おろく櫛についての伝説
享保年間薮原におろくという美人がいた。
この人は持病の頭痛に悩まされていた。
何とかしてこの病を治したいと、いろいろな療法を試みたがその効果がなかった。
思い余ったおろくは木曽御嶽山に願掛けをした。
その満願の夜、枕もとに御岳の神が現れ「ミネバリの木で櫛を作って髪をすいてみよ」とのお告げがあった。
おろくは早速鳥居峠にあるミネバリの木で櫛を作り髪をすいたところ、不思議にも毎日悩まされていた頭痛が消え去った。
そこでおろくは櫛を作り、同じ病に悩む人にあたえたのがおろく櫛のはじめだという。
信濃の浦島太郎
昔あったと。
木曽川にも浦島太郎があったと。
太郎は上松の寝覚ノ床に住んで、毎日岩に腰かけては、釣り糸をたれていたんだと。
あるときのこと、太郎がいつものように釣りをしていたら、上流の沢にいきなり鉄砲水が出てな、あっという間もなく
太郎は水に飲まれてしまったとさ。
それからどのぐれえたったもんだか、ふと気がついてみたら、太郎は今までに見たこともねえようなきれいな座敷に
寝かされているんだと。
そうしてそばでは、これまたきれいな女の人が、心配そうに太郎をじっとのぞきこんでいるでねえか。
太郎はたまげてとび起きると、「ここはどこずら」ってたずねたと。
そうしたらその女の人は、にっこり笑って「ここは竜宮でございます。私は乙姫です。」って、こう言うんだと。
はあ、するってえとこれが話に聞く竜宮かと、太郎はまたまたたまげてしまったとさ。
それから何日かたつうちに、太郎はすっかりここの暮らしが気に入ってきたと。
乙姫さまはきれいだし、毎日うまいもんは食えるしで、太郎はそれこそ夢のような毎日を過ごしておったんだとさ。
けれどもな、その気持ちもだんだん変わってきてな、いつまでもここにこうしているわけにはいかねえと
そう思うようになったんだ。
それであるとき乙姫さまにわけを話したところが、「残念ですが仕方ありません。ではどうぞこれをお持ちください。
でも決してふたを開けてはなりませんよ。開けずにいれば、いつかまた、このままの姿でお会いできるでしょう。」
と、乙姫さまは、さもなごり惜しそうに玉手箱を太郎に渡しながらこう言ったそうだ。
こうして太郎は、久しぶりに寝覚ノ床にもどって来た。
ところがどうしたわけか、あたりの山や川はちいとも様子は変わらないのに、誰ひとり知った人がいねえんだ。
一人ぼっちの太郎は、それでもまた、前のように岩に腰かけて釣り糸をたれて暮らし始めたと。
けれどもしばらくするうちに、太郎は乙姫さまが恋しくてたまらなくなってなあ、
別れぎわにもらった玉手箱のことを思い出すと、開けるなって言われたことも忘れて、
つい、ふたを開けてしまったんだとさ。
と、そのとたん、中から白い煙が立ちのぼって不思議や不思議、太郎はみるみるうちに
白髪あたまのじいさまになってしまったというわけだ。
開けてはいけないと言われていたのにそれを守らなかったもんだから、とうとう太郎はそれっきり、乙姫さまとは
合えずじまいになってしまった。だから約束は守るもんだと。
寝覚の床の主
いつの話かはわからねえが、もうずいぶん昔のことには違いねえ。
木曽川のほとり寝覚めの里には、年に一度おそろしいしきたりがあったってはなしだ。
毎年秋ともなると決まって、若い娘のある家に白羽の矢がとんできてな、それがささったら最後、
娘を寝覚の床の主にささげにゃならんかった。
さもなければ、はあ、そのたたりってえのがまたおっそろしいんだ。
悪い病が流行ったり、そば一粒実らなかったり、里の者たちゃみんな、びくびく暮らしていたそうな。
そんなある年のことだと。
また秋がめぐってくると、一軒の家の屋根に白羽の矢がたった。
その家にはじじとばば、それに一人の若い娘がいたんだがな、三人とも矢がっ立ったとなると、
それこそ狂わんばかりに嘆き悲しんだそうな。
ちょうどその頃、小川の里に一人の行者さまが住んでおった。
なんでも諸国をめぐって修行に修行をつんだとかで、その念力は大変なもんだったっていうさ。
じじとばばはさっそくこの行者さまを訪ね、[何分娘をお助け下され]ってけんめいに頼んだと。
そうすっと行者さまは、しばらく祭壇に向かってお祈りしてたんだが、お告げが下ったのか、
こんなことを言ったんだと。
[七日の間に、はらみ猪を一頭捕ってくるのじゃ。そうすれば主めを滅ぼせるかもしれぬ]とな。
じじとばばは急いで家にもどり、身支度をととのえると山へと向かった。
そうしてあっちの山こっちの山と辛抱強く歩き回ってな、そのあげくとうとう七日目の昼に
一頭のはらみ猪を見つけたんだとさ。
さっそく行者さまのところへもっていくと、行者さまは猪の腹子を取り出した。
そうして太くて長い藤づるの綱と、これまた太い釣針をじじに用意させてな、これを結んで腹子をつけ、
寝覚の床へと出かけていったそうな。
一方淵には、主退治の噂を聞きつけて村人たちが次から次へと集まって来た。
行者さまは頃合いを見て藤づるに結んだ腹子を淵へと投げこんだんだと。
するってえとどうずら、少したって淵の水がゴォーって音たて始めてな、
急に綱がものすごい勢いでどんどん淵ん中へ引き込まれ始めたっつうさ。
[それ、かかったぞ、綱を引け]行者さまの声に、村人たちは夢中で綱にしがみついた。
淵の底からは、一体何がいるんだか相変わらずすげえ力で綱を引っぱってくる。
そのうち風も出てくるわ、あたりは嵐みてえにまっくらになるわでみんなそれこそ生きた心地もしねえ。
んでも夢中で綱にしがみつき、足をふんばったとさ。
さて、それからどのぐれえたったもんか、心なしかすこーし綱を引きこむ力が弱まったかと思うと、
嵐もだんだんおさまってきたんだと。
[それ今じゃ、引き上げい]行者さまの合図で、村人たちはかけ声もろとも一せいに綱をたぐりよせた。
こうしてやっとのことでひき上げたもん見て見たらば、なんてえことだ。
おっそろしいほどでっけえでっけえ大山椒魚でねえか。
みんなそれこそ、目ん玉とび出るほどたまげてしまった。
[こいつが床の主だったのかあ]ってな、口々にそう言ってため息ついたとさ。
それからってえもんは、白羽の矢が立つこともなくなった。
そうして寝覚めの里には、ずーっと平和な明け暮れが続いたって言うことだ。(信濃の昔話より)
寝覚ノ床の弁天さま
むかし丹後の国竹野郡浦島というところに、水江なにがしという領主が住んでいました。この人に太郎とよぶ子供がいました。浦島の領主の子供ですのでみな浦島太郎と呼びました。ある日、海上で釣りをしていた太郎は、一匹の大きな亀を釣りあげました。お供のものが亀を殺そうとしましたが、太郎がよくよくみると、普通の亀とちがって五色の糸をあやどり、甲羅に八卦の文が見られます。殺すのをやめさせて、亀を海へ放してやりました。
浜へもどった太郎が家に帰ろうとすると、松林のかげから一人の美しい少女が現れてついてきなさいという。太郎は夢をみているような気持ちでついてゆくと、やがて四五町ばかりのところに、一かまえの立派な御殿がありました。太郎が驚いてここはどこで、どのような方のお住まいですかと尋ねますと少女は、「これこそ常世の国の龍宮城です」と答えて、城の中へ案内しました。
龍宮には、龍王が、大勢の家来たちと、太郎の来るのを待っていました。「わたしはここの大王である。お前が姫を助けてくれたお礼がしたいから、ゆっくり遊んでいくように」と念のこもった挨拶をし、山海の珍味をもてなしてくれました
月日のたつのも忘れて遊んでいた太郎は、ある日鶏の声がほのかに聞こえてくるのを聞き、忘れていた故郷を思い出すと
三笠山
むかしむかーし、木曽の山ん中に、刀利天狗が住んでいたんだと。
天狗は毎日、御嶽山のてっぺんに寝そべって富士山を眺めては、
何とかあの富士山よりも高くて立派な山を造りたいもんだと考えていたんだとさ。
そんなある日のこと、天狗はこんなことを思いついた。
このお山のてっぺんに他から山を持ってきて、三つ笠のように並べたら、きっと立派な山ができるに違いないとな。
こうして天狗はさっそくその晩から、山探しを始めたと。
人間に見られんように、真夜中になるとあたりの村々に出かけていっては形の良い山を探した。
そうしてある晩、三岳村にやってきた天狗は、倉越山に目をつけてな、さっそく倉越山のあたまを引っつかむと
御嶽山のてっぺんにのせてみた。
するとどうじゃ、なかなかのものでないか。
「やれやれ、この分なら夜明けまでにはでき上がるずら」
天狗はすっかり安心顔、少し休むつもりですわりこんだのが、いつのまにかグーグーねむってしもうたとさ。
やがてどれほどたったころか、一番鶏の鳴き声が聞こえてきた。
天狗はあわててとび起きたものの、はあ東のお空はすでにしらじら、
おまけに朝早い百姓に見つかってしまったもんだから、天狗はあわてにあわてた。
「しまったあ、あと二つで三笠山だあ」って、そう叫びながら山の方へ逃げていってしまったとさ
それっきり二度と天狗は姿を現さなかったけど、村人たちは天狗の気持ちを思ってか、
笠は一つでも、この山を《三笠山》と呼ぶようになったそうな。
焼け棚山の山んば
「とちの木の嫁あ、ひとふゆに十反も麻を織るっちゅうに、おらうちじゃあまずその半分だ。
まあず働きのない嫁こむらっちまったに、そう言やあ、かのの里のもんはみんなとろくさいでのう。
また、ばあさまが隣のへやで、声を荒だてどなっている。
もういく度となく聞くいやみだ。
しかし、この時もかのの心臓は、針を突き刺されたように痛み、体中の血がひいてこおりつくように思われた。
麻を編む手までこわばり、手もとがくるってしまうのだ。
