善光寺街道を歩く

行程7   丹波島宿・善光寺宿


 


平成27年11月9日(月曜日)雨のち晴れ
川中島駅集合 
     
 
 
 川中島ステーション開場記念
大正6年7月20日
(川中島町誌50年より)
篠ノ井線は明治35年中央東線は明治39年中央西線は明治44年に全通した。 
   川中島駅

信越線は明治21年(1888年)に直江津~長野~軽井沢間が開通した。長野駅と篠ノ井駅間が約10㎞と長いので中間の5㎞地点のこの場所に明治44年に信号場が設置された。信号場で汽車が止るので地元から駅設置の話が出て笹井村中島組の土地の寄付により大正6年(1917年)に川中島駅が設置された。川中島の字名はなかったが川中島の戦いもあることから川中島駅と名前が付いたという。


 
    川中島駅前   
     行人塚跡

旅の僧、源海上人が生きたまま塚に入り即身仏となった所。即身仏とは真言宗などで修行者が生きながらにして仏となることで大日如来と一体となることだとされている。
ここに祀られている石祀の中央は大日如来だといわれて今に伝えられている。
 
       
    唯念寺

弘化4年3月24日の善光寺地震により穀雨増産大倉山が大崩壊し犀川が21日間堰きとめられ4月13日の大水害で塚とともに源海上人即身仏が下流の唯念寺境内の親鸞聖人お手植えの大杉まで流された。本堂前には弘化5年建立のお墓がある。 

養盛院一重山唯念寺の由緒
真宗大谷派

お寺の開基和田新四郎義包は和田義盛(1147~1213 現在の神奈川県三浦市初瀬町和田に生まれ鎌倉幕府の侍所別当になる)の嫡孫新左衛門尉常盛の四男であり鎌倉に於いて一族討死(建保元年:1213年の和田合戦)の時より常州筑波山の麓の藤岡に居住す。つらつら世の不定生死を考えて曾祖父義盛よりの守り本尊上宮太子に一心に知識を祈り奉るに建久二年二月二十一日の夜太子示現し給う様はこれより善光寺に下り霊場に詣でよとのこと通夜し奉るに仏が光明赫々として告げ給うには新知識(和田新四郎義包)は今常州稲田に在住する親鸞聖人に一大事(浄土真宗の根本精神)を願うべしとのことにより稲田に至り聖人に謁し奉るに弥陀の本願一念帰命の信心一つにて浄土参りの御法によって御弟子となり法名義入りと賜る。お形見をくだされ依って信州に下り屋代の一重山に草庵を結ぶ。これが唯念寺の起源である。
後に善光寺如来前のほとり氷鉋村に一宇建立す。此の地は聖人戸隠参詣の折にお立ち寄りなされた旧跡地である。当時の地名千曲市屋代の一重山を山号とした。嘉元三年八月(1305年)山号寺号及び先祖義入に唯念坊の追号を本願寺第三代覚如上人より賜る。(第三代釋唯円)
川中島の合戦(天文22年~永禄7年(1553~1564)
)の時他の真宗寺院多くと共に戦火を逃れて越後の国五十路の御猿俣(中頸城郡頚城村上増田新田)ヘ寺内三ヶ寺(妙善寺、浄楽寺、啓明寺)及び門徒十数戸を引き連れ二十一年間移り住み、後に又氷鉋村へ戻り一宇を建立し今日の基を築く。
石山の合戦(元亀元年~天正八年(1570~1580))に出陣、石山本願寺(今の大阪城本丸の地)を織田信長が攻めたとき本願寺よりの全門徒に対信長戦への参戦の命により兵糧米十俵一斗の勧進(天正五年十月)すると共に門徒十六名(北澤、中澤、南澤、北島、前島、美谷島、村松、荻田、町田、池田、佐々木、山本、阿部、大塚、大沼、清水)を住職引率して出陣石山本願寺の天王寺口の軍司として数年間奮戦する。半数の八人戦死と語り伝えられる激戦であった。勅命講和(天正八年)により引き上げる。この時から本願寺は西と東の両派に分かれ当山は東本願寺大谷派に属するようになる。(第八代釋超宗)
元禄五年十月十四日(1692)本堂経堂等焼失する。
川中島合戦の時焼失せる親鸞聖人御旧跡の石碑再建宝永元年五月(第十一代釋理覚)
梵鐘新□する。享保七年十月二十八日願主(第十三代釋了智)昭和十七年に供出。
天明六年(1778年浅間山の鬼押し出しができた翌年)本堂再建さる。住職は比叡山より招講され法華経玄義を会読し座主阿闍利から聖徳太子木像を贈られる。以後当山別殿に安置、弘化の水害で別殿は流失するも、当木像は無事であった。(第十四代釋良応)
第十六代釈良秀は光格天皇から権律師の階位勅許される。
文化十二年本願寺連枝(一族)と同格となり内仏用御絵伝を授与される。
弘化四年の善光寺大地震で虚空蔵山が崩れ二十一日間犀川が堰き止められその後大洪水となり本堂床上まで浸水し庫裡とも大被害を被り太子堂本堂回廊及び記録書類等がかなり流失する。この洪水時玄海上人の亡骸が大杉[伝親鸞聖人がお手植え杉今は枯れて伐採]に流れ着き後境内に埋葬する。(玄海上人塚)


