばないで、従五以下に叙し、大学頭となり右少弁を兼ねた。 |
||
「北野天神御伝」には子は男女二十三人あったとあるが、「尊卑分脈」の菅原系図に名をとどめている人は、男十一人女三人、計十四人である。 | |||||
4月23日 | 「安部真行のために花山寺において法華経を講ずる願文」を代作する。 | ||||
9月 | 「中納言南淵年名のために右大臣基経四十年を賀し奉る法会の願文」を代作する。 | ||||
12月5日 | 「右大臣基経のために太上皇(清和天皇)に上って重ねて摂政を停められんことを請う表」を代作する。 | ||||
876年~ 884年 |
57代陽成天皇 | ||||
貞観19年 | 877年 | 正月15日 | 33歳 | 陽成天皇代初めての除目で式部少輔(しきぶしょうふ)に任じられる。 | |
正月 | 南淵年名薨ず | ||||
渤海使出雲に来る。入京せしめず。 | |||||
2月 | 太上天皇の姑平子内親王薨ず | ||||
4月8日 | 大納言南淵年名のための「致仕の表」を書く | ||||
元慶元年 | 877年 | 10月18日 | 菅原道真文章博士を兼ねる。文章博士の定員は当時二人であって、今一人は都良香であった。 | ||
2月25日 | 都良香が卒去した。享年四十六歳。 | ||||
巨勢文雄左少弁に遷り後漢書を講ずることは絶えた。 | |||||
元慶年間 | 877年~ 885年 |
藤原基経が年穀豊穣を雷公に祈願して霊験があったという。因りて毎年秋、之を祭る」と記述されている。(西宮記)この天神社は現在の北野境内の本殿東北にある地主神社である。 | |||
元慶2年 | 878年 | 34歳 | 「講書の後に戯れに諸進士に寄す」の詩 | ||
蝦夷の大反乱が起きる。秋田城も一時落とされた。 | |||||
元慶3年 | 879年 | 35歳 | 菅原是善従三位に叙される。 | ||
正月7日 | 菅原道真従五位上となる。 | ||||
2月17日 | 「勅を奉じて太上天皇(清和)に上って御封を減ぜざらんことを請う表」を代作する。 | ||||
2月25日 | 良香が四十六歳で卒去。 これより五年ほど道真一人の文章博士の時代が続く。 |
||||
2月26日 | 「太上天皇の勅を奉じて重ねて封戸を減ぜんことを請う状」を代作する。 | ||||
2月 | 都良香卒す | ||||
3月23日 | 淳和太皇太后’正子、嵯峨天皇の皇女)が崩じた。 | ||||
天皇の服喪、天下の素服が問題となった。道真は議を上って、「大唐開元礼」、日本の「令」の文を引き、太后は天皇の曽祖姑であるから、天皇に服制はなく、天下の素服の例もないと論じた。 | |||||
詔はこれを入れ、凶礼を停止し、天下の素服挙哀をとどめた。 | |||||
3月24日 | 太上天皇は清和院において大斎会を設け法華経を五日間講じ親王・公卿が悉く参会したがこのときの願文を道真が書いた | ||||
5月 | 清和上皇落飾 | ||||
11月1日 | 朔旦冬至を賀する表を草す。基経以下全公卿に代わって筆をとったものである。 | ||||
11月13日 | 「文徳実録」の序文を基経に代わり、父是善の命をうけて道真が書く。 | ||||
冬 | 菅原道真、巨勢文雄のあとをついで後漢書の講義を講ずる | ||||
道真「講書の後、戯れに諸進士に寄す」という詩を詠む | |||||
元慶4年 | 880年 | 6月 | 36歳 | 大納言源多のために「職封二百戸を返納せんことを請う状」を書く | |
7月 | 大納言源多のために「職封二百戸を返納せんことを請う状」を書く | ||||
8月30日 | 菅原道真の父菅原是善六十九歳をもって亡くなる。菅原是善は外典を極めた人でありながら一面仏教を信じ家に伝える仏事を絶やすまいとした。 | ||||
菅原是善の著書は「東宮切韻」二十巻、「銀牓輸律」十巻、「集韻律詩」十巻、「会分類集」七十巻、「家集」十巻など多数ある。 「貞観格式」「文徳実録」などの編修にも与った。 「文選」「寛恕」「後漢書」などの講義を行い、当時の公卿・良吏・儒士・詞人は多くその門弟であると言われた。 |
|||||
菅原道真父菅原是善の私塾「菅家廊下」を継承する。 | |||||
尚侍源全姫のために「職を罷めんことを請う表」を書く | |||||
藤原基経関白となる。 | |||||
元慶5年 | 881年 | 10月21日 | 37歳 | 菅原道真「吉祥院法華会願文(きっしょういんほっけえがんもん)」を書く 「道真が幼少の頃病気名なったとき母が観音像を作る願を発して、一心に観音を念じて道真の一命をとりとめることができた。俸給をいただくようになったらその一部を積み立てて母の願いを成就してくれるようにと遺言した」と書かれている。 |
|
菅原是善には三子があり、道真はその第三子である。この年の道真の詩に「我に父母なく、兄弟なし」と言っている。兄たちは早く亡くなったものらしい。 | |||||
11月16日 | 太皇太后(藤原明子)の令旨を奉じて、太上天皇(清和天皇)周忌のための願文を道真が書く | ||||
夏 | 菅原道真の後漢書の講義終わる。 | ||||
道真「博士難」という詩を詠む | |||||
元慶6年 | 882年 | 正月7日 | 38歳 | 天皇の元服を賀する表を草す。基経以下全公卿に代わって筆をとったものである。 | |
正月12日 | 右大臣源多のために「官を謝する表」を書く | ||||
正月19日 | 右大臣源多のために「官を謝する表」を書く | ||||
3月13日 | 故尚侍(源全姫)家人のために「七十七日の宿願を果たす法会の願文」を書く | ||||
夏の末 | 大納言藤原冬緒(ふゆお)を誹謗する匿名の詩があり、それが凡常の作でないので、道真に嫌疑がかかった。 | ||||
7月1日 | 参議の官を定めて職事とすることを請う奏状を上っている。 | ||||
閏7月16日 | 右大臣源多のために「職封の半ばを減ずることを請う表」を書く | ||||
左兵衛少志坂上有職のために「先考周忌供養一切経法会の願文」を書く | |||||
12月 | 渤海客使裴頲(はいてい)らが加賀の国に到着した。 | ||||
「後漢書」竟宴(きょうえん:平安時代、宮中で進講や勅撰集の撰進が終わったあとで催される酒宴) | |||||
元慶7年 | 883年 | 正月11日 | 39歳 | 菅原道真加賀の権守を兼ねた。 | |
3月18日 | 式部大輔藤原朝臣室家命婦の逆修功徳の願文を書く | ||||
4月28日 | 渤海客使裴頲(はいてい)ら一行百五人が入京する。 | ||||
4月末 | 渤海客使裴頲(はいてい)に対するために権に治部大輔(外務次官)の事を行えと命を受ける。 妻の宣来子の父でもあり道真を少年時代から指導してくれた師でもある美濃介島田忠臣も権に玄蕃の頭の事を行うことを命ぜられた。 |
||||
5月 | 朝堂において国書の呈出があった。 | ||||
道真が朱雀大路の鴻露館(外国使節を迎える迎賓館)に遣わされて、渤海大使裴頲(はいてい)と詩の酬答(しゅうとう)をした時には、その詩が拙いと非難された。 | |||||
5月12日 | 渤海国の大使一行帰国の途につく | ||||
菅原道真は、二人の男子を失う不幸に遭遇し、阿満(あまろ:幼い男の子を呼ぶ愛称)を夢みるという悲痛な詩を書く。 | |||||
元慶8年 | 884年 | 40歳 | 種々の乱行奇行のゆえにすっかり人望を失っていた陽成天皇退位 | ||
884年~ 887年 |
58代光孝天皇 | ||||
2月 | 光孝天皇即位 | ||||
2月12日 | 参議藤原山蔭のために「亡室周忌法会の願文」を書く | ||||
2月25日 | 道真、文章博士一員の欠を補うことを請う状を上る。 | ||||
3月21日 | 中納言在原行平のために「民部卿を謝する状」を書く | ||||
4月 | 光孝天皇は、伊勢の斎宮と賀茂の斎院になっていた二人の皇女を除くすべての皇子女を、源姓を与えて臣籍に下した。 | ||||
4月10日 | 藤原高経のために「先妣周忌追福の願文」を書く | ||||
5月 | 藤原基経が太政大臣の地位について疑義を呈したため光孝天皇は、文章・命系・明宝の書道の博士らに直して、太政大臣には定まった職掌があるのかどうか、また太政大臣は大唐の何官に相当するのかを勘申(調査して答申すること)させた。 | ||||
文章博士菅原道真・博士(明経)善淵永貞・助教浄野宮雄・中原月雄・少外記大蔵善行・右少史兼名法博士凡春宗・大内記菅野惟肖・明法博士忌部濬継ら八人がその人々であり、菅原道真は官位の最も高いものとして、第一に意見を奏上した。 | |||||
道真の意見は、太政大臣の職掌の有無については、「職員令義解」に有徳の選で分掌の職でないとあることをあげて職掌のないことは明らかであるとした。他の博士の答えは概して曖昧であり、職掌があるのかないのか不明確であるのに比して道真の態度はきわめて明快であった。天皇・大臣には歓迎されなかったのではないかとされている。 | |||||
唐の何官に当るかについては「漢書」百官表をあげて、漢の相国に当たること、また「唐六典」によれば、唐の三師に当るようであるけれども、三師は尚書省の官員でないのに、太政大臣は分掌がなくても太政官の職事とされている点において、彼我に大相異のあることを述べている。諸博士の奏状はそれぞれ引文が異なり結論はまちまちであった。 | |||||
5月26日 | 右大弁従四位上橘広相が文章博士となった。橘広相は菅原是善の門人であった。 | ||||
阿波守藤原邦直のために「功徳を修する願文」を書く | |||||
6月 | 奏すべきこと下すべきこと基経にまず諮稟(しひん:申し上げて相談すること)する詔を下す。 | ||||
6月5日 | 光孝天皇は太政大臣基経の推戴によって、皇位についたから基経を重んじ、これに大政をゆだねる考えをもって、太政大臣の職掌のことを諮問したのである。6月5日詔を下して、太政大臣の職は師範訓導だけではない、内外の政、すべないものはないから、今日より官庁に座して大政を行い、奏すべきこと、下すべきこと、まず必ずはかり申せと、事実上後世の関白にもあたる任を基経に委ねたのである。 | ||||
これは道真の勘奏の趣旨をすて、諸博士の曖昧な答えの方を取ったのである。 | |||||
仁和元年 | 885年 | 4月26日 | 41歳 | 紫宸殿初め諸殿諸司・十二門・羅城門・東西寺合わせて三十二所及び五畿内七道諸国で同日同時、朝夕二時講修した仁王会の咒願文を道真が起草した。 | |
12月20日 | 木工允(もくのじょう)平遂良先考のために「功徳を修し兼ねて慈母六十の齢を賀する願文」を書く(文草) | ||||
仁和2年 | 886年 | 正月16日 | 42歳 | 菅原道真讃岐の国(香川県)の国主(長官)に任ぜられる。 式部少輔・文章博士・加賀権守の三官をやめた。 |
|
2月20日 | 源能有の家室藤原滋子が父太政大臣基経のために修繕功徳の願文を草す。 | ||||
3月末 | 菅原道真京を発つ | ||||
7月13日 | 清和天皇の女御源済子のために外祖母多治氏の七十七日追福願文を草す。 | ||||
11月27日 | 清和天皇の女御源済子のために功徳を修する願文を草す。 | ||||
秋 | 道真詩作の頻度が増す。 | ||||
冬 | 「寒早十首」 五言律詩で、人・身・貧・頻の韻字を用い、社会の下層にある人々が、寒天下の生活にいかに苦しんでいるかを詠じたものである。 |
||||
12月26日 | 宮道友兄のために母氏五十年を賀する願文を草す。 | ||||
仁和3年 | 887年 | 8月22日 | 43歳 | 基経以下の公卿たちが天皇に皇太子の冊立を奏請した。 | |