「なんだわさ、そのやり方は、百姓はのう、きりょうがいいだ、すなおだなんてのは何にもならんでの、
仕事ができんきゃ一文のねうちもないでのう。」
いつのまにか、ばあさまがうしろに立ってかのの仕事のしぶりを見ていた。
かのは唇をかみしめ、一心に手を動かそうとした。
「その顔つきもなんだ、家中がくさくさしてしまってかなわんわい、
まあず、朗らかな顔ができんちゅうもいやなもんだ。
あにい(かのの夫)もばかもんだ、ちいっとばか、かわいい顔つきだちゅって、
こんな女にほれくさってよう。」
ばあさまは、いいたいだけのことを言うとぴしゃりと戸を閉めた。
そしてあにさの後を追って隣へもらい風呂に出かけていった。
かのは、じっと涙をこらえて、ちょろちょろもえる、いろり火を見つめていた。
〈このないやな思いをするなら、いっそ家を出て行こうか・・・・・・・・。
いやいや、今までだって、もっとひどいことを言われて、それでも我慢してきたんだ・・・・・・・・。〉
かのはこう思いなおすと、麻をつむ手を速めた。
しかし昼間の疲れで、目がちかちか痛い。
かのは今朝も家の者が寝ているうちに起き、馬を飼い、朝飯の用意をしながらも、
暇をみつけ、麻をつみ続けてきたのだ。
かのはいく度も目をこすりこすりして、いろり火の明かりに手元を近づけ、麻をつんでいた。
〈ばあさまが帰るまでに、このおけをつんでしまわなければ。
もっと速く、もっと速く。〉
かのが体をのりだしてつんだ、とたんかのは重心を失っていろりの中にのめり込んだ。
全身を走る熱さ、毛の焼け焦げるにおい、頭の毛は燃え、顔から頭にかけてひどいやけどだ。
夢中でふりはらった手、その手に持っていた麻も黒こげの灰になってしまった。
〈とんだことをしてしまった。〉
たとえ自分が作ったものでも、嫁の麻など一筋もないのだ。
かのはやけどをして、ぴりぴりする指を口にくわえて泣いた。
不思議なことが起こったのは、かのが口から手を離したときだ。
灰になったはずの麻が口からすぅーっと糸をひいて出てきたのだ。
かのは気をとりなおしてもう一度、麻の灰を口にふくみ、指先で引き出してみた。
確かに糸になる。
かのはやけどの痛さも忘れ、気が狂ったように麻を焼いてはなめ、焼いてはなめして
たちまちのうちにひとおけつんでしまった。
〈もう働きのない嫁だなんてことは、二度と言われまい。〉
かのは取り込んだだけの麻をわざわざ運び、焼いては灰にし、なめては糸にした。
糸はたちまち山のように積まれていった。
焼け穴のできた着物はびろびろにさけ、焼けただれた顔はひきつり、まるで
化け物が麻をつんでいるようだった。
もらい風呂から帰った、ばあさまとあにさはこの様子をみて〈あっ〉と驚いた。
「ひえー、かのが化けて出た。」
ばあさまのさけびに、ふりかえったかのは、顔がひきつり、目玉がぎょろりと出ていた。
「うわっ、こりゃばけものだっ。」
あにさの声に、かのはぎくっとした。
あにさにまで「化け物」といわれたのだ。
かのは持った麻を投げ出し、その場に立ちつくした。
かののほおには大粒な涙がいくすじも流れた。
かのは裏口からそっと家を出て行った。
それからしばらく後山姥が出るといううわさが広まった。
しかしこの山姥は気がやさしく時々里へ下りて来てはこっそり仕事を手伝ってくれた。
それも若い嫁ごに限っていた。
月の良い晩など嫁ごが一人で麻を織っていると必ずというぐらいやって来てその手伝いをした。
そのやり方というのは麻を焼いて灰にしてはなめ口から糸を引きだすというやり方だった。
若い嫁ごは大助かりだった。
そこでこっそりやまんばのすきな団子や食べ物をお礼に持たせてはやっていた。
こんなことがしばらく続いた折も折村の子供が二人山へ蕨を取りに行ったまま行方知れずになる騒ぎが起こった。
村は大騒ぎになり村中総出の山狩りが行われた。
しかし子供は見つからず隠れ住んでいるやまんばの岩穴が見つけ出された。
「このごろやまんばのうわさを聞くがやっぱりいたか。山姥が取って食ったに違いない」
子供を亡くした父親はいきり立った。
「あれは心の優しいやまんばだで・・・・・・・子供はきっと谷底へ落ちたか神隠しに会ったんずら」
「顔つきは怖いがそんなことのできるやまんばじゃない。会ってみればすぐわかるに」
若い嫁ごたちはかわるがわる言った。
「何い人の気も知らんで。山姥はやまんばだ。また子供を取られたっていいんか。早くたいじせんとえらいことになるぞ」
子供を亡くした父親はあくまで言い張った。
どちらにも賛成しかねていた村のしゅうは「また子供を取られるかもしれん」と言われてみれば父親に反対もできんくなった。そして若い嫁ごたちの言うことは無視されとうとうやまんばを殺す相談が持たれてしまった。
数日後そんな事とは知らぬ山姥はこっそり手伝いに下りてきた。
村のしゅうは手ぐすね引いて待っていた。
村の衆にきつく言い含められた若い嫁ごは帰り際着物を繕ってやると見せかけ泣く泣くほうろく玉(火薬を布で包み漆で固めたもの)を縫い込んだ。
(何回もつらい思いの所を助けてもらったのにすまんなア、だけどこうしなきゃあ、おら村八分にされるで、どうか許してなあ)
若い嫁ごは心で謝りながら着物を丁寧に繕ってやった。
さらに帰り際「火であぶって食うと柔らかくなってうまいで」と、村の衆に言われたとおり毒の入った団子をお礼にやった。
(やまんばよ、できることなら、死なんでおくれ)じっと見送る嫁ごの肩を例の父親が叩いた。
「やった、やった。後で礼はたんとするからな」
嫁ごはその手を振り払うと家の中にかけ込み、わっと泣きふした。
その夜やまんばの住んでいるあたりから山火事が起こった。
「うまくいったぞ。あの‘ほうろく玉‘に火がついたに違いない。」父親は躍り上がって喜んだ。
しかし山火事は朝になっても消えず、どんどん燃え広がり、村の山はすっかりはげ山になってしまったと。
そして焼けただれたやまんばの腹の下から行方不明になった二人の子供が無事見つけ出されたという。(木曽町 新開)
大力権兵衛
むかーしあったと。
神谷に権兵衛といってどえらい力持ちがあったと。権兵衛は力が強いだけでねえ。
そばの大食いでも評判だったと。何しろ二升のそば粉で作ったそばをいっぺんに平らげる、
まあ十人分はかるいもんだったとさ。
ところがちょうど同じ頃、薮原の宿にもそば食いでは負けねえっていばっている坊さんがあったんだと。
あるとき、この二人がそば屋で顔を合わせてな、早速そばの食いっくらべをしようってことになったそうだ。
そうしたところがはあ、二人ともえれえ大食いだもんで、何十杯食ったところでなかなか勝負はつかねえ。
とうとう引き分けということになってな、二人は腹抱えてねっころがったとさ。
ところがそんときだ。坊さん急に腹かかえて苦しみ出してな、どたんばたんのた打ち回ったあげく、
とうとう死んじまったそうだ。権兵衛はおったまげた。
[なんて申し訳ねえことしてしまったずら、おれのために坊さんひとり殺してしまった]
権兵衛は泣く泣く坊さんの弔いをすませたもんの、どうにも気持ちがおさまらねえ。
そのうち、罪ほろぼしに何か村のためにすることはねえもんかといろいろ考え始めてな、
こんなことを思いついたそうな。
木曽の山ん中は田んぼが少なくって米がとれねえ、だから山ん中に道を開いて
伊那と行き来できるようにすればどうかってえことなんだ。
こうして権兵衛の仕事が始まった。毎日山で木を倒し岩を掘り出し、土をならした。
それを何ヶ月もつづけてやっとのことで権兵衛は木曽から伊那に通じる道をつくったと。
そうして自分で牛を引きながら木曽の木を伊那へ運んだり、また伊那からは米を運んだりして
村のためにつくしたということだ。
このとき権兵衛が切り開いた道は[権兵衛街道]といってな、
その途中の峠もまた[権兵衛峠]と呼ばれるようになって、今もちゃーんと残っているんだとさ。
(信濃の昔話より)
弘法菜
むかしむかし、王滝村にひとりのおばあさんがあったって。
ある年の秋、おばあさんが家の前でカブ菜を洗っていたら、そこへ旅の坊さまが通りかかったんだって。
ずい分長いこと歩いてきたらしく衣はぼろぼろ、もうほんとに疲れているようすだったって。
坊さまは腹もぺこぺこと見えて、カブ菜を見ると[すまんがひとつ分けて下され]って頼むんだと。
おばあさんは気の毒に思ってな、一番甘そうなのを選んで坊さまにさし出したんだそうだ。
するってえと坊さまは、ごくりとつばをのみこんでな、カブにかじりついたかと思ったら、
それこそあっという間に食ってしまったってさ。
おばあさん、あっけにとられてしまった。
坊さまはずい分満足したらしく、何度も礼を言うと、また杖をつきながら歩き出したんだって。
そうしてしばらく行くってえと、坊さま、食ってしまったカブのしっぽをポーンとそばのアサ畑に投げこんで、
そのまんまてくてく歩いていったそうだ。
[へんな坊さんだのう]おばあさんは首をかしげて、いつまでも坊さまを見送っていた。
それから冬が終わって春になった。
雪がとけて草の芽が出始めるころ、おばあさんは、アサ畑にカブ菜の芽が出ているのを見つけたそうな。
それもまた、でかくて厚い葉のカブ菜がぞくぞく出てきているでねえか。
こんなところにカブ菜を植えた覚えはないのにと、おばあさんは首をかしげてみたが、
そのときふと、あの坊さまのことを思い出したんだ。
[はあ、そんではあの坊さまが噂に聞く弘法さまだったにちげえねえ]
おばあさんは、今さらながらに、アサ畑にカブのしっぽを投げていった坊さまの姿を思い出してな、
坊さまが去っていった方に向かって、なんまいだぶ、なんまいだぶって手を合わしたそうだ。