 






親鸞聖人像

    道祖神と親鸞聖人御舊跡   
    親鸞聖人御舊跡   
    天満宮
秋葉神
庚申
九頭竜権現 
 
     新田共同井戸  
       
     浄生庵

浄生庵の開基は寛延元年(1748)12月12日往譽深河浄生と記録されていますがそれよりまえ享保七年(1722)庵内にある地蔵菩薩は為親松本太良左衛門「乃至法界平等利益」と台座に刻まれています。施主は柳島市良左衛門で庵内の御本尊は観音菩薩です。案内の地蔵菩薩は遠く江戸から丹波島宿を通って他所へ運ばれる途中この丹波島宿で根がはったように動かなくなりこの丹波島の地で安住することになったと伝えられています。二十五年後の寛延元年に堂が建てられ安置されたものと思われます。爾来霊験あらたかな延命子育て学問成就の観音さま地蔵さまとして地元住民の厚い信仰を得て今日に至っております。古い庵は昭和五十年代に取り壊され平成四年三月信徒みなさまの浄財により立派に再建されました。敷地内には念佛信者徳本行者(1758~1818)の「南無阿弥陀佛」の名号碑があります。徳本上人は江戸芝の増上寺の典海和尚に招かれ一行院を興した僧で文化十三年(1816)信濃を巡錫の折立ち寄った時のもので丹波島の念佛講もこの徳本上人のお念仏から始まったとされています。





徳本上人の名号碑 
       
    丹波島宿の遺産マップ 

①水準点
②丹波島宿記念碑
筆塚
丹波島橋の沓座
③鐘馗様の飾り瓦
④明治天皇御膳水の碑
⑤高札場跡地
⑥明治天皇御小休所碑
⑦明治天皇御駐輦之迹碑
⑧馬頭観世音
⑨紀元二千六百年記念碑
⑩旧桝形
⑪丹波島の渡し場
⑫善光寺常夜燈
⑬赤地蔵
 
     水準点  
     於佐加神社

丹波島宿の産土神の鎮守様である。祭神は健御名方神・八坂蘇売神であり明治時代に於佐加神社と呼ばれるようになった。北国街道丹波島宿開設に合わせて諏訪河原の地から寛文二年(1662)現在の地に祭られ明和元年(1764)神礼殿が造営され安永五年(1776)遷宮されました。明治六年に村社となり拝殿は明治二十二年に落慶している。境内には秋葉社、弥栄社、三峰社、天満社、金毘羅社、住吉社、新津権現、道祖神、庚申塔の九社がある。他に筆塚二基などもある。丹波島宿由来碑は平成十三年に建立した。
 











     鐘馗さんの飾り瓦

丹波島宿ではいつの頃からかわかりませんが宿場に入ってくる邪気を追い払うため街道の入り口や脇道からの突き当りの家の屋根の上に様々の形をした鐘馗さんの飾り瓦が鎮座しています。
 

     明治天皇御小休所  
     丹波島宿のマンホール  
     丹波島宿の高札場

江戸時代瀑布の命によりさまざまな法令や禁制の條目掟などを板札に墨書し人に目立つよう一段と高くした場所に掲示したところで高札場と呼んでいました。高札は五代将軍徳川綱吉の天和年代に改訂があり六代将軍徳川家宣の正徳元年(1711年)に書き替え指示があり設置されました。法令は切支丹禁制・火付・徒党・偽薬・偽貨幣札禁制など定札として人馬賃・銭札・覚札として三枚から五枚あったようであります。幕末の混乱期を経て明治四年の太政官布告で終焉しました。丹波島宿は幕府と松代藩の二重支配下にあり松代藩内四十一ヶ所の主要な高札場でありました。地域住民への公示はもとより街道を通る旅人への情報提供も担い明治五年頃撤去されました。平成二十三年北国街道・丹波島宿開設四百年を記念して当時の場所に復元しました。高札場復元に当っては過去の歴史を偲ぶ文面と将来に向かって安全、安心で平和な丹波島の街づくりの指針となるような文面としました。