887年~ 897年 |
59代宇多天皇 | ||||
8月25日 | 第七子源定省(さだみ)(宇多天皇)を親王に復した。 | ||||
8月26日 | 第七子源定省(さだみ)を皇太子に立てる。 | ||||
8月 | 光孝天皇崩御 | ||||
定省親王が即位(宇多天皇) | |||||
秋 | 菅原道真暇を乞うて入京する | ||||
11月17日 | 宇多天皇の即位式が大極殿で行われる。 菅原道真正五位上に昇叙される。 |
||||
11月21日 | 宇多天皇は基経の推戴の功に感じ、即位式のあと、基経に万機巨細、百官己に総べ、皆太政大臣に関り白せと言う詔を賜った。関白という文字にちなんで、関白職の初めはここにありとされる。 | ||||
11月 | 宇多天皇は太政大臣藤原基経に、従前どおり関白を勤めるようにという詔勅を下した。 | ||||
閏11月26日 | 基経はこれに対し、上表して辞退した。 | ||||
閏11月27日 | 勅答は橘広相(たちばなのひろみ)の草する所で基経に賜い辞退の旨を退けた。その中に、「宜しく阿衡の任を以って卿の任となすべし」という句があった。橘広相は文章博士である。 | ||||
式部少輔藤原佐世(すけよ)は、阿衡はただ位であって職掌はないとし、基経に説くに政治に与るべきでないとした。藤原佐世(すけよ)は基経の家司(けいし)であって、藤氏出身の儒士として知られた人である。 | |||||
これより基経は一切政治を見ず、政務は渋滞した。 | |||||
暮 | 菅原道真任地に帰る。 | ||||
道真「舟行五事」という詩を詠む | |||||
仁和4年 | 888年 | 44歳 | 菅原道真再び讃岐に帰任 | ||
天候不順 道真は赴任の初め、国府を巡って一つの蓮池を見た。その池の蓮は元慶以前花が咲かなかったが、仁和以来咲くようになった。道真はその蓮百千万茎をとり、部内二十八の寺に分け植えさせて、仏の供養にあて、部内の安全を祈った。ところがこの年は不順であって、春より雨が降らず、夏に入っても雲が生じない。せっかくの池の蓮もすべて枯れてしまった。 |
|||||
4月 | 阿衡について博士善淵愛成(よしぶちのちかなり)・助教中原月雄らに意見を徴したが、かれらは阿衡に職掌はないという。 | ||||
阿衡事件につき道真は関白藤原基経に書を送り、父の門人でもあった橘広相(たちばなのひろみ)を弁護した。 | |||||
これ以後、道真は宇多天皇によって抜擢され、その側近として重用されることになる。 | |||||
5月6日 | 菅原道真讃岐守として、城山神に雨を祈る(菅家文草) | ||||
5月 | 少外記紀長谷雄・大内記三善清行・藤原佐世らも勘文(かんもん)を上って、重ねて阿衡に職掌はないことを論じた。 | ||||
6月 | 天皇はやむなく詔書を下して、広相が阿衡を引いたのは朕が本意にそむいたのであるとして、基経の翻意を求めた。 | ||||
しかし基経の意はなお解けず政務の渋滞はいよいよ甚だしい。基経は広相の処罰を要求した。 | |||||
10月初め | 基経の女温子が十七歳で入内して女御とされた | ||||
10月 | 明法博士らに広相の罪刑についての勘文を上らせた | ||||
10月17日 | 右大臣源多(まさる)薨去 | ||||
10月下旬 | ようやく基経の意もおさまり、広相の罪も定めるに及ばないで落着したようである。基経の女温子が入内して女御とされた事と、道真が基経に上った長文の意見書が基経の翻意を促す力となったかもしれないとされる。 | ||||
仁和5年 | 889年 | 45歳 | 「官舎の前に菊の苗を播う」の詩 | ||
寛平元年 | 4月27日 | 改元 | |||
道真は讃岐にいて改元の詔書を読み、「寛平両字幾千年」と新帝の治世をことほいだ。 | |||||
寛平初年 | 「宇多天皇主催の寛平御時菊合」に参加して和歌を詠む 秋風の吹き上げに立てる白菊は 花かあらぬか波の寄するか (古今和歌集) |
||||
寛平2年 | 890年 | 2月13日 | 46歳 | 宇多天皇の日記「寛平御記(かんぴょうぎょき)」に藤原基経の談話 | |
春 | 菅原道真国司の任期を終え帰京 | ||||
5月 | 橘広相卒す | ||||
閏9月12日 | 宇多天皇は殿上に十二人の文人を召して「未だ旦(あ)けざるに衣を求む」の賦と「寒霜晩菊」の詩を詠むことを命じた。 | ||||
寛平3年 | 891年 | 正月13日 | 47歳 | 太政大臣藤原基経が薨去。享年56歳。 | |
2月29日 | 宇多天皇は菅原道真を蔵人頭に任じる。 | ||||
3月 | 源能有は文徳天皇の皇子で正三位大納言に昇進 | ||||
3月9日 | 菅原道真式部少輔に任じられる。 | ||||
4月11日 | 藤原保則が左大弁に道真が左中弁に任じられる。 | ||||
島田忠臣卒す | |||||
斉中(ときなか)親王が薨じた | |||||
寛平4年 | 892年 | 48歳 | 藤原保則が参議に任ぜられて議政官にも加わる。 | ||
正月7日 | 菅原道真従四位下となる。 | ||||
5月1日 | 「三代実録」の撰集に与かる。宇多天皇が源能有・藤原時平・菅原道真・大蔵善行・三統理平(みむねまさひら)の五人に命じて着手させた。 | ||||
5月10日 | 菅原陳経の書いた「菅原御伝記」によると類聚国史奏上となっている。 | ||||
秋 | 菅原道真、故藤原基経の長子時平と詩の応酬をする。 | ||||
12月5日 | 菅原道真、左京大夫を兼ねる。勅を奉じて清涼殿において「群書治要」を侍読した。 | ||||
寛平5年 | 893年 | 49歳 | 藤原保則が左大弁を止めて民部省の長官である民部卿を兼任させられた。道真が左大弁に昇進 | ||
正月11日 | 宮中女性のための密宴が催された | ||||
2月16日 | 道真は参議になる。式部大輔を兼ねる。 | ||||
時平中納言となる。道真、時平から参議任官を祝して玉帯を贈られ、奉謝する詩を書く | |||||
2月22日 | 左大弁に転ず | ||||
3月 | 在唐僧中瓘(ちゅうかん)が唐の凋弊(ちょうへい:すたれ衰えること)をのせている状を商人の王訥(おうとつ)らに託してよこした。 | ||||
3月15日 | 勘解由長官を兼ねる | ||||
4月1日 | 春宮亮(とうぐうのすけ)を兼ねる | ||||
4月2日 | 敦仁親王(醍醐天皇)が立太子した。時に年は九歳であった。母は藤原の高藤の女胤子である。 | ||||
宇多天皇が譲位に際して新天子醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡」に敦仁親王を皇太子に決定したのは、道真だけに相談して決めたことだと書いてある。 このとき道真は参議になったばかりであり、彼の上には、左大臣源融(とおる)・右大臣藤原良世・大納言源能有・同光・中納言藤原時平以下多くの参議がいる。 |
|||||
5月 | 新羅賊九州へ来る | ||||
9月25日 | 「藤原朝臣、新撰万葉集二巻を撰進す」(日本紀略) | ||||
菅原道真「書斎記」を草す。菅家廊下の名は北野天神御伝に見え、清ギミがここで門人を教えたことから菅原氏の私塾を意味する語となった。方一丈の書斎についだ廊下をもって、門人の講学の所としたものである。ここから出た秀才・進士はほぼ百人に近く、学者がこれを龍門と名づけたことが「書斎記」に見える。 | |||||
寛平6年 | 894年 | 3月 | 50歳 | 新羅賊対馬に来る | |
5月 | 渤海使入貢 | ||||
7月22日 | 在唐留学僧中瓘(ちゅうかん)に対する返牒を草す | ||||
8月21日 | 菅原道真遣唐使に任命される。寛平八年まで道真に遣唐大使の称を加えている。左少弁紀長谷雄は副使。紀長谷雄は昌泰三年(900年)ころまで遣唐副使と称している。 | ||||
ライバルの藤原時平が道真を唐へ派遣してあわよくば死んでくれたらともくろんだ説があるという。 | |||||
9月 | 新羅賊船九州に来る | ||||
9月 | 「門徒の人々」が多数吉祥院に集まって、道真五十歳の祝賀の法会が行われた。 | ||||
ふと庭の方を見やると、わら沓を履いた一人の老翁が、願文と砂金を手にして堂に歩み寄ったかと思うと、前の机にそれらを置いて何言うこともなく急いで姿を消してしまった。その願文には、北闕(宮中)より道真の限りない長寿を祈願するとの趣旨がしたためてあり、この法会の導師を勤めていた少僧都勝延も、「もったいなくも天子様の主催といっても同然で、世にも珍しいことである。と、感嘆の言葉を尽くして巧みに賛嘆した、ということである。 | |||||
9月14日 | 道真、諸公卿に遣唐使の進止を議定せられんことを請う。在唐僧中瓘(ちゅうかん)が去年三月商人の王訥(おうとつ)らに託してよこした状の中に唐の凋弊(ちょうへい:すたれ衰えること)をのせていることと、従来度々の使節が途中に遭難して唐に達することの困難であることとを述べて、改めて遣唐使派遣の可否を定められたいと申請した。 | ||||
9月30日 | 遣唐使派遣の停止(日本紀略) | ||||
道真は生前唐へは渡らなかったが、唐で禅僧に参禅し袈裟を貰って帰国したとの伝説がある。それに基いて描かれた「渡唐天神像」が数多く残っている。 | |||||
12月15日 | 菅原道真、侍従を兼ねる。 | ||||
12月 | 渤海客使が伯耆の国に着いた。 | ||||
寛平7年 | 895年 | 正月11日 | 51歳 | 菅原道真、近江守をかねる。 | |
2月 | 桜花の詩宴のために道真が詩序を書く(菅家文草) | ||||
3月26日 | 東宮に侍して詩を賦す。 「菅家文草」によると「東宮(皇太子)であった延喜帝(醍醐天皇)は道長に命じて、唐では一日に百首に応じた詩があるときくから、今、汝は一時(約2時間)に十首の作に応じよと、即座に十事の題目を賜った。自分は、筆をとって二刻にしてこれを作った。凡鄙であるけれども焼却することもできず、これを存する」といって、早春・落花・夜雨・柳絮・紫藤・青苔・鸎・燕・黄雀児・燈の題の十首の七言絶句を録している。 |
||||
4月 | 藤原保則卒す | ||||
5月7日 | 渤海使入京して鴻臚館に入った。大使は前回来朝の裴頲である。 | ||||
菅原道真、紀長谷雄とともに渤海客使を鴻臚館に応接して詩を賦す | |||||
10月26日 | 菅原道真、父祖を越えて中納言に任じられ、従三位に叙される。 | ||||
11月13日 | 菅原道真、春宮権大夫を兼ねる | ||||
寛平8年 | 896年 | 閏正月6日 | 宇多天皇は公卿・殿上人をひきつれて、京都北郊紫野の雲林院(うりんいん)に行幸した。この日は子の日に当っており、野遊びのためでした。 | ||
菅原道真一時中に二十首の詩を作る。 | |||||
7月5日 | 52歳 | 検税使の可否を評議すべき奏状を上る | |||
8月28日 | 民部卿を兼ねる | ||||
10月19日 | 北堂の文選竟宴(当時、宮中や大学などで講書が終了すると、宴を開いて、その講書に用いられたテキストの中から選ばれた句を題に詩を詠む習いで、それを竟宴(きょうえん)といい、各自の詠む句題は籤を引いて決めた)に、各おの句を詠ずる。このとき道真は「月に乗じて潺湲(せんえん)を弄ぶ」という題を引き当てた。 | ||||
11月26日 | 道真の長女衍子(えんし)入内して女御となる | ||||
寛平9年 | 897年 | 6月8日 | 53歳 | 右大臣源能有(よしあり)薨ず | |
897年~ 930年 |
60代醍醐天皇 | ||||
