木曽路の寄り道①湯舟沢
4月28日(火曜日) | 朝8時木曽町福島より車で山口事務所を目指して出発。中山道を歩いた時には行けなかった所を訪ねてみることにした。 | ||
道の駅賤母 | |||
山口総合事務所 | ここで神坂事務所の位置を聞く | ||
乙姫 | |||
沖田 | |||
神坂事務所 | 地図など資料をいただき兼好法師塚の位置を聞く | ||
④ | クアリゾート湯舟沢 | |
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湯舟沢橋 | |||
湯舟沢川 | |||
⑨ | 兼好庵跡顕彰 | 「徒然草」で知られる吉田兼好(1283~1352?)がこの神坂の地に庵を結んだと「吉野拾遺」は伝えている。兼好は鎌倉末期の歌人で俗名は卜部兼好といい京都の吉田に住んだので通称吉田兼好と呼び出家後は兼好と号した。 その経歴については不明の点が多い。仕えた後二条天皇崩御後は追慕の念にかられて剃髪出家し諸国を行脚した。その頃木曽の地を訪れ神坂の山のたたづまい川の清き流れが心にとまり此処こそが住みつく所と 思ひたつ木曽の麻布 あさくのみ そめてやむべき 袖の色香は と詠み庵を結びしばし住んでいた時国守が多くの家来を従えてこの庵の辺りまで来て鷹狩りをする様子をみて ここも又浮世也けり よそなから 思ひし侭の 山里もかな と詠んでこのみ坂の地をあとにした。その庵を結んだ所が川並の地であった。江戸時代に尾張藩の材木方の役人酒井丹下らがその跡に石碑(左側の暮碑と右側の石写法華経)を建てたとある。その庵跡も中央自動車道建設の折取り除かれ石碑は一時移転されたがこの度この場所に移され供養された。 平成十三年四月 |
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おんせんばし | |||
つれづれはし | |||
山の神 | |||
⑩ | 広済院遺跡 | この地は東山道の旧跡で奈良平安時代は凡てこの道を往来したのである。美濃と信濃の国境神坂峠は東山道の最難所であった。天台宗の開祖伝教大師最澄上人は弘仁八年(817)に比叡山から東国へ巡化の旅に赴く折この峠を通られた。 旅人の難儀するのを見兼ねてその帰路に峠の両坂に美濃側に弘済(こうさい)院、信濃側に広拯(こうじょう)院の無料宿泊所を建てられた。この神坂の地は弘済院のあった遺跡である。 顕彰碑の建立 開宗千百五十年記念 昭和三十三年十一月二十五日 ブロック塀建設 昭和四十年十一月二十五日 石灯籠一対建立 伝教大師千百五十年遠忌記念 昭和四十五年十月二十五日 塀改修玉垣塀建設 開宗千二百年記念 平成十六年十一月二十三日 |
伝教大師広済院遺趾顕彰碑 |
顕彰碑の裏 | この地は東山道に當り伝教大師最澄は弘仁八年(815)御坂峠を越えて東国巡化の際に難路に宿無きを憂いて旅舎を建て旅人の困難を救われた。之を広済院と名づく。慈に大師立教開宗千百五十年に当りその遺徳を顕彰するためこの碑を建立する。 昭和三十年十一月二十五日 比叡山天台宗 天台宗信越教区 |
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無量寿 | |||
⑰ | 義仲駒つなぎの桜 | 霧が原には牧があった。その名残として付近に牧や馬籠の地名が残るのも偶然ではない。名馬「するすみ」を産したとも伝えられる。「するすみ」とは平家物語の宇治川先陣争いに登場する馬である。また丸山城近くに桜の木があり木曽義仲がこれに駒をつないだと伝えられている。霧が原には古い話が多い。富裕の人が数代住んでいた。これを園原の東の長者に対し西の長者と呼ぶ。また「医者屋敷」と伝えられる屋敷跡も残る。 | |
⑱ | 丸山城跡 | 戦国時代岩村城の遠山氏がこの地域を治めていた頃街道を押さえるため十か所の砦を築いた。その最北に位置し伊那路木曽路美濃路の押さえとして重要な役目を果たしていたのが丸山城である。この丸山城と阿寺城(中津川市手賀野)の二つが本城であり他は番士を置いただけの砦であったと伝えられている。 | 左の石碑には御嶽蔵王権現と書かれていた。 |
しょうじょうばかまの花 | |||
車の通れる道ではなくなり引き返すことにした。 | |||
⑮ | 風穴 | 神坂の風穴とは自然の地形を利用し内部を石垣で囲んだ蚕の卵(蚕種)の冷蔵貯蔵庫のこと。明治6年頃から造営されこの付近には約30基の風穴があった。平成18年に石積を修復し当時の様子を再現した。 | |
⑫ | 強清水 (こわしみず) | 神坂峠の手前約3㎞の地点に湧水が出ておりそれが強清水。 かつて東山道・鎌倉街道を旅した人々の貴重な水の補給地であった。昭和61年に「岐阜県の名水50選」に選定された。 | |
⑲ | 神坂峠 | 中津川市と長野県阿智村の境にある標高1595メートルの峠。東山道最大の難所として古くからその所在は有名で「日本書紀」ヤマトタケルの伝説や万葉集の防人の歌にも詠まれるなど多くの歌集・史書・文芸の中に取り上げられている。別名「信濃坂」と呼ばれていた。 | |
④ | クアリゾート湯舟沢 | ここで昼食をとった。 | |
帰りは天白公園の花をみていくことにしたがミツバツツジはすでに枯れていた。シャクナゲが満開だった。 サツキはこれからでつぼみが膨らんでいた。 | |||
天白公園 | みつばつつじの天白台地と 白い巨石累々たる伊勢小屋沢の蛇抜けの地と そして緑に輝く木曽の流れの岸 この大地と水を大正浪漫の桃の橋がつなぐ 彼らいま公演に甦り ひとびと相つどう 大自然はまた 百年の未来を語りはじめる 大正ロマンを偲ぶ 南木曽町 天白公園整備事業 平成十年三月 |
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蛇抜けの碑 | 蛇抜けの碑 実諺 白い雨が降るとぬける 尾先 谷口 宮の前 雨に風が加わると危ない 長雨後谷の水が急に 止ったらぬける 蛇抜けの水は黒い 蛇抜けの前にはきな臭い 匂いがする 実明書 |
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蛇抜けの碑の説明看板 | 伊勢小屋沢「蛇抜けの碑」案内 昭和二八年七月二十日の伊勢小屋沢蛇ぬけによって犠牲となった三人の霊を慰めるとともにこの災害によって得られた幾多の教訓を後世に伝え再びこのような惨事を受けぬことを念願し多くの人々の協力を得て東京芸術大学助教授笹村草家人先生の作になる「蛇抜けの碑」を水害十周年を記念し現地に安置した。なお像の礎石には「じゃぬけ」の俚言を刻み後世へのいましめとした。 昭和三五年八月二一日 じゃぬけの碑設立委員会 |
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天白公園から見る桃介橋 | |
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天白公園のつつじ文字 | |||
参考文献 |
みさかふれあいマップ |
NAKATSUGAWA |