それからってもんは、この家では、カブを[弘法菜]といって大そう大事にしたんだって。
それにふしぎなことには、このカブ菜の種はよその家でまいても、決して芽が出なかったっていう話だ。
(信濃の昔話より)
あとかくしの雪
むかし、くれもさしせまった12月の23日の夕方、旅の坊さまが、木曽路を通ったときの話だがよ。
旅の坊さまが、漆脇から木曽川をわたって、沓掛まできたときは、日はとっぷりとくれてしまったとよ。
見ると一軒、みずぼらしいひゃくしょう家があったから、旅の坊さまは、そのうちの門口に立ってな、
[わしは、旅の者ですが、今夜はあいにくと月もなく、道も歩けないしまつ。
どうか一晩の宿と、ひとわんの飯をめぐんでくださらぬか。]って頼んだそうな。
そうすると、家の中から、よぼよぼのおばあさんが出てきてな、
[それはお気のどくに。だけど、みてのとおりのあばら屋だで、食べる物もありませんが、よかったらどうぞお上がりくだされ。]
って、すまなそうに言って、旅の坊さまを家の中に案内してやったっていうことだ。
おばあさんは、いままで、はちにもってあった切づけをしまって、わざわざおけの中から、長づけを出してきてな、
[食べるものは、こんな漬物しかなくて]。って、すすめたんだが、旅の坊さまはとっても喜んだということだ。
昔の人は、漬物を二通りつけたんだな。
秋の終わりにとれた菜っ葉のうちで、いいのは長づけといってそのまま漬けこんでよ、くず菜や短いのは、きざんでつけといたんだ。
そいで、正月までは、切づけを食って、年が明けると、長づけを出すというふうにしとったものさ。
さて、漬物でいっときしのんだたびの坊さまも、しばらくたつと、どうもものたらんと思ってな、
[まことに申し訳ないが、おかゆがあったら一杯くださらぬか。]って頼んだだ。
おばあさんは困りきった顔をして、
[わしは、ごらんのとおり足がわるくて貧乏なもんで一粒の米もなくて。]
って、ことわったそうだ。
旅の坊さまは、家の前にあるはざばにかかっている稲とアズキをさしてな、[あれを少しとってくるがいい。]っていいつけたそうだ。
おばあさんは、[とんでもございません。あれは隣のはざばで、それに、わしみたいな足のわるい者がとりに行けば、足跡ですぐわかってしまう。]
って、顔色を変えて答えたんだ。
[心配しなんでよい。わしが、おまえさんの足跡が消えるように雪を降らしてしんぜる。]
って、旅の坊さまは、おちついていったそうだ。
おばあさんは、いわれるとおりに、はざばから稲とアズキをとってきて、アズキがゆをつくって食べさせたそうだ。
次の朝になってみると、どうだ。雪がいっぺい降ってただ。
旅の坊さまがいったとおり、あとかくしの雪を降らしたんだな。
旅の坊さまは、おばあさんに礼をいってな、木曽路を北に向かって旅立ったということだ。
そのことがあってからというもの、12月23日には、どこのうちでもアズキがゆを食うようになったそうだ。
それに、その日には、きっとあとかくしの雪が降るって伝えられとる。
それからな、その沓掛では、今でも、その日まで切づけを食って、23日になると、初めて長づけを出すようにしとるんだってよ。
この坊さまは、大師さまっていうとってもえらい坊さまだったんだな。(長野の昔話より)
スズメとキツツキ
むかし、あるところに、一ぴきの娘スズメがおってな、お化粧しとった。
嫁にいったばっかだもんで、くちばしへおはぐろをつけておったとこよ。
ちょうど半分ぐらいつけたとこへつかいがきてな、[おっかさんが病気にかかったで、すぐこいってよ。]と知らせたんだ。
これを聞いて、娘スズメは、[それはたいへん。]とくちばしをそめかけたまんま、あわてて飛んでいったと。
それで、今でもスズメのくちばしは、頭のほうは白くなっているんだ。
家へ着くと、おっかさんは、もうむしの息だったけど、娘があわてて飛んできたんで、
「おう、よくきてくれた。うぬはよい子だ。」って、大喜びしたけんど、まもなく死んでしまったと。
おっかさんのお葬式がすんで帰ると、そこへ神さまがきてな、
「おまえは、ほんとうに孝行者だで、これからは苦労してえさをみつけることはない。ひゃくしょうの作った物を拾って食え。」
って、教えてくれた。
それで、スズメはひゃくしょうの作った物を食べるようになったという話しだよ。
それとはあべこべにな、キツツキのところへも、
「おっかさんが病気にかかったですぐこいってよ。」って、知らせがきたんだ。
ところがキツツキは、あわてずに頭の毛をそめたり、くちばしをそめたりして、からだのなりをこさえてからいったんで、とうとう親の死にめにもあえなんだ。
そこで、神さまはおこって、
「おまえのような者は、親が病気だっていうのに、身なりをこさえてからくるなんて、親不孝なやつだ。
ばちあたりだから、食い物は、木をたたいて、虫を追い出してでも食え。」っていったと。
だから、キツツキは、身なりはきれいだが、木をつっついて虫を追い出しちゃあくわねばならんようになったっていう話さあー。(長野の昔話より)
どうがん岩
むかし岩郷村の鳥居部落を通る中山道には御嶽遥拝所がありました。鳥居の両側には大きな石灯籠がたたっていましたのでみんなはこの遥拝所を石の鳥居と呼んでここから御嶽さまを拝んでいました。ここから少し上った山の中腹にどんがく岩と呼ぶ大きな岩がありそこからは御嶽様がよく見えました。どんがく岩には両手1杯ほどの穴が開いていてそこにはきれいな水がたまっており目に付けると目がよくなるといわれていました。それで病人が出ると親類衆が手分けして病気がなおるようにお宮やお寺を千おまいりする千社参りの人たちがここのどんがく岩にも来たといいます。そしてどんがく岩には千社参りのお札がはられていました。どんがくのがくという字は覚明様の覚という字だそうです。
ゲンバノショウ
昔は農耕だけでは暮らしていけなかったので手に職を持つためによそへ出稼ぎに出なければならなかった。ほとんどの人は安曇、東筑摩などの郡外へ出て働いた。冬の間中働いてお正月に一度(藪入り)だけ家へ帰ってこられるのだった。
ある人が藪入りの日にお給料をもらって帰ってくる途中のことです。木曽谷への入り口である桔梗平を通りかかると美しい女がいて「遊んで行きましょう」としきりに誘った。とうとう誘惑に負けそこで一晩遊んで家へ帰った。家で稼いだ金を勘定しようと出してみると大切に持ってきたものはただの木の葉だった。
これは桔梗平に住む「ゲンバノショウ」という狐の仕業だといわれている。
ほととぎす
昔、鳥の兄弟が山奥に住んでいました。兄はぐあいが悪いので自分では餌へ取ることができません。兄思いで働き者の弟は毎日兄の為にせっせと餌を運んでいました。
ある日兄は弟の運んできてくれた餌を食べながらふと思いました。「私にこんなうまいものを毎日運んでくる弟は自分でどれだけおいしい物を食べているかわかったもんじゃない」そう弟を疑い始め我慢しきれなくなってとうとう弟を包丁で殺して腹を割ってみました。中からはまずそうな食物が出てきました。弟は自分よりまずい物を食べていたのです。それから兄は包丁で殺してしまったことを悲しんで「ほちょかけた」と鳴くようになり自分では虫3匹しか取って食べられなくなってしまいました。
赤い牛の顔
上松の寝覚の床のむこうに「床」という部落がありました。この部落と町との交通が大変不便でわざわざ遠まわりをして町へ出なければなりません。そこで部落と町の間につり橋を架けることにしました。そしてつり橋の完成に渡り初めをすることになり村の人が大勢集まり渡ってみました。ところがこのつり橋を渡ってだんだん来るうちに川の流れが荒だってきて真ん中までくると荒れた水の中から赤い牛の顔が見えました。村人はそれがあまりにも恐ろしい顔なので全部渡りきることができませんでした。それからいろいろな人がこのつり橋を渡ろうと挑戦しましたが誰一人として渡りきることはできませんでした。
小鳥
昔は山にもたくさん小鳥がいてその中に尾にきらきら光るものが十二以上ある小鳥がいました。その鳥は人を化かすと伝えられていたそうです。しかし実際にはそんな小鳥はいないそうです。
天狗の話
福島の話です。
ある雨の降る晩子供が一人いなくなった。
近所の人々はいたるところを捜したがどこにもいなかった。十時頃今の東校へ上がっていく坂でその子は見つかったが雨が降っているのにその子はちっとも濡れていなかった。
これは天狗にさらわれたのだろうと言われた。
たぬきのいたずら
たぬきが人間に化け「ずーずー(うどん)やるぞ」と言っては人を化かす。化かされた人はうまいうどんを御馳走になったと喜んで帰ったが、急に気持ち悪くなり戻してしまった。みるとそれは、タヌキが拾い集めたミミズだったとか。
山に仕事に来た女が化かされて、にご(草)をそっくりしょったまま一晩中もがいていたという話がある。でもタヌキは狐のように腹黒くはなく、だまして方々を連れて歩いてもまた元の場所に反しておいてから逃げるといわれ、また狐は女の人に、タヌキは坊様に化けるといわれます。
坊さんに化けた岩魚
昔ある年のお盆のことでした。焼笹の部落の若者たちは、お盆といってもなにも楽しみがないので、河原に集まって「山椒や胡実の木の皮を剥いてあの魚のおりそうな大きな淵に、すりつぶした汁を流し込んで、沢山魚をとってやろう。」と相談していた。そこへ一人の年老いた旅の坊さんが通りかかった。ふとこの若者たちの話を聞いてたいそう心配して、「若者たちよ。どうか私のお願いを聞いておくれ。魚を釣るのは魚が騙されて釣れるのだから仕方がない。だが今のあなたたちの話では、あの淵のあらゆる魚が、みんな死んでしまいます。どうかそんなむごいかわいそうなことはしないでください。」と言って頼んだ。しかし若者たちはぜんぜんお坊さんを相手にしませんでした。