6月19日 | 権大納言に任じ右大将を兼ねる | ||||
時平大納言に任じ左大将を兼ねる。 | |||||
7月3日 | 宇多天皇の譲位 宇多天皇は皇太子敦仁(あつきみ)親王に譲位し、新帝醍醐天皇の時代となる。践祚の儀が行われた。 |
||||
宇多天皇は、皇太子敦仁親王への譲位にあたって教訓を与え(寛平の御遺誡)、藤原時平と道真とを相並んで重用するように諭した。 | |||||
譲位について道真ひとり議にあずかる 宇多天皇が醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡」によると、醍醐天皇の立太子のときから、道真は宇多天皇の諮問にあずかったという。天皇はこのことを道真一人と相談してきめ、ほかにこれに与った者は一人もなかったという。 |
|||||
新帝の輔導を時平・道真両人に託す 宇多天皇は譲位にさいし、時平と道真とに詔して、新帝に対して、奏すべく、請うべきのことは、その旨を誨えて、奏し請い、宣すべく、行うべき政は、その道を誤ることなく宣し行えと言い残した。 |
|||||
7月13日 | 道真、時平ともに、正三位に叙す | ||||
7月26日 | 道真、中宮大夫を兼ねる | ||||
昌泰元年 | 898年 | 8月16日 | 54歳 | 改元、宇多天皇譲位、醍醐天皇践祚 | |
9月4日 | 諸納言の政務不参 道真は太上天皇に状をたてまつって諸納言らをして外記に参ぜしめんことを請うている。それによると、宇多天皇が譲位の際、奏請・宣行のことは、すべて時平・道真の両人を経るように命じたことに対して他の納言たちは自分たちが阻害されたものと疑いをはさんで、政務をボイコットし、外記庁にも出勤しなくなったというのである。道真は、詔旨は決して諸卿の政務関与を否認したものではないと説明しても、諸納言はこれをきかない。自分は別に学問の業があり、且つ時に休暇もとりたいと思う。そうすると、藤原朝臣時平だけ独り政に従わねばならず、どうして毎日頻参することができよう。どうぞ太上天皇陛下、去年詔命の趣旨をよく説明されて、諸納言らを外記に参ずるようにおさせくださいと願っている。 |
||||
9月18日 | 上皇は勅使を下して諸納言らに説明をした。この時の納言は、権大納言源光(五十三歳)・藤原高藤(六十一歳)・中納言藤原国経(七十一歳)の三人であった。 | ||||
9月19日 | 幸いにも彼らの意も解けたらしいことが道真の再奏状でわかる。 | ||||
10月 | 太上天皇遊猟に道真扈従(こしょう)す | ||||
道真、宇多上皇の吉野の宮滝御幸に扈従(こしょう)した折に和歌を詠む このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに (古今和歌集)(百人一首) |
|||||
11月 | 朔旦冬至 | ||||
昌泰2年 | 899年 | 2月14日 | 55歳 | 道真は右大臣に任じ右大将元の如し | |
2月 | 時平左大臣に任じ左大将元の如し 藤原高藤は源光とともに大納言に任じられた。 |
||||
学者・文人としては、菅原氏一族はもとより、奈良時代の吉備真備以来という道真の異例の出世や、父祖より継承した私塾菅家廊下から多数の門人を輩出したことに対する風当たりは強く、三善清行のように辞職を勧告した後輩学者もいた。また、宇多・醍醐天皇の王権にも深くかかわった道真に対する門閥貴族藤原氏の警戒感も強く、それより間もなく道真の運命は急変した。 | |||||
2月27日 | 右大臣を辞する表 | ||||
3月 | 嫡室五十の賀 道真の嫡室島田宣来子に従五位下を授く |
||||
3月4日 | 右大臣を辞する表 | ||||
3月28日 | 右大臣を辞する表 | ||||
10月 | 宇多上皇落飾 | ||||
11月5日 | 職封を減ぜんことを請う表 | ||||
899年~ |
三善清行の子の東寺の僧、貞宗(貞崇とも書く)この年から20年余りも吉野の金峰山に籠って修行をしていた。 | ||||
昌泰3年 | 900年 | 正月3日 | 56歳 | 醍醐天皇(延喜帝)が朱雀院に行幸して宇多天皇(寛平法皇)と密議して、道真に天下の政を一任しようとする。左大臣藤原時平は、大職冠鎌足の子孫で、まことに「摂籙高貴」の家柄であるが、未だ三十歳にも満たず、かつ資質や才能は道真には及ぶべくもないこと、それに対して右大臣道真は、「重代の執政」の家柄ではないが、器量才能ともすぐれ、聡明有徳の賢人であるとして、道真に政務の一切を任せるとの決定がなされた。 | |
やがて御前に召し出された道真に、その旨が仰せ下されたが、その様子を見た左大臣は「御気色をうらみて」陣外に退出した。 | |||||
このとき道真は、強く辞退の意を示すと同時に、御前への召しに臣下たちが怪しむであろうと思い、詩題を示して、両皇からは詩を奉るよう仰せつかったと称したので、左大臣も一応は納得して帰宅した。 | |||||
しかし、その後に催された詩宴では、道真に両皇並びに后宮(きさいのみや)から直々に御着衣の下賜があり、まことに栄耀たぐひなありさまであったので、左大臣時平の顔色が変わってしまった。(正暦三年託宣記) | |||||
「扶桑略記」では「昌泰三年庚申正月三日、朱雀院行幸す。安楽寺託宣に云はく、件の日、関白の詔有り。然れども菅相府固辞す」との記事がある。 | |||||
左大臣藤原時平は、反道真派の公卿らと共謀して道真を呪詛し、ついに讒奏して道真を左遷させる。 | |||||
先の密議は、やがて広く人々に知られるようになり、これを妬んだ左大臣時平は、道真を無実の罪に陥れる計画を立てて讒奏するとともに、源光・藤原定国・藤原菅根とも共謀して、陰陽寮の官人に道真呪詛の秘術をいろいろと行わせた。 | |||||
2月6日 | 右大将を辞する表 | ||||
3月 | 内大臣藤原高藤薨ず | ||||
4月 | 皇太后班小女王崩ず | ||||
5月 | 太皇太后藤原の明子崩ず | ||||
8月16日 | 「菅家文草」以下父祖の集を献上す 道真の詩文を集めた「菅家文草」十二巻、父是善(これよし)集「菅相公集」十巻、祖父清公(きよぎみ)の集「菅家集」六巻を醍醐天皇に献上した。 |
||||
醍醐天皇は「見右丞相献家集」と題した詩を作ってそれに応えた。天皇はその詩の中で、こんなにすぐれた菅原家の集を得たから平生愛してきた白氏文集を開くこともなくなるだろうと、その秀逸を称えている。 | |||||
9月10日 | 清涼殿で行われた重陽後朝の宴で「秋思」という勅題を受けて詩を作った。 この作詩の時、醍醐天皇のおほめにあずかり御衣を賜った。 |
||||
10月11日 | 三善清行、道長に辞職をすすむ | ||||
10月 | 三善清行明年辛酉革命の議を上る | ||||
昌泰3年のころまで紀長谷雄は遣唐副使と称している。 | |||||
昌泰4年 | 901年 | 正月7日 | 57歳 | 時平と道真は従二位に叙された。 | |
正月25日 | 右大臣従二位菅原道真を太宰権の帥に左降するという宣命が下される。 | ||||
その罪状は、道真は寒門から大臣にまで昇進しながら、止足の分を知らず、専権の心があり、上皇を欺き惑わして天子の廃立(はいりゅう)を企て、父子兄弟の間を裂こうとした。というものであった。(政事要略) | |||||
醍醐天皇を廃して、天皇の異母弟である斉世(ときよ)親王を皇位に立て、宇多上皇と醍醐天皇の父子間だけでなく、醍醐天皇と斉世(ときよ)親王との兄弟の間も裂こうとしたということだと古来解釈されている。斉世(ときよ)親王は橘広相の娘義子が生んだ宇多皇子で、道真の娘が親王に嫁していた。 | |||||
道真は、太宰員外帥(だざいいんがいのそち)に左遷された。太宰員外帥には公務なく、罪人同様の生活を強いられた。大宰府政庁から、府の大路を真南へ七百メートルの位置にある空家の官舎があてられ、南館と呼ばれていた。現在の榎社(明治初年の神仏分離以前は榎寺または浄妙寺ともいった。)の地である。 | |||||
16,7歳であった延喜帝が、まことに温厚かつ公明正大で国家を安泰に導いていたのに、全く思いもかけず、時平の讒奏によって、道真を太宰権帥に左遷して流罪に処するとの宣旨を下した。 | |||||
上皇に知らせずに左遷を決す 道真の流罪を聞いて、宇多上皇がこれを止めようと内裏に御幸するが、建春門(内裏の東門)の門前で藤原菅根に阻止される。(江談抄) この時警固の陣頭に立っていたのは紀長谷雄であったとも伝えられる。(扶桑略紀) |
|||||
同日、宇多法皇内裏に馳せ参ず。然れども左右の諸陣警固して通さず。仍て法皇、草座を陣頭の侍従所西門に敷き、北に向かひて終日庭に御す。左大弁紀朝臣長谷雄、門前の陣に侍し、火長以上、榻座を下らず。晩景法皇本院に還御せらる。(扶桑略紀) | |||||
道真は悲しみに耐えられず 流れ行くわれはみくずと成りぬとも 君しがらみとなりてとどめよ と和歌を詠んで宇多法皇のもとに送った。 |
|||||
大納言源光は右大臣に任じられる。中納言藤原定国は右大将を兼ねた。藤原定国は今上天皇の外祖高藤の子である。 | |||||
正月27日 | 道真を送る使いは左衛門少尉善友益友、左右兵衛各一人と定められた。 | ||||
道真の党与と目された人は、左遷された。右近中将源善は出雲権守に、右大史大春日晴蔭は三河掾に、勝諸明は遠江権掾に、源巌は能登権掾になど、その数は多きに上った。 | |||||
1月30日 | 宇多法皇は左衛門の陣建春門に御幸し、翌二月一日まで徹夜で座り込みを続けたとある。 | ||||
2月1日 | 道真が自邸紅梅殿の庭に咲く梅と桜に別れを告げる。道真は領送使(罪人の護送官)に急きたてられるようにして京を出立した。 | ||||
左遷の命は厳しく、道真の子息男女二十三人のうち、男子四人は四方に流された。姫君たちは京中にとどめられ、まだ幼い子供だけをともなって、筑紫への旅立ちとなった。 道真が自邸を去るとき、詠んだ歌 こちふかばにほひおこせよむめのはな あるじなしとてはるをわするな (拾遺集)(大鏡) さくら花ぬしをわすれぬ物ならば ふきこむ風にことづてはせよ |
|||||
ながれゆくわれはみくずとなりはてぬ 君しがらみとなりてとどめよ やまわかれとびゆくくものかへりくる かげみる時はなをたのまれぬ |
|||||
邸宅 道真の京都での邸として「拾芥抄」に記すものに紅梅殿と天神御所の二つがある。紅梅殿は、五条坊門北、綾小路南、町尻西、西洞院東の一保にあって、道真が大宰府出発の際は、この邸より出たとせられ、「こちふかば」の歌もこの邸で詠んだものと古来言い伝えられている。 |
|||||
九州大宰府に赴く道中や配所生活当初の心情を詩や和歌で詠う。 | |||||
輔弼阿衡の貴名(天皇の政治を輔ける高い地位)から、思いがけずも「配流左遷」の汚名をこうむるとは、まことに運命の急変である。貞観よりこれまで五代の帝王に仕えてきたわが身をふりかえるにつけ、壊れかけた釣船に乗って筑紫をめざす今の境遇は、まことに理不尽でもあり、悲しみもいよいよつのるばかりである。この上は、合掌してひたすら仏道に帰依しようと、「三世の仏たちはあはれとおぼしめし、一乗妙典(法華経)後生かならずたすけ給へ」と書き置くばかりであった。 | |||||
白楽天の「北窓三友」の詩にちなんで道真が詠作した詩 都から遠く離れてきたの方(道真の室島田宣来子)に送られた歌 君がすむやどの梢をゆくゆくと かくるるまでにかへり見しかな (拾遺集)(大鏡) 「我は遷客たり汝は来賓」云々の詩 「旅の雁を聞く」 「家を離れて三四月」云々の詩 |
|||||
ゆふされば野にも山にも立けぶり なげきよりこそもえまさりけれ あめの下かくるる人もなければや きてしぬれぎぬひる(かわく)よしもなき とりわけこの二首はこれを聞いて涙を流さぬ人はなかったということである。 |
