和 暦 | 西 暦 | 月 日 | 内 容 | |
大宝年間 | 岐蘇山道開かれる。 |
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大宝2年 | 702 年 | 12月10日 | 壬寅 | 始開美濃国岐蘇山道「続日本紀」 |
和銅6年 | 7月7日 | 秋七月戊辰美濃・信濃二国之堺、径道険隘、往還艱難、仍通吉蘇路 「続日本紀」 |
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大宝の岐蘇山道と和銅の吉蘇路については古来諸説があり1大宝の山道と和銅の新道とは同じ路線である。2この両道は径路を異にする別の道であるという二説がある。 | ||||
両道とも近江から美濃の国府を経て信濃の国府へ通ずる道であることと大宝の山道は御坂越えの嶮路(後の官道)であったという見解は一致しているという。 千早ふる神の御坂に幣まつり いはふいのちはおもちちのため(「万葉集」巻20) |
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和銅7年 | 閏2月1日 | 朔 | 美濃の国司笠朝臣麻呂に功田六町と封邑七〇戸が与えられる。少掾の門部連御立と大目の山口忌寸兄人にはそれぞれ官位が進められ工事宰領者とみられる匠(伊福部君荒当)には田二町が封与された記事の終わりに「吉蘇路を通ずるを以てなり」とある。「続日本紀」 | |
信濃路は今の墾道(ほりみち)かりばねに 足ふましむな沓はけ吾が背 (「万葉集」巻14) |
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貞観年中 | 859年〜 876年 |
美濃・信濃の両国多年の紛争に手を焼いた政府は藤原正範・靱負直継等の検察使を現地に派遣し、両国司と地に臨んで双方の主張を聞きさらに旧記を調べる。 | ||
元慶3年 | 879年 | 9月4日 | 「三代実録」美濃・信濃の両国が「木曽」の所領をめぐって永い間争いを続けているのに困り果てた政府がその抗争に介入して決着をつけた判決文が再録されている。 | |
寛仁3年 | 1019年 | 藤原道長の発願によって無量寺院が建立される。 | ||
康平元年 | 1058年 | 無量寺院が炎上 | ||
中々にいひもはなたで信濃なる 木曽路の橋のかけたるやなぞ 源頼光 |
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信濃なる木曽路のさくら咲きにけり 風のはふりに透間あらすな 俊頼朝臣 |
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承安2年 | 1172年 | 9月 | 小一条親綱の父師綱が他界 | |
文治2年 | 1186年 | 小一条親綱の代 | ||
3月12日 | 「吾妻鏡」の 「乃貢未済之庄々」として列挙された荘名の中に信濃国「宗像少輔領 大吉祖庄」が見えている。 | |||
暦応元年 | 1338年 | 9月 | 木曽家中興の祖と伝承される沼田太郎家村すなわち木曽家村は主君にあたる足利尊氏より木曽の地を安堵される。木曽家村は小木曽荘の地頭真壁政幹に代わって有勢者となって活躍する。 | |
至徳2年 | 1385年 | 福島町水無神社及び三岳村黒澤御嶽神社の棟札には「大願主伊予守藤原家信」とある。 | ||
応永29年 | 1422年 | 円覚寺文書によると錦織湊の綱場(美濃国可児郡)を通過する木材に対して分一役を徴していたことが知られる。 | ||
文亀元年 | 1501年 | 木曽家賢が須原定勝寺へ寄進した「田地目録」の中に「政所」という小名がある。 | ||
永正11年 | 1514年 | 円満院(近江)文書には錦織の綱場・筏場の両関が円満院門跡によって進止されていたことまたこの両関を美濃の守護被官人が押領を企てていたことが知れる。 | ||