坊さんは間もなく焼笹の一軒の農家を訪ねてその家のお婆さんに混ぜご飯を御馳走になった。そして隣の家へ行き「ほうせんかはありませんか」と尋ねたが、ないと断られ仕方なく外へ出て行った。
それからいっとき(二時間)くらいたったころすっかり用意のととのった若者たちは汁を静かに淵へ流し込んで、目を見はった。みるみるうちに沢山の魚が浮かび上がってくる。最後に特別大きな魚が浮き、今まで見たことも聞いたこともないほど大きな魚だったので、大喜びでお婆さんの所へ持って行き、若者たちはお婆さんの家で一杯飲むことにした。いよいよその岩魚を料理しようと一人の若者が魚の腹を切ったところ中から大変なものが出てきた。先ほどお婆さんが坊さんに食べさせたはずの混ぜご飯である。お婆さんからその話を聞いて若者たちはまたびっくりした。あの坊さんはこの淵の主の岩魚が化けていたんだなと考えた。
坊さんが隣の家でほうせんかを求めたのはほうせんかの種が毒消しになったからです。
興禅寺のおいなりさま
きつねの坊さま
むかしむかしキツネが坊さんに化けて、福島町の興禅寺へ来て、『どうぞ私を使ってください』と頼み込みました。あまりに頼むので、裏方を手伝ってもらうことにしました。キツネの坊さんはすぐ寺に慣れ、よく働いてくれましたので、和尚さまはすっかり気に入り、また檀家の人たちからも親しまれていました。
ある日和尚さまのお使いで飛騨の寺へ行くことになりました。
隣村の入口にある一軒の農家では、一人の男が鉄砲の手入れをしていました。鉄砲がきれいになり、のぞいて確かめてみるとキツネが通って行くではありませんか。おや、と思って鉄砲をはずすと、坊さんが歩いています。また鉄砲をのぞいてみるとキツネに見え、はずしてみると坊さんに見えました。『これはきっと、キツネが坊さんに化けて行くところだ』と思い、狙いを定めて鉄砲を撃つと見事に命中して、キツネはその場に倒れてしまいました。近寄ってみるとそれはキツネではなく坊さんが死んでいました。
坊さんの肩には興禅寺の名がしるされた漆塗りの書状箱がかかっています。一日後に坊さんの姿はキツネに変わりました。村人たちは急いでキツネの死骸を興禅寺へ運び、和尚さまにお詫びをして埋めてもらいました。境内にある蛻庵(ぜいあん)稲荷がそれだといわれています。(木曽町)
興禅寺の狐
興禅寺にお小僧さんに化けた狐がいました。和尚様はお小僧さんが狐だということを知っていましたが他のお小僧さんたちと同じように一生懸命働くので黙っていました。
ある日和尚様はお小僧を呼んで「開田の日和田という所までお使いに行ってきておくれ」と言い手紙を書いてお小僧さんに渡しました。お小僧さんは遅くならないうちにと早速寺を出ました。途中漁師が鉄砲の手入れをしていますと目の前を狐がすたすたと歩いて行くではありませんか。鉄砲をおろしてみると狐はどこにもいなくて歩いているのはお小僧さんです。猟師はわからなくなり思うままに鉄砲を撃ちました。倒れたのはお小僧さんで狐の姿になりません。さあ大変なにしろ生きている人間を撃ってしまったのですから。猟師はどこの寺の者だろうとお小僧さんを見ると懐に手紙が入っていました。興禅寺の和尚様からのものです。早速猟師は興禅寺に知らせて和尚様に来てもらいました。
和尚様がお小僧さんに声をかけますとお小僧さんは元の狐の姿になり死んでしまいました。和尚様は狐の死骸を持って帰りお稲荷様として義仲の墓の隣に祀ってやりました。
狐檀家
むかあしのことだ。
飛騨の松倉城に秀綱ちゅう殿さんがおったそうな。
殿さんは白狐を一匹城ん中で飼っとったという。
奥方も狐をかわいがっとったが何ちゅっても若様は小さいもんで狐にまたがったり、くるったり(今でいうプロレスのまね)して遊んどった。
だけど世の中の騒がしい時で戦が方々であり、松倉城も、金森長近っちゅう大将に攻めたてられて落ちちまった。
殿さんは討ち死にするし、若様も奥方もちりぢりになってしまった。
白狐ももうこれまでと思って燃え落ちてくる火をかいくぐって城を逃げ出した。
高い山をいくつも越え、あてもなくさまよううち、狐はとうとう信濃路まで来てしまった。
その頃はもう冬のまっ最中、冷たい風が吹き荒れて一面真っ白な雪野原だ。
狐はおなかがすいてしまって、もう死んでしまいそうだったと。
そこで仕方なく茶坊主に化けて、諏訪の千野という学者の家に住み込んだという。
千野家では思いがけず、気のきく茶坊主を雇ったと大喜びで
「 蛻庵よ、蛻庵よ」
と、呼び重宝がっとった。
ところがすっかり安心した白狐は、つい昼寝をして大事な尻尾を出しちまった。
「もうし、だんなさまあ。蛻庵が、ほうきのような尻尾を出して、寝ておりまする。」
家の人が主人に言っていくと、
「しっ、声が高い。蛻庵に知れたらなんとする。わかっとる、わかっとる。蛻庵は白狐じゃ。だが狐でありながら、我が家のために一心に尽しているではないか。そのまま、そのまま」
と、家人をたしなめたもんだ。
ところが蛻庵は狐だもの、この時は目を覚まし、じっと主人の話をきいとった。
(狐と知りながら、こんなにもかわいがってくださる。長く長くこの家で働きたい。だけど正体を見破られた今、恥ずかしくてどうしてこのままいられよう)
蛻庵は涙ながらに書き置きを一通書くと、そうっと千野家を抜け出してしまった。
白狐にはまたあてのない旅が始まった。
そして流れ流れて木曽の興禅寺に辿り着いた。
狐は今度は若い坊さんに化け
「蛻庵と申します。どうぞ私を使ってください。」
と、頼んだ。
住職の桂岳和尚は、大変に偉い人で蛻庵をすぐ狐と見破った。
しかも正直で利口な狐であることを。
そこでなにくわぬ顔で、
「ふうむ、見どころのある坊主じゃ、修行中でおありかな。では納所坊主(台所を手伝う坊さん)にでもなってもらおうか」
と、寺に住み込めることになった。
もとより、利口な狐のこと、よく気がつくし、一生懸命に働くもんで、お寺では、
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、大事にされとった。
檀家の人たちにも、親切に尽すもんで、
「蛻庵さま、蛻庵さま」
と、したわれておったという。
ある冬の日のこと、興禅寺では下呂の安国寺に急用ができた。
その使いの役目に蛻庵が選ばれた。
「のう、蛻庵、大切な使いじゃ。途中くれぐれも気をつけて行って来ておくれ」
「はい、和尚さま。きっと大切な役目やり遂げます。」
蛻庵はかいがいしく旅支度を整え、大切な手紙はしっかりと油紙にくるんで、懐に縫い付けた。
次の朝、蛻庵は暗いうちに興禅寺を出た。
地蔵峠は朝のうちに越え、西野峠を越え、長峰峠を越え、飛騨の日和田に着いた頃は、短い冬の日が暮れかかっとった。
蛻庵は、とある農家を訪ね、とめてもらうことにした。
ところが山ん中のこと、冬は猟師をして暮らしをたてている農家が多い。
この家の主人もまた猟師だった。
夕飯も終え、囲炉裏火に手をかざしながら蛻庵は、見聞きした国々の話をしとった。
「お坊さま、お疲れになったら、先に休んでくんなんしょ」
そういわれると、蛻庵は旅の疲れが出て、囲炉裏ばたに横になった。
主人は鉄砲を持ちだし、手入れを始めた。
ほだをくべ、囲炉裏の明りで順々に手入れをし、磨き上がった銃をかまえ、確かめているうち、主人はあっと驚いた。
今の今まで、旅の坊さんとおもっとったのに、なにげなくのぞいた銃口には、衣をまとった一匹の白狐が見えるではないか。
(うーむ、さてはキツネが騙しに来たか、昔から銃口でのぞくと化けものの本性が見えるといわれていたが本当だ。
この古狐め、うまく化けたと思っても、わしの目はごまかせんぞ。)
主人は再び鉄砲を磨くと見せかけ、そうっと弾を込めた。
蛻庵はと見ると、昼間の疲れであろう、うっつら、うっつら眠っとる。
(今だ)
主人が銃をかまえ、再び銃口からのぞくと間違いなく衣を着た狐だ。
「ダーン」
蛻庵は悲鳴をあげ、あおのけざまに倒れると、みるみる狐に姿を変え、そのまま息が絶えちまった。
主人がしてやったりと死骸をあらためてみると、懐から血染めの手紙が出て来た。
表書きを見ると、下呂の安国寺の住職あて、木曽の興禅寺の桂岳和尚よりではないか。
「これはえらい事をしちまった。これには何か深いわけがあるに違いない」
主人は我が手にかけて殺しちまった狐をあらためて見直した。
よくよく見れば、銀色に光るふさふさした毛の見事さ、狐とはいえ気品の高い白狐ではないか。
主人は急いで、狐の死骸を興禅寺へ運び、和尚さまに、わけを話しねんごろに弔ってもらった。
しかしそれから日和田村に、恐ろしい病がはやり出し、白狐をうった猟師の家が真っ先に死に絶えてしまった。
「こりゃあきっと、いつかの白狐のたたりにちげえねえ」
村人は興禅寺に駆けつけ、事の次第を話し、蛻庵の供養をねんごろにしてもらった。
するとはやり病はみるみる衰え、村は助かったちゅう。
そしてこの時以来、日和田村は興禅寺の檀家になっているという。(木曽町 福島)
木遣をうたう狐
福島の町は美しい。
周りを山に囲まれ四季おりおりの変化が見事だ。
待ちの真ん中を南に向かって走りぬけるのが木曽川だ。
その川岸から大木のしげる城山の中腹までぎっしりと家が並ぶ。
昔この城山に「おまっしゃま」と呼ばれるキツネが住んでおった。
その狐は木遣唄がうまかった。
月の良い晩など狐のうたう木遣唄がよく聞こえたものだ。
しかしその歌声は『遠くに聞こえる時は何事も起こらないが、近くで聞こえる時は町に災いが起こる』と言われておった。