|||||
海ならずたたへる水のそこまでも 清き心は月ぞてらさむ (新古今集)(大鏡) |
|||||
5月10日 | 「菅家御伝記」に「類聚国史奏上」とある。 | ||||
7月10日 | (宇佐御幣使清貫が配所の道真の様子を視察して復命) | ||||
延喜元年 | 7月15日 | 改元 | |||
8月2日 | 清和・陽成・光孝三代の国史である「三代実録」の完成奏上 | ||||
道真はこの年正月に左遷せられ、三統理平(みむねまさひら)も地方官に転出したので、序文に名を列ねたのは時平と善行の二人である。 | |||||
9月 | 大蔵善行七十の賀 | ||||
9月10日 | 恩賜の御衣を拝しての心情を詠む | ||||
大宰府謫居一年目の延喜元年の九月十日。思い起こせば、ちょうど一年前の同じ日の重陽宴において、詩を詠み、叡感のあまりに帝自ら脱いだ衣を道真に賜った。その恩賜の御衣は、この謫所までたずさえて来て、日々「都のかたみ」としているところであるが「去にし年の今夜、清涼に侍りき」云々の詩や「都府の楼には纔に瓦の色を看る」云々の詩は、白楽天の詩にも優るとも劣らないと評された。 去年侍今夜清涼(去年の今夜は清涼に侍り) 愁思詩篇独断腸(愁思の詩篇独り腸を断つ) 恩賜御衣今在是(恩賜の御衣は今ここにあり) 捧持毎日拝余香(捧げ持ちて毎日余香を拝す) |
|||||
延喜2年 | 902年 | 2月25日 | 58歳 | 道真は京よりの使者によって、夫人の死去の知らせを受け、その驚きと悲しみとあいまって、病はいよいよ重くなった。 | |
3月 | 時平、諸政刷新の官符を下す 道真を西海に追った時平は、以後は朝廷のただ一人の実力者として、意のままに政治を行うことができた。 |
||||
小野美材が亡くなる。 | |||||
「野大夫を傷む 古調七言五韻」 野大夫すなわち小野美材の訃報に接して詩を詠む |
|||||
延喜3年 | 903年 癸亥 |
正月のころ | 59歳 | 道真は死に臨んで流謫後の詩篇をまとめた集を「西府新詩(せいふしんし)」と名付け、封緘して紀長谷雄に送ったという。これが現在の菅家後集である。 | |
「北野天神御伝」は道真が次の遺言をしたと伝える。 余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず。 |
|||||
昌泰三年八月以後、主に大宰府にて詠まれた詩篇は、これを集めて「後集」と名づけ、次第に心身に異変を感じる中、箱に収めて、都の旧友中納言紀長谷雄のもとに送った。これを開き見た長谷雄は、大いに歎き悲しむとともに、その類まれなる詩文の才能に賛嘆やむことがなかった。 | |||||
道真、配所に近い高山にて、無実の由を天道に訴える | |||||
道真が、筑紫謫居中に、無実の由の祭文を作って「高山」に登り、七日間にわたって訴え続けたところ、祭文は飛び昇って雲の中に分け入り、天上の帝釈宮を過ぎて、梵天までも昇ろうかと思われた。かの釈迦は底沙仏の御前で七日七夜にわたって足の指をつま立ててその徳を賛嘆し、弥勒に先立って仏になったと伝えるが、道真は「現身に」七日七夜蒼天を仰いで一身に祈り、まことにおそろしいことに、あらたに「天満大自在天神」となったのである。 | |||||
2月25日 | 道真は大宰府の南館において逝去し、今の安楽寺の地に埋葬される。 | ||||
公が年五十九歳で浄妙院に薨じ給うや、三笠郡四堂の辺に墓を築いて葬らんとして轜車(喪の車)を引出したが、途中で牛車が動かなくなったので、その場所(安楽寺)に埋葬したという。又生誕も薨去もともに二十五日であるので、二十五日が天神様の縁日となった。 | |||||
現在、太宰府天満宮の神幸式大祭に神輿が本殿を発し、榎社を御旅所として一夜を過ごし、還御する神幸の道(通称どんかん道という)が、この葬送の道であると伝承されている。 | |||||
このどんかん道の中程の五条という地に、葬送の役目を無事に勤めたつくし牛が、舎屋へ戻る途中に力尽きて死んだという場所が、神牛塚の石碑とともに残っている。 | |||||
道真の霊が天台僧尊意のもとに出現し、怨霊調伏の修法の中止を乞う | |||||
菅公の薨後、いくばくもない、真夏のある蒸し暑い未明のこと、延暦寺の第十三世天台座主法性房尊意僧正が「三伏のなつの夜、五更いまだいたらざるほどに、四時のやまのうへに智水をたたえ、三密のたんのまへに観月をすましておはしましけるに」不意に房の妻戸を叩く音がしたので、押開けて見ると菅公が化来したのであった。そこで畏んで持仏堂へ講じ入れて対面すると、菅公は憂鬱をも陳べ怨をも報じようと思うが、たとえ勅宣なりとも法験を施して押さえられることは師檀の契りにより請けることを止められたいと語ると、法性坊は天下は王土であるので、地の上に住みながら勅宣三度もあらば如何と答えた。すると菅公の気色少し変わり、喉も乾いていることと進めた柘榴を妻戸に吐きかけると、その柘榴は火焔となって妻戸に燃えついたので、洒水の印を結んでかけたので火炎は忽ち収まった。その焼け損じた妻戸は今に本房にあり、[世の不思議なり]と結んでいる。その憤怒の状を表現したのが世に柘榴天神と称しているものである。 | |||||
尊意の俗姓は息長丹生真人で、鴨東吉田寺の地獄絵を見て発心し、やがて天台僧になった。 | |||||
3月 | 「北野宮寺縁起取要」には「叡山法性坊に化現せしむ」と記す。 | ||||
10月 | 保明親王生誕 | ||||
大宰府郭外の弘仁年間(810年~824年)以来の僧舎三百七十坊のうちすでに多くの廃寺が存在していた。 | |||||
延喜3年~ 延喜4年 |
903年~ 904年 |
旱魃や疫病の流行がある。 | |||
延喜4年 | 904年 | 12月19日 | 左衛門督藤原某をして五穀豊穣祈願の「雷公」を北野に祭らしめている。(西宮記)(醍醐天皇御記) | ||
延喜5年 | 905年 | 古今和歌集 | |||
彗星の出現が人心を畏怖せしめた。 | |||||
これらの天変地異に拍車をかけて世人を恐惶に陥れたのは、藤原時平側の災厄であり、菅公に対する一般の同情であった。 | |||||
8月15日 | 菅原陳経は「菅家御伝記」の中に「味酒安行(まさけのやすゆき)神託に依って神殿を立て天満大自在天神と曰う」と記した。 | ||||
8月19日 | 味酒安行(うまさけのやすゆき)が神託により初めて墳塋(はか)の地即ち安楽寺に神殿(御廟殿)を造立して天満大自在天神と称した。(菅家御伝記)これが今日の大宰府の天満宮である。 | ||||
「天満大自在天神は菅丞相の霊なり」とみなされるようになる。(元亨釈書) | |||||
天満大自在天神の名称とかかわりをもつ大自在天神は、仏教においては、八臂三眼で、白牛に騎乗するとされている。(大智度論)そのために、天満大自在天神でもある菅原天神は、牛に乗ると因縁づけられたとみなす説もある。 | |||||
延喜6年 | 906年 | 長子高視召されて本官を授けられ位一階を進められた。 | |||
延喜7年 | 907年 | 唐滅亡 | |||
延喜8年 | 908年 | 夏 | 旱損(かんそん:ひでりによる損害。干害。) | ||
10月7日 | 時平を助けて道真の左遷に力を致したといわれる参議藤原菅根も卒した。 | ||||
藤原菅根が死去し、また翌年に藤原時平も、天台僧浄蔵の調伏法が中止されたため死去する。 | |||||
藤原菅根が「神罰」をこうむって死去した。翌九年三月には藤原時平も病気に悩み、投薬も陰陽道の秘術も効果がなかった。さては「菅丞相の霊気」によるものと悟った時平は、玄照律師の弟子にして、「善相公」こと三善清行の子で、当時法験で名高かった僧浄蔵を招くこととし、四月四日には時平の病床に請じ入れて祈祷を始めさせた。その正午ごろに清行が見舞いに訪れたところ、時平の左右の耳から青竜が頭を差し出して、梵天・帝釈天の許しをうけて怨敵に報いようとしているので、子息浄蔵の調伏を止めさせよ、と述べた。清行は、楚の摂公が本物の竜に出会った時もかくやと思われるほど恐れおののいて、ただちに浄蔵に告げたところ、夕刻に浄蔵は退出した。時平が死去したのは、その時であった。 | |||||
延喜9年 | 909年 | 春 | 疾疫(しつえき:流行病) | ||
4月4日 | 道真を追放した首謀者の藤原時平は三十九歳の働き盛りで没した。・旱損(かんそん:ひでりによる損害。干害。) | ||||
夏 | 霖雨と洪水 | ||||
延喜10年 | 910年 | 疾疫(しつえき:流行病)・ | |||
安楽寺を建立 | |||||
4月 | 大風雨 | ||||
6月以降 | 旱損(かんそん:ひでりによる損害。干害。) | ||||
延喜11年 | 911年 | 夏 | 洪水 | ||
大江朝綱、登省の際に道真の前例を引き合いに出して、及第となる。 | |||||
後江相公こと大江朝綱の登省(文章生になるための試験)の時のこと。答案の詩が「両音(平声・仄声)」を持つ字を平声(漢字の発音の一種)に用いたとの理由で、試験管の博士たちから落第と判定されそうになった朝綱は、道真の作「鶴は千里を飛ぶも」云々をたびたび詠じたが、博士たちはなかなか聞き入れようとしなかった。 | |||||
そこで朝綱は、道真の仰せおかれたことも私は聞いておりますと答えたところ、そのことを聞き及んだ醍醐天皇は、いかなる才智の博士たちでも道真には及ぶべくもなかろう、早く及第にすべきであると勅宣を下されたので、博士たちは声をのむしかなかったということである。 | |||||
延喜13年 | 913年 | 長子高視三十八歳で卒した。 高視の子には雅規・文時がある。文時は文才を以って聞え、式部大輔・文章博士となり、三位に昇り、菅三品(かんさんぽん)と称せられた。文時の孫宣義も博士となった。 代々博士を世襲し、菅家の家学を伝えたのは雅規の流である。康正、その流から、唐橋・高辻・五条・東坊城・清岡などの菅家の諸家がわかれたのである。 |
|||
延喜15年 | 915年 | 御墓寺を建立 | |||
延喜19年 | 919年 | 太宰府天満宮が竣工する。 | |||
「大講堂薬師如来安置之事」には、「大講堂は天智天皇四年、天皇の勅願によって建てられた。延喜十九年、藤原の仲平らが勅を奉じて天満宮御廟を造営した時、安楽寺の名を一山の号とした」と記している。 | |||||
延喜23年 | 923年 | 3月21日 | 藤原時平の妹の穏子を母とする皇太子保明(やすあきら)親王が二十一歳の若さで薨じたのは、「挙世云、菅師霊魂宿念所為也(世を挙げて云はく、菅師霊魂の宿念のなす所なり)」(日本紀略)とせられた。史実としての道真の怨霊騒ぎの初めである。 | ||
保明親王の母親が藤原時平の妹穏子(やすこ)(醍醐天皇中宮)であり、時平・忠平兄弟のそれぞれの娘(仁善子(よしこ)と貴子)が親王の妻になっていたから、藤原氏一族の動揺は大きかった。 | |||||
天満大自在天神は三界を自在に往来し、その随身する伴党も多く、縁起の末年以来、国土の災変が頻発するようになった。 | |||||
天満大自在天神は一瞬の間に三界をめぐっている。常の住所は済度衆生界で、普賢・文殊・観音・地蔵の諸菩薩が互いに来って化度している。また毎日、帝釈宮・閻魔王宮・大梵天宮・五天竺、大唐の長安城・西明寺・青竜寺・新羅国郡武城、日本国の皇城や五機七道の霊験ある寺社への往来が自在である。また、その随身の伴党は、すべて恨みを含んで世に背いた貴賎霊界の者が集合したものであるが、道理なくして恨みを含んだ連中は入っていない。延喜年間末頃云々の一件は、皇太子保明親王の急逝をさしていることは明らかで、史上、この事件こそ道真の祟りが確実に取りざたされた最初の事件である。 | |||||