1545年〜 1613年 |
大久保長安 | |||
永禄3年 | 1560年 | 父の義康に代った義昌は武田信玄の女婿となることによって辛くも自領の安全を保った。 | ||
天正元年 | 1573年 | 武田信玄が卒してからは木曽義昌は美濃からの織田信長の攻勢に抗しきれなくなり義兄弟の武田勝頼に離反して信長に走った。 | ||
天正10年 | 信長も武田勝頼に次いで滅亡したため木曽義昌は豊臣秀吉に款を通じて小康を保った。 | |||
木曽義昌は徳川家康が信濃を領国化するに及んで今度は家康に寝返る姿勢を示し始めた。 | ||||
天正10年 | 1582年 | 甲斐の武田遺臣の大久保長安が家康に付属して木曽の産業開発を推し進めた。 | ||
天正17年 | 1589年 | 裏木曽3か村は山麓の比較的平坦部に位置を占め田畑も木曽谷より早く開けた関係から一般農村並みの検地を受けた。三か村全体で1645石余と高附された。 | ||
これに対する木曽には村高がなく32か村(享保以前28か村)として1682石余りの年貢穀を上納するに過ぎなかった。 | ||||
天正18年 | 1590年 | 秀吉は小田原攻略なると同時に義昌を関東の下総に追放する。 | ||
本木と呼ばれ後には「尾州材」の名で知られるようになった木曽檜の産地信州の木曽山は小田原攻略の後豊臣秀吉の最初の蔵入地(直轄地)として確保された。 | ||||
秀吉は伏見城・聚楽第・方広寺大仏殿その他の作事用材の無二の給源として着目した。 | ||||
文禄4年 | 1595年 | 木曽義昌阿知戸(網戸)で死去 | ||
慶長元年 | 1596年 | 木曽義利暴刑の罪によって所領を没収される。 | ||
山村良候は木曽の三留野へ良勝は千村良重・馬場昌次等と共に下総の佐倉へ行ってそれぞれ蟄居する身となった。 | ||||
慶長3年 | 1598年 | 秀吉死去 | ||
慶長5年 | 1600年 | 徳川家康、木曽山林を蔵入地に確保 | ||
家康は江戸・駿府・名古屋城をはじめとする幕府造営事業用材の無二の給源として着目した。それと同時に商品価格においても一頭地を抜いた木曽材の市販収入を度外したのではないことはいうまでもない。 | ||||
家康はそれまでの木曽代官石川備前守光吉(尾張犬山城主)を地附きの山村道祐に切替えた。 | ||||
角倉了以徳川家康に出謁す | ||||
慶長5年〜 寛文8年 |
山村甚兵衛は都合14カ所の山の名を書きあげた。(「万覚書」) | |||
慶長6年 | 1601年 | 正月 | 大久保十兵衛は彦坂光正とともに東海道及び中山道の駅伝制を定めた。 | |
慶長7年 | 1602年 | 11月 | 関ヶ原の終戦直後木曽代官に任命された山村道祐が死去 (59歳)長子良勝(甚兵衛)がこれに代った。 | |
慶長8年 | 1603年 | 木曽代官から家康の駿府勘定所へ差し出された請払勘定帳に三カ所川役収入を次のように書きあげている。 一、米弐百六拾九石七斗三合 濃州麻生川役納 一、米三百七石二斗七舛八合 濃州金山川役納 一、米九拾四石七斗七舛 同にしこりつな役納 |
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慶長9年 | 1604年 | 角倉了以備作の間を流れる和気川(倉敷川)に遊ぶ | ||
慶長10年 | 1605年 | 子の角倉与一を江戸に派す | ||
慶長12年 | 1607年 | 2月 | 角倉了以富士川改修工事に着手 | |
6月20日 | 徳川家康、角倉了以に天竜川の開疏を命ず | |||
7月11日 | 角倉了以、徳川秀忠より天竜川通船の朱印状をうく | |||
慶長13年 | 1608年 | 良勝(甚兵衛)が46歳を以て隠居し(薙髪して用斎と号す)嗣子良安(七郎右衛門、甚兵衛)に家督を譲る。 | ||
代官の山村甚兵衛から村村へ頒布された年貢定書の中に「拾三人よきやくいにしへは八人」(三尾村の例)とあって以前からの斧役がこの年増員されたことが知られる。 | ||||