木遣のすきなひとは城山へ登っては「おまっしゃま、ひとつ木遣を聞かせておくれんかなし」と頼んだ。
するとその夜はきっと木遣が聞こえたものだ。
{べんけいが、べんけいもったるなぎなたは
丈も四尺刃も四尺
あわせて八尺の長刀で
五条の橋の真ん中で
牛若とやらに切りかけた
エンヤラヨイトショウ
ヒケヒケヤレヤレ
エーヨイトショウ}
歌声は木曽川のせせらぎにのって、静かに町中へ流れた。
「ああ、よい木遣だった。静かに遠くで聞こえたから、今夜も何事もないずら」
町の人びとは安心して眠りについてはおった。
ところがある春の宵のことだった。
山村の代官様は夜道を散歩した。するとすぐ近くで狐の木遣が聞こえる。
{エー台持ちはヨイトショウ
エー重たいねーヨイトショウ
エー力をなーヨイトショウ
エー手ごわくも―ヨイトショウ
エーこじたてて―ヨイトショウ
エー頼むぞよ―ヨイトショウ}
と、とても近い。
もう耳のそばでうたっているようだ。
代官様はあわてて帰ると、家来に命じ、町中を見回るようにさせた。
しかしその夜は何事もなかった。
次の日の昼頃になって代官屋敷は大騒ぎになった。
「大変じゃ、ゆんべ千両箱が盗まれましたぞ」
とのお蔵番の知らせである。
代官様はすぐ家来に山狩りを命じた。
「こんなに時がたってから山狩りなんぞしたって。今頃盗人がうろうろしとるわけがない」
家来たちはぶつぶつ言いながらも、仕方なく山狩りを始めた。
ところがどうだ。
城山の頂近くの、古い檜の大木を千両箱をかついで汗だくになりながら、ぐるぐる回っている男がいるではないか。
家来たちは難なく、その男を捕まえ、代官屋敷へ引きたてて来た。
そして男を調べてみると
「どうもおかしなことで、実は二晩この床下ですきをうかがっておりました。
すると昨晩、家来の衆が全部町へ見回りに出かけましたので、そのすきに千両箱を盗み出しました。
しかし逃げても逃げても城山の外へ出られません。
はい、ここがおかしなことで、狐に化かされたんでございましょう。
気のついたときは、一本の木をぐるぐる回っておりましたんで」
この話を聞くと、代官様も家来も
「おっしゃまが、屋敷を守ってくれたんだ」
と喜び合い、お稲荷様へお参りをし、油揚げを沢山お供えしたもんだ。
それから何十年と平和な時が流れ、夏の夜など狐のうたう木遣がよく聞かれたものだった。
そんな五月のある日、頂上近くの古い檜の大木の元で遊んでいたおっしゃまは、彦七という大工にうたれて死んでしまった。
そして次の年の五月に福島は大火事に見まわれ、大工彦七の家も焼けてしまった。
あとでよく調べてみると、それは一年前狐の死んだ命日であったという。
その大火事の中でも代官屋敷と、城山はお稲荷様に守られてか無事であった。
しかし狐のうたう木遣は二度と聞くことができなくなってしまったという。(木曽町 福島)
宗助幸助
昔、飛騨の国の一の宮水無(みなし)神社の近くで戦乱がおこり、神社もまたその戦火の中に巻き込まれようとしていました。
ちょうどその時、この地へ木曽から杣(そま)(木を切る)仕事に来ていた宗助と幸助の二人の者が相談して神主の許可も得て、故郷木曽の地へ神社を分けてもらうことになりました。信仰心の厚い二人はさっそく同士を集め、一行はこっそりと木曽へ向かって出発しました。
ちょうど木曽と飛騨の国境の長峰峠までさしかかったとき、追手がやってきました。『返せ』[いや返さぬ][逃げろ][逃がすな]と、峠の頂でみこしのうばいあいが始まりました。もみあい、へしあいしているうちに、みこしが肩からはずれて地上へ落ちてしまいました。こうなっては、みこしが壊れても仕方がない。ころがして逃げようと、『それ宗助』[幸助][宗助][幸助]と掛け声をかけ合って峠を木曽側へ向ってころがし落して逃げました。追っ手もとうとうあきらめて、引き上げて行ってしまいました。
こうして無事故郷伊谷(いや)の郷(木曽町福島伊谷)へ社殿を建てて、お祀りすることができました。毎年新しくみこしを作って、祭の日にめちゃくちゃに壊してしまうという、珍しい水無神社の夏祭り、みこしまくりのいわれは、この時のことを偲んで、[宗助][幸助]と掛け声勇ましく、まくることになったのだと伝えられています。(木曽町)(もとの岩郷村)
こわされたみこし
昔はやたらと戦があったもんだ。ここ飛騨の国の一の宮水無神社の近くでも戦が起こり、近くの家家には火が放たれ水無神社は今にも燃えそうであった。この時ちょうど木曽から宗助、幸助という若者が仲間と一緒に木切りの仕事に来ていた。
「ああもったいない。このまんまじゃあ、お宮が燃えてしまう。早くどこかへお移ししなきゃあ。いっそ木曽の地へお移ししたいもんだ」
「そうだ、恐れ多いが、木曽までお移しすれば、飛騨の侍たちも、他領の木曽までは踏み込んで来れまいで、そりゃあいい考えだ。」と、話し合った。もはや一刻を争う時だ。
二人は急いで神主の所へ走り、訳を話すと
「それはありがたい。このままではきっと水無神社も焼けてしまいます。是非そうしてくだされ」と賛成してくれた。
二人は大急ぎで仲間を集めみこしを担いで出発した。
一行は人目を避け、細い山道をかけのぼり、茂みをくぐりぬけ谷川を渡った。
もう一息で信濃の国、長峰峠という時
「そのみこし返せ」
[逃がすな]
と、はたして追手が迫って来た。
他領へ逃がしては事が面倒だと追っ手も必死だ。
たちまち峠でみこしのうばいあいが始まった。
「返せ」
[いや返さぬ]
と、激しく奪い合ううち、大切なみこしは肩からはずれてどうとばかり地面に落ちてしまった。
こうなればもうみこしが壊れても仕方ない。
[宗助、そっちを持て]
[幸助、こっちへころがせ]
二人は中心になって声をかけ合いながら、みこしをころがしとうとう木曽側の谷へところがし落した。
みこしは地響きをたて壊れきずつきながらも漸くにして信濃の国へ入った。
はげしく追ってきた追っ手も、これを見てとうとうあきらめ引き上げてしまった。
こうしてみこしはめちゃめちゃに壊れながらも伊谷の里まで運ばれたという。
こうしたことがあったので祭りとなると
[宗助!幸助!]の掛け声もろとも百貫目(約三七〇キログラム)もあるみこしをころがしまわるのだという。
これを「みこしまくり」と言ってたて二間約四メートルの太い二本の担ぎ棒が掛け声とともに突っ立てられ地響きをたてて道の上に倒されていく。
音は夜の山々にこだまし祭りは最高潮となる。
みこしは次第に壊され最後はめちゃめちゃにされ神社に納められるのだ。(木曽町福島(元岩郷村))
大師さま
黒川地区にはダイシサマといわれるおもしろい風習があった。
暮れが近づいてくると、『いい子にしていると大師さまが来ていい物をくれるぞ』といわれていうことを聞いていたものだ。12月23日の夜、コン袋を家の入口の木棚につるしたり、土間のワラたたき石の上に置いておくと、翌朝子供が欲しがっていたものが入っていた。
テレビなど無い時代は、本当に大師さまが入れてくれたと信じていたものだ。
御嶽山の竜神
太古の時代、一の池と二の池に竜神が住んでいた。一の池は青年の竜、ニの池は乙女の竜で相愛の仲だった。結婚するためには、山神のおきてを破って池を捨てなければなりません。
そのことで永い間苦しみましたが、ついに嵐の一夜青年の竜は意を決して、雲を呼び、風を起こして一の池の外壁を破り、ニの池の乙女の竜のもとを訪れ一緒になりました。
翌朝、お山の異変を感じて登山した村人の目に映ったのは、一の池の外輪山がニの池に向かって崩れ、湖底には巨竜の爪跡が残っていました。
井原峠の馬頭観音
昔、小奥集落の君山家には、メモ紙を結んでやれば自分で買い物をしてくれる利口な馬がいた。ある日、福島町まで塩を買いに出かけた。ところが、帰りに井原峠で何匹ものオオカミに襲われ、ついにこの峠で死んでしまった。それで、この峠に馬頭観音を祀って供養をしていた。
その後、中腹に新しい道ができて峠を通らなくなったため、新しい道端にお堂を移した。
明星岩
原野の向いの山の中腹に、原野を望むように大きなとんがり岩が突き出している。大岩の下にはかなり広い場所があって、駒ケ岳神社をお祀してある。
この明星岩には、大きな白い「カジカ」が住み着いていた。ある時、駒ケ岳の唐沢の下の『濃ケ池』に住んでいた大蛇とけんかをしてしまった。大蛇は白カジカに負けてしまったので、怒って七日七夜大雨を降らせて、大暴れにあばれ廻った末、池から逃げ出して伊勢の海へいってしまった。
縁結びの木
小作のせがれ太蔵と地主の娘おたきは、いつの頃からかお互いに思いを寄せ合うようになり、ときどき人目を偲んで会うようになった。しかし、地主の娘と小作のせがれでは、「身分の違う者はどうしても一緒になれない」ということで二人を悩まし苦しめた。
秋も深まり御嶽山が新雪で覆われるようになったある日、遂に二人は示し合わせて、家の者のすきをみて家を抜け出ると、地蔵峠の中程で落ち合い、手をとり合って峠の頂上に向かった。そのとき、急に激しく降り出した雪にさえぎられ、二人は頂上の一歩手前で倒れてしまった。二人は無言で抱き合い、静かにその場に座りこんだ。降りしきる雪は二人をおおい、深い眠りに落ちたまま、遂に起き上がらなかった。
村人は必死に探したが、何ら手がかりのないまま春を迎えた。峠の雪が溶けたとき、村人はそこに、幹と幹、枝と枝が固く結び合った不思議な二本のかえでの木を見つけた。そして、その根元には太蔵とおたきの着物があったそうだ。
それ以来、村人はこのかえでの木を「縁結びの木」と名づけ、相愛の若い男女がしめ縄を結びつけたりして、一緒になれるよう祈るようになった。
松本の昔話
かろと石