4月ころ | 右大弁源公忠が頓死、蘇生して冥途のことを醍醐天皇に奏上する。 | ||||
小松天皇(光孝天皇)の孫で延喜の御門の従兄弟にあたる右大弁源公忠が頓死して、三日を経てよみがえることがあった。公忠は、子息信明・信孝の二人につき添われて参内し、驚いて出迎えた醍醐天皇に次のように奏上した。自分が頓死して冥宮の門に至ると、衣冠姿もうるわしい「たけ一丈余りなる人」が、醍醐天皇の心ない仕業を訴えていたので、これは道真だと悟った。その時また、冥官たち三十余人が居並ぶなかで、第二の座に居た人が、少しあざ笑いながら、「延喜の帝こそ、すこぶる荒涼(軽率)なれ。もし改元もあらばいかが」と申された、とのことである。 | |||||
4月20日 | これを聞いた天皇は大変恐れおののき、菅公を本官右大臣に復し、正二位を贈り、延喜元年(901年)の正月25日の道真左遷の宣命を焼却せられた。菅原道真の左遷の理由が今日よくわからなくなっているのは、関係書類がこのとき皆焼かれてしまったからである。 | ||||
4月29日 | 保明親王の遺子である慶頼(よしより)王がわずか三歳で皇太子に立てられた。保明親王の母は藤原時平の妹の穏子で醍醐天皇の皇后であるが、慶頼(よしより)王の母は藤原時平の娘であった。 | ||||
延長元年 | 923年 | 閏4月11日 | 改元 | ||
7月 | 皇后穏子は後の朱雀天皇を出産した。道真の怨霊を恐れるあまり、固く閉ざした部屋の中で夜昼灯をともしてお育てしたと「大鏡」は伝えている。 | ||||
延長3年 | 925年 | 6月 | 保明親王の薨後、直ちに皇太子に立てた慶頼(よしより)王(母は時平の娘)はわずか五歳で薨じた | ||
こののち、皇太子には、親王の同母弟寛明(ひろあきら)親王が立ったが(のちの朱雀天皇)、道真の「祟り」を恐れて、三歳まで全く戸外に出ることなく育てられたと伝えられている。(大鏡) | |||||
延長4年 | 926年 | 兵部丞・式部権大輔・大学頭・右中弁を経て文章博士となった庶子敦茂が卒した。 | |||
尊意が天台座主となった。藤原忠平の日記「貞信公記」にその名が散見し、忠平及びその一族の仏事を多く担当した。 | |||||
5月21日 | 僧寛建、入唐に際して道真らの歌集を請う | ||||
延長5年 | 927年 | 10月是月 | 故太宰菅帥霊、子息の大和守兼茂に雑事を語る | ||
延長8年 | 930年 | 6月26日 | 宮中清涼殿に落雷があり、臣下に数名の死傷者が出る。 | ||
宮中清涼殿の南西の柱に落雷があった。落雷は、皮肉にも宮中清涼殿に諸卿が集まって旱魃対策を協議中の出来事であった。 「日本紀略」などによると、大納言藤原清貫は着衣の袍に火が着いて、ころげまわって悲鳴をあげたが、消えなくて雷死。右中弁従四位下平希世(たいらのまれよ)朝臣は、顔が焼けて柱の下に倒れ伏して雷死。是茂朝臣は、弓をとって立ち向かおうとしたが、たちどころに蹴殺され、近衛忠包(ただかね)は鬢が焼けて死亡した。紀蔭連(かげつら)も炎にむせんで悶絶した。天皇も病気となった。 宮中清涼殿の落雷は天満大自在天神の「十六万八千の眷属のうちの第三使者火雷火気毒王のしわざ」なのである。この天満大自在天神というのは、南禅寺の学僧、虎関師錬の著「元亨釈書」によると「菅丞相(菅原道真)の霊なり」と解説している。 |
|||||
清涼殿落雷の夜、三善清行の子で東寺の僧貞宗が宮中で祈っていると、大きな音がする。しかし足音ばかりで人影はない。その時、「あの足音は邪神なのだ」と貞宗が言ったということを、醍醐天皇第四皇子の重明親王が、その日記「李部王記」に書きとめている。 | |||||
貞宗のもとに火雷神が現じたという説話(「古今著聞集」)もある。 | |||||
9月22日 | 天皇が第一皇子(朱雀天皇)に譲位 | ||||
9月29日 | 清涼殿落雷を機に醍醐天皇も病臥し、その三ヶ月後の九月二十九日に落飾・崩御した | ||||
その日に毒気が初めて醍醐天皇の身のうちに入り、次第に病気が重くなり、ついに九月二十三日に第一皇子(朱雀天皇)に譲位し、九月二十九日には出家したが、即日崩御した。四十六歳であった。 | |||||
清涼殿に落雷した際、左大臣時平ひとりが太刀を抜いて立ち向かう(大鏡)延長八年の落雷を時平在世中のことにすりかえて語ったものであろうとされている。 | |||||
「そのときやがて雷電霹靂し」た際、宮中清涼殿では、これを道真のしわざとみた「本院のおとど」こと左大臣藤原時平は、ただ一人太刀を抜きかけて、生前朝廷においては自分の次席ではなかったか、たとえ神になったとはいっても、自分には遠慮すべきであろう、といい放った。 | |||||
尊意は宮中清涼殿落雷で病臥した醍醐天皇に近侍して加持祈祷し、晩年には大僧都まで昇って、平将門の乱の調伏にもあたったと伝えられる。 | |||||
仏教では大自在天の像容は、八臂三眼(八本の腕と三つの目)にして白牛に乗るとされている。 そこで天満大自在天神である菅神は当然牛に乗るというところから、天神に牛が仮託せられてきたものであろうとされている。従って天神には二十五日の外、丑の日に参拝することも行われた。 |
|||||
藤原忠平の子師輔が子孫に残した訓戒「九条殿遺戒」には「貞信公(忠平)語りて云はく、延長8年6月26日、清涼殿に霹靂(へきれき)するの時、侍臣色を失へり。吾れ心中に三宝に帰依し、殊に懼(おそ)るる所無し。大納言清貫右中弁希世、尋常に仏法を敬まはず、この両人己に其の妖に当れり。是を以って之を謂ふに、帰真の力、尤も災殃(さいおう)を逃がる、」と見える。 | |||||
尊意が勅命をうけて参内する際、増水した鴨川も牛車にて無事に渡ることができ、法験をあらわす | |||||
尊意贈僧正が、三度の宣旨をこうむって比叡山から内裏に参上した際には、洪水で増加した鴨川の水も、左右の岸辺に去りのいてあたかも陸地のようになり、尊意は難なく通過した。まことに「法験も目出たく、皇威もおそろしく」そののちにもしばしば天神道真をなだめ奉ったということである。 | |||||
9月 | |||||
930年~ 946年 |
61代朱雀天皇 朱雀天皇の御代に至っても変災は止まず、山陽・四国には海賊が横行し、間もなく承平・天慶の乱などで人心は恟恟とし、社会はこれを菅霊の祟りによるとした。 |
||||
承平4年 | 934年 | 4月 | 大和の国金峰山で修行中の道賢上人日蔵が頓死、蘇生する。その間に日蔵は、三界六道を巡歴し、道真の霊や地獄で苦しむ醍醐天皇らとも会見し、天皇より抜苦を依頼される。 | ||
道賢改名して日蔵と称するなる僧が、祥平四年四月十六日より、大和国吉野にある金峰山の「笙のいはや」に籠って修行していたところ、八月一日に頓死して十三日に蘇ることがあった。その間に彼は、金剛蔵王菩薩の善巧方便(仏菩薩が衆生救済にあたって、相手の素質・能力に応じてさまざまな手段をとること)によって三界(一切の衆生が生死をくりかえす迷いの世界)六道を遍歴し、中でも点満大自在天神の御在所や弥勒菩薩がおられる都卒天の内外院、閻魔王宮や地獄などまで巡歴したのである。 | |||||
「道賢冥途記」が書かれた。(建久本) | |||||
承平6年 | 936年 | 時平の長子大納言・右大将保忠は四十七歳で没した。 | |||
藤原時平の子孫は多く四十歳に満たないで死去し、日ごろから天神を畏れた者、出家した者たちのみが高い地位に昇る。 | |||||
つづいて時平のむすめの宇多天皇の女御となった褒子も早く亡くなった。また長男の八条大将保忠も若くして亡くなったが、時平の子孫のみな夭死したことを強調した「大鏡」によると、保忠は病床で物の怪に取り付かれ、加持祈祷を担当した験者が薬師経の文言「所謂宮毘羅大将」を声高に読上げたところ、「我をくびらん(首を締めて殺そう)」と取り違えて、絶え入ってしまったのである。皇太子保明親王の御息所となった人も、早く没した。さらに三男敦忠中納言も三十八歳で亡くなり、孫の慶頼王は五歳で薨じた。時平の子孫は皆四十歳に満たずしてなくなり、子孫は絶えてしまったかのようであった。 | |||||
そんな中で次男の富小路右大臣顕忠のみは従二位の大臣にまで昇進し六十八歳の寿を保ったという。それというのも彼は、日ごろから道真の霊を深く畏れ毎夜、庭に出て天神を拝することを怠らず、諸事謙遜にふるまい 大臣在任中の六年間も、大層用心して過ごしたからである。結局、時平の子孫たちの中では、三井寺の心誉、興福寺の扶公、石蔵の文慶など仏道に入った者だけが高い地位に昇った。 |
|||||
忠平流の天神崇拝 時平の一流が、天神のたたりを受けると信ぜられた一面、その弟の忠平の流は、天神に庇護せられて、子孫が栄えると信ぜられた。忠平は生前道真と親しく、その左遷にも反対したから、その子孫を守護するという神託があったというのである。 |
|||||
北野神社の崇敬 恐ろしい祟りを為す天神を、己の庇護神とすることができればそれほど幸いなことがない。天神に対する藤原氏の崇敬はこの意味において高く、北野社は創立の日の浅いにもかかわらず、古来の大社にまじって二十二社の一に加えられたのである。 天皇の行幸も寛弘元年の一條天皇の行幸を初めとして、その例が多く、古今を通じて朝廷の崇敬はなみなみではなかった。武家でも足利将軍や豊臣秀吉は、厚い信仰を捧げた。 |
|||||
あら人神 邪悪を打ち滅ぼす天神のおそろしい霊威の発動を指したものという。 世に伝える天神像の一種に、繩敷天神・繩座天神などと称して、繩の上に座して忿怒の形相のすさまじいものがある。西遷の途中、上陸地に休息の家もないので、帆綱を巻いて円座としたという伝説にもとづくものである。 |
|||||
慈悲の神 荒魂は天神の全部ではなく、一面では慈悲深く冤罪になげく弱者を助け、孝行・正直の者を憐れむ、やさしい神である。 |
|||||
観音の化身 天神は仏教と深く習合した神であったが、本地垂跡説においては、本地を観音と定めたのである。 「北野縁起」にも「本地を尋ぬれば観音の垂跡なり。慈悲の弘誓浅からず」とある。 |
|||||
正直の神 人間としての道真は、誠実をその本領としたのであるが、天神もとくに正直を喜ぶ神とせられた。 |
|||||
起請の神 正直の神ということから、信義の神・約束履行の神ともなって、北野社の出す牛王宝印が起請文として利用せられた。 |
|||||
学問の神 天神が学問の神であることは、一世を蓋うた道真の学問からいって当然であろう。学者は古くからこの意味で天神を崇拝し、北野に報賽の誠を捧げた。 |
|||||
渡唐天神の説 天神を文道の神とした考えは、室町時代に渡唐天神という不思議な信仰に発展した。禅僧の間に起こったもので、天神は渡宗して径山の無準に参禅したというのである。その姿を夢想に得たといって、仙冠道服で、一枝の梅を持った天神像を描き、これを礼拝の対象ともすれば、詩文の題材ともした。 |
|||||
和歌の神 芸道の神ということから、天神はまた和歌の神と崇められた。 「後奈良天皇宸記」に和歌三神の名号として、中尊に天満大自在天神、左右に住吉大明神・玉津島明神を書いたものが見えている。 |
|||||
書道の神 江戸時代の寺子屋が、天神を祭り、天神講を行ったことは、学問の神ということもあろうが、より多くは書道の神と考えたからであろうとされている。もともと道真の筆跡を神筆と称し、空海と小野道風とに並ぶ能書家とする説は、藤原頼長の「台記」にある。しかし道真の書の実物は一つも伝わっていないという。 |
|||||
塙保己一の天満宮崇敬 中山信名の著わした「塙先生伝」によると、保己一は早くより神明を頼んで心を定めることの必要を思ったが、人臣として伊勢や岩清水の神を頼むことは分に過ぎると、北野か豊太閤かと迷った。 二十一歳で関西旅行に出、北野に詣でて神威にうたれ、これより北野に全幅の信仰をささげることになった。 |