 
     鐘馗さんの飾り瓦



 
    明治天皇丹波島御膳水

丹波島宿の文化遺産
丹波島宿問屋 柳島家

柳島家は慶長十六年丹波島宿が開設されて以来二百六十年間問屋を務めた。建物は江戸中期に建てられたもので脇本陣を兼ねたつくりになっていた。冠木門は松代藩廃止後に払い下げを受け移築したものである。門外に明治十一年[1878年)明治天皇北陸巡幸の御膳水記念碑がある。
 
 
    明治天皇丹波島宿御膳水   
    鐘馗さんの飾り瓦 

飾り瓦の形はさまざまである。


 
    丹波島の渡し

北国街道 開設四百年記
丹波島宿          

まっすぐに
かすみたもうや善光寺

小林一茶


大江山ならねと酒の鬼殺し
売る家もある丹波島かな

十辺舎一九
 



    丹波島橋から眺める   
    渡し船の時代

慶長十六年(1611)北国街道に善光寺宿、丹波島宿、矢代宿が開かれるとともに「犀川の渡し」が置かれた。この私は、千曲川に置かれた「矢代の渡し」とともに重要な役目を担いこれにより街道を往来する人々の流れは松代廻りから善光寺廻りへと変わっていった。 当時付近の犀川は大水のたびに川瀬が変わり渡し船は川の状況によって[丹波島の渡し]「市村の渡し」「綱島の渡し」と位置を変えていった。そして明治維新に至るまでの約二百六十年間人々の文化と歴史を渡し続けてきた。
 

    舟橋の時代

明治六年(1873)三月民間の「丹波島舟橋会社」が設立され渡し船は舟橋へ代を譲ることとなった。 当時付近の犀川は四本の川瀬に分かれていたため舟橋はそれぞれの川瀬ごとに合計四十六隻の舟によって架けられていた。人々は人馬、物資に応じて定められた橋銭を支払い四本の舟橋と中洲を歩き三百間ほどもある幅広い犀川を渡していた。この舟橋は増水のたびに幾度となく流失し架け替えられながら木橋の初代丹波島橋が架けられるまで十七年間にわたって使われ続けてきた。
 
    木橋の時代

明治二十三年(1890)九月丹波島地区の人々によって民間経営の丹波島橋(初代木橋)が架けられた。この橋は全長三百間(五百四十メートル余)幅三間(五,四メートル)というもので総工費は一万六千二百六十五円二銭五里であった。 その後明治三十一年(1898)に九千五百円で県に買い上げられ明治三十五年(1902)大正三年(1914)の二度の架け替えを経て鋼橋の四代目丹波島橋が架けられるまでの四十二年間犀川を渡る人々を見守り続けてきた。
 
    鋼橋の時代

昭和七年(1932)十二月全長五百四十一メートル 全幅十二,二メートルで両側歩道付きのゲルバー型トラス構造の橋が総工費八十八万円で架けられた。この橋は昭和十一年(1986)十二月に総工費三十二億円で新橋が架けられるまでの五十四年間厳しい風雪に耐えながら県と長野市の玄関口として重要な役割を果たしてきた。そして平成五年三月九橋のあとにさらにもう一本の橋が総工費三十七億円で架けられ丹波島橋は全幅二十四,六メートル車道部十三,0メートルの四車線の橋へと生まれ変わった。
 
       
     善光寺道の物語

東から西から極楽へ導いてくださる仏さまという厚い信仰により善光寺参りの人は善光寺道を踏みました。その信仰の心が石ころに野辺の草木に深甚浸みこんでいるのがこの道すじです。四季折々にみせてくれる自然の抒情にわが心を重ね合わせて旅の疲れをいやしたに違いありません。この善光寺へと導く道すじは言いかえれば自然のすばらしさと出会う道。自然とのふれ合いの中にいまを生きる現実の極楽を感じていたのかもしれません。森羅万象の営みの中で聞こえるはずのない自然の声を聴き見えない風の姿を草木のゆらぎによって識り得た時私たちはこの宇宙の中で共に生き活かされる喜びに出会うことができるのではないでしょうか。いつの時代にも変わることのない「信仰の心」を善光寺道の物語として刻んでみました。
 
     海野宿  
       
       
       
       
       
       
       
       


 参考文献