むかし、松本地方で日照りがつづき、大勢の村人たちが、困ったことがあります。
「弱っちまったな。こう日照りがつづいたじゃ。
おらたち人間さまも、どうにかなっちまいそうだ。」
村の人たちは、雨乞いをしたり、山伏に頼んで、ご祈祷してもらいましたが、日照りは、いっそうひどくなるばかりでした。
庄屋さんは、朝からわらじ履きで、村の土地をみて歩きました。
「これは大変なことになってしまった。これ以上雨がふらねえと。」
村をひとまわりしてきた庄屋さんは、どっかりと木戸の石に腰をおろしました。
「庄屋さま。庄屋さま。」
その時、庄屋さんの屋敷へとびこんできたのは、同じ部落の平左衛門でした。
「なんだ。息せききって。何かいい知らせでもあったのか?」
「ありましたとも。ありましたとも。」
平左衛門は、庄屋さんの前へきて、ひざまずきました。
「じつは庄屋さま。わっしゃ、今日も雨乞いの祈願にお寺へ行ってきたのですが、帰りに、ほら、こんな古い雨乞いの記録を借りてきました。」
「ほほう。どれ、見せてくれ。」
急いで雨乞いの記録に目を通すと、
「そうだ。かろと石のことを忘れていた。」
と、いって、庄屋さんは立ち上がりました。
「かろと石。そうだ。平左衛門。はやくかろと石のまわりへ村人を集めてくれ。
それから、神主さんにもたのんでな。」
平左衛門は、矢のように山道をとびくだりました。
庄屋さんが、柏木神社の広場にかけつけると、もう村の若者たちは、棒や、農具を持って、かろと石をかこんでいました。
[みなの衆。ごくろうさま。きょうは、今まで以上に祈りをこめておねがいだ。]
かろと石を動かす若者たちは、まるで裸祭りのようなかっこうで、雨乞いを待っていました。
やがて、神主さんの祝詞がおわると、平たい形をしたかろと石が、かけ声とともに、少しずつ動き始めました。
かろと石をかこんでいた年寄りや、女、子供たちも、みんなでお祈りをしながら、じっとこのようすを見守っていました。
[そうれ。もう一息。これでわしらの願いも通るぞ。]
紋付を着た庄屋さまが、縄にいっそう力をこめました。
と、そのときです。今までカンカンに照っていた空が、にわかに曇り始めました。
[みろ。雲だ。雲がでたぞう。]
ひとりが、そう言うと、村人は、空を仰いで、手を合わせました。
やがて、[ピカッ]と稲妻が光ったかと思うと、たちまち大粒の雨が降り出しました。
[雨だ。]
[めぐみの雨だ。]
[おらたちのねがいが通じた。]
みんなは、かろと石をかこんで、踊りだしました。
庄屋さんも、みんなと一緒に踊りまくり、とうとうしまいには、紋付を脱ぎ捨ててしまいました。
それにしても、[どうして雨が降ったのか?]
不思議に思った庄屋さんが調べてみると、かろと石は、むかし殿さまの怒りをかって、閉じ込められた、家老の石室のふた石だったということです。
石室に閉じ込められた家老は、家に残された妻子のことを思って、泣き続けました。
とすると、雨水は、その家老の涙だったでしょうか。
そこで村人は、あわれに思い、[かろうと石]と名づけ、てあつくまつったということです。(松本市笹賀)松本の民話より
行人塚
むかし、神林の里に、与助という若者が、母親と一緒に暮らしていました。
与助はたいへんな働き者で、朝早くから夜遅くまで、それはそれは一生懸命働くので、近所でも評判の孝行息子でした。
ある春の夕方のことでした。いつものように、母親の用意した、たらいでお湯をつかっていると、急にからだのだるさが与助をおそいました。
「おっかあ。おら、ちょっと今夜てきなくていけんで、先に寝かしておくれや。」
と、言って、与助は、はえずるようにして寝床まで行ったかと思うと、ぐったりとしてしまいました。
[腹へっつら。もうじき夕飯ゃできるに、食べて寝たらどうだ。]
母親は、心配そうに与助の枕元へきて、顔をのぞき込みました。
「うん。おら、まだ腹へっていねで、腹減ったら食べる。一晩寝りゃ、なおると思うで、寝かしてくりや。
おっかあ、心配なんかいらねえでね。]
そう言うと、与助は、布団をひっかぶって、寝てしまいました。
[おら、与助と、へえ20年も一緒に暮らしているだが、与助が夕飯くわなんで寝たこたあ、初めてだ。
たいしたことにならなきゃいいが。」
母親は、一人で飯台にむかいましたが、もちろん夕飯が、のどを通るはずがありません。
一口はしをつけただけで、夕飯を終えると、急いで息子のためのおかゆを作り寝床へ持っていきました。
[与助やい。すこしゃ楽になったかやあ。]
暗くてよくわかりませんが、与助は、どうやらぐっすりと眠っているようでした。
母親は、おそるおそる与助のひたいにさわってみました。
熱はたいしてないようでした。
[ああ、神さま、仏さま。どうか与助の病が早くなおりますように。」
母親は、手を合わせて祈ってから、寝床へはいりましたが、なかなか寝つかれません。
[どうだ与助。腹へっつら。今おかゆ作ってやるからな。
母親は、夜の明けるのも待ちきれずに、与助の部屋へとびこみました。
「いいや。おら、腹へらね。」
与助は、母親の作ったおかゆを、半分ほど食べただけで、あとは残してしまいました。
「おっかあ。まだ少し頭は重いが、へえだいじょうぶだ。おら、ちょっくら稲さみてくるだ。」
与助は、ふらふらと立ちあがると、壁につかまって出て行きました。
[これ与助。ばかなことするじゃねえ。きょう一日ぐれぇ、寝てなんでどうするだやあ。」
そういって、母親が、与助の着物をひっぱったときです。
「あっ!」
と、いって、母親は、そこへ棒立ちになってしまいました。
与助のはいた血が、着物をまっかに染めていたのです。
[与助さんも、さんざん働いて気の毒だが、とうとう胸の病になったっていうじゃねえか。」
[やあだ。やあだ。早く追い出してやらなきゃ、あの病気はうつるでなあ。」
村人は、寄るとさわると、与助の病気のうわさをしあいました。
暑い夏が過ぎて、涼しい秋になっても、与助の病は、よくならないばかりか、かえって悪くなるいっぽうでした。
[与助や。許してくれ。おまえも知ってのとおり、これも村のおきてで、どうにもしょうがねえことだ。」
母親が、手に持ってきたのは、行者の着物でした。
この村では、悪い病気にかかると、家を出て死の旅を続けなければなりません。
与助は、黙って着物を受けとると、母親の用意した、たらいの湯で、からだをふき行所の姿に身を変えました。
[おっかあ。おっかあも元気でなあ。]与助は、涙をのんで、出かけました。
それからおよそ一ヶ月ばかり過ぎた、晩秋の夕暮れのことでした。
表の戸をかすかにたたく音に、母親が外に出て見ると、細くやせおとろえた与助が、杖をついて立っていました。
母親恋しさに、どうしても遠くへ旅立てなかったのです。
[与助許してくれ。おら、村人から何といわれったっていい、おら、おめえをはなさねえだ。」
親子は、その晩、手をとりあって、しみじみと泣きました。与助の手は、糸のようにやせおとろえていました。
[おっかあ。おら・・・・・・・一生のおねげえだ。裏の庭のすみに・・・・・・・穴を掘ってくれや。
どうせ・・・・・・・長かねえ命のことは・・・・・・・わかっている。」
母親は、涙を流しながら、いく日もかかって穴を掘り、そこへ息子を住まわせました。
それから、食べ物や水を、根気よく運びましたが、とうとう一週間目の夕方、与助は息をひきとってしまいました。
なげき悲しんだ母親は、息子の冥福を祈るために、穴の上に塚をつくりました。
とつぜんの塚に、そこを通る村人の中にはそのいわれを聞く人もありました。
しかし、母親は、
[これは、名も知らぬ行者の墓だ。]
といい続けました。が、村人の中には、そんな母親の気持ちを知ってか、こっそりと花をさしていく人もあったということです。 (松本市 神林)
山犬道
むかし、芳川の里には、今ではもう一匹も見当たらないという山犬が、数えきれないほどすんでいました。
ですから、山ぎわの近くの農家では、夜になると山犬の声がひどくて、眠れない晩もあったほどです。
そのころ、芳川の山ぎわに、義太郎という男の人が住んでいました。義太郎さは、からだは小さいが、村では一、二という度胸のすわった人で、人が恐れる山奥へも、どんどんひとりではいって行きました。
ある日のことでした。義太郎さが、いつものように、一本松の近くでまきを割っていると、見るからに大きな山犬が、近づいてきました。
「ちくしょう。おれにかみつく気だな。」
義太郎さは、少しうす気味悪さを感じましたが、持っていた斧を振り上げ、おそろしい顔をして山犬をにらみつけました。しかし、やがて義太郎さは、振り上げていたおのをおろしました。
義太郎さに近寄ってきた山犬に、いつもの鋭さがなかったからです。
山犬は、目を細め、尾を丸め、まるで長い道を歩きつかれた旅人のようでした。
<はて、山犬の様子が、いつもと違うぞ>
義太郎さの五,六歩手前で止まった山犬は、何かをたのむような細い目で、義太郎さの顔を見上げました。
<病気かもしれん>
義太郎さは、それでもけいかいしながら、おのを手ばなさず、山犬に近寄って行きました。
義太郎さが近づくと、山犬は、長い舌をはあはあいわせながら、さも苦しそうに頭を義太郎さにこすりつけました。
「ははあ。のどに何かひっかけたな。今とってやるから待っておれよ。」
義太郎さが、山犬の口をぐっと開いて中を見ますと、のどの奥の方に大きな骨が一本突きささっていました。
[よしよし。静かにしてるんだぞ。」
山犬は、義太郎さが骨をとる間、じっとして口を開いていました。
「ほれ、こんねに太い骨がささっていたぞ。」