|||||
明治以後の崇敬 明治に入ってからは、道真の忠誠を高く評価し、国民教育のいろいろの場合に、道真の事績を教えた。 学者の中でも、井上哲次郎・筧克彦の両博士は、著書に論文に、道真の偉績を説くことがきわめて熱心であったが、その根柢には、堅固な天神信仰の横たわっていたことが認められるとされている。 |
|||||
天慶2年 | 939年 | 平将門の反乱 | |||
12月 | 将門記に東国諸国を攻略した平将門に対して八幡大菩薩の託宣があり、やがて新皇に即位するという有名な件があり、それを「右大臣正二位菅原の朝臣の霊魂」が媒介している点について、道長息の常陸介菅原兼茂の言動に基く常陸掾藤原玄茂らの演出との解釈も出ている。 | ||||
天慶4年 | 941年 | 8月 | 道賢上人(日蔵)の「道賢上人冥途記」なるものによると、道賢上人日蔵という真言僧が吉野の金峯山に入定中に頓滅し、十三日を経て蘇生していうには、頓滅中に冥途をたどり、本尊の蔵王の知遇により菅公の霊「日本太政威徳天」に謁した。公は日本太政威徳天と号し、宿世の福力により天上に生れ、十八万八千の眷属神を随え、威厳赫々として大王の如くであって「世間災難」の根源を教えられ、また道真配流の罪などで地獄で苦しんでいる醍醐天皇らに会見して「告ぐるに山より北に「一小天祠」を建立し、清浄持律の僧一口を択み求め其祠に使へしめ咎を謝し福を祈らしめよ」と抜苦を依頼されたと伝えている。(扶桑略記)(日蔵夢記) | ||
道真の門弟である参議兼太宰権帥橘公頼は中納言に昇進しても師の廟のある大宰府に留まり、そこで没した。 | |||||
天慶5年 | 942年 | 7月12日 | 平安京の西京に住む多治比あやこに道真の霊の託宣があり、しばらく家の近くの祠で祀った後、天暦元年(947年)六月九日に北野に遷す | ||
西京(右京)七条二坊十三町に住む多治比奇子(あやこ)(文子)に道真の神託がある。「我昔世に在りし時、しばしば右近馬場に遊覧せり、城辺閑勝の地、彼の場に如く処なし、我虚構の禍に遇ひ、鎮西に左降せられ、遠く宿報を思ふと雖も、中心恨を結ぶの報、還りて肝を焦がすの儘を作す、帰京期なし、たまたま彼の馬場へ嚮へば、胸炎頗る薄らぎぬ、今や既に天神の号を得て鎮国の思いあり、須らく彼処に禿倉を構えて潜寄の便を得しめよ」と。(菅家御伝記)(北野天満自在天神宮創建山城国葛野郡上林郷縁起) | |||||
文子は「身の程のいやしさ」をはばかってすぐには右近馬場に社を営むことができず、柴の庵の辺りに形の如く小祠を造り五年にわたって私的に祀った。 | |||||
天慶6年 | 943年 | 時平の三子権中納言敦忠は三十八歳で没した。 | |||
光孝天皇の皇子源国紀の子の源公忠が右大弁に任じられる。 | |||||
946年~ 967年 |
62代村上天皇 | ||||
天慶9年 | 946年 | 近江国比良宮禰宜神良種(みわのよしたね)の子太郎丸という七歳の童に道真の霊の託宣があった。 | |||
天暦元年 | 947年 | 3月12日 | 近江国比良宮禰宜神良種(みわのよしたね)の子太郎丸という七歳の童に託宣があった。「我昔右大臣に任ぜし時、我身に松生ひて即ち折れたりしことを夢みぬ、ここを以って我は三公の官に昇り、また左遷に逢ふことを知りぬ、故に我今より居らむと欲する地には必ず松を生ぜしむべし」と。(最鎮記文)(託宣記) | ||
託宣をうけた神良種(みわのよしたね)は、朝日寺の住僧最珍ら、またあやこの親類らとも協議協力して、右近馬場に社殿を建立する。 | |||||
神良種(みわのよしたね)は、書き留めた御託宣の文章を携えて右近馬場に来たり、「朝日寺の住僧最鎮・法儀・鎮世等」と社殿建立のことを相談していたところ、一夜の中に数千本の松が北野の右近馬場に生じ出た。 | |||||
6月9日 | あやこはそれでは深慮にかなわないとのことで、文子・良種および北野の朝日寺の僧最珍とともに力を合わせ心を一にして、現在地である山城の国葛野郡上林郷(京都市北区)北野に神殿を造立し天満天神と崇め奉ったという。これが北野天満宮鎮座の由来である。 | ||||
天暦2年 | 948年 | 源公忠が没した。 | |||
天暦9年 | 955年 | 安楽寺の二代別当に補任されたのは、道真の子兼茂の子菅原鎮延で、天暦九年の氏牒によるものであった。 | |||
天徳3年 | 959年 | 右大臣九条殿藤原師輔が屋舎を建立して宝物を備える。 | |||
「九条右丞相」こと藤原師輔(もろすけ)は「屋舎」を建立して宝物を供えた。その祭文には「天神」の神徳を讃嘆するとともに、藤原氏が、摂籙(摂政関白)・国母(天皇の母親)として千子万孫にいたるまで栄えんことを祈願する趣旨が書かれていた。 | |||||
安楽寺の別当は太政官符による任命となった。これによって、氏寺から朝廷の権威をかりた官寺的性格が付与されることになった。 | |||||
天徳4年 | 960年 | 「北野天満自在天神宮創建山城国葛郡上林郷縁起」 | |||
村上天皇の時代以来の北野宮の繁盛のありさま | |||||
「菅丞相の廟社北野宮」の繁盛は村上天皇の御代からで、無実の罪を着せられた者も、参詣して祈願をこらせばたちどころに霊験にあずかり、官位や福寿を求める祈願もかなわぬことはない。かくて信心をすすめ、不信を強くいましめている。 | |||||
967年~ 969年 |
63代冷泉(れいぜい)天皇 | ||||
安和2年 | 969年 | 安和の変 | |||
969年~ 984年 |
64代円融天皇 | ||||
970年 | 議政官(公卿)は藤原氏十二人・非藤原氏七人と藤原氏の優位が動かしがたいものとなった。 | ||||
天延元年 | 973年 | 北野寺焼亡したのを最珍が再建 | |||
貞元元年 | 976年 | 道真の孫文時の上奏で菅原氏による北野寺の領知が認められる(最鎮記文) | |||
貞元元年 ~ 天元5年 |
976年~ 982年 |
円融天皇の時代、内裏再建に際して、建築現場の木材に虫食の和歌が出現した。 | |||
円融天皇の御宇、貞元元年(976年)~天元五年(982年)までの七年間に三度の内裏焼亡があった。ある内裏再建の時、番匠たちが集まって南殿(紫宸殿)の裏板に鉋をかけて磨いておいたところ、一夜のうちに虫の喰った跡ができて、一首の和歌になっていた。 つくるともまたもやけなん菅はらや むねの板間のあらぬかぎりは |
|||||
貞元2年 | 977年 | 「最鎮記文」 | |||
永観2年 | 984年 | 6月29日 | 「託宣記」安楽寺託宣 | ||
984年~ 986年 |
65代花山天皇 | ||||
寛和2年 | 986年 | 7月20日 | 慶滋保胤(よししげのやすたね)が草した「菅丞相廟に賽する願文」を見ると、「天満天神廟」と記され、一つの願いとして天神の廟に文士を会して詩篇を献ずることをあげ、天神は文道の祖、詩境の主であるからと説明を加えている。(本朝文粋)天満天神が学問の神としてあがめられ、北野天満宮で文士が会集して、詩篇を献じたことを実証する。 | ||
986年~ 1011年 |
66代一条天皇 | ||||
一条天皇のころ惟宗允亮の著わした「政事要略」に弘法大師が普光寺の僧幡慶の夢に告げて「菅丞相者我違世之身、野道風者我順世之身」と道風を道真の再誕とする説をも語ったと記してある。 | |||||
永延元年 | 987年 | 8月5日 | 北野社祭祀初めて官幣(昔は神祇官から、明治以降は宮内省から祈年祭・月次祭(つきなみのまつり)・新嘗祭などに、一定の社格の神社にささげた幣帛)にあずかる(菅家御伝記)北野祭はもとは私祭であったが、八月五日が官祭日となったのである。この年以来、勅祭の社として奉幣をうけることになった時、北野使は菅原氏をもって任命する慣例が生まれた。 | ||
8月 | 一条天皇の宣命に「天満宮天神」とある。 | ||||
989年 | 9月25日 | 藤原師輔の子の摂政兼家が自ら北野に社参する。(小右記) | |||
正暦2年 | 991年 | 伊勢神宮・岩清水八幡宮以下、朝廷の崇敬の対象となった主要神社として十九社の一つに北野社が加えられた。 | |||
正暦3年 | 992年 | 12月4日 | 藤原忠平が生前から道真と親しく、左遷の謀議に加わらなかったとされる根拠が忠平没後四十年余り経過した時期のこの年の託宣に初めて見える。(天満宮託宣記)一説に正暦元年といわれる。 | ||
正暦4年 | 993年 | 5月20日 | 道真、正一位・左大臣を贈られた。 | ||
一条天皇の時代の正暦四年に官位を追贈した際に奇端があらわれたが、なお神慮にかなわずして、さらに太政大臣を追贈したときにも奇端があった。 | |||||
8月19日 | 一条天皇の御宇に、道真に「正二位従一位左大臣」の官位を贈ることになった。その位記と詔書を携えた勅使道真の曾孫武蔵野権守菅原幹正は正暦四年八月十九日に大宰府に到着し、翌日に安楽寺に参詣して、位記の箱を机の上に置いて、再拝して詔書を読み上げた。退出の際、一篇の詩が書かれた青紙を見出した。これを披いてみると「忽驚朝使排荊棘」云々の七言絶句の詩が記してあった。都に持ち帰ったところ、これが「神筆」と鑑定されて、太政官の外記局で保管されているが、小野道風の筆跡に少しも変わりがないほどである。(古事談)。弘法大師空海が「菅丞相こそ我が違世の身、小野の道風は我が順世の身である」と示されたのも誠と思われた。しかし、この度の贈菅位はなお神慮にかなわないということで、群議を経て、同五年(994年)のころには正一位太政大臣の官位を贈った。 | ||||
閏10月20日 | 道真、太政大臣を贈られた。 | ||||
「正暦4年御託宣記」 | |||||
正暦5年 | 994年 | 6月27日 | 疫神のための御霊会も実修されていた。(日本紀略) | ||
「朝儀にあらず。巷説より起る。」とあるように御霊会は民衆の中から始まった祭礼であった。 | |||||
7月 | 「去る四月より七月に至る、京師の死者半ばを過ぎ、五位以上六十七人」という強烈な流行病 | ||||
長徳元年 | 995年 | 菅原氏出身とされる僧是算が北野社の別当に補任される。以来、歴代の別当を天台僧が務め、のちには洛北曼殊院門跡が北野別当を兼任することが慣例となっていた。 | |||
長徳3年前後 | 997年前後 | 藤原公任撰「拾遺抄」 | |||
長徳4年 | 998年 | 中法華堂、四寺丑寅角(安楽寺草創日記) | |||
長保3年 | 1001年 | 5月 | 紫野で「疫神を祭り、御霊会と号す」 | ||
寛弘元年 | 1004年 | 8月5日 | 藤原の師輔の孫道長以来、毎年八月の北野祭には神馬を奉納するのが摂関家恒例の行事となった事実(御堂関白記) | ||
9月晦日 | 大江匡衡は菅原輔正(すけまさ)が主催した北野社における詩宴に出詠す。 | ||||
10月21日 | 一条天皇北野社に初めて行幸し、以来歴代天皇の行幸が相次いだ | ||||
寛弘3年 | 1006年 | 一条天皇初めて行幸としている説もある。 | |||
寛弘3年前後 | 1006年 前後 |
拾遺和歌集 | |||
1011年~ 1016年 |
67代三条天皇 | ||||
長和元年 | 1012年 | 6月 | 大江匡衡の願文に、天満自在天神を文道の大祖とするのをはじめとして数多くの願文が伝えられている。その故に菅公を白楽天(白居易)の「化来」とする思念も形づくられてくる。(北野天神供御幣并種々物文) | ||
長和4年 | 1015年 | 西堂、四寺未申角(安楽寺草創日記) | |||