天竜川通船のための調査をなすも効果なしとして着工に至らず | ||||
豊臣秀頼、京都東山方広寺大仏殿再建に着手 工事の進捗をはかるため家康、角倉了以に加茂川開疏のことを命ず |
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慶長16年 | 1611年 | 11月29日 | 大坂・淀・鳥羽の船、京三条に直通、禁中造営の材木を運送せしむ | |
慶長17年 | 1612年 | 8月11日 | 角倉与一、家康に舶来品を献上す | |
方広寺落慶 | ||||
慶長19年 | 1614年 | 3月 | 富士川再度改修の幕命あり、角倉与一玄之、父了以に代わり起工す | |
7月 | 富士川工事(第2回目)竣工す | |||
7月11日 | 角倉了以死す。六十一歳 | |||
角倉与一玄之、大阪冬の陣に家康方に従軍、粮米三万石を伏見城に運送す | ||||
11月9日 | 角倉与一、淀船数一〇〇艘を役して烏養堤を築く(淀川閉塞工事) | |||
元和元年 | 1615年 | 大坂夏の陣に角倉与一家康方に従軍す。 | ||
8月 | 徳川家康は大坂夏の陣において豊臣残党を完全に払拭した直後木曽山を家康第9子の義直(尾張藩祖)に与えて尾張家の恒久財源とした。 | |||
築城、造船、土木用材等を伐り出す。 | ||||
家康、角倉与一を木曽山巨材採運使に命ず(木曽山材木の事を奉行す) | ||||
木曽川の上流から支流王滝川へかけてのいわゆる本谷筋の林業地帯は全く手着かずの状態にあったので元和初年当時の木曽山林は豊富な蓄積を擁していた。 | ||||
木曽の地続きである裏木曽三か村(岐阜県恵那郡付知・加子母・川上村)が同時に尾張義直領となる。 | ||||
木曽榑木二十万丁を角倉に売らせ、その代金を角倉より尾張義直へ上納せしめんとする。 | ||||
与一、木曽山年貢木支配仰付けられる。 | ||||
この年以前より、裏木曽三か村御免板子一万枚を年々角倉へ売渡す。 | ||||
与一、近江国坂田郡の代官及び京都河原町并淀川過書船の支配を命ぜらる。 | ||||
元和2年 | 1616年 | 徳川家康薨去 | ||
9月 | 木曽年貢木(役木)の榑二十六万八千百五十八丁、土井四三五二駄の中、榑十九万八九九六丁、土井二三三四駄三束の処分を角倉に委ぬ。 | |||
元和2年 | 1617年 | 与一、江戸御宮(東照宮)用材を初め、御台所大黒柱其他の公儀用大材の採運を請負う 子の与右衛門(玄紀)木曽にありて伐木・運材を支配す。 |
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江戸御作事御用材の川下げ方を竹腰山城・志水甲斐より督促、追って榑十万丁の川下げを命ず。 この頃角倉与一、木曽川の運材を管掌す。 与一、江戸城用材を富士山に採りて江戸へ運漕す |
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元和4年 | 1618年 | 7月 | 良安江戸において死亡 | |
元和4年〜 元和5年 |
木曽山未曾有の過伐時代 | |||
寛永元年 | 1624年 | 角倉・茶屋・犬山長蔵の三人、三か村・三浦山(木曽)にて材木仕出しを勤む。 | ||
寛永2年 | 1625年 | 寛永二,三両年に榑五十五万丁、土井四千駄を錦織にて山村甚兵衛より角倉へ渡す。 | ||
寛永初年 | 本谷筋に「尽き山」が目立ち始める。 | |||
寛永4年 | 1627年 | 正月20日 | 角倉掛金の勘定仕上げ方を国奉行より三か村庄屋へ申渡す。 | |
5月16日 | 裏木曽三か村の役土井(二口、五〇三駄半と一五枚)・役榑(三口、三三五〇丁)を角倉へ渡し、年々御公方(家光)へ献上せしむ。 | |||
角倉与一の二男平治(厳昭)、父の職を分ち受けて、嵯峨川通船のことを勤む のち木曽山材木の支配に当たる。 |