そういって、今とりのぞいたばかりの太い骨を見せると、山犬は義太郎さのからだに何回もほほずりをして、それから静かに山の中へ去っていきました。
<いくら山犬でも、助けてやれば、いい気持ちのするものだ>
義太郎さは、なんとなくいい気持ちになりました。
それからいく日か過ぎた夕方のことです。
義太郎さは、その日までの約束で借りたおのを、どうしたことか山の中へ置き忘れてきてしまいました。
「へえ夕方でおそいで、山へ行くのは止めましょや」
おかみさんからいわれても、「だいじなおのだで、持ってこなきゃならねえ。山犬の一匹や2匹、おっかなかねえで、しんぺえするな。」
と、いってでかけて行きました。
義太郎さが、いつものようにせまい谷間の山道を登りきって、仕事場の一本松の下へ出たときです。
五,6匹もの山犬の群れが、とつぜんあらわれ、いちどにうなり声を立てました。
<ちきしょう。ばかに数が多いな>
さすがの義太郎さも、かまを持つ手がふるえました。たちまち輪になって義太郎さをとりまいた山犬の群れは、じりじりとうなり声をたてながら、つめ寄ってきました。
<こいつぁ、やられるかもしれねえ>
今までにない危険を、義太郎さが感じたときでした。山犬の群れから少しはなれた岩の上で、
「うおー。」
という山犬の吠える声がなりひびきました。
すると、群れをなしていた山犬たちは、いっせいに吠えるのをやめて、岩の上の山犬を見ました。
岩の上の山犬が、二度目のうなり声を立てると、山犬たちは、まるでなにもなかったように、すっかりおとなしくなって目を細めて、尾を振り始めました。
<あれが、山犬の親玉だ。こんどは、あいつが、おれをおそうにちがいない。>
そう覚悟したとき、岩の上の親玉は、静かに岩をとびおり、ゆっくりと義太郎さの方へ近づいてきました。
<いよいよ最後だ>
義太郎さは、もう生きた心地がしませんでした。やがて、義太郎さに近づいてきた山犬は、義太郎さの五,六歩手前で立ち止まると、山犬の群れに向かって、ふたたび「うおー。」
と吠えたてました。すると、ふしぎにも群がっていた山犬たちは、尾っぽをまいてにげ始めました。
義太郎さの目の前に現れたのは、紛れもしない、この間の山犬でした。
「お前か。よく覚えていたなあ。」
義太郎さは、からだに頭をすり寄せてくる山犬の頭をなぜながら、だんだん目がしらがあつくなってくるのを感じました。
やがて、義太郎さが、山をおり始めると、山犬も義太郎さを守るようについてきました。
そして、家の前にくると、安心したように山へもどって行きました。
それからというもの、山犬の義理の深いのに感心し、自分の食べるものを余らせては、山へ行くたびに山犬に与えていたということです。 (松本市 寿)松本の民話
牛つなぎ石
その昔、この松本が甲斐の国の武田信玄に治められていたころのことだと。
そのころ信玄は、越後の上杉謙信と戦をくり返しておった。同じような戦が日本のあちこちでも起こってな。
みんな力の強い者が自分の勢力を伸ばそうと、すきを狙っておる時代じゃったと。
駿河の今川氏もそのひとり、何とか信玄を落として天下を我がものにしようと,常日ごろたくらんでおったそうな。
あるとき、今川氏はこんなことを思いついた。信玄の領地はほとんど山国じゃから、魚や昆布、それに塩などはすべて駿河を通って送りこまれる。米の次に大事な塩を止めたらどれほど困ることか、そう考えた今川氏は、さっそく信玄の支配下に通じる道をふさいでな、いっさいの塩を止めてしもうたそうな。
こうなると、松本の人々はほとほと困ってしもうた。塩が底をつくと、体に力が入らず働く気力もなくなるというもんじゃ。おまけに越後の国とも戦をしておったから、そっちから塩を送ってもらうわけにもいかん。
これにはさすがの信玄も大弱りじゃったという。
ところが、このことを越後の上杉謙信が聞きつけたんじゃよ。謙信は信玄とは敵同志じゃったが、今川氏のやり方がひきょうなのに腹を立ててのう、「たとえ敵とはいえ、見すごすことは武士の恥、すぐにも松本に塩を送り届けよ。」と家来に命じたそうじゃ。
こうして塩の荷が牛の背につまれ、信濃に向けて出発した。牛の列は何日も何日も糸魚川をたどって松本めざし歩きつづけたと。
それからいく日たったころか、松本の人々は、あとからあとからやってくる牛の列を見つけた。それが敵方の上杉謙信から塩が届けられたとしるや、みんな大そうおどろいてな、「越後の上杉様は、敵ながら立派なお方じゃ」と口々にそう言って感謝したそうな。こんなわけで松本の人々は再び元気を取りもどした。
ときに松本に塩が届いたのは、寒いさなかの一月十一日のことじゃったと。人々はそのときの恩を忘れまいと、それ以来毎年この日には祭りを行うようになったということじゃ。
これが後々何百年もつづけられたという”塩市”の始まりなんじゃよ。今ではその塩市も”飴市”と変わってな、一月十一日にはにぎやかに開かれるんじゃそうな。また塩を運んできた牛がつながれたという石が、今も松本市中央二丁目にそのまんま残っておってな、土地の人からは、”牛つなぎ石”と呼ばれておるんじゃそうな。 (信濃の昔話)
商人石
ずーっと昔のことだと。刈谷原峠を一人の商人が歩いておったと。何を商いしていたもんだかよく知らねえが、大きな包みを背中に負うてな、汗をふきふき松本めざして歩いていたそうだ。
途中、峠の道の曲がり角まで来たときのことだと。がけっぷちにでっけえ松の木が立っておってな、そこからのながめがまた、えらくみごとなもんだ。
「ここまで来りゃあ、もうあと少しだで、ちょっと休んでいくずらか。」
商人は荷物をとくと木の根もとに腰をおろした。空は青いし涼しい山風もときどきすーっと吹いてきてな、
そりゃあもう、ええ気持ちだったとさ。それがあんまし気持ち良かったもんでな、ついうとうとするうち、商人は松の木にもたれたまんま、寝入ってしもうたとさ。
それからどんぐれえたったころだか、気がついてみると、はあ、お日さまは西の空。
「こりゃあ大変だあ」商人はたまげてとび起きるや、大急ぎで荷物を背負い、一目散に峠の道をかけ下りていったそうな。
ところがなあ、そのころこのあたりは、暗くなるってえと追いはぎが出ては、旅の者をこわがらせていたもんだ。なんて運の悪いことだか、もう少しで峠を出て里に着くっていうときのことだ。いきなり山ん中から、おっそろしい面の男どもが出てきてな。商人見つけるやいなや、荷物もなんもかんも奪ってしまったあげく、脇差ぬいて一刀のもとに切り殺してしまったんだと。
かわいそうになあ、殺された商人の死がいは、何日も何日も誰にも見つからねえまんま峠の道にころがっていたってことだがな、ふしぎなことにその体は、いつの間にか石になっちまったって話だ。
これが”商人石”っていって、今もそこに残っているんだと。ところがこれがまた妙な石でな今ではこぶしぐらいな石が山みてえにつみ重なっているんだが、何でも物の値を当てるってえことだ。
松本の物価が高いときはつみ重ねたようになるし反対に安くなるてえとばらばらに崩れてな、道をふさぐこともあるんだそうな。ま、そんな石の話。(信濃の昔話)
傾いた城
今からおよそ250年も前のことです。
松本城にいた水野忠直という殿さまは、情けようしゃなく重い税金を取り立てたので、百姓たちは、その日の食べ物にも困るありさまでした。
ああ、あ。えらいことだ。朝は、暗いうちから、夜は、土の色が見えねえくれえまで働いても、みんな税金に取られてしまう。これじゃへえ死ぬよかしょうがねえ。」
松本を中心とした筑摩平や、安曇平は、もともと豊かな米どころでしたが、目いっぱい年貢を取り立てられるので、百姓たちは、年ごとに暮らしに困っていきました。
ちょうど貞享3年(1686年)という年は、長雨が続いて川がはんらんし、稲の病虫害も多く、どこの村も凶作でした。それなのにお上からは、さらに1俵につき、3ど5升もの年貢を納めるようにいいわたされました。
どうかお役人さま。今年のひどい作がらを見てくだせえまし。これ、このとおりです。どうか御慈悲をおねげえ申します。
農民たちは、年貢を納める期日が迫ると、毎日お役人のところへでかけて、おねがいをしました。しかし、何度でかけても、冷たく追いかえされるばかりでした。
「お役人たちは、わしらのねがいを聞いてくれない。こんなことをしていたら、百姓は、みんな飢えて死んでしまう。」
そこで、村々の総代や村役らが、ひそかに中萱村(今の三郷村中萱)権現の森へ集まりました。
「みなさんに異存がなければ、われら一同で、お城の大手門番所へ訴えでることにしましょう。それで、もし藩が、聞きとどけてくれなんだら、江戸幕府まで出向いて、じかにおねがいすることにしましょう。」
そういったのは、多田加助でした。加助は、中萱村の庄屋で、田畑の仕事だけでなく、学問にも情熱をそそぎ、広くみんなから慕われていました。
この加助たちの秘密の取りきめが、誰からともなく村々へ伝わっていきました。
「今まで5と入り1俵、玄米にして2と5升ときまっていたものを、一俵につき玄米3と5升とはひでえもんだ。
加助さまたちが、行きなさるなら、おらたちも、かせいさせてもらわず。」
百姓たちは、加助たちが、訴状を持って行く日になると、てんでにみのかさをつけ、かまを手に、お城へ集まってきました。その数は五,6千人にもなりました。
加助たちが、先頭に立って進む訴状の中身には、−3ど5升の年貢を、もとどおりの5分ずり、2と5升に改めること。もみは、のぎのついたままで納めさせてほしいーといったことが「総百姓共」の名で、したためられてありました。お城を取り巻いている百姓たちは、夜に入って火をともし、一夜をあかしましたが、翌朝になっても返事がありません。十六日になって、やっと返事がでましたが、もちろん百姓たちの満足できるものではありません。何回も何回もねばり続け、とうとう初めの2と5升にこぎつけることができました。