1016年~ 1036年 |
68代後一条天皇 | ||||
寛仁元年 | 1017年 | 蝗虫御祈のための諸社奉幣に、北野使を菅原為職がつとめた。 | |||
長元元年 | 1028年 | 8月3日 | 北野祭が御霊祭としての性格をおびていたことは「左経記」で明らかである。 | ||
長元5年 | 1032年 | 喜多院、四寺戌亥角(安楽寺草創日記) | |||
1036年~ 1045年 |
69代後朱雀天皇 | ||||
1045年~ 1068年 |
70代後冷泉天皇 | ||||
永承元年 | 1046年 | 太宰府天満宮で江戸時代まで残っていた七夕の和歌の会がこの年に始められたという。(天満宮安楽寺草創日記) | |||
8月4日 | 北野祭は八月四日が官祭日となった。 | ||||
8月5日 | 北野で御霊会が行われた。(師遠年中行事) | ||||
1068年~ 1072年 |
71代後三条天皇 | ||||
1072年~ 1086年 |
72代白河天皇 | ||||
永保3年 | 1083年 | 浄土寺東堂、四寺辰巳角(安楽寺草創日記) | |||
1086年~ 1107年 |
73代堀河天皇 | ||||
寛治6年 | 1092年 | 吉祥院聖廟に作文会を行う | |||
承徳2年~ 康和4年 |
1098年~ 1102年 |
8月~ 6月 |
大江匡房は太宰権帥兼任にともなう、大宰府赴任中に、天満宮安楽寺参詣、満願院(満願寺)建立を果たし、「参安楽寺詩」「西府作」の詩を詠じている。 | ||
康和2年 | 1100年 | 大江匡房作「参安楽寺詩」 | |||
康和3年 | 1101年 | 太宰権帥大江匤房安楽寺に道真を祭る。 | |||
嘉承元年 | 1106年 | 菅原陳経(のぶつね)が「菅原御伝記」を書く 「菅原御伝記」に引く安楽寺学頭安修の奏状に「大宰府安楽寺は、贈大相国菅原道真公喪葬の地、十一面観世音大菩薩霊応の処なり」とみえる。 |
|||
大江匡房は北野社に自らの病気平癒を祈願する。 | |||||
1107年~ 1123年 |
74代鳥羽天皇 | ||||
天仁2年 | 1109年 | 大江匡房は安楽寺に大般若経を供養している。 | |||
天永2年 以前 |
1111年 以前 |
「江談抄」 | |||
大江匡房撰「本朝神仙伝」 | |||||
天永2年 | 1111年 | 10月29日 | 右中弁藤原為隆が外記局で神筆を一覧した。(永昌記) | ||
元永元年 | 1118年 | 故大江佐国(すけくに)自筆「天神化現記」 | |||
1123年~ 1141年 |
75代崇徳天皇 | ||||
1141年~ 1155年 |
76代近衛天皇 | ||||
久安3年 | 1147年 | 6月12日 | 内大臣藤原頼長が神筆を一覧した。(台記) | ||
「台記」には古人の伝として天神の神筆というものに関して、道風の手跡に異ならずとあって、北野は弘法大師の後身で道風は北野の後身であるとの説があって、菅公も能書(字を巧みに書くこと。またその人。)であると信ぜられるようになった。 | |||||
1155年~ 1158年 |
77代後白河天皇 | ||||
1158年~ 1165年 |
78代二条天皇 | ||||
1165年~ 1168年 |
79代六条天皇 | ||||
1168年~ 1180年 |
80代高倉天皇 | ||||
安元元年 | 1175年 | 6月16日 | 「吉記」 | ||
安元2年 | 1176年 | 正月 | 菅原の長守が秀才となり、菅原在茂の子在高に学問料を給わる時、在高に対して儒中の反対があった。在茂は菅家であるが位階も従五位上の未儒であり、その子息も年齢十六であって賢愚を知る人もないというのである。 | ||
正月19日 | 天神は単なる菅氏神であるだけでなく、儒中というような儒家一般への考慮が必要であることを示唆していた。(九条兼実の「玉葉」) | ||||
治承元年 | 1177年 | 11月 | 在茂が大学頭に任ぜられたが、この昇進に九条兼実以下強い不満を抱いた。天神は菅氏神から脱却して儒家神としても性格を現すことになった。 | ||
治承年間 | 1177年~ 1181年 |
治承のころ、神筆を蓮華王院の宝蔵に置かれたが外記局に返納せられた。(吉部秘訓抄) | |||
治承3年頃 | 1179年頃 | 伝康頼自筆「宝物集」 | |||
1180年~ 1185年 |
81年安徳天皇 | ||||
1183年~ 1198年 |
82代後鳥羽天皇 | ||||
建久2年 | 1191年 | 後白河法皇が神筆を召寄せられて御所に留め置かれたことがある。(玉葉) | |||
建久3年 | 1192年 | 神筆を蓮華王院の宝蔵に納められたが、程なく外記局に返納せられた。(百練抄) | |||
建久5年 | 1194年 | [天神縁起]建久本が成る。詞書のみで絵はない。 | |||
1198年~ 1210年 |
83代土御門天皇 | ||||
正治2年 | 1200年 | 8月13日 | 藤原定家北野社に参詣し、自歌一巻を奉納している。(明月記) | ||
元久元年 | 1204年 | 夏 | 菅原の為長の「天神講私記」によると毎月十八日の会を設けたという。この日には管絃・歌舞・詩歌のつどいがあり、儀式も行われた。 | ||
11月11日 | 北野天満宮の社前で歌合が行われた。 爾後、聖廟法楽という名で和歌・連歌の御会が営まれる端緒となることになった。この聖廟法楽こそ北野社において毎月十八日に行う天神講のはじまりである。管弦を奏し,歌舞を催し、詩歌を詠じて表白を行ったという。 |
||||
承元3年 | 1209年 | 九条道家の姉の立子が東宮妃となった。慈円はこの東宮の即位と、立子が皇子を生むことに期待をかけた。 | |||
承元四年 | 1210年 | 東宮が即位して順徳天皇となった。立子はなかなか皇子を生まないため慈円は皇子降誕の祈祷に力を入れた。 | |||
1210年~ 1221年 |
84代順徳天皇 | ||||
建保 | 1213年~ 1218年 |
[天神縁起]建保本が成る。 | |||
建保4年 | 1216年 | 内裏北野宮詩歌会 | |||
建保6年 | 1218年 | 立子に皇子が生れその年のうちに皇太子に立てられた。 | |||
九条道家も左大臣にすすみ、あとは皇太子が即位して道家摂政の実現を待つばかりとなった。 | |||||
承久元年 | 1219年 | 「天神縁起」承久本が成る。 | |||
正月 | 源氏三代将軍の実朝が暗殺される。 | ||||
鎌倉では摂関家を頼り、道家の子の頼経(三歳)が藤原将軍として鎌倉に下向することになった。 | |||||
慈円「愚管抄」を書く。「愚管抄」には「菅原道真が無実の罪であったことは間違いない。それならば藤原氏は怨敵であろうが、じつは道真は間違いなく十一面観音の化身であって、せまい日本に重臣が二人も並び立つことの危険を思って、わざと讒奏に陥り、北野の神となって摂関家を守護するのである」と記している。 | |||||
「愚管抄」は「道理」の書といわれるが、慈円のいう道理は時代に応じてつくりかえされる道理である。慈円は天照大神の意志のみが道理として働く時代(天皇一人の政治)、天照大神と春日明神の盟約が歴史の上に道理として働く時代(天皇と摂関とが協力する政治)、天照大神と春日明神と八幡大菩薩の盟約が歴史の上に道理として働く時代(天皇・摂関・鎌倉将軍の三者協力の政治)というふうに、道理がつくりかえられてきたことをいう。 | |||||
慈円は同母兄の九条兼実の家系を摂関家の正統として擁護している。九条家は、兼実の子の良経が摂政となり期待されたが、不慮の死をとげ、摂関の職は、近衛家に移ってしまった。そのとき良経の子の道家はまだ14歳であった。 | |||||
承久3年 | 1221年 | 4月 | 順徳天皇が譲位し、皇太子は即位して仲恭天皇となる。 | ||
道家摂政も実現して慈円の予想はすべて当った。 | |||||
5月 | 御鳥羽上皇の倒幕計画が実行に移されようとし、それを事前に察知した鎌倉幕府のすばやい動きによって承久の変が起こった。 | ||||
1221年~ 1221年 |
85代仲恭天皇 | ||||
7月7日 | 仲恭天皇はわずか七十七日で廃帝となる。道家の摂政も消えた。 | ||||
1221年~ 1232年 |
86代後堀河天皇 | ||||
寛喜2年 | 1230年 | 6月14日 | 鎌倉将軍御所落雷による将軍移徙の議論においても延長の例(清涼殿落雷)が引き合いに出された。(吾妻鏡) | ||
蔵人方、北野祭の用途を諸国に課する。 | |||||
1232年~ 1242年 |
87代四条天皇 | ||||
嘉禎3年 | 1237年 | 「長門国司庁宣」に「北野造営の園、神事重なると雖も、西方安養の土、仏縁軽からず、十一面観音は天神の本地なりと」記す。 | |||
仁治元年 | 1240年 | 12月16日 | 諸社の神官や神人の起請文は京都ではすべて北野社において書くべしと幕府が定めたことが知れる。(吾妻鏡) | ||
仁治2年 | 1241年 | 8月18日 | 京都の東福寺の開山聖一国師の丈室に天神が現れて、禅を問うた。国師のすすめに従って、天神は即座に宋に渡って径山に現われ、仏鑑禅師(無準師範)から親しく僧伽梨を伝授された。 | ||
12月18日夜 | 京都の東福寺の開山聖一国師円爾(えんに)が宋より帰朝して博多の崇福寺に住したが、この日、菅公は国師の前に出現して禅を問い、自ら弟子たらんことを求めた。そこで国師は吾は入宋して仏鑑を師と仰いだので、この人に参禅するがよかろうと答えた。そこで公はその指示通り即日神通力を発して宋国径山に渡り仏鑑に見えて衣鉢(えはつ:師僧から伝えられる奥義)を受け、即夜再び国師の前に出現して参禅の旨を告げ、身につけた囊を示して仏鑑より允された法衣を納めてあると告げたと「菅神入宋授衣記」に記している。 | ||||
文永元年 | 1264年 | 12月 | 外記局に納めてある道真の神筆を厨子に納めた。(「新抄」「歴代編年集成」) | ||
文永8年 | 1271年 | 11月 | 天神の示現によって承天禅師の鉄牛心和尚が、大宰府の霊岩の左辺に一僧宇を刱めて天神を祀り、かつ件の伽梨を安置したという。 | ||
弘安元年 | 1278年 | 「天神縁起」弘安本が成る。 | |||
1278年~ 1346年 |
虎関師錬 | ||||
永仁6年 | 1298年 | 「天神縁起」津田本が成る。 | |||
正安3年 | 1301年 | 後宇多上皇北野社作文に御幸あり | |||
応長元年 | 1311年 | 「天神縁起」松崎本が成る。 | |||
文保の ころ |
1317年~ 1319年 |
救済法師らが北野天満宮の社頭でしばしば千句を張行していた。(莬玖波集) | |||
元応元年 | 1319年 | 「天神縁起」荏柄本が成る。 | |||
元亨4年 | 1324年 | 12月13日 | 「花園院宸記」に、花園天皇御夢想の天神の事を記された次に、物師を召してこのことを語られ、前右府藤原兼季所持の天神像を召寄せられたところ、「俗体又白衣を著し(頗る薄墨なり)牛に駕す云々」と見えていて、この像は白衣を着し牛に乗ったものであったことが知られる。 | ||
元徳2年 | 1330年 | 3月 | [日吉社並叡山行幸記]によれば、妻戸の扉は他の重宝類とともに山に保存していたが、永正六年(1509年)の火災に鳥有(うゆう)に帰したという。 | ||
正平2年 | 1347年 | 北野社一万度詣を行う。 | |||
貞治元年 | 1362年 | 染田天神講は、その一人である多田順実が居館の北に天神堂を建て、東山内衆らが連歌の講を営んだ | |||