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寛永9年 | 1632年 | 6月22日 | 角倉与一玄之死去。六二歳 | |
寛永12年 | 1635年 | 木曽上納(役木収入)は銀123貫878匁余となっている。 | ||
寛永16年 | 1639年 | 8月 | 江戸城本丸火災 御入用榑木三万丁の出荷を錦織の角倉に申渡す。 |
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寛永21年 | 1644年 | 尾張藩の年寄衆は木曽の山村甚兵衛に指令して本谷筋に残る美林地帯において白木類を採出することを止めさせるとともにそれに該当する山々を復命することを求めた。 | ||
山村甚兵衛は都合14カ所の山の名を書きあげた。(「万覚書」) | ||||
12月 | 採運上の不便から尽き山化を免れていた山と備林として温存を計るべき山とを見立ててその山々で土居・榑・役木の採出を禁じた。 | |||
このときに選定された14の山の中では上松小川山の内三か所、荻原・須原の内四か所、野尻・阿寺山のうち二か所、柿其・妻籠山の内それぞれ一か所と三留野山とが前者に当たり、後者と見られるのは南端の田立山と湯舟沢山であった。 | ||||
寛永末年 | 「 尽き山」が王滝川の上流地方にまで波及する。 | |||
正保2年 | 1645年 | 幕府が「国絵図郷帳」の作成を諸国に命ずる。 | ||
木曽の代官山村甚兵衛は旧記や伝承によって管地の帰属を明らかにすることができないところから領主の尾張藩を初め美濃・信濃側の意見を尋ねたがこれまた要を得なかったためにやむを得ず信濃の国絵図には木曽を「墨引きの外」として除外することを願い美濃側にも同様の扱いをして貰うほかなかった。 | ||||
4月19日 | 山村氏拝借の榑木は、角倉へ下さる三万丁の板子・さんかまち同様山元にて下されと出願。 | |||
6月18日 | 玄之二男(玄紀弟)平治(厳昭)歿す | |||
正保3年 | 1646年 | 4月 | 「木曽に於て御法度の大木伐り出し候に付」との罪状により名古屋本町の半右衛門を木曽山で処刑して獄門に付した。 (源敬様御代御記録」) | |
正保4年 | 1647年 | 三か村土井・榑、角倉平右衛門(玄高)に仰付けらる。 | ||
1648年 | 7月25日 | 角倉平治(厳昭の子)義直へお目見帷子二拝領 | ||
10月15日 | 角倉与一郎(玄紀)、名古屋にて義直へお目見、大判壱枚、小袖二拝領。 | |||
12月 | 裏木曽三か村の御年貢板子・都合一一万二八四六・五枚を角倉へ渡し、金額に引替えて、同人より上納(但し板子一枚代銀二匁七分六厘) | |||
明暦3年 | 1657年 | 江戸大火・復興材を伐り出す、 | ||
万治元年〜 寛文元年 |
〜 1661年 |
木材の勘定目録 | ||
寛文4年 | 1664年 | 木曽山の荒廃の現状を全体的に把握すべく御目付(兼国奉行)佐藤半太夫以下、勘定奉行・金奉行・材木奉行らをすぐって木曽山に派遣し全山に亙っての綿密な林業査察を行わせるとともに木曽川運材の路線も隈なく巡検せしめた。 | ||
寛文5年 | 1665年 | 林政改革が前年の査察に基づいて行われた。 | ||
山村甚兵衛が書きあげた諸山の内荻原・須原・柿其山を除くほかは禁林の「留山」となり木曽山の入口にあって搬出の至便な田立・湯舟沢の両山は「全山留山」として封鎖される。 | ||||
留山・巣山を設ける。 | ||||
一駄三匁の運上を徴されるようになった。 | ||||
延宝4年 | 1677年 | 運上が半減された。 | ||
延宝6年 | 1678年 | 「木曽谷中寺社改帳」 | ||
延宝8年 | 1680年 | 敏腕理財家として知られた小山市兵衛・山内治太夫の両人を起用して藩財政の再建に当たらせた。 | ||