「ありがとうござんした。これでやっと命が続きます。」
村々の百姓たちは、大喜びで総代たちを迎えました。
ところが、その日の夜中、村に帰った加助を初め、総代たちを、藩の役人が、とらえてしまったのです。
「よくもわれわれをだましたな。」
加助たちは、逃げる暇もなく、みな縄を受け、連れ去られて行ってしまいました。
いよいよ貞享3年、十一月二十二日の加助たちが、処刑される朝のことです。百姓たちは、ぞくぞくと重い足取りで、松本城の西、勢高の刑場へと集まってきました。
「もしかすれば、お慈悲があるかもしれない。おさむらいさんだって、人間だでなあ。」
「どうか加助さまたちの命が助かりますように」
百姓たちは、「もしかすれば」と祈りながら、刑場へ集まってきましたが、その望みもぶっつりと切られ、加助を初め、総代の善兵衛、半之助は、寒い空の下で張りつけ柱に、高々とくくりつけられてしまいました。
そのうえ、罪もない加助や総代たちの子どもたち八人までが、荒むしろの上に引きすえられたのです。
[こんねにひどい仕打ちがあっていいずらか。今にお天とうさまが、まっかにかわってしまやしねえか。」
[この人でなし。罪もねえ子どもたちまで道連れにする気か。]
こうなれば、百姓たちもだまっていません。侍たちに向かって、口々にののしりました。
そのとき、加助の声が、すみきった寒空にひびきわたりました。
[お役人も耳あらば聞け。われら、命はうばわれるとも、志だけは、決してうばわれるものにあらず。]
百姓たちは、そのときの加助の姿の中に、光り輝く、けだかさを見ました。
しかし、長槍を持った二人の男は、かまわず張りつけ柱に近づき、加助の胸の両脇へ、きらりと光る穂先をあてました。百姓たちは、まるで相談したように、[ナムアミダブツ]を唱えはじめ、やがてそれは、すすり泣く声に変りました。
「五分ずり二と5升。五分ずり二と・・・・・・・。」
槍で突きさされながらも、加助は、さいごの声をふりしぼって叫びました。
そして、目を大きく開き、城をぐっとにらみつけました。
そのときです。今までがんとして動かなかったお城が、ぐらりと揺れて、五層の城が西へ大きく傾きました。
人々は、「あれよ。あれよ。」
と、泣き叫びながら、これは、加助さまのいかりが、城を傾けさしたのだ−と、あとあとまでも、いい伝えたということです。 (松本市)
忍術使いの九郎左衛門
むかしむかしの話だと。
松本の殿さまの家来に、芥川九郎左衛門っていう妙な男がいたんだと。何でもこの男はふしぎな忍術を使うんで評判だったってえことだ。
ある年の冬の初めのことだったか、九郎左衛門は、放光寺の近くで狩をしてたんだと。そうしたところが、いつの間にか、道に迷うわ日は暮れるわ、仕方なく九郎左衛門は、その辺をうろうろ歩き回っていたんだそうな。するとな、少しばっかり行ったところに、一軒家があったんだとさ。さっそく近づいて行って戸をたたいたところが、中から出てきたのは、一人のばあさんだったと。
こうして九郎左衛門は、そこの家に一晩宿を借りることになったってえことだがさ、そのばあさんってえのが、またずい分と愛想のない年寄りだったとさ。九郎左衛門が話しかけてもな、ウンともスンとも言わねえ、それに夜になって寒くなったってえのに、いろりに火を入れてもくれねえ。これには九郎左衛門もだんだん腹が立ってきた。これ見よがしに脇差を抜くと、自分のすね毛をそり始めたんだとさ。したらばどうだ。ふしぎにも火の気のないいろりから、たちまちパチパチと火が燃え始めたでねえか。ばあさん、たまげて目をぱちくり。するてえと今度はな、座敷のすみにあった機ごが音をたててこわれ出したんだそうだ。「お、おめえ一体何者だあ」ばあさんはとうとう腰ぬかしてしまったとさ。
九郎左衛門の忍術ってえのは、まあちょいとこんな具合だったんだと。
だから誰でも人には親切にしてやるもんだな。 (信濃の昔話 松本市)
二十六夜さま
松本城の侍、八郎三郎清長という人が、元和四年一月二十六日の晩、お城で宿直をしていたときのことです。夜もだんだんと更けて、おそい月がのぼり始めました。八郎三郎は、昼の疲れも手伝ってか、ついうとうとしかけました。と、そのときです。
「八郎三郎殿、八郎三郎殿」
はっとわれにかえった八郎三郎が、声のする方を見ますと、すぐ目の前に、緋(赤い)の衣をつけたきれいな女の人が立っていました。
「これはこれは、まことに恐れ入りましてございます。つかの間のそそう、どうぞお許しくださいませ。」
八郎三郎は、畳に顔をすりつけてわびました。
「いいえ。わたしはあなたのそそうを責めているのではございません。それより八郎三郎殿。わたしのいうことをよく聞いておいてくださいませ。」
「は、はい。」
「いいですか。これからのち、二十六夜がくるたびに、米3石3ど3升3勺をたいて、二十六夜さまを祝いなさい。そうすれば、お城はますます栄えることでありましょう。」
と、いって錦の袋を渡しながら、
「どうぞこの袋を御神体としておまつりしてください。」
と、つけ加えたかと思うと、お城のやぐらの方へ消えてしまいました。
「世の中には、ふしぎなこともあるものだ。わしは、まださきほどの夢をみているのではあるまいか。」
八郎三郎は、半信半疑のまま、手に目をやると、錦の袋は、たしかに握られていました。
それから一睡もしなかった八郎三郎は、夜が明けるのを待ちかね、殿さまのところへかけつけました。「殿、殿。ふしぎなことが起きましてございます。」
「何だ。八郎三郎か。あわてふためいて何事じゃ。はよう申してみよ。」
「は、はい。恐れながら。これ、この錦の袋がなによりの証拠でございます。」
「なに、この袋だと?この袋がどうしたと申すのだ。」
八郎三郎は、夜中にあった話をぜんぶ殿に伝えました。
「なるほど、ふしぎなこともあったものだ。」
殿さまは、その話を聞くと、さっそくお城の六階の梁に、錦の袋を本体とした二十六夜さまをまつりました。そして、次の月の二十六日の夜から、米3石3ど3升3勺をたいて、二十六夜さまに供え、お祈りを続けました。
享保二年の火災のときに、お城が焼けなかったのは、この神さまのお守りがあったのではないかといわれました。
いく年か過ぎて、錦の袋がいたんでとりかえたとき、中に、わらが三本はいっていただけでした。
が、わらや米は、国を保つだいじなものです。
また、御神体などに、三の数字を選んだのは、三という数字は、一国や一城が繁盛することに使われ、えんぎがよいことから、この数字を選んだのではないか−と伝えられています。
(松本の民話)
泉小太郎
むかしむかし、松本平の放光寺という里に、洞のじいと呼ばれる老人がひとりきりで暮らしておった。ある日のこと、釣りに出かけたじいは、湖のほとりですやすやと眠っている赤ん坊を見つけた。そっと抱き上げるとそのとき、突然湖の中から竜が姿を現してな、「その子の名は泉小太郎、私はわけあって竜の姿をしておりますが、小太郎が十二歳になったら犀乗沢の淵まで迎えに参ります。どうかそれまで子太郎を育ててください。」と、それだけ言うやいなやあっという間に水の中に沈んでしもうたそうな。
以来、じいは小太郎を大事に大事に育てた。小太郎もすくすくと成長し、やがて十二の春を迎えたある晩のこと、じいは小太郎を呼んで話を始めた。小太郎の母が竜であること、犀乗沢で小太郎を待っていること、じいは十二年前のできごとをそのまま小太郎に話して聞かせたんじゃよ。小太郎は考えた末、とうとう決心してな、ある日、じいに別れを告げ犀乗沢へと出かけていったそうな。
やがて淵にたどり着いた小太郎は、「おっかさーん、おっかさーん」と、水面に向かって何度も母を呼んだ。するとどうじゃ。静かな湖面が激しく波立ち、みるみる恐ろしいような竜が姿をあらわしたんじゃよ。竜は小太郎を見ると、ぼろぼろと涙をこぼしてな、こんなことをしゃべり出した。「小太郎よ、よく来てくれました。私は諏訪大明神の化身、この湖を切り開いて土地を作るためにつかわされたのです。お前を人の世で育てさせたのもそのため、どうか私に力を貸しておくれ」
小太郎は母竜の話を聞き終わると、大きくうなづきながら、「おっかさん、よくわかった。おら、喜んで手伝うよ。と、二つ返事で承知してな、さっそく母竜の背中にまたがるのじゃった。
やがて母竜は小太郎を乗せると、ゆっくりと湖の中を泳ぎ回った。そうしてひとつの岩に見当をつけると、頭を高くもたげ尾をふりたてて、勢いよく体ごとぶつかっていったんじゃよ。空はにわかにかきくもり、やがて激しい雷雨と共に稲妻が天を走りぬけた。母竜は何度も何度も岩に体当たりし、その度に裂けた傷口からは血が吹き出した。小太郎は母の背から、「岩が動いたぞ、それっもうひと息だ、今度は左側だ」と、けんめいになって母竜をはげましながら指図する。その言葉に力を得たかのように、母竜は最後の力をふりしぼって、どうと岩に体をぶち当てた。と、そのときじゃ。あたりをゆるがすような音と共に岩が地響きを立ててくずれ落ちてな。湖の水が一気に流れ出したそうな。こうしてすべては押し流され、どれほどたったころか、あとには広い広い土地があらわれた。けれども小太郎と母竜はどこへ行ってしまったのか、その姿はどこにもなかったという。大町市仏崎の観音寺には、この小太郎と母竜の霊がまつられておるんじゃよ。 (信濃のむかしばなし 松本市)
参考文献 私たちが調べた木曽の伝説 第一集 木曽西高等学校地歴部民俗班
木曽路の民話 下井和夫 信州児童文学会