貞治年中 | 1362年~ 1368年 |
大和の染田天神社では連歌会が行われた。 | |||
応安6年 | 1373年 | 2月25日 | 二条殿へ神童が連歌を持って来て点をかけた。この連歌があまり怪しく思われるので人に書き留めさせ、この童の跡をつけさせると、北野に入っていった。ところが救済の所へこの童子が点を乞うため現れた。そこで疑いもなく北野天神の遊ばした連歌だということになった。(天神御連歌) | ||
康暦2年 | 1380年 | [新札往来」に天神法楽(御意を慰めるため、神仏の前で誦経念仏したり音楽を奏するものであったが、詩歌を賦し連歌などを献じて供養に充てることも法楽といった。)として「菅絃講一座、続歌百首、連歌千句、各十七箇日間可果遂候」と見えている。 | |||
明徳2年 | 1391年 | 2月11日 | 北野一万句興行(師郷記) | ||
応永元年 | 1394年 | 秋 | 伏見の蔵光庵の幽林主翁という人が、たまたま天神授衣の図を得て、大いに感激して天神を蔵光庵の鎮守に勧請した。渡唐天神像である。 | ||
応永2年 | 1395年 | 6月 | 松梅院禅寧の相伝した「無準の事記」によると渡唐天神の像を夢に見たことになっている。こののち応永元年秋に佐忠庵主という者から天神の無準に受衣し給えける御姿を図した形像とて山城国(京都府)蔵光庵の幽林普寛に贈ったのを同伴の僧月渓が見ると、かつて夢に見た像と同じであったというので、これを奇瑞として渡唐天神を勧請して鎮守とし、よって崇高法皇の侍臣ら聞伝えて和歌を詠じて法楽したということである。 | ||
応永5年 | 1398年 | 2月29日 | 北野社法楽連歌があった。(看聞日記) | ||
1300年代末ごろ | 菅原道真の伝説と画像がほぼ同時に誕生した。 | ||||
応永8年 | 1401年 | このころより北野千句は常例となる。(応永記) | |||
北野経王堂を建てる。 | |||||
応永10年 | 1403年 | 渡唐天神像は仙冠・道服に袈裟を着けて囊を帯び手に一枝の梅花をかざす俗形の立像で、画面に賛のあるものが多いがこれは宋国にあって無準(ぶじゅん)に参禅した際の姿を表現したものでこの種の画賛で早いものはこの年のものである。 | |||
手に持つ梅は中国文化の象徴であり、禅僧たちの学者文人としての道真への崇敬と中国文化への崇拝とが重なって流行した伝説のようである。 | |||||
応永11年 | 1404年 | 大和の染田天神社で千句連歌が行われた。 | |||
応永20年 | 1413年 | 正月18日 | 院の御所の大納言播磨の局という天神信仰の者に菅神が化現して、昔より今に至るまで女の歌人はあっても、連歌をすることはないが、今後は女房も連歌をなすべしと告げ、 雪に梅花も桜のこすゑ哉 とあって女房に 松のあらしやふきかすむらん と付けさせ、連歌をする者は天神は必ず守護すると姿を消した説話が「北野累末御禁言」に見えている。 |
||
応永26年 | 1419年 | 6月15日 | 月なみ連歌会に天神名号(妙法院筆)に脇絵二幅の梅を懸け、その前の机には花瓶香炉などを置き、左脇の南に寒山拾得(寒山と拾得の二人の僧。寒山が経巻を開き、拾得がほうきを持つ図は、禅画の画題。)の絵二幅を懸け、その前に卓を立て花瓶を置いているのを見ても、天神崇拝の傍ら禅味をも取り入れていることが分る。 | ||
応永33年 | 1426年 | 9月20日 | 勧修寺前中納言経興の夢想により北野社毘沙門堂における千句連歌の張行に内裏・仙洞より発句を賜っている。(薩戒記) | ||
永享3年 | 1431年 | 2月6日 | 足利義教は夢想発句に基き三ヶ日千句を通夜興行している。(満済准后日記) | ||
永享4年 | 1432年 | 5月20日 | 幕府は北野社僧某をして七月七日手水の秘事を同社御師香薗院某に相伝せしめた。 | ||
1434年 | 染田天神社の縁起に「染田天神講は、その一人である多田順実が居館の北に天神堂を建て、東山内衆らが連歌の講を営んだもので、貞治元年(1362年)がはじめである」と記録されている。 | ||||
嘉吉2年 | 1442年 | 9月24日 | 飯尾美濃守が所願により北野法楽三百韻を行った。(康富記)武家・庶民は天神の祈願に詩歌を法楽することになった。 | ||
文安元年 | 1444年 | 麴騒動が起こる。 | |||
文安3年 | 1446年 | 4月15日 | 相国寺端渓周鳳の「臥雲日件録}に道真の渡唐伝説が見える。 | ||
文安5年 | 1448年 | 宗砌「北野会所連歌新法」を定める。 | |||
享徳元年 | 1452年 | 2月6日 | 京都相国寺の端渓周鳳の「臥雲日件録」に「及天神之事、名梅曰好文木有本拠否或曰天神詩有之、・・・・・・・蓋俗説未見所出云々」と記している かくして禅僧の間に菅公が梅を愛したとして詩文にも表現せられたのである。これは文神の菅公に付会(付会:こじつけること。無理に関係づけること)したもので、中国南方で梅が愛好せられ詩文の題材となっていたから、中国に往来した禅僧の間に梅の鑑賞がひろまり、天神信仰と結合して一般化したものとされている。 |
||
長禄3年 | 1459年 | 2月22日 | 東福寺雲泉太極の「碧山日録」に道真の渡唐伝説が見える。 | ||
応仁元年 | 1467年 | 2月29日 | 近衛政家は北野社に参詣し「天神経」を書く(後法興院記) | ||
1467年~ 1477年 |
応仁の大乱 | ||||
長享2年 | 1488年 | 宗祇北野会所の奉行となる。 | |||
延徳2年 | 1490年 | 北野天満宮の起請文には梅鉢の紋印を捺しているが、この年のものが北野天満宮に所蔵せられている。 | |||
明応2年 | 1493年 | 7月5日 | 北野天満宮は禁裏(天皇)より御手水硯石を寄進せられた。(引付) | ||
明応7年 | 1498年 | 天満宮所蔵の「天満宮境内指図」 | |||
明応9年 | 1500年 | 「明応9年引付」に北野天満宮の「御手洗会之式次第」が見えている。 | |||
文亀3年 | 1503年 | 「天神縁起」文亀本が成る。 | |||
永禄2年 | 1559年 | 「安楽寺草創日記」筆写本 | |||
永禄7年 | 1564年 | 12月2日 | 染田天神講の最後の連歌講は、鞆田庄の鞆田藤松丸の立願千句を張行したという記録がある。 | ||
天正6年 | 1578年 | 太宰府天満宮に現存する安楽寺本「北野天神縁起」は天正6年の兵火で社殿をはじめ堂宇が灰燼に帰した時、草創日記などの文書も消失したため、京都の北野天満宮との縁をもとに作成された。 | |||
天正15年 | 1587年 | 北野大茶湯を催す。 | |||
天正17年 | 1589年 | 北野天満宮の起請文には梅鉢の紋印を捺しているが、この年のものが北野天満宮に所蔵せられている。 | |||
戦国時代に梅鉢紋を用いたものは近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)の豪族にもっとも多く、中でも美濃の斎藤氏は天神の信仰厚く、領内至る所に天満宮を勧請したという。 | |||||
梅紋の分布は天神信仰の盛行した地方に当り、大和(奈良県)は菅原氏発祥の地で天満宮も多く近江も天神信仰が盛んでこれらの地には菅原の出自と称する者多く、ついで美濃・越前(福井県)・加賀(石川県)・美作(岡山県)などに梅鉢紋が広く分布しているという。 | |||||
慶長年間 | 1596年~ 1615年 |
福岡市下土居町にある綱敷天神は菅公上陸の博多にあったものを移したものという。 | |||
慶長5年 | 1600年 | 正月8日 | 丑の日であったので社参人多しと見えている。(北野社「引付」) | ||
慶長12年 | 1607年 | 現在の北野神社の社殿を豊臣秀頼が修造する | |||
元禄15年 | 1702年 | 西沢与志(一風)作「女大名丹前能」 | |||
延享3年 | 1746年 | 「菅原伝授手習鑑」の初演 | |||
宝暦2年 | 1752年 | 「江戸小石川惣社牛天神略縁起」が発行された。これによると、源頼朝が小石川の入江の松に舟を繋ぎ止めて海が和ぎるのを待っていたところ、夢に、牛に乗った天神が現れて武運吉兆を告げ、ここに社を設けることを命じた。目が覚めると牛と見えたのは岩で、これが今に残る牛石である。翌年頼朝は平氏を平らげ、ここに社を設けて神恩に報いたとのことである。同縁起は、続けて道真は筑紫にて牛を愛したことを記し、この社に牛の絵を奉献すると所願成就するところから、牛天神として信仰されてきたとする。 | |||
宝暦13年 | 1763年 | 川柳評万句合せ 足音トも二十五日ハこまかなり |
|||
明和6年 | 1769年 | 「御家直弟玄海堂書 連玉用文筆法蔵」(大坂秋田屋市兵衛版)には巻頭に「菅原道真故事」を掲載する | |||
「新板手習状絵抄」 | |||||
安永4年 | 1775年 | 塙保己一が三十歳で勾当に進んだが、彼はこの昇進を天満宮に祈って日参し、心境百巻を読み、千日に満たんことの願を立てたが、九百日で望みを達したのであるという。 | |||
安永8年 | 1779年 | 塙保己一が「群書類従」の編集・出版の志を立てたが、それも天満宮に誓い、心経百万巻読誦の願を立て、半ばを読む間に千部の書を集め、読み終わるまでに上木の功をとげようと、毎日寅(午前4時)の時から起きて百巻の看経に努めたという。「群書類従」の部立ては「類聚国史」に範を仰いでいる。 | |||
天明4年 | 1784年 | 「用文章」(蔦屋重三郎版)は見返に「天満宮感応経」をかかげ、口絵に天神講の様子を描く。 | |||
「芳翰用文章梅花林」(西宮新六版)は前付に「菅原道真略伝」を掲載している。 | |||||
天明5年 | 1785年 | 「専玉古状揃貨蔵」(蔦屋重三郎版)の口絵には「童子天神」「老松天神」「渡唐天神」「牛天神」「柘榴天神」「天満大自在天神」の六体の天神像が描かれ、その上には、十一歳の時の詠詩を解説付きで、また「天神教」をほとんど平仮名で掲げてある。 | |||
寛政10年 | 1799年 | 「民家日用字尽童子教」(川合元作、京都蓍屋儀兵衛ほか刊) | |||
嘉永5年 | 1852年 | 大阪府堺市の開口(あぐち)神社にある神像として崇敬の的になったもので、上畳(両面に表と縁をつけ、畳の上に別に敷き重ねる厚い畳)図はこの年北野より贈進したものである。 | |||
明治19年 | 幕末から明治期の探検家として有名な松浦武士郎が「聖跡二十五霊社順排双六」を出版した。松浦武士郎は晩年、天神さんを信仰し、各地の天満宮をめぐる双六を出版した。「振り出し」が菅原院天神、二番目が錦天神、北野天満宮は二十五番目の「上がり」としている。菅原道真を祀る天満宮は数え方によっては全国に一万社以上といわれる。 | ||||
明治43年 | 「尋常小学読本」に、「九月十日」の詩とともに、道真の人となりが「罪もなきに官を下げられ、あまつさえ遠国へうつされしかども、少しも世をいきどおり、人をうらむる心なかりきと称えられている。 | ||||
1990年 | 12月 | 近鉄西大寺駅の南約一キロメートルに位置する菅原東遺跡は奈良市教育委員会が発掘調査を行い埴輪窯の遺構六基が見つかった。 |
参考文献 菅原道真 藤原克己 ウエッジ選書228 菅原道真 坂本太郎 吉川弘文館 天満宮 竹内秀雄 吉川弘文館94 384 天満天神 上田正昭 筑摩書房38 北野天神縁起を読む 武居明男 吉川弘文館90 松本の天神さま 高美正浩・鈴木俊幸 高美書店76 京都学ことはじめ 森浩一 新宿書房 110 2004年 詩人・菅原道真 大岡信 岩波書店 |