貞享元年 | 1684年 | 敏腕理財家として知られた小山市兵衛・山内治太夫の両人を起用して藩財政の再建に当たらせたことが奏効し67万両の繰越金を生ずるまでの立ち直りを示した。 | ||
寛文の留山が増幅され都合二〇カ所一方の巣山(巣鷹保護の目的で指定された)も五九カ所に上った。 | ||||
元禄6年 | 1693年 | 市川甚左衛門は一七歳にして切米一七石・三人扶持の「五十人組」に取り立てられた。 | ||
元禄7年 | 1694年 | 留山の増設 | ||
元禄9年 | 1696年 | 留山の増設 | ||
元禄12年 | 1699年 | 市川甚兵衛は錦織在番(三十石)となって木曽川運材の処理に当たる。 | ||
元禄14年 | 1701年 | 国絵図調整 無国籍の例外は容認されなかったのでこれまでの通説に従って「信濃の木曽」とすることを決めここにはじめて木曽の領域が信濃の国絵図に登載された。 |
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行政上の所属も正式に「信濃国筑摩郡の木曽」と決定した。 | ||||
中世末以降の木曽領域には鳥居峠以北の奈良井・贄川の両村、一方の三留野・妻籠村以南では田立・山口・馬籠・湯舟沢の4か村が加わって現在の木曽郡を形成するようになるがこのように木曽の領域が南北に拡がるのは戦国末の領主木曽義昌の時代からでこれは義昌の戦功に基づいて拡大された人文地理的な新領域である。 | ||||
宝永3年 | 1706年 | 市川甚左衛門が木曽山元詰に転じる。 | ||
宝永4年 | 1707年 | 市川甚左衛門が木曽山林長官の上松奉行となる。(役料五〇俵・役扶持共六人分) 奉行昇進と同時に前年の定例仕出入用の支出内容を監査して都合2940両が過剰支出であることを明らかにした。 |
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宝永5年 | 1708年 | 檜、椹、明檜、槇の四木を停止木(ちょうじぼく)として伐採を厳禁した。 のちに鼠子を加えて木曽五木となる。 |
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宝永6年 | 1709年 | 御免木の生産と売行不振は一層深刻化するのは目に見えていたので3000駄分の白木を200両の代金に替えて交附を受けることになった。 | ||
宝永7年 | 1710年 | これまで支配を異にした裏木曽山林を上松奉行の所管とする前提の下に裏木曽の3か村山と三浦山の巣山に「鞘」を設けた。 | ||
正徳2年 | 1712年 | 市川甚左衛門は尾張領美濃の七宗山と奥の板取山の留山化を企図するのであるがその護林措置は木曽山のそれよりも酷しいものであったため殊にこれまで利用上の制限をうけたことのない後者の場合は板取周辺の農民6000人の嗷訴を誘発して失敗に終わった。 | ||
七宗山を上松奉行の所管に移し檜以下の二一木を禁木とするなどして終局的には藩用備林とすることに成功した。(「尾張藩事蹟録」「市川甚左衛門勤覚書」) | ||||
享保4年 | 1719年 | 岡附荷物の分と共に新金175両に切替えられた。 | ||
享保5年 | 1720年 | 宝永・正徳期の山林資源保護策は木曽・裏木曽山から七宗山にまで及ぶのであるがしかし藩の恒久財源とするにはなお足りなかったため栗の伐採を禁じた。 | ||
市川甚左衛門「水奉行」兼任 | ||||
享保6年 | 1721年 | 遠山彦左衛門自ら諸奉行を率いて木曽山の現状を巡察した。 | ||
明山の鼠子を留木に指定 | ||||
享保7年 | 1722年 | 更に松を留木に指定した。 | ||
享保8年 | 1723年 | 山村氏の御免白木5000駄の原木を雑木に切替えた。 | ||
市川甚左衛門は「郡奉行」となって三か村(裏木曽)代官を兼ねた。 | ||||
享保9年 | 1724年 | 市川甚左衛門は谷中御免白木の残り半分(3000駄)の材種・規格を格下げした。 木曽上納の役僕の手位牌に踏み切ると同時に新規の切畑と板屋根とを禁止し、また私有林の「百姓控林」を一律に回収して村預けとするなど一連の強硬策を相次いで実施した。 営利木材の生産は全面的に抑制し、また藩用の木材は必要の最小限に止めそれも枯れ損木からの取材を優先させ木曽山復興のためのあらゆる施策を傍若無人的に強行した。 |
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林政改革の徹底を期するため、福島上之段に普請奉行の大村源兵衛を長官とする立会役所を設け、山村氏の緩慢な施政に強い干渉を加えそれによって今次改革の重大性を一般に認識させると共に同年に予定された木曽谷総検地の円滑な進行を図った。 | ||||
享保9年 | 1724年 | 谷中の総検地を実施して以前より年貢を2〜3割増徴することになった。 田畑の反別を実測してこれを村単位の検地帳に毎筆登記しただけで肝腎の「高積り」をしなかったから木曽は最後まで「無高」で通った。 |
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極度に荒廃した木曽山林を抜本的に再建すべく第二次林政改革を強行する。 | ||||
検地の終わる頃から役木の復旧と切畑の制限緩和をめぐって村方の陳情・嘆願が執拗に繰り返された。 | ||||
個人持ちの百姓林を停めこれを村預けとする処分が行われた。 | ||||
木曽には百姓控の山林などある筈はない、つまり山は総てお上のものであるという前提に立っての処置であった。しかしこれによって百姓の慣行上の用益権が全く否定されたのではなく実際はこれまでのように勝手な伐木が許されなくなっただけで旧の控主に必要を生じた場合にはその手続きさえ履めば禁木のほかは優先的に採材を許されるのであるからいわば他人の用益できない「明山」となったまでである。 | ||||
従って実質的にはこの当時の一般の百姓林と大差のないものであるがしかし林政当局としてはこの際山内取り締まり(盗背伐の口実封鎖)の強化と木曽山一円支配の実をあげるためには私所有的な山林の存在を認めるわけにはいかなくなっての処置であった。 | ||||
因みにこの年村預けとなった控林を後に「享保度林」といい同年以降個人の屋敷や持田畑の周辺を囲い込んだ林で安永九年に取潰しを命ぜられた控林を「新立林」と称した。この両林は明治改租の際に何れも個人有と認められた。 | ||||
享保11年 | 福島の関所周りへ杉苗4000本宇山へ檜・椹苗10000本を植えた。 | |||
享保11年〜 享保12年 |
享保の林政改革は谷中の住民に致命的ともいえるほどの打撃を与えまた山村甚兵衛の職権を停止するにも等しい峻烈さをもって推し進められたため窮民の間には山林の盗背伐をあえてする者が続出するなど改革当事者の予想を超えた悪い事態を招きつつあることが遠山彦左衛門の巡見によって判明した。 | |||
しかしここで妥協的な緩和措置を講ずることは面目上もできないかのように福島上之段の立会役所を督して山林の取締りを一段と厳重にした。 | ||||
享保13年 | 1728年 | 蘭村に特免された檜笠を10万蓋に制限した。 更に檜に紛らわしい鼠子を禁木に追加した。これによりはじめて「木曽の5木」となる。五木を伐る者は「木1本首一つ」といわれるほどの重い罰を受けた。 |
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享保14年 | 裏木曽三か村の年貢木を全廃して普通年貢に切替えた。 | |||
元文3年 | 1738年 | 桂・槻を留木に追加した。 | ||
元文4年 | 1739年 | 享保改革の往き過ぎを幾分是正して除地などの復旧をみるようになった。 検地の際に年貢付となった寺社や村々の除地を復旧した。板屋根の禁を解いた。 山村氏の御免白木5000駄を願いによって米1500俵に切替えた。 |
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元文5年 | 1740年 | 立会役所を廃して上松役所へ統合しこの時上松奉行を木曽材木奉行と改称した。 | ||
市川甚左衛門は上松に再転して初代の木曽材木奉行となった。 | ||||
延享2年 | 1745年 | 奈良井その他の檜物原料だけを残しあとは131両3分余の代金をもって下附されることに改められた。 | ||
市川甚左衛門は岐阜奉行(300石)となって転出する。 | ||||
安永8年 | 1779年 | 輪伐計画「木曽惣山木法御材木積帳」が立案された。 | ||
年二十五万本内外の用材生産が再開されるようになった。 | ||||
寛政3年 | 1791年 | 木曽山の伐木施業案が更新された。 | ||
文政7年 | 1824年 | 木曽山の伐木施業案が更新された。 | ||
明治初年 | 木曽の留山(20か所)の総面積は2万689町となっている(帝室林野局の台帳面積) 巣山(59か所)全地積は1067町歩であった。 留山・巣山を除いた山林を木曽では明山と称し明山では藩の御用木や売木も生産されたが住民の役木・御免白木・家作木などの採取は勿論自由であった。明治初年の明山総面積は35万4421町歩5反余であったから留山・巣山の面積の16.3倍に当たる。 |
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明治2年 | 1869年 | 木曽の森林は尾張藩領から版籍奉還によって官林(国有林)に編入される。 | ||
明治4年 | 1871年 | 馬籠宿の庄屋島崎正樹(藤村の父、「夜明け前」の青山半蔵)が自ら起草した嘆願書に端を発する木曽の山林事件は既に官林と決定した「明山」の民有化を目指したもの | ||
明治12年 | 1879年 | 内務省山林局設置される。 藩有林は官林となる。 |
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上松に木曽出張所が設置される。 | ||||
明治22年 | 1889年 | 木曽谷一円の官林が皇室財産として帝室御料林に属することになった。 | ||
明治36年 | 1903年 | 帝室林野局木曽支庁設置される。 | ||
明治39年 | 1906年 | 神宮備林設置される。 | ||
明治44年 | 1911年 | 中央本線が開通。 中央本線の開通まで、木曽山で伐られた木材は山々の谷川を流し下して木曽川本流から下流へ大量に運ぶという木曽独特の運材法が利用されていた。 |
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大正4年 | 1915年 | アメリカ製の蒸気機関車ボールドウィン号が輸入され小川線で初運行された。 | ||
ボールドウィン号の煙突には火の粉の飛散防止装置が付いており石炭と水を1トンずつ積んで活躍した。 ボールドウィン号は、王滝線、小川線、阿寺線などの主要線で14両が稼働し「軽便」と親しまれておよそ40年間木曽谷を走り続けた。 |
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大正5年 | 1916年 | 小川森林鉄道完成する。 | ||
大正10年 | 1921年 | 木曽川を使った木材の流送は全く姿を消す。 | ||
大正12年 | 1923年 | 王滝森林鉄道(鬼淵〜氷ケ瀬)25,9km6年の歳月をかけて完成。 | ||
大正13年 | 1924年 | 瀬戸川森林鉄道(崩越〜瀬戸川)5,2km完成 | ||
昭和22年 | 1947年 | 林政統一。国有林となる。(長野営林局所管) | ||
昭和40年 | 1965年 | 小川森林鉄道廃止される。 | ||
昭和44年 | 1969年 | 瀬戸川森林鉄道廃止される。 | ||
昭和50年 | 1975年 | 王滝森林鉄道を最後に全国の森林鉄道が全廃される。 |
参考文献 近世林業史の研究 所三男著 吉川弘文館